鍋島直茂(1538年~1618年)は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、肥前国(現在の佐賀県及び長崎県の一部)において極めて重要な役割を果たした武将である 1 。龍造寺氏の重臣として頭角を現し、主家の衰退と激動の時代を乗り越え、最終的には佐賀藩の藩祖としてその礎を築いた 2 。直茂の生涯は、戦国乱世の典型とも言える、忠誠と野心、そして生存戦略が複雑に絡み合う物語であり、彼の決断と行動が、後の佐賀藩の歴史に決定的な影響を与えた。本報告では、鍋島直茂という一人の武将の生涯を多角的に検証し、その軍事的・政治的手腕、主要人物との関係、佐賀藩の成立と統治における役割、そして後世に遺した影響について詳述する。なお、明治時代に活躍した鍋島直大(なおひろ)など、同姓の人物も存在するが、本報告は戦国時代から江戸初期に生きた鍋島直茂に焦点を当てるものである 6 。
鍋島直茂は天文7年(1538年)、鍋島清房の次男として、佐賀の本庄館にて生を受けた 1 。幼名は彦法師丸と称した 1 。特筆すべきは、その母が龍造寺家純の娘であったことであり、これにより直茂は龍造寺隆信の従兄弟にあたる血縁関係にあった 5 。この鍋島家と龍造寺家双方に連なる血脈は、当初から龍造寺家の権力構造内部において、直茂に特異な立場を与えることになった。
父・清房も龍造寺家に仕えており、鍋島家は代々龍造寺氏に奉公する家柄であった 10 。直茂自身も早くから龍造寺隆信に仕え、その思慮深さと実直さは、隆信の母・慶誾尼にも認められていた 11 。慶誾尼が直茂の将来性を見抜き、息子隆信に近付けようとしたことは、直茂の初期のキャリアにおける重要な後押しとなった。
直茂の台頭において、母方の血縁と姻戚関係の戦略的重要性は看過できない。母が龍造寺氏の出身であることに加え、後に父・清房が隆信の母・慶誾尼を後妻に迎えたことで、直茂は隆信にとって従兄弟であると同時に義弟(または義理の兄弟)という、二重に複雑かつ強固な絆で結ばれることになった 9 。戦国時代の日本では、このような血縁と姻戚関係は同盟を強固にし、忠誠を確保するための最重要手段であり、直茂に他の家臣とは一線を画す龍造寺家内部での地位を与えた。
また、直茂は幼少期より「思慮深く」、不正を嫌う性質であったと記録されており 11 、これは軍師に不可欠な資質の早期の発現を示唆している。単なる性格的特徴に留まらず、分析力、信頼を得るための(少なくとも表面的な)廉直さ、長期的な計画能力といった軍師としての基礎が、この時期に既に形成されつつあったと考えられる。慶誾尼がこれらの資質を認めたという事実は 11 、それらが周囲からも認識される顕著なものであったことを裏付けている。
鍋島直茂の武将としての評価を決定づけたのは、元亀元年(1570年)、33歳の時の今山の戦いであった。当時、大友氏の大軍(一説に6万 10 )が佐賀城を包囲し、龍造寺氏はまさに風前の灯火であった。この絶体絶命の状況下で、直茂はわずか700から800の手勢を率い、大友氏の将・大友親貞の本陣に夜襲を敢行したのである 2 。この大胆な奇襲攻撃は成功し、大友軍を敗走させ、龍造寺氏に劇的な勝利をもたらした 10 。この戦いは、直茂の勇猛さと卓越した戦術眼を世に知らしめる転機となり、龍造寺氏の勢力拡大に大きく貢献した。この勝利を記念し、大友氏の家紋に由来する「鍋島花杏葉」を家紋としたことは、その功績の大きさを物語っている 11 。この今山の夜襲は、単なる勇気だけではなく、圧倒的な兵力差を覆すための計算された賭けであり、後の関ヶ原における戦略など、直茂のキャリアを通じて見られる特徴的な行動パターンであった。大友軍の兵力は龍造寺軍をはるかに凌駕しており 10 、正攻法や籠城戦では勝機は薄かった。直茂が提案した夜襲は 11 、敵の指揮系統を狙い、心理的打撃と混乱を引き起こすことを目的とした、ハイリスク・ハイリターンな戦術であった。この成功が彼の評価を不動のものとし、その後の大胆な戦略的判断を後押ししたことは想像に難くない。
今山の戦い以外にも、直茂は龍造寺隆信の右腕として、筑前・筑後・肥後などの攻略戦で数々の武功を挙げた 10 。反乱の鎮圧や占領地の統治も任され、筑後酒見城 10 や、後に蒲池鎮漣を破った後の柳川城の管理などを担当した 1 。これらの戦役は、隆信が長期間にわたり直茂の軍事的・行政的手腕に深く依存していたことを示している。
当初、龍造寺隆信は義弟であり、従兄弟でもある直茂を深く信頼し、重要な戦略家として重用した 3 。直茂は「龍造寺の仁王門」と称されるほど、龍造寺家にとって不可欠な守護者と見なされていた 1 。この初期の段階は、直茂の戦略的才能が隆信の野心を補完する形で、相互依存の関係にあったと言える。
しかし、隆信の勢力が拡大し、一部の史料によれば傲慢さを増すにつれて、両者の関係には亀裂が生じ始める。特に直茂が率直な諫言を呈するようになると、隆信は彼を疎んじるようになった 1 。沖田畷の戦い前に、隆信が遊興に耽り、直茂の忠告を退けたことは、その典型的な例である 10 。
この主従関係は、近親であり信頼された立場が直茂に率直な助言を許した一方で、最終的な権威を持つ君主である隆信がその助言を無視し、場合によっては助言者を罰したり遠ざけたりすることが可能であるという、非対称な力関係の危うさを内包していた。隆信が勢力を増すにつれて、直茂の「諫言」に対する彼の忍耐力は低下し 1 、沖田畷の戦い前に直茂の慎重な進言を退けたことが 10 、龍造寺氏にとって破滅的な結果を招いた。これは、いかに重要な助言者であっても、君主が耳を貸さなくなればその立場は脆弱になることを示している。
天正12年(1584年)、龍造寺隆信は島津・有馬連合軍との沖田畷の戦いで討死した 10 。直茂は、事前に島津軍の戦術を警戒し諫言していたが、それは聞き入れられなかった 10 。隆信の死は、龍造寺氏に巨大な権力の空白と存亡の危機をもたらした。
この壊滅的な敗戦の中、直茂は生き残り、敗走する龍造寺軍をまとめる上で中心的な役割を果たした 11 。一時は自害を試みたが、家臣たちに制止されたという 11 。その後、隆信の嫡男・龍造寺政家を支え、勢力回復に努めた 11 。島津方から隆信の首の返還の申し出があった際、直茂はこれを断固として拒否し、「名門龍造寺家に降伏の二文字はない」と啖呵を切った逸話は 10 、士気を高め、一時的に島津氏の影響下に置かれながらも、龍造寺家の存続交渉において重要な意味を持った。
隆信の死と、その嫡男・政家が直接統治に関心が薄いか、あるいは病弱であったため 9 、直茂は次第に龍造寺領の実質的な統治責任を担うようになり、事実上の指導者となっていった 9 。この時期が、龍造寺氏から鍋島氏への実質的な権力移行の始まりであり、それは公然たる簒奪ではなく、状況と直茂の能力によって必然的に進んだものであった。
沖田畷での大敗は龍造寺氏にとって悲劇であったが、逆説的に、直茂が危機管理能力を発揮し、弱体化した主家を支える中でその権力を著しく伸長させる環境を生み出した。当主隆信は戦死し 15 、後継の政家は強力な指導者ではなく 14 、龍造寺氏は島津氏という外部の脅威と内部の不安定さに直面していた。このような状況下で、既に軍事・行政両面で実績のあった直茂が 10 、危機を乗り越えるための最も有能な人物として浮上し、事実上の支配権を掌握する 14 のは、権力の空白と彼自身の能力がもたらした自然な帰結であった。
沖田畷の戦い以前から、直茂は先見の明をもって、中央の新たな覇者である豊臣秀吉との接触を開始していた。これは、いずれ中央の権力が九州の情勢に関与することを予見した上での行動であった 3 。天正10年(1582年)頃の秀吉からの書状には、直茂からの南蛮帽子の贈物に対する礼が記されており、隆信存命中に既に両者の間に交渉があったことを示している 3 。この早期の外交的布石は、直茂の戦略的視野の広さを示しており、後の龍造寺・鍋島家の運命に大きな影響を与えることになる。
秀吉が九州平定に乗り出すと、直茂は龍造寺氏を代表して、それまでの島津氏への恭順の姿勢を即座に放棄し、積極的に秀吉を支援した 9 。龍造寺軍は、事実上直茂の指揮下で島津攻めに加わった 8 。直茂のこの決定的な方針転換は、龍造寺・鍋島領の存続と、その後の地位確保にとって極めて重要であった。
秀吉は直茂の行動と洞察力を高く評価した。龍造寺政家は肥前7郡(約30万9902石)の領主として安堵されたものの、秀吉は事実上、その領国の統治を直茂に委ねた 8 。直茂とその子・勝茂は豊臣姓を授けられた 9 。秀吉は直茂を「天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気(覇気)が足りない」と評したと伝えられている 20 。秀吉による直茂の統治権の公認は、鍋島氏の台頭における決定的な一歩であり、直茂の事実上の権力を法的に正当化するものであった。秀吉の評価は、直茂の有能さを認めつつも、天下を争う野心家とは見ていなかったことを示唆しており興味深い。
直茂は、秀吉という中央の覇者の権威を巧みに利用し、龍造寺領内部における自らの立場を正当化し強化した。これにより、名目上の領主である龍造寺氏を事実上棚上げにすることに成功した。龍造寺氏が沖田畷の戦いで弱体化し 11 、政家が強力な指導者でなかったこと 14 、そして直茂が既に秀吉と初期の連携を築いていたこと 3 が背景にある。秀吉の九州平定を積極的に支援することで 9 、その歓心を買い、結果として秀吉から領国経営を委任されるという勅命を得たことは 9 、龍造寺氏内部の主張を抑え込む強力な外部からの後ろ盾となった。
直茂は、龍造寺軍(事実上の佐賀勢)を率いて、秀吉による二度の朝鮮侵攻(文禄の役・慶長の役)に参加した 3 。文禄の役(1592年)では1万2千の兵役を課せられ、加藤清正らと共に第二軍に属した 8 。これらの遠征への参加は、秀吉配下の大名としての義務であると同時に、忠誠心と軍事能力を示す機会でもあった。直茂が龍造寺軍の事実上の司令官として行動したことは、領国軍に対する彼の統制力を一層強固なものにした。
朝鮮においては、加藤清正の軍勢と共に進軍し、一時は朝鮮北東部の咸鏡道にまで達した 22 。兵糧の確保にも従事し、時には人質を取ることもあったとされる 23 。また、秀吉が薬効を期待して虎を求めたため、虎狩りにも参加した 22 。これらの詳細は、遠征の過酷な現実と、司令官に課せられた多様な任務を垣間見せる。
朝鮮出兵における直茂の指導力は、名目上の主君である龍造寺氏よりも、彼自身に対する龍造寺家臣団の忠誠心を強める結果となった 9 。共有された困難と戦場での成功体験は、兵士とその指揮官の間に強い絆を育むことが多い。この経験は、肥前の武士階級内部における忠誠の対象が、龍造寺氏から鍋島氏へと移行するのを加速させたと考えられる。つまり、朝鮮出兵は、秀吉の命令を遂行するという側面以上に、直茂が肥前勢に対する個人的な権威を確立し、龍造寺氏の実質的な影響力をさらに削ぐための試練の場となったのである。
関ヶ原の戦いに際し、直茂の子・鍋島勝茂は当初、西軍(石田三成方)に加わり、伏見城攻めや安濃津城攻めなどに参加した 2 。この最初の西軍への所属は、地理的な要因、既存の同盟関係、あるいは勢力バランスの誤算などが理由として考えられる。
一方、九州に留まった直茂は、徳川家康の勝利を予見していた。彼は密かに家康と連絡を取り 2 、関ヶ原の本戦が始まる前に、勝茂に対して東軍へ寝返るよう急使を送った 2 。一説には、直茂が徳川秀忠に対し、買い占めた米の目録を送ることで、その真意を示したとも言われる 9 。これは巧妙かつ危険な政治的駆け引きであった。直茂の「卓見」 25 が鍋島家を破滅から救ったと言える。
家康への忠誠を示し、自領を確保するため、直茂と呼び戻された勝茂は、九州における西軍方諸将の城を攻撃した。特に小早川秀包の久留米城や立花宗茂の柳川城への攻撃が知られている 2 。これらの行動は、勝茂の当初の西軍への参加を償い、新たな覇者である徳川家康への明確な忠誠を示す上で不可欠であった。
これらの軍功と直茂の巧みな外交により、鍋島氏の肥前領は家康によって安堵された 2 。この結果、鍋島氏の佐賀支配は確固たるものとなり、彼らの下での佐賀藩正式成立への道が開かれた。
関ヶ原の危機における直茂の対応は、政治的生存術と家運向上のための見事な手腕を示すものであった。息子勝茂を当初西軍に参加させつつ、自身は東軍との連携を準備し、時宜を得た寝返りを指示、さらには九州での積極的な軍事行動を展開した。国家が分裂し、誤った側に付けば滅亡が必至という状況下で [標準的な戦国・江戸初期の現実]、勝茂の西軍参加は致命的になり得た 24 。直茂が家康の勝利を予見したこと 9 、そして迅速な方針転換の指示 24 と九州での西軍方攻撃 2 は、この危険な状況を乗り切り、新たな徳川幕府下での鍋島家の将来を確実なものとするための一連の計算された行動であった。
龍造寺隆信の戦死(1584年)後、その子・政家は天正16年から18年(1588年~1590年)頃に実質的な支配権を直茂に譲った 4 。政家の子・高房が名目上の当主であったが、幼少であり、また領国は事実上直茂、後には勝茂によって運営されていた 9 。これは、直茂の能力と龍造寺家後継者の力量不足、あるいは機会の欠如によって、徐々に、しかし確実に進行した権力移譲であった。
慶長12年(1607年)、龍造寺高房が22歳で死去(一部史料では、権力を持てないことへの絶望から自害、あるいはそれに繋がる行動を取ったとされる)、間もなく父・政家も死去したことで、龍造寺本家による直接統治の主張は事実上終焉を迎えた 1 。この出来事は、鍋島氏による正式な領主権確立への最後の、象徴的な障害を取り除くものであった。
徳川幕府は、鍋島勝茂(直茂の子)を佐賀藩(35万7千石)の藩主として公式に認め、直茂はその執政および後見人として実権を握った 9 。直茂自身は、龍造寺氏への配慮か政治的深慮からか、藩主の座に就くことはなかったが、「藩祖」として崇敬されている 1 。幕府の承認は、鍋島氏の支配を最終的に確定させるものであった。直茂が自ら藩主とならなかったことは、旧龍造寺家臣からの反感を和らげ、簒奪ではなく継続性を印象づけるための、政治的に巧みな判断であった可能性がある。
鍋島氏の台頭は、暴力的なクーデターではなく、数十年にわたる漸進的な権力掌握の過程であった。責任を徐々に引き受け、能力を示し、秀吉や家康といった外部の権威からの承認を得、そして龍造寺氏の衰退から利益を得るという形で、最終的には概ね平和的かつ公式に認められた権力移譲が実現した。直茂は既に政家の時代から事実上の統治者であり 9 、秀吉も直茂の行政上の役割を認めていた 13 。龍造寺本家が高房の死によって事実上断絶し 15 、龍造寺家の主要な分家も鍋島氏による継承を支持した 9 。そして徳川幕府が最終的に勝茂を藩主、直茂を藩祖として公認した 9 。この多段階のプロセスは、強力な外部権力と一定の内部合意に支えられており、強引な乗っ取りとは一線を画すものであった。
新藩の拠点として、直茂は龍造寺氏の居城であった村中城の拡張・改修に着手し、これが佐賀城となった。工事は慶長7年(1602年)頃に始まり、慶長16年(1611年)に勝茂の代でほぼ完成した 16 。堅固な中央城郭は、権威の確立と領国統治に不可欠であった。
直茂と勝茂は、旧龍造寺家臣や直茂自身の家臣団を含む、肥前の多様な武士たちに対する統制を強化すべく努めた。これには家臣構造の再編成が含まれていた 9 。「三部上地」と呼ばれる土地再編政策 36 や、直茂の他の息子たちのための支藩の設置は、鍋島氏の支配を固め、有力家臣を管理するのに役立った 9 。
家臣団の管理においては、懐柔と統制のバランスが巧みに取られた。龍造寺氏の旧臣たちの力を活用する必要性と、潜在的な不満分子を抑える必要性を両立させるため、龍造寺系の多久家、武雄家などを藩政に関与させる一方で 36 、鍋島家の支藩を創設する 36 という二重のアプローチが取られた。肥前における龍造寺氏の長い歴史を考えると、その家臣団を単純に無視したり、完全に置き換えたりすることは不可能であった。勝茂が龍造寺系の四家(多久、武雄、諫早、須古)に藩政運営を委任したという記録は 36 、この戦略の一端を示している。同時に、自身の親族による支藩の創設は 9 、鍋島家の中心的な権力を確保するものであった。この戦略は、既存の権力構造を統合しつつ、徐々に権力の中心を鍋島氏へと移行させ、抵抗を最小限に抑え、安定を最大化することを目的としていた。
佐賀藩の藩法(「鳥ノ子帳」 31 )や行政制度の基礎は、直茂の指導と勝茂の実行によってこの時期に築かれた 4 。「直茂様御教訓ヶ条覚書」もまた、指導原理として機能した 38 。明確な法と行政手続きの確立は、新たに形成された藩の長期的な安定と統治にとって不可欠であった。
表1:鍋島直茂の影響下における佐賀藩形成期の主要政策・法令
政策・法令名 |
おおよその施行時期 |
主要な特徴・目的 |
典拠例 |
佐賀城の藩都としての確立 |
慶長7年~16年頃 |
権力集中、防衛 |
16 |
家臣団構造の再編(三部上地などを含む) |
17世紀初頭 |
鍋島氏の統制強化、有力武士の管理 |
36 |
支藩(小城、蓮池、鹿島)の創設 |
17世紀初頭 |
本家強化、庶子への配慮、有力家臣への緩衝 |
9 |
藩法(例:「鳥ノ子帳」)の整備 |
17世紀初頭 |
法的秩序と行政手続きの確立 |
31 |
「直茂様御教訓ヶ条覚書」の施行 |
17世紀初頭 |
家臣及び統治のための指導原理の提供 |
38 |
この表は、直茂の藩政基盤構築への具体的な取り組みを構造的に示し、個々の政策が藩の形成にどのように貢献したかを明確にしている。
佐賀平野における農業発展のため、治水の重要性を認識していた直茂は、「治水の神様」とも称される卓越した技術者、成富兵庫茂安を重用した 34 。石井樋をはじめとする灌漑施設やクリーク(堀)網の整備、洪水対策などが主要な事業であった 34 。成富茂安は龍造寺隆信に仕えた後、直茂・勝茂の代にも活躍した 39 。治水への投資は、藩経済の根幹である米の増産に不可欠であり、直茂による成富茂安のような専門的人材の登用は極めて重要であった。
農村社会の安定化と農業生産力の向上を目指す政策は、藩政の基本であった 43 。これには新田開発や公正な慣行の確保が含まれていた 43 。安定した農業基盤は、武士階級の扶持と藩経済全体の維持に不可欠であった。
後の鍋島藩主(特に勝茂の代には磁器生産が奨励された 46 )ほどではないものの、直茂の時代にも、安定と基本的なインフラ整備を通じて、将来の経済発展の土壌が準備された。塩、紙、蝋、綿、茶、甘蔗などの国産品奨励の記録もある 43 。初期段階であっても経済の多角化は戦略的な目標であったと考えられる。
直茂が治水のような長期的なインフラ事業に注力し、成富茂安のような熟練した人材に依存したことは、持続的な藩の繁栄が単なる軍事力や政治的策略だけでは達成できないことを理解していた証左である。佐賀平野の地理的条件は治水を農業にとって不可欠なものとしており、直茂が勝茂に「国土治水をはかり、生産性を上げる必要がある」と助言したという記録は 34 、この認識を裏付けている。成富茂安の登用と権限委譲は 39 、実用的な改善のために専門知識を活用する姿勢を示している。これらのインフラと人的資本への投資は、佐賀藩の長期的な経済的存立にとって極めて重要であった。
鍋島直茂は、思慮深く、不正を嫌い 11 、真面目で几帳面な性格であったと伝えられる 13 。同時に、戦場では勇猛果敢で決断力に富んでいた 2 。また、顕著な「知略」の持ち主でもあった 49 。この慎重さと決断力の組み合わせが、平時と戦時の双方において彼を効果的な指導者たらしめた。
政治的潮流を読み解き、現実的な判断を下す卓越した能力は、秀吉への早期の接近や関ヶ原の戦いにおける対応など、数々の局面で発揮された 9 。激動の時代における彼の長期的な生存と成功は、この政治的洞察力に大きく依存していた。
秀吉が直茂について「大気(覇気)が足りない」と評した一方で 20 、彼の行動は一貫して自身と一族の権力拡大に繋がった。これは、天下取りを目指すような露骨な野心ではなく、より巧妙で忍耐強く、自領の安泰に焦点を当てた、ある種の「静かな野心」を示唆しているのかもしれない。秀吉の評価は直接的なものであり 20 、それでも直茂は龍造寺氏の没落と徳川氏の台頭を巧みに乗りこなし、鍋島氏を大名として確立させた。自ら藩主の座に就かなかったことは 1 、野心を韜晦する深慮、あるいは純粋な遠慮と解釈できる。この「静かな野心」は、天下統一ではなく、地域的権力と家門の安泰に主眼を置いたものであり、彼が置かれた資源と政治的現実により適合したものであったと言えよう。
豊臣秀吉との逸話として、「からすみ」の話が伝わっている。秀吉がある食べ物(ボラの卵巣の塩漬け)について尋ねた際、直茂はその形状から機転を利かせて「唐墨(からすみ)」と名付け、秀吉を喜ばせたという 51 。この逸話は、直茂の当意即妙な才覚と、秀吉のような予測不可能な権力者を扱う能力を示している。
「鍋島化け猫騒動」は後世の伝説であるが、その起源は龍造寺高房の死や権力移行の経緯と結び付けられることがあり、当時の潜在的な不安や不公正感の反映とも考えられる 10 。直茂自身が耳の腫瘍による激痛の末に亡くなったことも 10 、このような物語を生む一因となった可能性がある。この民間伝承は、歴史的事実ではないものの、権力移行が後世にどのように認識され、神話化されたかについての洞察を与える。直茂自身の「罪悪感」を示唆する記述すらあり 19 、この物語は、彼の行動と時代の出来事がどのように解釈されたかを反映している。
息子・鍋島勝茂との関係では、直茂は佐賀藩初期において勝茂を指導した 9 。関ヶ原の戦いでの勝茂の当初の西軍参加は彼自身の判断であったが、父の指示に従い速やかに寝返った 25 。直茂が錯乱状態にあった際に、勝茂がそれを諌める書状を送ったという記録もあり 27 、概ね協力的であったものの、勝茂の自主的な行動や潜在的な意見の相違が存在した可能性も示唆される。この父子の関係は、鍋島支配の継続にとって極めて重要であった。
成富兵庫茂安に対しては、直茂は治水事業の重責を委ねており、専門技術への強い信頼が窺える 40 。茂安は深く尊敬され、勝茂も自身の息子の教育を彼に託したほどであった 42 。これは、直茂が藩の利益のために才能を見出し活用する、指導者としての重要な資質を持っていたことを示している。
当時の覇者たちからの評価は注目に値する。豊臣秀吉は、直茂の能力を認めつつも、その究極的な野心には疑問符を付けていた(「大気なし」) 20 。しかし、肥前における実質的な統治権を彼に委ねている 8 。徳川家康は、関ヶ原後の直茂の貢献を認め、佐賀藩の領有を安堵した 2 。直茂は次男・忠茂を家康への人質として送り、勝茂は家康の養女と結婚するなど、徳川家との結びつきを強化した 55 。これらの最高指導者たちは、直茂を肥前統治に不可欠な、信頼できる地域的実力者と見なしていたが、自らの覇権を脅かす直接的な競争相手とは考えていなかった。
龍造寺氏内部および家臣団からの評価は複雑であった。当初、隆信からは絶大な信頼を得ていたが 12 、隆信の死後、そして政家の無力さが露呈するにつれ、龍造寺家臣団は指導者として直茂に期待を寄せるようになった 9 。一部の龍造寺一門は鍋島氏による家督継承を積極的に支持した 9 。しかし、龍造寺高房は鍋島氏に対して強い恨みを抱いていたとされる 10 。彼の立場は、ある者にとっては救世主、特に龍造寺直系の後継者にとっては簒奪者と映ったであろう。
後世においては、佐賀藩の「藩祖」として崇敬されている 2 。その言行は、特に『葉隠』を通じて佐賀武士道の形成に大きな影響を与えた 3 。また、「日峯様」として神格化された 3 。一方で、龍造寺氏からの権力移行の経緯から、「簒奪者」と見なされることもある 14 。
直茂の歴史的評価は、「簒奪者」対「救済者/創設者」という二項対立で語られることが多い。佐賀内部では、藩を救い確立した賢明な創設者として主に称賛されている。外部から、あるいは純粋に龍造寺氏中心の視点から見れば、彼の行動は漸進的な簒奪と解釈され得る。この二元性は、彼の複雑な遺産を理解する上で鍵となる。「藩祖」や「日峯様」という称号、そして『葉隠』における崇敬は、佐賀内部の肯定的な評価を示している 2 。一方で、「簒奪者」というイメージや曹操との比較は 14 、この批判的な視点の存在を明確に示している。隆信の死後、龍造寺家の後継者を長年にわたり支え 11 、その後鍋島氏が完全に実権を掌握したという経緯は、単純な「簒奪者」という物語を複雑にしている。また、「救済者」としての側面は、隆信死後の混乱期における彼の有能な指導力と、激動の国内政局を乗り切って肥前を守った手腕に由来する。
鍋島直茂は死後、「日峯明神」として神格化され、崇敬の対象となった 3 。明和9年(1772年)、佐賀藩8代藩主鍋島治茂は、直茂を祀るために日峯社(後の松原神社)を創建した 3 。この神社は、直茂崇敬の中心地となった。後の藩主による公式な神社創建は、直茂を藩の敬愛される創設者としての地位を固め、藩のアイデンティティと忠誠心の拠り所を創出するための意図的な努力を示している。直茂の藩祖としての神格化は、その記憶を称えるだけでなく、鍋島氏による支配をさらに正当化し、藩の武士や民衆の間に創設者への敬意と一体感を育む役割も果たした。藩祖を地域の守護神(カミ)として祀ることは、威信と権威を高めるための一般的な慣行であった。治茂による日峯社の建立は 3 、この信仰を奨励する意識的な試みであったことを示唆しており、藩を支配する鍋島家と結びついた共通の精神的遺産の下で領民を統合するのに役立った。
18世紀初頭に山本常朝によって編纂された『葉隠』において、直茂の言行は佐賀藩士の理想的な武士道精神の模範として頻繁に引用されている 3 。『葉隠』は「鍋島論語」とも称されるようになった 58 。『葉隠』は、直茂を忠誠、義務、そして「常住死身」 58 という死への絶え間ない意識を体現する人物として、ある種極端な武士道の理想像を遡及的に構築した。
「直茂公御壁書」や「御教訓ヶ条覚書」といった直茂の教えをまとめたとされる文書は 38 、『葉隠』や佐賀武士道で奨励された価値観の基礎を形成した。「御壁書二十一ヶ条」は『葉隠』に直接的な影響を与えたと考えられている 38 。これらの文書は、直茂自身が執筆したか、彼の言葉から編纂されたものであれ、『葉隠』における後の理想化のための素材を提供した。
しかし、『葉隠』における不退転の忠誠を誓う死をも恐れぬ武士像は、歴史上の直茂が見せた顕著な現実主義や政治的策略とはいくらか対照的である。『葉隠』は、直茂の人物像を後世に理想化、あるいは選択的に解釈し、当時の武士たちを鼓舞するために特定の美徳を強調した可能性が高い。
『葉隠』における直茂の描写は、直接的な歴史記録というよりも、平和な江戸時代における佐賀藩の社会政治的ニーズに応えるために構築された理想像であると言える。それは、より激動の時代の創設者が持っていたとされる武勇を想起させることで、当時の武士たちに特定の精神風土を植え付けようとしたものであった。直茂の死後1世紀以上経って編纂された『葉隠』は 58 、特異でやや過激な武士道を強調している 58 。歴史上の直茂の行動は、関ヶ原の戦いなどに見られるように、顕著な現実主義と政治的計算を示している 9 。この書物は、創設者を模範として用いることで、平和な時代の佐賀武士に特定の倫理観を植え付けようとしたものであり、その過程で彼の性格特性を選択的に強調したり、再解釈したりした可能性がある。
鍋島直茂ゆかりの史跡や文化財は、佐賀県内に数多く現存し、彼の生きた時代と遺産を今に伝えている。
これらの史跡や文化財は、直茂の生涯と時代への具体的な繋がりを提供し、その歴史的文脈と遺産のより深い理解を可能にする。直茂の誕生地や墓所の保存、そして徴古館のような施設の設立は、鍋島家と佐賀県が彼の歴史的重要性を維持し、称賛するための継続的な努力を示している。高伝寺の墓所 61 や誕生地 7 の丁寧な保存は追憶の行為であり、鍋島家の子孫によって設立された徴古館は 47 、直茂を含む一族の歴史に関連する品々を積極的に収集・展示している 64 。史跡や遺物を通じた歴史的記憶のこの積極的なキュレーションは、地域のアイデンティティにとっての彼の重要性を強化している。
鍋島直茂の生涯は、龍造寺氏の有力家臣から佐賀藩の創設者へと至る、波乱に満ちた道のりであった。彼の際立った特徴は、軍事的才能、戦略的先見性、政治的現実主義、そして統治能力にあった。戦国時代の統一期から徳川幕府の確立期に至る激動の時代を巧みに航行し、自領の存続と繁栄を確実なものとしたその手腕は特筆に値する。
直茂は、佐賀の歴史的意識の中で、崇敬される祖先、神格化された人物、そして理想化された武士として、複雑ながらも永続的な遺産を残した。彼が築いた一大封建領は、後の日本の歴史においても重要な役割を果たすことになる。その生涯は、困難な時代におけるリーダーシップ、適応力、そして国家形成の力学を理解する上で、今日なお多くの示唆を与えている。