最終更新日 2025-05-20

長尾政景

長尾政景

長尾政景の実像:その生涯、上杉謙信との関係、そして死の謎

1. はじめに

長尾政景(ながお まさかげ)は、戦国時代の越後国(現在の新潟県)における有力な国人領主、上田長尾氏の当主であり、後の米沢藩初代藩主・上杉景勝の実父として知られる人物である 1 。その生涯は、後の「軍神」上杉謙信(長尾景虎)の義兄という立場にありながら、一時は謙信と激しく敵対し、降伏後はその重臣として活躍するという、戦国武将特有の複雑な変転を辿った 3 。さらに、その子である上杉景勝が謙信の養子となり上杉家の家督を継承したことは、長尾政景という人物を上杉氏の歴史において極めて重要な存在へと押し上げている 2

本報告書は、現存する史料に基づき、長尾政景の出自と一族、上杉謙信との関係性の変遷、具体的な政治的・軍事的活動、そして永禄7年(1564年)の謎に満ちた死に至るまでを多角的に調査・分析し、その実像に迫ることを目的とする。政景の生涯は、下剋上が常であった戦国時代の武将の典型的な生き様を示すと同時に、越後という国人勢力が割拠し、長尾氏内部でも権力闘争が絶えなかった地域特有の複雑な状況を色濃く反映している。彼の子が上杉家を継いだという歴史的結果から遡ってその動向を考察することは、政景自身の評価のみならず、戦国期における主従関係の流動性や権力構造の変遷を理解する上で、重要な示唆を与えるものと考えられる。

2. 長尾政景の出自と一族

  • 上田長尾氏の概要と政景の血統
    長尾政景は、大永6年(1526年)、越後国上田長尾氏の当主であった長尾房長(ながお ふさなが)の子として生を受けた 2。上田長尾氏は、越後守護代を世襲した府中長尾氏(後の上杉謙信の家系)の分家にあたり、魚沼郡の坂戸城(現在の新潟県南魚沼市)を本拠地としていた 2。府中長尾氏とは長年にわたり対立関係にあり、政景も当初はこの対立路線を継承することになる 3。政景の父方の祖母は、越後守護家である上条上杉家の娘であったと伝えられている 2。この血縁関係は、上田長尾氏が越後国内において一定の名門意識と勢力を保持していたことを示唆している。
  • 父・長尾房長と上田長尾家の状況
    政景の父である長尾房長は、上田長尾氏の6代目当主とされる 3。房長の時代においても、府中長尾氏との関係は良好ではなかった 3。房長は、その生涯において主家や周辺勢力との間で離反と同盟を繰り返したとされ、その「叛服常無き遍歴」は、後々まで上田長尾氏の評価に影響を及ぼした 2。房長は天文21年8月15日(1552年9月3日)に死去したと記録されている 6。政景の母については、史料上「不明」とされており、その出自や経歴については詳らかではない 2。
    父・房長のこうした行動は、単に一個人の資質の問題として片付けられるものではなく、戦国中期における越後国内の不安定な政治状況と、その中で生き残りを図ろうとした上田長尾氏の苦慮を反映しているとも考えられる。しかし、結果としてこの房長の行動が、政景の代、さらには孫である上杉景勝の代に至るまで、「上田衆」という言葉に一種の差別的なニュアンスを伴わせる要因となったことは注目すべき点である 2。これは、一度失われた信頼を回復することの困難さと、戦国時代における「家」の評判や出自に対する社会の厳しい評価眼を示すものと言えよう。
  • 妻・仙桃院(綾姫)との婚姻とその意義
    長尾政景の正室は、長尾為景(ためかげ)の娘であり、長尾景虎(後の上杉謙信)の実姉にあたる仙桃院(せんとういん)である 1。仙桃院の名は綾姫(あやひめ)とも伝えられている 2。この婚姻は、天文20年(1551年)、政景が景虎に反旗を翻した坂戸城の戦いの後、降伏した際の和睦の証として成立したものであった 2。仙桃院は、大永4年(1524年)または享禄元年(1528年)の生まれとされ、慶長14年(1609年)に米沢城でその生涯を閉じている 7。
    この婚姻は、典型的な戦国時代の政略結婚であり、敵対関係にあった上田長尾氏と府中長尾氏の和解を強固にし、越後国内の安定を図るための重要な手段であった。政景にとっては、景虎の義兄という立場を得ることで、上杉家臣団内での地位を安定させ、上田長尾家の存続を図る道が開かれた。一方、景虎にとっても、有力な国人領主である政景を味方に引き入れることは、自身の権力基盤を強化する上で大きな意味を持った。仙桃院自身も、夫の死後や御館の乱など、上杉家の歴史における重要な局面で大きな役割を果たしており 7、彼女の存在が政景と景虎、そして後の景勝との関係に少なからぬ影響を与えたことは想像に難くない。
  • 子・長尾顕景(上杉景勝)をはじめとする子女
    長尾政景と仙桃院の間には、数人の子供がいたことが記録されている。長男の義景(よしかげ)は早世したと伝えられる 2。次男として弘治元年(1555年)に生まれたのが顕景(あきかげ)、後の上杉景勝である 8。景勝は、実子のいなかった叔父・上杉謙信の養子となり、謙信の死後、御館の乱を経て上杉家の家督を継承し、後に豊臣政権下で五大老の一人に数えられ、江戸時代には米沢藩の初代藩主となった 1。
    娘には、清円院(せいえんいん)がおり、上杉景虎(北条氏康の子で謙信の養子)の継室となったとされるが、畠山義春の室が長女で清円院が次女であるとする説も有力である 2。その他、上条政繁(かみじょう まさしげ)に嫁いだ娘や、時宗(ときむね)という男子がいたとも伝えられるが、時宗についてはその実在を含め不明な点が多い 2。
    長尾政景の歴史における最大の意義の一つは、上杉謙信の後継者となる上杉景勝をもうけたことと言えるだろう。これにより、かつては謙信と敵対した上田長尾氏の血脈が、結果として上杉宗家を率いることになったという事実は、戦国時代の複雑な権力構造と運命の皮肉を象徴している。景勝の存在は、政景の死後の上田長尾家の立場や、母である仙桃院の政治的発言力にも影響を与えた可能性が考えられる。
  • 表:長尾政景 関係主要人物一覧

関係

氏名

ふりがな

生没年

備考

典拠例

長尾房長

ながおふさなが

明応3年頃?-天文21年(1552年)

上田長尾氏6代当主、政景の父

3

不明

-

不明

2

正室

仙桃院 (綾姫)

せんとういん (あやひめ)

大永4/享禄元年-慶長14年(1609年)

長尾為景の娘、上杉謙信の姉、上杉景勝の母

3

長男

長尾義景

ながおよしかげ

不明-早世

2

次男

上杉景勝

うえすぎかげかつ

弘治元年(1555年)-元和9年(1623年)

初名・長尾顕景。謙信の養子となり上杉家を継承。米沢藩初代藩主。

3

長女

清円院

せいえんいん

不明

上杉景虎継室(異説あり、畠山義春室が長女で清円院が次女とする説が有力 7

2

次女

(上条政繁室)

(かみじょうまさしげしつ)

不明

畠山義春室(異説あり 7

2

時宗

ときむね

不明

存在に疑問符あり

2

主君(初期)

長尾晴景

ながおはるかげ

永正6年(1509年)-天文22年(1553年)

越後守護代、謙信の兄

5

主君(後期)

上杉謙信

うえすぎけんしん

享禄3年(1530年)-天正6年(1578年)

初名・長尾景虎。越後国主、関東管領。政景の義弟。

5

この一覧は、長尾政景を取り巻く主要な血縁関係者および主従関係者をまとめたものである。これらの人物との関係性が、政景の生涯における行動や決断、そして上杉家の歴史にどのような影響を与えたのかを理解する上で、基礎的な情報となる。特に、妻・仙桃院が謙信の姉であり景勝の母であるという点は、政景と謙信の関係、そして景勝の家督相続の背景を読み解く上で極めて重要な要素である。

3. 長尾景虎(上杉謙信)との関係性の変遷

長尾政景の生涯において、最も重要な関係性は、義弟であり後に主君となる長尾景虎(上杉謙信)とのそれであった。両者の関係は、当初の激しい対立から、和睦と臣従、そして最終的には深い信頼関係へと劇的に変化していく。

  • 表:長尾政景 略年表

年代(和暦)

年代(西暦)

年齢

主な出来事

典拠例

大永6年

1526年

0歳

長尾房長の子として越後国で誕生。幼名は新六。

1

天文16年

1547年

22歳

府中長尾家家中の長尾晴景と景虎(謙信)の抗争において、晴景側に付く。

2

天文17年12月

1548年

23歳

長尾景虎が家督を相続。

2

天文19年12月

1550年

25歳

長尾景虎の家督相続に不満を持ち、坂戸城に籠もり謀反(坂戸城の戦い)。

5

天文20年8月

1551年

26歳

景虎に降伏。和睦の証として景虎の姉・仙桃院(綾姫)を正室に迎える。以降、景虎の重臣として活動。

3

天文21年8月15日

1552年

27歳

父・長尾房長が死去。

6

弘治元年11月27日

1556年1月8日

30歳

次男・顕景(後の上杉景勝)が誕生。

8

弘治2年

1556年

31歳

家督を放棄し出家しようとする景虎(謙信)を説得し、押しとどめる。

3

永禄3年

1560年

35歳

春日山城の留守居役に任じられる。

3

永禄4年9月

1561年

36歳

第四次川中島の戦い。政景は春日山城留守居。

16

永禄7年7月5日

1564年8月11日

38歳

坂戸城近くの野尻池(諸説あり)にて舟遊び中に溺死。享年38。

5

  • 家督相続を巡る初期の対立:長尾晴景方としての政景
    長尾為景の死後、越後守護代の家督を継いだ長男の長尾晴景は、病弱であったとされ、指導力にも疑問符が付けられていた 5。そのような中で、晴景の弟である長尾景虎(後の上杉謙信)が、その武才とカリスマ性をもって急速に台頭し始める。天文16年(1547年)、府中長尾家内部で晴景と景虎の間で家督を巡る権力闘争が顕在化すると、長尾政景は晴景を支援する側に立った 2。
    政景が晴景を支持した背景には、いくつかの要因が考えられる。一つには、政景の妻・仙桃院が晴景および景虎の姉であり、晴景とは義兄弟の関係にあったという個人的な繋がりである 11。しかし、より大きな要因としては、上田長尾氏としての政治的立場が挙げられる。景虎の母の実家である古志長尾氏は景虎を強力に支持しており、この古志長尾氏と上田長尾氏は伝統的に対立関係にあった 2。したがって、景虎の台頭は、上田長尾氏にとって自らの勢力基盤を脅かすものと映り、政景としては、既存の秩序を維持しようとする晴景方に与することが自然な選択であったと言える。越後国内の勢力図の中で、若き景虎の急激な勢力拡大は、他の国人領主たちにとっても警戒すべき事態であり、政景の行動もこうした越後国内のパワーバランスの変化に対する反応と理解できる。
  • 坂戸城の戦い:景虎への反旗とその経緯・結果
    天文17年(1548年)12月、越後守護・上杉定実の調停もあり、晴景は隠居し、景虎がわずか19歳で長尾家の家督を相続し、春日山城主となった 2。この家督相続に対し、政景は強い不満を抱き、景虎の守護代就任と家督相続を快く思っていなかった 11。景虎の母の実家である古志長尾家の勢力拡大なども、政景の反発を招いた要因と考えられる 11。
    そして天文19年(1550年)12月28日、政景は本拠地である坂戸城に籠もり、景虎に対して明確な謀反の意思を示した。これが「坂戸城の戦い」の始まりである 2。景虎は、会津の蘆名盛氏が政景に加担することを警戒し、先手を打って蘆名氏に使者を送るなど、迅速に対応した 11。
    戦いの初期、天文20年(1551年)1月には、景虎は政景方の発智長芳(ほっちながよし)が守る板木城(いたぎじょう)を攻撃したが、攻略には至らなかった 11。しかし、戦況は次第に政景に不利に傾いていく。その大きな要因の一つとして、かつて政景の盟友であり重臣であった宇佐美定満(うさみ さだみつ)の離反が挙げられる 3。史料によれば、宇佐美定満は天文20年(1551年)1月中旬には上田長尾家から離反し、景虎陣営に加わったとされ、政景の挙兵後の出来事であった可能性が高い 13。定満が長年仕えた上田長尾家を見限った具体的な理由は史料上明らかではないが 13、景虎の将来性や大義名分、あるいは上田長尾家の戦略への不信などが複合的に作用した結果と考えられる。
    宇佐美定満の離反に加え、他の味方の離反も相次いだことで、政景は窮地に立たされた。景虎が同年8月1日を坂戸城総攻撃の日と定めると、これを察知した長尾房長・政景父子は、戦わずして誓詞を送り、景虎に降伏を申し出た 11。景虎は当初、政景を許すつもりはなかったとされるが、姉婿であることや老臣たちの必死の助命嘆願により、最終的にこれを受け入れた 11。
    この坂戸城の戦いは、景虎による越後統一事業における最後の大きな国内抵抗であり、政景の敗北と降伏は、景虎が名実ともに越後の支配者としての地位を確立する上で決定的な意味を持った 3。
  • 景虎への降伏と臣従:和睦の条件と関係の変化
    坂戸城の戦いが終結し、長尾政景が景虎に降伏した後、両者の和睦の証として、政景は景虎の実姉である仙桃院(綾姫)を正室として迎えることになった 2。この婚姻により、政景は景虎の義兄という立場となり、単なる敗将としてではなく、上杉一門に準ずる形で遇され、上杉家臣団に組み込まれることになった。
    この政略結婚は、景虎にとって、かつての敵対者であり越後有数の実力者であった政景を、より強固な形で自陣営に取り込むための戦略的判断であったと言える。血縁関係を構築することで、再度の離反を防ぎ、政景の持つ武力や影響力を自らのために活用しようとしたのである。一方、政景にとっても、この婚姻は上田長尾家の存続と自身の安全を保障する道であり、敗北を喫しながらも、新たな主君のもとで再起を図る機会を得ることを意味した。
    これ以降、政景は配下の上田衆を率いて景虎の重臣として活躍し、その忠誠を尽くしたと伝えられている 2。かつての敵対関係は解消され、両者の関係は新たな段階へと移行したのである。
  • 謙信の信頼と重臣としての役割:春日山城留守居役、出家騒動時の説得など
    長尾政景が景虎(後の上杉謙信)に臣従して以降、両者の間には単なる主従関係を超えた深い信頼関係が築かれていったことを示す逸話がいくつか残されている。
    その最も著名な例が、弘治2年(1556年)に起こった謙信の出家騒動である。当時、謙信は越後国内の度重なる国人衆の反乱や、家臣団の統制の困難さに嫌気がさし、突如として家督を放棄して高野山へ出家しようとした 2。この未曾有の事態に際し、政景は他の重臣たちと共に謙信の説得にあたり、最終的に謙信に出家を思いとどまらせ、越後へ帰国させることに成功したと伝えられている 2。かつて敵対した政景が、主君の重大な決断を覆すほどの説得力と影響力を持っていたことは、両者の間に強固な信頼関係が醸成されていたことを示唆している。
    さらに、永禄3年(1560年)以降、謙信が関東出兵や上洛などで長期にわたり越後を不在にする際には、政景は春日山城の留守居役に任じられている 2。春日山城は上杉氏の本拠地であり、その留守居役は、軍事・政治の両面にわたる高度な判断力と絶対的な忠誠心が求められる極めて重要な役職である。特に、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いという、上杉氏の命運を左右する可能性のあった大規模な合戦の際にも、政景は春日山城の留守居として越後本国の守りを固めていた 16。
    これらの事実は、長尾政景が単に武勇に優れた武将であっただけでなく、政治的手腕にも長け、謙信から国家の根幹に関わる重要任務を託されるほど絶対的な信頼を得ていたことを明確に示している。反逆者から一転して、主君の最も信頼する重臣の一人へと立場を変えた政景の存在は、戦国時代における人間関係の複雑さと、個人の能力や忠誠心が時に出自や過去の経緯をも乗り越え得ることを物語っている。

4. 長尾政景の具体的な事績

長尾政景は、上杉謙信に臣従した後、その重臣として越後の政治・軍事両面で重要な役割を担ったと考えられるが、具体的な活動記録については断片的なものが多い。

  • 上杉謙信政権下における政治的役割(領国経営への関与、家中での立場など)
    史料によれば、長尾政景は謙信の重臣として、また上杉一門衆の筆頭格として家中を差配したとされている 2。前述の通り、春日山城の留守居役を幾度も務めたことは、謙信不在時の越後統治を任されていたことを意味し、その内政手腕と忠誠心が高く評価されていた証左である 2。また、謙信が出家騒動を起こした際に説得にあたったという逸話は、政景が単なる軍事指揮官ではなく、謙信の精神的な支えや信頼できる相談役としての一面も持っていた可能性を示唆している 3。
    一部の記述には、政景が本拠地である坂戸城の改修や城下町の整備、さらには領内の検地や徴税制度の整備にも力を入れたとあるが 17、これらの具体的な領国経営策に関する一次史料による裏付けは、現時点では明確ではない。これらの記述が事実であれば、政景の領主としての優れた能力を示すものとなるが、慎重な検証が求められる。
    一方で、興味深いのは、政景の父・房長の行動が影響し、「上田衆」という言葉が、政景の息子である上杉景勝の代に至るまで、ある種の差別的な感情を伴って扱われたという記録である 2。これは、政景や彼が率いた上田長尾氏が、謙信に重用されつつも、府中長尾家を中心とする上杉主流派に完全に同化したわけではなく、家中において依然として一定の独自性や、あるいは警戒感をもって見られていた可能性を示している。越後国内の旧勢力間の根深い対立意識が、政景の立場にも微妙な影を落としていたのかもしれない。
  • 上杉謙信政権下における軍事的役割(上田衆の統率、主要な合戦への関与の有無など)
    長尾政景は、謙信に降伏した後、配下の上田衆を率いてその軍事行動を支えたとされる 2。上田衆は、上杉軍の中で一定の兵力を構成する部隊であったと考えられるが、その具体的な編成や動員規模、軍役の内容に関する詳細な記録は乏しい。
    謙信の主要な合戦への政景の直接的な参加については、記録が限定的である。例えば、永禄4年(1561年)に勃発した第四次川中島の戦いでは、政景は春日山城の留守居を務めており、信濃の戦場には赴いていない 16。この事実は、彼の主たる軍事的役割が、越後本国の守備や、謙信が外征する際の国内統治にあった可能性を示唆している。
    謙信が頻繁に行った関東出兵や、越中方面への進出に政景が具体的にどのように関与したかについては、提示された資料からは明確な情報を得ることは難しい。永禄年間の関東出兵に際して、謙信軍が政景の所領である魚沼郡を通過する必要性があったことが議論されており 18、兵站の確保やルートの安全確保といった形での間接的な協力はあったと考えられる。一部の記述には、川中島の合戦において政景が軍議に参加し、本隊の後詰めを務めたといったものもあるが 17、これも一次史料による確認が不可欠である。
    これらの状況を総合的に勘案すると、長尾政景の軍事的役割は、最前線で軍勢を指揮するというよりも、むしろ後方支援、本国の防衛、そして謙信不在時の国内治安維持といった、戦略的に極めて重要な任務を担っていた可能性が高い。上田長尾氏という独自の勢力基盤を持つ政景を、謙信が巧みに活用しつつも、同時に一定の距離を保っていたという見方もできるかもしれない。
  • 坂戸城主としての活動と城郭の意義
    長尾政景は、その生涯を通じて越後国魚沼郡の坂戸城主であった 1。坂戸城は、上田長尾氏累代の本拠地であり、魚沼郡における政治・経済の中心地としての機能も有していた 19。
    地理的に見ると、坂戸城は越後と関東(特に上野国)を結ぶ三国街道の要衝に位置しており、軍事戦略上、また交通・物流の上でも極めて重要な拠点であった 19。政景の時代、この城がどのように維持・運営され、防衛体制が敷かれていたかは、彼の領主としての統治能力を評価する上で重要なポイントとなる。
    政景の子・上杉景勝が謙信の養子となり春日山城に入った後は、坂戸城は上杉氏の有力な支城として機能し続けた 19。特に、謙信死後に勃発した御館の乱においては、坂戸城は景勝方の重要な拠点として、北条氏の攻撃に耐え抜き、景勝の勝利に貢献したとされている 19。
    一部の記述では、政景自身が坂戸城の改修(土塁の強化、堀の拡張、石垣の構築、木柵の整備、水の手の確保など)に積極的に携わったとされているが 17、これも具体的な一次史料による裏付けが待たれるところである。しかし、坂戸城が堅固な山城であり、その戦略的重要性が高かったことは、多くの資料が示すところである 19。

5. 長尾政景の死とその謎

長尾政景の最期は、永禄7年(1564年)7月5日(西暦では8月11日)、突如として訪れた。その死は多くの謎に包まれており、後世様々な憶測を呼ぶことになる。

  • 永禄7年の溺死:状況と場所(野尻池、銭淵などの諸説)
    諸史料によれば、長尾政景は舟遊びの最中に溺死したとされている 2。享年は38歳、あるいは39歳であった 1。働き盛りの有力武将の突然の死は、当時の人々に大きな衝撃を与えたことであろう。
    問題となるのは、その溺死した場所である。これについては諸説が存在し、確定を見ていない。主な説としては、以下のものが挙げられる。
  1. 坂戸城近くの野尻池(のじりいけ) 3 。これは、現在の新潟県南魚沼市内にあったとされる池である。
  2. 魚野川(うおのがわ)にあった「銭淵(ぜにぶち)」と呼ばれる河川の屈曲部(新潟県南魚沼市) 2
  3. 大源太川(だいげんたがわ)にあった池(新潟県湯沢町) 2
  4. 長野県の野尻湖(のじりこ、別名:芙蓉湖) 2 。 これらの場所の特定は、事件の状況や背景を考察する上で重要となるが、現時点ではいずれの説も決定的な証拠に欠ける。死亡年月日と溺死という死因については多くの史料で一致を見ているものの、場所の不確かさが真相究明を一層困難にしている。
  • 死因を巡る諸説
    長尾政景の死因については、単純な事故死とする説から、謀殺説まで複数の見解が存在する。
  • 事故死説(酒に酔っての溺死)
    最も単純な説明は、舟遊びの最中に酒に酔い、誤って水中に転落し溺死したというものである 2。戦国武将が酒宴の席で命を落とす例は皆無ではなく、この説も一定の可能性を持つ。しかし、政景ほどの有力武将の死としてはあまりにもあっけないものであり、これが他の複雑な説を生む土壌となったとも考えられる。
  • 謀殺説:宇佐美定満によるもの(『北越軍談』等の記述と信頼性)
    最も広く知られ、後世の創作物などで好んで取り上げられるのが、上杉謙信の軍師とされる宇佐美定満による謀殺説である。この説によれば、宇佐美定満が、謙信の命を受けて、あるいは謙信の地位を確固たるものにするために、長尾政景を舟遊びに誘い出し、謀殺したとされる。宇佐美自身もこの際に共に溺死した、あるいは政景を道連れにしたとも伝えられている 2。
    この説の主な典拠は、江戸時代に成立した軍記物語である『北越軍談』である。しかし、『北越軍談』は、史実と異なる記述や編者による脚色が多く含まれていることが指摘されており、史料としての信頼性には大きな疑問符が付く 25。『北越軍談』の記述に基づいて、宇佐美定満の活躍を強調した合戦図屏風が制作された例もあることから 25、この説が当時の人々に一定のリアリティをもって受け入れられていた可能性はある。
    なお、坂戸城の戦いの際に宇佐美定満が政景を裏切ったという記録があるが 3、これは政景の死の事件とは直接関係ない。一部の記述には、定満が政景の野心を疑い、謙信に忠告したが聞き入れられなかったため、定満が単独で政景排除に動いた可能性を示唆するものもあるが 28、これも物語的な要素が強く、史実と見なすには慎重な検討が必要である。
    宇佐美定満謀殺説は、そのドラマ性から非常に魅力的ではあるものの、確たる一次史料による裏付けがない限り、歴史的事実として認定することは困難である。
  • 謀殺説:下平吉長によるもの(『穴沢文書』等の記述と信頼性)
    もう一つの謀殺説として、下平吉長(しもだいら きつなが、または、よしなが)という人物によるものがある。この説は、『穴沢文書(あなざわもんじょ)』という史料にその記述が見られるとされている 2。この下平吉長謀殺説については、歴史学者の羽下徳彦氏による論文「長尾政景の死と下平文書の行方 : 『歴代古案』校訂補正并解題補遺・その一」(書籍『中世の社会と史料』所収)で詳細な検討がなされている可能性がある 2。
    『穴沢文書』や、関連する可能性のある『歴代古案』といった史料の具体的な内容と、それらの史料的価値をどのように評価するかが、この説の信憑性を判断する上での鍵となる。宇佐美定満説が主に軍記物語に依拠するのに対し、下平吉長説は異なる史料群に基づく可能性があり、より詳細な史料批判が求められる。
  • 史料に基づく死因の再検討と考察
    長尾政景の死を巡る状況証拠として、興味深い伝承が残されている。それは、政景と共に舟に乗っており、同じく死亡したとされる家臣・国分彦五郎(こくぶ ひこごろう)の母が、後に語ったとされる話である。それによれば、引き揚げられた政景の遺骸の肩の下には、刃物によるものと思われる傷があったという 2。この伝承が事実であれば、政景が単なる事故死ではなく、何者かによって殺害された可能性を強く示唆するものとなる。しかし、これもあくまで後日談であり、伝聞情報であるため、その信憑性については慎重な判断が必要である。
    結局のところ、長尾政景の死因については、確たる一次史料が乏しく、多くは二次史料や軍記物、あるいは伝承に依存しているのが現状である。そのため、真相の解明は極めて困難と言わざるを得ない。
    しかし、このように複数の説が並立し、謎に包まれていること自体が、当時の越後における長尾政景の複雑な立場や、上杉謙信政権の安定度、あるいは当時の情報伝達のあり方など、多角的な歴史的背景を反映している可能性も考慮すべきであろう。政景の死が、何らかの政治的意図をもって引き起こされた、あるいはそのように噂されるだけの理由があったのかどうか、今後の研究による新たな史料の発見や解釈が待たれるところである。
  • 表:長尾政景の死因に関する諸説と根拠史料

説の名称

概要

主な根拠史料・伝承

史料の性格・留意点

典拠例

事故死説

舟遊び中に酒に酔い、誤って溺死した。

特になし(謀殺説の積極的証拠がない場合の消極的解釈)、伝承レベル。

最も単純な解釈だが、有力武将の突然死としては憶測を呼びやすい。

2

宇佐美定満 謀殺説

謙信の命、あるいは謙信の地位安定のため、宇佐美定満が政景を謀殺(道連れ死とも)。

『北越軍談』などの江戸時代の軍記物語。

『北越軍談』は創作や脚色が多く含まれ、史料的価値は低いとされる。一次史料による裏付けが必要。

14

下平吉長 謀殺説

下平吉長によって謀殺された。

『穴沢文書』(羽下徳彦氏の研究で言及)。『歴代古案』との関連も示唆される。

『穴沢文書』の具体的な内容と史料的価値の検証が必要。羽下氏の論文の読解が不可欠。

2

その他(傷の伝承)

引き揚げられた政景の遺体には肩下に傷があった。

同船し死亡した家臣・国分彦五郎の母による後日談。

あくまで後日談であり、伝聞情報。直接的な証拠とは言えないが、謀殺の可能性を示唆する材料の一つ。

2

この表は、長尾政景の死因に関する主要な説を、その根拠とされる史料や伝承と共に整理したものである。各説の信憑性や問題点を客観的に比較検討する上で、根拠史料の性格(一次史料、二次史料、軍記物など)を理解することが、歴史学的な議論を行う上での基礎となる。

6. 長尾政景の人物像と評価

長尾政景がどのような人物であったかについては、断片的な史料や逸話から推測するほかない部分が多いが、いくつかの側面が浮かび上がってくる。

  • 史料から読み解く性格と能力
    長尾政景の生涯を追うと、まずその気骨ある性格が窺える。当初、長尾景虎(上杉謙信)の家督相続に反発し、坂戸城に籠って反旗を翻した行動は、自らの信念や上田長尾氏の立場を貫こうとする強い意志の表れと見ることができる 3。しかし、一度降伏して臣従した後は、一転して謙信に忠誠を尽くし、その重臣として活躍した 3。この変節とも見える行動は、戦国武将特有の現実主義的な判断力と、状況に応じて立場を変えることのできる柔軟性を備えていたことを示唆している。
    また、弘治2年(1556年)に謙信が出家しようとした際には、これを諫止するために説得にあたったとされる逸話は 2、政景が主君に対して臆することなく意見具申できる人物であり、かつ謙信からそれを受け入れられるだけの信頼を得ていたことを物語っている。さらに、春日山城の留守居役という重要任務を幾度も任されたことから 2、単なる武勇だけでなく、統率力や政治的手腕にも長けていたと考えられる。
    一部の記述には、政景が「景虎公のために働けることに誇りと喜びを感じていた」「その器の大きさゆえに、わらわは心から仕えることができた」と謙信への敬慕の念を抱いていたとされるものがあるが 34、これは後世の創作である可能性が高く、一次史料による裏付けがない限り、慎重な扱いが必要である。
    総じて、政景は、武将としての勇猛さと、政治家としての判断力・交渉力を兼ね備え、一度主従関係を結んだ相手には義理堅く仕える一方で、自家の存続と発展のためには大胆な行動も辞さない、戦国時代を生きた典型的ながらも有能な武将であったと評価できよう。
  • 同時代及び後世における評価の変遷
    長尾政景に対する評価は、同時代から後世にかけて、その立場や上杉家との関係性の変化に伴い、一様ではなかったと考えられる。
    同時代における評価の一端を示すものとして、彼の父・長尾房長の「叛服常無き遍歴」が影響し、「上田衆」という言葉自体が、政景の息子である上杉景勝の代に至るまで、越後国内で一種の差別的な感情を込めて語られたという記録がある 2。これは、政景個人への評価というよりも、上田長尾氏という家系が、府中長尾氏を中心とする勢力から、必ずしも全面的には信頼されていなかった、あるいは警戒されていた可能性を示唆している。謙信に重用された後も、その出自に起因する微妙な立場に置かれていたのかもしれない。
    後世の評価においては、政景が上杉謙信の義兄であり、かつ謙信の後継者となった上杉景勝の実父であるという点が大きく影響したと考えられる。特に、景勝が初代藩主となった米沢藩においては、藩祖の実父として、その評価に一定の配慮がなされた可能性は否定できない。
    また、その死因が謎に包まれ、謀殺説などが語り継がれていること自体が、彼が歴史上注目されるに足る人物であったことの証左とも言える。悲劇的な最期は、人々の同情や関心を集めやすく、様々な物語を生み出す要因となったのであろう。
  • 関連する逸話(婿の胴上げなど)
    長尾政景に関連する興味深い逸話として、「婿の胴上げ」の風習を創始したというものがある 2。これは、現在の新潟県南魚沼市塩沢地区に伝わる奇習で、毎年2月に行われる「塩沢婿の入祭り」の際に、前年に結婚した婿を胴上げするというものである。伝承によれば、政景が坂戸城主であった時代に、城下の繁栄と立派な農兵を育成するため、婿に来ることを喜び、祝うためにこの行事を始めたとされている 35。
    この逸話が史実であるかどうかの確証は別途必要であるが、もし事実であれば、政景の豪放な一面や、領民との融和を図ろうとする為政者としての側面、さらには地域文化の形成に影響を与えた可能性を示すものとして興味深い。このような伝承が現代にまで残っていること自体が、長尾政景という人物が、単なる歴史上の武将としてだけでなく、地域社会において記憶され、語り継がれる存在であったことを示している。

7. 関連史料と研究史

長尾政景の実像に迫るためには、関連する史料の丹念な読解と、これまでの研究成果の把握が不可欠である。

  • 一次史料の概要(『上杉家文書』、『歴代古案』、『越後過去名簿』など)
    長尾政景に関する一次史料として最も重要なものの一つが、『上杉家文書』である。これには、政景が発給した、あるいは政景に宛てられた書状などが含まれている可能性が高い 16。特に、上越市が編纂した『上越市史 別編1 上杉氏文書集1』には、天文21年(1552年)5月24日に前関東管領の上杉憲政(法名:成悦)が政景に送った書状や、永禄3年(1560年)4月21日に同じく憲政(法名:光哲)が政景に送った書状などが収録されていることが確認されている 37。これらの書状の内容を詳細に分析することは、政景の具体的な活動や、当時の関東管領家との関係、越後国内の政治情勢を明らかにする上で極めて重要である。
    また、『歴代古案』は、上杉謙信の出家騒動に関する記述を含んでおり、その際に政景が果たした役割を考察する上で参考になる史料である 15。さらに、羽下徳彦氏の研究によれば、政景の死因を巡る議論において、『歴代古案』と後述する『下平文書』が重要な手がかりを提供する可能性があると指摘されている 2。
    高野山清浄心院に伝わる『越後過去名簿』は、黒田秀忠の没年に関する新たな情報を提供し、長尾晴景と景虎(謙信)の対立時期の再検討に繋がった史料として注目される 11。直接政景に関する記述がなくとも、当時の越後国内の情勢を理解する上で間接的に役立つ可能性がある。
    これらの一次史料は、断片的な記述が多い場合もあるため、それぞれの史料を個別に検討するだけでなく、他の関連史料と照らし合わせ、総合的に解釈していく地道な作業が求められる。
  • 二次史料・軍記物の扱い(特に『北越軍談』の史料的価値)
    長尾政景に関する記述、特にその死因(宇佐美定満謀殺説)や人物像について、後世に大きな影響を与えた二次史料として『北越軍談』が挙げられる 2。これは江戸時代に成立した軍記物語であり、上杉謙信の英雄譚を中心に、多くの逸話や合戦の様子が生き生きと描かれている。
    しかし、『北越軍談』は、歴史的事実と異なる記述や、編者による創作・脚色が多く含まれていることが研究者によって指摘されており、史料としての価値については慎重な吟味が不可欠である 25。例えば、長尾政景の死に関する宇佐美定満の関与なども、そのドラマ性から広く知られているものの、一次史料による裏付けは確認されていない。また、『北越軍談』の記述に基づいて、宇佐美定満の活躍がことさらに強調された合戦図屏風が制作された例もあり 25、この物語が当時の人々の歴史認識に与えた影響の大きさが窺える。
    学術的な報告書においては、『北越軍談』のような二次史料の記述を鵜呑みにするのではなく、必ず一次史料との比較検討を行い、どこまでが史実を反映し、どこからが後世の創作や脚色であるのかを批判的に検証する姿勢が求められる。ただし、二次史料がなぜそのような記述をするに至ったのか、その成立背景や編者の意図などを考察することは、歴史像の形成過程を理解する上で有益である。
  • 長尾政景に関する主要な研究とその動向
    長尾政景個人に焦点を当てた包括的な研究は、その子である上杉景勝や主君である上杉謙信に関する研究に比べると、必ずしも多いとは言えない。しかし、特定のテーマ、特にその死因や本拠地であった坂戸城に関しては、専門的な研究が進められている。
    政景の死因、とりわけ下平吉長による謀殺説と、それに関連する史料(『下平文書』、『歴代古案』)を扱った重要な研究として、羽下徳彦氏の論文「長尾政景の死と下平文書の行方 : 『歴代古案』校訂補正并解題補遺・その一」(書籍『中世の社会と史料』所収)が挙げられる 2。この論文の具体的な内容と結論を正確に把握し、検討することが、本報告書における政景の死因に関する考察の質を高める上で不可欠である。
    また、長尾政景の居城であった坂戸城跡については、旧六日町教育委員会(現南魚沼市教育委員会)による発掘調査が行われており、その成果は報告書としてまとめられている 43。考古学的な調査に加え、城郭史の観点からは、新井寛励氏 47、青木英治氏 47、田嶌貴久美氏 48 などによる研究があり、坂戸城の構造、規模、機能、そして歴史的変遷を明らかにする上で重要な知見を提供している。
    これらの先行研究を丹念に渉猟し、その成果と課題を整理することは、本報告書が長尾政景の実像に迫る上で、そして何らかの新しい視点や解釈を提示する上で、極めて重要となる。

8. おわりに

本報告書では、戦国時代の越後における有力武将、長尾政景の生涯、上杉謙信との関係、具体的な事績、そして謎に包まれた死について、現存する史料と先行研究に基づいて多角的に検討を試みた。

長尾政景は、上田長尾氏の当主として、当初は長尾景虎(上杉謙信)と敵対したものの、降伏後はその義兄かつ重臣として謙信を支え、越後の安定と上杉氏の発展に貢献した。春日山城の留守居役を任されるなど、謙信からの信頼は厚く、政治・軍事両面で重要な役割を担ったと考えられる。また、その子・長尾顕景(後の上杉景勝)が謙信の養子となり上杉家の家督を継承したことは、政景の歴史的意義を一層高めるものである。これにより、上田長尾氏の血脈が上杉宗家を継ぐという、戦国時代ならではの劇的な展開がもたらされた。

しかしながら、政景の具体的な政治活動や領国経営の実態、軍事指揮官としての詳細な戦歴については、史料的な制約から未だ不明な点が多い。人物像についても、断片的な逸話や行動からの推測に頼らざるを得ない部分が残る。そして最大の謎は、永禄7年(1564年)のその死である。事故死説、宇佐美定満による謀殺説、下平吉長による謀殺説など、諸説が入り乱れているが、いずれも決定的な証拠に欠け、真相は依然として歴史の闇の中にある。

今後の研究課題としては、まず『上杉家文書』をはじめとする一次史料の更なる網羅的な調査と精密な読解が挙げられる。特に、政景自身が発給した書状や、彼に宛てられた書状の中に、これまで見過ごされてきた情報が含まれている可能性も否定できない。また、羽下徳彦氏が指摘した『下平文書』や『歴代古案』の再検討は、死因の謎を解明する上で引き続き重要なテーマとなるであろう。坂戸城跡の考古学的調査の進展も、政景の領主としての実態や、当時の上田長尾氏の勢力基盤を明らかにする上で期待される。

長尾政景は、上杉謙信という稀代の英雄の影に隠れがちな存在かもしれない。しかし、その生涯は、戦国中期の越後における複雑な政治力学と、主家と国人領主、あるいは国人領主間のダイナミックな関係性を如実に示す好例である。彼の存在を深く掘り下げることは、上杉氏の歴史のみならず、戦国時代の地域権力のあり方や武士社会の実像を理解する上で、豊かな示唆を与えてくれるに違いない。本報告書が、その一助となることを願うものである。

引用文献

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