本報告書は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて、激動の時代を駆け抜けた一人の武将、鈴木重朝(すずき しげとも)の生涯を、現存する史料や研究成果に基づき、多角的に解明することを目的とする。彼の名は、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城攻防において、徳川家康が最も信頼した忠臣・鳥居元忠を討ち取ったことで、戦国史に深く刻まれている 1 。しかし、その輝かしい戦功とは裏腹に、彼の出自や前半生は多くの謎に包まれている。
鈴木重朝をめぐる歴史的評価と最大の論点は、戦国時代最強の鉄砲傭兵集団として名を馳せた紀伊国・雑賀衆(さいかしゅう)の伝説的指導者、「雑賀孫市(さいか まごいち)」こと鈴木重秀(すずき しげひで)との関係である 1 。重朝は重秀の子なのか、あるいは同一人物なのか、はたまた近親者なのか。この問いは、彼の人物像を理解する上で避けては通れない核心的なテーマであり、本報告書においても深く掘り下げていく。
彼の生涯は、雑賀衆という中世的な独立武装集団の一員として始まり、豊臣政権下で鉄砲頭という専門技術官僚として頭角を現し、関ヶ原の戦いでは西軍の将として徳川方と干戈を交えた。敗戦後は浪人の身となりながらも、その類稀なる専門技術を武器に再起を果たし、最終的には敵方であった徳川家の、しかも御三家の一つである水戸藩の重臣として家名を確立させるという、劇的な変転を辿る 1 。その軌跡は、一個人の武勇伝に留まらず、中世から近世へと移行する日本社会の構造的変化そのものを体現している。本報告書では、彼の出自の謎から、豊臣政権下での役割、関ヶ原での戦功、そして徳川の世における再興という生涯の全貌を、史料を丹念に読み解きながら明らかにしていく。
年代(西暦) |
主な出来事 |
関連人物・事項 |
生年不詳 |
鈴木重朝、誕生。通称は孫三郎 1 。 |
雑賀党鈴木氏、鈴木重秀 |
天正13年(1585) |
豊臣秀吉による紀州征伐。雑賀衆は事実上解体される 4 。 |
豊臣秀吉、太田城水攻め |
文禄元年(1592)以降 |
豊臣秀吉に仕え、文禄の役(朝鮮出兵)で肥前名護屋城に在陣 1 。 |
豊臣秀吉 |
文禄4年(1595) |
秀吉の草津湯治に際し、美濃土岐宿の警備を担当 1 。 |
豊臣秀吉 |
慶長3年(1598) |
豊臣秀吉、死去。重朝は子・秀頼に仕える鉄砲頭となる 1 。 |
豊臣秀頼 |
慶長5年(1600) |
関ヶ原の戦い |
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7月18日~8月1日 |
西軍に属し、伏見城の戦いに参加。城将・鳥居元忠を討ち取る 1 。 |
石田三成、鳥居元忠 |
8月5日 |
伏見城攻略の功により、西軍首脳から1000石の知行を与えられる 7 。 |
毛利輝元、石田三成 |
9月15日 |
関ヶ原の本戦で西軍が敗北。重朝は浪人となる 1 。 |
徳川家康 |
慶長5年以降 |
伊達政宗のもとに寄食 1 。 |
伊達政宗 |
慶長11年(1606) |
伊達政宗の仲介により徳川家康から赦免され、直臣として常陸国に3,000石を与えられる 1 。 |
徳川家康、伊達政宗 |
慶長14年(1609) |
徳川頼房が水戸藩主となり、その附属家臣となる 1 。 |
徳川頼房 |
元和年中(1615-24) |
鈴木重朝、死去。没年、墓所ともに不詳 1 。 |
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- |
子の鈴木重次が家督を相続。後に「雑賀孫市」と改名 8 。 |
鈴木重次 |
寛永11年(1634) |
重次の養子として、藩主・頼房の十一男・重義が雑賀家に入る 9 。 |
雑賀重義、徳川頼房 |
幕末期 |
雑賀家は水戸藩重臣として存続。天狗党の乱など藩内の動乱に関わる 11 。 |
天狗党、諸生党 |
鈴木重朝の人物像を理解する上で、その出自、すなわち彼が属した雑賀党鈴木氏と、伝説的な頭領「雑賀孫市」こと鈴木重秀との関係を解明することは不可欠である。しかし、この点は史料が乏しく、複数の説が乱立する、まさに謎に満ちた領域となっている。
重朝が紀伊国を本拠とした鉄砲傭兵集団・雑賀衆の中核をなす鈴木一族の出身であることは、ほぼ間違いないと見られている 1 。雑賀衆は、特定の主君を持たず、契約に基づいて各地の大名に軍事力を提供する独立性の高い集団であり、特にその卓越した鉄砲運用技術によって戦国時代の戦況を左右するほどの力を持っていた 13 。
しかし、重朝の具体的な系譜となると、途端に不明瞭になる。彼の子孫が仕えた水戸藩の公式な藩士系譜である『水府系纂』において、鈴木(雑賀)家の項目には「其先未詳(その先、未だ詳らかならず)」と記されているのである 1 。これは極めて異例の記述であり、いくつかの解釈を可能にする。一つは、記録が散逸し、本当に不明であった可能性。もう一つは、より示唆に富む解釈として、意図的に出自が曖昧にされた可能性である。研究者の武内義信は、土豪という比較的低い身分であった雑賀家が、徳川御三家の重臣という高い地位を得る過程で、その出自をあえて不明瞭にしたのではないかと指摘している 1 。これは、近世武家社会における「家」の権威付けの一環として、出自を飾る、あるいは不都合な部分を隠蔽する行為があったことを示唆している。
重朝と、石山合戦で織田信長を苦しめた「雑賀孫市」こと鈴木重秀との関係については、主に三つの説が存在する。
第一に「親子説」である。これは、重秀の子が重朝であるとする見方で、最も広く知られている説でもある 3 。多くの二次史料や創作物で採用されており、研究者の武内義信もこの説の可能性が高いとしている 1 。重朝が父・重秀の卓越した鉄砲技術と人脈を継承したとすれば、彼が豊臣政権下で鉄砲頭として重用された経緯を自然に説明できる。
第二に「同一人物説」である。これは、石山合戦で活躍した「孫一」と、後に関ヶ原の戦いで活躍した「孫一」を、同一人物、すなわち鈴木重秀その人と見なす説である 1 。しかし、両者の活動年代には隔たりがあり、また後述するように重朝の通称が「孫三郎」であったことから、現在ではこの説を支持する研究者は少ない。
第三に「近親者説」である。歴史研究家の鈴木眞哉は、もし重朝の父があれほど著名な重秀であれば、子孫がその事実を知らないはずもなく、家譜に書き忘れることもないだろうとして親子説に懐疑的な立場を示す。そして、重秀の弟や甥といった、極めて近しい関係の一族の人物ではないかと推測している 1 。
これらの説はいずれも決定的な史料を欠いており、断定は困難である。しかし、重朝が重秀と極めて近い血縁関係にあり、その武名と技術を受け継ぐ立場にあったことは、彼の生涯の軌跡から強く推察される。
史料において、鈴木重朝は「鈴木孫三郎」として登場することが多い 1 。伏見城の戦いで鳥居元忠を討ち取った際の記録にも、この名が見える 6 。彼自身が、伝説的な名跡である「雑賀孫市」を公式に名乗ったという確証のある一次史料は、現在のところ見つかっていない 17 。
しかし、後世において彼はしばしば「雑賀孫市」と同一視される 15 。これは、彼の伏見城での華々しい活躍が、民衆の記憶の中で伝説の英雄「孫市」のイメージと重ね合わされた結果であろう。そして、この「孫市」という名は、彼の死後、息子の重次が水戸藩士として正式に襲名することになる 8 。これにより、鈴木家は単なる一武家の家系から、「雑賀孫市」という歴史的ブランドを継承する特別な家柄、「雑賀家」としてその地位を確立していくのである。
雑賀衆という独立傭兵集団の時代が終わりを告げた後、鈴木重朝は新たな天下人・豊臣秀吉に仕えることで、その生涯の次なる舞台へと進んだ。彼は、かつての敵の麾下に入ることで、その専門技術を国家レベルで発揮する機会を得る。これは、戦国時代の傭兵集団が、天下統一後の新たな中央集権体制下で「専門技術者」として再編・吸収されていく過渡期の典型例であった。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉は10万ともいわれる大軍を率いて紀州に侵攻し、雑賀衆の本拠地である太田城を水攻めによって陥落させた 4 。この紀州征伐により、一個の独立勢力としての雑賀衆は事実上解体され、その歴史に終止符を打った 21 。しかし、秀吉は彼らの根絶やしを図ったわけではない。むしろ、彼らが有する高度な鉄砲技術という「専門性」を高く評価し、その能力を自らの権力基盤に組み込む道を選んだ。
鈴木重秀が本能寺の変後に秀吉に属したとみられるように 3 、重朝もまた、この紀州征伐を契機に秀吉に仕えることになったと考えられる 1 。これにより、重朝は「独立傭兵集団の有力者」から「中央政権に仕える専門職武官」へと、その立場を劇的に変化させた。彼のキャリアは、個人の武勇や集団の結束力よりも、政権内での「役職」と主君への「忠誠」が価値を持つ、近世武家社会への移行を象徴している。
秀吉の直臣となった重朝は、鉄砲に関する専門家、すなわち「鉄砲頭」として重用された。彼の活動は、断片的ながらも重要な記録から窺い知ることができる。
文禄元年(1592年)に始まった文禄の役(朝鮮出兵)では、重朝は肥前名護屋城に在陣していたことが確認されている 1 。これは、彼が単なる一兵卒ではなく、鉄砲隊の編成や兵站、戦術指導といった中核的な役割を担って大陸への出兵計画に参画していたことを示唆する。
さらに、彼の役割は戦場だけに留まらなかった。文禄2年(1593年)10月、秀吉が能の稽古に興じた際、その身辺を警固した弓鉄砲衆の中に「鈴木」の名が見える(『駒井日記』) 1 。また、文禄4年(1595年)1月に秀吉が草津へ湯治に出向いた際には、道中の美濃土岐宿で警備の任に当たっている 1 。これらの記録は、重朝が天下人の身辺警護を任されるほどに、秀吉から深い信頼を得ていた直臣であったことを物語っている。
慶長3年(1598年)に秀吉がこの世を去ると、重朝はその子である豊臣秀頼に直属する鉄砲頭となった 1 。この地位は、彼の生涯における重要な転換点となる。豊臣家の家臣、特に幼い秀頼に直接仕える立場であったことが、後の関ヶ原の戦いにおいて、彼が迷うことなく西軍に与する直接的な動機となったのである。彼にとって、徳川家康と対立することは、亡き主君・秀吉とその遺児・秀頼への忠義を貫くための、必然的な選択であった。豊臣政権下における彼の具体的な知行高は明らかではないが、他の直臣の例から推して、数千石規模の待遇を受けていたとみられ 22 、その恩顧に報いるという意識も強かったであろう。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢は徳川家康を中心に大きく動き始める。秀頼の直臣であった鈴木重朝は、豊臣家への忠義を胸に、歴史の奔流へと身を投じる。関ヶ原の戦いにおける彼の活躍は、その武名を不滅のものとすると同時に、彼を流転の運命へと導いた。
慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝討伐のために大坂を離れると、その機を捉えて石田三成らが挙兵。天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発した。豊臣家の鉄砲頭として秀頼に仕える重朝にとって、豊臣家を守護する側に立つことは当然の帰結であった 23 。彼は「豊臣恩顧」の武将として、主家への忠義を尽くすべく西軍に加わったのである 1 。
西軍がまず目標としたのが、家康が上方の拠点としていた伏見城であった 25 。この城は京・大坂への進路を扼する戦略上の要衝であり、その守将は家康が譜代の臣の中で最も信頼を寄せる老将・鳥居元忠であった 26 。
同年7月18日、宇喜多秀家を総大将とする西軍4万の大軍が伏見城を包囲した 27 。対する元忠の城兵は、わずか1800余 27 。圧倒的な兵力差にもかかわらず、元忠は「城を枕に討死する」覚悟で徹底抗戦し、西軍の猛攻を13日間にわたって凌ぎ続けた 6 。この元忠の奮戦は、家康が東国から引き返してくるための貴重な時間を稼ぎ、後の関ヶ原における東軍勝利の遠因となった。
8月1日、城内の甲賀衆の裏切りによってついに城は炎上し、西軍が城内へとなだれ込んだ 2 。壮絶な市街戦の末、満身創痍となった鳥居元忠は、本丸で最後の抵抗を試みる。この最終局面において、元忠を直接討ち取ったのが、鉄砲頭・鈴木重朝であったと多くの史料が一致して伝えている 1 。家康が「三河武士の鑑」とまで称賛した忠臣を討ち取ったこの戦功は、西軍全体にとって大きな意味を持つものであった 29 。
この功績は、西軍首脳部からも高く評価された。伏見城落城からわずか4日後の8月5日、重朝は毛利輝元、宇喜多秀家、石田三成ら西軍の首脳5名の連署状をもって、伏見城攻めにおける「比類なき働き」を賞され、新たに1000石の知行を与えられている 7 。これは、彼の働きが西軍の公式な軍功として認定されたことを示す、極めて貴重な一級史料である。
伏見城での輝かしい戦功も虚しく、関ヶ原の本戦で西軍はわずか一日で瓦解した。この敗北により、鈴木重朝は知行を失い、追われる身の浪人となった 1 。徳川最強の忠臣・鳥居元忠を討った張本人として、彼の前途は絶望的であったかに見えた。しかし、彼は自らの持つ「専門性」を最大の武器として、巧みに生き残りの道を探る。これは、中世的な忠誠心だけでなく、個人の持つ技術が武士の価値を左右するようになった、近世社会の萌芽を示す動きであった。
『水府系纂』によれば、浪人となった重朝は奥州の仙台藩主・伊達政宗のもとに身を寄せたとされる 1 。数多いる大名の中で、なぜ彼は政宗を選んだのか。その理由は、政宗の特異な性格と戦略眼にあったと考えられる。
第一に、政宗は当代随一の「鉄砲狂」であった。後の大坂の陣では、伊達軍の兵員の実に7割近くを鉄砲隊で編成するという、常識を覆すほどの鉄砲重視の戦術家であった 31 。彼にとって、雑賀衆の頭領格であり、日本最高峰の鉄砲技術を持つ鈴木重朝は、喉から手が出るほど欲しい人材であったはずである。
第二に、政宗は天下への野心を捨てきれず、出自や経歴を問わず有能な人材を積極的に登用していた 33 。西軍の敗将である重朝を匿うことは、徳川家に対するリスクを伴う行為であったが、政宗はそれ以上に、重朝の持つ技術的価値を重視したのである。重朝もまた、自らの「市場価値」を最も高く評価してくれるであろう庇護者として、政宗を冷静に見定めていたと考えられる。この関係は、単なる主従というより、互いの利害が一致した戦略的パートナーシップに近いものであった。
また、伊達家が陸奥国分寺薬師堂や松島の瑞巌寺を造営する際に、紀州の根来衆をはじめとする職人集団を招聘していた事実も指摘されている 35 。このことから、伊達家と紀州の間には、何らかの人的な繋がりやネットワークが存在し、重朝が政宗を頼る上での素地となっていた可能性も考えられる。
重朝の再起は、この伊達政宗の仲介によって実現した 1 。政宗が徳川家に対して持つ一定の影響力を行使し、重朝の類稀な能力がいかに徳川の世にとっても有用であるかを家康に説いた結果、異例の赦免へと繋がったのである。敗軍の将が、自らの専門技術を交渉カードとして絶望的な状況から復活を遂げたこの一件は、近世的なプロフェッショナル武士の誕生を告げる象徴的な出来事であった。
関ヶ原の戦いを経て、鈴木重朝の人生は再び大きく転換する。敵将として徳川家と戦った彼が、その麾下に入り、ついには徳川御三家の一つである水戸藩の重臣として家名を確立するに至る過程は、徳川政権下における「家の存続戦略」の巧みな一例として、特筆に値する。
慶長11年(1606年)、伊達政宗の強力な仲介により、鈴木重朝は徳川家康から正式に赦免され、徳川家の直臣として召し抱えられるという、異例の待遇を受けることになった 1 。
家康の忠臣・鳥居元忠を討った張本人である重朝が赦免された背景には、いくつかの要因が考えられる。まず、家康自身の卓越した人材活用術が挙げられる。家康は、たとえ敵方であっても、有能と認めた人材は積極的に登用する度量を持っていた。雑賀衆が持つ高度な鉄砲技術は、天下平定後の徳川政権にとっても、その軍事力を維持・強化する上で極めて有用なものであった。
また、後述する鳥居元忠の甲冑を巡る逸話に象徴されるように、重朝が示した武士としての礼節や気概が、家康や徳川家臣団の心証を良くした可能性も否定できない。
関ヶ原の戦いで西軍に属しながらも、後にその能力を評価されて徳川家に仕官したり、大名として復帰したりした例は、立花宗茂など少数ながら存在する 37 。重朝のケースも、こうした戦後処理における現実的な人材登用策の一環として理解することができる。
家康の直臣となった重朝は、常陸国に3,000石の知行を与えられた 1 。これは、一介の浪人からの再起としては破格の待遇であり、徳川家がいかに彼の能力を高く評価していたかを示している。
その後、慶長14年(1609年)に家康の十一男である徳川頼房が水戸藩主となると、重朝はその附属家臣として配属された 1 。これは、将軍家直属の鉄砲技術者を、御三家の筆頭格である水戸藩の軍事力強化のために配置するという、徳川政権の戦略的な人事であったと考えられる。こうして鈴木家は、水戸藩にその根を下ろすこととなった。
徳川家に仕官した鈴木重朝は、自らの家を水戸藩の重臣として確固たるものにする礎を築いた。彼の死後、その子孫は巧みな戦略によって家の存続と繁栄を成し遂げ、戦国の傭兵集団の末裔は、徳川の世における名門武家へと変貌を遂げる。
重朝の晩年は記録が乏しく、元和年中(1615年~1624年)に死去したとされるが、正確な没年や墓所、法名などは不明である 1 。一説には、重朝自身は水戸藩に正式に出仕する前に亡くなり、藩士としてのキャリアは子の代から本格的に始まった可能性も指摘されている 1 。
重朝の跡は、子の鈴木重次(すずき しげつぐ、慶長3年(1598年)生 - 寛文4年(1664年)没)が継いだ 8 。重次は父と同じく3,000石の知行で水戸藩に仕え、藩の軍事の中核を担う大番頭や、藩政を司る家老といった要職を歴任し、藩主からの厚い信頼を得た 8 。
重次の代に、鈴木家にとって決定的な二つの転機が訪れる。第一に、姓の変更である。当初「鈴木孫三郎」を名乗っていた重次は、やがてその名を「雑賀孫市」へと改めた 8 。これにより、鈴木家は単なる一族の名から、戦国最強の鉄砲集団を率いた伝説的な名跡「雑賀孫市」を公式に継承する「雑賀家」として、水戸藩内における特別な家格とブランドを確立した。
第二に、血縁の強化である。重次には男子がいなかったため、藩主・徳川頼房の十一男であり、二代藩主・徳川光圀の異母弟にあたる重義(しげよし)を婿養子として迎えたのである 8 。これは、藩主家が有力家臣の家を乗っ取るという形ではなく、むしろ藩主家の方からその血筋を与えることで、雑賀家の家格を保証し、藩主家との永続的な結びつきを強化するための高度な政略であった。これにより、雑賀家は徳川家の血統を取り込み、藩内での地位を絶対的なものにした。
雑賀家はその後、当主の幼少などを理由に一時的に禄高を600石に減らされる時期もあったが、藩の重臣層としてその地位を保ち、明治維新に至るまで存続した 10 。幕末、水戸藩が尊王攘夷思想の拠点となり、「天狗党の乱」に代表されるような激しい内紛に揺れる中でも 41 、雑賀家はその歴史の一部を担い続けた。
鈴木重朝から始まったこの家の歴史は、旧主(豊臣)への忠義を果たし、新主(徳川)へは忠誠と専門技術を提供し、最後は婚姻政策によって権力中枢との血縁を構築するという、近世武家社会における見事な「家の存続戦略」の実例と言える。
鈴木重朝の生涯を締めくくるにあたり、彼の人物像を最も鮮やかに映し出す逸話と、その歴史的評価について考察する。彼の物語は、単なる戦歴に留まらず、時代の転換期を生きた武士のしたたかさと美学を我々に伝えている。
鈴木重朝に関する逸話として最も有名なのが、伏見城で討ち取った敵将・鳥居元忠の甲冑を巡る物語である。この逸話は、江戸時代中期の逸話集『常山紀談』などを通じて広く知られるようになった 44 。
その内容はこうである。伏見城の戦いの後、重朝は元忠が着用していた「紺糸素懸縅二枚胴具足(こんいとすがけおどしにまいどうぐそく)」を、元忠の子である鳥居忠政に形見として返還したいと申し出た 1 。敵将の遺品をその遺族に返すという、武士の情けの発露であった。しかし、忠政はこれに対し、深く感謝しつつも丁重に辞退する。「父の武功の証であり、またそれは貴殿が戦場で立てた名誉の品でもあります。どうか武門の誉れとして、貴家で末永くご子孫にお伝えください」と述べたという 1 。
このやり取りに感激した重朝は、この具足を家宝として鈴木家に代々伝えた 44 。この逸話は、敵味方の立場を超えて互いの武勇と忠義を尊重する「武士道精神」の美談として、後世に語り継がれた。しかし、この逸話は単なる美談に留まらない。敗者である重朝が、勝者である徳川家の重臣の遺族に対して最大限の敬意と恭順の意を示すという、高度な政治的パフォーマンスであったと解釈することも可能である。そして忠政もまた、父の名誉を敵将に認めさせることで、徳川家の忠臣としての鳥居家の家格を一層高めるという、双方にとって実利的な意味合いも含まれていた。
この物語には、感動的な後日談がある。逸話の通り鈴木家に代々伝えられてきたこの具足は、平成16年(2004年)、子孫の手によって大阪城天守閣へ寄贈されたのである 1 。兜は幕末期に新調されたものとされているが 1 、我々は400年の時を超えて、この歴史的逸話を物語る実物を今、目にすることができる。
鈴木重朝の生涯を俯瞰するとき、彼はいくつかの側面を持つ、複雑で魅力的な人物として浮かび上がる。
第一に、彼は 中世と近世の境界に生きた武将 であった。雑賀衆という中世的な独立傭兵集団の気風を受け継ぎながら、豊臣・徳川という中央集権体制下で専門官僚として生きるという、近世的な武士のあり方を体現した。彼の人生そのものが、時代の転換点を象徴している。
第二に、彼は 専門技術で道を切り拓いたプロフェッショナル であった。関ヶ原での敗戦という絶望的な状況から彼を救ったのは、家柄や領地ではなく、彼自身が持つ「鉄砲」という高度な専門技術であった。自らの市場価値を冷静に見極め、それを最も高く評価する庇護者(伊達政宗)を頼るという彼の行動は、極めて近代的で戦略的なものであった。
そして最後に、彼は 家の再興を成し遂げた家長 であった。戦国の動乱を生き抜き、敵であった徳川家の世に巧みに適応し、最終的には御三家の重臣という安定した地位を子孫に残した。その過程は、武士のしたたかさと、家を存続させるための強い意志を見事に物語っている。
鈴木重朝の生涯は、単なる一武将の戦歴に終わらない。それは、日本の社会が大きく変容する時代のダイナミズムそのものを内包した、稀有な歴史事例である。謎に包まれた出自から始まり、敵将を討つ武功を挙げ、流転の末に新たな主君のもとで家を再興させた彼の物語は、これからも多くの歴史探求者を魅了し続けることであろう。