長尾憲長は、日本の戦国時代に活躍した武将であり、文亀3年(1503年)に足利長尾氏の当主・長尾景長の嫡男として生を受け、天文19年3月23日(1550年4月19日)に48歳でその生涯を終えました 1 。通称は新五郎、官位は但馬守を称し、下野国足利城を本拠地としていました 1 。彼の妻は横瀬景繁の娘であり、子には当長、渋川義勝正室、長尾憲景室がいました 1 。
長尾氏は、元来相模国の桓武平氏・鎌倉氏の支流に位置づけられます 3 。鎌倉時代末期から南北朝時代初頭にかけて関東へ入部した上杉氏に仕え、その筆頭家臣として隆盛を極めました 4 。足利長尾家は、長尾氏の中でも長尾景忠の子孫にあたり、特に長尾景人の子である長尾景長が永正の乱において関東管領上杉憲房に仕え、家宰職を獲得して以降、上杉憲政が関東を退去するまで家宰職を独占するに至りました 4 。長尾憲長は、この足利長尾氏の第4代当主として、その重要な役割を担いました 6 。
本稿では、長尾憲長の生涯を詳細に追跡し、特に山内上杉家宰としての活動、古河公方足利晴氏の元服における役割、そして戦国関東の激動期における彼の政治的・軍事的な影響力を多角的に分析することを目的とします。主要な史料としては、『館林市史通史編1『館林原始古代・中世』』や、黒田基樹氏の『関東戦国史』などが挙げられます 7 。近年の研究では史料の年代比定が変化する事例も存在するため、最新の学説動向に留意した記述を心がけます 7 。
足利長尾氏が下野国足利荘(現在の栃木県足利市)を本拠地とし、勧農城主として関東管領と敵対する古河公方に対する抑えをなしたという事実は、彼らが単なる家宰職に留まらず、地理的に重要な戦略的要衝を担っていたことを示唆しています 4 。この立地は、古河公方と関東管領の勢力圏の境界に位置し、両勢力の動向を監視・牽制する役割を担っていたと考えられます。足利長尾氏が家宰職を独占できた背景には、彼らが山内上杉家にとって軍事的・政治的に不可欠な存在であったという事実が隠されています。特に、古河公方との対立が常態化する中で、その「由緒の地」に配置された足利長尾氏は、関東管領の関東支配戦略の要であったと推察されます。
長尾憲長の生涯を概観するため、以下に主要な出来事をまとめた年表を示します。
年号(西暦) |
和暦 |
出来事 |
関連人物 |
1503年 |
文亀3年 |
長尾憲長、誕生 |
長尾景長(父) |
1524年頃 |
大永4年頃 |
足利長尾氏家督継承、山内上杉家宰就任 |
上杉憲房(主君) |
1528年 |
享禄元年 |
父・長尾景長病没 |
長尾景長(父) |
1528年 |
享禄元年 |
古河公方足利晴氏の元服において、将軍足利義晴からの偏諱拝領を仲介 |
足利晴氏、足利義晴、越後長尾氏 |
1531年 |
享禄4年 |
関東享禄の内乱の結果、上杉憲政が関東管領となるも、憲長は引き続き家宰を務める |
上杉憲政、上杉憲寛 |
1548年 |
天文17年 |
子・当長が足利藤氏の元服式に参列(憲長の隠居・家宰職譲渡の可能性) |
長尾当長(子)、足利藤氏 |
1550年 |
天文19年3月23日 |
長尾憲長、死去(48歳) |
|
長尾憲長は、文亀3年(1503年)に長尾景長の嫡男として誕生しました 1 。大永4年(1524年)頃には足利長尾氏の家督を継承し、同時に山内上杉家の家宰職に就任したとされています 1 。彼の父である長尾景長は享禄元年(1528年)に病没しており 1 、憲長は父の生前に家督と家宰職を引き継いだことになります。彼の名である「憲長」は、当時の関東管領であった上杉憲房から一字を拝領したものと見られており、主君との深い関係性を示しています 1 。
山内上杉家の家宰職は、その歴史的意義において極めて重要な地位を占めていました。家宰は、主君である関東管領の陪臣でありながら、古河公方の嫡子の元服に参列するなど、名実ともに要職でした 4 。長尾氏は鎌倉時代から山内上杉氏の筆頭家臣として重きをなし、上野、武蔵、越後の守護代を兼任するなど、その家名は江戸時代まで続くほどの栄誉を享受しました 4 。足利長尾家が家宰職を独占するに至った背景には、永正の乱において長尾景長が上杉憲房に仕え、対立勢力であった上杉顕実・長尾顕方を攻め破り、家宰職を獲得した経緯があります 4 。この出来事以降、足利長尾家は上杉憲政が関東を退去するまで、一貫して家宰職を独占しました 4 。本来、家宰職は長尾氏の嫡流である鎌倉(足利)長尾家、あるいはその庶流である犬懸長尾家が継ぐべき地位とされていましたが、当主が若年であるなどの理由で職務を務められない場合には、白井長尾家や惣社長尾家の長老が就任することもありました 4 。足利長尾家による独占は、彼らの実力と山内上杉家からの厚い信頼を示すものです。
長尾憲長は、上杉憲房の死後、その跡を継いだ上杉憲広(後の憲政)にも引き続き家宰として仕えました 2 。上杉憲政は、大永3年(1523年)生まれで、大永5年(1525年)に父憲房が死去した際にはまだ幼少でした 12 。そのため、一時的に古河公方・足利高基の子である上杉憲寛が家督を継ぎましたが、享禄4年(1531年)の関東享禄の内乱の結果、憲政が家督を継承し関東管領となりました 12 。長尾憲長は、このような山内上杉家内部の混乱期においても、家宰の地位を維持し続けました 1 。
足利長尾家が「上杉憲政の関東退去まで、家宰職を独占した」という事実は、長尾憲長の代を含む約30年間にわたり、足利長尾家が山内上杉氏の政務を実質的に掌握していたことを意味します。これは、山内上杉氏内部における足利長尾家の圧倒的な権力と信頼を示すものです。特に、関東管領が憲寛から憲政に交代する内紛期にも憲長が家宰を務め続けたことは、彼が単なる特定主君の家臣ではなく、山内上杉家という組織そのものにとって不可欠な存在であったことを示唆しています。この家宰職の独占は、長尾氏が関東管領の権威を背景に、広範な地域(上野、武蔵、越後の一部)に影響力を行使し、領国経営や軍事動員において中心的な役割を担っていたことを意味します。これにより、足利長尾家は単なる陪臣の枠を超え、戦国大名に匹敵する、あるいはそれを凌駕する実力を有していたと推察されます。
以下に、足利長尾氏の歴代当主と家宰職の変遷を示し、長尾憲長がその中でどのような位置づけにあったかを明確にします。
代数 |
当主名 |
家宰就任時期 |
特記事項 |
初代 |
長尾景人 |
不明 |
下野国足利荘を与えられ、勧農城主となる 4 |
2代 |
長尾定景 |
文明4年(1472年) |
病弱のため3年で急死 13 |
3代 |
長尾景長 |
定景急死後(7歳で家督継承) |
永正の乱で上杉憲房に仕え家宰職を得る。足利長尾家による家宰職独占の契機。居城を移し、足利長尾氏の隆盛を築く。武人であると共に文人としても知られる 4 |
4代 |
長尾憲長 |
大永4年(1524年)頃 |
上杉憲房・憲広(憲政)に仕え家宰を務める。古河公方足利晴氏の元服において将軍からの偏諱拝領を仲介。武人であると共に文人としても知られる 1 |
5代 |
長尾当長 |
1551年頃(天文17年頃隠居と推測) |
上杉憲政の越後逃亡により関東管領家宰職が事実上消滅。北条氏に降るが、後に上杉謙信を支援。武人であると共に文人としても知られる 4 |
6代 |
長尾顕長 |
不明 |
小田原征伐で北条氏と共に滅亡。足利長尾家の歴史が終焉 6 |
長尾憲長の生涯において特筆すべき功績の一つは、古河公方第四代となる足利晴氏(亀王丸)の元服における彼の具体的な役割です。享禄元年(1528年)、憲長はこの重要な儀式において大いに活躍しました 14 。彼は越後長尾氏を仲介役として、遠く京都の室町幕府と交渉を行い、将軍・足利義晴から晴氏に「晴」の一字を拝領する依頼を成功させました 14 。
足利晴氏の元服における将軍からの偏諱拝領は、当時の政治状況において極めて重要な意味を持つ行為でした。戦国時代において、将軍からの偏諱は、その人物の権威と正統性を公的に認める象徴であり、古河公方の地位を内外に示す上で不可欠な手段でした。長尾憲長がこの交渉を主導し、成功させたことは、彼の卓越した外交手腕と、室町幕府、古河公方、山内上杉家、そして越後長尾氏という複雑な政治関係の中で、多方面にわたる調整能力を有していたことを明確に示しています。
越後長尾氏を仲介とした背景には、当時の関東情勢において、山内上杉家や古河公方が直接京都と交渉することが困難であったという事情があったと考えられます。越後長尾氏が将軍家との繋がりを持っていた可能性(例えば、長尾晴景が将軍足利義晴から偏諱を得た例があることからも、越後長尾氏と将軍家の繋がりが示唆されます 17 )、あるいは、中立的な立場として交渉を円滑に進める役割を担った可能性が考えられます。
この偏諱拝領の成功は、古河公方足利晴氏の権威を公的に認め、その地位を安定させる上で大きな意味を持ちました。これにより、古河公方と山内上杉家(長尾憲長が家宰を務める)との関係も一時的に安定に向かったと推察されます。家宰という陪臣の立場でありながら、古河公方嫡子の元服に参列し、さらには将軍との交渉を仲介したという事実は、家宰職が持つ権限と影響力が、主君である関東管領のそれを補完し、時には凌駕するほどのものであったことを明確に示しています 4 。
足利晴氏の元服に際し、憲長が将軍からの偏諱拝領を越後長尾氏を介して依頼したという事実は、単なる儀礼的な行為に留まらない、深い政治的意図があったと考察されます。憲長がこの交渉を成功させたことは、彼が関東の政治バランス、将軍家の権威、そして越後長尾氏との関係性を深く理解し、それらを巧みに利用して山内上杉家と足利長尾家の地位を強化しようとした戦略的な判断の表れと言えます。この交渉の成功は、憲長が単なる軍事指揮官や領国経営者ではなく、高度な外交手腕を持つ政治家であったことを示唆しています。また、越後長尾氏がこの時期に関東の政治に一定の影響力を持っていたこと、あるいは京都とのパイプ役を担っていた可能性も示唆され、関東と越後の複雑な相互関係の一端が垣間見えます。
長尾憲長は、山内上杉家の家老(家宰)として、古河公方足利晴氏にも仕えるという複雑な立場にありました 2 。家宰としての職務は多岐にわたり、主君の政務を執行するために書状や証文を作成し、これを主君の書状に添付することで、実際の行政が執行されました 18 。また、長尾家のような重臣たちは、下位の者の意見を主君に披露・具申する権限も併せ持っており、主君と家臣団、さらには領民との間の重要な橋渡し役を務めていたことがうかがえます 18 。具体的な職務内容としては、前述の古河公方の元服における外交交渉のほか、軍事指揮、そして自身の領国経営が挙げられます。
長尾憲長自身の具体的な軍事活動に関する直接的な記述は、現存する資料からは多くありません 14 。しかし、家宰という山内上杉家の中枢を担う立場であったことから、山内上杉氏の軍事行動において重要な役割を担っていたことは十分に推測できます。憲長の生きた時代は、伊豆・相模の後北条氏が武蔵国へ進出し、山内上杉氏と激しく対立を深めていた時期と重なります 12 。関東管領上杉憲政が北条氏康に敗れ、最終的に越後へ亡命する(1552年)直前まで憲長は家宰を務めており 4 、この激動期における山内上杉氏の軍事・政治戦略に深く関与していたと考えられます。
また、長尾憲長は下野足利城主でもありました 2 。家宰としての職務に加え、自身の領国である足利荘の統治も行っていました。領国経営に関する具体的な記述は少ないものの、家宰の役割として、領内の勧農や秩序維持に努めていたと推測されます 1 。彼の父・景長が居城を移したことが足利長尾氏の隆盛に繋がったとされており 6 、憲長もその基盤の上で領国を経営し、足利長尾氏の勢力維持に貢献していたと考えられます。
長尾憲長が家宰を務めた時期は、関東管領山内上杉氏が後北条氏の台頭により勢力を失い、最終的に上杉憲政が越後へ亡命する直前までという、関東の政治情勢が大きく変動した時代でした。この事実は、憲長が家宰として山内上杉氏の衰退を食い止めるために奔走したものの、最終的にはその流れを止めることができなかったことを示唆しています。家宰の職務が政務執行や外交に及んだとしても、戦国大名間の大規模な軍事衝突においては、一陪臣としての権限には限界があったと考えられます。憲長の活動は、室町幕府の権威が低下し、各地で戦国大名が台頭する中で、伝統的な守護・管領体制がどのように崩壊していったかを示す一例です。家宰という要職も、主家の衰退とともにその実権を失い、最終的には消滅する運命にあったと言えます。憲長の生涯は、この過渡期の地方豪族の苦悩と、旧体制の限界を象徴していると言えるでしょう。
長尾憲長の晩年において特筆すべきは、子の当長への家宰職譲渡の経緯です。天文17年(1548年)の古河公方足利藤氏(晴氏の子)の元服式には、憲長の子である当長が参列しています 1 。このことから、憲長はこの元服式に当長を参列させるために隠居し、家宰職を譲った可能性が考えられます 1 。当長は、大永7年(1527年)に憲長の二男として誕生しており、上杉憲当(憲政)から偏諱を受け「当長」と名乗っていました 15 。このような公的な場での職務継承は、足利長尾家が家宰としての地位を安定的に次代に引き継ぎ、その家格と権威を維持しようとする意図があったと推測されます。
長尾憲長は天文19年3月23日(1550年4月19日)に48歳で死去しました 1 。彼の死後、子である当長が足利長尾家の家督を継承しました 6 。しかし、当長の時代には、主君である関東管領上杉憲政が北条氏の圧力に耐えかねて越後へ逃亡し、これに伴い関東管領家宰職も事実上消滅しました 4 。当長はその後、北条氏康に降伏する選択を迫られましたが、同族である長尾景虎(後の上杉謙信)が関東へ越山した際には、これに参陣するなど、激動の時代を生き抜きました 4 。
長尾憲長は、文化・信仰活動にも力を入れていたことがうかがえます。彼が創建した塔頭の心通院は、当長によって1556年に現在の小谷の地に移されました 6 。この心通院には、憲長と当長夫妻の墓塔が残されており、足利長尾氏が信仰にも篤かったことを示しています 6 。さらに、長尾景長、憲長、当長の三代は、武人であると同時に文人としても知られており、現在国重要美術品となっている自画像をそれぞれ残していることからも、彼らが単なる武力だけでなく、文化的な素養を通じて権威を確立し、乱世を生き抜くための多角的な戦略を持っていたことが示唆されます 6 。
長尾憲長が子・当長に家宰職を譲った時期が、足利藤氏(晴氏の子)の元服式に当長が参列した天文17年(1548年)頃と推測されるのは、憲長が自身の隠居と家宰職の継承を、古河公方の重要儀礼という公的な場を通じて行った可能性を示唆しています。このようなタイミングでの譲渡は、足利長尾家が家宰としての地位を安定的に次代に引き継ぎ、その家格と権威を維持しようとする意図があったと考察されます。戦国時代において、家宰という要職の継承は、単なる内部人事ではなく、主家や周辺勢力に対する政治的メッセージでもありました。憲長が当長に家宰職を譲った背景には、彼自身が高齢(46歳)になったことだけでなく、山内上杉氏の勢力衰退が顕著になりつつあった状況下で、若き当長に新たな時代への対応を託す戦略的な判断があった可能性も考えられます。足利長尾氏が武人であると同時に文人でもあったという事実は、彼らが単なる武力だけでなく、文化的な素養を通じて権威を確立し、乱世を生き抜くための多角的な戦略を持っていたことを示唆しています。
長尾憲長は、戦国時代の激動期において、関東管領山内上杉家の家宰として、その政治・軍事・外交の中枢を担いました。特に、古河公方足利晴氏の元服における将軍からの偏諱拝領の仲介は、彼の卓越した外交手腕と足利長尾氏の政治的影響力を示す重要な功績として評価されます。足利長尾家が家宰職を独占したことは、山内上杉氏の勢力拡大と密接に関わっており、関東における長尾氏の地位を確立する上で重要な転換点となりました 4 。彼の生涯は、旧来の秩序が崩壊し、新たな戦国大名が台頭する過渡期における、有力国衆の苦悩と適応の姿を鮮明に映し出しています。
しかしながら、長尾憲長の生涯における具体的な軍事活動や詳細な領国経営については、現存する史料から詳細を把握することが困難であるという制約が存在します 4 。これは、戦国時代の地方豪族、特に大名の家臣という立場にあった人物の活動を詳細に追跡することの困難さを示しています。彼らの活動は、主家の大名史料の中に埋没するか、あるいは断片的な文書としてしか残されていない場合が多いのです。
この史料の制約は、長尾憲長のような「陰のフィクサー」的な存在の歴史的評価を困難にしています。彼らは表舞台で活躍する大名ほど目立つことはありませんが、その実務的な手腕がなければ主家の運営は成り立たなかったはずです。したがって、限られた史料からいかに彼らの「日常の政治」や「裏方の功績」を読み解くかが、今後の研究の重要な課題となります。今後の研究では、『館林市史』のような地域史料や、黒田基樹氏のような現代研究者の著作をさらに深く分析し、長尾憲長の個別の行動や判断が、当時の関東情勢に具体的にどのような影響を与えたのかを多角的に検証することが求められます 7 。