日本の歴史が中世から近世へと大きく転換する戦国時代の終焉期、九州北東部の豊前国(現在の大分県北部及び福岡県東部)は、地政学的な要衝として絶えず激動の渦中にあった。本報告書は、その豊前国下毛郡(現在の大分県中津市耶馬溪地域)を拠点とした一人の国人領主、野仲鎮兼(のなか しげかね)の生涯を、現存する史料と研究成果に基づき、多角的に解明することを目的とする 1 。
鎮兼が生きた16世紀後半、豊前国は西国の雄として君臨した大内氏が天文二十年(1551年)の大寧寺の変により事実上崩壊して以降、深刻な力の空白地帯と化していた。この空白を埋めるべく、南からはキリシタン大名として知られる豊後の大友氏が、西からは中国地方の覇者・毛利氏が触手を伸ばし、両者は豊前の覇権を巡って熾烈な争奪戦を繰り広げた。さらに時代が下ると、中央で天下統一事業を推し進める織田・豊臣政権の勢力がこの地に及び、情勢は一層複雑化する。野仲鎮兼の生涯は、まさにこの巨大勢力の角逐の狭間で、自らの土地と一族の存続を賭けて戦い抜いた地方領主の、典型的かつ悲劇的な軌跡を映し出している。
彼の経歴を追うと、主家を大内氏から大友氏へ、そして大友氏に反旗を翻し、再び従属した後、最終的には豊臣秀吉の配下となった黒田氏に最後まで抵抗して滅亡するという、目まぐるしい変転が見て取れる 2 。この一見すると節操のない行動の連続は、しかし、鎮兼個人の資質の問題としてのみ捉えるべきではない。むしろ、それは巨大勢力の狭間で自領の存続という至上命題を追求せざるを得なかった当時の国人領主が、共通して直面した構造的なジレンマの現れであった。彼らにとっての最優先事項は、中央政権の覇権争いに与することではなく、鎌倉時代以来、父祖から受け継いできた所領を安堵され、地域における自立性を維持することにあった。鎮兼の行動原理をこの視点から読み解くとき、彼の生涯は単なる敗者の物語ではなく、時代の奔流に抗った地方の論理が織りなす、壮絶な抵抗の物語として立ち現れてくるのである。
表1:野仲鎮兼 関連年表
年代(西暦) |
野仲鎮兼および野仲氏の動向 |
国内外および豊前国の主要な出来事 |
生年不詳 |
野仲重胤の子として生まれる 1 。 |
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弘治2年(1556) |
大友義鎮(宗麟)の豊前侵攻に対し、長岩城に籠城して抵抗するが降伏 2 。 |
大内義長、毛利元就に攻められ自害。大内氏が滅亡。 |
天正6年(1578) |
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大友氏、日向国にて島津氏に大敗(耳川の戦い) 2 。 |
天正7年(1579) |
大友氏の衰退に乗じ、再び離反。下毛郡の大半を制圧するも、大友方の反撃に敗北。嫡男・重貞を人質に出し、再度降伏する 2 。 |
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天正15年(1587) |
豊臣秀吉の九州平定後、豊前に入国した黒田孝高(官兵衛)に反発。城井鎮房らと共に豊前国人一揆の中核として蜂起する 2 。 |
豊臣秀吉が九州を平定。黒田孝高・長政親子が豊前6郡の領主となる。 |
天正16年(1588) |
4月5日より黒田長政軍の総攻撃を受ける。長岩城にて三日三晩の激戦の末、4月8日に落城。鎮兼は自害し、野仲氏は滅亡する 1 。 |
城井鎮房、中津城にて黒田長政に謀殺される 6 。 |
野仲氏の歴史は、鎌倉幕府の成立期にまで遡る。その祖は、源頼朝に仕え、豊前国の地頭職に任じられた下野国(現在の栃木県)の名門、宇都宮信房の弟・重房である 2 。信房は豊前仲津郡城井郷(現在の福岡県京都郡みやこ町)を本拠とし、城井氏、すなわち豊前宇都宮氏の祖となった。その弟である重房は、兄から豊前国下毛郡野仲郷を分与されたことを機に、その地名を姓とし、「野仲」を名乗った 2 。これが、豊前の地に深く根を張ることになる国人領主・野仲一族の始まりである。
初代・重房は建久九年(1198年)、下毛郡の山深い要害の地、津民荘に長岩城を築城した 11 。以後、この長岩城は野仲氏歴代当主の居城として、約400年の長きにわたり一族の盛衰を見守り続けることになる。野仲氏は長岩城を拠点として着実に勢力を拡大し、下毛郡における政治・軍事の中心的存在として栄えた 10 。その過程で、内尾氏、友枝氏、三尾母氏、犬丸氏といった庶家を分出させ、一族による支配体制を盤石なものとしていった 8 。彼らは鎌倉以来の地頭として、この土地に生きる人々と深く結びつき、単なる支配者ではなく、地域の秩序を維持する正統な統治者として君臨していたのである 14 。
室町時代に入り、周防国(現在の山口県)を本拠とする大内氏が豊前国の守護職を獲得すると、北九州の政治情勢は新たな局面を迎える。野仲氏もまた、この西国の巨大勢力である大内氏に臣従し、その支配体制の中に組み込まれていった。具体的には、大内氏から下毛郡の「郡代」に任じられ、現地の代官として郡内の統治を委ねられる立場となったのである 8 。
この大内氏の支配下にあった時代は、野仲氏にとって比較的安定した時期であったと考えられる。強力な守護大内氏という後ろ盾を得ることで、彼らは郡代として地域の支配を確固たるものとし、勢力を振るうことができた。しかし、この安定は、主家である大内氏の盤石な支配力の上に成り立つ、いわば仮初めのものに過ぎなかった。天文二十年(1551年)、大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれる大寧寺の変を契機として大内氏が急速に瓦解し始めると、豊前国におけるパワーバランスは根底から覆される。これまで郡代という「中間管理職」的な立場で安定を享受してきた野仲氏は、突如として自らの実力のみで領地を守り、巨大勢力の侵攻に直接対峙しなければならない「独立プレイヤー」としての過酷な道を歩むことを余儀なくされた。野仲鎮兼の時代に始まる大友氏との絶え間ない抗争は、この地政学的な激変が直接的な引き金となって勃発したのである。
大内氏の没落が作り出した豊前の力の空白に、最も早く、そして強力に介入したのが、隣国豊後の戦国大名・大友義鎮(後の宗麟)であった。弘治二年(1556年)、義鎮は、大内氏と毛利氏の抗争が激化する好機を捉え、豊前への大々的な侵攻を開始した 2 。この時、野仲鎮兼は、本家筋にあたる城井氏をはじめとする豊前宇都宮一族の多くと共に、この新たな侵略者に対して敢然と反旗を翻した。鎮兼は居城・長岩城に立て籠もり、大友軍に抵抗したが、大軍の前に衆寡敵せず、最終的には降伏を余儀なくされた 2 。この時、大友氏からは旧領を安堵されたものの、野仲氏は事実上、大友氏の支配下に組み込まれることとなった。
一度は大友氏に膝を屈した鎮兼であったが、服従は決して心からのものではなかった。彼が再び立ち上がる好機は、約20年の雌伏の時を経て訪れる。天正六年(1578年)、大友宗麟はキリスト教王国の建設という野望を胸に日向国へ遠征するも、耳川の戦いで薩摩の島津氏に歴史的な大敗を喫した 2 。この敗戦により、大友氏の軍事力は深刻な打撃を受け、その権威は九州一円で大きく揺らぐこととなる。
鎮兼はこの千載一遇の好機を見逃さなかった。大友氏の混乱に乗じ、天正七年(1579年)に再び離反の兵を挙げたのである 2 。その動きは迅速かつ果敢であり、成恒鎮家の籠る田島崎城など近隣の城を次々と攻略し、一時は下毛郡の大半をその手中に収めるほどの勢いを見せた 2 。
しかし、国人領主の抵抗は、戦国大名の組織力と持久力の前に再び壁に突き当たることになる。鎮兼の快進撃に対し、大友氏は大畑城主・賀来統直らを救援に派遣。激しい戦いの末、鎮兼は敗北を喫した 2 。万策尽きた鎮兼は、自らの嫡男である重貞を人質として差し出すという、最も屈辱的な形で降伏を受け入れざるを得なかった 2 。こうして、二度目の反乱もまた失敗に終わり、鎮兼は再び大友氏への臣従を誓うこととなった。
鎮兼の二度にわたる反乱は、いずれも無謀なものではなく、極めて計算された政治的・軍事的行動であった。一度目は大友氏が毛利氏との抗争に、二度目は島津氏との戦後処理に忙殺され、豊前に十分な兵力を割けないであろうタイミングを的確に見計らって蜂起している。これは、彼が単なる武辺者ではなく、大局的な情勢を冷静に分析できる優れた状況判断能力を持った領主であったことを示唆している。しかし、その計算された反乱ですら、最終的には鎮圧されてしまう。この事実は、在地領主である国人が動員しうる兵力や経済基盤が、戦国大名という巨大な軍事・経済システムの前では、本質的に限界があったことを物語っている。短期的な成功は収められても、大名側が体勢を立て直し、本腰を入れて反撃に転じれば、その力関係は容易に覆されてしまう。この国人という存在が抱える構造的な脆弱性こそが、後に黒田氏というさらに強大な権力と対峙することになる鎮兼の、最後の悲劇への伏線となっていたのである。
天正十五年(1587年)、羽柴(豊臣)秀吉による九州平定が完了すると、日本の歴史は中央集権化へと大きく舵を切る。秀吉は戦後処理として九州の国分(くにわけ)を行い、豊前国のうち六郡、約12万石が黒田孝高(官兵衛)・長政親子に与えられた 5 。播磨国出身の黒田氏は、秀吉の側近として厚い信頼を得ていたが、豊前の人々にとっては、突如として現れた新参の支配者に他ならなかった。これにより、鎌倉以来数百年にわたり自らの土地を治めてきた野仲氏ら豊前の国人たちは、その歴史上、最も強大かつ異質な外部権力と直接向き合うという未曾有の事態に直面することになる。
黒田氏による新たな支配体制の構築は、旧来の秩序と慣習に根差してきた在地領主たちとの間に、深刻な軋轢を生み出した 5 。黒田氏は秀吉の代理人として、検地や城の破却(城割)といった中央集権的な政策を強行しようとしたが、これは国人たちの既得権益と自立性を根本から脅かすものであった。不満と反発が渦巻く中、同年10月、野仲氏の本家筋であり、豊前宇都宮氏の惣領家であった城井谷の城井鎮房(宇都宮鎮房)が、黒田氏への反乱の狼煙を上げた 5 。これをきっかけに、豊前各地の国人衆が一斉に蜂起し、「豊前国人一揆」と呼ばれる大規模な反乱へと発展したのである。
野仲鎮兼は、城井氏の親族という立場から、この一揆に中心的な役割で参加した。彼は居城・長岩城に立て籠もり、黒田氏に対して徹底抗戦の構えを見せる 5 。この反乱は豊臣政権にとっても重大事であり、秀吉自身が小早川隆景に宛てた天正十五年十月二十二日付の書状の中で、「野仲・城井両人の奴原(やつばら)申し合せ…」と、鎮兼を城井鎮房と並べて名指しで言及している 17 。この一事からも、鎮兼が一揆の首謀者の一人と見なされ、その動向が中央にまで警戒されていたことが窺える。
一揆の鎮圧にあたった黒田官兵衛は、単なる武力制圧に頼るだけではなかった。彼は生涯を通じて得意とした「調略」、すなわち交渉や策略によって敵の内部を切り崩す戦術を駆使した 18 。官兵衛は一揆に参加した国人衆に対し、ある者には所領安堵を約束して懐柔し、ある者には圧倒的な軍事力で威圧するなど、硬軟織り交ぜた対応で巧みに分断を図った。その結果、一揆の足並みは次第に乱れ、参加した国人たちは次々と制圧されていき、最後まで抵抗を続ける野仲・城井らは次第に孤立を深めていった 5 。
この豊前国人一揆は、単に領地という経済的基盤を巡る「既得権益の防衛」という言葉だけでは、その本質を捉えきれない。野仲氏や城井氏のような鎌倉以来の名門にとって、土地とは単なる収入源ではなく、先祖代々受け継いできた誇りそのものであり、一族の歴史とアイデンティティが刻み込まれた神聖な場所であった。新参の領主である黒田氏によってその土地を取り上げられ、他の場所への移封を命じられることは、彼らにとって一族の存在そのものの否定に等しい屈辱であった 20 。特に、黒田氏が和睦を装って城井鎮房を中津城に招き、酒宴の席で謀殺するという非情な手段に打って出たことは 6 、この対立が単なる領地争いではなく、中世以来の伝統的な地域秩序と、豊臣政権がもたらした新しい中央集権体制との、価値観を巡る非妥協的な闘争であったことを物語っている。野仲鎮兼が長岩城で繰り広げた最後の戦いは、この滅びゆく者の誇りを賭けた、絶望的な抵抗だったのである。
野仲鎮兼と一族の最後の舞台となった長岩城は、戦国末期の城郭の中でも極めて特異な構造を持つ山城であった。大分県と福岡県の県境に位置する扇山(標高530メートル)を中心に、周囲の険しい地形を最大限に活用して築かれており、自然の断崖絶壁そのものが最大の防御施設となっていた 22 。
しかし、長岩城を「奇城」たらしめているのは、その人工的な防御施設の異様さにある。城内には総延長が700メートルにも及ぶ石塁が、まるで山の斜面に張り付くように構築されている 13 。中でも特筆すべきは、全国的にも類例を見ない「銃眼のある石積櫓」の存在である 11 。これは楕円形の石積みの櫓で、内部から鉄砲で射撃するための覗き穴が設けられており、極めて実践的な防御思想に基づいて設計されている。さらに、斜面を縦に登るように築かれた「登り石垣」も確認されており、これは敵兵の横移動を妨げ、城の側面からの侵入を阻止するためのものであったと考えられる 9 。
表2:長岩城の防御施設と戦術的意義
防御施設 |
構造的特徴 |
想定される戦術的機能 |
一般的な山城との比較 |
登り石垣 |
山の麓から山頂の曲輪へ向かい、斜面を縦に登るように築かれた石垣 9 。竪堀と並行して構築されることが多い。 |
敵兵の横移動を物理的に阻止し、防御ラインを麓の拠点まで拡張する。城兵の安全な上下移動路を確保する。 |
文禄・慶長の役の倭城で多用されたが、それ以前の国内城郭では極めて珍しい。竪堀の発展形とも考えられる 26 。 |
石積櫓(楕円型砲座) |
安山岩を積み上げた独立した櫓状の石積み。三方向に銃眼(鉄砲狭間)とみられる開口部を持つ 13 。 |
麓から攻め上る敵に対し、鉄砲による十字砲火を浴びせるための射撃拠点。あるいは、敵の動きを探る監視所としての機能。 |
木製の櫓が一般的な中、石造りの独立した砲座は全国的に見ても極めて稀な遺構。火器の運用を強く意識した先進的な構造。 |
石塁と竪堀の複合 |
尾根筋や斜面に、石塁と深く掘られた竪堀(斜面を垂直に下る堀)が幾重にも組み合わされている 9 。 |
敵の突進力を削ぎ、進軍ルートを限定させる。石塁の上から、竪堀で動きを封じられた敵兵に攻撃を加える。 |
土塁と堀切が主体の一般的な中世山城に比べ、石を多用した防御ラインは破却が困難で、より強固な防御力を発揮する。 |
三段構えの城戸 |
谷川沿いに「一之城戸」「二之城戸」「三之城戸」という三段階の城門(虎口)が設けられている 13 。 |
敵の侵入を段階的に遅滞させ、各個撃破を狙う。縦深防御の思想を体現している。 |
複数の城戸を設けることはあるが、谷筋に沿ってこれほど明確な三段構えを形成する例は多くない。 |
これらの防御施設の中でも、特に「登り石垣」の存在は、城郭研究において重要な論点を提供する。この種の石垣は、従来、天正二十年(1592年)に始まる文禄・慶長の役で、豊臣秀吉軍が朝鮮半島に築いた「倭城」において本格的に用いられたのが画期とされてきた 26 。しかし、長岩城の落城はそれより4年も早い天正十六年(1588年)である。この事実は、長岩城の石垣が倭城の技術とは別に、豊前の地で独自の発展を遂げた可能性を示唆している。
この謎を解く鍵として、大分県立歴史博物館の小柳和宏氏が提唱する説は極めて示唆に富む 5 。それは、これらの特異な石垣群が、豊前国人一揆の末期、追い詰められた野仲氏のもとへ逃げ込んできた敗残兵やその家族、非戦闘員までもが動員され、専門技術者不在のまま、「負ければ死」という極限状況下で、なりふり構わず必死に築いたものではないか、というものである。そうだとすれば、長岩城の武骨で規格外れでありながらも膨大な量の石垣群は、単なる城郭技術の遺構ではない。それは、滅亡に瀕した人々の恐怖と、最後の最後まで抵抗しようとした不屈の意志が刻み込まれた、他に類を見ない「歴史の証言者」と言えるだろう。
天正十六年(1588年)四月五日、ついに黒田長政を総大将とし、猛将・後藤又兵衛を先陣とする黒田軍の総攻撃が開始された 2 。野仲鎮兼が率いる籠城軍は、一族郎党に加え、各地から集まった与力雑兵を合わせて1500余名に及んだと伝えられる 12 。彼らは天険の要害と急造の石垣を頼りに、三日三晩にわたって勇戦奮闘し、黒田軍を大いに苦しめた 2 。しかし、圧倒的な兵力差と、智将・官兵衛の周到な戦略の前には、長く持ちこたえることはできなかった。
激戦の末、四月八日、ついに長岩城は落城する 1 。その直接的な引き金となったのは、重臣であった百富河内守兼家(または兼貞)の内応であったと伝えられている 2 。兼家は黒田方に寝返り、城内に兵を引き入れたとされる。もはやこれまでと覚悟を決めた野仲鎮兼は、城内で自刃して果てた 2 。城から落ち延びようとした嫡男の重貞も、裏切った百富氏の手によって討ち取られ、次男は行方知れずとなった 2 。こうして、鎌倉時代から約400年にわたって豊前国下毛郡に君臨した国人領主・野仲一族は、歴史の舞台からその姿を消したのである。
歴史はしばしば勝者によって記録され、敗者の物語は時の流れの中に埋もれていく。黒田氏の公式な記録から見れば、野仲鎮兼は天下統一という新たな秩序に逆らった反逆者に過ぎない。しかし、彼の記憶は、公式の史書とは全く異なる形で、その旧領の地に今なお生き続けている。
野仲氏が滅亡した後も、その本拠地であった中津市耶馬溪町大野地区では、毎年12月の第一土曜の夜に「やんさ祭り」という勇壮な祭りが、400年以上にわたって一度も途絶えることなく続けられている 1 。この祭りの起源は、在りし日の野仲氏の33人の若侍が、大野八幡神社に餅をついて神前に供えた故事に由来すると伝えられる 1 。祭りのクライマックスでは、締め込み姿の裸の若者たちが「やんさ、やんさ」という勇ましい掛け声と共に餅をつき、つき終わった臼を巡って、臼を守る側と倒そうとする側とで激しい攻防戦が繰り広げられる 2 。
支配者が滅亡した後に、その支配者を偲ぶ祭りがこれほど長く、そして熱烈に継承される例は極めて稀である。この事実は、野仲氏の統治が圧政ではなく、領民から深く慕われ、敬愛されるものであったことを何よりも雄弁に物語っている。勝者である黒田氏が記した歴史とは別に、敗者である野仲氏に対する地元民の共感と誇りが、「やんさ祭り」という祭礼の形に結晶化し、世代を超えて伝承されてきたのである。この祭りは単なる伝統行事ではない。それは、地域のアイデンティティと固く結びついた、民衆の心の中に生き続ける「もう一つの歴史」であり、敗者・野仲鎮兼とその一族の名誉を現代に至るまで復権させ続けている、きわめて貴重な無形の文化遺産と言えよう。
鎮兼が最後の抵抗を試みた長岩城跡は、現在、大分県の史跡に指定され、地元保存会の尽力によって登山道などが整備されている 11 。険しい山中に今も残る長大な石塁や、異様な姿を晒す石積櫓は、訪れる者に豊前国人一揆の激しさと、それに命を賭した人々の悲劇を静かに、しかし力強く物語りかけている。近年では、中津市歴史博物館などでその特異な城郭構造に関する研究や展示も行われ、歴史的価値の再評価が進んでいる 33 。
野仲鎮兼の生涯は、鎌倉時代以来の伝統を持つ地方領主が、戦国末期の天下統一という抗いがたい巨大な歴史のうねりの中で、自らの土地と一族の誇りを守るために最後まで戦い、そして散っていった悲劇の物語である。彼は、中央集権化の過程で失われていった地方の多様性と自立性の、一つの象徴であったのかもしれない。
彼の名は、全国的な知名度を持つ英雄たちの影に隠れ、歴史の表舞台で語られることは少ない。しかし、その記憶は、勝者が残した公式の史書の中にだけ存在するのではない。故郷の険しい山城を覆う苔むした石垣と、厳寒の夜空に響き渡る「やんさ」の掛け声の中に、400年以上の時を超えて、確かに生き続けているのである。