鍋島茂賢(なべしま しげまさ、元亀2年(1571年) - 正保2年(1645年))は、戦国時代の動乱が終焉を迎え、徳川幕府による泰平の世が築かれつつあった時代の転換期を、一人の武将として、また一人の領主として駆け抜けた人物である 1 。彼の75年の生涯は、単なる一武将の物語に留まらない。実家である「石井家」、養家となった「深堀家」、そして主家である「鍋島家」という三つの家の運命が複雑に交錯する中で形成された彼の出自 1 。関ヶ原合戦後の柳川の戦いに代表される、鬼神の如き卓越した武功 3 。そして、彼の死に際して家臣たちが集団で殉死するという、主従の絆の深さを示す類稀なる最期 4 。これらは、鍋島茂賢という人物の多面性と、彼が生きた時代の特質を色濃く反映している。
彼の存在は、龍造寺氏から鍋島氏へと肥前の支配権が移行する、佐賀藩成立期における政治的・軍事的力学の縮図ともいえる。本報告書では、現存する史料を丹念に読み解き、彼の生涯を「出自と家系」「武将としての生涯」「佐賀藩家老としての顔」「壮絶なる最期と後世への影響」という四つの側面から徹底的に掘り下げる。これにより、一人の武将の実像を明らかにするとともに、彼が佐賀藩初期の歴史において果たした役割とその意義を深く考察することを目的とする。
鍋島茂賢の生涯は、戦国時代の終焉から江戸時代初期に至る日本の激動期と完全に重なる。彼の行動の時代的背景を理解するため、ここに略年表を記す。
西暦 |
和暦 |
年齢 |
出来事 |
出典 |
1571年 |
元亀2年 |
1歳 |
龍造寺氏の重臣・石井安芸守信忠の次男として誕生。幼名は孫六。 |
1 |
1579年 |
天正7年 |
9歳 |
兄・茂里が鍋島直茂の養子となる。 |
7 |
1584年 |
天正12年 |
14歳 |
沖田畷の戦いで父・信忠が戦死。その後、母・大宝院が深堀純賢に再嫁し、茂賢は純賢の養子となる。 |
1 |
不明 |
豊臣政権期 |
- |
兄・茂里らと共に人質として豊臣家に預けられる。 |
6 |
1592-98年 |
文禄・慶長の役 |
22-28歳 |
養父・純賢の陣代として深堀隊を率いて朝鮮へ渡海、善戦する。 |
1 |
1600年 |
慶長5年 |
30歳 |
関ヶ原合戦後、柳川城攻め(柳川の戦い)に兄・茂里と共に鍋島軍の先鋒として参陣。八ノ院の戦いで武功を挙げる。 |
1 |
慶長年間 |
- |
- |
鍋島姓を拝領し、佐賀藩家老、深堀領六千石の初代邑主となる。 |
2 |
1607年頃 |
慶長12年頃 |
37歳 |
ドミニコ会宣教師アロンソ・デ・メーナを藩主・勝茂に紹介し、佐賀城下の教会建設に尽力。 |
1 |
1645年 |
正保2年2月9日 |
75歳 |
死去。戒名は恭法院殿浄信日正大居士。家臣・与力18名が殉死する。 |
1 |
鍋島茂賢の生涯を理解する上で、彼の複雑な出自を解き明かすことは不可欠である。彼は「石井」に生まれ、「深堀」を継ぎ、そして「鍋島」を名乗った。この姓の変遷は、彼の人生が個人の意思を超え、佐賀藩成立という大きな歴史のうねりの中で、いかに戦略的に位置づけられていたかを物語っている。
鍋島茂賢は、元亀2年(1571年)、肥前の戦国大名・龍造寺隆信の重臣であった石井安芸守信忠(いしい のぶただ)の次男として生を受けた。幼名は孫六と称した 1 。実家である肥前石井氏は、藤原氏の流れを汲むとされ、龍造寺氏の譜代の家臣団の中核をなす一族であった 1 。父・信忠は、主君・龍造寺隆信にその武勇を認められ、「信」の一字を賜るほどの武将であったが、天正12年(1584年)、島津・有馬連合軍と激突した沖田畷の戦いにおいて、隆信と運命を共にし、壮絶な戦死を遂げた 8 。
茂賢の運命を決定づける上で、父の武名以上に重要だったのが、その母系の血筋である。彼の母・大宝院は、石井一門の石井忠俊の娘であり、その姉妹には佐賀藩祖・鍋島直茂の正室となった陽泰院がいた。つまり、大宝院は陽泰院の姪にあたり、その子である茂賢は、後に初代藩主となる鍋島勝茂の従姉の子(従甥)という、極めて近い姻戚関係にあったのである 1 。
この鍋島本家との強固な血縁こそ、茂賢と兄・茂里の兄弟が、父の戦死という逆境にもかかわらず、後の佐賀藩で重用される最大の要因となった。龍造寺氏の権勢が翳り、鍋島直茂が事実上の国主として台頭していく過程において、この血縁は単なる親族関係以上の、戦略的な意味合いを帯びていた。直茂にとって、自らの権力基盤を固める上で、能力と忠誠心を兼ね備え、かつ血縁という強い信頼で結ばれた人材を藩の中枢に配置することは急務であった。石井信忠の子である茂里と茂賢は、そのためのまさにうってつけの存在だったのである。
茂賢の兄・茂里(しげさと)の存在は、茂賢の生涯を語る上で欠かすことができない。茂里、幼名を太郎五郎といい、弟の茂賢に先んじて、鍋島本家と深い宿縁で結ばれることとなる 7 。天正7年(1579年)、当時まだ男子に恵まれていなかった鍋島直茂・陽泰院夫妻は、利発で器量のあった茂里少年を見込み、養子として迎え入れた 2 。『葉隠』には、幼い茂里が直茂と舞を鑑賞した際の受け答えがあまりに生意気であったため、直茂がその利発さに感心し、養子に決めたという逸話も残されている 7 。茂里は直茂の娘・伊勢龍姫を娶り、一時は鍋島家の継嗣として定められるほどの厚遇を受けた 2 。
しかし、その翌年、直茂夫妻の間に待望の実子・勝茂が誕生すると、事態は一変する。茂里は継嗣の座を辞し、神埼郡に三千石の知行を与えられて別家を立てることになった 7 。この時、実父の信忠は、茂里を石井家に戻してほしいと直茂に懇願したが、直茂は「勝茂の後見役として、鍋島の家に留まってほしい」と強い意志を示し、これを許さなかったという 7 。
この兄・茂里と弟・茂賢の兄弟に対する直茂の処遇の違いは、彼の巧みな人事戦略を如実に示している。茂里は「本家の後見役」として藩政の中枢に留め置かれ、軍略、内政、外交、築城に至るまで多彩な才能を発揮し、文字通り勝茂を輔弼する役割を担った 2 。一方で、弟の茂賢は、後述するように、独立性の高い国人領主であった深堀氏を掌握するという、全く異なる戦略的任務を帯びることになる。直茂はこの有能な兄弟を、一方は「内政の要」として中央に、もう一方は「国境の要」として地方の要衝に配置することで、盤石な藩体制の構築を図ったのである。
父・信忠が沖田畷で戦死した後、茂賢の人生は大きな転機を迎える。未亡人となった母・大宝院が、肥前国俵石城主であった深堀安芸守純賢(ふかほり すみまさ)に再嫁したのである。この時、茂賢は母の連れ子として純賢の養子となり、深堀氏の名跡を相続することになった 1 。
この養子縁組は、単なる家族の事情として片付けられるものではない。それは、鍋島氏による深堀氏の事実上の併合を意図した、高度な政略であった。茂賢の養父となった深堀純賢が率いる深堀氏は、鎌倉幕府の有力御家人・三浦氏を祖とする、肥前国彼杵郡に根を張る由緒ある国人領主であった 1 。純賢自身も、豊臣秀吉の九州征伐後に本領を安堵されるなど、一定の独立性を保っていたが、文禄・慶長の役を契機に、肥前の実権を握る鍋島直茂への臣従を余儀なくされていた 15 。
鍋島氏にとって、深堀氏が支配する長崎半島一帯は、海外貿易の窓口である長崎港を扼する地政学的な要衝であり、その支配権を確立することは喫緊の課題であった 18 。鍋島直茂は、この独立性の高い国人領主に対し、武力を用いるのではなく、まず当主・純賢に自らの姻戚である大宝院を嫁がせ、さらにその後継者として、同じく血縁の深い茂賢を養子として送り込むという、極めて穏便かつ巧妙な手法を用いた。これにより、鍋島氏は深堀氏の領地と軍事力を円滑にその支配体制下に組み込むことに成功したのである。この瞬間から、茂賢の人生は、鍋島氏の領土拡大戦略と分かちがたく結びつくこととなった。
深堀家の家督を継いだ茂賢は、その後、養父・純賢と共に鍋島直茂から「鍋島」の姓を授けられ、ここに「鍋島茂賢」が誕生する 2 。これにより、彼は佐賀藩の家老職に列せられ、深堀領六千石を治める邑主として、「深堀鍋島家」の初代当主となった 1 。石井氏に生まれ、深堀氏を継ぎ、そして鍋島氏を名乗るに至った彼の姓の変遷は、戦国時代の在地勢力が、主家の権力構造の中に再編成され、近世的な藩体制へと移行していくプロセスそのものを象-徴している。
「鍋島」の姓を拝領したことは、彼が単なる養子ではなく、鍋島一門として藩の中枢に正式に組み込まれたことを意味する。これにより、彼の深堀領における支配は、鍋島本家による統治の代行という公的な性格を帯び、主従関係はより強固なものとなった。また、一部の系図には、茂賢が龍造寺政家の養子になったとする記述も見られる 1 。これは、彼の家系が持つ複雑さと、龍造寺・鍋島両家にとって彼がいかに重要な存在と見なされていたかを示唆するものであろう。彼は、鍋島氏の権威を背負い、在地を支配する代理人として、その後の生涯を歩んでいくことになったのである。
第一章で述べた鍋島茂賢を取り巻く複雑な人間関係を理解するため、主要人物の関係を以下に示す。
コード スニペット
graph TD
subgraph 鍋島家
NaoShige[鍋島直茂]
Yotaiin[陽泰院<br>(直茂正室)]
Katsushige[鍋島勝茂<br>(初代藩主)]
Isetatsu[伊勢龍姫<br>(直茂長女)]
end
subgraph 石井家
Tadatoshi[石井忠俊]
Daihoin[大宝院<br>(忠俊の娘)]
Nobutada[石井信忠<br>(安芸守)]
Shigesato[鍋島茂里<br>(信忠長男)]
Shigemasa[<b>鍋島茂賢</b><br>(信忠次男)]
end
subgraph 深堀家
Sumimasa[深堀純賢]
end
%% 関係性の定義
Tadatoshi -- 親子 --> Daihoin
Yotaiin -. 叔母・姪の関係.-> Daihoin
Nobutada -- 婚姻 --> Daihoin
Daihoin -- 親子 --> Shigesato
Daihoin -- 親子 --> Shigemasa
Shigesato -- 兄弟 --> Shigemasa
NaoShige -- 婚姻 --> Yotaiin
NaoShige -- 親子 --> Katsushige
NaoShige -- 親子 --> Isetatsu
NaoShige -- 養父 --> Shigesato
Shigesato -- 婚姻 --> Isetatsu
Katsushige -. 従兄弟の関係.-> Shigesato
Katsushige -. 従兄弟の関係.-> Shigemasa
Sumimasa -- 再婚 --> Daihoin
Sumimasa -- 養父 --> Shigemasa
%% スタイリング
style Shigemasa fill:#f9f,stroke:#333,stroke-width: 4.0px
(注:本系図は主要な関係性を分かりやすく示すための略図である)
鍋島茂賢の人物像を語る上で、その武人としての一面は欠かすことができない。彼は、戦国の気風が色濃く残る時代に生まれ、数々の戦場を経験することで、その武名を高めていった。特に、彼の武勇を決定づけた柳川の戦いでの活躍は、後世まで語り継がれることになる。
天正遣欧少年使節が帰国した直後の1592年、豊臣秀吉は天下統一事業の総仕上げとして、明国の征服を目指し、その足掛かりとして朝鮮への大軍派遣を断行した。世に言う「文禄・慶長の役」である 20 。この未曾有の対外戦争において、鍋島家には一万二千人という大軍役が課せられ、鍋島直茂・勝茂父子を総大将として朝鮮半島へ渡った 21 。
この時、深堀家の家督を継いで間もない鍋島茂賢もまた、養父・深堀純賢の陣代として、深堀家の軍勢を率いて渡海している 1 。鍋島軍は第四番隊として編成されており 20 、深堀隊もその一翼を担ったと考えられる。史料には、茂賢がこの戦役で「善戦した」と簡潔に記されているが、この経験が彼に与えた影響は計り知れない。
養子として深堀家の当主となった彼にとって、この大規模な実戦は、自らの将器を家臣団に示す絶好の機会であった。異国の地で、生死をかけた戦いを共に経験し、自ら先頭に立って指揮を執ることで、彼は家臣たちの信頼を勝ち得ていったはずである。この朝鮮での戦いは、茂賢が名実ともに深堀家の当主としての権威を確立するための、重要な通過儀礼であったと言えるだろう。
鍋島茂賢の武名を不朽のものとしたのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに続く、筑後「柳川の戦い」である。関ヶ原本戦において、藩主・鍋島勝茂は西軍に与して伏見城攻めに参加していた。しかし、本戦で西軍がわずか一日で壊滅すると、鍋島家は存亡の危機に立たされる。父・直茂は徳川家康と旧知の間柄であったことから、勝茂の罪の許しを請うた。家康はこれを許す条件として、同じく西軍に属した立花宗茂の居城・柳川城の攻略を命じたのである 22 。
この鍋島家の命運を賭けた戦いにおいて、鍋島茂賢は兄・茂里と共に、全軍の先鋒という最も危険な役目を命じられた 1 。慶長5年10月20日の夜明け頃、茂賢が率いる深堀鍋島勢600名は、激戦地となる八ノ院(現在の福岡県大木町)に到着した 3 。斥候が敵の接近を報じる間もなく、数千の立花軍に包囲され、壮絶な乱戦の火蓋が切られた。
この「八ノ院の闘い」における茂賢の活躍は、まさに鬼神の如きものであった。戦闘の様子は、佐賀藩の記録に鮮烈に描き出されている 3 。
敵の先鋒が切り崩しにかかり、黒い鎧を纏った兵6人が横一列に槍を構えて突進してきた。味方の先鋒隊が膝を折り、低い構えで敵の胴を狙う中、大将である安芸守茂賢は自ら先頭に躍り出た。その手に握るは三尋三尺(約4.5メートル)の長柄の槍。これを一閃し、6人の敵兵を薙ぎ払った。馬上で槍を失った敵兵が刀を抜いて襲い掛かると、茂賢は先駆けの一人を突き伏せ、すかさず配下の田代幸右衛門がその首を刎ねた。しかし息つく暇もなく、残りの敵兵が茂賢に殺到する。茂賢はさらに3人を突き倒し、配下の深堀猪之助が組み討ちで敵の首を挙げるなど、主従一体となって奮戦した。
この泥田の中での死闘は、午前8時から午後4時まで、実に8時間にも及んだという 3 。やがて武雄鍋島軍の鉄砲隊による援護射撃が始まると、さすがの立花軍も多数の死者を残して敗走。この戦いの2日後、立花宗茂は柳川城を開城した 3 。
この八ノ院での茂賢の働きは、単に一個人の武勇伝に留まらない。彼が後方の安全な場所から指揮を執るのではなく、最も危険な最前線で家臣たちと生死を共にし、その命を救ったという事実が、家臣団との間に絶対的な信頼関係と精神的な紐帯を築き上げた。この戦いこそ、45年後に起こる悲劇的かつ美しき「殉死」の物語の原点となったのである。彼の生涯における最大のハイライトであり、その人物像を理解する上で、決して欠かすことのできない一場面である。
戦場での勇猛さとは対照的に、平時における鍋島茂賢は、領地を治める統治者として、また国際的な視野を持つ家老として、異なる一面を見せる。彼の人間性を伝える逸話や、その特異な立場から生まれた活動は、単なる武辺者ではない、茂賢の奥深い人物像を浮かび上がらせる。
鍋島茂賢は、深堀鍋島家の初代当主として、肥前国彼杵郡深堀(現在の長崎市深堀町周辺)を中心とする六千石の領地を治める邑主(ゆうしゅ)であり、同時に佐賀藩の家老職を務めた 1 。彼の領地には、深堀本土のみならず、長崎港の入り口に浮かぶ神ノ島、蔭ノ尾島、香焼島、伊王島、高島といった島嶼部や、外海地方の一部も含まれていた 18 。
この地理的条件が、茂賢の統治に特別な意味合いを与えた。彼の領地は、江戸幕府にとって唯一の対外公認窓口であった長崎の喉元に位置していた。当時、佐賀藩は福岡藩と交代で長崎港の警備を担うという、幕府から課せられた重要な役務を負っていた 18 。そして、その警備の実務、すなわち現場での指揮を管掌したのが、まさに深堀鍋島家だったのである 18 。
したがって、茂賢の役割は、単なる一地方領主のそれに留まらなかった。彼の治世は、佐賀藩の国防の最前線を担うことであり、幕府に対する重要な奉公でもあった。彼は、武人としての能力だけでなく、こうした地政学的に機微な土地を管理する、優れた統治者としての手腕も求められたのである。後に見る彼の国際的な活動も、この長崎警備の責任者という立場と決して無関係ではなかったであろう。
鍋島茂賢の人物像は、「武勇の誉まれ高く、歯に衣着せぬ物言いの豪胆な器量を備える一方、頭脳明晰で心優しい一面もあった」と伝えられている 1 。その型破りで豪胆な性格を象徴する逸話が、佐賀藩士の心得を説いた書物『葉隠』などに記されている。
若き日の茂賢が、鹿子(かのこ)天満宮の森で鳩を鉄砲で撃ったが、弾が外れてしまった。これに腹を立てた茂賢は、「当たらなかったのは天神の仕業だ。憎き天神め」と叫び、二つの弾を込めて神社の本殿を裏表から撃ち抜いて帰ってしまった 1 。
この神をも恐れぬ不敬な行いを聞いた主君・鍋島直茂の対応が、また興味深い。直茂は茂賢を厳しく罰するどころか、すぐさま自ら身を清め、裃を着用して天満宮へ参詣した。そして神前に平伏し、「彼はかねてからそそっかしい者でございます。何とぞお許しください」と、茂賢に代わって深く詫びたというのである 24 。
この逸話は、単に茂賢の荒々しさを示すものではない。より重要なのは、主君・直茂の対応である。直茂は、茂賢の「そそっかしさ」、すなわち常識外れの荒々しい気性を、単なる欠点として矯正しようとはしなかった。むしろ、それこそが戦国の世を生き抜く武士としての美点であり、いざという時にこそ役に立つ「曲者(くせもの)」としての価値であると見抜いていたのである。『葉隠』には、「博打を打ち、嘘をいえ。一丁歩むうち七度ほらを吹かねば、男でないぞ」といった、常識的な善人よりも、規格外の「曲者」でなければ大事は成せないという価値観が随所に見られる 26 。直茂は、茂賢の荒ぶる魂を巧みに受け止め、管理・活用することで、鍋島家にとって強力な武力へと昇華させた。この逸話は、戦国の気風が残る時代における、理想的な主従関係の一つの形を示していると言えよう。
茂賢の人物像をさらに複雑で興味深いものにしているのが、キリスト教との関わりである。彼は、当時日本で布教活動を行っていたドミニコ会のスペイン人宣教師、アロンソ・デ・メーナ神父と懇意になり、キリスト教に対して深い理解を示したと記録されている 1 。
茂賢の関与は個人的な交流に留まらなかった。彼はメーナ神父を藩主・鍋島勝茂に引き合わせ、佐賀城下にドミニコ会の教会を建設するために尽力したのである 1 。この教会は「ロザリオの聖母に捧げる教会」と名付けられ、慶長12年(1607年)に落成式が行われた記録が残っている 9 。
茂賢のこうした行動は、単なる個人的な信仰心や異文化への好奇心だけで説明することはできない。そこには、長崎に近い深堀の領主という彼の立場からくる、戦略的な思考が見え隠れする。当時、宣教師たちは西洋の進んだ技術や国際情報をもたらす貴重な存在であり、彼らとの関係は貿易上の利益にも直結した。特に注目すべきは、茂賢が支援したのが、九州で先行して大きな影響力を持っていたイエズス会(ポルトガル系)ではなく、後発のドミニコ会(スペイン系)であった点である 28 。これは、佐賀藩が外交・貿易のルートを多様化し、特定の勢力に過度に依存するリスクを避けようとした、意図的な選択であった可能性が高い。茂賢は、藩の経済・外交戦略の最前線に立つ実行者として、この重要な役割を担っていたのである。彼の宗教的寛容性は、そのまま彼の国際感覚と戦略家としての一面を物語っている。
鍋島茂賢の生涯は、その最期において、最も劇的で、かつ彼の人となりを象徴する出来事を迎える。彼の死に際して起きた家臣団の集団殉死は、戦国の主従関係が泰平の世にいかに継承され、そして終焉を迎えたかを示す、痛切な物語である。
正保2年(1645年)2月9日、鍋島茂賢は75年の波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。彼の死は、それ自体が大きな損失であったが、佐賀藩をさらに震撼させたのは、その後に続いた出来事であった。茂賢の死を悼み、彼の家臣・与力であった18名(資料によっては22名、23名とも伝えられる)が、主君の後を追って殉死(追腹)を遂げたのである 1 。
この集団殉死は、当時としても極めて異例のことであった。なぜなら、殉死の対象となった茂賢は藩主ではなく、一介の家老であったこと。そして、戦死ではなく、畳の上での病死であったこと。さらに、時代はすでに江戸時代に入り、幕府によって殉死の風習は抑制されつつあったからである 5 。藩の重臣たちも、この追腹を思いとどまるよう説得を重ねたが、彼らの決意は固かった 4 。
この出来事は、茂賢がいかに家臣から深く敬愛され、絶対的な忠誠を捧げられていたかを何よりも雄弁に物語っている。現在、佐賀市本庄町にある大宝山妙玉寺には、茂賢夫妻の墓と共に、この殉死した忠臣たちの墓も並んで建てられており、主従の絆の深さを今に伝えている 1 。
なぜ彼らは、周囲の反対を押し切ってまで、主君への殉死を選んだのか。その理由は、45年という時を超えた、戦場での固い誓いにあった。殉死した家臣たちは、制止する人々に対して、次のように述べたと伝えられている。
「我らは、45年前の柳川の戦いのとき、『この八ノ院で枕を並べて共に討ち死にしよう』と安芸守様(茂賢)と誓い合ったのだ。あの時、安芸守様が討死なさらなかったので、我らも今日まで生きながらえてきた。武士たる者が、一度交わした約束を破るわけにはいかぬ」 1
この言葉は、彼らの行動が単なる主君への追従ではなく、戦場で交わした「武士の一分(いちぶん)」、すなわち自らの言葉に命を懸けるという、言行一致の美学を貫徹する行為であったことを示している。『葉隠』に「武士に二言は無い」とあるように、一度口にした約束は、たとえ45年の歳月が流れようとも、決して違えてはならない絶対的なものであった 30 。
平和な時代が到来し、かつての戦場での誓いが忘れ去られようとする中で、彼らは自らの命をもって、その誓いが真実であったことを証明したのである。この出来事は、戦国時代の苛烈な主従関係が、泰平の世においてもなお生々しく息づいていたことを示す貴重な証左である。それは、変わりゆく時代の論理(合理性や法)に対する、古い武士たちの最後の抵抗であり、その生き様の誇りを懸けた表明であったとも解釈できるだろう。茂賢の死は、二つの時代の価値観が衝突する、劇的な舞台となったのである。
鍋島茂賢が開祖となった深堀鍋島家は、彼の死後も佐賀藩の家老家として存続し、代々、長崎警備という重要な任を担い続け、明治維新に至った 19 。茂賢が築いた家は、彼の気風を受け継いだのか、元禄13年(1700年)には、深堀家の家臣が長崎の有力町人・高木彦右衛門の屋敷に討ち入り、相手を殺害するという「深堀事件(長崎喧嘩騒動)」を引き起こしている。この事件は、赤穂浪士の討ち入りに先立つもので、「長崎忠臣蔵」とも呼ばれ、当時の武士の気概を示すものとして評価された 31 。
茂賢自身の武勇伝や、彼を巡る殉死の物語は、その後、佐賀藩の武士道精神を象徴する逸話として長く語り継がれた。特に、武士の生き様と死生観を説いた『葉隠』が編纂される精神的風土を形成する上で、茂賢の存在が少なからぬ影響を与えたことは想像に難くない 4 。
しかし、茂賢の最大の功績は、個々の武功や逸話に留まるものではない。彼は、鎌倉時代から続く肥前の在地領主・深堀氏の歴史と伝統を、鍋島藩の家老家「深堀鍋島家」として近世の統治機構の中に巧みに再編し、幕末まで続く家の礎を築いた「創業者」であった。長崎警備という藩の最重要任務を担う家系を確立した彼の功績は、佐賀藩の安定と発展に大きく寄与したと言える。彼の生涯は、戦国の武人が近世の統治者へと変貌を遂げていく、時代の過渡期のダイナミズムそのものを体現しているのである。
鍋島茂賢の生涯を多角的に検証すると、彼が単に勇猛な武将であっただけでなく、複雑な血縁と政略の中で自らの役割を的確に果たし、藩の要衝を治め、国際的な視野を持ち、そして何よりも家臣から絶対的な信頼を寄せられる類稀な指導者であったことが明らかになる。
彼の歴史的評価は、龍造寺氏から鍋島氏への権力移行期という、佐賀藩の歴史において最も不安定で重要な時期に、兄・茂里と共に鍋島体制を軍事的・政治的に支えた中心人物の一人であったという点に集約される。茂賢の武勇は、成立間もない鍋島藩の武威を内外に示し、彼の統治は、対外的な窓口である長崎の安定を通じて藩の安寧に貢献した。そして、彼の死に様とそれに殉じた家臣たちの物語は、佐賀藩士の精神性の拠り所となる伝説となった。彼は、佐賀藩という新たな共同体が形成される過程において、その礎を築いた、欠くことのできない重要な柱の一つであったと結論付けられる。
石井家に生まれ、深堀家を継ぎ、鍋島家のために生きた鍋島茂賢。その忠義、武勇、そして人間的魅力が複雑に絡み合った生き様は、時代の激流に翻弄されながらも、自らの信念を貫いた一人の武士の姿として、現代の我々にも強い感銘を与える。彼の物語は、佐賀藩の、ひいては日本の近世初期の歴史を理解する上で、欠かすことのできない鮮烈な一章をなしているのである。