15世紀末から16世紀にかけての越後国は、守護・上杉氏の権威が徐々に形骸化し、その家臣である守護代・長尾氏が実権を掌握していく「下剋上」の時代にありました 1 。鎌倉時代末期以来、上杉氏に仕えてきた長尾氏は、室町時代には越後、上野、武蔵などの守護代を歴任し、関東・越後に一大勢力を築き上げます 1 。特に越後においては、守護代職と国内の主要な郡の代官職を世襲することで、国政の実務を掌握するに至っていました 1 。
この越後長尾氏は、守護代を世襲する府中長尾家(三条長尾家)、上田庄を本拠とする上田長尾家、そして古志郡を本拠とする古志長尾家(栖吉長尾家)の三家に大別されます 2 。本報告書で詳述する長尾房景は、この古志長尾家の当主として、越後国内の権力闘争の渦中に身を投じた人物です 4 。
長尾房景の名は、複数の時代の史料に散見されるため、人物を特定する上で注意が必要です。本報告が対象とするのは、明応4年(1495年)に古志長尾家の家督を継いだ、後の上杉謙信の外祖父にあたる人物です 6 。
史料上、彼とは別に、室町時代中期に鎌倉長尾氏の一族として活動した長尾房景が存在します 7 。また、『普光寺文書』には文明7年(1475年)に寺領の樹木伐採を禁じる制札を出した「長尾房景」の記録が見られます 9 。しかし、本報告の主題である房景は、その20年後の明応4年(1495年)に「幼くして」父から家督を譲られたとされており 6 、1475年の時点で成人として活動していた人物と同一であるとは考えられません。したがって、文明年間に活動した房景は、本稿の房景の父・孝景か、あるいはそれ以前の先代の当主であった可能性が高く、明確に区別されるべきです。この峻別こそが、彼の生涯を正確に追跡するための不可欠な前提となります。
長尾房景の生涯は、戦国時代の地方領主としての苦悩と選択の連続でした。しかし、彼の名を歴史に不滅のものとした最大の要因は、彼自身の武功や領国経営以上に、その娘である青岩院(通称・虎御前)が守護代・長尾為景の室となり、後に「軍神」と称される上杉謙信(長尾景虎)を産んだという事実にあります 7 。房景は、越後の歴史を、ひいては日本の戦国史を大きく動かすことになる英雄の血脈を繋いだ、極めて重要な人物なのです。
西暦 (和暦) |
房景の年齢 (推定) |
出来事 |
関連人物 |
典拠 |
1495年 (明応4年) |
幼少 |
父・孝景の隠居により、幼名「小法師丸」として古志長尾家の家督を継承。 |
長尾孝景 |
6 |
1497年 (明応6年) |
幼少 |
白鳥荘の年貢問題を巡り、古志長尾家が守護への役銭調査を行う。 |
- |
6 |
1498年 (明応7年) |
幼少 |
守護代・長尾能景が、房景の幼少を理由に、守護・上杉房能による郡司不入権破棄から古志郡を除外するよう要求。 |
長尾能景, 上杉房能 |
7 |
1505-07年 (永正2-4年) |
- |
元服し、「弥四郎房景」と名乗る。 |
- |
7 |
1507年 (永正4年) |
- |
永正の乱勃発。長尾為景に味方し、娘を嫁がせ同盟を結ぶ。新守護・上杉定実より所領を与えられる。 |
長尾為景, 上杉房能, 上杉定実 |
7 |
1509年 (永正6年) |
- |
関東管領・上杉顕定が越後へ侵攻。為景方が劣勢となる中、房景は顕定方に寝返る。 |
上杉顕定 |
7 |
1510年 (永正7年) |
- |
蔵王堂城を攻め、為景方の兵を討ち取る。しかし、為景が顕定を破り勢力を回復すると、再び為景方に帰順。 |
長尾為景, 上杉顕定 |
7 |
1513年 (永正10年) |
- |
為景方として上田庄を攻撃。 |
長尾為景 |
6 |
1514年 (永正11年) |
- |
上田庄六日町の合戦で守護方を破り、戦功を挙げる。 |
長尾為景 |
6 |
1519-20年 (永正16-17年) |
- |
為景の越中侵攻に従軍するも、新庄の合戦で大きな損害を被る。 |
長尾為景 |
6 |
1527年 (大永7年) |
- |
領内の高波保などで段銭を徴収。領主としての支配権を行使。 |
- |
6 |
1530年 (享禄3年) |
- |
娘・青岩院が長尾為景との間に虎千代(後の上杉謙信)を出産。 |
青岩院, 長尾為景, 上杉謙信 |
11 |
(没年不明) |
- |
房景の活動記録が途絶える。 |
- |
7 |
1543年 (天文12年) |
(死後) |
謙信(景虎)が栃尾城に入り、事実上、古志長尾家を継承したと見なされる。 |
上杉謙信 |
7 |
1578年 (天正6年) |
(死後) |
御館の乱で、子の上杉景信が上杉景虎方に与して敗死。古志長尾家は滅亡。 |
上杉景信, 上杉景勝, 上杉景虎 |
15 |
越後における長尾氏の分家の一つである古志長尾家は、南北朝時代に上杉氏に従って越後に入国した長尾景恒の子、豊前守景晴が古志郡・刈羽郡を領したことに始まります 5 。当初は蔵王堂城(現在の新潟県長岡市)を拠点としていましたが、後に房景の父・孝景の代に、栖吉城(同長岡市)へと本拠を移し、以降は「栖吉長尾家」とも称されるようになりました 12 。房景が称した官途名「豊前守」は、一族の祖である景晴も用いており、古志長尾家代々の当主が受け継いだ称号であったと考えられます 7 。
新たな本拠地となった栖吉城は、長岡市街の東方にそびえる城山(標高335メートル)に築かれた堅固な山城です。麓からの比高差は約270メートルに及び、城域は東西約600メートル、南北約300メートルにも達する大規模なものでした 17 。発掘調査や地表観察からは、主郭を取り巻く横堀や、敵の侵入を阻むための堀切、そして急斜面に設けられた畝状竪堀群など、戦国時代の山城としての高度な防御機能を示す遺構が確認されており、古志長尾家の軍事力の基盤となっていたことがうかがえます 17 。
明応4年(1495年)12月、父・長尾孝景が隠居したことに伴い、房景は幼名の「小法師丸」のまま、若くして古志長尾家の家督を継承しました 6 。彼の幼少期における統治を象徴する出来事が、明応7年(1498年)に起こります。当時、越後守護であった上杉房能が、守護の権限を強化するために郡司不入権(郡司の支配地への守護使の立ち入りを認めない特権)の破棄を試みました。これに対し、守護代であり長尾一族の宗家当主であった長尾能景(為景の父)は、「房景がいまだ幼少である」ことを公式な理由として、古志長尾家の所領を守護の介入から除外するよう房能に要求し、認めさせています 7 。
この能景の行動は、一見すると分家である古志長尾家を庇護し、その権益を守るためのものに見えます。しかし、その内実を深く考察すると、異なる側面が浮かび上がります。幼い当主に代わって宗家の当主が交渉を行うということは、事実上、古志長尾家の領地経営や対外的な判断が、宗家である府中長尾家の強い影響下、すなわち後見体制に置かれていたことを意味します。この出来事は、房景が家督を継いだ当初、まだ独立した領主としてではなく、府中長尾家の統制下にある一勢力であったことを示唆しています。この力関係は、後に房景が自立を目指し、府中長尾家当主の為景に対して離反と帰順を繰り返すという、複雑な政治行動の伏線となっていたのです。
房景が家督を継いだ直後の明応6年(1497年)、彼の領地である白鳥荘において、年貢の納入を巡って現地の荘官と荘園領主である京都の随心院との間で紛争が生じました。この時、古志長尾家は守護に納めるべき役銭(税)を調査し、その台帳を作成したという記録が残っています 6 。当主の房景はまだ幼少であったため、これは家臣団が中心となって領国経営を滞りなく行っていた証左と言えるでしょう。
やがて成長した房景は、永正2年(1505年)から同4年(1507年)の間に元服を遂げ、「弥四郎房景」と名乗るようになります 7 。これにより、彼は名実ともに古志長尾家の当主として、激動の越後国の政治の舞台に立つことになりました。
永正4年(1507年)、越後の歴史を大きく揺るがす事件が起こります。守護代の長尾為景が、主君である守護・上杉房能に反旗を翻し、これを自害に追い込んだのです。そして為景は、上杉一族の中から上杉定実を新たな守護として擁立し、越後の実権を掌握しました。これが「永正の乱」の始まりです 12 。
このクーデターにおいて、古志長尾家の当主・房景は、為景に味方するという重要な決断を下します 7 。この両者の連携は、単なる政治的判断にとどまらず、房景が自身の娘(後の青岩院)を為景に嫁がせるという婚姻政策によって、より強固な同盟関係へと発展したと考えられています 12 。この功績により、房景は為景が擁立した新守護・定実から、新たな所領を恩賞として与えられ、その政治的地位を向上させました 7 。
しかし、この下剋上は関東に波紋を広げます。殺害された上杉房能の実兄であり、関東管領という絶大な権威を持つ山内上杉家の当主・上杉顕定が、弟の仇を討つとして永正6年(1509年)に大軍を率いて越後へ侵攻したのです 13 。為景は圧倒的な兵力差の前に劣勢に立たされ、一時は越中への逃亡を余儀なくされました 13 。
この状況は、房景にとって究極の選択を迫るものでした。姻戚関係にある為景に殉じれば、関東管領の大軍の前に自領と一族が滅亡することは必至です。一方で、顕定に与すれば、「裏切り者」のそしりは免れません。ここで房景は、為景を裏切り、顕定方に寝返るという決断を下します 7 。この行動は、単なる信義にもとる「裏切り」としてではなく、自家の存続を最優先するという、戦国時代の国人領主としての極めて合理的かつ現実的な生存戦略と評価することができます。主君への忠誠よりも、自家の安泰と利益を優先する当時の価値観を象徴する行動でした。
顕定方についた房景は、その忠誠の証を示すかのように、永正7年(1510年)6月、為景方の拠点であった蔵王堂城を攻撃し、百余人を討ち取るという目覚ましい戦功を挙げました 7 。
しかし、戦国の世の常として、戦況は再び急変します。同年8月、越中で体勢を立て直した為景・定実軍が反撃に転じ、長森原の戦いで関東管領・上杉顕定を討ち取るという劇的な勝利を収めたのです 13 。越後の支配者が再び為景へと戻ったことを受け、房景は自身の立場を再検討せざるを得なくなりました。そして彼は、蔵王堂での戦いの後、速やかに為景方へと再び帰順します 7 。この一連の目まぐるしい所属の変転は、彼の優れた状況判断能力と、激動の時代を生き抜くための政治的柔軟性、あるいはしたたかさを如実に示しています。
なお、『長岡市史』所収の年表には、永正7年に房景が「為景に味方し、蔵王堂で上杉顕定らと戦う」との記述があり 6 、一度顕定方に離反したとする『戦国人名事典』などの記述 7 とは矛盾が見られます。しかし、為景が一時越中へ逃亡したという政治過程の全体像を考慮すると、一度は顕定の軍門に降り、その後に為景の劇的な勝利を見て再び帰参したという「離反→再帰順」説が、より当時の状況を合理的に説明できると考えられます。本報告ではこの説を主軸としますが、地域史料に異なる伝承が残されている点も重要です。
時期 (西暦/和暦) |
所属勢力 |
主な行動 |
背景・理由 |
典拠 |
1507年 (永正4年) |
長尾為景方 |
為景の挙兵に加担。娘を為景に嫁がせ、婚姻同盟を締結。新守護・定実から恩賞として所領を得る。 |
為景の下剋上による台頭と、一族の勢力拡大を目指す戦略的判断。 |
7 |
1509年 (永正6年) |
上杉顕定方 |
為景を裏切り、越後へ侵攻してきた関東管領・上杉顕定に寝返る。 |
為景が劣勢となり、関東管領の圧倒的な軍事力の前に、自家の存続を図るための現実的選択。 |
7 |
1510年 (永正7年) |
上杉顕定方 |
顕定方として、為景方の拠点であった蔵王堂城を攻略し、戦功を挙げる。 |
顕定への忠誠を示すための軍事行動。 |
7 |
1510年 (永正7年) |
長尾為景方 |
為景が顕定を討ち取り、越後の実権を回復したため、再び為景方に帰順する。 |
顕定の敗死と為景の勢力回復という戦局の急変に対応し、再び自家の安泰を図るための行動。 |
7 |
永正の乱における複雑な立場を経て、最終的に長尾為景の配下としてその地位を固めた房景は、以降、為景が進める越後国内の統一事業に一貫して協力し、各地を転戦しました。
為景方に復帰して間もない永正10年(1513年)、房景は為景軍の一翼を担い、対立勢力が残る上田庄への攻撃に参加します 6 。翌永正11年(1514年)には、上田庄の六日町(現在の新潟県南魚沼市)で守護上杉方の軍勢と激突し、70人余りを討ち取るという具体的な戦功を挙げています 6 。
さらに房景の軍事活動は越後国内に留まりませんでした。永正16年(1519年)から17年(1520年)にかけて、為景が越中国への勢力拡大を目指して軍事侵攻を行うと、房景もこれに従って出陣しました。しかし、この越中遠征における新庄の合戦では、古志長尾勢は激しい抵抗に遭い、房景の肉親や多くの家臣を失うという大きな犠牲を払ったと記録されています 6 。これらの戦いは、房景が為景政権下で重要な軍事力の一端を担っていたことを示しています。
長尾為景の求めに応じて各地を転戦する一方で、房景は自身の本拠地である古志郡における領主としての支配権を着実に強化していきました。為景への軍事奉公は、自領における支配権を公認・保障される見返りでもあったのです。
その具体的な証拠として、大永7年(1527年)に、房景が自身の領地である高波保(現在の長岡市域)などで「段銭」を徴収したという記録が残っています 6 。段銭とは、田地の面積(段別)に応じて課される臨時の税であり、これを領主が独自に徴収する行為は、その地域に対する直接的な支配権、すなわち徴税権を行使していたことを明確に示しています 24 。
さらに、軍事活動と並行して、房景は本拠である栖吉城とその城下町の整備を進め、周辺の在地領主たちを自身の家臣団に組み込む「被官化」を推進したとされています 7 。これは、単に為景の指揮下にある武将というだけでなく、古志郡という一円を支配する独立した地域領主としての実力を固めていたことを物語っています。
房景のこうした動きは、戦国時代の支配構造の典型的な一例を示しています。すなわち、彼は守護代である為景に従属する立場にありながらも、その体制下で自領における自立的な支配を確立していくという「従属と自立の二重構造」の中にありました。これは、為景が越後を実力で統一していく過程で、服属した国人領主たちの在地支配を認めることで、彼らを自身の権力基盤へと巧みに組み込んでいった統治戦略の現れでもあります。房景の活動は、守護支配体制が崩壊し、戦国大名による新たな領国支配体制へと移行していく、まさにその過渡期の越後の姿を体現しているのです。
長尾房景が歴史にその名を刻むことになった最大の理由は、彼の血脈にあります。為景との同盟を固めるために嫁いだ娘・青岩院(虎御前)は、為景の継室(あるいは側室)となり、享禄3年(1530年)1月21日、春日山城で一人の男子を産みました 11 。この年に生まれた四男・虎千代こそ、長じて長尾景虎と名乗り、後に「越後の龍」「軍神」と称されることになる上杉謙信その人です 11 。
この一点において、房景は越後の、ひいては日本の戦国史に消えることのない足跡を残しました。彼の本拠であった栖吉城が、後世「謙信の母の生まれた城」として語り継がれる所以です 17 。
房景の具体的な没年は史料に残されておらず、彼の活動記録は大永7年(1527年)の段銭徴収を最後に途絶えます 6 。その後の古志長尾家の動向は、大永・享禄年間を通じて不明な部分が多く、歴史の霧に包まれています 7 。
この謎に一つの光を当てるのが、天文12年(1543年)の出来事です。この年、元服して長尾景虎と名乗った謙信は、兄・晴景の命により、古志郡の栃尾城に入城します 23 。栃尾城が古志長尾家の勢力圏内にあったこと、そして現在米沢の上杉家文書に房景の時代以前の古志長尾家関連の古文書が多く伝えられていることなどから、この景虎の栃尾城入りは、単なる城主としての赴任ではなく、事実上の「古志長尾家の家督継承」であったとする説が有力視されています 6 。
この背景には、府中長尾家の巧みな戦略があったと考えられます。房景の死後、古志長尾家に有力な男子の跡継ぎがいなかった、あるいは幼少であった可能性があります。そこで、府中長尾家の当主・為景(あるいはその子の晴景)は、房景の外孫という血縁的繋がりを持つ景虎を後継者として送り込むことで、古志長尾家が持つ勢力と広大な領地を、波風を立てることなく円滑に吸収・継承しようとしたのでしょう。これは、血縁関係を最大限に活用して一族の勢力基盤を強化するという、戦国時代にしばしば見られる巧みな政治戦略の一例と言えます。
房景には、上杉景信という息子もいました。景信は謙信の一門衆として重用され、上杉姓の使用を許されるなど、謙信政権下で高い地位を確立していました 17 。古志長尾家は、謙信の時代にその栄光を享受したのです。
しかし、その栄光は謙信の死と共に暗転します。天正6年(1578年)、謙信が後継者を明確に定めないまま急死すると、二人の養子、上杉景勝(上田長尾家出身)と上杉景虎(北条氏康の子)との間で、壮絶な家督争いが勃発します。これが越後を二分した内乱「御館の乱」です 28 。
この乱において、景信は重大な選択を迫られます。古志長尾家は、伝統的に上田長尾家と対立関係にあったとされ 15 、景信はその感情からか、景勝ではなく北条家から来た景虎を支持する側に回りました 16 。景信率いる古志長尾勢は景虎方の中心戦力の一つとなり、景勝方と激しく戦います 16 。
しかし、乱は巧みな戦略で家中を固めた景勝方の勝利に終わりました。天正7年(1579年)、景虎は自刃に追い込まれ、景信もまた乱の中で討ち死にしたと伝えられています 15 。当主を失った名門・古志長尾家はここに滅亡し、その広大な所領は景勝方の武将・河田長親らに与えられ、分割されてしまいました 12 。
ここには、歴史の非情な皮肉が存在します。房景の家(古志長尾家)を歴史的に重要な存在たらしめたのは、間違いなく彼の血を引く上杉謙信の存在でした。しかし、その謙信が後継者問題を曖昧にしたまま世を去ったことが、御館の乱という悲劇的な内乱を引き起こす直接的な原因となったのです。そして、房景の息子・景信は、その内乱の渦中で、謙信のもう一人の養子と争い、一族と共に滅び去りました。つまり、房景の一族は、結果的に、房景自身の最大の功績が生み出した状況によって終焉を迎えたのです。これは、一人の人物の遺産が、意図せずして自らの一族の破滅を招くという、戦国時代の無情さと複雑さを象徴する出来事と言えるでしょう。
長尾房景の生涯を追うと、主家の権威が揺らぎ、下剋上が常態化する時代の中で、いかにして自家の存続と勢力拡大を図るかという、戦国国人領主の典型的な姿が浮かび上がります。長尾為景への加担、関東管領への離反、そして再びの帰順という一連の行動は、現代的な価値観での「忠誠」や「裏切り」といった二元論では到底測れません。それは、激しく変化する力関係の中で、一族の生き残りをかけた、極めて合理的かつ現実的な判断の連続であったと評価すべきです。
彼は、守護代・長尾為景による越後支配の確立を初期から支え、その政権下で軍事力の一翼を担うと共に、古志郡における地域領主として着実に支配を固めました。彼の活動は、越後国が旧来の守護支配体制から、実力主義に基づく戦国大名の領国支配へと移行していく、まさにその過渡期の様相を具体的に示す貴重な事例です。
最終的に、長尾房景という武将の功績や領国経営の手腕以上に、彼を歴史に記憶させているのは、彼が「軍神」上杉謙信の外祖父であったという、揺るぎない事実です。彼自身が率いた古志長尾家は、皮肉にも謙信が遺した内乱によって滅び去りました。しかし、彼が繋いだ血脈は、謙信の養子となり家督を継いだ上杉景勝(房景の曾孫にあたる)を通じて米沢上杉家に受け継がれ、江戸時代を通じて存続しました。長尾房景は、越後の激動期をその知略と武力で生き抜き、次代の英雄を生み出すための決定的な環を担った人物として、日本の戦国史の中に確固たる位置を占めているのです。