年代 |
出来事 |
永禄10年(1567年) |
島津方の武将・青陰勘解由を討ち取り、主君・伊東義祐より伊東姓を賜る 1 。 |
元亀3年(1572年) |
木崎原の戦い後、対島津の最前線である高原城の城主に任じられる 1 。 |
天正4年(1576年) |
高原城合戦。島津軍の3万の大軍に対し約400の兵で籠城するも、水の手を断たれ和睦開城 3 。 |
天正5年(1577年) |
伊東家が事実上崩壊(伊東崩れ)。主君・伊東義祐に同行し、二人の子を伴い豊後国へ退去 1 。 |
天正6年(1578年)3月 |
大友軍の先鋒として日向へ帰還。山田宗昌らと共に新納石城に入り、伊東家再興の拠点とする 6 。 |
天正6年(1578年)7月 |
第一次石城合戦。約600の兵で島津軍7000余を撃退し、大勝利を収める 6 。 |
天正6年(1578年)9月 |
第二次石城合戦。島津軍1万余の猛攻を受け、兵糧が尽きたため降伏。再び豊後へ退去する 6 。 |
天正6年(1578年)10月 |
再び日向に潜入し、三納にて旧臣を糾合して蜂起。ゲリラ戦を展開し島津領内を攪乱する 7 。 |
天正6年(1578年)11月 |
耳川の戦い。大友軍本隊に合流し、総崩れの中で奮戦。島津方の将を討ち取るも、力尽き次男と共に自害したとされる 1 。 |
本報告書は、戦国時代の日向国(現在の宮崎県)に生きた一人の武将、長倉祐政の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に追跡し、その人物像と歴史的意義を明らかにすることを目的とする。彼の生涯は、九州の勢力図を塗り替えた伊東氏と島津氏の激しい抗争、そしてその渦中で主家の没落に最後まで抗った家臣の忠義と抵抗の物語である。
長倉祐政が生きた十六世紀後半の日向は、まさに激動の時代であった。かつては「伊東四十八城」と称される広大な支配圏を築き、栄華を誇った伊東氏も、元亀3年(1572年)の木崎原の戦いにおける手痛い敗北を境に、その勢力に陰りが見え始める 4 。一方で、薩摩・大隅を着実に平定した島津氏は、宿願であった「三州統一」の実現に向け、その矛先を日向へと向けつつあった 4 。
この伊東氏の衰亡と島津氏の勃興という大きな歴史のうねりの中で、長倉祐政は一貫して伊東家の忠臣としてあり続けた。主家が崩壊し、多くの同僚が離反、あるいは討ち死にしていく中、彼は不屈の闘志を燃やし、絶望的な状況下で幾度となく島津軍の前に立ちはだかった。その行動は、単なる一介の家臣の奮闘に留まらない。それは、滅びゆく勢力の中で、武士としての誇りと忠誠を貫き通そうとする人間の意志の力、そして逆境における抵抗の精神を象徴する事例として、深く考察するに値するものである。本報告書では、彼の出自から始まり、数々の合戦における活躍、そしてその壮絶な最期までを丹念に追い、日向戦国史のダイナミズムを、長倉祐政という一人の武士の視点から再構築していく。
長倉祐政の行動原理を理解する上で、まず彼の出自と伊東家における地位を確認することは不可欠である。彼の揺るぎない忠誠心の源泉は、その血筋と、自らの武功によって勝ち得た名誉にあった。
長倉氏は、伊東氏の初代当主・伊東祐時の子である長倉祐氏を祖とする、伊東一門の庶流(分家)であった 1 。伊東氏が鎌倉時代に日向国へ下向する際に付き従い、家臣団の中核を成す譜代の家柄として存続してきた。この事実は、祐政の立場を単なる主君に仕える家臣という以上に、自らの血の源流である宗家(本家)の存続に直接的な責任を負う一族の一員として位置づける。彼の戦いが、単なる奉公に留まらず、伊東という氏族そのものの存続をかけたものであったことは、彼の後の執拗なまでの抵抗を理解する上で極めて重要な背景となる。
祐政が伊東家中でその名を高めたのは、永禄10年(1567年)のことである。この年、彼は敵対する島津軍の武将・青陰勘解由(あおかげかげゆ)なる人物を討ち取るという、目覚ましい武功を立てた 1 。この功績を高く評価した主君・伊東義祐は、褒賞として祐政に「伊東」の姓と、討ち取った敵将の名でもある「勘解由(かげゆ)」の官途名を授けた 1 。これにより、彼は「伊東勘解由」と称することとなり、伊東一門の中でも特に功績著しい武将として、その存在を認められるに至った。主家と同じ姓を名乗ることは、当時の武士にとって最高の栄誉の一つであり、この出来事は祐政の武勇と、主君からの厚い信頼を物語るものである。
興味深いことに、祐政は後に自らは長倉姓に復し、この栄誉ある伊東姓を嫡子である近江守に名乗らせている 1 。これは、主君から賜った栄誉を一代限りのものとせず、家門の誉れとして永く後世に伝えようという、彼の家意識の強さを示唆している。彼の忠誠は、主君個人への奉仕に止まらず、自らが属する長倉家、そしてその本家である伊東家の永続に向けられていたのである。
木崎原の戦いを境に翳りを見せ始めた伊東家の命運は、天正4年(1576年)、ついに奔流となって衰亡へと突き進んでいく。その渦中にあって、長倉祐政は対島津の最前線である高原城の守将として、主家の命運を賭けた絶望的な戦いに身を投じることとなった。
木崎原での敗戦以降、当主・伊東義祐は次第に政務への意欲を失い、京文化の諸芸に耽るようになったと伝えられる 3 。家中では側近が権勢を振るい、志ある家臣たちの心は主君から離れつつあった 3 。このような内部崩壊の兆しが見える中、祐政は義祐の命により、島津領との境に位置する要衝・高原城の城主に任じられる 1 。家中が動揺する中で、この軍事的に最も重要な拠点を任されたという事実は、彼がいかに義祐から信頼されていたか、そしてその武勇が家中で高く評価されていたかを如実に示している。
天正4年8月、島津義久は自ら3万と号する大軍を率いて高原城に侵攻した 2 。対する高原城の城兵は、わずか370名から400名余りという、圧倒的に不利な状況であった 3 。祐政は直ちに佐土原の義祐に使者を送り、援軍を要請した。この報に驚いた義祐は、自ら出陣すると息巻いたものの、もはや伊東家中に大軍を組織し、迅速に救援へ向かう力は残されていなかった 3 。
島津軍は城下の防塁を焼き払い、城を完全に包囲。激しい攻防の末、二の門まで突破された上、城の生命線である水の手(水源)までも断たれてしまう 2 。援軍の望みも絶たれ、城兵の士気も尽きようとしていた。この絶体絶命の状況下で、祐政は冷静な判断を下す。これ以上の抵抗は、いたずらに兵の命を失うだけであり、再起の芽を完全に摘むことになると考えたのである。彼は玉砕という道を選ばず、矢文をもって島津方に和議を申し入れた 4 。
この申し出は島津方に受け入れられ、人質交換の上で高原城は開城された 4 。祐政は生き残った170余名の城兵を率いて、野尻方面へと退却した 5 。この高原城での決断は、単なる敗北ではない。それは、勇猛果敢な抵抗と、状況を的確に分析し、次善の策を選択できる冷静な指揮官としての一面を併せ持つ、祐政の武将としての資質を示すものであった。無駄死にを避け、再起のために戦力を温存するというこの現実的な判断こそが、後の石城合戦や三納一揆といった、彼の不屈の抵抗活動へと繋がる重要な布石となったのである。
高原城の開城後も、伊東家の衰亡は止まらなかった。島津方の巧みな調略により重臣の福永祐友や野村文綱らが離反するに及び、伊東家は内部から崩壊。天正5年(1577年)12月、ついに当主・伊東義祐は本拠地の都於郡城を放棄し、北九州の大友宗麟を頼って豊後国へ落ち延びることを決断する。世に言う「伊東崩れ」である 4 。
長倉祐政もまた、この悲壮な逃避行に加わっていた。彼は嫡子の近江守、次男の六郎太郎を伴い、主君の一行に付き従った 1 。一行は120名余り、険しい九州山地の米良山系を越え、追っ手を逃れながらの過酷な旅路の末、ようやく豊後にたどり着いた 12 。
豊後に到着した義祐は、大友宗麟に庇護を求め、日向奪還への支援を要請した。宗麟は、かねてより日向国に野心を抱いており、これを好機と捉えて伊東氏への協力を約束した 16 。こうして、大友氏という巨大な後ろ盾を得た伊東家臣団は、失地回復への望みを繋ぐこととなる。
大友氏の庇護下で雌伏の時を過ごした祐政であったが、彼が安穏と救いの手を待つだけの人物ではなかったことは、その後の行動が証明している。天正6年(1578年)2月、大友軍の本格的な日向侵攻に先立ち、先鋒部隊が日向北部の門川城に進出する。この時、祐政は主君・義祐の命を受け、山田宗昌ら他の伊東家臣と共にこの先遣隊に同行し、故郷・日向の地を再び踏んだ 6 。
彼の行動は、そこからさらに能動的かつ大胆なものへと転化する。同年3月、祐政と山田宗昌らは、大友軍の進撃を待たずして、当時すでに島津領となっていた日向中部の要衝・新納石城(にいろいしのじょう、現在の木城町)に電撃的に入城し、これを占拠したのである 6 。これは、敵地の深くに自らの意志で拠点を築き、島津軍の南からの侵攻に楔を打ち込むという、極めて危険かつ戦略的な行動であった。
豊後への退去が主家に従う受動的な行動であったのに対し、この石城入城は、祐政自身が伊東家再興の先駆けとなるという強い意志と主体性を示している。彼は大友氏の力を利用しつつも、その軍事行動の最先端で自らリスクを負い、来るべき決戦の橋頭堡を築いた。この能動的な姿勢こそが、続く石城合戦や三納一揆という、彼の生涯のクライマックスを飾る一連の抵抗活動の原動力となったのである。
故郷・日向に帰還し、新納石城を拠点とした長倉祐政の戦いは、ここから熾烈を極める。彼は正規の籠城戦と非正規のゲリラ戦という二つの異なる戦術を駆使し、九州最強と謳われた島津軍を相手に、執念の抵抗を繰り広げた。
新納石城は、小丸川に突き出した半島状の地形に築かれた天然の要害であった 6 。祐政らはこの城を拠点に、伊東家再興の狼煙を上げた。
天正六年七月・第一次合戦
祐政らの動きを看過できない島津義久は、天正6年(1578年)7月、配下の島津忠長・伊集院忠棟を大将とする7000名余りの大軍を石城へ差し向けた 6。対する祐政の兵力は、わずか600名。しかし、祐政と山田宗昌が率いる伊東勢は、地の利を活かして奮戦。圧倒的な兵力差を覆し、島津軍に死者500名以上という甚大な損害を与えて撃退するという、驚くべき大勝利を収めた 6。この勝利の報は、大友本軍にも伝えられ、また日向各地に潜んでいた伊東旧臣たちに希望を与え、彼らの蜂起を促す大きなきっかけとなった 8。
同年九月・第二次合戦
一度は敗退した島津軍であったが、義久は威信をかけて同年9月、今度は島津征久(ゆきひさ)らを将とする1万余の大軍をもって再び石城を包囲した 6。伊東勢は三日三晩にわたり激しく抵抗したが、大軍による執拗な攻撃の前に、城内の水や兵糧は次第に尽きていった 7。外部からの援軍も期待できない中、祐政らはこれ以上の籠城は不可能と判断。9月29日、城兵の生命の保証を条件として島津方と講和し、石城を明け渡して再び豊後へと退去した 6。正規の拠点防衛戦は、その限界を迎えたのである。
石城という拠点を失った祐政であったが、彼の闘志は些かも衰えなかった。彼は正規戦での敗北を教訓とし、即座に戦術を転換する。それは、固定された拠点に頼らない、機動的かつ破壊的な非正規戦闘、すなわちゲリラ戦であった。
豊後へ退去した祐政は、間を置くことなく再び日向に潜入。密かに日向国中の伊東旧臣たちに檄文を送り、一斉蜂起の準備を進めた 10 。その計画は周到で、大友水軍と連携し、海上からの支援も取り付けられていた 10 。
天正6年10月23日、計画は実行に移される。祐政を中心とする伊東残党は、三納(現在の西都市三納)で蜂起。まず手始めに、この地を治めていた島津方の地頭・伊地知式部太夫を討ち取った 7 。勢いに乗った祐政らは、綾城を攻め、旧主家の本拠地であった都於郡城に迫って周辺に火を放つなど、広範囲にわたって島津の支配地域を攪乱した 1 。その蜂起は島津方の後方連絡線を遮断するほどの騒乱状態を引き起こし、鹿児島にいた島津義久のもとへ急使が走る事態となった 10 。
この三納での蜂起は、単なるやみくもな反乱ではない。旧臣のネットワーク化、海軍との連携、後方攪乱による兵站寸断という、極めて戦略的な意図を持ったゲリラ活動であった。これは、戦国時代において武士階級が主導した非正規戦闘の好例と言える 19 。祐政は、城を守る指揮官であると同時に、敵地で抵抗運動を組織するオルグ(組織者)でもあった。この戦術的柔軟性と多才さこそ、彼の武将としての非凡さを示している。しかし、このゲリラ戦もまた、大友本軍が耳川で歴史的な大敗を喫するという大局の変化の前には、その勢いを維持することはできず、最終的には失敗に終わった 1 。
石城での攻防、三納での蜂起と、休む間もなく抵抗を続けた長倉祐政の戦いは、天正6年(1578年)11月、日向の歴史を決定づける大戦「耳川の戦い」で最後の局面を迎える。
三納でのゲリラ活動の後、祐政は日向に南下してきた大友宗麟率いる本隊に合流した。一説には、宗麟の馬廻衆(直属の親衛隊)として従軍したとされる 11 。そして11月12日、高城(たかじょう)を救援しようとする大友軍と、それを迎え撃つ島津軍が、高城川(通称・耳川)の川原で激突した 9 。
戦いは、島津軍が仕掛けた得意の偽装退却戦術「釣り野伏せ」に大友軍の先鋒が誘い込まれたことで、大友方の大混乱と総崩れという形で推移した 9 。味方が次々と敗走していく中、長倉祐政は死を覚悟し、凄まじい気迫で島津軍の陣中に突撃した 11 。『長谷場越前宗純自記』などの記録によれば、この時の祐政の奮戦は鬼神の如く、太刀打ちの末、島津方の武将である曲田伯耆守(まがたほうきのかみ)、海江田主殿助(かいえだとのものすけ)を見事討ち取るという、目覚ましい武功を挙げた 11 。しかし、彼の奮闘も虚しく、大勢を覆すには至らなかった。
大友軍が壊滅する中、祐政もまた多くの兵を失い、ついに力尽きた。複数の史料が一致して伝えるところによれば、彼はこの耳川の戦場で、共に戦っていた次男の六郎太郎と共に自害し、その波乱に満ちた生涯を閉じたとされる 1 。主家のために最後まで戦い抜き、敵将を討ち取り、親子で壮絶に散るという最期は、まさに忠臣の鑑と言うべきものであった。
しかし、彼の最期については、もう一つの異なる伝承が存在する。それは、第二次石城合戦(9月)で降伏し、豊後へ退去する道中、「野伏り(のぶせり、落ち武者狩りや野盗の類)に遭い、敢え無く落命した」というものである 18 。この説は、耳川での英雄的な最期とは対照的に、敗走の混乱の中で名もなき者に討たれるという、より現実的で悲劇的な末路を描いている。
この二つの異なる「死」の物語が存在すること自体が、歴史の多層性を物語っている。耳川での自害説は、伊東家やその血を引く後の飫肥藩にとって、語り継ぐべき「理想の忠臣像」であり、公的な記憶として形成されていった側面が強いだろう。一方で、野伏りによる落命説は、戦場の過酷な現実を反映した、より私的、あるいは局地的な記憶であった可能性も否定できない。どちらが歴史的事実であるかを断定することは困難であるが、この二つの伝承の存在は、長倉祐政という人物が、後世において「英雄的忠臣」として顕彰される対象であったと同時に、戦国の無常の犠牲者でもあったという、二つの顔を持っていたことを我々に示唆している。
長倉祐政の生涯は、敗者の側から見た戦国史の一断面を鮮やかに描き出している。彼の歴史的評価は、単なる一地方武将に留まらず、いくつかの重要な側面から考察することができる。
第一に、彼は戦国時代における「忠義」という価値観を、その生き様をもって体現した人物であった。彼の忠誠は、伊東氏の庶流という血縁に根差した強い帰属意識と、武功によって主君に認められた武士としての誇りに支えられていた 1 。主家が坂道を転げ落ちるように衰亡し、多くの家臣が離反、あるいは絶望する中で、彼は最後まで抵抗を止めなかった。その姿は、逆境にあっても己の信義を貫くという、戦国武士の一つの理想像を示している。
第二に、彼は極めて有能で、戦術的に柔軟な指揮官であった。高原城では、無謀な玉砕を避けて戦力を温存する現実的な判断力を見せた 4 。第一次石城合戦では、寡兵をもって大軍を破る見事な防衛戦を指揮した 6 。拠点を失った後は、即座に三納でのゲリラ戦へと移行し、島津軍の後方を徹底的に攪乱した 10 。そして最後の耳川の戦いでは、崩壊する味方を背に、死を恐れぬ突撃を敢行し敵将を討ち取った 11 。籠城、奇襲、ゲリラ戦、そして白兵戦と、状況に応じて最適な戦術を選択・実行できる総合的な軍事能力は、島津方から見ても、執拗に抵抗を続ける恐るべき敵将として強く認識されていたに違いない 11 。
最後に、彼が歴史に遺したものを考える。祐政らの抵抗は、直接的に伊東家の旧領回復を成し遂げることはできなかった。しかし、その不屈の闘志は、決して無駄ではなかった。主家が滅び、流浪の身となってもなお、故郷の回復を信じて戦い続けた家臣たちがいたという事実は、伊東家の求心力を繋ぎ止め、後に豊臣秀吉の九州平定という時流の変化に乗じて、伊東祐兵が故地・飫肥に奇跡的な復帰を果たす際の、精神的な礎となった可能性は十分にある 25 。
長倉祐政の生涯は、歴史が勝者によってのみ紡がれるものではないことを我々に教えてくれる。敗れ、そして死んでいった者たちの執念と抵抗の物語の中にこそ、その時代の真実と、逆境に立ち向かう人間の尊厳が刻まれているのである。
合戦名 |
年月日 |
場所 |
交戦勢力(祐政方 vs 敵方) |
兵力比(推定) |
祐政の役割・戦術 |
結果 |
高原城合戦 |
天正4年8月 |
日向国 高原城 |
伊東軍 vs 島津軍 |
370 vs 30,000 |
籠城・防衛 |
和睦開城 3 |
第一次石城合戦 |
天正6年7月 |
日向国 新納石城 |
伊東軍 vs 島津軍 |
600 vs 7,000 |
拠点防衛・撃退 |
勝利 6 |
第二次石城合戦 |
天正6年9月 |
日向国 新納石城 |
伊東軍 vs 島津軍 |
不明 vs 10,000 |
籠城・持久戦 |
降伏開城 6 |
三納一揆 |
天正6年10月 |
日向国 三納周辺 |
伊東残党 vs 島津軍 |
数百 vs 不明 |
ゲリラ戦・後方攪乱 |
攪乱成功・戦略的失敗 7 |
耳川の戦い |
天正6年11月 |
日向国 高城川原 |
大友軍 vs 島津軍 |
(大友軍全体) |
本隊合流・突撃 |
敗北・自害 1 |