長寿院盛淳は畠山氏出身の僧侶。還俗後、島津義久・義弘に仕え、豊臣秀吉との交渉で島津家を救う。関ヶ原で義弘の影武者となり壮絶な最期を遂げた忠臣。
本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて島津家に仕えた重臣、長寿院盛淳(ちょうじゅいん もりあつ)の生涯を、史料に基づき多角的に解明することを目的とする。彼の出自、仏門における修養、還俗後の政治・外交活動、そして関ヶ原の戦いにおける壮絶な最期と後世の顕彰に至るまでを詳細に追跡する。これにより、単なる人物伝に留まらず、盛淳の行動原理と、彼が生きた時代の島津家が置かれた複雑な政治状況との関連性を深く考察する。
長寿院盛淳の生涯は、戦国武将の中でも極めて特異な軌跡を辿る。室町幕府の有力守護大名の血を引く家に生まれながら、一度は仏の道に入り、高名な僧侶の下で厳しい修行を積んだ。しかし、主家の危難に際して還俗し、卓越した外交手腕と政治力で家老にまで上り詰める。そして最後は、天下分け目の合戦において、主君の身代わりとしてその命を散らした。彼の人生を解き明かすことは、九州の雄・島津氏が戦国末期から近世初期への移行期をいかにして乗り越えたのか、特に中央政権との緊張と協調に満ちた関係性を理解する上で、重要な示唆を与えるものである。
年号 |
西暦 |
盛淳の年齢(数え) |
主な出来事 |
関連人物 |
天文17年 |
1548年 |
1歳 |
畠山頼国の子として誕生 1 。 |
畠山頼国 |
(幼少期) |
- |
- |
薩摩大乗院にて出家、大乗院盛久法印の弟子となる 1 。 |
大乗院盛久 |
(壮年期) |
- |
- |
紀州根来寺(8年)、高野山(3年)で修行を積む 1 。 |
木食応其 |
(還俗前) |
- |
- |
帰国し、鹿児島安養院の住持となる 1 。 |
- |
天正14年 |
1586年 |
39歳 |
島津義久の命で還俗し側近となる。豊臣秀吉との和平交渉にあたる 1 。 |
島津義久、豊臣秀吉 |
天正16年 |
1588年 |
41歳 |
島津義久の家老に就任 1 。 |
石田三成 |
文禄3年 |
1594年 |
47歳 |
太閤検地に奉行として携わる。伊集院忠棟と対立が噂される 1 。 |
伊集院忠棟 |
慶長5年 |
1600年 |
53歳 |
関ヶ原の戦いで主君・島津義弘の影武者となり、美濃国牧田上野にて戦死 1 。 |
島津義弘、島津豊久 |
長寿院盛淳の人物像を理解するためには、まず彼の出自と、還俗前に彼が歩んだ仏道修行の道程を深く掘り下げる必要がある。名門の血統と、中央の宗教界で培われた知見と人脈は、後の彼の政治的キャリアを方向づける決定的な要因となった。
長寿院盛淳は、天文17年(1548年)、畠山頼国(はたけやま よりくに)の子として薩摩国で生を受けた 1 。彼の本姓は畠山であり、「長寿院」は後に出家した際の院号である 1 。この薩摩畠山氏は、室町幕府において三管領家の一つに数えられた名門・畠山氏の庶流を称している 1 。薩摩藩の公式史書である『本藩人物誌』には、頼国は畠山尚順の子・頼兼の子であると記されており、盛淳が中央の貴種の流れを汲む人物であったことが示唆される 1 。
父である頼国は、「橘陰軒(さついんけん)」または「橘穏軒」という軒号を持ち、中務少輔の官途名を有していた 1 。彼は天文14年(1545年)に京から薩摩へ下向し、坊津(ぼうのつ)周辺に居を構えたとされる 1 。頼国は、京都で培った人脈や朝廷・幕府に関する深い知見を活かし、島津家の対外交渉において極めて重要な役割を担った。彼の名が史料に初めて現れるのは、天文15年(1546年)、坊津の一条院が勅願所となることを望んだ際に、前関白である近衛稙家(このえ たねいえ)への取り次ぎを行った記録である 1 。さらに元亀2年(1571年)には、喜入季久(きいれ すえひさ)と共に上洛し、将軍・足利義昭に「唐入御服」を献上するなど、島津家が中央政権との関係を維持・強化する上で不可欠な外交顧問として活躍した 1 。
盛淳の後のキャリアは、この父・頼国の役割を直接的に継承し、さらに発展させたものと解釈できる。九州の辺境に位置する島津家が、中央の複雑な政治情勢に対応するためには、頼国のような中央にルーツを持つ人材を「外交の専門家」として登用し、そのパイプを維持することが死活問題であった。盛淳が後に豊臣秀吉との困難な交渉を担うことになる背景には、こうした父の代から続く島津家の戦略的人事があった。彼の人生は、父が敷いた「中央との交渉役」というレールの上を、さらに大きな舞台で駆け抜ける運命にあったのである。
盛淳は幼少期に仏門に入り、薩摩の有力寺院であった大乗院の盛久法印の弟子となった 1 。この大乗院は、明治維新後の廃仏毀釈によって廃寺となったが、当時は薩摩における重要な宗教拠点の一つであった 7 。
彼の修学は薩摩国内に留まらなかった。壮年期に至ると、彼は紀伊国(現在の和歌山県)へ渡り、当時、強力な僧兵集団を擁する一大勢力として知られた根来寺(ねごろじ)で8年間にわたる厳しい修行を積んだ 1 。根来寺での経験は、単なる仏道修行に留まらず、戦国時代の寺社が有していた政治的・軍事的知見に触れる貴重な機会であった可能性が高い。
その後、盛淳はさらに高野山へと移り、木食応其(もくじき おうご)の門下に入る 1 。木食応其は、米や麦などの穀物を断つ「木食行」という苦行を実践する高潔な僧として知られる一方で、豊臣秀吉による高野山攻めの際には、その中心となって和議をまとめ上げるなど、中央政界にも絶大な影響力を持つ人物であった 8 。盛淳はこの師の下で3年間師事し、深い師弟関係を築いた。この関係こそが、後に島津家の運命を救い、盛淳自身の人生を大きく転換させる伏線となる。
長い修学の旅を終えた盛淳は薩摩へ帰国し、鹿児島に所在した真言宗寺院、護国山安養院の住持に就任した 1 。この安養院は、京都の山城醍醐寺三宝院の末寺であり、盛淳が中央の仏教界とも繋がる格式高い寺院の長であったことを示している 11 。
盛淳の僧侶としての経歴は、単なる精神的背景ではなく、彼の政治的価値を形成する最も重要な「資産」であった。戦国時代において、高野山のような大寺院は独立した情報網と政治力を持つ一大勢力であり、その指導者であった木食応其は、天下人・豊臣秀吉と直接交渉し、その帰依を受けるほどの人物であった 9 。九州統一を進め、秀吉との全面衝突が不可避となった島津家にとって、秀吉と強力なパイプを持つ応其は、まさに外交上の最後の切り札であった 8 。そして、その応其に直接働きかけることができる唯一の人物が、彼の弟子である盛淳であった。島津義久が後に盛淳を還俗させてまで側近に抜擢した最大の理由は、彼個人の才覚以上に、この「高野山ルート」という他には代えがたい外交チャンネルを手に入れるためであったと考えられる。盛淳の価値は、彼が持つ「関係性」の中にこそ、その本質があったのである。
仏道に深く帰依し、安養院住持としての日々を送っていた盛淳の人生は、天正14年(1586年)を境に大きく転換する。九州の覇権を巡る島津家と豊臣政権との対立が頂点に達する中、彼はその卓越した知見と人脈を見込まれ、俗世へと呼び戻された。僧侶から家老へ。この異例の転身は、彼が島津家にとって、いかに不可欠な存在であったかを物語っている。
天正14年(1586年)、島津家当主・島津義久は、安養院住持であった盛淳に還俗を命じ、自らの側近(奏者)として取り立てた 1 。この時期、島津氏は大友氏を圧迫し九州統一に王手をかけていたが、それは同時に天下人・豊臣秀吉との全面対決が目前に迫っていることを意味していた。義久がこのタイミングで盛淳を抜擢したのは、彼の外交手腕、とりわけ高野山を通じて豊臣政権中枢に働きかける能力に期待したためである。
その期待通り、盛淳は直ちに秀吉との交渉の最前線に立つ。しかし、交渉は難航し、ついに秀吉は20万ともいわれる大軍を率いて九州征伐を開始した。島津軍は各地で奮戦するも、圧倒的な物量の前に敗色が濃くなっていく。この絶望的な状況下で、盛淳は家中において早期和平を強く主張した 1 。彼はかつての師である高野山の木食応其に仲介を依頼し、必死の和平工作に奔走する 8 。この応其を通じた交渉が功を奏し、最終的に島津家は滅亡の危機を免れ、薩摩・大隅・日向の一部を安堵されるという形で和議が成立した 8 。この一連の働きにより、盛淳は島津家存続の立役者として、家中における不動の地位を確立したのである。
九州平定後、盛淳の役割は外交に留まらなかった。天正16年(1588年)、彼は島津義久の家老に正式に就任し、石田三成ら豊臣方との会見にも同席している 1 。さらに、文禄元年(天正20年、1592年)頃には、島津義弘の家老(老中)にもなったことが、町田久倍や鎌田政近らと共に家臣の知行宛行状に連署していることから確認できる 1 。当時、島津家は当主の義久と、軍事・実務を担う弟の義弘による「両殿(りょうとの)」と称される二頭体制にあった。盛淳が両殿の家老を兼務したという事実は、彼が兄弟双方から深く信頼され、家中の複雑な力学を調整するキーパーソンであったことを示している。
彼の政治家としての手腕が最も試されたのが、文禄3年(1594年)に島津領内で行われた太閤検地であった。盛淳は、筆頭家老であった伊集院忠棟(いじゅういん ただむね)と共に検地奉行を務め、豊臣政権の代表である石田三成らと協議しながら、島津家臣団の知行再配分という困難な作業にあたった 1 。この検地は、豊臣政権の支配を領国の隅々にまで浸透させるものであり、多くの国人や地侍にとっては知行を削減されることを意味した。そのため、盛淳は彼らからの強い反発と怨嗟を一身に浴びることになった 12 。
太閤検地を共に推進した筆頭家老・伊集院忠棟とは、その大胆で強引な知行割を巡って意見が対立し、二人の不仲は公然の秘密となった 1 。この対立は、単なる個人的な確執や政策論争に留まるものではなかった。それは、豊臣政権という外部からの強大な圧力によって引き起こされた、島津家内部の深刻な亀裂を象徴する出来事であった。
伊集院忠棟は、秀吉から直接日向庄内に8万石の所領を与えられるなど、豊臣政権と直結することで家中での権力を飛躍的に増大させた人物である 13 。彼の存在は、島津宗家の伝統的な統治体制を根底から揺るがすものであった。当主・義久は、旧来の秩序を重んじる保守的な立場から、忠棟の台頭を苦々しく思っていたと推察される 15 。一方で、朝鮮出兵などで中央との関わりが深かった義弘は、豊臣政権との協調を重視する現実的な路線を取らざるを得なかった 17 。
この複雑な力学の中で、盛淳と忠棟の対立は、義久と義弘の「両殿」が抱える路線対立の代理戦争としての様相を呈していた。義久によって還俗を命じられた盛淳は、豊臣政権との交渉に不可欠な外交官であると同時に、忠棟のように中央に過度に傾倒することなく、島津家本来の利益を守る「均衡勢力」として期待されていた可能性がある。彼の存在は、忠棟の権力拡大に対する「カウンターウェイト」であった。
この根深い対立構造は、慶長4年(1599年)、義弘の子である島津忠恒(後の家久)が忠棟を伏見屋敷で殺害するという衝撃的な事件に発展する。これに反発した忠棟の子・忠真が領地の庄内で反乱を起こし、島津家中最大の内乱といわれる「庄内の乱」が勃発した 13 。この内乱は、翌年に徳川家康の仲介によってようやく鎮圧されるが、関ヶ原の戦いを目前に控えた島津家の国力を著しく疲弊させ、天下分け目の決戦に大軍を派遣できなかった直接的な原因の一つとなったのである 13 。
慶長5年(1600年)、天下の趨勢を決する関ヶ原の戦いが勃発した。この戦いは、長寿院盛淳の生涯の最終章を飾る、最も劇的で悲壮な舞台となった。国許から主君の危機に駆けつけ、絶望的な戦況の中で身を挺して主君を救い、その忠義を美濃の地に刻みつけたのである。
関ヶ原の戦いが始まると、西軍に与した島津義弘は、兵力が整わないまま美濃国大垣城に入っていた。国許の島津家では、当主・義久が西軍参加に慎重な姿勢を示したため、大規模な派兵が行われなかったのである 20 。孤立無援の状況に陥った義弘から、7月末、国許に早飛脚による危急の報せが届いた 1 。
この報に即座に応えたのが、当時、大隅国蒲生(現在の鹿児島県姶良市蒲生町)の地頭を務めていた盛淳であった。彼は自らが管轄する蒲生衆・帖佐衆を中心とした士卒70名余りを率い、昼夜を問わず西へ向かって疾駆した 1 。
そして本戦をわずか2日後に控えた9月13日の朝、盛淳率いる一行は美濃国南宮山付近の西軍陣地に到着した 1 。その神速ともいえる行軍に、出迎えた西軍の総大将・石田三成は「まるで召鬼のようだ(鬼神を呼び寄せたかのようだ)」と驚嘆し、その労を称えたという 1 。同日昼、大垣城で義弘と対面すると、義弘は城門の外まで自ら出迎え、盛淳の手を取ってその参陣を心から喜んだと伝えられている 1 。この時、義弘はかつて豊臣秀吉から拝領したという貴重な陣羽織を盛淳に与え、三成もまた軍配と団扇を贈ってその忠勤に報いたとされる 2 。
慶長5年9月15日、関ヶ原での決戦の火蓋が切られた。しかし、小早川秀秋の裏切りをきっかけに西軍は総崩れとなり、戦場に最後まで取り残された島津隊は、数万の東軍に包囲されるという絶体絶命の窮地に陥った 25 。
もはやこれまでと死を覚悟する義弘に対し、甥の島津豊久が進言する。「島津家の存亡は公の一身にかかっております。必ずや生き延びて薩摩へお戻りください」と 27 。この言葉を受け、義弘は敵の大軍の正面を突破して伊勢街道方面へ撤退するという、前代未聞の作戦「島津の退き口」を決行する 6 。
この決死の撤退戦において、長寿院盛淳は主君・義弘を生きて薩摩に帰すため、自らがその身代わり(影武者)となることを決意した 23 。彼は義弘から下賜された陣羽織をその身にまとい、「我こそは島津義弘也」と大音声で名乗りを上げ、追撃してくる東軍の真っ只中へと突入していったのである 21 。
盛淳は、現在の岐阜県大垣市上石津町牧田上野(まきだかみの)の地で、追撃する東軍を食い止めるべく獅子奮迅の戦いを繰り広げ、壮絶な最期を遂げた 23 。その死の状況については、いくつかの伝承が残されている。「数本の槍に貫かれながらも奮戦し討ち取られた」とも、「敢えて義弘の名を名乗り、敵兵の前で堂々と切腹して果てた」とも、あるいは「乱戦の末に、付き従った家臣18名と共に討死した」ともいう 1 。
『薩摩藩旧伝集』などの記録によれば、盛淳を討ち取ったのは、東軍に属していた松倉重政(後の島原藩初代藩主)の家臣・山本義純という人物であったとされている 1 。時に、盛淳は数え53歳であった 4 。
この壮絶な撤退戦は、後世「捨て奸(すてがまり)」という特異な戦法として語り継がれてきた。これは、小部隊がその場に留まって死ぬまで戦い、本隊の撤退時間を稼ぐという自己犠牲の戦術である 6 。しかし、この「捨て奸」という言葉は、関ヶ原に参加した当事者による同時代の島津側史料、例えば『薩藩旧記雑録』などには一切見られない。このことから、専門家の間では後世の軍記物などによって創作されたものである可能性が高いと指摘されている 32 。実際の戦闘は、計画的に配置された自己犠牲部隊によるものではなく、殿(しんがり)を務める部隊が、敵の追撃を遅らせるために小規模な反撃(小返し)を繰り返しながら、必死に戦った結果であったと推察される。生還を目指しながらも、その激戦の末に多くの者が命を落としたのである。盛淳の最期も、この壮絶な殿軍の戦いの中で迎えたものと捉えるのが、より史実に近い姿であろう。
盛淳の忠義に応え、薩摩から共に馳せ参じた蒲生・帖佐の兵たちもまた、主君と共に死力を尽くして戦った。記録によれば、盛淳と共にこの牧田の地で戦死した蒲生の武士として、和田奔存坊(わだ ほんぞんぼう)、新保善左衛門(しんぼ ぜんざえもん)、野付喜右衛門尉(のつき きえもんのじょう)、野村与右衛門(のむら よえもん)など、十数名の名が伝えられている 4 。彼らの墓とされる自然石の墓石群が、現在も大垣市の琳光寺にある盛淳の墓の周囲に寄り添うように残されており、主従が辿った壮絶な運命を静かに今に伝えている 4 。
長寿院盛淳の生涯は、関ヶ原での壮絶な死によって幕を閉じた。しかし、彼の物語はそこで終わらなかった。その忠義は時を超えて語り継がれ、特に後の時代の薩摩藩士たちにとって、精神的な拠り所として大きな意味を持つことになった。美濃の地に残る墓所は、彼の忠烈を偲ぶ人々の手によって守られ、顕彰され続けている。
関ヶ原で戦死した盛淳の亡骸は、戦いの舞台となった美濃国牧田(現在の大垣市上石津町牧田)にある種徳山琳光寺に手厚く葬られた 1 。琳光寺の境内には、現在も盛淳の墓所が残されている。そこには、大正時代に彼の子孫によって建立された「長寿院阿多盛淳之墓」と刻まれた墓碑が静かに佇んでいる 3 。また、同寺には盛淳の位牌も安置されており、その魂は今もこの地で供養され続けている 24 。隣接する大垣市上石津地域事務所の敷地内には、彼の忠烈を讃える顕彰碑も建てられている 21 。
盛淳の墓所には、墓碑の背後に古格な五輪塔が一つ残されている。これは、彼の死から約150年の時を経た江戸時代中期の宝暦年間(1754年-1764年)に、この地を訪れた薩摩藩士たちによって建立されたものであると伝えられている 23 。
当時、薩摩藩は徳川幕府の命により、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の治水工事という極めて困難な国役普請に従事していた(宝暦治水事件)。この工事は、薩摩藩の財政力を削ぐための幕府による政治的策略であったともいわれ、多くの藩士が過酷な労働や病によって命を落とし、工事の総責任者であった家老・平田靱負(ひらた ゆきえ)は完成後に切腹するという悲劇的な結末を迎えた。
この宝暦治水に従事した薩摩藩士たちは、中央(幕府)からの圧力と理不尽な苦役の中で、強い連帯感と藩への忠誠心を精神的な支えとしていた。彼らにとって、かつて同じ美濃の地で、中央の覇者(徳川家康)を相手に主君を救うために命を捧げた大先輩・長寿院盛淳の存在は、特別な意味を持っていた。盛淳の自己犠牲の物語は、薩摩藩独自の武士道教育である「郷中(ごじゅう)教育」が理想とする「義のための死」を体現するものであった 35 。
郷中教育は、幼少期から「負けるな、嘘をつくな、弱い者をいじめるな」という教えを基本に、主君への絶対的な忠誠と自己犠牲の精神を徹底的に叩き込むものであった 37 。過酷な状況下に置かれた藩士たちが、盛淳の墓を訪れ、その忠義を顕彰するために五輪塔を建立した行為は、単なる先人の供養に留まらない。それは、盛淳の物語に自らの境遇と藩への忠誠を重ね合わせ、薩摩武士としてのアイデンティティを再確認し、その精神を奮い立たせるための象徴的な行動であった。この行為によって、盛淳の物語は単なる過去の出来事から、時代を超えて薩摩武士道を体現する「生きた伝説」へと昇華されたのである。
盛淳の死後も、その家系は途絶えることなく続いた。『本藩人物誌』などの記録によれば、盛淳の子・忠栄が屋敷を阿多甚左衛門に譲って出家したことから、一時は「阿多吉房」と呼ばれ、それ以降、子孫は「阿多(あた)氏」を称したとされている 1 。そのため、盛淳自身も「阿多長寿院」や「阿多盛淳」の名で呼ばれることが多い 2 。
しかし、その後、家名は再び「畠山」に復されたようである。幕末期には、薩摩藩の家老を輩出する家柄として存続しており、明治維新期に活躍した畠山義成なども、この盛淳から続く家系の人物とされている 39 。盛淳が命を賭して守った島津家の中で、彼の子孫は名門としてその血脈を後世に伝えていったのである。
長寿院盛淳の生涯を俯瞰するとき、彼が単一の言葉で定義できるような単純な人物ではないことが明らかになる。「忠臣」「武将」といった言葉だけでは、彼の持つ多層的な側面を捉えきることはできない。
第一に、彼は名門・畠山氏の血を引く「貴種」であった。この出自は、彼に中央の文化や政治に対する素養を与え、後の外交活動の基盤となった。
第二に、彼は高野山で木食応其に師事した「学僧」であった。この経験は、単なる精神的修養に留まらず、豊臣秀吉との交渉を可能にするという、極めて戦略的な価値を持つ人脈を彼にもたらした。
第三に、彼はその人脈と知見を駆使して島津家の危機を救った「外交官」であった。九州平定時に豊臣秀吉との和睦を成立させ、島津家の滅亡を防いだ功績は、武功以上に決定的な貢献であったと言える。
第四に、彼は義久・義弘の「両殿」に仕える「家老・政治家」として、太閤検地のような困難な内政問題にも深く関与した。
そして最後に、彼は主君のために命を捧げた「武士」として、その生涯を劇的に完結させた。
盛淳の生涯は、戦国末期から近世初期にかけての激動の時代において、一個人が持つ多様な能力や背景、そして人との繋がりが、いかにして所属する組織の運命を左右しうるかを示す好例である。彼の僧侶としての経歴がなければ、島津家は豊臣政権との和睦に失敗し、歴史の舞台から姿を消していたかもしれない。また、関ヶ原での彼の自己犠牲がなければ、「島津の退き口」の成功はより困難なものとなり、その後の島津家の存続も危うくなっていた可能性がある。
彼の忠義の物語は、後の宝暦治水に従事した薩摩藩士たちによって再発見・再生産され、薩摩武士道の象徴として昇華された。彼の存在は、薩摩藩の精神文化を形成する上で、目に見えないながらも大きな役割を果たしたのである。長寿院盛淳は、その異色の経歴をもって島津家を支え、その壮絶な最期をもって後世の記憶にその名を刻んだ、稀有な人物として再評価されるべきであろう。