鍋島直澄は、佐賀藩主・勝茂の子で徳川家康の養女を母に持つ。兄の早世で本藩継承候補となるも、反対で蓮池藩祖に。島原の乱で武功を挙げ、蓮池藩の基礎を築いた。藩の安定化に尽力した有能なリアリスト。
本報告書は、肥前蓮池藩の初代藩主、鍋島直澄(なべしま なおずみ)の生涯を多角的に検証し、その人物像と歴史的役割を深く掘り下げることを目的とする。彼の人生は、戦国の気風が色濃く残る時代から、徳川幕府による泰平の世が磐石となる江戸時代初期の過渡期を象徴している。直澄の生涯を追うことは、佐賀藩という特異な成り立ちを持つ藩が、いかにしてその統治体制を確立していったか、そしてその過程で生きた武士たちの複雑な人間関係の実像に迫ることに他ならない。
鍋島直澄が生きた時代、関ヶ原の戦いを経て成立した徳川幕府の下で、全国の大名家は新たな秩序への適応を迫られていた。中でも佐賀藩は、主家であった龍造寺氏から実権を奪う形で成立した経緯から、藩内における鍋島家の統治の正統性と安定化が喫緊の課題であった [1, 2]。直澄の生涯は、この「鍋島化」とも呼べる藩体制確立のプロセスにおいて、極めて重要な一翼を担うものであった。
佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂の子として生まれながらも、複雑な家督相続問題に翻弄され、最終的には支藩の祖となる道を歩んだ直澄。彼の存在は、江戸初期における佐賀藩の権力構造と、それを盤石にするための高度な政治戦略を理解する上で、不可欠な鍵となる人物である。本報告では、その出自から家督問題、武功、藩政、そして晩年に至るまで、彼の生涯を徹底的に詳述し、その歴史的意義を再評価する。
鍋島直澄は、元和元年(1616年)11月12日、肥前佐賀藩の初代藩主である鍋島勝茂を父として誕生した [3]。彼の母は、徳川家康の養女であり、武蔵国岩槻藩主・岡部長盛の娘である高源院(こうげんいん、通称は菊姫)である [4, 5]。この出自は、直澄に徳川将軍家との極めて強い血縁的繋がりをもたらし、彼の生涯における政治的立場を規定する重要な要素となった。
直澄の出生順については、資料によって「三男」[3, 6, 7] と「五男」[4, 8, 9, 10, 11] という記述が混在している。これは単なる記録の誤りではなく、当時の武家の複雑な家督意識を反映したものである。早世した兄・満千代 [11] や、側室の子である異母兄・元茂を含めた生物学的な出生順では「五男」となる。一方で、正室である高源院の子としては「三男」にあたる。正統性を強調する文脈において「三男」という呼称が用いられたことは、彼の血筋がいかに重要視されていたかを示唆している。
直澄の人生を理解する上で、彼の兄弟たちの存在は欠かせない。
勝茂は息子たちをそれぞれ支藩や分家の主とすることで、藩内における鍋島家の支配力を強化し、旧主・龍造寺家の影響力を相対的に弱めるという壮大な藩体制の再編、すなわち「鍋島化」を推進した。直澄もまた、この戦略の重要な一駒であった。
続柄 |
氏名 |
概要 |
父 |
鍋島勝茂 |
佐賀藩初代藩主。 |
母 |
高源院(菊姫) |
徳川家康の養女。岡部長盛の娘 [4]。 |
正室 |
牟利姫(むりひめ) |
兄・忠直の未亡人。徳川家康の外孫 [5]。 |
異母兄 |
鍋島元茂 |
佐賀藩支藩・小城藩の初代藩主 [12]。 |
同母兄 |
鍋島忠直 |
佐賀藩の世嗣であったが早世 [9]。 |
同母弟 |
鍋島直弘 |
白石鍋島家の祖 [15]。 |
同母弟 |
鍋島直朝 |
佐賀藩支藩・鹿島藩の初代藩主 [17]。 |
嫡男 |
鍋島直之 |
蓮池藩二代藩主。母は牟利姫 [5, 18]。 |
五男 |
鍋島直称 |
蓮池藩三代藩主 [19]。 |
五女 |
阿楽方 |
父・直澄の菩提を弔うため光桂禅寺を建立 [20]。 |
直澄の人生における最初の大きな転機は、世嗣であった兄・忠直の死後に訪れた。父・勝茂の強い意向により、直澄は忠直の未亡人であった牟利姫を正室として娶ることになった [4, 5]。
この婚姻は、単なる縁組ではなかった。牟利姫は、家康の養子であり、譜代大名の重鎮であった松平忠明の娘、すなわち徳川家康の外孫にあたる人物であった [5, 14]。そもそも忠直と牟利姫の婚姻自体が、佐賀藩と徳川幕府の関係を強化するための政略結婚であった。その未亡人を直澄が娶るということは、直澄を事実上、忠直の後継者として位置づけようとする勝茂の極めて政治的な意思表示であった。
龍造寺家からの権力移譲という正統性の脆弱さを抱えていた佐賀藩にとって、幕府との関係強化は至上命題であった。勝茂は、息子たちを徳川家と二重三重に結びつける「血縁戦略」によって、藩内における鍋島家の権威を絶対的なものにしようとした。直澄のこの婚姻は、その戦略の核心をなすものであり、彼の人生が藩の存亡をかけた政略と不可分であったことを物語っている。
直澄は正室・牟利姫との間に、後に蓮池藩二代藩主となる鍋島直之(なおゆき)を儲けた [5, 18]。直之は、佐賀藩二代藩主となる鍋島光茂(兄・忠直と牟利姫の子)とは異父兄弟という複雑な関係にあり、この関係性が後の本藩と支藩の緊張の一因ともなっていく [5]。
その他にも、五男で三代藩主となる直称(なおよし)[19] や、父の菩提を弔うために光桂禅寺を建立した五女・阿楽方(あらがた)[20] など、多くの子女に恵まれた [4]。彼らを通じて、蓮池鍋島家の血脈は後世へと繋がっていく。特に、娘が父のために寺を建てるという事実は、直澄の信仰心や、彼が家族から深く敬愛されていたことを示唆している。
寛永12年(1635年)、佐賀藩の世嗣であった鍋島忠直が、当時不治の病と恐れられた疱瘡により23歳の若さで急死した [5, 21]。この突然の悲劇は、ようやく安定しつつあった佐賀藩の継承計画を根底から揺るがす大事件であった。
忠直には嫡男・翁助(おうすけ)、後の二代藩主・鍋島光茂がいたものの、当時はわずか4歳(資料によっては2歳)の幼児であった [5, 6, 21]。戦国の気風がまだ色濃く残るこの時代において、幼君の擁立は家臣団の分裂や幕府による内政干渉を招きかねない、極めて危険な賭けであった。
藩主・勝茂は、この危機的状況を乗り切るため、一計を案じる。それは、亡き忠直の同母弟であり、武勇にも優れていた直澄を次期藩主として擁立するというものであった [6, 21]。前章で述べた、忠直の未亡人・牟利姫を直澄に再嫁させた一件は、まさにこの構想を実現するための重要な布石であった [4, 5]。これにより、直澄は血縁的にも立場的にも、忠直の後継者としての正統性を補強された形となった。
しかし、勝茂のこの構想は、藩内に大きな波紋を広げた。特に、庶兄であり小城藩主であった鍋島元茂をはじめとする重臣たちが、「正統な嫡孫(光茂)が現存する以上、叔父が家督を継ぐのは家筋の道理に反する」として猛烈に反対した [5, 6]。
この時の逸話は、後に佐賀藩の武士道精神を伝える書物として知られる『葉隠』に生き生きと描かれている。ある時、勝茂が幕府の老中を藩邸に招いた際、次の藩主として直澄を考えていることを示唆した。これを察した光茂の傅役(ふやく)・小倉の局(おぐらのつぼね)は機転を利かせ、幼い光茂に立派な衣装を着せて「若君様」として老中の前に披露し、その利発さを見せつけた。これにより、光茂が次期藩主であるという既成事実を内外に示し、勝茂の意図を覆したという [21]。
この『葉隠』の逸話は、後世の武士道精神を説くための教訓話として脚色されている側面が強い。しかし、この物語が語り継がれるほど、藩内に「直澄派」と「光茂派」の深刻な対立と緊張関係が実在したことの証左である。結局、勝茂も重臣たちの強い反対を押し切ることはできず、直澄の家督相続は沙汰やみとなり、光茂が佐賀藩二代藩主となることが確定した [4, 6]。
この一件は、直澄にとって大きな挫折であったに違いない。しかし同時に、彼の新たな道を決定づける重要な転換点でもあった。一度は本藩の後継者と目された人物を、単なる重臣として冷遇することは、将来の火種となりかねない。彼の影響力と能力に見合った名誉と実利を与える必要性が生じ、これが後の蓮池藩立藩という形で結実するのである。家督相続の挫折は、結果として佐賀藩が「三支藩体制」という新たな統治システムを完成させるための、最後の重要なピースを埋める契機となった。これは、一個人の運命が、藩全体の構造改革へと直結した典型的な事例と言えよう。
家督相続問題で揺れる直澄に、自らの価値を内外に証明する絶好の機会が訪れる。寛永14年(1637年)、九州を震撼させた島原・天草一揆、いわゆる「島原の乱」が勃発した。この時、23歳であった直澄は、父・勝茂の名代として、佐賀藩軍の総指揮官の一人、大手軍の将として出陣することになった [3, 6]。
佐賀藩からは、兄である小城藩主・元茂が搦手(からめて)軍の将として、直澄が大手(おおて)軍の将として出陣しており、鍋島家の次代を担う兄弟が揃って藩軍を率いたことからも、この戦いが鍋島家にとって極めて重要であったことが窺える [6]。
佐賀藩軍は、幕府の上使(じょうし)であった板倉重昌の指揮下に入り、一揆勢が籠城する原城への総攻撃に参加した [6]。戦闘は激烈を極め、幕府軍も多大な犠牲を払う難戦となったが、その中で直澄は若年にして巧みな采配を振るい、佐賀藩軍を率いて大いに戦功を挙げたと記録されている [3, 6]。この目覚ましい武功は、彼の評価を藩内外で不動のものとした。
乱の鎮圧後、その功績は三代将軍・徳川家光の耳にも達した。家光は、父・勝茂、兄・元茂、そして直澄の親子三人に、直々にその功を賞賛する奉書(ほうしょ)を下賜するという、最高の栄誉を与えた。この時の喜びを、直澄は家臣の榊原職直(さかきばら もとなお)に宛てた書状の中で、「誠に以て冥加(みょうが)忝(かたじけな)く存じ奉る儀」と、感激を込めて記している [22]。
寛永15年(1638年)に佐賀へ帰参した直澄は、その功績に相応しい待遇を受けた。父・勝茂が佐賀城本丸、兄・元茂が西の丸に入るのと並び、直澄は三の丸に居館を与えられた [4, 23]。これは、彼がもはや単なる藩主の子息ではなく、藩の重鎮として公に認められたことを意味する。
また、この乱に際して、直澄が戦地から「マリア観音像」を持ち帰ったという伝承が蓮池の地に残されている [24]。これが史実であるかは定かではないが、キリシタン一揆を鎮圧した武将の戦利品として、彼の武勇を象徴する逸話として語り継がれたのであろう。
この島原の乱における決定的とも言える武功は、直澄のその後の運命を決定づけた。家督を継ぐことができなかった彼に対し、誰もが納得する形で新たな領地と大名としての地位を与えるための、非の打ちどころのない「口実」が生まれたのである。この軍事的な成功は、佐賀藩が抱える家督問題という内政の課題を解決する、極めて有効な政治的カードとして機能した。これが、翌年の蓮池藩創設へと直接繋がっていくのである。
島原の乱における輝かしい武功を背景に、寛永16年(1639年)、父・勝茂は直澄に領地を分与し、ここに肥前蓮池藩が立藩された [3, 20, 24, 25, 26, 27]。これにより、鍋島直澄は蓮池藩の初代藩主となった。
当初の石高は3万5600石余(資料により3万5624石余)で始まり [3, 16, 27]、その後の加増や、明暦2年(1656年)に藩内の知行高表示法が統一されたことにより、最終的な公称石高は5万2625石となった [3, 12, 16, 27, 28]。
蓮池藩の創設により、既に成立していた小城藩(藩祖・鍋島元茂)、鹿島藩(藩祖・鍋島直朝)と合わせ、佐賀本藩を藩屏(はんぺい、守りの意)として支える「三支藩(御三家)」体制が完成した [8, 10, 12, 17, 29]。この体制の構築は、単なる分家創設に留まるものではなかった。その背後には、藩内に依然として大きな影響力を保持していた旧龍造寺系の有力家臣団(多久、武雄、諫早、須古など)を牽制し、藩主一門による中央集権的な支配を確立するという、勝茂の高度な政治戦略があった [1, 2, 13, 24]。藩財政の強化を名目として行った「三部上地(さんぶあげち)」政策で家臣から一旦召し上げた土地を、結果的に自らの息子たちに再配分することで、佐賀藩全域における鍋島家の支配を盤石なものにしたのである [2, 13]。
支藩名 |
藩祖 |
藩祖と勝茂の関係 |
成立年(目安) |
最終石高(公称) |
小城藩 |
鍋島元茂 |
長男(異母) |
元和3年 (1617) |
7万3252石 [12] |
鹿島藩 |
鍋島直朝 |
九男(同母) |
寛永19年 (1642)※ |
2万石 [16, 30] |
蓮池藩 |
鍋島直澄 |
五男(同母) |
寛永16年 (1639) |
5万2625石 [12] |
※鹿島藩は慶長14年(1609)に勝茂の弟・忠茂が創設したが、その子・正茂の代で改易。寛永19年に勝茂の子・直朝が改めて藩主となり再興した [16, 17]。
蓮池藩は立藩当初、藩庁を佐賀城の三の丸に置いていたが [23, 31]、承応3年(1654年)頃、領地である蓮池の地に移転した [27, 32]。この地には、中世に小田氏が築城し、元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となっていた蓮池城の跡地があった [24, 32, 33, 34]。直澄はこの城跡を巧みに利用・改修し、藩庁としての陣屋(御館)を構えたのである [24, 32, 33, 34]。現在、その跡地は蓮池公園として整備され、往時の堀跡などが残されている [24, 26, 31, 35]。
陣屋の周囲には、蓮池本町、魚町、神埼町といった町が計画的に配置され、小規模ながらも機能的な城下町が形成された [24, 36]。特に、佐賀江川の舟運を利用した港「蒲田津(かまたづ)」は、藩の物流・商業の拠点として栄えたと伝えられている [35, 37, 38]。
直澄は初代藩主として、藩の基本的な法制度や統治機構を定め、その後の200年以上にわたる蓮池藩政の礎を築いたと高く評価されている [39]。
蓮池藩の領地は、神埼、佐賀、杵島、藤津、松浦の五郡にまたがる複雑な飛地であったため、その統治は容易ではなかった [1, 20, 27, 40]。直澄は、この課題に対応するため、各所に代官所を設置し、特に藩最大の飛地であった藤津郡塩田には大規模な役所を置くなど、効率的な支配体制の構築に腐心した [8]。
また、直澄は名君としての一面も持ち合わせていた。特に窯業の振興に力を入れ、後の「肥前吉田焼」や「志田焼」の礎を築いたとされる [41]。領地が地理的に分散しているという弱点を、各地の特産物を育成するという強みに転換しようとした彼の慧眼が窺える。これは、藩の財政基盤を強化するための極めて重要な政策であった。
蓮池藩の家臣団は、立藩時に本藩から付けられた41人の家臣がその中核を成した [20]。その後、石井茂成が家老職を世襲するなど、家臣団の階層構造も徐々に整備されていった [42]。
蓮池藩の立場は、極めて複雑なものであった。幕府からは参勤交代や公儀普請の義務を負う独立した大名(部屋住格)として扱われた [12, 13, 27]。しかし、佐賀本藩から見れば、その石高は本藩35万7千石の「内数」であり、あくまで鍋島家中の家臣の一員という「内分支藩」の扱いであった [1, 12, 27]。
この曖昧な関係は、二代藩主・光茂の時代に「三家格式」が制定されることで、本藩優位の主従関係として明確化された [8, 25, 43, 44]。これにより、独立した大名としての地位向上を目指す支藩と、統制を強めたい本藩との間に、後の世代で深刻化する緊張関係の種が蒔かれることとなった [7]。
寛文5年(1665年)、直澄は51歳で隠居し、家督を次男の直之に譲った [4, 39]。その後は剃髪して仏門に入り、自らを「義峰(ぎほう)」と号した [39, 45]。
彼の晩年は、藩庁のある蓮池ではなく、藩の重要な飛地であった藤津郡塩田の吉浦に建てた別館で過ごされた [39, 45]。この地は、彼が礎を築いた窯業など産業振興の拠点であり、有明海に繋がる港を持つ経済の要衝でもあった。終焉の地にこの場所を選んだことは、単なる静養目的だけでなく、為政者として最後まで領地の発展を見守り続けたいという彼の強い意志と、家督を譲った息子・直之の藩政に干渉しないという配慮の表れであったと推察される。
寛文9年(1669年)3月5日、直澄は塩田の吉浦館にて、病のため55歳(数え年)の生涯を閉じた [4, 39, 46, 47]。
その遺骨は、遺命に従い、佐賀の蓮池にある菩提寺に葬られた [39]。この寺は元々「雨降山潜龍寺」という名の曹洞宗の寺院であったが、直澄の死を機に、彼の法号「正献院殿義峰宗眼(しょうけんいんでん ぎほうそうげん)」にちなんで「正覚山宗眼寺(しょうかくさん そうげんじ)」と改称された [5, 47]。現在も宗眼寺には、正室・牟利姫と共に眠る五輪塔の墓所があり、蓮池鍋島家代々の菩提寺として法灯を守り続けている [1, 5, 48]。
また、遺骨は宗眼寺のみならず、終焉の地である塩田の吉浦至誠山(現在の吉浦神社)にも分骨されたと伝えられている [4, 20, 45]。
直澄の遺産は、彼の死後も長く受け継がれた。息子である二代藩主・直之は、父の遺徳を偲び、延宝8年(1680年)に終焉の地である吉浦に祠を建立した [39]。これが現在の吉浦神社の起源である [20, 45, 46, 49]。産業を振興し、善政を敷いた直澄は、領民から親しみを込めて「おやまさん」と呼ばれ、篤く崇敬された [50]。一人の大名が、具体的な記憶と感謝と共に神として祀られた事実は、彼の統治が成功した一つの証左と言えるだろう。
文化的な側面では、直澄のお抱え医師であった柴山五渓の息子が、後に「煎茶道の祖」として名を馳せる高遊外売茶翁(こうゆうがい ばいさおう)であるという事実も見逃せない [41, 51]。直澄の治世が、近世日本の大衆文化を代表する傑出した人物を生み出す土壌の一部となっていたことは、非常に興味深い。
さらに、直澄自身が発給した書状 [22, 52] や、蓮池藩の成立から幕末に至るまでの藩政資料群は、「蓮池鍋島家文庫」として佐賀県立図書館などに現存している [8, 53, 54, 55, 56]。初代藩主である直澄以来の記録が多数含まれるこれらの史料は、彼の治績や人物像、そして江戸時代の支藩経営の実態を研究する上で、第一級の価値を持つ貴重な遺産である。
代 |
藩主名 |
在位期間 |
主な事績 |
1 |
鍋島直澄 |
1639年 - 1665年 |
蓮池藩創設。藩政の基礎を築く。産業振興を奨励。 |
2 |
鍋島直之 |
1665年 - 1708年 |
本藩との関係で「三家格式」が制定される。財政難が始まる [44]。 |
3 |
鍋島直称 |
1708年 - 1717年 |
洪水や不作に見舞われ、財政がさらに悪化 [57]。 |
4 |
鍋島直恒 |
1717年 - 1750年 |
- |
5 |
鍋島直興 |
1750年 - 1757年 |
善政を布くも早世 [5]。 |
6 |
鍋島直寛 |
1757年 - 1773年 |
財政難に対し倹約令を発布。学問を奨励 [5]。 |
7 |
鍋島直温 |
1774年 - 1816年 |
藩校「成章館」を創設 [5, 58, 59]。財政は本藩に委託するほど逼迫 [5]。 |
8 |
鍋島直与 |
1816年 - 1845年 |
軍制改革や民政改革を行い、藩政の再建に成功。「蘭癖大名」と呼ばれる [5, 41]。 |
9 |
鍋島直紀 |
1845年 - 1871年 |
最後の藩主。戊辰戦争に藩兵を派遣。廃藩置県を迎える [5, 60]。 |
本報告書を通じて、鍋島直澄が、当初の概要である「勝茂の五男、兄嫁を娶り、後に蓮池藩祖となった人物」という単純な紹介では到底捉えきれない、極めて多面的で複雑な人物であったことが明らかになった。彼は、徳川家の血を引く貴公子でありながら、兄の死によって藩の命運を左右する立場に立たされた悲運の継承者候補であった。島原の乱では武功を立ててその名を轟かせた勇猛な武将であり、蓮池藩の創設後は、地理的に分散した困難な領地をまとめ上げ、産業を奨励して藩政の礎を築いた有能な為政者でもあった。
彼の歴史的役割は、佐賀藩が旧主・龍造寺家の影響を排し、鍋島家による盤石な統治体制を確立する、その最終段階において決定的なものであった。直澄個人の運命と、彼が藩祖となった蓮池藩の創設は、父・勝茂が描いた壮大な藩体制安定化構想を実現するための、最後の、そして最も重要な一手に他ならなかった。彼は、父の構想を現実のものとする、最も有能な実行者の一人だったのである。
佐賀の武士道と言えば、しばしば『葉隠』に象徴される「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という観念的で烈々たる精神 [61, 62] が想起される。しかし、直澄の生涯を丹念に追うと、彼の行動原理が、そうした観念論とは一線を画す、極めて現実的な政治力、統治能力、そして経済感覚に裏打ちされていたことがわかる。彼は、戦国の遺風と泰平の世の理が交錯する激動の過渡期を、その両方に対応できる優れたバランス感覚で生き抜いた、有能なリアリスト(現実主義者)であった。彼の生涯を研究することは、近世初期の大名が直面した統治の現実と、それに対する具体的な解決策を学ぶ上で、非常に大きな意義を持つと言えるだろう。