鉢屋弥之三郎は尼子経久に仕えた鉢屋衆の棟梁。芸能と武勇を兼ね備え、月山富田城奪回に貢献したとされる。その活躍は軍記物語で脚色された部分も多いが、尼子氏の勢力拡大を影で支えた実力者。
戦国時代の中国地方に「雲州の狼」と畏れられ、一代で山陰・山陽十一ヶ国を窺うほどの巨大な勢力を築き上げた武将、尼子経久(あまご つねひさ)。彼の波乱に満ちた生涯は、下剋上が常であったこの時代の象徴とも言える。その輝かしい経歴の原点として、そして彼の謀将としての才覚を世に知らしめた事件として、常に語り継がれてきたのが、居城・月山富田城(がっさんとだじょう)の奪回劇である 1 。
この劇的な奇襲作戦を計画し、実行部隊として成功に導いたとされるのが、鉢屋弥之三郎(はちや やのさぶろう)という人物である 3 。彼は「鉢屋衆(はちやしゅう)」と呼ばれる忍者集団の棟梁であり、経久の窮地を救った最大の功労者と伝えられる。しかし、その名は戦国史の表舞台に頻繁に登場するわけではない。彼は一体何者で、彼が率いた鉢屋衆とはいかなる集団だったのか。そして、英雄譚として語られる月山富田城奪回劇は、果たして歴史の真実を映しているのであろうか。
本報告書は、後世に編纂された軍記物に残る断片的な記述と、近年の歴史研究によってもたらされた新たな視点を丹念に突き合わせることで、伝説のベールに包まれた鉢屋弥之三郎という人物、そして彼が率いた鉢屋衆の実像に、可能な限り迫ることを目的とする。
鉢屋弥之三郎という個人の実像を理解するためには、まず彼が所属し、そして率いた「鉢屋衆」という特異な集団の性質を多角的に解明する必要がある。彼らの持つ二面性や社会的位置づけを明らかにすることは、弥之三郎の行動原理や歴史的役割を考察する上で不可欠な前提となる。
鉢屋衆の最も際立った特徴は、彼らが単なる戦闘集団ではなく、芸能を生業(なりわい)とする集団であったという、その二面性にある。
表向きの彼らは、祭礼や正月に各地を巡り、芸を披露して生計を立てる芸能集団であった 4 。特に、尼子氏の本拠地である月山富田城の麓に住む一派は「賀麻党(かまとう)」と呼ばれており、毎年元旦に城内へ参上し、新年を祝う「千秋万歳(せんずまんざい)」という舞を演じることが恒例となっていた 4 。これは、彼らが城主や領民にとって公に認知された存在であったことを示している。
しかし、その裏では、諜報、潜入、奇襲、破壊工作といった兵役も務める戦闘集団、すなわち「忍者」としての顔を持っていた 3 。一部の記述によれば、刀や槍といった武器の製造にも携わっていたとされ、単なる芸人ではない、高度な戦闘技術と知識を有していたことがうかがえる 8 。
この芸能集団という側面は、彼らの諜報・戦闘活動に計り知れない利点をもたらした。後世の創作物においては、彼らのような身分制度の枠外にいる者は「推参(すいさん)」、すなわち「押して参る」の一言で、大名屋敷のような警備の厳しい場所へも比較的自由に出入りできる特権を持っていたと描かれることがある 9 。これが史実であったかは定かではないが、少なくとも芸人という身分は人々の警戒心を解き、敵中枢へ深く潜入するための絶好の隠れ蓑となったことは想像に難くない。
鉢屋衆がどのような出自を持つ集団であったかについては、いくつかの説が存在し、彼らが当時の社会において周縁的な存在であったことを示唆している。
軍記物などに記された伝説的な起源によれば、彼らの祖先は平安時代中期の平将門の乱において反乱軍に加勢した「飯母呂(いいもろ)一族」であるとされる 5 。乱の敗北後、生き残った一族は全国へ離散し、そのうち山陰地方へ逃れた者たちが鉢屋衆の祖となったという。これは、彼らの集団に古くからの武的な権威と由緒を与えるための、後世における一種の権威付けであったと考えられる。
より現実的な側面としては、彼らが特定の土地に根を張らない「流れ者」であり、武士でも百姓でもない、社会の周縁に位置づけられた人々であった可能性が高い 9 。彼らは定住して土地を耕すのではなく、芸能や特殊な役務を提供することで生計を立てていた。
さらに、史料を分析すると、彼らが被差別民的な存在であったことが強く示唆される。例えば、隣国の鳥取藩では、「鉢屋」と呼ばれる人々が竹細工(茶筅や簓(ささら)など)を営む傍らで、犯人の逮捕や牢番といった警察的・刑吏的な役務を担っていた記録がある 10 。また、薩摩藩における「慶賀」と呼ばれる人々などと同様に、慶祝行事への関与や牢番といった特殊な役務を担う被差別民であったとする研究も存在する 11 。鉢屋衆が担った芸能や、戦闘・警察といった特殊な役務は、中世から近世にかけて被差別民が担ったとされる職掌と重なる部分が多く、彼らが当時の社会構造の中で特殊な階層に位置づけられていたことは間違いないだろう。
これらの点を総合すると、鉢屋衆とは、芸能と武勇という二つの技能を併せ持ち、社会の周縁に位置することで独自の活動領域を確保していた、極めて特異な技能集団であったと結論づけられる。彼らの力は、正規の武士が持つ力とは全く異質のものであり、それゆえに、既存の秩序が揺らぐ戦国乱世において、特異な価値を発揮することになるのである。
鉢屋弥之三郎の名を不朽のものとした月山富田城奪回劇は、戦国時代屈指の奇策として語り継がれてきた。しかし、その英雄譚は、後世に編纂された軍記物によって大きく脚色されたものである可能性が指摘されている。本章では、まず伝説として語られる物語を詳述し、次に史料批判の視点からその歴史的実像に迫ることで、「伝説」と「史実」の間に横たわる溝を明らかにする。
後世に成立した軍記物、特に尼子氏の興亡を描いた『雲陽軍実記』などが伝える物語は、劇的で英雄的な色彩に満ちている 12 。
物語は、文明16年(1484年)に始まる。出雲国の守護代であった尼子経久は、その急速な勢力拡大を疎んだ主君の京極政経と室町幕府の介入により、守護代職を解任され、長年本拠としてきた月山富田城から追放されるという憂き目に遭う 3 。経久に代わって新たな守護代として月山富田城に入ったのは、塩冶掃部介(えんや かもんのすけ)という武将であった 3 。
全てを失い、浪々の身となった経久は、再起を期して雌伏の日々を送る中で、鉢屋衆の棟梁である鉢屋弥之三郎と運命的な出会いを果たす 3 。経久は弥之三郎の能力と彼が率いる鉢屋衆の組織力を見込み、城の奪還への協力を依頼する。これに応えた弥之三郎は、一つの奇策を献じた。それは、毎年元旦に城中で行われる鉢屋衆(賀麻党)の祝いの舞「千秋万歳」に紛れ込み、城兵が油断した隙を突いて奇襲をかけるという、大胆不敵な計画であった 3 。
決行は文明18年(1486年)元旦。弥之三郎が率いる70人余りの賀麻党は、笛や太鼓を賑やかに鳴らしながら、恒例の演者として堂々と城の大手門を通過した 4 。彼らは舞の衣装である烏帽子(えぼし)や素襖(すおう)の下に、兜や具足といった武具を巧みに隠し持っていた 4 。
城内では、城主の塩冶掃部介をはじめ、多くの武士やその家族、城下の者たちが舞の見物に集まり、祝賀ムードに浸っていた。その油断の頂点において、かねて城内に潜入していた経久の一党が、合図の狼煙として城内各所に火を放つ。これを合図に、舞を演じていた賀麻党は一斉に衣装を脱ぎ捨てて武装を現し、驚き戸惑う見物人や城兵に襲いかかった 4 。
不意を突かれた城内は瞬く間に大混乱に陥り、城主の塩冶掃部介はなすすべもなく、妻子を手にかけた後に自害して果てたとされる 4 。こうして尼子経久は、追放からわずか2年で奇跡的に月山富田城を奪還し、後の大躍進の礎となる下剋上の第一歩を、鮮やかに記したのであった 3 。
この英雄譚は、尼子経久の非凡さと鉢屋弥之三郎の忠義を示す逸話として長く信じられてきた。しかし、近年の歴史研究では、この物語の史実性について、複数の観点から見直しが進められている。
第一に、尼子経久が月山富田城から完全に「追放された」という記録は、同時代の信頼性の高い史料からは確認されていない。より有力な説は、彼が失ったのはあくまで「守護代職」という役職のみであり、居城や出雲国内における一定の勢力基盤は保持し続けていたというものである 17 。もしそうであれば、そもそも「城を奪還する」という物語の前提が崩れることになる。
第二に、物語の重要な敵役として描かれる塩冶掃部介という人物の実在性が極めて疑わしい点である。この名は、同時代の史料や、出雲の有力国人であった塩冶氏の系図には見当たらない 17 。このことから、掃部介は後世の軍記物が物語を劇的に構成するために創作した、架空の人物である可能性が濃厚である 17 。当時の塩冶氏の当主は、塩冶貞慶という人物であったとされる 17 。
これらの点を踏まえると、経久の権力回復は、鉢屋衆の奇策による一発逆転劇というよりも、主家である京極氏内部の家督争い(京極騒乱)といった政治的混乱に乗じ、数年をかけて段階的に勢力を取り戻し、最終的に守護代職へ復帰した(明応9年/1500年)というのが、より事実に近い過程であったと考えられる 17 。
では、なぜこのような劇的な伝説が生まれたのか。その背景には、物語の主な典拠である『雲陽軍実記』の編纂意図がある。この書は、大名としての尼子氏が毛利氏によって滅ぼされた後、その旧臣によって書かれたとされる軍記物である 12 。そのため、滅びた主家の正当性や武威を後世に伝えるため、創業時の物語をより英雄的、劇的に脚色する必要があった。単なる地道な政治闘争による権力回復では、物語としての魅力に欠ける。そこで、①主君の理不尽な仕打ちによる失脚、②浪々の苦難、③忠義の臣(鉢屋弥之三郎)との運命的な出会い、④常人には思いもよらない奇策による劇的な勝利、⑤分かりやすい悪役(塩冶掃部介)の滅亡、という英雄譚の定型に史実を当てはめ、あるいは創作を加えることで、尼子経久を「下剋上の英雄」として神格化する意図があったと考えられる。
鉢屋弥之三郎と月山富田城奪回劇の物語は、「歴史的事実」そのものと、人々が記憶し語り継ぐ「歴史的物語」との違いを考える上で、格好の事例と言える。人々が記憶するのは、必ずしも無味乾燥な事実の連なりではなく、教訓や感動、そして忠義や武勇といった特定の価値観を内包した「物語」である。鉢屋弥之三郎は、史実における功績以上に、「尼子氏勃興の神話を彩る重要な登場人物」という物語上の役割を担うことで、歴史にその名を深く刻んだのである。
項目 |
軍記物(『雲陽軍実記』など)の記述 |
歴史学的解釈・異説 |
尼子経久の状況 |
月山富田城から追放され、浪々の身となる 1 |
守護代職を解任されたのみで、城は失っていない可能性が高い 17 |
奪回の目的 |
失った居城の奪還 |
守護代職への復帰と、出雲国内の権力掌握 |
敵対者 |
新守護代・塩冶掃部介 3 |
架空の人物の可能性が極めて高い 17 。実質的な対立相手は主君京極氏や他の国人衆 |
奪回の意義 |
奇跡的な下剋上の成功譚 |
政治的混乱に乗じた、計算された権力奪取の一環 |
月山富田城奪回劇が伝説であったとしても、鉢屋衆が尼子経久の権力掌握過程で重要な役割を果たしたことは確かであろう。その後、彼らは尼子氏の専属的な特殊部隊として、その興隆を影から支え続けた。しかし、主家である尼子氏の没落は、彼らの運命にも大きな影を落とすことになる。
月山富田城奪回の功績により、鉢屋弥之三郎と彼が率いる一党は、尼子経久から破格の待遇を受けたと伝えられる。彼らは城郭内の本丸北に「鉢屋平」と呼ばれる専用の長屋を与えられ、そこに居住することを許された 6 。この集団は「やぐら下組」とも呼ばれ、尼子氏に正式に仕える直属の特殊部隊としての地位を確立した 6 。
以降、鉢屋衆は尼子氏の勢力拡大の尖兵として、数多の戦において暗躍した。奇襲や騙し討ち、敵情視察、破壊工作といった裏の任務を一手に引き受け、経久の謀略を具現化する実行部隊として活躍したのである 3 。その神出鬼没の働きぶりは、「尼子の行くところ、常に鉢屋あり」と謳われるほどであり、敵対勢力からは大いに恐れられた 16 。
例えば、尼子氏が毛利元就の台頭に苦しめられた第一次月山富田城の戦い(1542-1543年)において、尼子方が得意としたゲリラ戦で大内・毛利連合軍の兵站線を脅かしたと記録されているが 17 、こうした非正規戦術の実行には、鉢屋衆が深く関与していた可能性が極めて高い。彼らは、正規の武士による合戦とは異なる次元で、尼子氏の軍事力を支える不可欠な存在であった。
栄華を誇った尼子氏も、経久の死後、孫の晴久の代には内紛(精鋭部隊であった新宮党の粛清)や、謀将・毛利元就の台頭によって次第に勢力を削がれていく 2 。そして永禄9年(1566年)、毛利軍の兵糧攻めの前に月山富田城はついに開城し、大名としての尼子氏は事実上滅亡した 2 。
主家という強力な庇護者を失った後、鉢屋衆がどのような運命を辿ったのかを直接的に示す史料は、残念ながら極めて乏しい。これは、彼らのような非正規の戦闘集団の動向が、公式な歴史記録に残りづらかったという性質を物語っている。しかし、残された断片的な情報や、他の類似集団の事例から、いくつかの可能性を推察することは可能である。
第一に、組織としての結束を失い、構成員が各地に離散した可能性である。一部は再び芸能者としての生活に戻り、また一部は土地に根を下ろして帰農したかもしれない。
第二に、その特殊技能を買われ、新たな主君に仕えた可能性である。勝利者である毛利氏や、織田信長をはじめとする他の戦国大名に、個人あるいは小集団単位で召し抱えられた者もいたであろう。しかし、尼子氏への忠誠心が強かったとされる鉢屋衆が、組織的に毛利氏へ寝返ったとは考えにくい。
第三の可能性として、山中幸盛(鹿介)が尼子勝久を擁して決起した尼子再興軍に参加し、最後まで主家のために戦ったという道である 2 。『雲陽軍実記』などに見られる「末代まで尼子の為に戦った」という記述は、この可能性を強く示唆している 3 。しかし、その尼子再興軍も、織田信長の支援を受けながら奮闘するも、天正6年(1578年)の上月城の戦いで壊滅的な敗北を喫する。もし再興軍に加わっていたとすれば、多くの鉢屋衆もまた、主家と運命を共にしたことであろう 23 。
鉢屋衆の歴史は、強力なパトロンであった尼子氏の存在と不可分であった。彼らは独立した勢力ではなく、大名の権力に寄り添い、その影として機能することで存在価値を発揮する集団であった。そのため、パトロンである尼子氏が滅亡すると、その存在意義と組織基盤を同時に失い、歴史の表舞台から急速に姿を消さざるを得なかったのである。彼らの運命は、戦国時代に活躍した雑賀衆 24 や伊賀・甲賀の忍者衆など、多くの特殊技能集団が辿った道と重なる。戦乱の時代にはその特異な能力を高く評価され重用されたが、大名による中央集権的な支配体制が確立されていく近世社会においては、その存在が不要とされたり、あるいは危険視されたりして、解体・吸収されていった。鉢屋衆の物語の終焉は、戦国という時代の終わりと、社会構造の大きな変化を象徴する一つの事例と見ることができる。
鉢屋弥之三郎という人物を総括する時、我々は二つの異なる側面から彼を評価する必要がある。
一つは、史実の人物としての鉢屋弥之三郎である。彼は、芸能と武勇を併せ持つ、社会の周縁に生きた異能集団「鉢屋衆」を率い、その特異な能力をもって主君・尼子経久の権力掌握に大きく貢献した、紛れもない「影の実力者」であった。彼の活躍は、戦国時代が決して武士階級だけの社会ではなく、芸能者、商人、そして時には被差別民といった多様な人々が、己の持つ技能を武器に生き抜いた、複雑でダイナミックな時代であったことを我々に教えてくれる。
もう一つは、伝説の人物としての鉢屋弥之三郎である。彼は、尼子氏勃興の神話を彩る英雄譚において、忠義と奇策を体現する重要な役者として描かれ、後世に語り継がれた。月山富田城奪回劇という「物語」を通じて、彼の名は史実における功績以上に大きな存在感を持つに至った。この「史実」と「伝説」の二重性こそが、鉢屋弥之三郎という人物の魅力の源泉であり、我々の歴史的想像力を掻き立てる所以であろう。
彼の名は、現代においても意外な形で生き続けている。例えば、人気漫画・アニメ作品である『落第忍者乱太郎』には、「鉢屋三郎」という変装を得意とするキャラクターが登場する 25 。もちろん、これは歴史上の人物とは全くの別人格であり、直接的な関係はない。しかし、その名が採用された背景には、鉢屋弥之三郎と彼が率いた鉢屋衆が持つ「忍者」「変装の名人」「奇策の実行者」といったイメージが、時代を超えて人々の心に刻まれ、創作のインスピレーションの源泉としてあり続けていることの証左と見ることができる。
史実の狭間に消えた影は、物語の中で光を浴び、今なお我々の前にその姿を現す。鉢屋弥之三郎の探求は、歴史の事実を追うと同時に、歴史がどのように語られ、記憶されていくのかという、より大きな問いへと我々を誘うのである。