最終更新日 2025-07-02

長連龍

一族の悲劇を越え、加賀藩の礎を築いた不屈の武将 ― 長連龍の生涯

序章:能登の激動を生き抜いた武将、長連龍

戦国時代という未曾有の動乱期において、一人の武将が辿った生涯は、しばしばその時代の縮図となる。天文15年(1546年)に能登国の有力国人の家に生を受け、元和5年(1619年)に74年の生涯を閉じるまで、長連龍(ちょう つらたつ)の人生は、まさにその典型であった 1 。彼は、主家の衰退、外部勢力の介入、そして味方の裏切りによる一族の惨殺という絶望的な悲劇を経験する。しかし、その悲劇を復讐への凄まじい執念へと昇華させ、織田信長という当代随一の権力者の後援を得て再起。ついには仇敵を悉く討ち果たし、能登の旧領を回復した。

信長の死後は、新たな北陸の覇者である前田利家の与力、そして家臣となり、賤ヶ岳の戦いや浅井畷の戦いといった数々の合戦で、その武勇と将器を遺憾なく発揮した 3 。その功績と、信長から直接所領を安堵されたという特異な出自は、彼とその子孫に加賀藩内で特別な地位をもたらす。最終的に長家は、加賀百万石を支える最高位の家臣団「加賀八家」の筆頭格として、幕末まで続く名門の礎を築くに至った 5

本報告書は、長連龍の個人的な生涯を追うに留まらない。能登畠山氏の脆弱な権力構造、織田・上杉両雄の北陸戦略、そして加賀藩前田家における彼の特異な政治的地位という三重の文脈の中に彼を位置づけ、一族滅亡の悲劇から加賀藩の重鎮へと至る、その波乱に満ちた生涯の全貌を、詳細かつ徹底的に解明することを目的とする。


表1:長連龍 略年表

西暦(和暦)

連龍の年齢

主要な出来事

主君・関連勢力

1546年(天文15年)

0歳

能登畠山氏家臣・長続連の三男として誕生。幼名、萬松 4

畠山氏

不詳

-

臨済宗の門に入り、孝恩寺住職「宗顒」となる 4

-

1577年(天正5年)

32歳

七尾城の戦い 。上杉謙信の侵攻に対し、信長への援軍要請の使者となる。その間に遊佐続光らの裏切りで父・続連、兄・綱連ら一族が謀殺される 9

畠山氏→織田信長

1578年(天正6年)

33歳

還俗。上杉謙信の急死を機に、織田方の支援を得て故城・穴水城を奪還。復讐戦を開始する 8

織田信長

1580年(天正8年)

35歳

菱脇の戦いなどで功を挙げ、信長より能登鹿島半郡を安堵され、福水城主となる 8

織田信長

1581年(天正9年)

36歳

前田利家が能登国主となり、その与力(与力大名)となる 4

織田信長(前田利家)

1582年(天正10年)

37歳

荒山合戦で仇敵の温井・三宅氏を討ち、復讐を完遂。本能寺の変後は正式に前田家臣となる 4

前田利家

1583年(天正11年)

38歳

賤ヶ岳の戦い 。敗走する前田軍の殿を務め、多大な犠牲を払いながら利家を救う 4

前田利家

1584年(天正12年)

39歳

末森城の戦い 。佐々成政の侵攻から前田領を守る 8

前田利家

1600年(慶長5年)

55歳

浅井畷の戦い 。関ヶ原の戦いに連動した北陸の戦いで、再び殿を務め前田利長軍の危機を救う 8

前田利長

1611年(慶長16年)

66歳

隠居していたが、嫡男・好連の早世により家督に復帰 7

前田利長

1614-15年(慶長19-元和元年)

69-70歳

大坂の陣 。老齢ながら前田利常軍に従い冬・夏両陣に参加 7

前田利常

1619年(元和5年)

74歳

能登田鶴浜の館にて死去。家督は次男の連頼が継ぐ 1

前田利常


第一部:能登畠山氏の臣、そして仏門へ

第一章:長氏の出自と能登における台頭

長連龍の運命を理解するためには、まず彼が属した長氏の歴史的背景と、当時の能登国における政治的力学を把握する必要がある。

長氏は、その祖を鎌倉幕府の御家人であった長谷部信連(はせべ のぶつら)に遡る、能登国における屈指の名門国人領主であった 6 。信連は源平合戦の功により、幕府から能登国大屋荘(現在の石川県鳳珠郡穴水町周辺)の地頭職を与えられ、この地に根を下ろした 6 。その子孫がやがて姓を「長」と改め、代々穴水城を本拠として勢力を扶植していった 17

室町時代に入り、足利一門の名家である畠山氏が能登守護に任じられると、長氏はその被官となる。しかし、彼らは単なる家臣ではなく、能登国最大の在地領主としての実力を保持し続けた。連龍の父である長続連(ちょう つぐつら)の時代には、その影響力は頂点に達する。当時の能登畠山氏は、当主の権威が失墜し、領国統治は「畠山七人衆」と呼ばれる七人の有力重臣による合議制によって運営されていた 12 。続連はこの七人衆の一角を占め、主家の政治を左右するほどの力を持つに至っていたのである 12


表2:長氏関連略系図

Mermaidによる関係図

graph TD A[長 続連 (父・19代当主)] --> B[長 綱連 (兄・20代当主)]; A --> C[ 長 連龍 (本人・21代当主)]; B --> D[玉 (綱連の娘)]; D -- 正室として婚姻 --> C; C --> E[長 好連 (嫡男・22代当主)]; C --> F[長 連頼 (次男・23代当主)]; G[前田利家] --> H[福 (利家の娘)]; H -- 婚姻 --> E; I[前田利常] --> J[栗 (連龍の娘)]; J -- 側室 --> I; subgraph 長家 A; B; C; D; E; F; J; end subgraph 前田家 G; H; I; end style C fill:#f9f,stroke:#333,stroke-width: 4.0px;

注:本系図は長連龍を中心とした主要人物の関係性を簡略化して示している。連龍の妻・玉は、兄・綱連の娘であり、この婚姻は一族の結束と家督継承の正当性を強化する意味合いがあった

4

第二章:孝恩寺宗顒 ― 乱世における僧形の武人

天文15年(1546年)、長続連の三男(次男説もあるが、兄が複数いることから三男が有力 4 )として、連龍は生を受けた。幼名は萬松といい、初名は好連(よしつら)であった 4 。兄たちがいたため家督を継ぐ可能性は低く、彼は若くして仏門に入ることになる。能登国熊木の定蓮寺にて臨済宗の僧となり、「宗顒(そうぎょう)」と号した 4

やがて孝恩寺の住職となった彼は、その寺名から「孝恩寺」を通称とし、僧籍にありながらも、しばしば戦場にその姿を現したと記録されている 4 。これは、当時の能登の政情がいかに流動的であり、武家の人間が一度仏門に入ったとしても、俗世の武力闘争と完全に無縁ではいられなかった現実を如実に物語っている。

この背景には、主家である能登畠山氏の統治体制そのものが抱える構造的欠陥があった。名門守護大名でありながら、その実権は「畠山七人衆」という有力国人たちの手に移り、当主は有名無実化していた 12 。この権力構造は、守護代を世襲してきた譜代の家臣である遊佐氏と、在地領主から台頭した長氏や温井氏といった新興勢力との間で、絶え間ない権力闘争の温床となっていた 22 。この内部対立は、単なる家中の派閥争いに留まらなかった。東から天下布武を掲げて勢力を拡大する織田信長と、北から越後統一を成し遂げた上杉謙信という二大勢力が北陸で睨み合う中、畠山家中の対立は、親織田派(長氏)と親上杉派(遊佐氏)という、外部勢力の代理戦争の様相を呈していく。長連龍を待ち受ける一族滅亡の悲劇は、この能登畠山氏の統治体制の崩壊と、外部勢力の介入という、マクロな歴史的潮流が交差した地点で発生する必然的な帰結だったのである。

第二部:一族の滅亡と復讐の鬼

第一章:七尾城の悲劇 ― 上杉謙信の能登侵攻

天正年間に入ると、織田信長と上杉謙信の対立は決定的となり、両者の勢力圏が接する北陸、特に能登・加賀地域は、覇権を争う最前線となった 23

天正5年(1577年)、上杉謙信は2万ともいわれる大軍を率いて能登へ侵攻する。能登畠山氏の実権を握る親織田派の長続連・綱連父子は、日本五大山城の一つに数えられる堅城・七尾城に1万5千の兵と共に籠城し、徹底抗戦の構えを見せた 9 。戦況が膠着し、長期化の様相を呈すると、続連は起死回生の一手として、僧籍にあった息子の宗顒(連龍)を安土の織田信長のもとへ派遣し、援軍を要請した 4 。この使者としての役割が、皮肉にも彼一人が一族の悲劇から生き残る結果をもたらす。

信長は柴田勝家を総大将とする3万の援軍を派遣するが、その到着は間に合わなかった。長期にわたる籠城戦で城内には疫病が蔓延し、兵士たちの士気は著しく低下、幼き当主・畠山春王丸までもが病死する有様であった 9 。この絶望的な状況を好機と見たのが、かねてより長氏と家中の主導権を争っていた親上杉派の重臣・遊佐続光であった。彼は温井景隆らと共謀し、上杉軍に内応。天正5年9月15日、月明かりの夜に城内で反乱を起こし、城門を開け放った 9 。城内になだれ込んだ上杉軍によって、長続連、綱連をはじめ、その弟たち、そして綱連の子ら長一族100余名はことごとく謀殺された 9 。この裏切りにより、170年続いた能登畠山氏は事実上滅亡し、七尾城は陥落したのである。

第二章:執念の再起 ― 織田信長の後援

安土で信長の援軍派遣の約束を取り付けた連龍のもとに届いたのは、一族尽くが惨殺されたという非情な知らせであった。彼は直ちに還俗し、「好連」を名乗る 1 。故郷能登に戻った彼が目にしたのは、浜辺に無残に晒された父や兄、一族郎党の首であったという 12 。この瞬間、彼は復讐の鬼と化した。その執念は凄まじく、後に主君となる信長が「もはやこれまで」と諫めても、決して聞き入れなかったと伝えられる 12

連龍の復讐行は、単なる個人的な感情の発露に終わらなかった。彼の「一族の仇を討つ」という強烈な動機は、織田信長の「上杉勢力を能登から駆逐し、北陸を平定する」という地政学的な戦略目的と完全に一致した。信長にとって、土地勘があり、かつ強烈な動機を持つ連龍は、能登攻略のためのまたとない尖兵であった。一方、連龍にとって、信長の後ろ盾は、独力では到底不可能な復讐を成し遂げるための唯一の道であった。

この両者の利害の一致に、天運が味方する。天正6年(1578年)3月、越後の龍・上杉謙信が急死。上杉家ではその後継を巡って「御館の乱」と呼ばれる内紛が勃発し、能登における上杉方の支配体制は大きく揺らいだ 5

この千載一遇の好機を、連龍は見逃さなかった。彼は自ら浪人衆500を集め、同じく織田方であった越中の神保氏張らの支援を得て、一族の故城である穴水城を上杉方から奪還することに成功する 8 。これを皮切りに、柴田勝家、前田利家、佐久間盛政ら織田の北陸方面軍と連携し、仇敵である遊佐・温井・三宅氏らと能登・越中の各地で激戦を繰り広げた(菱脇の戦いなど) 1 。そして天正10年(1582年)、石動山系の荒山砦を巡る戦い(荒山合戦)において、ついに宿敵・温井景隆と三宅長盛を討ち取り、七尾城陥落から5年の歳月を経て、積年の恨みを晴らしたのであった 12

第三部:加賀藩の重鎮 ― 前田利家の与力として

第一章:能登統治と前田氏との関係構築

復讐戦における目覚ましい活躍により、長連龍の武名は織田家中に轟いた。天正8年(1580年)、信長は連龍の功績を認め、能登国羽咋郡福水に城を構えることを許し、鹿島半郡の所領を正式に安堵した 5 。この時、連龍が信長から直接下賜された「天下布武」の朱印状は、単なる恩賞以上の意味を持っていた 31 。それは、彼の領主としての正統性が、織田政権という当時の最高権力によって直接保証されたことを示すものであり、後の彼の政治的地位を決定づける重要な証左となったのである 10

翌天正9年(1581年)、信長は能登一国を重臣の前田利家に与えることを決定する 11 。これにより、連龍は形式上、利家の指揮下に入ることになった。しかし、彼の立場は単なる利家の家臣ではなく、信長から直接所領を得た「与力」、いわば半独立的な性格を持つ同盟者に近い「与力大名」であった 4 。この特異な関係性は、前田家における長家の地位を終始特別なものにした。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が横死するという激震が走る。共通の主君を失った後、連龍はそのまま前田利家の家臣となり、旧主信長に代わって利家への忠誠を誓った 4 。同年、天神山城(石動山)の攻略戦などに参加し、その戦功によって能登国内で3万1千石の知行を与えられている 4

第二章:歴戦の武将 ― 前田家を支えた数々の合戦

前田家臣となった連龍は、その生涯で41回の合戦に参加したと伝えられるほどの歴戦の勇将であり、利家とその後の前田家が直面した数々の危機において、その真価を発揮した 7

  • 賤ヶ岳の戦い(1583年): 信長の後継者を巡る羽柴秀吉と柴田勝家の決戦において、勝家方についた利家は敗北を喫し、絶体絶命の危機に陥る。この時、連龍は全軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ「殿(しんがり)」という最も危険な任務を引き受けた。自らの家臣30名以上が討死するという多大な犠牲を払いながらも、秀吉軍の猛追を食い止め、主君・利家を無事に越前府中へと撤退させることに成功した 4
  • 末森城の戦い(1584年): 秀吉と敵対した越中の佐々成政が、加賀と能登の連絡路を断つべく、国境の要衝・末森城に1万5千の大軍で攻め寄せた。城将・奥村永福らが寡兵で持ちこたえる中、金沢城から急報を受けた利家は救援に出陣。連龍もこの一連の攻防に加わり、利家の領国を守り抜く上で重要な役割を果たした 8
  • 関ヶ原と浅井畷の戦い(1600年): 天下分け目の関ヶ原の戦いに際し、徳川方についた前田利長(利家の嫡男)は、西軍の丹羽長重が守る加賀小松城を攻め落とした。しかし、その後の撤退行において、丹羽軍の激しい追撃を受ける。豪雨が降りしきり、鉄砲が使えず、狭い畷(あぜ道)で大軍の利を活かせないという最悪の状況下で、連龍は再び殿軍の指揮を執った。山崎長徳らと共に奮戦し、多くの家臣を失いながらも丹羽軍を撃退。前田軍本隊の壊滅を防ぎ、金沢への無事の帰還を成功させた 8

これらの戦功、特に二度にわたる殿軍での働きは、長連龍の武将としての評価を不動のものとした。利家が死の床で嫡男・利長に遺した書状の中で、キリシタン大名として知られる高山右近と共に、連龍の名を挙げて「役に立つ人材である」と高く評価していることは、その信頼の厚さを物語っている 4

第三章:晩年と大坂の陣

数々の戦乱を乗り越えた連龍にも、平穏な晩年が約束されたわけではなかった。慶長11年(1606年)、61歳になった連龍は家督を嫡男の好連に譲り、隠居生活に入る。しかし、そのわずか5年後の慶長16年(1611年)、好連が父に先立って30歳の若さで急逝してしまう 4 。次男の連頼はまだ6歳と幼かったため、連龍は再び当主の座に復帰し、政務を執ることになった 7

慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて、豊臣家と徳川家の最終決戦である大坂の陣が勃発すると、連龍は70歳近い老齢にもかかわらず、これが初陣であった若き三代藩主・前田利常を支えて出陣。冬の陣・夏の陣の両方に従軍し、戦国時代最後の戦いまで戦い抜いた 4

全ての戦が終わり、世に太平が訪れた元和5年(1619年)2月3日、長連龍は自身の隠居所であった能登田鶴浜の館にて、波乱に満ちた74年の生涯に幕を下ろした 1

終章:長連龍の遺産

第一章:加賀八家・長家の祖として

長連龍の死後、家督は次男の連頼が継いだ。連龍が築き上げた功績と、織田信長から直接所領を安堵されたという政治的遺産は、長家を加賀藩の中で特別な存在として位置づけた。

やがて加賀藩の藩政が安定すると、藩の年寄(家老)職を世襲する八つの重臣家が定められ、「加賀八家」と呼ばれるようになる 38 。長家はその石高(最終的に3万3千石)と由緒から、本多家に次ぐ筆頭格の家として、幕末に至るまで加賀藩の重鎮であり続けた 1

長家の特異な地位を象徴する事象は二つある。一つは、その知行地である能登鹿島半郡において、他の家臣とは一線を画す半独立的な支配権を長く保持し続けたことである 10 。もう一つは、連龍の墓所が、前田家歴代藩主が眠る金沢の野田山ではなく、自身の所領であった能登田鶴浜の東嶺寺に築かれたことである 5 。これは、彼が前田家臣団の頂点にありながらも、能登に根差した独立領主としての側面を持ち続けたことの証左と言えよう。

長家の血脈は明治維新後も続き、士族に列せられた後、明治33年(1900年)には長年の功績が認められ、当主が男爵に叙せられて華族となった 6 。その子孫は現代にも続いており、祖先の地である穴水町の名誉町民に推挙されるなど、地域との深い絆を保っている 6

第二章:能登に残る連龍の足跡

長連龍の遺産は、政治的なものに留まらない。彼は領国経営者として、また文化のパトロンとして、能登の地に今なお残る足跡を刻んでいる。

彼は、晩年の本拠地とした田鶴浜の町立てを行い、その発展の基礎を築いたとされる 41 。また、彼の菩提寺である東嶺寺を改築する際、尾張から優れた指物師を招いた。その宮大工たちが伝えた高度な技術が、地元の人々に受け継がれ、今日まで続く伝統工芸「田鶴浜建具」の起源になったと伝えられている 43 。これは、彼が単なる武人ではなく、地域の産業や文化の振興にも目を向けた領主であったことを示している。

さらに、彼の祖先である長谷部信連を祀る祭礼に由来する「長谷部まつり」が穴水町で毎年開催され、その行列には連龍の子孫が主役として参加するなど、その存在は400年の時を超えて、能登の地に深く根付いているのである 40

長連龍の生涯は、戦国時代の独立性の高い国人領主が、近世の安定した幕藩体制下でいかにして生き残り、繁栄の礎を築いたかを示す、巧みな「ソフトランディング」の成功例として評価できる。彼は、一族滅亡という最大の危機を、織田信長という中央の最高権力者と直結することで乗り越え、自らの正統性を再確立した。次いで、新たな地域覇者である前田利家に対し、卓越した軍事的能力をもって絶対的な忠誠を示し、不可欠な存在としての信頼を勝ち取った。この過程で、信長から得た「お墨付き」を政治的な切り札として巧みに利用し、前田家中に完全に吸収されることなく、一族の特権と半独立性を維持することに成功したのである。

かくして長連龍は、戦国武将としての矜持と実利を保持したまま、近世大名の高級家臣という安定した地位へと移行を遂げた。その生涯は、復讐の執念に始まり、武勇と忠義に貫かれ、そして政治的な慧眼によって締めくくられた、まさに戦国の激動と近世の黎明を体現するものであったと言えよう。

引用文献

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  44. 田鶴浜町 https://www.city.nanao.lg.jp/koho/shise/koho/kohonanao/h19/documents/2_2.pdf
  45. 水良し、空気良し、緑良し、人情もまた良し、田鶴浜(たつるはま) - 能登スタイル https://notostyle.jp/?p=1143