最終更新日 2025-07-03

長坂信政

長坂信政の生涯 ―「血槍」と「茶利」、二つの貌を持つ三河武士の実像

序章:血槍と茶利 ― 長坂信政、二つの貌(かお)

徳川家康が天下を平定する過程において、その礎を築いた家臣団には数多の勇将、智将が名を連ねる。その中でも、長坂信政は「血槍九郎(ちやりくろう)」という極めて鮮烈な異名で歴史に記憶される人物である 1 。この名は、彼の槍働きがいかに凄まじく、敵の血でその槍を濡らし続けたかを雄弁に物語っており、質実剛健な三河武士の典型として語られることが多い。利用者が把握している「松平家臣。通称は九郎。清康・広忠・家康の3代にわたって仕える。織田家との戦いで数多くの戦功を上げたため、清康から『血槍九郎』の異名を授かった」という情報は、信政の武人としての一側面を的確に捉えている。

しかし、史料を丹念に読み解くと、彼にはもう一つの、全く趣を異にする異名があったことが浮かび上がる。それが「茶利九郎(ちゃりくろう)」である 1 。現代では聞き慣れない「茶利」という言葉は、狂言における道化役や、滑稽な言動、機知に富んだ洒落を意味する 5 。血腥い戦場の勇士というイメージとは正反対の、諧謔や社交性を感じさせるこの異名は、長坂信政という人物像に大きな奥行きと謎を与えている。

本報告書は、この「血槍」と「茶利」という二つの貌を手がかりとして、長坂信政という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げ、その多面的な人物像と、彼が生きた戦国という時代の精神性に迫ることを目的とする。

表1: 長坂信政 人物概要

項目

詳細

典拠

氏名

長坂 信政(ながさか のぶまさ)

生没年

生年不詳 - 元亀3年11月15日(1572年12月19日)

1

出自

清和源氏義光流 小笠原氏庶流

1

通称・仮名

九郎、彦五郎、式部

1

異名

血槍九郎(ちやりくろう)、茶利九郎(ちゃりくろう)

1

仕えた主君

松平清康、松平広忠、徳川家康(松平元康)

1

主な戦功

天文17年(1548年)第二次小豆坂合戦にて一番槍

3

長坂信宅(のぶいえ)

1

墓所

愛知県岡崎市 妙源寺(長坂家の墓所があるとされる)

10


第一章:長坂氏の出自と激動の三河

1-1. 長坂氏のルーツと謎

長坂信政の家系は、甲斐源氏の名門であり、鎌倉時代には阿波守護、室町時代には信濃守護を務めた小笠原氏の庶流とされている 1 。この事実は、信政が決して出自の低い家系の出ではなく、確固たる武家の系譜に連なる人物であったことを示している。しかし、信政以前の具体的な事績は史料上不明であり、彼がどのような経緯を経て三河の地で松平氏に仕えるようになったのか、その詳細は歴史の記録から欠落している 1 。これは、中央の歴史書に登場する大名とは異なり、主家での目覚ましい活躍によって初めて歴史の表舞台にその名が記される、多くの戦国期地方武士に共通する特徴を反映している。

ここで注目すべきは、史料が示唆する武田家との繋がりである。徳川の家臣である信政は、武田家の重臣で外交僧としても知られた長坂光堅(長坂長閑斎)と同族(遠戚)にあたると考えられている 1 。これは単なる血縁関係以上の、戦略的な意味合いを帯びる可能性を秘めている。徳川家康にとって、武田家は長年にわたる最大の脅威であった。その敵対勢力の重臣と「同族」である家臣の存在は、平時においてはさほど重要視されなかったかもしれない。しかし、諜報や調略が戦の勝敗を左右する戦国時代において、敵方との繋がりは潜在的な「資産」となりうる。事実、信政の息子である長坂信宅は、後に武田家親族衆である穴山梅雪の調略を見事に成功させている 9 。この大功の背景に、長坂家が持つ武田家方面への、たとえ遠縁であっても、血縁的・人的なネットワークが何らかの形で作用した可能性は十分に考えられる。信政の出自は、長坂家が単なる武勇だけでなく、外交や諜報の面でも徳川家に貢献しうるポテンシャルを秘めていたことを示唆しているのである。

1-2. 嵐の中の松平家

信政が仕え始めた松平清康の時代、松平家は三河統一を目前にするほど勢力を急拡大させていた。しかし、天文4年(1535年)の清康の急死、いわゆる「守山崩れ」によって、松平家は一転して存亡の危機に陥る 12 。跡を継いだ広忠の時代は、東の今川義元と西の織田信秀という二大勢力の狭間で常に圧迫を受け続ける、苦難の時代であった 13

この時期の三河は、安城合戦 15 や小豆坂の戦い 14 に象徴されるように、織田・今川の代理戦争の主戦場と化していた。国衆は常にどちらの勢力につくかという厳しい選択を迫られ、松平家は今川家の庇護下に入ることでかろうじて命脈を保つという、極めて脆弱な立場に置かれていた。信政の武功は、このような不安定な主家を支えるための、文字通り命を懸けた奉公であった。

1-3. 三河武士の気風

このような絶え間ない緊張と存亡の危機という厳しい環境が、主君への忠誠を絶対的な価値とし、容易に主を裏切らない、粘り強く質実剛健な「三河武士」の気風を育んだとされている 17 。家臣の忠誠心こそが最大の宝であると家康が語った逸話 18 や、主君・清康が振る舞った酒を「我らが首の血じゃ」と飲み干し、その恩義に命を懸けて報いようと奮起した家臣たちの物語 12 は、主君と家臣の間の情愛に満ちた、しかし同時に極めて強固な主従関係を象徴している。長坂信政もまた、この独特の三河武士団の精神性を体現する一人であったことは疑いない。

表2: 長坂信政と松平・徳川家 関連年表

西暦(和暦)

長坂信政の動向

松平・徳川家の動向

~1535(天文4)

松平清康に仕え、その武勇により「血槍九郎」の異名を授かる。

2

1548(天文17)

第二次小豆坂合戦にて、今川・松平連合軍の先鋒として一番槍の功績を上げる。

3

1549(天文18)

1560(永禄3)

松平元康(家康)に仕える。

1

1572(元亀3)

11月15日、死去。

1


第二章:「血槍九郎」の武勇 ― 松平家三代への忠節

2-1. 「血槍九郎」の誕生

長坂信政の武勇を象徴する「血槍九郎」の異名は、主君・松平清康によって与えられたとされる 2 。その由来は、「戦のたびに槍の柄が血で真っ赤になるほど奮戦した」 2 、「戦場で槍先がつねに敵の血でぬれていた」 3 という、極めて生々しい描写で伝えられている。これは、彼の戦いぶりが尋常ではなく、見る者に強烈な印象を与えるものであったことを示唆している。この異名は、信政個人の勇名を高めるだけでなく、当時勢力を拡大していた松平家の武威を内外に示す、象徴的な意味合いも持っていたと考えられる。

2-2. 天文十七年、一番槍の功績

信政の数ある戦功の中で、史料に具体的な日付と共に記録されているのが、天文17年(1548年)3月19日の第二次小豆坂合戦における「一番槍」の武功である 3 。合戦の口火を切る「一番槍」は、敵の矢玉が集中する最も危険な役割であると同時に、武士にとって最高の栄誉の一つであった。これを務めたという事実は、彼が当時すでに、松平家だけでなく同盟関係にあった今川家の軍勢の中でも、屈指の猛将として広く認められていたことの証左と言える。

2-3. 一番槍の戦略的価値の再評価

信政が挙げたこの一番槍の功績は、単なる個人的な武功に留まるものではなかった。それは、主君・家康の運命、ひいては松平家の未来を左右する、極めて重要な戦略的価値を持つ一撃であった。その歴史的連鎖をたどると、以下のようになる。

  1. この合戦の時点で、松平家の正統な跡継ぎである竹千代(後の徳川家康)は、敵対する織田家の人質となっていた 19 。当主・広忠は今川の庇護下にあり、松平家の将来は文字通り風前の灯であった。
  2. 第二次小豆坂合戦は、三河の覇権を巡る今川・松平連合軍と織田軍の雌雄を決する戦いであった 14
  3. この決戦において、長坂信政の一番槍に象徴される将兵の奮戦により、今川・松平方は織田軍に勝利を収めた 16
  4. この勝利によって得られた軍事的優位を背景に、今川軍は翌天文18年(1549年)、織田方の重要拠点である安城城を攻略。城主であった織田信秀の庶子・織田信広を捕虜にすることに成功する 15
  5. そして、この織田信広の身柄と、人質となっていた竹千代との「人質交換」が実現し、竹千代はついに松平家(実質的には今川方)の元へと戻ることができたのである 15

結論として、信政の活躍がなければ第二次小豆坂合戦の勝利は危うかったかもしれず、そうなれば安城城攻略も、そして何より竹千代の奪還も実現しなかった可能性がある。彼の一槍は、松平家再興への道を切り拓く、まさに歴史の転換点における決定的な一撃だったのである。

2-4. 忠節の生涯

信政は、清康、広忠、そして家康という、松平家三代にわたって仕え続けた 1 。主家の浮沈が激しく、家臣の離反や寝返りが日常茶飯事であった戦国時代において、三代にわたる忠勤は、その忠誠心の篤さを何よりも雄弁に物語っている。

彼の武功は伝説の域に達していたことを示す具体的な記録も存在する。生涯で93もの首級を上げたというものである 11 。この具体的な数字は、彼の戦功が単なる伝聞ではなく、家中で正確に記録され、語り継がれていたことを意味する。さらに、この「93」という数字は、後に長坂家において、正月に93の鏡餅を神前に供える「首餅(くびもち)」という独特の行事に繋がったとされ 11 、個人の武功が家の伝統として昇華されていった様子がうかがえる。


第三章:謎多き異名「茶利九郎」の深層

3-1. もう一つの顔「茶利九郎」

長坂信政の人物像を複雑で、より一層興味深いものにしているのが、「茶利九郎」というもう一つの異名である 1 。前述の通り、「茶利」は歌舞伎や浄瑠璃において「滑稽な言動やおどけた動作」を指す言葉であり 5 、狂言における道化役にも通じる、諧謔やユーモアの精神を表す 6 。この異名は、血飛沫を浴びながら敵陣に突貫する「血槍九郎」の勇猛果敢なイメージとは著しい対照をなし、信政が単なる猛将ではなかったことを強く示唆している。

3-2. 戦国武将と「数寄」の世界

では、「茶利」の異名は何を意味するのか。それは、信政が武勇一辺倒ではなく、文化的素養や社交性、ユーモアのセンスを兼ね備えた、いわゆる「数寄者(すきしゃ)」としての一面を持っていた可能性を示している。これは、戦国武将の精神性を理解する上で極めて重要な視点である。

戦国時代、特に安土桃山時代にかけて、茶の湯は武将たちの間で爆発的に流行した 22 。しかし、それは単なる趣味や娯楽ではなかった。茶の湯は、高度な政治的・外交的な駆け引きの場として機能したのである 22 。優れた茶器は一国に匹敵する価値を持つ恩賞となり、主君が主催する茶会に招かれることや、茶会を開く許可を得ること自体が、家臣にとって大きなステータスとなった 24 。また、茶室という静謐な空間は、殺伐とした日常から離れ、自らの内面と向き合う精神修養の場でもあった 25

「茶利」という言葉には、「洒落」や「機知」といったニュアンスも含まれる。このことから、信政は茶席のような社交の場で、気の利いた会話や当意即妙な振る舞いができる、コミュニケーション能力の高い人物だったのではないかと推測される。彼の「茶利」は、主君や同僚との人間関係を円滑にし、強固な結束が求められる三河武士団において、潤滑油のような役割を果たしていたのかもしれない。一般的に質実剛健、武骨一辺倒と見られがちな三河武士のステレオタイプなイメージに収まらない、文化的で人間的な魅力を持つ武士がいたことを、この異名は物語っている。

3-3. 信政の人物像の再構築

「血槍」が彼の「武」の側面、すなわち戦場における公的な役割を象徴するならば、「茶利」は彼の「文」の側面、あるいは私的な場での人間的魅力を象徴するものと言えるだろう。戦場では鬼神のごとき働きを見せる一方で、平時や社交の場ではユーモアと機知で人々を和ませる。この二つの異名が矛盾なく一人の人物に共存していたという事実は、戦国時代の武将が単機能な戦闘者ではなく、武勇と教養、厳格さと諧謔を併せ持つ、複雑で奥行きのある人間であったことを示している。長坂信政は、その好個の事例と言えよう。


第四章:元亀三年の死と「血槍九郎」の永続

4-1. 元亀三年の死

長坂信政は、元亀3年11月15日(1572年12月19日)にその生涯を閉じた 1 。この時期は、甲斐の武田信玄が2万を超える大軍を率いて西上作戦を開始し、徳川領に侵攻していた、まさに徳川家にとって史上最大の危機であった。信政の死からわずか一ヶ月余り後の12月22日、徳川家康は三方ヶ原の戦いで武田信玄に歴史的な大敗を喫し、多くの有力な家臣を失っている 20

4-2. 歴戦の勇将の「不在」が意味するもの

信政の死因は史料に明記されていないが、彼が三方ヶ原の決戦を目前にしてこの世を去ったという事実は、徳川家にとって計り知れない戦力ダウンであったことは間違いない。彼の「不在」は、三方ヶ原における徳川軍の敗因を考える上でも、無視できない一つの要素である。

信政は、松平家が最も苦しい時代にあった清康の代から数々の合戦を経験してきた、徳川家臣団の中でも最古参に近い歴戦の勇将であった。戦の経験が浅い若い武士が多い徳川軍の中で、彼の存在は精神的支柱としても大きな役割を果たしていたはずである。もし信政が生きてこの戦いに参加していれば、彼の武勇と百戦錬磨の経験が戦局に何らかの影響を与えた可能性は否定できない。少なくとも、彼の存在は味方の士気を大いに高め、絶望的な状況下での部隊の統率維持に貢献したであろう。彼の死が病死であったとしても、あるいはこの時期の小競り合いでの戦死であったとしても、徳川家康が最強の敵・武田信玄と対峙するまさにその時に、最も頼りにしていたであろう「血槍九郎」を失ったことの衝撃は計り知れない。信政の死は、この時期の徳川家の苦境を象徴する出来事の一つとして位置づけることができる。

4-3. 「血槍九郎」は終わらない ― 子孫への継承

信政の死後も、長坂家の徳川家への奉公は続く。息子の長坂信宅は、父に劣らぬ活躍を見せた。特に天正10年(1582年)の甲州征伐においては、武田家の重臣・穴山梅雪を調略し、徳川方へ寝返らせるという大功を立てた 9 。これは、父の代からの武田家との因縁を思わせる、象徴的な功績であった。

興味深いことに、この信宅もまた「ちゃ利九郎」の通称を名乗っており 9 、父の異名が子に受け継がれていたことがわかる。これは、単なる名前の継承に留まらない、深い意味を持っていた。

4-4. 家名としての「血槍九郎」

長坂家では、初代信政の異名「血槍九郎」が、当主の通称として明治に至るまで14代にわたって継承された 2 。これは、武家の精神文化を理解する上で非常に示唆に富む事例である。江戸時代に入り世が安定すると、旗本である長坂家にとって、戦場で槍働きによる武功を立てる機会はなくなる。しかし、彼らは「血槍九郎」を名乗り続けることで、自らの家のルーツが、徳川家創成期の最も困難な時代を支えた比類なき武勇にあることを、常に意識し、内外に示し続けた。

これは、武功こそが武士の最大の名誉であるという価値観が、平和な時代になっても「家の誇り」として生き続けていたことを示すものである。「血槍九郎」という名は、長坂家にとってのアイデンティティそのものであり、徳川家への揺るぎない忠誠の証でもあった。近代に至り、その子孫である長坂幸夫氏が、一族の歴史を『「血鑓九郎」と呼ばれた武士──長坂信政とその名を継いだ男たち』として書籍にまとめている事実 2 は、この誇りが現代にまで脈々と受け継がれていることの何よりの証拠である。

4-5. ゆかりの地

長坂一族の墓所は、愛知県岡崎市の妙源寺にあるとされている 10 。この寺には、同じく徳川十六神将の一人である高木清秀の墓も存在し 28 、徳川家譜代の家臣たちとゆかりの深い寺院であることがわかる。また、子孫が江戸幕府の旗本となったことから、東京都内にも長龍寺(杉並区)や妙覚寺(稲城市)など、ゆかりの寺院が存在しており 10 、信政から始まった長坂家の歴史の足跡を今に伝えている。


結論:再評価されるべき三河武士の肖像

本報告書で詳述した通り、長坂信政は「血槍九郎」の異名に象徴される無類の武勇と、「茶利九郎」の異名が示唆する機知と文化的素養を兼ね備えた、奥行きの深い人物であった。彼の生涯は、単なる一猛将という評価に留まらず、徳川家臣団の形成史と三河武士の精神性を理解する上で、多大な示唆を与えてくれる。

彼の歴史的意義は、第一に、徳川家が最も脆弱であった時代を支え、その後の発展の礎を築いた点にある。特に、天文17年の第二次小豆坂合戦における一番槍の功績は、人質であった若き家康の運命を好転させるきっかけを作った重要な一撃として、再評価されるべきである。

第二に、彼の存在は「三河武士」の画一的なイメージに再考を促す。武骨で忠義一徹という側面だけでなく、「茶利」の異名が示すような社交性や文化的側面も併せ持っていた事実は、戦国武将の人間像をより豊かに理解する上で貴重な事例となる。

最後に、彼の死後も「血槍九郎」の名が長坂家の当主によって代々受け継がれたという事実は、武功と忠節を至上の価値とする武家の精神が、平和な江戸時代を通じてどのように継承され、家のアイデンティティとして機能し続けたかを示す、生きた証拠である。

以上の点から、長坂信政は、徳川家臣団を代表する武功の士としてだけでなく、戦国という時代の複雑な精神性を体現した、より多角的な評価を受けるべき重要な人物として、その歴史的価値を再認識する必要がある。

引用文献

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  2. 「血鑓九郎」と呼ばれた武士 長坂信政とその名を継いだ男たち 三省堂書店オンデマンド https://store.shopping.yahoo.co.jp/books-sanseido/2087063100418.html
  3. 長坂信政(ながさか のぶまさ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%9D%82%E4%BF%A1%E6%94%BF-1096370
  4. 長坂信政とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%95%B7%E5%9D%82%E4%BF%A1%E6%94%BF
  5. ヒライ信 http://www.jokesalon.com/newhirai190.pdf
  6. 「道化(ちゃり)」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%81%93%E5%8C%96
  7. 小笠原氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%B0%8F
  8. 長坂信政- 战国时代武将, 三河松平氏(后为德川氏) - 新东方在线 https://www.koolearn.com/japdict/nm_66778.html
  9. 長坂信宅 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%9D%82%E4%BF%A1%E5%AE%85
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  25. 戦国武将と酒/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90458/
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