最終更新日 2025-07-05

那須資胤

下野の雄、那須資胤 ― 激動の時代を生きた智勇の軌跡

序章:那須氏と下野国の地政学

戦国時代の日本列島は、群雄が割拠し、旧来の権威が失墜する「下剋上」の時代であった。その中でも、関東地方、特に下野国(現在の栃木県)は、北の陸奥、東の常陸、南の武蔵・相模、そして西の上野という、四方を強大な勢力に囲まれた地政学的に極めて重要な緩衝地帯であった。この地で、古くからの名門としての誇りと、戦国大名としての存亡を賭けて激動の時代を駆け抜けたのが、那須氏第20代当主、那須資胤である。彼の生涯は、家中の内紛、周辺勢力との合従連衡、そして一族の存続を賭けた苦悩と決断の連続であった。本報告書は、那須資胤の生涯を多角的に検証し、彼の武将として、そして戦略家としての実像に迫るものである。

那須氏の歴史的背景

那須氏は、その祖を藤原北家・藤原道長の子孫である藤原資家(須藤氏)に持つとされる、由緒ある武家である 1 。平安時代末期、屋島の戦いにおいて扇の的を射抜いたとされる那須与一宗隆の伝説は、那須氏の武名を全国に轟かせた 1 。室町時代には、足利将軍家から「関東八屋形」の一つに数えられるほどの格式を誇り、関東における名門としての地位を確立していた 4

しかし、戦国時代に入ると、その権威にも陰りが見え始める。家督を巡る内紛から、烏山城を本拠とする下那須家と、福原城を本拠とする上那須家に分裂し、一族内で骨肉の争いを繰り広げた 1 。この分裂状態は、資胤の父である那須政資が上那須家の内乱に乗じて家督を継承し、ようやく再統一を果たすまで続いた。だが、長年の対立が残した亀裂は深く、政資が統一した那須家の支配基盤は、依然として脆弱なものであった。

資胤登場前夜の北関東

資胤が歴史の表舞台に登場する16世紀半ばの北関東は、複数の勢力が複雑に入り乱れ、絶えず勢力図が塗り替えられる混沌の時代であった。下野国においては、宇都宮氏が最大のライバルであり、那須氏とは長年にわたり領土を巡って根深い対立関係にあった 1

さらに、那須氏の領国は、四方を強大な戦国大名に囲まれていた。東には常陸国(現在の茨城県)で急速に勢力を拡大する佐竹氏、南には「関東の覇者」として武蔵・相模を席巻する後北条氏、そして北には陸奥国(現在の福島県会津地方)に君臨する蘆名氏が存在した 6 。これらの勢力は、互いに同盟と敵対を繰り返しており、那須氏の存亡は、彼らとの外交関係をいかに巧みに操るかにかかっていた。那須氏は、常に複数の脅威に同時に晒され、一つの判断ミスが即、家の滅亡に繋がりかねない、極めて厳しい状況下に置かれていたのである。

那須家中の権力構造 ― 上那須衆と下那須衆

那須氏の支配構造は、当主による中央集権的なものではなく、有力な国人領主の連合体としての性格が強かった。特に「那須七騎」と称される大関氏、大田原氏、千本氏、芦野氏、伊王野氏、福原氏、沢村氏といった庶流家や有力家臣は、それぞれが独立した領地と軍事力を保持しており、その動向は那須氏全体の意思決定に絶大な影響力を持っていた 9

中でも、大田原氏や大関氏に代表される「上那須衆」は、時に主家である那須宗家の権力を凌駕しかねない実力を持つ存在であった 11 。彼らは、自らの所領拡大と権益確保のためには、主家と対立することも辞さず、時には外部勢力と結びついて反旗を翻すこともあった。この脆弱な主従関係、すなわち当主の権力基盤が常に有力家臣団の動向に左右されるという構造的な問題が、資胤の治世における深刻な内紛の根本的な原因となるのである。

第一章:兄の横死と波乱の家督相続

那須資胤の家督相続は、平穏な形で行われたものではなかった。それは、父と兄の確執、兄の不可解な死、そして有力家臣団の思惑が複雑に絡み合った、まさに戦国乱世を象徴するような波乱に満ちたものであった。

父・政資と兄・高資の確執

資胤の父・那須政資は、長年の宿敵であった宇都宮氏との和睦を志向する穏健派であった。疲弊した領内の民生を安定させ、外交によって家の安泰を図ろうとしたのである 1 。しかし、この方針は、家中、特に武断派の強い反発を招いた。その筆頭が、政資の長男であり、資胤の異母兄にあたる那須高資であった。

高資は、那須家の重臣である大関宗増(後の大関高増の養父)に擁立され、父の穏健策に真っ向から反対した 1 。彼は武勇に優れる一方で性情が荒く、宇都宮氏との戦いを通じて武功を挙げ、家名を高めることを望んでいた。父子の対立は次第に深刻化し、天文8年(1539年)、高資は大関宗増と共に、関東の雄・後北条氏の支援を得て挙兵。父・政資が籠る烏山城を包囲するに至った 1 。政資は佐竹氏や宇都宮氏に援軍を求めるも、高資の巧みな戦術の前に援軍は撤退。孤立無援となった政資は、高資に家督を譲るという条件で和睦せざるを得なかった。これにより、那須家の実権は完全に武断派の高資・大関宗増ラインへと移り、宇都宮氏との全面対決路線へと突き進むことになった。

高資の横死 ― 謀略の連鎖

家督を奪取した高資は、宇都宮氏への攻勢を強め、一時は塩谷郡一帯にまで版図を拡大する戦果を挙げた 12 。しかし、その強引な手法は多くの敵を作った。天文20年(1551年)、高資は宇都宮氏の重臣・芳賀高定が仕掛けた謀略にかかる。最終的に、高資は自らの家臣である千本資俊に誘い出され、殺害された 6 。軍記物によれば、鴆毒(ちんどく)を盛られたとも伝わる 13

この事件は、単に宇都宮氏による復讐劇として片付けられるものではない。その背後には、那須家中の複雑な権力闘争が存在した。高資は、大田原資清の娘を母に持つ異母弟・資胤の存在を疎ましく思っていた。大田原氏は那須家中で大きな影響力を持つ一族であり、資胤を支持する勢力の中心であった。高資は、この資胤派を危険視し、資胤を家から追放しようと画策していたのである 13

資胤の家督相続と黒い霧

高資が横死を遂げたことで、那須家の家督は宙に浮いた。ここで当主として擁立されたのが、次男であった那須資胤である。彼の家督相続は、母方の実家である大田原氏の当主・大田原資清と、その長男で大関氏の養子となっていた大関高増という、上那須衆の二大巨頭による強力な後見によって実現した 11

ここに、資胤の家督相続を巡る「黒い霧」が存在する。資胤は、兄・高資を直接手にかけた下手人である千本資俊を、処罰するどころか、逆に側近として重用したのである 13 。この不可解な人事は、高資の死が、資胤とその支持勢力にとって望ましい結果であったことを強く示唆している。

一連の出来事を繋ぎ合わせると、資胤の家督相続は、単なる偶然の産物ではない、周到に計画された政変であった可能性が浮かび上がる。高資と資胤派の対立が先鋭化する中、宇都宮氏の謀略という外部要因が持ち上がった。資胤を支持する上那須衆(大田原氏、大関氏、そして実行犯となった千本氏)は、この好機を逃さなかった。彼らは宇都宮氏の謀略を黙認、あるいは積極的に利用・誘導することで、政敵である高資を排除し、自らが推す資胤を当主の座に据えることに成功したと考えられる。つまり、資胤の家督相続は、清廉な形ではなく、宿敵の謀略さえも利用する、極めて政治的かつ権謀術数に満ちたクーデターの側面を持っていた。そして、この複雑な相続の経緯こそが、後に資胤自身が直面することになる、大関高増との深刻な対立の火種を内包していたのである。

第二章:主家と家臣団の相克 ― 大関高増との対立

兄の死という混乱の中で家督を継いだ那須資胤であったが、彼の治世は平穏ではなかった。自らを当主の座に就かせた最大の功労者であるはずの重臣・大関高増との間に深刻な対立が生じ、那須家は再び内戦の危機に瀕することになる。この対立は、単なる個人的な感情のもつれではなく、戦国大名が直面する、当主権力の確立と有力家臣の自立性という、構造的な問題の顕在化であった。

蜜月から亀裂へ ― 小田倉の戦い(1560年)

家督相続当初、資胤と、彼を後見する大関高増の関係は良好であった。高増は、資胤の母方の実家である大田原氏の出身であり、資胤にとっては最も信頼できる重臣の一人であったはずである 11 。しかし、その蜜月関係は長くは続かなかった。

永禄3年(1560年)、佐竹義昭が結城晴綱と争った際、資胤は佐竹方を支援して出陣した。この小田倉の戦いで、那須軍は蘆名氏の支援を受けた結城軍を相手に苦戦を強いられ、資胤自身も負傷するほどの激戦となった 7 。戦後、資胤はこの苦戦の責任を問い、軍の中核を担っていた大関高増やその義弟である大田原綱清を厳しく叱責した 7 。この叱責が、両者の間にあった水面下の緊張関係を一気に表面化させる直接的な引き金となった。

この「叱責」の裏には、より根深い政治的な意図があったと考えられる。高増は、資胤を当主に据えた「キングメーカー」であり、その影響力は絶大であった 11 。資胤にとって、兄を排除してまで手に入れた当主の座を名実ともに盤石なものにするためには、いつまでも高増の傀儡であってはならず、その強すぎる影響力を削ぐ必要があった。小田倉の戦いでの苦戦は、そのための絶好の口実となったのである。

内戦の勃発

資胤の意図を察知した高増も、黙って権力を手放すような人物ではなかった。資胤が同年5月に高増の暗殺を計画するに至り、両者の関係は修復不可能な段階に突入する 7 。身の危険を感じた高増は、主家に見切りをつけ、常陸の佐竹義昭・義重親子に内通し、主家への反旗を鮮明にした 7

高増は、佐竹義重の弟・義尚を那須氏の新たな当主として擁立することまで画策し、佐竹氏という強大な外部勢力の軍事力を背景に、資胤の排斥を試みた 7 。これにより、那須家は再び分裂状態に陥る。永禄6年(1563年)から永禄10年(1567年)にかけての約5年間、佐竹軍の支援を受けた大関高増・大田原綱清らの上那須衆と、那須宗家を率いる資胤との間で、烏山城などを舞台に激しい内戦が繰り返された 7

資胤は、数的に圧倒的に不利な状況に置かれた。しかし、彼は不屈の闘志でこの危機に立ち向かう。永禄9年(1566年)の治部内山の戦いでは、佐竹義重の家臣・佐竹義堅が率いる軍勢を打ち破り、大勝を収めた 7 。翌永禄10年(1567年)の大崖山の戦いでも、佐竹軍を再び撃退し、武将としての粘り強さと将器を示した 7

隠居を条件とする和睦(1568年)

数年にわたる内戦は、双方に多大な消耗を強いたものの、決着がつくには至らなかった。資胤は上那須衆と佐竹軍の猛攻を防ぎきったが、彼らを完全に屈服させる力もなかった。永禄11年(1568年)、ついに両者の間で和睦の交渉が行われる。その結果、資胤が隠居して家督を子の那須資晴に譲ることを条件に、和睦が成立した 7

この和睦により、反乱の首謀者であった高増は剃髪して資胤に謝罪の意を示し、形式的には主家への反抗の罪が許された 9 。そして彼は、再び那須七騎の筆頭として重臣の地位に復帰した。この「資胤の隠居」という条件は、高増ら反乱側の面目を保つための、高度な政治的妥協の産物であった。しかし、重要なのは、家督は資胤の実子である資晴が継承し、那須宗家の血統は維持されたという点である。資胤は「隠居」という形で名目上一歩退くことで、泥沼化した内戦を終結させ、結果的に自らの血統による支配を守り抜いた。これは資胤の完全な敗北ではなく、一族の分裂という最悪の事態を回避するための、現実的な政治判断であったと言える。

第三章:合従連衡 ― 激動を乗り切る外交戦略

内戦を終結させた那須資胤の次なる課題は、強大な周辺勢力に囲まれた中でいかにして那須家を存続させるか、という外交問題であった。彼の外交戦略は、過去の怨恨や一時的な同盟関係に固執しない、極めて柔軟かつ現実主義的なものであった。資胤は、北関東の地政学的な力学を的確に読み解き、敵を味方に変え、脅威のバランスを巧みに取ることで、激動の時代を乗り切ろうとした。

対佐竹氏 ― 宿敵から姻戚へ

資胤の外交手腕が最も発揮されたのが、常陸の佐竹氏との関係構築である。佐竹氏は、大関高増の内乱を支援し、那須領に幾度となく侵攻してきた最大の敵であった 7 。しかし、資胤は、この宿敵との関係を劇的に転換させる。

元亀3年(1572年)、資胤は佐竹義重との間に和睦を成立させた 7 。この和睦の核心は、単なる停戦協定ではなかった。資胤の娘である正洞院を、当時わずか3歳であった佐竹義重の嫡男・義宣の正室として嫁がせるという、婚姻同盟の締結であった 7 。この大胆な一手により、資胤は長年の宿敵であった佐竹氏を、最も強力な姻戚、そして後ろ盾へと変えることに成功した。この背景には、南から関東全域へと勢力を急拡大させる後北条氏という、両家にとっての共通の脅威が存在した。資胤は、目先の佐竹氏との対立よりも、より大きな脅威である後北条氏に対抗するという長期的な安全保障を優先したのである。これは、大局を見据えた高度な戦略判断であった。

対宇都宮氏 ― 終わらぬ宿怨

佐竹氏との関係改善とは対照的に、下野国内の最大のライバルである宇都宮氏との対立は、資胤の代においても継続した。宇都宮氏は、資胤の兄・高資を謀殺した張本人であり、両家の間の遺恨は極めて深かった 5

資胤の治世を通じて、宇都宮氏とは断続的に小競り合いが続いた。そして、この長年の対立は、資胤の没後、息子の資晴の代に起きた天正13年(1585年)の「薄葉ヶ原の戦い」で頂点を迎えることになる 17 。この戦いで那須氏は宇都宮氏に大勝し、塩谷郡における支配権を確立するが、その伏線は、資胤の時代から続く絶え間ない緊張関係の中に常に存在していた。

対後北条氏 ― 同盟から敵対へ

関東の覇者・後北条氏との関係は、資胤の治世を通じて大きく変化した。当初、弘治元年(1555年)には後北条氏康や古河公方・足利義氏と手を結ぶなど、親北条の姿勢を見せていた時期もあった 7

しかし、後北条氏の勢力が北関東にまで及び、その圧力が直接的な脅威として感じられるようになると、資胤は外交方針を180度転換する。天正6年(1578年)、資胤は、佐竹氏が中心となって結成された反北条連合である「小川台の会盟」に参加した 7 。この会盟には、宿敵であった宇都宮氏や、結城氏、大掾氏といった北関東・常陸の諸大名が名を連ねており、那須氏は明確に反北条の旗幟を鮮明にしたのである 8 。これは、単独では抗し得ない巨大な脅威に対し、地域の諸勢力が連携して対抗するという、戦国後期の典型的な外交戦略であった。

対蘆名氏・白河結城氏 ― 状況に応じた連携

北方に位置する陸奥の蘆名氏や白河結城氏との関係は、より流動的であった。資胤は、これらの勢力とは、佐竹氏や宇都宮氏との力関係に応じて、同盟したり敵対したりを繰り返した 6 。例えば、天正2年(1574年)に白河義親と佐竹義重が争った際には、蘆名盛氏らと共に白河方に助勢している 7 。これは、特定のイデオロギーや固定的な同盟関係に固執するのではなく、常に自家の存続と利益を最大化することを目的とした、冷徹な現実主義的外交姿勢の表れであった。資胤は、武勇に優れた武将であると同時に、大局を見据えて敵味方を巧みに入れ替えることができる、卓越したバランス感覚を持った戦略家でもあったのである。

第四章:隠居後の実像と最期

永禄11年(1568年)、大関高増との和睦の条件として「隠居」した那須資胤であったが、彼の政治生命がそこで完全に終わったわけではなかった。むしろ、表舞台から一歩退いたことで、より大局的な視点から那須家の舵取りに関与し続けた可能性が高い。その最期を巡っては、没年に二つの説が存在し、その解釈は資胤自身の評価のみならず、那須氏の歴史を理解する上で重要な論点となっている。

「隠居」の実態分析

戦国時代における大名の「隠居」は、現代的な意味での引退とは異なり、多くの場合、政治的な意図を含んでいた 21 。資胤の隠居も、内戦を終結させるための政治的妥協の産物であり、完全な権力の放棄を意味するものではなかったと考えられる。

家督を継いだ息子の資晴は当時まだ若年であり、その後の重要な政治判断、例えば元亀3年(1572年)の佐竹氏との婚姻同盟の締結や、天正6年(1578年)の小川台の会盟への参加といった、那須家の運命を左右する決断には、隠居した資胤が「大御所」として後見し、深く関与していたと考えるのが自然である。この時期の那須家は、表向きの当主である若き資晴と、その後ろで実権を握り、外交や戦略を指導する老練な父・資胤という、一種の二頭体制で運営されていたと推測される。これにより、資胤は家中の融和を演出しつつ、自らの政治路線を継続させ、円滑な権力移譲を進めていったのであろう。

没年を巡る論争

那須資胤の没年については、現在、二つの説が並立している。

一つは、天正11年2月11日(西暦1583年4月3日)に死去したとする説である 6 。これは多くの系図類や『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』などの二次資料で採用されており、長らく通説とされてきた 6

もう一つは、天正14年(1586年)に死去したとする説である 7 。この説は、近年の歴史研究において、史料の再検討を通じて提唱されたものであり、特に研究者の間では有力な説として議論の対象となっている 23

没年論争の歴史的意義

このわずか3年間の没年の違いは、那須氏の歴史、特に資胤から資晴への世代交代を評価する上で、極めて重要な意味を持つ。その鍵となるのが、天正13年(1585年)に勃発した「薄葉ヶ原の戦い」である。この戦いは、那須氏が長年の宿敵・宇都宮氏に決定的な勝利を収め、その後の勢力図に大きな影響を与えた重要な合戦であった 17

もし、資胤が通説通り天正11年(1583年)に没していたとすれば、この歴史的な大勝利は、完全に当主・資晴の将器とリーダーシップによる功績となる。しかし、もし天正14年(1586年)まで存命だったとすれば、話は大きく変わってくる。この重要な戦いの戦略決定や作戦指導に、隠居の身とはいえ、老練な戦略家である父・資胤が関与していた可能性が濃厚となるからである。これは、息子・資晴の将としての器量を評価する上でも、資胤の晩年における影響力を測る上でも、決定的な違いを生む。

いずれの説が正しいにせよ、資胤の死は、一つの時代の終わりを告げるものであった。それは、彼が内紛と外交の嵐の中で築き上げた那須家の権力基盤と外交路線を、息子の資晴が名実ともに引き継ぎ、那須氏の当主として独り立ちしたことを象徴する出来事であった。資胤の生涯は、那須氏が戦国乱世を生き抜くための「礎」を築く過程そのものであり、彼の死は、その歴史的役割の完了を意味していたのである。

終章:那須資胤の歴史的評価

那須資胤は、織田信長や豊臣秀吉のような天下人ではない。しかし、彼の生涯は、地方の戦国大名が直面した内憂外患の現実と、その中で一族の存続を賭けて知謀の限りを尽くした生き様を、鮮やかに映し出している。武将として、戦略家として、そして下剋上の体現者として、彼の歴史的評価を以下に総括する。

武将としての資胤

資胤は、決して武勇一辺倒の武将ではなかったが、その粘り強さと不屈の精神は特筆に値する。家督を巡る内戦において、彼は大関高増・大田原綱清といった家中の実力者に離反され、さらに常陸の佐竹氏という強大な外部勢力の介入を招いた。数的に圧倒的に不利な状況にありながら、彼は治部内山の戦いや大崖山の戦いなどで侵攻軍を幾度も撃退し、本拠地である烏山城を守り抜いた 7 。この粘り強い防戦がなければ、那須氏は佐竹氏の勢力下に組み込まれ、その独立性を失っていた可能性が高い。逆境においてこそ発揮される彼の武将としての真価は、高く評価されるべきである。

戦略家としての資胤

資胤の真骨頂は、武勇よりもむしろ、その卓越した外交手腕と政治力にある。彼が生きた時代の北関東は、後北条、佐竹、宇都宮、蘆名といった強豪がひしめき合う、まさに権力の真空地帯であった。その中で資胤は、過去の怨恨に囚われず、常に大局を見据えた現実主義的な外交を展開した。最大の敵であった佐竹氏と、後北条氏という共通の脅威を梃子(てこ)にして婚姻同盟を結んだ戦略は、その最たる例である 7 。敵を味方に変え、勢力の均衡を巧みに利用することで、強大な勢力に囲まれた那須家の存続を図った彼の戦略的思考は、戦国時代の外交官として一級のものであったと言える。

下剋上の体現者として

資胤の生涯は、戦国という時代のキーワードである「下剋上」を、様々な形で体現していた。彼の家督相続自体が、兄の横死という非常事態に乗じ、有力家臣団と結託して実現した、一種の下剋上であった 12 。そして当主となった後は、自らを擁立したはずの重臣・大関高増から、その地位を脅かされるという逆・下剋上の危機に直面する 11 。彼が繰り広げた高増との死闘は、主家の権威を確立しようとする当主と、自立性を維持しようとする有力家臣との、戦国期に普遍的に見られた権力闘争の縮図であった。最終的に、彼は武力と政治的妥協を織り交ぜてこの内紛を収拾し、那須宗家の権威を守り抜いた。

総括

那須資胤は、内憂外患の嵐が吹き荒れる中で、時には権謀術数を弄し、時には不屈の闘志で戦い、そして時には冷徹な現実主義で外交を展開することで、那須与一以来の名門の血脈を次代へと繋いだ、智勇兼備の武将であった。彼の人生は、華々しい成功物語ではないかもしれない。しかし、それは、自らの領地と一族を守るために、あらゆる手段を尽くして激動の時代を生き抜いた一人の地方領主の、苦悩と逞しさの記録である。那須資胤の生涯を深く知ることは、戦国という時代の複雑さと、その中で生きた人々のリアルな姿を理解する上で、不可欠な視座を与えてくれる。

付録:那須資胤 関連年表

那須資胤の生涯は、家中の内紛と周辺勢力との外交関係の変転が複雑に絡み合っている。以下の年表は、彼の動向と関連勢力の動きを時系列で整理し、各出来事の歴史的意義を明確にすることで、本文の理解を補強するものである。

年代(西暦)

那須資胤の動向

大関高増の動向

佐竹氏の動向

宇都宮氏・後北条氏等の動向

備考・歴史的意義

天文20年(1551)

兄・高資の横死を受け、家督を相続する 6

大田原資清と共に資胤を後見し、当主就任を強力に支援する 11

宇都宮氏の謀略により高資が死去する 12

資胤派による計画的な政変であった可能性が示唆される。

永禄3年(1560)

小田倉の戦いで苦戦し負傷。戦後、高増らを叱責する 7

資胤を支援して戦うが、戦後に叱責され、資胤との間に対立が生じる 7

那須氏を支援し、結城・蘆名連合軍と戦う 7

この叱責を機に、資胤と高増の対立が表面化する。

永禄3年以降

高増の暗殺を計画するが、失敗に終わる 7

資胤の暗殺計画を察知し、佐竹氏に内通。主家に反旗を翻す 7

高増を支援し、那須氏への軍事介入を開始する 7

那須家は当主派と反当主派に分裂し、内戦状態に突入する。

永禄11年(1568)

隠居を条件に高増と和睦。家督を子の資晴に譲る 7

剃髪して謝罪し、資胤と和睦。那須七騎筆頭の重臣に復帰する 9

約5年にわたる内戦が終結。資胤による二頭体制が開始される。

元亀3年(1572)

娘・正洞院と佐竹義宣の婚約を成立させ、佐竹氏と和睦する 7

資胤と和睦し、婚姻同盟を締結する 7

対後北条氏を念頭に、長年の宿敵を強力な同盟者へと変える戦略的転換。

天正6年(1578)

小川台の会盟に参加し、反北条連合に加わる 7

反北条連合の中心として会盟を主導する 7

宇都宮氏も連合に参加する 7

那須氏の外交方針が、明確に反北条へと定まる。

天正11年(1583)

2月11日、死去(通説) 6

天正13年(1585)

(没後)

子・清増と共に薄葉ヶ原で宇都宮軍と戦い、奮戦する 17

那須氏の同盟者として後援する。

薄葉ヶ原の戦いで那須氏に大敗北を喫する 18

資胤の没年が天正14年説の場合、この戦いに関与した可能性が残る。

天正14年(1586)

死去(異説) 7

引用文献

  1. 下野‧那須高資@信長之野望精華區 - 巴哈姆特 https://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=64&sn=1348
  2. 那須与一の扇の的伝説~屋島古戦場~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/yasima/yoiti.html
  3. 【三、那須余一伝説にまつわる話】 - ADEAC https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht032260
  4. 那須の動乱1 http://plaza.harmonix.ne.jp/~ionowie/nasu1.html
  5. 那須資晴(なす すけはる)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%82%A3%E9%A0%88%E8%B3%87%E6%99%B4-1098129
  6. 那須資胤(なす すけたね)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%82%A3%E9%A0%88%E8%B3%87%E8%83%A4-1098127
  7. 那須資胤 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E8%B3%87%E8%83%A4
  8. 小川台合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%8F%B0%E5%90%88%E6%88%A6
  9. 大関高増 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%96%A2%E9%AB%98%E5%A2%97
  10. 大関高増 おおぜきたかます - 坂東武士図鑑 https://www.bando-bushi.com/post/ohzeki-takamasu
  11. 【(5)那須・佐竹両氏の攻防(治部内山(じむうちやま)の戦い)】 - ADEAC https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht021010
  12. 那須高資- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E9%82%A3%E9%A0%88%E9%AB%98%E8%B3%87
  13. 那須高資 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E9%AB%98%E8%B3%87
  14. 武将の設定にご協力ください - Mount&Blade Warband MOD 関東動乱(仮) https://w.atwiki.jp/kantoudouran/pages/22.html
  15. 佐竹義宣の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38335/
  16. 佐竹義宣 (右京大夫) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E5%AE%A3_(%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%A4%AB)
  17. 那須の動乱21 http://plaza.harmonix.ne.jp/~ionowie/nasu21.html
  18. 【(11)那須、宇都宮と再度の戦い(薄葉原の合戦)】 - ADEAC https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht021070
  19. 薄葉ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%84%E8%91%89%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  20. 那須資胤- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E9%82%A3%E9%A0%88%E8%B3%87%E8%83%A4
  21. 歴史上の隠居の実例とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E4%B8%8A%E3%81%AE%E9%9A%A0%E5%B1%85%E3%81%AE%E5%AE%9F%E4%BE%8B
  22. 隠居とは - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=YKTycfZYtQs
  23. Untitled - researchmap https://researchmap.jp/h-toya/published_papers/42605346/attachment_file.pdf