日本の戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、肥前国(現在の佐賀県・長崎県の一部)は大きな動乱の渦中にあった。長らくこの地を支配した龍造寺氏がその勢力を失い、代わって重臣であった鍋島氏が台頭、やがて35万7千石を誇る佐賀藩を成立させる。この劇的な権力移行の時代に、一人の武将が極めて重要な役割を果たした。その人物こそ、本報告書が主題とする鍋島茂里(なべしま しげさと)である。
茂里の生涯は、単なる一武将の立身出世物語として語ることはできない。彼は、主家である龍造寺家の譜代重臣・石井氏の嫡男として生まれながら、後に肥前の実権を掌握する鍋島直茂の養子となり、さらには初代佐賀藩主となる鍋島勝茂の義兄かつ後見役を務めるという、極めて多層的で複雑な立場にあった 1 。この彼の存在そのものが、龍造寺氏から鍋島氏への権力移行という、ともすれば「下剋上」や「簒奪」と見なされかねない危ういプロセスにおいて、一種の緩衝材となり、新体制の正当性を担保する「鍵」として機能した。
したがって、鍋島茂里の生涯を徹底的に調査し、その実像に迫ることは、一人の傑出した人物の伝記を明らかにするに留まらない。それは、鍋島佐賀藩という新たな権力構造が、いかにして旧体制を内包し、在地勢力を巧みに再編しながら安定した統治を確立していったのか、そのダイナミズムを解明する絶好の事例研究となる。本報告書は、彼の勇猛な武功の記録を追うだけでなく、その血縁的・政治的背景を深く掘り下げ、佐賀藩成立史における構造的な役割を多角的に分析・評価することを目的とする。
鍋島茂里の人物像を理解するためには、まず彼のルーツである肥前石井氏の特質と、彼が育った環境を把握することが不可欠である。
鍋島茂里は、永禄12年(1569年)に生まれ、慶長15年8月8日(西暦1610年9月24日)に42歳の若さでその生涯を閉じた 1 。幼名は石井太郎五郎といい、龍造寺氏の重臣・石井信忠の嫡男として生を受けた 1 。
茂里が生まれた石井氏は、単なる龍造寺家の家臣団の一つではなかった。彼らは「石井党」と呼ばれる精強な武士団を形成し、龍造寺隆信の旗本として、その勢力拡大の過程で鍋島氏と並び立つほどの多大な貢献をした一族である 6 。その関係性は、単なる主従というよりも、龍造寺体制を共に支える「パートナー」に近い、極めて重要な存在であった 9 。この武門としての誇りと実力が、茂里の人間形成の基盤となったことは想像に難くない。
茂里の出自をさらに深く見ると、彼の将来を決定づける重要な血縁関係が浮かび上がる。彼の父は石井安芸守信忠、母は石井忠俊の娘である大宝院である 1 。そして、この母・大宝院は、鍋島直茂の正室であり初代藩主・勝茂の生母である陽泰院の姪にあたる 1 。つまり、茂里は鍋島勝茂の従姉の子という関係にあり、直茂・陽泰院夫妻とは極めて近い血縁で結ばれていた。この事実は、後に彼が鍋島家の養子に選ばれる上で、極めて自然かつ有力な根拠となった。
この養子縁組が、単なる偶然やその場の判断ではなかったことは、茂里の幼少期を物語る逸話からも窺える。佐賀藩の士道を説いた書物『葉隠』によれば、幼少期の茂里が養父・直茂と共に筑後舞『羅生門』を観賞した際、その感想を問われた茂里は、子供らしからぬ生意気とも取れる答えを返したという。直茂は「童の分際で、こしゃくなことを申すな」と叱責しつつも、その内面に秘められた非凡な利発さと器量を見抜き、養子に迎えることを決意したと伝えられている 1 。
この逸話は、茂里が幼い頃から傑出した才能の片鱗を見せていたことを示すと同時に、直茂が彼に早くから注目していたことを物語っている。茂里の養子入りは、彼が持つ「石井一族の嫡男」という家格、「陽泰院の近親」という血縁、そして「個人としての非凡な能力」という三つの要素が、鍋島直茂の政治的構想の中で完璧に合致した結果であった。それは運命的な出会いというよりも、むしろ周到に準備された、必然とも言うべき戦略的人事の側面を色濃く帯びていたのである。
鍋島茂里の生涯において、最大の転機となったのが鍋島家への養子入りと、その後の立場の変化である。彼は鍋島家の「継嗣」から、次代の藩主を支える「後見役」へと、その役割を劇的に変えていく。この過程には、当事者たちの深い思慮と、揺籃期の鍋島家が抱える複雑な事情が色濃く反映されている。
天正7年(1579年)、当時40歳を過ぎても嫡男に恵まれなかった鍋島直茂・陽泰院夫妻は、11歳の茂里の抜きん出た器量を見込み、養子として迎えることを決断した 1 。この時、茂里は直茂が前室との間にもうけた長女・伊勢龍姫(いせたつひめ、後の月窓院)を正室として娶り、その立場は盤石なものとなった 1 。直茂の嫡男・勝茂が誕生するまでの約一年間、茂里は名実ともに鍋島家の後継者、すなわち次期当主として定められていたのである 1 。
しかし、茂里が養子となった翌年の天正8年(1580年)、直茂夫妻の間に待望の嫡男・勝茂が誕生する 4 。この慶事によって、茂里の立場は一転して微妙なものとなった。実子誕生という状況の変化を受け、茂里の実父である石井信忠は、直茂に対して茂里を石井家へ復籍させるよう丁重に申し入れた 1 。
この申し出に対する直茂の対応こそが、茂里の生涯、ひいては鍋島家の未来を決定づけた。直茂は信忠の申し入れを断固として許さなかった。そして、「勝茂が成長して家を継ぐときには、茂里を後見役として政務を行わせる。決して疎かにすることはない」と述べ、茂里を鍋島一門として留め置く強い意志を示したのである 1 。
この直茂の決断は、単に有能な茂里を手放したくないという情愛からだけではない。そこには、極めて高度な政治的計算が働いていた。第一に、茂里を実家に戻すことは、龍造寺家臣団の中でも最大の功臣一族である石井氏の面目を潰し、家中に深刻な亀裂を生じさせる危険性を孕んでいた。第二に、継嗣の座を追われた有能な若者が不満を抱き、将来的な火種となることは戦国の世の常である。彼に「後見役」という名誉と実権を伴う新たな役割を与えることで、その類稀なる能力を、勝茂を支え、鍋島家を盤石にするための力へと転換させることができる。そして第三に、武勇に優れた義兄が後見人となることで、まだ幼い勝茂の立場は内外に対して非常に強固なものとなる。茂里は、勝茂にとって最強の「盾」となることが期待されたのである。
このように、直茂が描いた「後見役」構想は、潜在的な対立要因を巧みに協力関係へと昇華させ、次世代の権力基盤を確立するための深謀遠慮であった。茂里は、鍋島家の継嗣という立場から、次代の当主を育て、守り、支えるという、より重要で困難な使命を担うことになったのである。
鍋島茂里は、卓越した政治感覚を持つ一方で、戦場においては比類なき武勇を誇る猛将であった。彼が「鍋島軍の先鋒」とまで謳われた所以は、その生涯を通じての数々の武功に見て取ることができる。
茂里の武名が初めて轟いたのは、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにおいてであった。当時16歳の茂里は、養父・直茂に従い初陣を飾る 1 。この戦いで主君・龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に討ち取られ、龍造寺軍は壊滅的な敗北を喫した 4 。味方が総崩れとなる混乱の中、茂里は冷静さを失わず、勇猛果敢に戦い抜いた。直茂と共に九死に一生を得て柳川城へ退却する際のその戦いぶりは、直茂に深い感銘を与えた 4 。この一戦を機に、直茂は「以来、鍋島隊の先鋒は、茂里に務めさせる」と定めたと伝えられる 1 。
この戦いに関しては、『葉隠』にいくつかの逸話が残されている。茂里が所持していた黄金に輝く陣太刀があまりに目立つため、家臣の中野清明が泥を塗って敵の標的になるのを防いだ話や、敗戦の中で自刃を決意した直茂の介錯を茂里が買って出ようとしたところ、その短慮を同じく中野に諫められたという話である 1 。ただし、これらの逸話は後世の『葉隠』の著者による脚色の可能性も指摘されており、史実として扱うには慎重な検討が必要である 1 。
龍造寺家が豊臣秀吉の傘下に入ると、茂里は龍造寺家の人質として、実弟の石井孫六(後の鍋島茂賢)らと共に小早川隆景のもとに預けられ、大坂城へ上った 1 。この人質時代、秀吉が自ら剥いた瓜を馳走になったといい、その栄誉を記念して、家紋に「五つ木瓜紋」を用いるようになったという逸話が残っている 1 。これは、茂里が中央政権の頂点に立つ人物と直接の接点を持ち、その存在を認められていたことを示す重要なエピソードである。
天下統一後、秀吉が引き起こした文禄・慶長の役では、茂里も一軍を率いて朝鮮半島へ渡海した。彼は養父・直茂と義弟・勝茂を補佐し、数々の戦いで功績を挙げた 1 。この戦役においても、彼の機転と責任感の強さを示す逸話が伝えられている。当時、日本から遠征した各大名は、戦功の証として朝鮮側の軍船を拿捕することを競い合っていたが、ある時、鍋島隊はこれに遅れをとってしまった。このままでは太閤秀吉への報告の際に面目が立たないと考えた茂里は、「父直茂・弟勝茂の名誉を傷つけるわけにはいかぬ」と言って奔走し、どこからか多数の軍船をかき集めてきたという 1 。単なる武勇だけでなく、困難な状況を打開する知恵と行動力を兼ね備えていたことが窺える。
関ヶ原の戦いの後、徳川家康の命により、西軍に与した筑後柳川城主・立花宗茂を攻める戦いにおいても、茂里の存在は際立っていた。彼はこの戦いで軍略の立案から部隊の先鋒までを担当し、鍋島軍の勝利に大きく貢献した 1 。
これらの武功の数々は、茂里が単なる一兵卒としてではなく、戦略眼を備えた指揮官として、鍋島家の軍事力を支える中心人物であったことを明確に示している。彼の武名は、そのまま揺籃期の鍋島家の武威となり、その支配体制を物理的にも心理的にも支える重要な柱であった。
鍋島茂里の評価は、戦場での武功だけに留まらない。彼はまた、佐賀藩の初期統治機構を築き上げた優れた「執政」でもあった。戦国の武将から近世の藩臣へという時代の変化の中で、彼はその多才ぶりを遺憾なく発揮し、鍋島家の支配体制の基礎を固める上で不可欠な役割を果たした。
史料によれば、茂里は軍略はもとより、内政、外交、そして築城といった多方面で非凡な才能を示したと記録されている 10 。彼のキャリアは、個人の武勇が重視された戦国時代から、組織的な統治能力が求められる江戸時代へと、武士に求められる資質が変化していく過渡期を象徴している。
その具体的な統治への関与は、豊臣秀吉による肥前名護屋城の築城においても見ることができる。この一大事業において、鍋島家は佐賀の蓮池城天守を献上し、さらに大手門の櫓を建築する任務を負った。この際、龍造寺又八郎や石井生三といった複数の奉行が立てられたが、彼らを総覧し、工事全体を統括したのが茂里であった 4 。これは、彼が大規模な土木事業を管理・運営する能力を持っていたことを示している。その後、佐賀藩の本拠地となる佐賀城の築城においても、彼は重要な役割を担った 1 。
鍋島家が龍造寺家に代わり肥前の支配者となった後、茂里は鍋島直茂の側近であった「鍋島三生」の一人、鍋島生三(しょうざん)と共に、初期佐賀藩の執政として藩政の確立に尽力したと高く評価されている 1 。これは、彼が単なる軍事司令官や藩主一門という立場に安住せず、藩の経営という実務に深く関与した中枢人物であったことを意味する。
特に、龍造寺家から鍋島家へと権力が移行する不安定な時期において、彼の存在は極めて重要であった。茂里は龍造寺家の旧臣である石井氏の出身でありながら、鍋島家の中核を担う人物である。この特異な立場は、龍造寺家の旧家臣団の不満を和らげ、彼らを新たな鍋島体制へと円滑に組み込んでいく上で、計り知れない効果を発揮したと考えられる。彼の行政手腕と、旧体制との繋がりが、佐賀藩という新たな統治体の安定的な船出を可能にしたのである。茂里の生涯は、戦国の世を生き抜いた武将が、その経験と能力を新たな時代の統治へと昇華させていく、移行期の理想的な藩臣像を体現していると言えよう。
鍋島茂里は、一人の武将・執政として鍋島宗家を支えるだけでなく、自らを初代とする「横岳鍋島家」を創設した。この家の成立過程と佐賀藩内におけるその特殊な地位は、鍋島直茂による巧みな領国経営術と、茂里という人物の重要性を如実に物語っている。
鍋島勝茂の誕生後、茂里は継嗣の座を辞し、肥前国神埼郡西郷村に物成(ものなり、年貢高)三千石を与えられて別家を立てた 1 。この知行地は、彼の功績に応じて後に七千五百石まで加増されている 10 。
茂里が興した家は、いくつかの異なる名称で呼ばれている。
横岳鍋島家の成立は、単なる茂里への論功行賞以上の、深い政治的意図に基づいていた。滅亡した横岳氏の旧家臣・池尻玄蕃が、主家の再興を鍋島直茂に嘆願したことが契機になったとされる 3 。直茂はこれに応える形で、旧横岳領と家臣団を、最も信頼する養子・茂里に与えた。これは、功臣である茂里に相応の知行と家臣団を与えて報奨すると同時に、旧横岳家の家臣たちを茂里の指揮下に置くことで反乱の芽を摘み、鍋島体制へと円滑に組み込むという目的があった。さらに、神埼郡という戦略的要衝に、最強の武将である茂里を配置することで、領国全体の支配を強化する狙いもあった。このように、茂里の分家創設は、旧勢力の解体・再編と新たな支配体制の構築を同時に実現する、極めて合理的な領国経営術の現れであった。
その結果、横岳鍋島家は佐賀藩において極めて高い地位を占めることとなる。家格は「家老」六家の筆頭とされ、一時はさらに格上の「親類同格」として遇されることもあった 3 。その子孫は代々家老職を世襲し、明治維新に至るまで佐賀藩政の中枢を担い続けたのである 10 。
家名 |
創設者 |
創設者と藩主との関係 |
創設の経緯・背景 |
主要な役割・家格 |
典拠 |
横岳鍋島家 |
鍋島茂里 |
養子、義兄(勝茂の) |
石井信忠の長男。直茂の養子となり、勝茂誕生後に別家。旧横岳氏の遺領を継承。 |
家老筆頭、藩政の中枢を担う。 |
1 |
深堀鍋島家 |
鍋島茂賢 |
養子の実弟 |
石井信忠の次男で茂里の実弟。深堀家の養子となり、鍋島姓を賜る。 |
家老、長崎方面の要。 |
10 |
白石鍋島家 |
鍋島直弘 |
藩主の実子(勝茂の八男) |
初代藩主・勝茂の子として生まれ、一家を創設。 |
御親類筆頭、藩主の補佐、財政担当。 |
18 |
(参考)小城藩 |
鍋島元茂 |
藩主の長男(勝茂の) |
勝茂の長男だが、継室の子・忠直が後継となったため、直茂の隠居分を継ぎ支藩を創設。 |
支藩(7万3千石)、本藩の藩屏。 |
21 |
この表からも、茂里が創設した横岳鍋島家が、藩主一族の分家である白石鍋島家や小城藩とは異なり、譜代の重臣を取り込む形で成立した特殊な家であったことが明確に理解できる。
これまでの記述を統合すると、鍋島茂里の人物像は、乱世を生き抜く武将としての「武」と、新たな時代を築く為政者としての「知」を高い次元で兼ね備えた、理想的な輔弼者として浮かび上がる。彼は、戦場では冷静さと行動力を併せ持つ勇将であり、政務においては軍事、内政、外交、築城と多岐にわたる才能を発揮した。そして何よりも、養父・直茂と義弟・勝茂への揺るぎない忠誠心を生涯貫き通した。
しかし、その輝かしいキャリアは突如として終わりを迎える。慶長15年(1610年)8月8日、茂里は42歳という若さでこの世を去った 1 。現存する史料に具体的な死因の記述は見当たらないが、戦死や暗殺といった記録はなく、病による死であったと考えるのが妥当であろう。彼の早すぎる死は、当時まだ31歳であった藩主・勝茂と、隠居の身とはいえ藩の絶対的な重鎮であった73歳の直茂にとって、計り知れない衝撃と損失であったことは想像に難くない。
茂里の生涯は、奇しくも鍋島佐賀藩の「揺籃期」そのものと重なっている。彼が鍋島家の養子となった天正7年(1579年)から、龍造寺家の旧主・高房が没し佐賀藩が名実ともに成立した慶長12年(1607年)を経て、彼が亡くなる慶長15年(1610年)まで、鍋島家が龍造寺家の一家臣から35万7千石の大名へと飛躍する最も困難で重要な期間であった。茂里は、沖田畷の戦い、朝鮮出兵、関ヶ原の戦い後の領地安堵といった、この時代の全ての重要局面で中心的な役割を担った。そして、藩体制が一応の安定を見た直後に、まるでその役目を終えたかのように亡くなる。彼の42年間の生涯は、まさに佐賀藩の誕生と成長の物語そのものであり、その死は一つの時代の終わりを象徴する出来事であったと言える。
鍋島茂里の亡骸は、佐賀市本庄町にある日蓮宗の寺院・妙玉寺に、正室の伊勢龍姫(月窓院)と共に手厚く葬られている 5 。この妙玉寺は、茂里の横岳鍋島家と、彼の弟・茂賢が継いだ深堀鍋島家の菩提寺であり、彼らの出自である石井一族とも深い繋がりを持つ寺院である 23 。現在も残るその墓所は、佐賀藩の礎を築いた偉大な輔弼者の功績を静かに後世に伝えている。
鍋島茂里の生涯を詳細に分析した結果、彼は単なる勇猛な武将や有能な家臣という評価に留まらない、より大きな歴史的意義を持つ人物であることが明らかになった。
第一に、茂里は自らが大名となる野心を持つことなく、一貫して鍋島宗家を支える「輔弼者」としての役割に徹した。その功績は、戦場での武功や内政における手腕に止まらない。龍造寺家の重臣・石井氏の嫡男でありながら鍋島直茂の養子となるという彼の存在自体が、龍造寺家から鍋島家への権力移行を円滑にし、新体制の正当性を内外に担保する極めて重要な役割を果たした。
第二に、茂里の生涯は、戦国の動乱期から近世の安定期へと向かう時代の転換点を体現している。彼は沖田畷の戦いで個人の武勇を示し、朝鮮出兵では大名軍の一翼を担い、そして佐賀藩成立後は藩政の中枢で行政能力を発揮した。時代の要請に応じて求められる能力を柔軟に発揮し得たことこそ、彼が乱世から近世への橋渡し役となり得た要因である。
偉大な主君の傍には、必ず優れた補佐役が存在する。徳川家康にとっての井伊直政や本多忠勝、伊達政宗にとっての片倉景綱がそうであったように、鍋島茂里は鍋島直茂・勝茂父子にとって、まさにそのようなかけがえのない存在であった 25 。
結論として、鍋島茂里は、戦国から江戸への歴史的転換点において、自らの出自、血縁、そして類稀なる能力の全てを主家の発展のために捧げ、佐賀藩35万7千石の礎を築き上げた、日本史上でも屈指の「輔弼者」として評価されるべきである。彼の武勇と知略、そして揺るぎない忠誠心なくして、鍋島佐賀藩の安定的な成立は、より一層困難な道のりであったことは疑いようがない。彼の生涯は、新たな秩序が形成される過程で、一人の人間がいかに決定的な役割を果たし得るかを示す、貴重な歴史的証左と言えよう。