下野国(現在の栃木県)北東部にその勢力を張った那須氏は、藤原北家の流れを汲み、藤原道長の曾孫とされる藤原資家が那須郡に土着したことに始まるとされる名門である 1 。その名を不朽のものとしたのは、治承・寿永の乱、特に屋島の戦いにおいて、源義経の命を受け、揺れる船上の扇の的を見事射抜いたとされる那須与一宗隆の存在であった 2 。この「扇の的」の伝説は、那須氏に武門としての最高の栄誉と、後世に至るまで影響を及ぼす象徴的な権威を与えた。この「名家」としての自負と誇りは、戦国時代を生きる当主たちの行動原理や、家臣団の結束を促す精神的支柱として機能し続けたのである。
しかし、その輝かしい名声とは裏腹に、室町時代中期には一族の構造的な脆弱性が露呈する。応永21年(1414年)頃、那須資氏の子である兄・資之と弟・資重の間で家督を巡る争論が勃発し、ついに合戦へと至った 4 。この内紛の結果、那須氏は福原城を拠点とする宗家・
上那須家 (兄・資之)と、烏山城を本拠とする庶流・ 下那須家 (弟・資重)へと分裂してしまう 5 。この分裂は単なる一族内の不和に留まらなかった。当時の関東における最大の政治的対立軸であった鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉氏の抗争が、この那須氏の内訌に深く介入したのである 5 。下那須家が鎌倉公方方に、上那須家が関東管領方に与するなど、それぞれが外部の有力な後ろ盾を得ることで家の存続を図ったため、対立は固定化・長期化の一途を辿った 8 。
この分裂状態は、那須氏にとって百年に及ぶ「構造的な脆弱性」となった。この弱点は、下野国の覇権を狙う宇都宮氏や、常陸国の佐竹氏といった周辺の戦国大名にとって、那須氏への政治介入や勢力圏争いにおける格好の口実を与え続けた。本稿の主題である那須政資が歴史の表舞台に登場する頃、那須氏はまさに内憂外患の極みにあり、その存亡は風前の灯火であった。政資の生涯は、この分裂した一族をいかにして統一し、戦国の荒波を乗り越えようとしたかの苦闘の記録に他ならない。
那須政資の台頭は、宗家である上那須家の自滅という劇的な事件から始まる。上那須家第15代当主・那須資親には長らく男子がおらず、一族の将来を案じた彼は、陸奥国の有力大名である白河結城氏から那須資永を婿養子として迎えた 9 。しかし、その後に資親に実子・山田資久が誕生したことで、事態は複雑化する 11 。資親は臨終に際し、重臣の大田原氏らを呼び寄せ、やはり実子である資久に家督を継がせたいとの遺言を残した 11 。これが、血で血を洗う内紛の引き金となった。
永正11年(1514年)、家督を奪われることを恐れた養子・資永は、実力行使に出る。彼は山田資久を捕らえて殺害するという暴挙に及んだ 10 。この凶行は、上那須家の家臣団の強い反発を招いた。この機を捉えたのが、下那須家の当主であり、那須政資の父である那須資房であった。資房は、上那須家の重臣である大田原資清らと連携し、資永の籠る城を攻撃した 12 。四面楚歌となった資永はついに自害し、これにより鎌倉以来の名門・上那須家の正統な血筋は、完全に断絶するに至った 9 。
上那須家の滅亡という未曾有の事態は、那須氏全体に権力の空白を生み出した。この混乱を収拾し、新たな旗頭として那須家を統率する役割を担ったのが、下那須家の那須資房であった。資房は、自らが当主となるのではなく、自身の子である那須政資を、旧上那須家の主要拠点であった山田城に入城させ、分裂していた上下那須家を束ねる統一那須家の当主として擁立したのである 9 。
政資が新たな当主に選ばれた背景には、いくつかの重要な要因があった。第一に、彼の祖母が上那須家の前当主・那須明資の娘であったため、宗家の血を引くという血縁的な正統性を有していたことである 15 。これにより、上那須家の旧臣たちも彼を受け入れやすかった。第二に、元服に際して、当時の関東における最高権威者であった古河公方・足利政氏から「政」の一字(偏諱)を賜り、「政資」と名乗っていたことである 15 。これは、彼の当主としての地位が、公方という公的な権威によって追認されたことを意味し、その正当性を内外に示す上で極めて重要な意味を持った。
しかし、この家督相続の経緯には、政資の将来に影を落とす重大な特徴が含まれていた。彼の当主就任は、自らの武力や才覚によって勝ち取った「奪取」ではなく、父・資房の政治力と、大田原氏や大関氏といった上那須家の有力家臣団の利害と思惑が一致した結果としての「擁立」であった 9 。彼らは、自らの既得権益を守り、那須家における影響力を維持するために、御しやすい新たな当主を求めたのである。したがって、政資の権力基盤は、当初からこれらの有力家臣、特に後に「那須七騎」と称される豪族たちの支持に大きく依存しており、決して絶対的なものではなかった。この権力基盤の脆弱性こそが、後に嫡男・高資との家督争いにおいて、同じ家臣団が高資を擁立して政資を追放するという悲劇の伏線となるのである。
那須政資が家督を継いだ時代は、関東全域が「永正の乱」と呼ばれる巨大な内乱の渦中にあった。これは、古河公方・足利政氏とその子・高基が家督を巡って争ったもので、関東の諸大名は政氏方と高基方に分かれて激しい戦いを繰り広げた。那須氏もこの争いと無縁ではいられなかった。当初、政資の父・資房が率いる下那須家は政氏方に与していたが、永正13年(1516年)頃までには、戦局の優勢を見極め、高基方へと巧みに立場を転換している 9 。これは、生き残りをかけた現実的な外交判断であった。
政資が上那須家を継承したことに対し、当然ながら反発する勢力が存在した。その筆頭が、内紛で自害した那須資永の実家である白河結城氏と、それを支援する陸奥の岩城氏であった 16 。彼らは政資の家督継承を認めず、軍事的な圧力を加えてきた。
永正17年(1520年)、岩城常隆はついに大軍を率いて下野国に侵攻し、政資が籠る山田城を攻撃した。この危機に際し、父・資房が救援に出陣し、縄釣原(現在の栃木県那珂川町)において岩城軍と激突、これを撃破したと記録されている 9 。しかし、この勝利の背景には、より大きな政治的・軍事的構図が存在した。実はこの数年前の永正13年(1516年)に、同じ縄釣原で大規模な合戦が行われていた。これは、高基方を率いる下野宇都宮氏の当主・宇都宮成綱が、政氏方の佐竹・岩城連合軍を壊滅的な敗北に追い込んだ「縄釣の戦い」である 17 。この戦いで宇都宮氏は5000もの首級を挙げたとされ、北関東の勢力図を塗り替える決定的な勝利であった 17 。
高基方に転じていた那須氏は、この戦いにおいて宇都宮氏の重要な同盟者であった。したがって、1520年の岩城氏との戦いにおける那須氏の勝利は、単独の武功というよりも、当時の北関東最強勢力であった宇都宮氏との同盟関係に支えられた「地政学的な勝利」と見るべきである。政資の政権初期の安定は、父・資房の巧みな外交判断と、宇都宮氏という強力な後ろ盾の存在によってもたらされたものであった。
一度は岩城軍を退けたものの、脅威が去ったわけではなかった。翌大永元年(1521年)、岩城氏は宇都宮氏や小田氏を誘い、再び那須領へ侵攻した 16 。度重なる軍事衝突は、那須氏にとって大きな負担であった。この局面を打開するため、父・資房は武力一辺倒ではない、外交による解決の道を探る。ここで仲介役として登場したのが、常陸国の有力大名・佐竹氏であった 9 。
佐竹氏の仲介のもと、那須氏と岩城氏の間で和睦交渉が進められた。そして、父・資房の意向を受け、政資は敵将であった岩城常隆の娘を正室として迎えることになった 9 。敵対勢力と婚姻関係を結ぶことで恒久的な和平を築くこの戦略は、戦国時代において頻繁に用いられた典型的な外交術である。これにより、那須氏は東方の安全を確保し、政資は内外の統治に集中する時間を得ることができた。この一連の動きは、武力と外交を巧みに使い分ける、戦国領主としての資質を父・資房が備えていたことを示している。
周辺大名との関係を安定させた政資であったが、彼の治世における最大の悲劇は、外敵ではなく、自らの嫡男・高資との対立という形で、一族の内部から生じた。この父子相克の根源は、二人の名前に象徴されている。父・政資は、旧来の古河公方・足利 政 氏から一字を拝領していたのに対し、嫡男・高資は、父子対立の末に勝利を収めた新公方・足利 高 基(後の晴氏)から一字を拝領していた 16 。これは、二人がそれぞれ異なる政治的権威に忠誠を誓っていたことを意味し、世代間の政治的立場の断絶を明確に示していた。
この父子の対立を煽り、自らの野心のために利用したのが、那須七騎の筆頭格である大関宗増をはじめとする有力家臣団であった 16 。宗増は、同僚である大田原資清の才を妬んで主君に讒言し追放に追い込むなど、専横を極めた野心的な人物であったと伝えられる 20 。彼ら家臣団は、旧世代の権威に連なる政資よりも、時代の潮流に乗り、新たな勝者となった高基に支持された高資を担ぐ方が、主家における自らの影響力を最大化できると判断したのである。
家臣団の強力な支持を背景に、嫡男・高資はついに実力行使に出る。彼はクーデターを敢行し、父・政資を本拠地である烏山城から追放、家督を強奪するという暴挙に及んだ 16 。これにより、那須家の当主の座は、父から子へと非正常な形で引き継がれた。
しかし、政資は完全に屈服したわけではなかった。彼は烏山城を追われた後、旧上那須家の領地である那須郡北部に退き、なおも抵抗を続けた 16 。その結果、永正11年(1514年)に一度は統一されたはずの那須家は、わずか十数年で再び「政資派」と「高資派」に分裂し、骨肉の内乱状態へと逆戻りしてしまったのである。
この父子の争いは、単なる家庭内の不和や個人的な確執ではない。それは、主君の権威が絶対的なものではなくなり、家臣が自らの利害と判断に基づいて仕えるべき主君を「選ぶ」という、戦国時代特有の下剋上の論理が、那須家という一つの家族の中で顕在化した事件であった。皮肉なことに、かつて政資を統一那須家の当主の座に「擁立」したのと同じ家臣団の力が、今度は彼をその座から引きずり下ろし、一族を分裂させる原動力となった。政資は、戦国大名として家臣団を完全に統制するという、この時代の大名が直面した最も困難な課題に挑戦し、そして敗れたのである。
那須政資の最期については、史料によって大きく異なる二つの説が伝えられており、彼の生涯の結末を謎に包んでいる。この二つの説を比較検証することは、彼という人物の歴史的評価を考える上で極めて重要である。
一つ目の説は、比較的穏やかな最期を伝えるものである。この説によれば、長く続いた息子・高資との対立は、天文13年(1544年)頃にようやく和睦が成立し、終結したとされる。政資は家督を高資に正式に譲って隠居し、その2年後の天文15年7月23日(1546年8月19日)に没したという 16 。
この説は、『那須譜見聞録』といった後世に編纂された系図資料などに依拠しており、一族内の醜い争いを穏便に処理し、家の系譜を整然と見せようとする意図が感じられる 16 。また、政資の父・資房が、政資や高資よりも長生きし、孫の資胤が当主となった後の天文21年(1552年)に亡くなっているという記録も、政資が比較的早くに亡くなったとするこの説と整合性が取れる部分がある 19 。このため、長らく「有力な説」として扱われてきた。
もう一つの説は、より劇的で悲劇的な最期を伝えるものである。この説では、政資は高資との和睦を拒み、抵抗を続けていたとされる。そして天文18年(1549年)、彼は宿敵であったはずの下野宇都宮氏当主・宇都宮尚綱と手を結び、高資を打倒するための最後の戦いを挑んだ 15 。
同年9月17日、政資・尚綱連合軍は、高資率いる那須軍と喜連川の五月女坂(現在の栃木県さくら市)で激突した 22 。宇都宮軍の兵力は2,000から2,500であったのに対し、那須軍はわずか300という、兵力において圧倒的な差があった 22 。当初は宇都宮軍が優勢に戦を進めたが、高資は巧みに伏兵を配置しており、これを機に戦況は一変する 23 。混乱する宇都宮軍の総大将・宇都宮尚綱は、那須一族である伊王野資宗の家臣・鮎ヶ瀬実光が放った矢に胸を射抜かれて討死 22 。総大将を失った連合軍は総崩れとなり、この「喜連川五月女坂の戦い」は那須高資軍の歴史的な大勝利に終わった。この輝かしい勝利を称える感状も現存している 25 。この説によれば、この決定的な敗戦の責任を取るか、あるいは戦場で追い詰められた那須政資もまた、同日に自害に追い込まれたとされる 15 。
なぜ、これほどまでに異なる二つの最期が語り継がれているのか。この事実自体が、那須政資という人物の評価の複雑さを物語っている。説A(隠居説)は、体裁を整えた「公式見解」としての性格が強い。一族の歴史を記録する上で、父子相克の末に父が自刃したという凄惨な結末を避け、和睦による円満な継承という形を取りたかった後世の編纂者の意図が働いた可能性が考えられる。
一方、説B(自刃説)は、具体的な合戦名や日付、そして劇的な結末を伴い、非常に物語性が強い。これは、合戦の勝利者である高資の側から、その武功を最大限に称揚する文脈で語られた記録である可能性が高い。圧倒的な兵力差を覆し、敵の総大将を討ち取ったという輝かしい勝利の物語において、敵方のもう一方の大将として実の父・政資を配置することは、高資の勝利の価値をより一層高める効果を持つ。
どちらが厳密な史実であるかを現代において断定することは困難である。しかし、政資が最後まで息子と敵対し、悲劇的な最期を遂げた可能性は十分に考えられる。重要なのは、二つの異なる歴史記述が生まれた背景を考察することであり、それによって那須政資という人物が、後世に至るまで複雑な評価をされ続けた歴史的存在であったことが浮き彫りになるのである。
那須政資の生涯は、成功と失敗、統一と分裂が複雑に絡み合った、戦国時代初期から中期にかけての地方領主の苦闘を象徴するものであった。
第一に、彼は「統一者にして分裂者」であった。約百年にわたって分裂していた上那須家と下那須家を再統一するという歴史的偉業を成し遂げた功績は大きい。しかし、その権力基盤は当初から有力家臣団の支持という脆い土台の上にあり、関東全域を巻き込んだ「永正の乱」という政治的潮流に翻弄された結果、自らが築いた統一を、嫡男・高資との対立によって自ら破壊する結果を招いてしまった。
第二に、彼は「戦国大名化への過渡期の君主」であったと言える。鎌倉以来の名門という伝統的権威を背景に持ちながらも、領域を一元的に支配する集権的な戦国大名へと脱皮しようと試みた。しかし、独立性の強い「那須七騎」に代表される強力な家臣団を完全に統制するには至らず、最終的には彼らの下剋上とも言える動きによって実権を奪われた。彼の生涯は、この時代に多くの地方領主が直面した、権力集中と家臣団統制の困難さを見事に体現している。
最後に、彼が経験した父子相克と家中の分裂は、その後の那須氏の歴史に長く影を落とした。高資、そしてその跡を継いだ資胤の代に至るまで、家中の不安定さは続き、それが常陸の佐竹氏など外部勢力の介入を容易にする要因となった。那須政資の悲劇的な生涯は、単なる一個人の物語に留まらず、戦国時代の北関東における権力闘争の厳しさと、中世的な国人領主連合体制から近世的な大名領国制へと移行する時代の、大きな歴史的変化の狭間で生きた一人の武将の軌跡として、後世に多くの示唆を与えている。
西暦 (和暦) |
那須政資・那須家の動向 |
関連する周辺勢力の動向 (古河公方, 宇都宮, 佐竹等) |
典拠 |
1514 (永正11) |
上那須家で内紛が発生し断絶。政資が父・資房により統一那須家当主として擁立される。 |
- |
9 |
1516 (永正13) |
(父・資房が高基方へ転身) |
縄釣の戦い。宇都宮成綱が佐竹義舜・岩城由隆連合軍に大勝する。 |
9 |
1520 (永正17) |
岩城常隆に山田城を攻められるも、父・資房が縄釣原で撃退する。 |
- |
9 |
1521 (大永元) |
佐竹氏の仲介により、岩城常隆の娘を正室に迎え和睦する。 |
岩城氏が再度侵攻するも、和睦に至る。 |
9 |
時期不明 |
嫡男・高資を擁立した家臣団により、烏山城を追われ家督を強奪される。那須家は再分裂する。 |
古河公方家は足利政氏から高基(晴氏)へと実権が移る。 |
16 |
1539 (天文8) |
宇都宮尚綱らの援軍を得て、高資の籠る烏山城を攻撃する。 |
宇都宮尚綱、佐竹義篤、小田政治が政資を支援する。 |
16 |
1546 (天文15) |
【説A】高資と和睦・隠居の末、7月23日に死去したとされる。 |
- |
16 |
1549 (天文18) |
【説B】宇都宮尚綱と共に高資軍と戦うも、喜連川五月女坂の戦いで大敗し、9月17日に自害したとされる。 |
宇都宮尚綱が同合戦で討死する。 |
16 |
コード スニペット
graph TD
subgraph 那須家
NasuSukefusa(那須資房) -- 親子(対立・支援) --> NasuMasasuke(那須政資)
NasuMasasuke -- 親子(対立・家督強奪) --> NasuTakasuke(那須高資)
end
subgraph 周辺大名
AshikagaMasa(足利政氏) -- 偏諱を授ける --> NasuMasasuke
AshikagaTaka(足利高基) -- 偏諱を授ける --> NasuTakasuke
Iwaki(岩城常隆) -- 敵対 --> NasuMasasuke
IwakiDaughter(岩城常隆の娘) -- 婚姻同盟 --> NasuMasasuke
Iwaki -- "娘" --> IwakiDaughter
Satake(佐竹氏) -- 仲介 --> NasuMasasuke
Utsunomiya(宇都宮氏) -- 同盟・支援 --> NasuMasasuke
end
subgraph 家臣団
Ozeki(大関宗増) -- 擁立→後に対立 --> NasuMasasuke
Otawara(大田原資清) -- 擁立 --> NasuMasasuke
Ozeki -- 高資を擁立 --> NasuTakasuke
end
style NasuMasasuke fill:#f9f,stroke:#333,stroke-width: 4.0px
那須政資の亡骸がどこに眠っているのか、その正確な場所もまた、彼の最期と同様に確定的ではない。現在、栃木県那須烏山市にある天性寺の墓地に、「那須家六代の墓」と称される宝篋印塔群が存在する 26 。これは、下那須家の6代、すなわち資持、資実、資房、政資、高資、資胤の墓所と推定されており、那須政資もこの中に含まれると考えられている 26 。
しかし、これらの墓塔は江戸時代の延宝3年(1675年)に城内拡張のために現在地へ移転されたものであり、長年の風化も相まって、刻まれた文字は判読不能となっている 26 。そのため、数基並んだ墓塔のうち、どれが具体的に誰の墓石であるかを個別に特定することは極めて困難な状況にある。
その生涯の結末が「和睦後の病没」と「敗戦後の自刃」という二説に分かれるように、彼の眠る場所もまた、六代の墓という集合体の中に埋没し、特定できないという事実は、那須政資という人物の歴史におけるある種の「曖昧さ」や「悲劇性」を象徴しているようにも感じられる。統一者でありながら分裂の悲劇に散った彼の生涯は、その墓所のあり方にまで影を落としているのかもしれない。