15世紀後半から16世紀にかけての日本列島は、中央の権威が失墜し、各地の武士たちが自らの実力で領国を切り拓く、まさに「戦国」の時代であった。関東地方もその例外ではなく、古河公方と関東管領の対立に端を発する「享徳の乱」以来、戦乱が常態化していた。特に下野国(現在の栃木県)は、宇都宮氏、佐竹氏、結城氏、小山氏といった有力な国人領主たちがひしめき合い、絶えず勢力争いを繰り広げる地政学的に極めて不安定な地域であった。
この動乱の渦中にあったのが、下野国北部に勢力を張る那須氏である。那須氏は、藤原北家の流れを汲み、平安時代末期に那須郡に土着して以来の歴史を持つ名門であった 1 。鎌倉幕府の御家人として重きをなした那須与一の伝説は、その武門の誉れを今に伝えている。室町時代には関東の有力大名家である「関東八屋形」の一つに数えられるほどの勢威を誇った 2 。しかし、15世紀前半の応永21年(1414年)頃、家督争いを契機として那須氏は那須郡北部を支配する「上那須家」と、南部の烏山城を本拠とする「下那須家」に分裂してしまう 2 。この分裂は、一族の力を著しく削ぎ、周辺勢力からの介入を招く大きな要因となっていた。
本報告書が主題とする那須資房は、この約100年にわたる分裂と衰退の時代に、下那須家の当主として生を受けた人物である。彼は、内紛によって惣領家が自壊するという千載一遇の好機を捉えて上下那須家を統一し、一族に「中興の祖」として記憶されることになる。さらに、彼の武功は後世、「大捻縄引」という奇祭の起源伝説として昇華され、地域の文化に深くその名を刻んだ。
しかし、彼の生涯は単なる成功譚ではない。本報告書は、那須資房を単なる地方領主としてではなく、分裂した一族を再興し、激動の時代を巧みな外交と軍事で生き抜いた戦略家として、そして死後には民俗伝承の主人公にまでなった稀有な人物として、その実像を多角的に解き明かすことを目的とする。彼の生涯を追うことは、戦国という時代の複雑な権力構造と、一人の武将の事績が歴史と伝説の間でいかに語り継がれていくのかを理解する上で、貴重な視座を提供するであろう。
那須資房の生涯における最大の功績は、約一世紀にわたり分裂していた那須氏を再統一したことにある。しかし、この偉業は単なる軍事征服の結果ではなく、惣領家の内紛という好機を的確に捉え、自らの血統的正統性を巧みに利用した、高度な政治的判断の帰結であった。
那須氏は、その祖を藤原道長の子・長家に遡るとされる名門である 1 。鎌倉時代には有力御家人として活躍し、室町時代には関東の秩序を担う「関東八屋形」の一角を占めるまでに至った 2 。しかし、その栄光は永続しなかった。応永21年(1414年)頃、那須氏の家督を継いだ福原城主・那須資之と、その弟である沢村五郎資重の間で深刻な対立が生じる 3 。この内紛の結果、那須氏は資之を当主とする那須郡北部の「上那須家」と、資重が烏山城を築いて本拠とした南部の「下那須家」とに分裂した 2 。
この分裂は、那須氏の政治的立場をさらに複雑にした。上那須家は京都の室町幕府や関東管領上杉氏を後ろ盾とし、一方で下那須家は鎌倉公方、後の古河公方を頼みとした 2 。関東全域を巻き込む大きな政治対立の構図が、那須一族の内部に持ち込まれたのである。結果として、約100年にわたり同族間での抗争が繰り返され、那須氏全体の国力は著しく消耗していった。那須資房が歴史の表舞台に登場するのは、この長く続いた分裂と衰退の末期であった。
那須資房による統一の直接的な引き金となったのは、彼の武力や策略ではなく、皮肉にも惣領家である上那須家自身の内紛と自壊であった。
家名・人物名 |
関係性 |
備考 |
【上那須家】 |
|
|
那須資親 |
上那須家当主 |
宇都宮成綱の岳父。当初、実子なし。 |
那須資永 |
資親の養子 |
実父は白河結城義永。 |
那須資久 |
資親の実子 |
資永が養子となった後に誕生。 |
【下那須家】 |
|
|
那須資実 |
下那須家当主 |
資房の父。 |
那須資房 |
本報告書の主題 |
下那須家当主。母は上那須家・那須明資の娘。 |
那須政資 |
資房の嫡男 |
妻は岩城常隆の娘。 |
【周辺大名】 |
|
|
宇都宮成綱 |
下野の有力大名 |
妻は那須資親の娘。後に資房と結ぶ。 |
白河結城義永 |
陸奥の有力大名 |
資永の実父。 |
岩城常隆 |
陸奥の有力大名 |
娘が那須政資に嫁ぐ。 |
上那須家の当主であった那須資親は、長らく男子に恵まれなかった。そのため、隣国の有力大名である白河結城氏との関係強化を意図し、その当主・結城義永の次男を養子として迎え入れ、「那須資永」と名乗らせた 1 。これは、後継者不在という家門の危機を、外交によって乗り切ろうとする戦国期によく見られる戦略であった。
しかし、永正6年(1509年)、事態は複雑化する。資親に待望の実子・資久が誕生したのである 1 。これにより、家臣団は養子・資永を支持する派閥と、正統な血筋である実子・資久を支持する派閥に二分され、家督を巡る緊張が一気に高まった。そして永正11年(1514年)、資親が死去すると、抑えられていた対立の火蓋が切られた。資久を支持する大田原資清らの勢力が、養子である資永を攻め、これを討ち果たした。しかし、この内乱の過程で資久もまた命を落とすという、まさに共倒れの悲劇的結末を迎えたのである 6 。
この一連の出来事は、那須資房の統一事業が、彼自身の積極的な軍事行動によって始まったのではなく、「敵の自滅」とも言うべき権力の空白状態が突如として生まれたことに端を発していることを示している。資房の真価は、この千載一遇の好機を的確に見抜き、迅速に行動を起こしたその政治的嗅覚の鋭さにこそ求められるべきであろう。
上那須家が後継者を失い、事実上断絶するという事態を受け、下那須家の当主であった那須資房は、直ちに行動を開始した。彼は那須氏の惣領たることを宣言し、約100年ぶりに上下那須の庄をその支配下に置くことに成功したのである 8 。
この統一は、単なる武力による併合ではなかった。資房は、旧上那須家の本拠地であった山田城に、自らの嫡男・那須政資を城主として配置した 8 。これは、旧上那須家配下の国人衆、特に那須七騎と称される大田原氏や大関氏といった有力家臣たちに対し、彼らを弾圧するのではなく、新たな旗頭として庇護することを示す巧みな政治的ジェスチャーであった 6 。
さらに、資房の統一には血縁という強力な正統性が伴っていた。彼の母は、上那須家の那須明資の娘であった 11 。つまり、資房は単なる分家の当主ではなく、上那須家と下那須家、両家の血を引く人物だったのである。この事実は、彼の統一が「乗っ取り」ではなく、断絶した惣領家を継承する「正統な後継者」としての大義名分を内外に示す上で、極めて重要な意味を持った。
ただし、この統一の実態は、資房による中央集権的な支配体制の確立を意味するものではなかった。むしろ、大田原氏や大関氏といった有力家臣団の強い独立性を認めた上での、緩やかな連合体、あるいは連邦制に近い統治形態であったと推察される。この統治形態は、上那須家家臣団の抵抗を最小限に抑え、迅速な統一を可能にした一方で、後の那須家中に絶えざる内紛の火種を内包することにもなった。資房が築き上げた統一は、その成立の瞬間から、脆さと不安定さをはらんでいたのである。
那須氏の再統一を成し遂げた資房であったが、それは安寧の始まりを意味しなかった。むしろ、統一那須氏の当主として、彼は関東の激しい勢力争いの渦中へと本格的に身を投じることになった。彼の治世は、周辺大名との絶え間ない外交交渉と軍事衝突、そして一筋縄ではいかない家臣団の掌握に費やされた。
資房が那須氏を統一した時期は、関東全域が古河公方・足利政氏とその子・高基の父子相克、いわゆる「永正の乱」によって大きく揺れ動いていた。この広域的な動乱の中で、いかに自家の存続を図るか、資房には重大な戦略的判断が求められた。
当初、資房率いる下那須家は、伝統的な関係から足利政氏方に属していた 6 。しかし、乱の戦況は次第に高基方が優位となり、特に下野国においては、高基を強力に支持する宇都宮城主・宇都宮成綱の勢力が圧倒的であった。永正13年(1516年)頃、資房は大きな決断を下す。宇都宮成綱からの調略に応じ、それまでの政氏方から高基方へと立場を転換したのである 6 。
この転向は、それまで同盟関係にあった常陸の佐竹氏や岩城氏と袂を分かち、長年のライバルであった宇都宮氏と新たに連携することを意味した 13 。この決断は、単なる裏切りや日和見主義と断じるべきではない。統一間もない那須家の国力を客観的に分析し、強大な宇都宮氏と敵対し続けることの不利を悟った上での、極めて現実的な戦略的判断であった。領国の安定という最大の利益のために、過去の敵と手を結ぶ。ここに、乱世を生き抜く資房の現実主義者としての一面が窺える。この宇都宮氏との新たな同盟関係は、後に那須領へ侵攻してくる佐竹・岩城連合軍との戦いにおいて、決定的な意味を持つことになった 13 。
資房の立場変更は、すぐさま周辺勢力の反発を招いた。旧政氏方であった常陸の佐竹氏と陸奥の岩城氏は、宇都宮氏と結んだ那須氏を敵とみなし、永正17年(1520年)以降、那須領への侵攻を開始した 6 。特に岩城常隆は、資房の嫡男・政資が守る旧上那須家の拠点・山田城に執拗な攻撃を仕掛けた 6 。那須氏は、統一後の最初の大きな試練を迎えることとなる。
資房はこの危機に対し、軍事力のみに頼るのではなく、硬軟織り交ぜた戦略で対処した。まず、宇都宮氏との連携を背景に防衛戦を展開し、敵の攻勢を食い止める。そして戦いが膠着状態に陥ると、彼は外交交渉の席に着いた。常陸の佐竹氏の仲介を通じて、敵将であった岩城常隆との和睦交渉を進め、最終的には常隆の娘を嫡男・政資の妻として迎え入れるという「婚姻同盟」によって、この長きにわたる紛争を終結させたのである 11 。
この一連の対応は、資房が単なる武将ではなく、戦いと交渉を巧みに使い分けるバランス感覚に優れた戦略家であったことを示している。彼は、戦場で勝利を収めることだけが目的ではなく、戦いの後にいかにして安定した国際関係を築くかを重視していた。敵将の娘を息子の嫁に迎えるという行為は、単なる停戦協定を超えて、両家の関係を恒久的に安定させようとする強い意志の表れであり、戦国大名が領国の平和を確保するための典型的な、そして最も有効な手段の一つであった。
外交によって国外の脅威を抑える一方、資房は領国経営の安定にも力を注いだ。下那須家以来の本拠地である烏山城を、統一那須氏の政治・軍事の中心として整備し、そこから領内を統治する体制を固めていったと考えられる 3 。
しかし、領国経営は決して平穏ではなかった。特に、統一の過程で自らの配下となった旧上那須家の有力家臣団「那須七騎」との関係は、常に緊張をはらんでいた。その複雑な力関係を象徴するのが、永正15年(1518年)に起きた大田原資清の失脚事件である。資清は那須氏統一の際に功績があった有力武将であったが、同僚である大関宗増が資房に「資清に謀反の疑いあり」と讒言したことにより、資房の不興を買い、一時失脚して出家を余儀なくされた 7 。この事件は、資房の支配体制が絶対的なものではなく、家臣間の対立や讒言に大きく影響される脆弱な側面を持っていたことを示している。資房は、有力家臣同士を競わせ、そのバランスの上に立つことで、かろうじて家中を統制していた可能性が高い。彼の政治手腕は、こうした内部の権力闘争を調停する能力にこそ、その真価が発揮されたのかもしれない。
また、資房は「玄藤」という法名を名乗り、領内の天性寺などに土地を寄進した記録が残っている 17 。これは、個人的な信仰心の発露であると同時に、寺社勢力を保護することで領主としての権威を高め、領内の精神的な安定を図るという、戦国領主によく見られる統治政策の一環であった。資房は、武力や外交だけでなく、権威や信仰といった目に見えない力をも駆使して、盤石とは言えない領国の安定に腐心し続けたのである。
戦国時代の武将の事績が、後世、民俗伝承として地域の文化に根付く例は少なくない。那須資房もまた、その一人である。彼が指揮した一つの合戦が、いかにして「大捻縄引(だいもじひき)」という奇祭の起源伝説へと姿を変え、歴史と民俗が交差するユニークな文化遺産となったのか。その過程は、人々の記憶が歴史をどのように編み直し、継承していくかを示す興味深い事例である。
永正17年(1520年)8月、那須領に大きな軍事的緊張が走った。白河城主・結城義永が1,500騎と称される軍勢を率いて侵攻してきたのである 18 。那須資房はこれを迎え撃ち、両軍は箒川沿岸の「縄釣台(なわつりだい)」(現在の栃木県那珂川町浄法寺付近)と呼ばれる場所で激突した 18 。この戦いは「箒川の合戦」あるいは「縄釣の戦い」として知られている。
戦いの詳細は不明な点も多いが、各種伝承によれば、那須軍は勇戦し、侵攻してきた結城軍を打ち破ったとされる 18 。この勝利は、資房が宇都宮氏と結んで外交方針を転換したことへの反発から生じた軍事的危機を、自らの力で乗り切ったことを意味する。統一間もない那須氏の武威を内外に示し、領国の独立を維持する上で、極めて重要な勝利であった。
ただし、史料や伝承にはいくつかの食い違いも見られる。敵将を「白河城主の結城義永」とする資料 18 がある一方で、「奥州岩城氏」であったとする説も存在する 20 。これは、当時の那須氏が東方に位置する結城氏や岩城氏といった複数の勢力と、断続的に緊張・戦闘状態にあったことを反映していると考えられる。後世、人々の記憶の中で、これらの複数の戦いの記憶が「箒川の合戦」という一つの象徴的な出来事へと集約され、混同された可能性も否定できない。
この箒川の合戦から、一つの奇妙で勇壮な伝説が生まれた。合戦で劣勢に陥った結城軍が、箒川の断崖絶壁に太い縄を垂らして退却しようと試みた。それに気づいた那須資房軍は、その縄を逆に引き上げて敵の退路を断とうとし、崖の上と下で、両軍の兵士たちによる壮絶な「縄の引き合い」が繰り広げられた、というものである 18 。
この逸話が、栃木県大田原市佐良土地区に伝わる民俗行事「大捻縄引」の起源として語り継がれることになった。この行事では、伝説を再現するかのように、大量の稲わらを使って長さ50メートル、最も太い部分の直径が50センチメートルにも及ぶ巨大な縄を編み上げる 19 。そして、参加者は地元那須勢と敵方の白河勢(結城勢)に分かれ、この大縄を引き合うのである。
「大捻縄引」は、その起源伝説とは別に、民俗学的な視点から見ると、日本各地に古くから存在する「盆綱引き」や「十五夜綱引き」といった農耕儀礼の一種に分類される 19 。これらの綱引き行事では、綱を豊穣や生命力の象徴である龍や蛇に見立て、それを引き合うことでその年の豊作や家内安全、無病息災を祈願する意味合いを持つ 22 。綱引きの勝敗によって吉凶を占う性格も強く、佐良土地区でも、綱引きに勝った地区はその年は繁栄すると信じられてきた 22 。
ここに、歴史と民俗の興味深い結びつきが見られる。「大捻縄引」の起源伝説は、もともと地域に存在した作者不明の農耕儀礼(盆綱引き)に対し、後世の人々が、地域史における最大の英雄である那須資房の勝利の物語を「起源」として付与した、「エティオロジカル・ミス(起源説話)」である可能性が極めて高い。なぜなら、普遍的でアニミズム的な儀式は、特定の歴史的人物が関わる物語よりも古くから存在する蓋然性が高いからである。元々あった豊作祈願の綱引きという行事の由来を説明するために、地域で最も有名で劇的な歴史事件であった「箒川の合戦」の逸話が、後から結びつけられたと考えるのが合理的であろう。資房の輝かしい勝利の記憶が、綱引きの「吉兆」を占う性格と高い親和性を持っていたことも、この結びつきをより強固なものにしたに違いない。
こうして、一つの歴史的事件は、土着の信仰や行事と結びつくことで、単なる儀式から、地域のアイデンティティを象_z徴する英雄譚へと昇華されたのである。この「大捻縄引」は、平成5年(1993年)に国の選択無形民俗文化財に指定され 22 、休止期間を経て近年復活開催されるなど 25 、今なお地域を代表する重要な文化遺産として生き続けている。
那須資房は、一族の再統一という偉業を成し遂げ、周辺大名との激しい攻防を乗り越え、戦国武将としては長寿を保った。しかし、彼の晩年は、自らが築き上げた統一が、自身の血を引く者たちの手によって揺らいでいく様を目の当たりにする、苦悩の時期でもあった。
資房は家督を嫡男・政資に譲り隠居したが、那須家の平穏は長くは続かなかった。当主となった政資と、その子である高資(資房の孫)との間で、家中の主導権を巡る深刻な対立が発生したのである 10 。この内紛には、佐竹氏や宇都宮氏といった外部勢力も介入し、高資の拠る烏山城周辺まで敵軍が迫るなど、那須家は再び分裂の危機に瀕した 27 。
この父子対立が深刻化した背景には、天文18年(1549年)に起きた「喜連川五月女坂の戦い」での敗北があった。この戦いで那須父子は宇都宮尚綱に味方して参陣したが、宇都宮軍は大敗を喫し、当主の尚綱が戦死するという衝撃的な結果に終わる 7 。この敗戦は那須家中の動揺を招き、政資と高資の対立をさらに激化させる要因となったと考えられる。
父・政資を抑えて那須家の実権を掌握した那須高資であったが、その強引な手法は家臣団の間に強い反発を生んだ。そして天文20年(1551年)1月、悲劇が起こる。高資は、那須七騎の一人である千本資俊の居城・千本城に誘い出され、そこで暗殺されてしまったのである 28 。
この暗殺劇は、単なる家臣の暴走ではなかった。その背後には、宿敵である宇都宮氏の重臣・芳賀高定による巧妙な謀略があった 29 。宇都宮氏は、那須家中の対立を利用し、千本氏を唆して主君殺しを実行させたのである。この事件は、資房が築き上げた統一が、外部からの揺さぶりに対して極めて脆弱であったことを象徴している。資房は領土を一つにまとめることには成功したが、一族と家臣団の心を完全に一つにまとめ、外部の謀略を跳ね返すほどの強固な組織を構築するまでには至らなかった。彼が心血を注いだ統一事業は、次世代のリーダーシップの欠如と、外部勢力の巧みな内部工作によって、いとも容易く崩れ去る危険性をはらんでいたのである。
那須資房は、自らが家督を譲った息子・政資、そしてその家督を巡って争った孫・高資の両方よりも長生きするという、戦国武将としては稀有な運命を辿った 11 。彼は隠居の身として、自分が再興した那須家が、再び血族間の争いと混乱に陥っていく様を、どのような思いで見つめていたのだろうか。その心境を伝える史料はないが、その無念は察するに余りある。
孫の高資が暗殺された翌年の天文21年(1552年)11月5日、高資の弟で、もう一人の孫にあたる那須資胤が家督を継いだのを見届けた後、資房は波乱に満ちた生涯を閉じた 6 。彼の法名は「孤峯院笑月源藤大禅定門」などと伝えられ 11 、その亡骸は福原の玄性寺に葬られたと記録されている 1 。
那須資房は、一族分裂という百年にわたる逆境の中、惣領家の自壊という権力の空白を逃さず、那須氏を再統一した優れた政治家であった。彼の功績は、単なる軍事力による征服ではなく、上那須家との血縁という正統性、嫡男を旧惣領家の拠点に置く巧みな政治配置、そして永正の乱の趨勢を見極めた現実的な外交判断に裏打ちされたものであった。
統一後も、宇都宮、佐竹、岩城、結城といった強敵に囲まれる中で、時には戦い、時には婚姻を結ぶという硬軟織り交ぜた戦略を駆使し、那須家の独立を保った。彼の治世は、まさしく戦国時代の地方領主が直面する困難を乗り越えていく様を体現している。
しかし、彼が築き上げた統一は、盤石なものではなかった。有力家臣団の強い独立性を内包する緩やかな連合体であり、その支配は常に内部の権力闘争というリスクを抱えていた。結果として、彼の存命中から次世代の家督争いが始まり、外部勢力の介入を招いてしまう。これは、一個人の英雄的な資質に頼る統治が、次世代への継承においていかに脆いものであるかを示す、戦国時代の普遍的な課題を浮き彫りにしている。
それでもなお、那須資房は、分裂していた那須氏を再興し、戦国大名としての基礎を再び築いた「中興の祖」として、高く評価されるべきである。さらに、彼の武功が「大捻縄引」という民俗伝承の起源として語り継がれ、地域の文化とアイデンティティの一部となったことは、特筆に値する。彼は単なる歴史上の人物にとどまらず、人々の記憶の中で生き続ける「伝説の創始者」となったのである。この点において、那須資房は数多の戦国武将の中でも、極めて稀有な存在であると言えるだろう。彼の生涯は、歴史の創造者であると同時に、伝説の源泉ともなった、一人の武将の重層的な実像を我々に示してくれる。
年代(西暦) |
那須資房・那須家の動向 |
関東・周辺の動向 |
関連する合戦・事件 |
応永21年(1414年)頃 |
那須氏が上那須家と下那須家に分裂。 |
|
|
生年不詳 |
下那須家当主・那須資実の子として誕生。 |
|
|
永正6年(1509年) |
上那須家当主・資親に実子・資久が誕生。 |
|
|
永正9年(1512年)頃 |
資房が下那須家の家督を継承か。 |
|
|
永正11年(1514年) |
上那須家で内紛。資永・資久が共に死亡。資房が上下那須氏を統一。 |
|
上那須家内紛 |
永正13年(1516年)頃 |
宇都宮成綱の調略に応じ、足利高基方に転じる。 |
宇都宮成綱が那須氏を調略。 |
竹林の戦い (この戦いの後に調略) |
永正15年(1518年) |
家臣・大田原資清が讒言により失脚。 |
足利政氏が隠居し、永正の乱が終息。 |
|
永正17年(1520年) |
白河結城義永(または岩城氏)の侵攻を撃退。 |
白河結城氏らが那須領へ侵攻。 |
箒川の合戦(縄釣の戦い) |
大永元年(1521年) |
嫡男・政資が岩城常隆の娘と婚姻し和睦。 |
|
|
天文年間 |
家督を子・政資に譲り隠居。政資とその子・高資が対立。 |
|
|
天文18年(1549年) |
那須父子、宇都宮尚綱方として参戦するも敗北。 |
宇都宮尚綱が戦死。 |
喜連川五月女坂の戦い |
天文20年(1551年) |
孫・那須高資が千本資俊に暗殺される。 |
宇都宮家臣・芳賀高定の謀略。 |
那須高資暗殺事件 |
天文21年(1552年) |
孫・那須資胤が家督を継承。同年11月5日、資房死去。 |
|
|