日本の戦国史において、武田信玄の後を継いだ武田勝頼の治世は、しばしば悲劇的な滅亡への序曲として語られる。そして、その滅亡を招いた元凶として、歴史の舞台に引き出される人物がいる。それが、本稿で論じる長坂光堅(ながさかみつかた)、出家後の号である長坂長閑斎(ちょうかんさい)または釣閑斎(ちょうかんさい)である。
一般的に知られる長坂光堅の人物像は、極めて明快である。すなわち、「武田勝頼の寵臣として権勢を振るい、同僚の跡部勝資とともに、信玄以来の宿老たちの忠告を退け、長篠の戦いにおいて無謀な進撃を主張して武田軍に壊滅的な大敗をもたらした。その後も甘言をもって勝頼を惑わし続け、主家滅亡の際には主君を見捨てて逃亡したものの、最終的には織田信長に捕らえられ処刑された佞臣(ねいしん)」というものだ 1 。この評価の源泉は、そのほとんどが江戸時代に成立した軍学書『甲陽軍鑑』に依拠している 3 。
しかし、この広く流布した佞臣像は、果たして歴史的な実像を正確に反映したものなのであろうか。近年の研究では、『甲陽軍鑑』の記述を他の一次史料と照合し、その史料的価値を批判的に再検討する動きが活発化している。その過程で、長坂光堅についても、従来の評価とは大きく異なる側面が浮かび上がってきた。
本稿の目的は、この『甲陽軍鑑』によって形成された長坂光堅の佞臣像を、現存する史料や近年の研究成果を用いて多角的に再検証し、より実態に近い人物像を再構築することにある。彼の出自、武田信玄の政権下での実績、そして勝頼政権下における具体的な役割を時系列に沿って丹念に追跡し、なぜ彼が「佞臣」として語り継がれるに至ったのか、その評価の変遷と歴史的背景を深く掘り下げて考察する。
長坂光堅が勝頼の代に突如として現れたおべっか使いであったというイメージは、信玄時代の彼の経歴を検証することによって、根本から覆される。彼は信玄政権下において、武官として、そして行政官として着実に実績を積み重ねた、経験豊かな家臣であった。
長坂光堅の活躍を理解する上で、まず彼の出自と本拠地について確認する必要がある。彼は甲斐国巨摩郡逸見筋長坂郷(現在の山梨県北杜市長坂町)を本拠とした領主であった 1 。この地には現在も「長閑山」と呼ばれる丘陵があり、東西約60メートル、南北約80メートルの方形に土塁と空堀が巡らされた居館跡が残されている 3 。
彼の家系、すなわち長坂氏の出自については、複数の説が存在し、いまだ定説を見ていない。
一つは、清和源氏小笠原氏の庶流とする説である 7。これは、同じ甲斐源氏の流れを汲む同族として、早くから武田氏に仕えたとする見方であり、多くの文献で採用されている。もう一つは、江戸時代の地誌『甲斐国志』が提唱する、武田氏一族である栗原氏の庶流とする説である 3。これは、長坂氏の菩提寺とされる龍岸寺の記録に、南北朝時代の甲斐守護・武田信成の子である栗原武続の法名が見られることを根拠としている。
このように、長坂氏の出自に複数の説が存在し、いずれも確証を欠いているという事実は、彼が武田家臣団の中で絶対的な名門の出身ではなかった可能性を示唆している。武田家における板垣氏や甘利氏といった他の譜代家老の家系が、その系譜を比較的明確に伝えている点とは対照的である。このことから、光堅は家柄によって重臣の地位を約束されていたのではなく、その実務能力によって信玄、そして勝頼の信頼を勝ち取り、昇進していった人物像が浮かび上がる。そして、この「実力でのし上がった」という側面こそが、後に旧来の秩序を重んじる譜代家老衆との間に軋轢を生み、「出頭人」として彼らから警戒される素地となったと考察できる。
『甲陽軍鑑』が描く人物像とは裏腹に、長坂光堅は信玄の時代から武田家の中核で多様な任務をこなしていた有能な官僚であった。史料における彼の初見は、天文11年(1542年)9月、信玄が諏訪氏を滅ぼした宮川の合戦での武功とされ、この頃から武田家臣として活動していたことが確認できる 1 。彼は騎馬40騎、足軽45人を率いる足軽大将から、侍大将へと昇進しており、信玄政権下で着実に軍功を重ねていた 1 。
彼の能力は、単なる武勇に留まらなかった。信玄による信濃侵攻が本格化すると、光堅は統治者としての才覚を発揮する。天文17年(1548年)の上田原の戦いで、信濃統治の要であった諏訪郡代・板垣信方が戦死するという危機に際し、光堅はその後任として抜擢され、上原城に入った。翌年には諏訪支配の新拠点である高島城へ移り、諏訪郡司(郡代)として占領地の安定化という重責を担った 8 。これは、彼が単なる武官ではなく、信玄から方面軍の統治を任されるほどの高度な行政能力と信頼を得ていたことを明確に証明している。
さらに、彼の活動は外交や調略の分野にも及ぶ。越後の上杉謙信との緊張が高まると、天文22年(1553年)には跡部信秋らと共に北信濃の国衆・香坂氏のもとへ派遣され、対上杉の最前線で調略活動に従事した 8 。また、遠江国の国衆・天野景泰や、北信の栗田鶴寿への使者も務めており、外交官としての役割も果たしていた 8 。
行政面では、弘治3年(1557年)に三枝虎吉、室住虎光らと共に奉行人として連署状に名を連ねており、信玄政権の中枢で法務・行政実務にも深く関与していたことが確認できる 8 。永禄2年(1559年)に主君・信玄が出家すると、光堅もこれに倣って出家し、「釣閑斎」と号した 8 。
これらの信玄時代における軍事、行政、外交、法務にわたる多岐な活動は、勝頼の代に突如現れたおべっか使いという『甲陽軍鑑』の佞臣像とは全く相容れない。むしろ、信玄に重用された有能な実務官僚としての実像を明確に示している。勝頼が彼を重用したのは、単なる個人的な寵愛ではなく、信玄時代から証明されてきた彼の卓越した「能力」を正当に評価した結果と見るのが自然である。佞臣像は、この信玄時代の実績を意図的に無視、あるいは矮小化することによって成り立っていると言わざるを得ない。
信玄の後継者問題を巡る武田家最大の政変、すなわち永禄8年(1565年)の嫡男・武田義信の廃嫡事件(義信事件)は、長坂光堅のその後の運命に大きな影響を与えた。この事件において、光堅の嫡男であった昌国(源五郎)が義信派に連座したとして誅殺されたとされている 1 。この一件により、光堅自身も信玄の信頼を一時的に失い、不遇をかこった可能性が指摘されている 1 。
この義信事件は、結果として長坂光堅が勝頼の側近となる決定的な契機となった可能性が高い。義信の失脚と、それに代わる新たな後継者として四男・勝頼が浮上する過程で、武田家臣団の勢力図は大きく塗り替えられた。義信派と見なされた家臣たちが粛清・後退する中で、息子が連座したことで義信派とは明確に敵対関係に立たされた光堅は、新たな権力の中心である勝頼に接近することで、自身の政治生命を繋ぎ、再浮上を図ったと考えられる。
両者の関係性の萌芽は、事件以前にも見ることができる。永禄5年(1562年)、勝頼が母方の諏訪氏を継いで高遠城主となった際、その事実を嫡男である義信に公式に伝える使者という重要な役目を、光堅が務めている 8 。これは、この時点ですでに光堅が勝頼に近い立場、あるいは両者を取り持つ役割を担っていたことを示唆している。
義信事件という家中の深刻な内紛を経て、光堅の立場はより明確に勝頼へと傾斜していった。勝頼にとっても、譜代の重臣たちとは異なる、信玄時代からの確かな実績を持つ実務官僚を自身の側近に置くことは、父から受け継ぐ権力基盤を固める上で極めて有益であった。両者の関係は、単なる個人的な「寵愛」という言葉で片付けられるものではなく、武田家の権力構造の再編という大きな流れの中で生まれた、政治的な利害の一致に基づく戦略的な提携であったと解釈するのが妥当であろう。
元亀4年(1573年)の信玄の死後、家督を継いだ勝頼の下で、長坂光堅は跡部勝資らと共にその権勢を頂点に迎える。しかし、この時期の彼の活動こそが、後世に「佞臣」と非難される最大の要因となった。ここでは、勝頼の側近としての彼の役割と、彼にまつわる主要な逸話の虚実を検証する。
信玄の死後、光堅は跡部勝資らと共に勝頼の側近、すなわち「出頭人」として武田家の政策決定に強い影響力を持つに至った 1 。出頭人とは、武田氏の領国が拡大し、山県昌景や馬場信春といった譜代の重臣たちが方面軍の司令官や各地の城代として領国経営の最前線に赴任する中で、主君の膝元にあって諸方面との取次を独占し、中央の行政を掌握するようになった側近官僚を指す 4 。
この出頭人による政治体制は、信玄時代からの伝統である宿老たちによる合議制を重んじる譜代家老衆との間に、深刻な対立を生んだ 4 。武田家が滅亡した後、生き残った遺臣たちは、この「側近による密室政治」こそが、譜代家臣の忠言を遠ざけ、主家を滅亡に至らしめた大きな原因であると見なした 10 。
しかし、この側近政治を単なる「奸臣の専横」と断罪するのは、一面的に過ぎるかもしれない。信玄の時代に、武田の領国は甲斐一国から信濃、駿河、上野、遠江、三河の一部にまで拡大した。この広大な領国を、旧来の譜代家老による封建的な合議制だけで効率的に統治し、迅速な意思決定を下すことには限界があった。父の急死という非常事態の中で家督を継いだ勝頼にとって、強力なリーダーシップを発揮し、自身に直結した行政官僚機構を強化することで中央集権化を図ることは、ある意味で時代の必然的な要請に応えようとする試みであった。
長坂光堅や跡部勝資は、その改革の中核を担う、信玄時代から実績を積んだ有能なテクノクラート(実務官僚)であった。彼らの政治手法は、旧来の家臣団から見れば伝統を軽んじる「密室政治」や「専横」と映ったであろう。しかし、君主である勝頼の視点から見れば、それは拡大した武田領国を維持・運営するための、より近代的で効率的な統治体制への改革の試みであった可能性がある。武田家滅亡という悲劇的な結果から逆算して、この統治システムへの移行の試みそのものが「悪」であったと断罪されたのではないか、という視点も必要であろう。
長坂光堅の佞臣像を決定づけた最大の逸話が、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける彼の言動である。『甲陽軍鑑』によれば、織田・徳川連合軍が築いた堅固な馬防柵と、予想を上回る大軍を前に、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊ら信玄以来の宿老たちがこぞって撤退を進言した。しかし、これに対し光堅は跡部勝資と共に主戦論を強硬に主張し、勝頼に決戦を強要した。その結果、武田軍は鉄砲隊の前に為す術なく大敗を喫し、多くの宿老を失ったとされている 1 。
この逸話は、長年にわたり彼の最大の罪状として語られてきた。しかし、近年の研究はこの通説に大きな疑問を投げかけている。その根拠となるのが、長篠合戦の前日である5月20日付の武田勝頼の書状の存在である。この書状の宛名は「長閑斎」となっており、その内容は、この「長閑斎」なる人物が長篠の戦場ではなく、武田領国のいずれかの城の守備についていたことを示している 8 。
ここで問題となるのが、「長閑斎」が誰を指すかである。長坂光堅の号は、文書上では主に「釣閑斎」と表記されることが多い 8 。一方で、武田家臣にはもう一人、「ちょうかんさい」と号する有力武将がいた。駿河国久能城主であった今福友清であり、彼の号は「長閑斎」であった 12 。歴史学者の平山優氏は、この勝頼書状の宛名「長閑斎」は、長坂釣閑斎光堅ではなく、今福長閑斎友清に比定される可能性を提唱した 8 。
この説が正しければ、長坂光堅は長篠の戦いの軍議に参加しておらず、そもそも現地にいなかった可能性が極めて高くなる。これは、彼の佞臣像の根幹を成す「長篠での無謀な主戦論」という逸話が、史実としての基盤を失うことを意味する。彼の悪評は、最も重要な証拠が揺らぐ、後世の創作や『甲陽軍鑑』の著者による意図的な脚色であった可能性が濃厚となるのである。
長篠の逸話と並び、光堅の強欲な佞臣像を補強するのが、天正6年(1578年)に越後で勃発した上杉謙信死後の後継者争い、いわゆる「御館の乱」への介入である。『甲陽軍鑑』は、この乱に際して長坂光堅と跡部勝資が、上杉景勝方から莫大な黄金を賄賂として受け取り、それによって勝頼に景勝との同盟を勧めたと記している 1 。
しかし、この「賄賂」説にも再考の余地がある。まず、実際に上杉景勝との同盟(甲越同盟)成立に奔走したのは、勝頼の従兄弟にあたる武田信豊らであり、光堅が交渉を主導したという確たる記録は乏しい 1 。
また、同盟成立に際して景勝方から武田方へ金銭が渡ったこと自体は事実であったと見られるが、これを即座に光堅個人の着服を目的とした「賄賂」と断定することはできない。これは、当時の外交慣習における「礼銭」の範疇に含まれるものであり、同盟締結のための軍資金援助や儀礼的な贈答という側面が強かったと考えられる 1 。金額が破格であった可能性はあるが、それ自体が即座に「奸臣の所業」と非難されるべきものではない。
むしろ、この逸話の背景には、甲越同盟という外交政策の失敗責任を特定の個人に転嫁しようとする意図が見え隠れする。甲越同盟の締結は、結果的に長年の同盟相手であった後北条氏との甲相同盟を破綻させ、武田家を織田・徳川・北条という三つの大敵に包囲される外交的孤立へと追い込む致命的な一因となった。この極めて複雑な外交判断の失敗という結果責任を、君主である勝頼自身や政策決定に関わった家臣団全体ではなく、側近である長坂・跡部の「個人的な金銭欲」という分かりやすい悪事に矮小化し、彼らに押し付けたのが『甲陽軍鑑』の構図であったと考察できる。
長坂光堅の人物像を再構築する上で、彼を佞臣として描き出した最大の源泉である『甲陽軍鑑』そのものを批判的に検証することは不可欠である。なぜこの書物は、彼をこれほどまでに悪し様に描いたのか。その背景には、同書の成立過程と政治的意図、そして武田家滅亡後の遺臣たちの複雑な心境が深く関わっている。
『甲陽軍鑑』は、武田家重臣であった高坂昌信(春日虎綱)が、主家の将来を憂い、その口述を甥の春日惣次郎らが書き留めたという体裁をとる、全20巻に及ぶ長大な軍学書である 14 。しかし、その成立は天正年間から江戸時代初期に及び、最終的には武田家の旧臣であった小幡景憲によって編纂・加筆されたと考えられている。
かつては、その記述の誤りや創作的な逸話の多さから、歴史史料としての価値は低いと見なされてきた 15 。しかし、近年の国語学的、文献学的な研究、特に酒井憲二氏の研究などによって、全くの創作ではなく、武田家内部の貴重な情報や武士の倫理観を色濃く反映した書物として、史料批判を前提とした上での再評価が進んでいる 14 。
『甲陽軍鑑』が単なる記録ではないことは、その記述スタイルからも明らかである。同書は、本文中でしばしば「長坂長閑老、跡部大炊介殿」と名指しで呼びかけ、彼らの行動を厳しく断罪し、諫める箇所が散見される 5 。これは、本書が単に過去を回想するのではなく、勝頼やその側近に対する「諫言の書」「警告の書」という、極めて強い政治的意図を持って執筆されたことを示している。
この書物を客観的な歴史記録として読むと、長篠合戦の記述を始めとする数々の矛盾に突き当たる。しかし、これを「武士道とは何か」「理想の主君と家臣の関係とはどうあるべきか」を後世に説くための「教訓書」、あるいは武田家滅亡の正当化を試みる「政治的プロパガンダ」として読むならば、長坂光堅を佞臣として描く必要性が理解できる。教訓を分かりやすく伝えるためには、善悪の典型的なキャラクターが必要となる。信玄を「理想の君主」、山県や馬場らを「理想の忠臣」とするならば、その対極として「主君を惑わし、家を滅ぼす佞臣」という役割が物語の構成上、不可欠となる。長坂光堅は、その「佞臣」役にキャスティングされたのである。彼が実際にどのような人物であったかということ以上に、「佞臣」というシンボルとして、物語の中でどのように機能するかが重要だったのである。したがって、我々は『甲陽軍鑑』の記述を「長坂光堅はこういう人物だった」という事実報告としてではなく、「『甲陽軍鑑』の著者は、長坂光堅をこういう人物として描きたかった」という意図の表明として読み解くべきであろう。
武田家滅亡という衝撃的な結末の後、徳川家康などに仕えた遺臣たちにとって、その原因を究明し、語り継ぐことは重要な課題であった。しかし、その過程で、偉大な先代君主である信玄や、悲劇的な最期を遂げた最後の当主・勝頼を直接的に批判することは、感情的にも、また新たな主君に仕える上でも憚られた。
その結果、滅亡の責任は、勝頼の側に仕え、政策決定に深く関与した長坂光堅や跡部勝資といった「出頭人」たちに負わされることになった。彼らは、偉大な主君たちを直接非難することなく、滅亡の理由を説明するための格好のスケープゴート(生贄)となったのである 4 。
『甲陽軍鑑』が描く物語の根底には、信玄時代から武功を重ねてきた「武断派」の譜代家老衆と、勝頼の下で台頭した「吏僚派」の側近たちとの間の、価値観の対立や権力闘争が色濃く反映されている。前者は合議と伝統を重んじ、後者は中央集権と効率を重視した。長坂光堅への激しい非難は、この後者の派閥を代表する人物に向けられたものであり、滅亡という結果をもって、彼らの進めた「改革」が断罪された形となった。武田家の遺臣たちにとって、滅亡の原因を「奸臣の専横」に求めることは、自らが仕えた主家の名誉を保ちつつ、悲劇的な結末を合理的に説明するための、都合の良い物語だったのである。
天正10年(1582年)3月、織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、名門武田氏は滅亡の時を迎える。この主家滅亡という土壇場において、長坂光堅がどのような行動をとり、いかなる最期を遂げたのか。その記録は錯綜しており、彼に対する評価を象徴するかのごとく、複数の説が伝えられている。
長坂光堅の最期については、大きく分けて三つの説が存在する。
第一は「殉死説」である。これは、天目山の戦いにおいて、最後まで主君・勝頼に付き従い、討死または自害したとするもので、忠臣としての最期を伝える 3 。彼の居館跡の案内板などにも、この説が採用されていることがある。
第二は、最も広く流布している「逃亡・誅殺説」である。勝頼一行が天目山を目指す途中、最後の頼みとした小山田信茂の裏切りが明らかになると、光堅は勝頼を見捨てて一行から離脱し逃亡した。しかし、武田氏滅亡後に織田方に捕らえられ、織田信長の命令によって処刑された、というものである 1 。これは『甲陽軍鑑』の主流の記述であり、彼の佞臣像を完結させる物語として定着している。甲州街道沿いには、逃亡する長坂光堅(長閑)が土屋惣蔵に追われ、慌てて落とした鞍が路傍の桜の木に掛かったという伝承が残る場所もある 22 。
第三に、ごく一部で伝えられるのが「天正壬午の乱生存説」である。『甲斐国志』は、武田家滅亡後も光堅は生き延び、同年に発生した天正壬午の乱において、甲斐に侵攻してきた後北条氏に仕えたとする説を載せている。しかし、同書自身がこれを「確証はない」としており、信憑性は低い 3 。
長坂光堅の最期に関する記録がこれほど錯綜しているのはなぜか。その最大の理由は、彼の死の状況を伝える信頼性の高い一次史料が乏しいことにある。例えば、武田家滅亡時の主要人物の処刑については、『信長公記』や『甲陽軍鑑』などに武田信豊、小山田信茂、一条信龍といった多くの名が挙げられているが、そこに長坂光堅の名は明確には見当たらない 23 。
この記録の空白を埋めるように、後世、様々な物語が生まれていったと考えられる。そして、それぞれの説が、彼に対する既存の評価、すなわち「忠臣」か「佞臣」か、というイメージを反映・補強する形で語り継がれていったのである。「忠臣であってほしい」と願う人々は「殉死説」を信じ、「やはり佞臣だった」と考える人々は「逃亡・誅殺説」を支持した。
特に、江戸時代を通じて絶大な影響力を持った『甲陽軍鑑』が描く佞臣像と完全に一致する「逃亡・誅殺説」が、最も説得力のある物語として広く流布することになった。つまり、彼の最期の「事実」が彼への評価を決定づけたのではなく、先に存在した「評価」が、彼の最期の「物語」を選択させ、定着させたという側面が強い。
以下に、諸説を比較検討する。
説 |
概要 |
主な典拠 |
信憑性に関する考察 |
殉死説 |
天正10年3月、天目山にて勝頼に最後まで付き従い、討死または自害した。 |
『甲陽軍鑑』(一部)、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』等 9 |
忠臣としての側面を強調する物語性が強いが、具体的な状況を示す一次史料は乏しい。後世の同情や再評価から生まれた可能性もある。 |
逃亡・誅殺説 |
小山田信茂の離反後、勝頼一行から離脱・逃亡したが、後に織田方に捕縛され処刑された。 |
『甲陽軍鑑』(主流の記述)、その他二次史料 1 |
『甲陽軍鑑』が作り上げた佞臣像と完全に整合し、物語として完結しているため広く流布。しかし、一次史料による裏付けは弱く、物語性が先行している。 |
天正壬午の乱生存説 |
武田家滅亡後も生存し、天正壬午の乱で後北条氏に仕えた。 |
『甲斐国志』 3 |
典拠である『甲斐国志』自身が「確証はない」としており、信憑性は極めて低い。同名の別人の誤伝などの可能性が考えられる。 |
本稿は、武田勝頼の側近・長坂光堅にまつわる通説、特に『甲陽軍鑑』に由来する「佞臣」というレッテルを、現存する史料と近年の研究に基づいて多角的に検証してきた。その結果、通説とは大きく異なる、より複雑で多面的な人物像が浮かび上がってきた。
第一に、長坂光堅は、勝頼の代に突如として現れた素性の知れない佞臣ではなく、信玄の時代から軍事・行政・外交の各方面で重要な役割を担い、確かな実績を積み重ねてきた経験豊富な有能な実務官僚であった。
第二に、武田勝頼が彼を重用したのは、個人的な寵愛という側面以上に、その卓越した実務能力を正当に評価し、拡大した武田領国を統治するための新しい中央集権的な行政体制の核として期待したからである。彼らの「出頭人政治」は、旧来の家臣団との軋轢を生んだが、それは時代の変化に対応しようとする統治体制の変革の試みという側面も持っていた。
第三に、彼の佞臣像を決定づけたとされる長篠合戦での無謀な主戦論という逸話は、一次史料との矛盾から、史実である可能性が極めて低く、後世の創作・脚色である疑いが濃厚である。
第四に、彼の「佞臣」という評価は、武田家滅亡という悲劇的な結果から逆算して形成された側面が極めて強い。偉大な先代君主や悲劇の当主を直接非難することなく滅亡の原因を説明する必要に迫られた武田遺臣たちにとって、譜代家老衆と対立した新興の側近官僚であった彼は、その責任を負わせる格好のスケープゴートとされた。
以上の分析から、長坂光堅は、単純な「佞臣」のレッテルで語られるべき人物ではないと結論付けられる。彼は、戦国大名武田氏がその領国を拡大し、統治体制を変革しようとする歴史の大きな転換期に、君主の側近として権力の中枢を担った、有能かつ複雑な政治家であった。彼の生涯と、死後に形成されたその評価の劇的な変遷は、歴史がいかにして「物語」として構築され、特定の個人のイメージが、時代の要請や後世の価値観によっていかに歪められうるかを示す、格好の事例と言えるだろう。