最終更新日 2025-07-23

鍋島光茂

鍋島光茂は佐賀藩二代藩主。殉死禁止令や三家格式で藩権力を確立し、中央集権化を推進。儒学奨励や鍋島焼保護など文治政策も行い、徳川家との縁で権威を強化。

肥前佐賀藩二代藩主 鍋島光茂:藩権力の確立と文治主義の相克

序論:泰平の世の藩権力確立者、鍋島光茂

本報告書は、肥前佐賀藩二代藩主・鍋島光茂(なべしま みつしげ、1632-1700)の生涯と治績を、多角的かつ徹底的に分析するものである。光茂は、単に初代藩主・鍋島勝茂の跡を継いだ世襲の君主としてのみならず、戦国の遺風がなお色濃く残る時代から泰平の世へと移行する過渡期において、佐賀藩の権力基盤を決定的に固めた「藩権力の確立者」として再評価されるべき人物である。

彼の治世は、一見矛盾する二つの側面を併せ持つ。一つは、藩主親族である三支藩の権力を抑制し、藩士の生死にまで介入するなど、冷徹とも言える手腕で藩内の中央集権化を断行した強権的な政治家としての一面である。もう一つは、儒学を奨励して聖堂を建立し、和歌を深く愛して公家の秘伝「古今伝授」を拝受するなど、文化の力によって藩の威光を高めようとした文治主義者としての一面である。

この光茂の統治と人物像が作り出した土壌からは、後世、全く性質の異なる二つの文化的遺産が生まれることとなった。一つは、光茂への忠誠心ゆえに殉死を禁じられ、その鬱積した武士の理想を語った『葉隠』。もう一つは、鍋島家による権力掌握の歴史的経緯から生まれた怨念が、光茂を当事者として描く怪談「鍋島化け猫騒動」である。

本報告書では、光茂の三大政策とされる「殉死禁止令」、「三家格式」の制定、そして文治政策を主軸に据え、彼がいかにして佐賀藩の支配体制を盤石なものにしたかを論証する。さらに、その過程で生まれた文化的・社会的影響を分析し、近世初期の大名が直面した課題と、その統治が後世に与えた複雑な遺産を明らかにすることを目的とする。

【表1:鍋島光茂 略年表】

和暦

西暦

年齢

主要な出来事

出典

寛永9年5月23日

1632

1歳

鍋島忠直の嫡男として誕生。母は松平忠明の娘・牟利。

1

寛永12年

1635

4歳

父・忠直が疱瘡により23歳で死去。

3

(不詳)

-

-

元服し、三代将軍・徳川家光より偏諱を受け「光茂」と名乗る。

2

慶安2年

1649

18歳

米沢藩主・上杉定勝の娘・虎姫と結婚。

5

承応元年

1652

21歳

長男・綱茂(後の三代藩主)が誕生。

2

明暦3年3月24日

1657

26歳

祖父・勝茂の死去に伴い、家督を相続し佐賀藩二代藩主となる。

1

明暦3年

1657

26歳

正室・虎姫が23歳で死去。

1

寛文2年

1662

31歳

幕府に先んじて藩内に「殉死禁止令」を発布。

2

寛文3年

1663

32歳

中院通純の娘・甘姫を継室に迎える。

1

寛文4年

1664

33歳

四男・吉茂(後の四代藩主)が誕生。

5

延宝3年

1675

44歳

藩の御用窯を有田から大川内山に移す。

11

天和3年

1683

52歳

「三家格式」を制定し、三支藩の統制を強化。世禄制を実施。

2

元禄4年

1691

60歳

佐賀城二の丸に聖堂を建立。

1

元禄6年

1693

62歳

藩窯に対し、品質向上と技術漏洩防止を自ら指示。

11

元禄8年

1695

64歳

隠居し、家督を長男・綱茂に譲る。

1

元禄13年5月16日

1700

69歳

死去。臨終の床で、山本常朝より古今伝授拝受の報告を受ける。

1


第一章:藩主就任までの道程 — 不安と期待を背負った継承

鍋島光茂が佐賀藩主となるまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。その出自は彼に強力な権威をもたらす一方で、継承過程の不安定さは、彼の後の治世における統治スタイルを方向づける重要な原体験となった。

第一節:誕生と血脈 — 徳川家との二重の縁

光茂は寛永9年(1632年)5月23日、初代佐賀藩主・鍋島勝茂の四男で嫡子であった鍋島忠直の長男として誕生した 1 。彼の血筋には、二重の意味で徳川家の権威が織り込まれていた。

第一に、母・牟利(むり、無垢子)が、徳川家康の外孫にあたる姫路藩主・松平忠明の長女であったことである。これにより、光茂は徳川家康の玄孫(ひ孫の子)という、極めて高貴な血統を持つことになった 2 。主家であった龍造寺家から実権を奪う形で成立した鍋島家にとって、その統治の正統性は常に潜在的な課題であった 14 。この弱点を補うため、初代・勝茂は家康の養女・菊姫を正室に迎えるなど、幕府との関係強化に腐心してきた 6 。光茂の代における「家康の血」という事実は、この鍋島家の基本戦略をさらに強固にするものであった。

第二に、元服に際し、三代将軍・徳川家光から偏諱(へんき、名前の一字を授かること)を受け、「光茂」と名乗ったことである 2 。将軍直々の名の一字を拝領することは、主従関係を明確にし、幕府からの特別な庇護を内外に示す強力な象徴であった。

この「血縁」と「偏諱」という二元的権威は、光茂にとって、藩内における自らの支配を絶対的なものにするための強力な後ろ盾となった。彼の治世における、時に強権的とも映る政策の数々は、この徳川家という中央の最高権威との強固な結びつきがあったからこそ可能であった側面は否定できない。

第二節:父の早世と嫡孫継承 — 危うい権力のバトン

光茂の人生は、わずか4歳の時に大きな転機を迎える。藩主の座を約束されていた父・忠直が、当時不治の病であった疱瘡(天然痘)にかかり、23歳という若さで急逝したのである 3 。父の死は、幼い光茂(幼名:翁介)の運命を大きく揺るがした。

本来ならば、藩主の跡継ぎが不在となれば、その兄弟が後継となるのが通例であった。史料によれば、祖父である勝茂も、光茂がまだ幼すぎることを理由に、一時は忠直の弟にあたる鍋島直澄(後の蓮池藩初代藩主)を後継者として考えていたとされる 4 。これは、光茂の継承が決して安泰ではなかったことを示唆している。この継承危機を乗り越え、光茂が「嫡孫継承」という形で後継者の地位を確保できたのは、祖父・勝茂の最終的な決断によるものであった 3

しかし、この経験は光茂とその側近たちにとって、叔父たちが潜在的な政敵となりうるという強烈な原体験として刻まれた可能性が高い。権力継承の過程で生じたこの不安定な記憶は、彼が後に藩主となり、叔父たちが治める三支藩に対して強硬な姿勢で臨み、その権力を徹底的に抑制しようとする政策の根源的な動機となったと推察される。光茂の治世は、いわば、自らの権力の脆弱性を克服するための闘争の連続であり、その原点は、父の早世と危うい権力のバトンタッチにあったのである。

第三節:継承時の佐賀藩 — 初代藩主・勝茂が遺した光と影

明暦3年(1657年)、祖父・勝茂が78歳で没すると、光茂は26歳で家督を継ぎ、正式に佐賀藩二代藩主となった 1 。彼が継承した佐賀藩は、初代・勝茂が約半世紀にわたって築き上げた、安定と同時に構造的な課題を内包する組織であった。

勝茂は、鍋島一族による領内支配を盤石にするため、自らの息子たちを分家させ、小城藩、蓮池藩、鹿島藩という三つの支藩を創設していた 16 。これは、旧主家である龍造寺一族に対抗し、鍋島家の勢力を固めるための賢明な策であった 18 。また、龍造寺一門の者を藩の要職である請役家老に任命するなど、旧勢力への配慮も怠らなかった 19

しかし、この勝茂が築いた体制は、光茂の視点から見れば、権力の分散に他ならなかった。勝茂の時代は、彼自身の絶対的な権威と、藩主とその息子たちという親密な血縁関係によって、本藩と支藩の関係は比較的良好に保たれていた。しかし、世代が変わり、光茂(甥)が本藩の藩主となり、その叔父たちが支藩主となると、この関係は「本藩対支藩」という政治的な対立構造へと容易に転化しうる危険性をはらんでいた。

加えて、龍造寺高房の自害に端を発する怪異の噂や、鍋島家に対する怨念の物語は、藩内に燻る火種として存在し続けていた 15 。光茂が継承したのは、安定した藩領であると同時に、将来的な内部対立の火種を内包した「分権的」な統治構造と、旧主家との未解決の歴史的確執だったのである。彼の藩主としての生涯は、この勝茂が遺した構造を、自らを中心とする「中央集権的」な体制へと作り変える、壮大な改革のプロセスそのものであった。

第二章:藩政の確立と中央集権化 — 泰平の世の「内部固め」

藩主となった光茂は、自らの権力基盤を盤石にするため、矢継ぎ早に藩政改革に着手した。その政策は、武士の価値観、藩の統治構造、そして親族関係という、藩を構成する根幹部分にまで踏み込む徹底したものであった。これらは、泰平の世における新たな統治体制を構築するための「内部固め」であった。

第一節:幕府に先駆けた殉死禁止令 — 忠義の再定義

光茂の治績の中で最も特筆すべきものの一つが、寛文2年(1662年)に発布された「殉死禁止令」である。これは、幕府が武家諸法度の改訂に際して殉死を禁じた寛文3年(1663年)に1年先駆ける、先進的な政策であった 1

この禁止令が発布される直接のきっかけは、前年の寛文元年(1661年)に、光茂の叔父にあたる白石鍋島家の初代・鍋島直弘が死去したことであった。その際、直弘に深い恩義を感じていた家臣36人が追腹(殉死)を願い出たのである 9 。しかし、光茂はこれを断固として許さなかった。彼は、殉死を願い出た家臣たちに対し、「真の忠義とは、主君の後を追って無益に死ぬことではない。遺された幼い跡継ぎを補佐し、その家が末永く続くように奉公することこそが、亡き主君への報恩であり、現藩主への忠義となる」と説いたという 15

この光茂の判断は、単なる人道主義的な観点からのみ理解されるべきではない。これは、藩主への忠誠を一元化するための、高度な政治的手段であった。殉死は、家臣個人の「亡き主君への個人的な忠誠心」の究極の表現である。藩主の一族が亡くなるたびに、有能な家臣が多数失われることは、藩にとって大きな損失であるだけでなく、藩内に「直弘派」「〇〇派」といった、亡き主君に紐づく派閥の記憶を強く残すことになる。

光茂は、「忠義」の定義を、死んだ個人への忠誠から、存続する「家(藩)」への忠誠、すなわち「現藩主への奉公」へと巧みに再定義した。これにより、家臣の忠誠の対象は、過去のいかなる主君でもなく、常に現在の藩主ただ一人に集約されることになった。これは、藩内の権力構造を、複数の求心力を持つ多極的なものから、藩主を唯一の頂点とする一元的なピラミッド構造へと転換させる、極めて効果的なイデオロギー操作であった。皮肉にも、この政策が、後に『葉隠』という「死」を美化する思想を生み出す遠因となったことは、この改革が武士の伝統的な価値観に与えた衝撃の大きさを示している 22

第二節:三支藩との確執と「三家格式」の制定 — 親族との権力闘争

光茂の藩政改革において、最大の障壁となったのが、小城、蓮池、鹿島の三支藩の存在であった。これらの支藩は、光茂の伯父・元茂、叔父・直澄、叔父・直朝がそれぞれ藩主を務めており、血縁的には極めて近い関係にあった 17 。しかし、彼らは光茂が進める本藩中心の集権的な政治運営に、公然と批判的な態度をとっていた 24

勝茂の時代には、支藩は本藩の「藩屏」として一定の独立性を保ち、その家臣たちも佐賀城下に屋敷を持ち、本藩の家臣と分け隔てなく扱われていたという 25 。しかし、光茂はこれを藩主権力を脅かすものと見なし、支藩の家臣を陪臣(家臣の家臣)として露骨に差別的な待遇を取るようになった。これにより、佐賀に在住していた支藩の家臣たちは次々と去っていき、本藩と三支藩の関係は急速に悪化した 2

三支藩は連名で光茂に抗議したが、彼は一切譲歩せず、天和3年(1683年)、ついに「三家格式」と呼ばれる藩法を制定した 1 。これは、三支藩を佐賀本藩の完全な統制下に置くことを目的としたものであった。残された史料によれば、その内容は以下のようなものであった 25

  • 出陣や長崎警備の際は、本藩の指揮に完全に従うこと。
  • 他家との縁組を行う際は、必ず本藩に相談すること。
  • 藩内の法度は、支藩の領民に至るまで遵守させること。
  • 支藩の家老など重臣に切腹を命じる際は、必ず本藩に届け出ること。
  • 隠居、家督相続、官位昇進、参勤交代などは、すべて本藩を通じて幕府に伺いを立てること。

これに対し、支藩側は「勝茂公の御代とは大違いだ」「我々をまるで(幕府の)御三家の格であるかのように仕立て上げ、その家臣を陪臣のように扱うのは悪の根元である」と、強い不満を表明している 25

この「三家格式」の制定は、単なる藩法改革ではない。それは、先代・勝茂が築いた「分権的」な統治モデルを、光茂が自らの「中央集権的」な統治モデルで塗り替えた、世代間闘争の勝利宣言であった。彼は、親族であるという「情」を排し、藩主と藩臣という「理」の関係を叔父たちに突きつけたのである。この非情とも言える政治的決断こそが、佐賀藩の権力構造を、近世的な中央集権体制へと移行させる決定的な一歩となった。

第三節:世禄制の導入と藩士統制

光茂は、殉死禁止令と三家格式によって藩内の権力構造を整理した後、藩士の統制を完成させるための仕上げとして、世禄制を導入した 2 。世禄制とは、家臣の地位と禄高(給与)を世襲で保障する制度である。

これは一見、家臣に有利な制度に見えるが、藩主側にも極めて大きな利点があった。家臣は、自らの家が代々安泰であることが保証される代わりに、藩主への反逆や不忠は、一族全体の没落を意味することになる。そのため、家臣団はより従順になり、藩の秩序は安定する。また、能力主義的な登用によって下の者が上の者を追い落とす、いわゆる「下剋上」の可能性を制度的に排除することで、藩内の身分秩序は固定化され、長期的な安定がもたらされる。

光茂が、殉死を禁じて忠誠の対象を一本化し、三家格式で権力構造を整理した上で、この世禄制を導入したことは、一貫した政策パッケージの一環として理解できる。彼は、藩の支配システムを、個人のカリスマに依存する「人的支配」から、永続的な「制度的支配」へと移行させ、自らの死後も揺らぐことのない統治体制を築き上げようとしたのである。

第三章:文化・経済政策と藩の発展 — 文治による威光の創出

鍋島光茂は、権力構造の再編という「力」の政策と並行して、文化や経済の振興という「徳」の政策にも力を注いだ。彼が目指したのは、武力による支配だけでなく、文化的な権威や経済的な豊かさによって藩の威光を高める「文治主義」の実現であった。

第一節:文治主義の推進と儒学 — 統治理念の表明

戦国乱世が終わり、泰平の世が訪れると、為政者に求められる資質は、武勇から、民を安んじ、社会の秩序を維持する「徳」へと変化していった。この新しい時代の統治理念の根幹をなしたのが儒学である。光茂は、この時代の変化を深く理解していた。

その象徴的な行動が、元禄4年(1691年)に佐賀城の二の丸に、儒学の祖である孔子を祀る聖堂を建立したことである 1 。城という軍事拠点の中枢に聖堂を設けることは、単なる学問奨励以上の意味を持っていた。それは、佐賀藩の統治理念が、もはや「武」ではなく、儒教的な徳治主義という「文」に基づいていることを、藩内外に宣言する強力な政治的メッセージであった。この聖堂は、後に三代藩主・綱茂によって城南の庭園「観頤荘」に移され、藩士教育の中心的な役割を担っていくことになる 7

第二章で見た中央集権化という「力」の政策と、この「徳」による統治という理念は、光茂の治世を支える両輪であり、彼が新しい時代の為政者像を明確に意識していたことを示している。

第二節:藩窯の保護と伊万里・鍋島焼 — 「用の美」による外交戦略

光茂の文治政策は、磁器生産の分野においても発揮された。彼は、佐賀藩が誇る磁器、特に「鍋島焼」の育成に並々ならぬ情熱を注いだ。これは単なる殖産興業ではなく、藩の威信をかけた高度な文化・外交戦略であった。

延宝3年(1675年)、光茂は藩の御用窯を、技術が外部に漏れやすい有田から、山に囲まれ管理が容易な大川内山へと移転させた 11 。さらに元禄6年(1693年)には、光茂自らが藩窯に対して、品質のさらなる向上と、技術の漏洩を厳しく禁じる指示を出している 11

ここで生産された「鍋島焼」は、市場で広く販売される商品ではなかった。その多くは、採算を度外視して最高の技術と材料を投入して作られ、将軍家や諸大名への献上品、あるいは贈答品として用いられた 11 。大川内山という隔絶された地に移窯し、職人たちを厳格な管理下に置いて技術の秘匿を徹底したことからも、これが単なる産業振興ではなく、藩の機密にも等しい重要プロジェクトであったことが窺える。

光茂は、精緻で気品あふれる最高級の磁器という「モノ」を通じて、言葉以上に雄弁に、鍋島家の文化水準の高さと権威を語らせようとしたのである。これは、現代でいうところのソフトパワー戦略であり、武力や経済力とは異なる次元で、藩の格を示すための洗練された手法であった。

第三節:領内開発と財政 — 泰平の礎を支える

光茂の治世は、藩の経済的基盤を強化するための地道な努力も続けられた時代であった。佐賀藩では、藩祖・直茂の時代から、家臣の成富茂安らによる大規模な治水事業が進められ、広大な佐賀平野が豊かな穀倉地帯へと生まれ変わっていった 26 。光茂の時代である寛文年間(1661-1673)においても、馬頭井堰や菖蒲坂溜池の建設といった治水・灌漑事業が継続して行われた記録が残っており 29 、藩の生産力向上への取り組みが着実に継承されていたことがわかる。

しかしその一方で、佐賀藩の財政には大きな影が差し始めていた。福岡藩と共に課せられていた長崎警備の重責である。海外への唯一の窓口である長崎の防衛は、幕府にとって最重要任務の一つであり、そのための出費は佐賀藩の財政を恒常的に圧迫する大きな要因となっていた 31

光茂の治世は、中央集権化や文化政策といった「内向き」の投資と、長崎警備という「外向き」の義務的支出の双方をこなさなければならない、困難な舵取りを迫られた時代であった。彼の統治によって藩の威光と安定は増したが、そのコストは着実に藩の財政に蓄積されていった。光茂の後継者である四代・吉茂や五代・宗茂の代には、財政難が深刻化し、藩政改革が急務となっていく 32 。これは、光茂個人の浪費というよりは、彼の時代に確立された「大藩としての体面を保つための構造的な出費」が、将来の財政難の遠因となったことを示唆している。

第四章:光茂の人物像と私生活 — 統治者の素顔

鍋島光茂の公的な治績の背後には、どのような人間性が隠されていたのだろうか。彼の文化的な素養や家族との関係を紐解くことで、厳格な統治者の素顔に迫ることができる。

第一節:歌道への傾倒と古今伝授 — 文化人としての極致

光茂は、武辺一辺倒の武将ではなく、和歌に深い造詣を持つ一流の文化人であった。史料によれば、彼は幼少期から和歌を好み、藩主となってからも、在国の際にはしばしば家臣らと連歌会を催し、その歌帖を神社に奉納していたという 34

彼の文化人としての情熱が最もよく表れているのが、晩年に二条流歌道の宗匠であった公家・三条西実教から「古今伝授」を受けたことである 12 。「古今伝授」とは、『古今和歌集』の解釈をめぐる秘伝を、師から弟子へと一子相伝で伝えるもので、和歌の世界における最高の権威の象徴であった。

この大事業の実現のために奔走したのが、側近の山本常朝(後の『葉隠』口述者)であった。常朝は主君の願いを叶えるため京都に赴き、困難な交渉の末、ついに伝授の約束を取り付けた。その報告が、病の床にあった光茂の元に届けられたのは、彼が亡くなる元禄13年(1700年)のことであった。光茂は臨終の床でこの知らせを聞き、大変喜んだと伝えられている 1

この「古今伝授」の拝受は、光茂個人の文化的な欲求の充足であると同時に、武家でありながら公家文化の最高峰に到達したことを天下に示す、鍋島家の権威付けの総仕上げでもあった。地方の一大名がこれを成し遂げたことは、鍋島家が単なる田舎の武将ではなく、中央の最高文化と通じる、洗練された名門であることを証明する行為であった。臨終の床での喜びは、これが彼にとって生涯をかけた事業であり、自らの治世と人生の完成を意味するものであったことを物語っている。

第二節:家族関係 — 二人の正室と四十一人もの子女

光茂の私生活、特に家族関係は、藩の安泰と発展を目的とした、極めて戦略的な側面を持っていた。

最初の正室は、米沢藩二代藩主・上杉定勝の娘である虎姫(柳線院)であった 1 。彼女は、光茂の父方の伯母・市姫が上杉家に嫁いで生まれた娘であり、光茂とは従姉弟の関係にあたる 6 。この婚姻は、東北の名門・上杉家との結びつきをより強固にするための政略結婚であった。虎姫との間には、後に三代藩主となる綱茂をはじめとする子供たちが生まれたが、彼女は明暦3年(1657年)に23歳の若さで亡くなってしまう 1

虎姫の死後、光茂は継室として、公家である中院大納言通純の娘・甘姫(栄正院)を迎えた 1 。鍋島家が公家から正室を迎えるのはこれが初めてのことであり、武家社会での地位を固めた上で、さらに朝廷とのパイプを築き、文化的な権威を高めようとする明確な意図が窺える。甘姫との間にも、四代藩主となる吉茂らが生まれた 5

光茂は、これら正室・継室のほかにも側室を置き、生涯で実に41人もの子女に恵まれたと記録されている 2 。この多産は、単に個人的な事情によるものだけではない。多くの子供たちは、藩内の重臣や他藩との縁組に用いられ、鍋島家を中心とする権力のネットワークを幾重にも張り巡らせるための、極めて重要な「資源」であった。

晩年、三代藩主となった息子の綱茂に男子が生まれなかった際には、自らの十五男である宗茂(後の五代藩主)を後継にするよう遺言するなど、その死の直前まで藩の跡継ぎ問題に深く関与し続けた 38 。光茂にとって、家族とは情愛の対象であると同時に、藩という組織を経営し、存続させていくための戦略の根幹だったのである。

【表2:鍋島光茂 関連系図(簡略版)】

コード スニペット

graph TD
subgraph 鍋島家
N_Naoshige[藩祖 直茂] --> N_Katsushige[初代 勝茂];
N_Katsushige --> N_Tadanao[忠直<br/>(光茂の父)];
N_Katsushige --> N_Motoshige[元茂<br/>(小城藩祖/光茂の伯父)];
N_Katsushige --> N_Naozumi[直澄<br/>(蓮池藩祖/光茂の叔父)];
N_Katsushige --> N_Naotomo[直朝<br/>(鹿島藩祖/光茂の叔父)];
N_Tadanao --> M_Mitsushige[<b>二代 光茂</b>];
end

subgraph 徳川・松平家
T_Ieyasu[徳川家康] --> M_Tadaakira_g[松平忠明の父];
M_Tadaakira_g --> M_Tadaakira[松平忠明];
M_Tadaakira --> M_Muri[母 牟利];
end

subgraph 上杉家
U_Katsushige[上杉景勝] --> U_Sadakatsu[定勝];
N_Katsushige --> N_Ichihime[市姫];
U_Sadakatsu -- 婚姻 --> N_Ichihime;
U_Sadakatsu --> T_Torahime[正室 虎姫];
end

subgraph 中院家
N_Michizumi[中院通純] --> A_Amahime[継室 甘姫];
end

subgraph 光茂の子女
M_Tsunashige[三代 綱茂];
M_Yoshishige[四代 吉茂];
M_Muneshige[五代 宗茂];
end

M_Muri -- 婚姻 --> N_Tadanao;
T_Torahime -- 婚姻 --> M_Mitsushige;
A_Amahime -- 婚姻 --> M_Mitsushige;
M_Mitsushige --> M_Tsunashige;
M_Mitsushige --> M_Yoshishige;
M_Mitsushige --> M_Muneshige;

style M_Mitsushige fill:#f9f,stroke:#333,stroke-width: 4.0px;

第三節:逸話に見る人間性 — 厳格な統治者の素顔

公的な記録からは見えにくい光茂の人間性を伝える逸話が、『葉隠』の中に残されている。それは、光茂が息子の綱茂(後の三代藩主)を江戸から初めて佐賀へ連れてきた時のことである。道中、道の両側で領民たちが平伏して一行を拝んでいるのを見て、光茂は綱茂を厳しく諭した。「自分は、人からこのように拝まれるような特別な地位にあるなどと、決して思ってはならない」と 39

この逸話は、光茂の厳格さが、単なる権威主義や傲慢さから来るものではなかったことを示している。彼にとって藩主という地位は、個人的な特権を享受するためのものではなく、領民に対して重い責任を負う公的な「役職」であるという、強い自己規律の意識が窺える。これは、戦国的な「力による支配者」から、儒教的な「徳による統治者」へと移行する時代の価値観を、彼自身が深く内面化していた証左と言える。

第二章で見た、叔父たちに対する非情とも思える厳しい態度も、この文脈で捉え直すことができる。それは、私的な親族関係よりも、藩主としての公的な立場と藩全体の秩序を優先した結果であり、彼の内面に一貫した統治哲学が存在していたことを示唆している。

第五章:後世への影響と伝説 — 二つの物語の源泉として

鍋島光茂の治世は、彼の死後、全く対照的な二つの著名な物語を生み出す源泉となった。一つは武士道の聖典とされ、もう一つは怪談として語り継がれた。彼の統治が後世に与えた影響は、この二つの物語の分析を通じて、より深く理解することができる。

第一節:『葉隠』誕生の背景 — 殉死を禁じられた武士の思想

江戸時代の武士道を語る上で欠かすことのできない書物、『葉隠』。その誕生には、鍋島光茂という存在が決定的に関わっている。

『葉隠』の口述者である山本常朝は、9歳の時から光茂の側に仕え、御小姓役や御書物役などを務め、光茂が亡くなるまでの30年以上にわたり、忠実な側近として奉公した 4 。常朝にとって、光茂は絶対的な主君であった。元禄13年(1700年)に光茂が69歳で亡くなると、常朝は主君の後を追って殉死することを強く望んだ。しかし、彼のその道を閉ざしたのは、彼が敬愛してやまない主君・光茂自身が定めた「殉死禁止令」であった 4

忠義の究極の形である殉死を禁じられた常朝は、その行き場のない忠誠心を仏道に向けるべく、出家して佐賀城下の黒土原に隠棲した 42 。その隠棲中の常朝を、同じく藩士であった田代陣基が訪ね、7年間にわたって聞き書きしたものが、後に『葉隠』としてまとめられたのである 22

ここに、歴史の逆説とも言うべき関係が浮かび上がる。『葉隠』に溢れる「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」といった、死を賛美する過激とも言える言葉の数々は、光茂が築いた「文治の世」に対する、旧来の武士の価値観からのアンチテーゼであった。光茂の治世は、藩の官僚化・制度化を進め、武士の役割を「戦士」から「行政官」へと変えていく時代であった。常朝は、この新しい時代の藩主に仕えながらも、心の中では古い武士の理想を抱き続けていた。

光茂の死と、彼自身が定めた殉死禁止令という法。この矛盾と葛藤が、常朝を内省へと向かわせ、もはや実践の場を失った武士の理想を、言葉の世界で純化・結晶させることになったのである。『葉隠』は、光茂の文治政策がもたらした「平和」と「法治」の時代であったからこそ、その反動として生まれた、観念的でノスタルジックな武士道の書であった。光茂なくして『葉隠』は生まれなかった、という強い因果関係がここには存在する。

第二節:「鍋島化け猫騒動」の虚実 — 語り継がれた政治的寓話

光茂の名が、もう一つの全く異なる文脈で後世に知られることになったのが、怪談「鍋島化け猫騒動」である。

この物語にはいくつかのバリエーションがあるが、最も一般的な筋書きは、二代藩主・鍋島光茂が、旧主家・龍造寺家の末裔である龍造寺又七郎と囲碁を打っている最中、些細なことで激昂し、彼を斬殺してしまうというものである。又七郎の母は息子の非業の死を嘆き、飼い猫に「この恨みを晴らしておくれ」と言い遺して自害する。その母の血を嘗めた猫が化け猫となり、城内に忍び込んで光茂の愛妾を食い殺して成り代わり、夜な夜な光茂を苦しめるが、最後は忠臣によって退治される、というものである 14

もちろん、これは史実ではない。しかし、この物語は、鍋島家の権力掌握という政治的出来事によって生じた社会的な記憶と怨念が、大衆的な怪談というフォーマットを借りて語り継がれた「政治的寓話」として読み解くことができる。物語の背景には、鍋島家が主家であった龍造寺家から実権を奪い、龍造寺家が没落していったという、紛れもない史実が存在する 14 。特に、龍造寺最後の当主・高房が非業の死を遂げた後、その亡霊の噂が城下に流れたことなどから、龍造寺家の怨念というテーマは当時から人々の関心事であった 20

この物語の加害者に光茂が設定されているのは、彼が、祖父・直茂、父・勝茂と続いた権力奪取のプロセスを、三家格式の制定などによって最終的に「確立・固定化」した二代目藩主であったからである。龍造寺家の視点から見れば、その没落を決定づけた象徴的な存在と見なされたのである。「化け猫」という超自然的な存在は、公には語ることのできない旧主家・龍造寺家の「恨み」や「祟り」を擬人化(擬獣化)したものに他ならない。この物語が講談や歌舞伎で人気を博したのは、権力交代劇の裏面史に対する大衆の好奇心や、敗者への判官贔屓の感情に訴えかけたからであろう。化け猫騒動は、歴史の敗者の視点から、勝者である鍋島家の支配の正当性に疑問を投げかける、民衆レベルでの歴史解釈の一形態だったのである。

第三節:晩年と死

光茂は元禄8年(1695年)、64歳で隠居し、家督を長男の綱茂に譲った 1 。比較的早い段階での隠居は、自らが一代で築き上げた藩の統治システムが、自身の存在なくしても円滑に機能するかを見届け、安定した権力移譲を確実にするための、最後の仕上げであった可能性がある。

そして元禄13年(1700年)5月16日、光茂は69年の生涯を閉じた 1 。彼の死は、一個人の死であると同時に、彼が確立した「鍋島佐賀藩」という統治システムが本格的に自立して動き出す、時代の節目でもあった。

結論:近世大名としての鍋島光茂の総合的評価

鍋島光茂は、江戸時代前期という、戦国の記憶と泰平の秩序が交錯する時代において、佐賀藩のあり方を決定づけた極めて重要な藩主であった。

彼の最大の功績は、藩の統治体制を、近世的な中央集権官僚制へと再編したことにある。父の早世という継承の危機を乗り越え、徳川幕府の権威を巧みに利用しながら、藩内においては殉死禁止令によって忠誠のあり方を再定義し、「三家格式」の制定によって親族である支藩の力を抑制した。これにより、初代藩主・勝茂の時代にはまだ未分化であった権力構造は、光茂を絶対的な頂点とするピラミッド型の組織へと変貌を遂げた。これは、佐賀藩が長期的に安定存続していくための、揺るぎない基礎を築いた事業であった。

その人物像は、二面性によって特徴づけられる。親族との対立も辞さない冷徹な政治家であると同時に、儒学を奨励し、和歌の奥義を究めることに情熱を傾けた一流の文化人でもあった。この「力」と「徳」を両輪とする統治スタイルは、武勇が全てであった時代から、学問や教養が為政者の資質として求められる新しい時代への移行を体現するものであった。

そして、彼の歴史的遺産は、その治世が生み出した二つの対照的な物語に象徴される。彼の合理的な政策(殉死禁止令)は、その反動として、非合理的なまでの死への憧憬を語る『葉隠』を生み出した。また、彼が完成させた鍋島家の支配体制は、その正当性に疑問を符す民衆の記憶として、「鍋島化け猫騒動」という怪談の中で語り継がれた。これは、光茂の時代が、古い価値観と新しい秩序が激しくせめぎ合う、大きな歴史の転換点であったことを物語っている。

結論として、鍋島光茂は、単なる一地方の藩主にとどまらない。彼は、江戸時代という時代の精神を多面的に映し出し、その統治と葛藤が後世にまで深い影響を与え続けた、日本近世史における特筆すべき人物として評価されるべきである。

引用文献

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