本報告書は、戦国時代の下野国(現在の栃木県)にその名を刻んだ武将、那須高資の生涯を多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。高資の生涯は、父との対立による家督奪取、宿敵・宇都宮氏に対する歴史的勝利、そして家臣の裏切りによる非業の死という、まさに戦国武将の栄枯盛衰を体現した劇的なものであった。
彼の人生を単なる一地方領主の興亡史として捉えるのではなく、下野国という限定された地域における「内部権力闘争」と、佐竹氏や宇都宮氏といった「外部勢力との角逐」が複雑に交錯する縮図として分析する。特に、彼の死が、宇都宮氏による復讐という「表の物語」と、那須家中の権力再編を目論む勢力による「裏の物語」が共鳴し合うことで引き起こされた複合的な政変であったという視座から、その真相を深く掘り下げていく。
高資が生きた時代の那須氏は、分裂と統一の狭間で激しく揺れ動いていた。鎌倉幕府の御家人として栄え、室町時代には関東八屋形の一つに数えられるほどの権勢を誇った名門であったが 1 、15世紀前半、那須資之と資重兄弟の対立をきっかけに、本宗家の「上那須家」と庶流の「下那須家」に分裂し、内紛を繰り返す中で衰退の一途を辿っていた 1 。高資の父・那須政資の代に、上那須家の内紛に乗じる形でようやく悲願の統一を果たすも、その権力基盤は極めて脆弱であり、家中には依然として対立の火種が燻り続けていた 5 。この不安定な政治状況こそが、那須高資という風雲児の激しい生涯の舞台となったのである。
年代(西暦) |
那須高資の動向 |
関連勢力・人物の動向 |
生年不詳 |
那須政資の嫡男として誕生。母は岩城常隆の娘 7 。重臣・大関宗増に養育される 6 。 |
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天文8年 (1539)頃 |
父・政資と対立。大関宗増と共に挙兵し、烏山城を包囲する 6 。 |
父・政資は宇都宮氏との和睦を模索。佐竹氏、宇都宮氏が政資の援軍として動くも、高資の妨害により撤退 6 。 |
天文13年 (1544)頃 |
父・政資から家督を譲り受け、那須氏第19代当主となる 8 。 |
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天文15年 (1546) |
父・政資の菩提を弔うため、森田の浄光寺へ寄進を行う 10 。 |
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天文18年 (1549) |
喜連川五月女坂の戦い。 わずか300余騎で宇都宮尚綱率いる2,000余騎を破り、尚綱を討ち取る 11 。 |
宇都宮尚綱、戦死。宇都宮家は壬生綱房に宇都宮城を乗っ取られ、大混乱に陥る 11 。芳賀高定は尚綱の子・広綱を保護し、復讐を誓う 13 。 |
天文18-20年 |
宇都宮氏の混乱に乗じ、塩谷郡一帯まで版図を拡大する 8 。 |
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天文20年 (1551) |
千本城にて謀殺される。 1月22日、家臣の千本資俊に誘殺された 7 。 |
宇都宮家臣・芳賀高定が謀略を主導。那須家臣・大田原資清もこれに加担したとされる 13 。 |
天文20年 (1551)以降 |
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高資の死後、異母弟の那須資胤が大田原資清の後援で家督を継承 16 。資胤は兄の方針を転換し、宇都宮氏との融和路線へ進む 16 。 |
弘治元年 (1555) |
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高資の法号「天性慈舜」にちなみ、菩提寺が「天性寺」と改名される 18 。 |
コード スニペット
graph TD
subgraph 那須氏
M[那須政資<br>父/対立]
T[<b>那須高資</b><br>当主]
S[那須資胤<br>異母弟/後継者]
I(岩城常隆娘<br>母)
O(大田原資清娘<br>資胤の母)
M --> T
M --> S
I --> T
O --> S
end
subgraph 那須家臣団
Oz[大関宗増<br>養育者/共闘]
Ot[大田原資清<br>黒幕/資胤の外祖父]
Se[千本資俊<br>実行犯/裏切り]
Io[伊王野資宗<br>忠臣]
Oz -- 養育・共闘 --> T
Ot -- 謀殺に加担 --> T
Se -- 謀殺 --> T
Io -- 忠誠 --> T
Ot -- 外祖父 --> S
end
subgraph 外部勢力(宇都宮氏)
H[宇都宮尚綱<br>敵将]
Ha[芳賀高定<br>復讐者/謀略の設計者]
Hi[宇都宮広綱<br>尚綱の子]
H -- 敵対 --> T
Ha -- 復讐・謀略 --> T
H -- 父 --> Hi
Ha -- 擁立 --> Hi
end
T -- 討ち取る --> H
Ot -- 共謀 --> Ha
Ha -- 調略 --> Se
那須高資は、長年の分裂を乗り越え那須氏を再統一した那須政資の嫡男として生を受けた。母は陸奥の有力大名である岩城常隆の娘であり、その血統は申し分ないものであった 7 。しかし、彼の性格形成に決定的な影響を与えたのは、その出自よりもむしろ養育環境であった。高資は幼少期より、那須家中でも随一の武断派として知られた重臣・大関宗増のもとで育てられた 6 。この大関宗増という人物は、合戦による領土拡大こそが武門の誉れと考える、典型的な戦国の猛将であった。彼の薫陶を受けた高資が、父・政資とは対照的に、好戦的で猛々しい気性の若者へと成長したのは、ある意味で必然であった。
この父子の性格の違いは、やがて那須家の外交方針を巡る深刻な対立へと発展する。父・政資は、上那須・下那須の分裂以来、百年にわたって続いた内乱と、宿敵・宇都宮氏との度重なる抗争によって疲弊しきった領国の現状を憂慮していた。彼は、これ以上の争いは国力を消耗させるだけだと判断し、宇都宮氏との和睦による領内の安定化を模索し始める 6 。
しかし、この和平路線は、高資と大関宗増にとって到底受け入れられるものではなかった。彼らにとって、宇都宮氏は不倶戴天の敵であり、和睦は屈辱に他ならなかった。さらに大関宗増は、主家の勢力拡大に伴う自家の領地加増という野心を抱いており、和平の実現は自身の野望の頓挫を意味した。高資もまた、戦場での武功によって自らの名を上げ、那須家の威光を天下に示したいという強い欲求を持っていた。こうして、那須家の進むべき道を巡り、「政資派(和平派)」と「高資・大関派(武断派)」の対立は先鋭化し、家中を二分する深刻な政争へと発展していったのである。
外交方針を巡る父子の対立は、ついに武力衝突という最悪の事態を迎える。天文8年(1539年)頃、しびれを切らした那須高資は、養育者である大関宗増と共に兵を挙げ、父・政資が居城とする烏山城を電撃的に包囲した 6 。嫡男によるクーデターという異常事態に、政資は直ちに同盟関係にある常陸の佐竹氏、そして対立していたはずの宇都宮氏にまで援軍を要請する。
政資の要請に応じ、佐竹・宇都宮両軍は烏山城救援のために軍を発した。しかし、高資の軍事的能力は父の想像を遥かに超えていた。彼は、敵の援軍が来ることを完全に予期しており、巧みな戦術でこれを迎え撃つ。城を包囲する主力部隊は動かさず、小規模ながら機動力に富んだ別動隊を編成し、援軍の進路上でゲリラ的な奇襲攻撃を繰り返させたのである。この「囲点打援(囲点、援を打つ)」と呼ばれる戦術は、援軍の消耗を誘い、進軍を遅滞させる上で絶大な効果を発揮した 6 。長距離の行軍で疲弊した上に、予期せぬ奇襲に苦しめられた佐竹・宇都宮の援軍は、やがて戦意を喪失し、ついに烏山城を目前にしながら撤退を余儀なくされた。この一連の戦いは、高資が単なる猪武者ではなく、冷静な状況判断能力と優れた戦術眼を兼ね備えた指揮官であったことを如実に物語っている。
外部からの支援という最後の望みを絶たれた政資に、もはや抵抗する術は残されていなかった。彼は高資との和睦に応じ、その条件として家督を譲ることを承諾した。天文13年(1544年)頃、高資は父を半ば追放する形で、名実ともに那須氏第19代当主の座に就いた 8 。しかし、この一連の経緯は、父子の間に生涯癒えることのない亀裂を残しただけでなく、那須家の権力構造に深刻な歪みをもたらした。高資の権力基盤は、旧来の譜代家臣層からの幅広い支持ではなく、大関氏をはじめとする特定の武断派家臣に極度に依存する、極めて不安定なものであった。このいびつな権力構造こそが、彼の治世に常に付きまとい、やがてその命運を尽きさせる遠因となるのである。
家督を掌握した那須高資は、その矛先を積年の宿敵・宇都宮氏へと向けた。彼にとって、宇都宮氏を屈服させることこそが、自らの力を証明し、那須家の威光を高める最善の策であった。そして、その好機は意外な形で訪れる。
当時の宇都宮氏は、当主・宇都宮尚綱が「天文の内訌」と呼ばれる家中の内紛をようやく収拾したばかりであったが、その過程で重臣の壬生綱房が台頭し、一族の塩谷氏が那須方へ離反するなど、統制は未だ完全ではなかった 11 。高資は、この宇都宮氏の内部的な脆弱性を見逃さなかった。彼は、かつての内訌で尚綱に討たれた芳賀高経の子・高照を庇護下に置き、「芳賀氏の旧領回復を助ける」という大義名分を掲げて、宇都宮領への侵攻を開始したのである 11 。
これに対し、宇都宮尚綱は古河公方・足利晴氏からの正式な出陣命令を受け、2,000から2,500騎と号する大軍を率いて迎撃に出た 21 。対する那須軍の兵力は、わずか300余騎 11 。その兵力差は7倍以上であり、誰の目にも勝敗は明らかに見えた。
天文18年(1549年)9月17日、両軍は下野国喜連川の五月女坂(早乙女坂とも)で激突した。戦いの序盤は、予想通り兵力で圧倒的に勝る宇都宮軍が那須軍を押し込み、優勢に戦いを進めた 21 。しかし、これこそが高資の描いた策略であった。彼は、この五月女坂の地形を巧みに利用し、事前に両側の丘陵地帯に伏兵を潜ませていたのである。宇都宮軍が勢いに乗って深追いし、隊列が伸びきった瞬間、高資の号令一下、伏兵が一斉に蜂起した。側面から激しい攻撃を受けた宇都宮軍は瞬く間に大混乱に陥り、戦況は劇的に逆転した 21 。
不意を突かれた宇都宮軍の中からも、重臣の多功長朝や、勇猛で知られた横田五兄弟らが必死に踏みとどまり、那須軍の猛攻を食い止めようと奮戦した。しかし、一度崩れた軍の士気と統制を取り戻すことはできず、横田五兄弟をはじめとする多くの将兵がこの乱戦の中で討死を遂げた 21 。
軍の総崩れを何とか食い止めようと、総大将である宇都宮尚綱自らが馬を駆って前線へと進み出た。しかし、この決死の行動が彼の運命を決定づける。混乱する戦場の只中で、那須家臣・伊王野資宗の配下であった弓の名手、鮎ヶ瀬実光(通称・弥五郎)が放った一矢が、尚綱の胸を正確に射抜いたのである 11 。総大将のまさかの戦死により、宇都宮軍は完全に統制を失い、潰走した。こうして、戦国史に残る番狂わせの一つ、喜連川五月女坂の戦いは、那須高資率いる那須軍の奇跡的な大勝利に終わった。
五月女坂での歴史的勝利は、那須高資の名声を一躍高め、那須氏の勢力を飛躍的に拡大させた。敵の総大将・宇都宮尚綱を討ち取ったことで、宇都宮家は深刻な後継者問題と内紛に陥った。尚綱の嫡男・広綱はまだ幼く、この機に乗じて家臣の壬生綱房が宇都宮城を乗っ取り、実権を掌握するという下剋上が発生したのである 11 。
高資は、この宇都宮氏の内部崩壊という千載一遇の好機を逃さなかった。彼は壬生綱房と結び、宇都宮領の切り崩しにかかる。次々と宇都宮方の諸城を攻略し、那須氏の版図を南方の塩谷郡一帯にまで拡大することに成功した 8 。これは、分裂と内紛に明け暮れていた近年の那須氏にとって、まさに未曾有の快挙であった。高資は、その生涯において栄光の頂点を極めたのである。
しかし、その輝かしい軍事的成功の裏側で、彼の治世には暗い影が差し始めていた。軍記物である『那須記』などの記述によれば、高資は領土拡大という野心に取り憑かれるあまり、内政を顧みることがなかったとされる 8 。彼はさらなる軍事行動に備えるべく、領国の軍備を過剰に強化し、その負担を領民に重い軍役として課した。戦の勝利は一時的な高揚感をもたらしたものの、度重なる動員と増税は領民の生活を圧迫し、次第にその支持を失っていった。
この五月女坂の勝利は、高資にとって諸刃の剣であった。この勝利は彼に最大の栄光をもたらしたが、同時に宇都宮氏の家臣団、特に主君の遺児・広綱を奉じて主家再興を誓う芳賀高定から、不倶戴天の敵として消えることのない怨恨を抱かれる結果となった。そして、勝利に驕った高資が内政を疎かにし、家臣や領民の不満を高めたことは、外部の敵(宇都宮氏)と内部の不満分子(有力家臣)が、彼の暗殺という一点で利害を一致させる危険な土壌を、彼自身の政策によって作り上げていくことに繋がったのである。
那須高資の栄光は、長くは続かなかった。五月女坂で主君・宇都宮尚綱を討たれた宇都宮家臣団の復讐の炎は、静かに、しかし確実に燃え上がっていた。その中心にいたのが、智謀の将として知られる重臣・芳賀高定である。彼は、尚綱の戦死後、その幼い遺児・伊勢寿丸(後の宇都宮広綱)を保護し、壬生綱房に乗っ取られた宇都宮城から脱出。自らの居城である真岡城に広綱を匿い、主家再興と主君の仇討ちの機会を虎視眈々と窺っていた 12 。
芳賀高定は、五月女坂の戦いで勝利し勢いに乗る高資を、正面からの力攻めで討つのは困難であると冷静に判断した。堅城として名高い烏山城に拠る那須軍を破るには、多大な犠牲が予想された。そこで彼は、武力ではなく謀略によって、那須氏を内部から崩壊させるという、より確実で恐ろしい計画を立てる。その標的として白羽の矢が立ったのが、那須七騎の一つに数えられる有力家臣、千本城主・千本資俊であった 13 。高定は、資俊を寝返らせ、主君殺害の実行犯に仕立て上げるという深謀を巡らせ始めたのである。
芳賀高定の謀略が外部からの脅威だとすれば、那須家内部にも高資の存在を快く思わない、より危険な勢力が存在した。その筆頭が、那須七騎の中でも屈指の実力者であり、高資の異母弟・那須資胤の外祖父にあたる大田原城主・大田原資清であった 15 。
大田原資清は、那須家中に絶大な影響力を持つ野心家であった。彼は自らの息子たちを、那須七騎の有力な家である大関氏や福原氏に養子として送り込むなど、巧みな政略によって一族の勢力を拡大していた 15 。そんな彼にとって、最終目標は、自らの血を引く外孫、すなわち那須資胤を那須氏本家の当主に据え、那須家そのものを事実上、傀儡として掌握することであった。この野望を実現する上で、現当主である那須高資の存在は、最大の障害に他ならなかった。
複数の史料において、大田原資清が「高資と対立」し、宇都宮家臣・芳賀高定が仕掛けた「調略に加担した」ことが明記されている 15 。これは、高資暗殺という計画が、芳賀高定の「主君への忠義と復讐心」と、大田原資清の「一族の勢力拡大という野心」という、全く異なる二つの動機が、利害の一致によって結びついた結果であったことを強く示唆している。芳賀高定が計画の「設計者」であるならば、大田原資清は那須家内部の事情に通じ、計画の成功を内側から担保する「共犯者」であった。この両者の共謀なくして、高資の暗殺は成し得なかった可能性が極めて高い。
外部の復讐者と内部の野心家、二つの謀略が交錯する中、その実行犯として選ばれたのが千本城主・千本資俊であった。芳賀高定は資俊に対し、高資殺害の暁には破格の恩賞を約束するなどして、調略を重ねた 14 。資俊が高資個人にどのような不満を抱いていたか、具体的な記録は残されていない。しかし、彼が主君を裏切るという大罪に手を染めたという事実そのものが、高資の治世が家臣団の心を掌握しきれていなかったことの何よりの証左である 14 。主君を武力で追放して家督を奪い、過酷な軍役を強いる高資の姿は、資俊のような有力家臣の目にも、もはや絶対的な忠誠を捧げるに値しないと映っていたのかもしれない。さらに、那須家中で絶大な権勢を誇る大田原資清が後ろ盾となっていることは、資俊にとって計画実行への大きな後押しとなったであろう。
天文20年(1551年)1月22日、全ての準備は整った。千本資俊は、何らかの口実を設けて主君・高資を自らの居城である千本城へと誘い出した。主君殺害という恐るべき計画の舞台は、こうして整えられた。そして、城内で油断していた高資は、資俊の手にかかり、非業の最期を遂げた 7 。
皮肉なことに、主君を殺害して那須家の歴史を大きく動かした千本資俊の末路もまた、謀略による悲劇であった。彼は高資の死後、一時的に権勢を振るうが、やがて那須家中で大関氏と対立。最終的に、高資の甥にあたる那須資晴の代に、かつて自らが主君を手にかけたのと同じように、謀略によって誘い出され、殺害されるという因果応報の結末を迎えることになる 14 。那須高資の死は、戦国時代の権力闘争の非情さと、裏切りが新たな裏切りを生む謀略の連鎖を象徴する事件だったのである。
那須高資の突然の死は、那須家の政治情勢を根底から覆した。謀殺計画の黒幕の一人であった大田原資清の思惑通り、高資の死後、家督は資清の外孫である異母弟・那須資胤が継承した 15 。資清は、この家督継承を強力に後援することで、那須家における自らの影響力を盤石のものとした。
当主となった資胤は、兄・高資が推し進めてきた政策を180度転換させる。彼は、高資が生涯を懸けて敵対した宇都宮氏に対し、融和的な姿勢を示し、和睦路線へと舵を切ったのである 16 。この劇的な外交方針の転換は、資胤の家督継承が、単なる偶然や自然な流れによるものではなく、宇都宮方の芳賀高定と、那須家中の反高資派である大田原資清との間に結ばれた密約に基づいていたことを何よりも雄弁に物語っている。高資が五月女坂の勝利で掴み取った対宇都宮氏への強硬路線という政治的遺産は、彼の死と共に、あまりにもあっけなく水泡に帰してしまった。那須家は、高資の死によって宇都宮氏との無用な争いを避けることができたが、それは同時に、当主の権威が有力家臣の意向によって容易に覆されるという、構造的な脆弱性を改めて露呈する結果ともなった。
那須高資という武将は、まさしく「勇将にして愚将」という言葉が相応しい人物であった。喜連川五月女坂の戦いにおいて、圧倒的な兵力差を覆して敵の総大将を討ち取ったその手腕は、戦術家として類稀な才能を持っていたことを証明している 8 。彼は戦場の駆け引きに長け、大胆な奇策を成功させる度胸も兼ね備えていた。
しかしその一方で、政治家、あるいは領国の経営者としては極めて未熟であったと言わざるを得ない。彼は軍事的成功に驕り、領民の生活を顧みない過酷な政策を推し進めた結果、その支持を失った 8 。また、父を追放して家督を奪い、有力家臣の裏切りによって命を落とすという結末は、彼が家臣団の心を掴み、組織をまとめ上げるという、為政者にとって最も重要な能力を欠いていたことを示している。
父を追放して権力を握り、敵将を討ち取って栄光の頂点に立ちながら、最後は信頼すべき家臣の裏切りによって謀殺されるという彼の生涯は、戦国時代という時代の激しさと非情さを凝縮したかのようである。その劇的な人生は、単独の軍事力だけでは決して生き残ることができない、戦国社会の厳しさと複雑さを示す好例として、後世に多くの教訓を残している。彼は、自らの武勇によって那須家の歴史に一瞬の輝きをもたらしたが、その政治的未熟さゆえに、その輝きを持続させることはできなかった悲運の当主であった。
那須高資の短いながらも激しい生涯は、彼が駆け抜けた下野国の各地に、今なおその痕跡を留めている。
高資が父・政資から実力で奪い取り、その権力の象徴としたのが烏山城である 6 。八高山の地形を巧みに利用して築かれたこの城は、戦国期屈指の規模を誇る堅固な山城であり、宇都宮氏や佐竹氏といった周辺勢力の侵攻を幾度となく退け、那須氏の独立を支える要であった 2 。高資もまた、この城を拠点に勢力を拡大した。現在、城跡は国の史跡に指定され、良好な状態で残る土塁や堀切が、往時の威容を偲ばせている 33 。
那須烏山市に現存する曹洞宗の寺院、天性寺は、高資と深い関わりを持つ。この寺は、高資の死後、弘治元年(1555年)に彼の法号「天性慈舜徳興院(てんしょうじしゅんとくこういん)」にちなんで「天性寺」と改名されたと伝わる 7 。境内には、高資を含む那須家六代(資持・資実・資房・政資・高資・資胤)の墓とされる宝篋印塔が並んでおり、「那須家六代の墓」として市史跡に指定されている 19 。ただし、これらの墓塔は後年に移設・再構築されたものであり、風化も進んでいるため、どの墓が具体的に誰のものであるかは特定できていない 36 。それでもなお、この場所は高資の魂が眠る地として、その歴史を静かに伝えている。
現在の栃木県さくら市に位置する早乙女坂は、那須高資の生涯で最も輝かしい勝利の舞台となった場所である。天文18年(1549年)、高資はここで宇都宮尚綱の大軍を破り、戦国史にその名を刻んだ 11 。かつての激戦地は、現在「早乙女坂古戦場」としてその名残を留め、訪れる者に歴史の転換点となった一日の出来事を語りかけている 23 。この坂の名は、この戦いで尚綱を射抜いた鮎ヶ瀬弥五郎にちなみ、後に「弥五郎坂」とも呼ばれるようになった 25 。