鍋島元茂は廃嫡されるも、柳生新陰流を極め家光の信頼を得る。小城藩を創設し、島原の乱で活躍。文武両道に秀で、53歳で死去。
江戸時代初期、肥前国にその礎を築いた一人の大名がいた。肥前小城藩の初代藩主、鍋島元茂である。彼の名は、しばしば「佐賀藩主・鍋島勝茂の長男でありながら、父の再婚により廃嫡された不遇の人物」として語られる 1 。しかし、その一面的な評価は、彼の生涯が持つ複雑さと多岐にわたる功績を見過ごさせる。元茂は、単なる悲劇の主人公ではない。彼は、当代随一と謳われた柳生新陰流の剣豪であり、三代将軍・徳川家光の厚い信頼を得た側近であった 1 。また、和漢の典籍に通じた教養深き文化人であり、そしてゼロから七万三千石の雄藩を築き上げた非凡なる創業者でもあった 2 。
本報告書は、鍋島元茂という人物が内包する「不遇」と「栄達」、「従属」と「自立」、「武」と「文」といった二面性に着目し、その生涯を徹底的に解き明かすことを目的とする。廃嫡という逆境をいかにして乗り越え、自らの価値を証明したのか。佐賀本藩の支藩という立場にありながら、いかにして幕府と直接的な関係を築き、特異な地位を確立したのか。彼の生涯を追跡することは、江戸初期という新たな時代の力学の中で、一個人がその才覚と戦略によっていかに運命を切り拓きうるかを探求する試みでもある。
年号(西暦) |
出来事 |
慶長7年(1602) |
鍋島勝茂の長男として、後の蓮池藩の城下となる小曲館にて誕生 1 。 |
慶長11年頃(1606) |
父・勝茂が徳川家康の養女・菊姫と再婚。これにより廃嫡される 1 。 |
慶長19年(1614) |
大坂の陣に際し、人質として江戸へ送られる 2 。 |
元和3年(1617) |
祖父・直茂の隠居領と家臣団を相続。父・勝茂からも所領を与えられ、小城鍋島家の基礎を築く 2 。 |
元和4年(1618) |
柳生宗矩より柳生新陰流の免許皆伝を受ける 6 。 |
寛永14年(1637) |
島原の乱に父・勝茂と共に従軍する 1 。 |
寛永17年(1640) |
幕府より佐賀藩の分家として公認される 6 。 |
寛永19年(1642) |
初めて参勤交代を行う。石高が最終的に7万3千石余に定まる 2 。 |
(時期不詳) |
三代将軍・徳川家光の打太刀役を務め、幕府内での地位を確立する 1 。 |
承応3年(1654) |
江戸にて死去。享年53 1 。 |
鍋島元茂は、慶長7年(1602年)10月11日、肥前佐賀藩の初代藩主となる鍋島勝茂の長男として生を受けた 1 。幼名は彦法師。誕生の地は、後に弟・直澄が藩主となる蓮池藩の小曲館(こまがりやかた)であった 1 。当初、彼は勝茂の後継者、すなわち嫡男として扱われていた 1 。しかし、彼の運命には生まれながらにして一つの影が差していた。母・岩が、小西三右衛門の娘とされる側室であったことである 1 。この母の身分が、やがて彼の人生を大きく左右する要因となる。
元茂が廃嫡に至った背景には、当時の鍋島家が置かれた極めて切迫した政治状況があった。関ヶ原の戦いにおいて西軍に与した鍋島家は、外様大名として徳川幕府との関係構築が藩存続のための至上命題であった 8 。藩祖・直茂と父・勝茂は、主家であった龍造寺家から実権を完全に掌握し、名実ともに「鍋島佐賀藩」の体制を盤石にするという、困難な課題に直面していたのである 5 。
この状況を打開するための決定的な一手が、元茂が4歳の時に打たれた。父・勝茂が、徳川家康の養女である菊姫(高源院、実父は岡部長盛)を継室(事実上の正室)として迎えたのである 1 。これは単なる縁組ではなく、鍋島家が徳川将軍家と直接的な姻戚関係を結び、その忠誠を形で示すための高度な政略結婚であった 17 。
この政略結婚の帰結として、菊姫との間に生まれた男子(後の鍋島忠直)を正統な跡継ぎとするため、庶長子である元茂は嫡子の座を追われることになった 1 。これは、一個人の家督問題という次元を超え、徳川の世における藩の安泰を確実にするための、冷徹なまでの政治的決断であった。
この一連の出来事は、元茂の廃嫡が単なる「排除」ではなく、鍋島家全体の生存戦略における「戦略的再配置」であった可能性を強く示唆している。もし勝茂が元茂を単に冷遇し、切り捨てるつもりであったならば、後に鍋島家中でも破格と言える7万3千石もの広大な領地を与えるはずがない 1 。むしろ勝茂は、まず徳川家の血を引く忠直の系統を本藩の後継者とすることで佐賀本藩の安泰を絶対的なものとし、その上で、有能な長男である元茂に巨大な支藩を創設させることで、鍋島一門全体の勢力拡大とリスク分散を図ったと考えられる。元茂を政治の中心地である江戸に置くことは、幕府中枢との直接的なパイプ役としての役割を期待する意図もあったであろう。すなわち、廃嫡は元茂を「失脚」させるためではなく、本藩と支藩という二本の柱を立て、鍋島家という組織全体をより強固にするための、長期的視点に立った布石だったのである。
家督相続の道を完全に断たれた元茂は、慶長19年(1614年)の大坂の陣に際し、佐賀藩からの人質として江戸へ送られた 1 。故郷を離れ、政治の中心で過ごすこの日々は、彼にとって新たな運命を切り拓く重要な転機となった。失意の中にあったかもしれない若き元茂は、この江戸で、彼の人生を全く異なる方向へと導くことになる剣術と、そして将軍家との縁を得ることになるのである。
人物名 |
立場・関係性 |
元茂への影響 |
鍋島直茂 |
祖父、佐賀藩藩祖 |
自身の隠居領を元茂に譲渡し、小城藩創設の物理的な礎を築いた。また、蔵書を譲るなど、文化的・精神的な支柱でもあった 2 。 |
鍋島勝茂 |
父、佐賀藩初代藩主 |
徳川家との関係強化を優先し元茂を廃嫡したが、一方で広大な領地を与え、小城藩の創設を全面的に支援した。父子の関係は複雑であったと推察される 1 。 |
菊姫(高源院) |
継母、徳川家康の養女 |
彼女と勝茂との結婚が、元茂廃嫡の直接的な原因となった。彼女の息子である鍋島忠直が佐賀本藩の嫡子となった 1 。 |
徳川家光 |
江戸幕府三代将軍 |
元茂の卓越した剣の腕を高く評価し、自らの打太刀役(稽古相手)に抜擢。元茂の幕府内での地位を確立させた最大の庇護者であり、その信頼が小城藩の地位を特異なものにした 1 。 |
柳生宗矩 |
剣の師、将軍家兵法指南役 |
元茂に柳生新陰流を伝授し、その才能を高く評価した。この師弟関係を通じて、元茂は将軍家光に近づく重要な足がかりを得た 1 。 |
江戸での人質生活は、元茂に思わぬ道を開いた。彼は将軍家兵法指南役として当代随一の名声を誇っていた柳生宗矩の門下に入り、柳生新陰流の兵法を学び始める 4 。元茂の剣才は並外れたものであったらしく、その腕前は瞬く間に頭角を現した。ついには、数多いる門弟の中で最初に宗矩から印可状、すなわち免許皆伝を授けられたと伝えられるほどの達人となった 1 。
元茂と宗矩の師弟関係は、単なる技術の伝授に留まらない、深い精神的な結びつきであった。その道縁は30年にも及び、宗矩が死の直前に、一門の秘中の秘である『兵法家伝書』を元茂に与えたという逸話も残されている 1 。これは、宗矩が元茂を単なる優れた弟子としてだけでなく、自らの兵法の真髄を託すに足る人物として認めていたことの何よりの証左である。
元茂の人生における最大の転機は、その剣技を通じて訪れた。師である柳生宗矩が三代将軍・徳川家光の兵法指南役であった縁から、元茂は同じく宗矩門下の木村友重と共に、家光自身の打太刀役、すなわち剣術の稽古相手という大役に抜擢されたのである 1 。
これは、外様大名の、それも家督を継げない庶長子という立場からは考えられないほどの栄誉であった。将軍の身辺に日常的に仕え、その稽古相手を務めることは、公式な席次や家格を超えて、将軍個人との直接的で強固な信頼関係を築くまたとない機会を意味した。『元茂公御年譜』によれば、この打太刀役としての奉公に対し、幕府から米千俵を下賜されたと記録されており、彼の幕府内での地位と経済的基盤の向上に具体的に貢献したことがわかる 2 。
この一連の経緯は、元茂が自らの置かれた状況を冷静に分析し、極めて戦略的に行動していたことを物語っている。彼にとって剣術は、単なる武芸の鍛錬や自己研鑽ではなかった。それは、家督という公的な権威を失った彼が、自らの価値を証明し、政治の中枢に直接食い込むための最も有効な「政治的資本」であった。将軍の稽古相手という極めて個人的な立場を確保することで、彼は制度的な壁を飛び越え、家光という最高権力者とのパーソナルな信頼関係を構築した。この無形の資産こそが、後に小城藩が「佐賀藩の支藩」でありながら「幕府から一目置かれる」 5 という特異な地位を築く上での、何物にも代えがたい礎となったのである。元茂の剣は、人を斬るためだけではなく、自らの運命と政治的な道を切り拓くための、鋭利な刃であった。
元茂の剣が江戸で名声を得る一方、彼の故郷である肥前では、新たな藩の創設に向けた動きが着々と進んでいた。その第一歩は、元和3年(1617年)に記される。この年、元茂は祖父であり佐賀藩の藩祖である鍋島直茂の養子となる形で、直茂の隠居領(定米にして約1万石)と、直茂に仕えていた家臣団「御待(おまち)」をそのまま相続した 2 。これが、小城鍋島家の直接的な始まりである。
さらに同年12月、父である佐賀藩主・鍋島勝茂からも新たに所領(定米にして約1万石)が分知された 2 。これにより、元茂の所領は定米の合計で2万381石となり、独立した大名としての経済的基盤が確立された 4 。
元茂の領地はその後も拡大を続けた。寛永5年(1628年)の記録では表高5万7,452石 7 、そして最終的には、明暦2年(1656年)頃の記録において、表高7万3,252石(一般に7万3千石と称される)で確定する 2 。この石高は、佐賀鍋島一門の中でも突出して高く、廃嫡されたとはいえ、父・勝茂が決して彼を冷遇していなかったこと、むしろその能力を高く評価し、一門の重鎮として強力に支援していたことを物語っている 1 。当初は佐賀藩領内に分散していたこれらの所領は、やがて小城郡一帯に集約され、小城藩としての統治基盤が整えられていった 2 。
時期 |
経緯 |
石高(定米・表高) |
典拠 |
元和3年(1617)4月 |
祖父・鍋島直茂の隠居領を相続 |
定米 10,363石 |
7 |
元和3年(1617)12月 |
父・鍋島勝茂より分知 |
定米 10,018石(合計 20,381石) |
7 |
寛永5年(1628)頃 |
「惣着到」による記録 |
表高 57,452石 |
7 |
明暦2年(1656)頃 |
「泰盛院様御印着到」による記録 |
表高 73,252石(最終石高) |
2 |
こうして成立した小城藩は、その成り立ちからして極めて特異な地位を占めることになった。寛永17年(1640年)、幕府から佐賀藩の「部屋住の分家」として正式に公認され 6 、さらに寛永19年(1642年)には、同じく支藩である蓮池藩・鹿島藩と共に隔年での参勤交代を開始した 2 。これにより、小城藩は幕府に対して大名としての奉公義務を直接負うことになり、独立した藩としての性格を強めた。
しかしその一方で、江戸時代を通じて幕府から領地の支配を公的に認める朱印状が交付されることはなく、あくまで佐賀藩の「内分分家(内分大名)」という位置づけに留まった 2 。この制度上の曖昧さは、小城藩が「佐賀藩の家臣」でありながら、同時に「幕府の直臣に近い扱いを受ける大名」という二重の性格を持つことを意味していた。
この二重性は、元茂の政治的立ち回りの巧みさを示すものであった。彼はこの制度的な曖昧さを逆手に取り、幕府に対しては将軍家光との個人的な繋がりを背景に独立した大名のように振る舞い、直接の役目をこなすことで発言力を確保した 21 。他方、佐賀本藩に対しては一門の筆頭支藩としての立場を堅持し、鍋島家全体の中での重石としての役割を果たした。この絶妙なバランス感覚によって、元茂は自藩の自立性と影響力を最大化することに成功したのである。この複雑な関係性は、後の時代に佐賀本藩と支藩間の緊張関係を生む伏線ともなったが 7 、元茂の代においては、彼の非凡な政治感覚を示すものであった。
藩主となった元茂にとって、その力量が試される最初の大きな舞台は、寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱であった。彼は父・勝茂と共に藩兵を率いて出陣し、この大規模な一揆の鎮圧戦に参加した 1 。これは、新興藩の藩主として、軍事指揮能力と幕府への忠誠を公に示す絶好の機会であった。乱の鎮圧後、父・勝茂が佐賀城の本丸に入ったのに対し、元茂は西の丸に入ることを許されており、佐賀藩内における彼の序列の高さがうかがえる 1 。
この島原の乱に関しては、一つの興味深い逸話が伝えられている。佐賀藩が軍令違反に問われ、改易(領地没収)の危機に瀕した際、元茂が江戸城で老中たちを相手に一歩も引かず、その気迫で圧倒して藩の危機を救ったというものである 24 。この逸話の真偽は定かではないが、彼が単なる武人ではなく、藩の存亡を賭けた政治交渉の場で胆力と交渉力を発揮できる人物であった可能性を示唆している。
剣豪や将軍の側近としての華やかな側面の裏で、元茂は藩の創設者として、統治体制の確立という地道な実務にも着手していた。史料によれば、彼は小城藩主であると同時に、佐賀本藩の「小城郡代」を兼任していたとされる 2 。これは、自らの藩領に留まらず、小城郡全体の行政権や警察権を掌握していたことを意味し、本藩の権威を利用しつつ自らの支配を地域一帯に浸透させる、非常に巧みな統治手法であった。
元茂の治世における具体的な治水事業や産業振興策に関する詳細な記録は乏しい 1 。しかし、次代の2代藩主・直能の時代に小城の城下町が本格的に形成され 22 、3代藩主・元武の時代から幕府の公役を恒常的に担うようになる 21 ことから、その全ての基礎が初代藩主である元茂の代で築かれたことは疑いようがない。
また、彼は晩年に至るまで、自らが築いた幕府と佐賀本藩との二重の関係性を活かし、両者の間に立つ仲介役として奔走した 6 。元茂の藩主としての最大の治績は、革新的な政策を打ち出したことよりも、むしろ自らが置かれた複雑な政治環境の中で、新しく生まれた小城藩という組織をあらゆる脅威から「守り」、盤石なものとして次代へ「繋いだ」ことそのものであった。彼の最大の功績は、小城藩という存在そのものを確立させたことに尽きるのである。
鍋島元茂の人物像を語る上で欠かせないのが、武人としてだけではない、深い教養を備えた文化人としての一面である。彼は柳生新陰流の剣技を極める一方で、生花や茶道といった諸芸にも深く通じていた 4 。その多才ぶりは『元茂公御年譜』に「御一代文武の道御修行厚く、御多芸の御事、常人の及び奉る処にあらず」と絶賛されるほどであり、生涯で23種類もの文武の諸芸に師事し、20種あまりの免状(免許)を受けたと言われている 6 。
さらに、当時高名な儒学者であった木下順庵に師事して詩文や漢学を学ぶなど、その知的探求心はとどまるところを知らなかった 18 。彼のこうした姿勢は、武力のみに頼る「武断政治」から、学問や礼節を重んじる「文治政治」へと移行しつつあった江戸時代初期において、大名に求められる理想像を体現するものであった。
元茂の文化人としての一面を最も雄弁に物語るのが、彼が築いた蔵書のコレクションである。その基礎となったのは、祖父・直茂から譲り受けた慶長期写の『平家物語』や明版の漢籍『鼎鐫増補攷正註釋書言故事紀林』といった貴重な書物であった 18 。直茂の署名や識語が記されたこれらの書物は、元茂が血統的な嫡流ではないものの、文化的・精神的には藩祖の遺志を継ぐ者であるという、強力な正統性の象徴となった。
元茂自身も、和漢の典籍を精力的に収集した。その蔵書は、慶長古活字版の『東坡先生詩』といった漢籍から、古活字版の『枕草子』や『徒然草』といった日本の古典、さらには近世初期の物語草子である『犬之双紙』に至るまで、極めて広範な分野に及んだ 18 。のみならず、謡曲、茶道、馬術、医術に関する専門書も含まれており、彼の旺盛な知的好奇心を物語っている 18 。
この元茂の個人的な収集活動こそが、現在に伝わる「小城鍋島文庫」の源流となった。彼の文人としての活動は、単なる趣味の域を超えていた。それは、新興藩である小城藩に文化的権威を与え、自らの統治の正統性を補強し、そして後世に永く残る知的遺産を創造するための、高度に戦略的な営みであったと言えるだろう。
文武両道にわたり、激動の時代を駆け抜けた鍋島元茂であったが、承応3年(1654年)11月11日、参勤交代で滞在中の江戸にてその生涯を閉じた 1 。享年53。その亡骸は江戸・麻布の賢崇寺に葬られ、法名は「祥光院殿月堂善珊大居士」と贈られた 1 。
彼の跡は、正室・於仁王(鍋島茂里の娘)との間に生まれた長男の鍋島直能が継承した 1 。直能は父の遺志を継ぎ、小城藩二代藩主として藩政を担うと共に、父・元茂の菩提を弔うために祥光山星巌寺を建立している 9 。元茂が一代で築き上げた小城藩は、その後も鍋島家によって治められ、幕末の動乱を経て明治維新を迎えるまで存続した。
鍋島元茂の生涯を俯瞰するとき、彼が単に「運命に翻弄された不遇の嫡男」という言葉で片付けられるべき人物ではないことは明らかである。むしろ彼は、廃嫡という逆境を、自らの人生を切り拓くための出発点へと転換させた稀有な人物であった。
彼は、政治の中心地である江戸において、自らの剣技と教養という個人的な才覚を武器に、将軍・徳川家光との個人的な信頼関係という、他の誰にも真似のできない最強の切り札を手に入れた。そして、その卓越した政治的才覚とバランス感覚をもって、本藩である佐賀藩とは異なる独自の権力基盤を持つ七万三千石の雄藩を、文字通り一代で築き上げたのである。
彼の生涯は、徳川幕藩体制という巨大な社会構造の中で、一個人の資質、戦略、そして胆力が、いかにして運命を克服し、新たな歴史を創造しうるかを示す力強い実例である。彼が確立した小城藩の「自立性と従属性の二重構造」は、後世の藩経営に複雑な課題を残した一方で、鍋島一門全体の政治的影響力を多層的かつ強固なものにする上で、計り知れない役割を果たした。武の道と文の道、その両方において頂点を極め、一藩の祖となった鍋島元茂。彼の存在は、新たな秩序が形成されていく江戸初期という時代のダイナミズムそのものを象徴している。