最終更新日 2025-07-04

長野業盛

報告書:『箕輪の山里に散る―若き城主・長野業盛の生涯と時代』

序章:戦国上州に散った若き獅子、長野業盛

戦国時代の日本列島を席巻した数多の英雄譚の陰で、その名を歴史の奔流に刻みながらも、悲劇的な結末を迎えた武将は少なくない。上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)箕輪城の最後の城主、長野業盛(ながのなりもり)もまた、そうした人物の一人である。彼の名は、しばしば「甲斐の虎」武田信玄の圧倒的な力の前に屈した悲運の若き城主として語られる。しかし、その短い生涯を単なる悲劇として片付けることは、彼が生きた時代の複雑さと、彼が背負った宿命の重さを見過ごすことにつながる。

長野業盛の生涯は、戦国時代における地方国人領主の栄光と、その限界を体現する象徴的な事例である。彼が治めた上野国は、越後、信濃、武蔵を結ぶ交通の要衝に位置し、東国の覇権を目指す武田信玄、上杉謙信、そして後北条氏という三大勢力にとって、その支配は死活的に重要な意味を持っていた 1 。業盛の物語は、この地政学的な宿命を背景に、偉大な父の遺産を継承し、巨大な奔流に抗い、そして散っていった若き獅子の記録に他ならない。

本報告書は、長野業盛という一人の武将の生涯を、その出自から最期、そして後世に残した影響に至るまで、徹底的に掘り下げることを目的とする。その過程で、同時代史料と後世の軍記物語を比較検討し、史実と伝承を峻別しながら、彼の人物像と時代の全体像を多角的に再構築する。特に、武田氏の視点から描かれた『甲陽軍鑑』や、長野氏の活躍を伝える『箕輪軍記』といった史料は、貴重な伝承や当時の価値観を内包する一方で、年次比定の誤りや戦闘描写における誇張、創作を含む二次史料としての性格を持つ 5 。したがって、これらの記述は、史料批判の視点を保持しつつ、慎重に扱うこととする 7 。長野業盛の悲劇を通して、我々は戦国乱世の非情さと、その中で己の義と誇りを貫こうとした人々の姿を目の当たりにするであろう。

第一章:上野長野氏の系譜と台頭

長野業盛の悲劇を理解するためには、まず彼がその血を引く上野長野氏の歴史的背景と、彼らが築き上げた勢力基盤を把握する必要がある。上野長野氏は、戦国時代に上野国西部を支配した大身の武士であり、その出自は伝説と現実が交錯する複雑な様相を呈している。

出自の伝説と実像

長野氏の出自については、複数の伝承が存在する。最も有名なものは、『伊勢物語』の主人公としても知られる平安時代の歌人、在原業平(ありわらのなりひら)を祖とする説である 13 。永禄年間のものとされる『長野信濃守在原業政家臣録』にも在原姓が見られることから、長野氏自身がこの貴種としての系譜を意識し、権威付けに用いていたことがうかがえる 14 。しかし、これを裏付ける同時代の確かな古文書は存在せず、今日では伝説の域を出ないとされるのが一般的である 13

一方で、より現実的な出自として、物部氏系の石上(いそのかみ)姓を名乗っていた可能性や、国衙(こくが)行政を担った在庁官人(ざいちょうかんにん)の出身であるという説が指摘されている 13 。連歌師・宗長が記した『東路の津登』には、長野氏の姓が石上であったと記されており、これは物部氏との関連を示唆する 16 。在庁官人出身という説は、長野氏が単なる武力集団ではなく、古くから上野国の行政に深く関与し、地域に根差した実力者であったことを物語る 13

これらの異なる出自説は、矛盾するものではなく、むしろ長野氏のアイデンティティの二重性を示していると解釈できる。すなわち、彼らは在庁官人として地域社会に根を張る土着の支配者であると同時に、在原業平という中央の名門貴族に連なるという「貴種意識」を掲げることで、自らの支配の正統性を内外に示そうとしたのである。この実務能力と権威の両立こそが、後に彼らが上野西部の国人衆を束ねる「箕輪衆」の旗頭となり得た要因の一つと考えられる。

本拠地の変遷と勢力拡大

長野氏の本拠地は、その名の由来ともなった上野国群馬郡長野郷(現在の高崎市浜川町周辺)であったとみられている 13 。彼らの歴史が明確になるのは室町時代中期以降であり、当初は浜川に館を構えていたとされる 16 。その後、より防御に適した地を求め、まず鷹留城(たかとめじょう)を築き、最終的に永正年間(1504年-1521年)頃に長野業尚(なりひさ)またはその子・憲業(のりなり)によって、難攻不落の要塞となる箕輪城(みのわじょう)が築かれた 16 。この本拠地の変遷は、長野氏が単に一地域に留まるのではなく、より広域を支配する戦略的拠点へと勢力を拡大させていった過程を明確に示している。

山内上杉家臣としての地位と自立

戦国時代中期まで、上野国は関東管領・山内上杉氏の領国であった。長野氏は当初、その有力な家臣として、上野西部の国人領主たちを取りまとめ、「箕輪衆」と呼ばれる武士団を形成し、主家である上杉氏やその守護代であった長尾氏に仕えていた 13

しかし、15世紀後半から続く享徳の乱や長尾景春の乱といった内乱は、関東管領上杉氏の権威と実力を著しく低下させた 21 。主家の衰退とは対照的に、長野氏は箕輪城を拠点に着実に勢力を拡大し、上杉家中の有力者としての地位を確立していく 17 。大永7年(1527年)には、長野方業(まさなり、後の業正か)が、主家筋である総社長尾氏を攻撃するという、下剋上的な動きも見せている 13

一般的に長野氏は「上杉家への忠臣」というイメージで語られがちだが、これは後世に形成された側面が強い。史実を追うと、彼らの行動は常に自家の存続と利益を最優先する、戦国武将としての現実主義に貫かれていたことがわかる。天文15年(1546年)の河越夜戦で山内上杉氏が大敗を喫し、後北条軍が武蔵国へ進出してくると、長野氏は安中氏などと共に後北条方へと離反している 13 。この離反は、主君・上杉憲政が本拠の平井城を捨てて越後へ逃れる一因となった。その後、永禄3年(1560年)に上杉謙信が憲政を奉じて関東へ出兵すると、今度は真っ先に謙信に内応し、再び上杉方へと帰参している 13 。これは裏切りではなく、激動する関東の情勢の中で、自家の生き残りをかけた巧みな外交戦略であったと評価すべきであろう。

第二章:父・長野業正―「上州の黄斑」の栄光と遺産

長野業盛の生涯を語る上で、その父である長野業正(ながのなりまさ、業政とも記される)の存在は欠かすことができない。業正は、長野氏の全盛期を築き上げた稀代の将であり、その存在そのものが、業盛の運命を大きく規定することになった。

「上州の黄斑」の実像

長野業正は、延徳3年(1491年)に生まれたとされる 1 。彼はその武勇と智略から、後世「上州の黄斑(こうはん)」(黄斑とは、まだら模様を持つ猛虎の意)と称される猛将であった 13 。その評価を何よりも雄弁に物語るのが、宿敵・武田信玄の言葉である。信玄は、「業正が生きている限り、上州には手が出せない」と嘆いたと伝えられており、これは敵将からの最大級の賛辞と言える 25 。業正の強さは、単なる個人的な武勇に留まらなかった。彼は箕輪城を難攻不落の要塞へと改修し、領民を大切にする善政を敷き、家臣領民から絶対的な信頼を得ていた 1

対武田戦略―防衛網の構築

業正の戦略の真骨頂は、箕輪城を中心とした広域防衛システムの構築にあった。彼は自らの12人の娘を、小幡氏、和田氏、成田氏といった西上野の有力国人領主たちに嫁がせ、強力な姻戚関係を築き上げた 19 。これにより形成された国人一揆「箕輪衆」は、長野氏の指揮下に結束し、一個の巨大な軍事同盟として機能した 17 。このネットワークは、単なる軍事力ではなく、情報伝達、兵站補給、相互後詰を可能にする、高度な地政学的戦略の産物であった。箕輪城とその支城網は物理的な防衛線であり、箕輪衆はそれを支える人的・政治的な防衛線だったのである。

この堅固な防衛網を以て、業正は弘治3年(1557年)から始まる武田信玄の執拗な西上野侵攻を、永禄4年(1561年)に没するまで、実に6度にもわたって撃退したとされる 25 。信玄は調略を得意とし、力攻めを好まない慎重な将であったが、こと西上野においては、業正という英傑の存在によってその手が通用しなかったのである 27 。業正は、地の利を活かした籠城戦や、敵の意表を突く奇襲戦法を駆使し、信玄率いる甲州の精鋭を何度も撤退に追い込んだ 1

永禄4年(1561年)の死と遺産

しかし、その業正も病には勝てなかった。永禄4年(1561年)6月21日、71歳(異説あり)でその生涯を閉じた 28 。死に際し、業正は「我が死を三年間は秘匿し、決して弔いをしてはならない。そして、上杉を頼り、武田に一寸の土地も渡すな」と遺言したと伝えられる。この遺言は、自らの死が長野家、ひいては西上野全体の防衛網の崩壊に直結することを、誰よりも深く理解していた証左である。

業正の死は、長野氏にとって決定的な転換点となった。彼が築き上げた防衛システムは、強力なリーダーシップと、彼個人のカリスマ、そして複雑な人間関係の上に成り立つ、いわば属人的なものであった。その中核を失った時、システム全体が脆弱性を露呈することは避けられなかった。武田信玄が業正の訃報に接し、「これで上州は手に入ったも同然だ」と大いに喜んだという逸話は 6 、信玄が長野氏の力の源泉を正確に見抜いていたことを示している。

長野業盛が父から受け継いだ遺産は、「難攻不落」と評された箕輪城という物理的な要塞と、一方でいつ崩壊してもおかしくない「脆弱な同盟」という政治的な負債であった。若き業盛は、前者を頼りに奮戦するも、後者の崩壊を食い止めることはできず、これが彼の悲劇の直接的な原因となっていくのである。

第三章:若き城主の家督相続と武田の侵攻

偉大な父・業正の死は、長野氏とその運命共同体であった西上野の国人衆にとって、時代の大きな転換を告げる鐘の音であった。その重責を一身に背負うことになったのが、まだ若き後継者、長野業盛であった。

業盛の誕生と家督相続

長野業盛は、天文13年(1544年)、長野業正の子として生まれた 6 。通称は新五郎 29 。彼の母は保戸田氏の娘とされ、箕輪城の南東に位置する保渡田(ほどた)の出身であった可能性が指摘されている 29 。本来、家督を継ぐはずであった兄・吉業が、天文15年(1546年)の河越夜戦の際の傷が元で若くして亡くなったため、業盛が嫡子となった 29

そして永禄4年(1561年)、父・業正が病没すると、業盛は家督を相続する。その年齢については諸説あるが、『長野氏系図』など信頼性の高い史料によれば17歳であったとされる 29 。父の遺言に従い、その死はしばらく秘匿されたが、やがて「上州の黄斑」の死は、好機を待ち望んでいた武田信玄の知るところとなる 6 。父に劣らぬ武勇の持ち主であったと伝えられる業盛だが 29 、17歳の若者に、百戦錬磨の信玄と渡り合うだけの政治力と経験を期待するのは酷であった。

武田信玄の西上野攻略戦略

信玄にとって、業正の死は千載一遇の好機であった。当時、信玄は越後の上杉謙信と川中島で激しい抗争を繰り広げていたが、その戦略のもう一つの柱が西上野の攻略であった 2 。西上野を制圧することは、謙信の関東における影響力を削ぎ、武田の勢力圏を北関東へと拡大させ、さらには後北条氏との連携を強化する上で不可欠な戦略目標だったのである 3 。信玄は業正の死を知るや、すぐさま後北条氏康との間で、利根川を境として西を武田、東を北条が支配するという密約を結び、西上野の本格的な切り崩しに着手した 27

防衛網の崩壊 (1561-1566年)

業盛の戦いは、永禄9年(1566年)の箕輪城攻防戦という一点に集約されがちだが、実際には家督相続から落城までの5年間、父が築いた防衛網が徐々に、しかし確実に崩壊していくのを食い止めるための、絶望的な防衛消耗戦であった。

武田軍の侵攻は、武力による直接攻撃と、調略による内部分裂を巧みに組み合わせたものであった。

  • 永禄4年(1561年)11月: 信玄はまず、箕輪衆の南端に位置する国峰城を攻略。これにより、長野方の防衛網に最初の亀裂が入る 17
  • 永禄5年(1562年): 箕輪城の南方わずか一里(約4km)に位置する和田城主・和田業繁が調略により武田方に降る 27 。これは長野方にとって致命的な打撃であった。
  • 永禄6年(1563年): 北方では、信玄の腹心である真田幸隆が吾妻郡の要衝・岩櫃城を攻略 27 。これにより、箕輪城は北からの圧力にも晒されることになる。
  • 永禄8年(1565年): 武田軍の攻勢はさらに激化し、倉賀野城、安中城、松井田城といった西上野の主要な城が次々と陥落、あるいは武田方に寝返った 27

この5年間で、かつて業正の下で鉄の結束を誇った「箕輪衆」は完全に瓦解した。業盛は父のように同盟を再結束させる政治力も時間も持たなかった。彼の抵抗は、昨日までの味方が今日の敵となる中で、残されたわずかな兵力と拠点だけで必死に持ちこたえるという、極めて困難な状況下でのものであった。永禄9年(1566年)を迎える頃には、長野氏が頼れる拠点は、本城である箕輪城と、その支城である鷹留城のみとなっていたのである 34

以下の略年譜は、業盛の短い生涯と、彼を取り巻く情勢の激変を時系列で示している。


表1:長野業盛 略年譜

年号(西暦)

業盛の年齢

出来事(長野家関連)

関連する周辺情勢(武田・上杉・北条)

天文13年(1544)

0歳

長野業正の子として誕生 29

天文15年(1546)

2歳

兄・吉業が河越夜戦の傷が元で死去。業盛が嫡子となる 29

山内上杉軍、河越夜戦で後北条軍に大敗。

弘治3年(1557)

13歳

武田信玄による西上野侵攻が本格化する 26

永禄3年(1560)

16歳

上杉謙信、関東管領・上杉憲政を奉じ関東へ出兵 36

永禄4年(1561)

17歳

6月、父・業正が病死し、家督を相続 28

9月、第四次川中島の戦い。11月、武田軍が国峰城を攻略 17

永禄5年(1562)

18歳

和田城主・和田業繁が武田方に降る 34

永禄6年(1563)

19歳

真田幸隆が岩櫃城を攻略 34

永禄8年(1565)

21歳

倉賀野城、安中城、松井田城などが武田軍により陥落 27

永禄9年(1566)

22歳

9月、武田信玄の総攻撃を受け、箕輪城が落城。自刃して果てる 29

武田信玄、西上野の領国化を完了 3


この年表が示すように、業盛の治世は、武田信玄の周到な戦略によって、父の遺産が目の前で一つ、また一つと崩れ去っていくのを為す術もなく見守る、精神的にも極めて過酷な時間であった。彼の最後の戦いは、こうした長い消耗戦の末に訪れた、必然的な結末だったのである。

第四章:箕輪城攻防戦―悲壮なる徹底抗戦

永禄9年(1566年)9月、西上野の諸城をことごとく制圧し、箕輪城を完全に孤立させた武田信玄は、ついに最後の総仕上げに取り掛かった。信玄は、息子の武田勝頼を初陣として伴い、馬場信春、山県昌景、内藤昌豊といった武田四天王をはじめとする主力を動員し、2万と号する大軍で箕輪城に殺到した 27 。対する長野業盛が城内に籠めた兵力は、わずか1500、一説には末期には200名にまで減少していたとされ、その戦力差は絶望的であった 6

戦闘の経過

武田軍の戦略は、箕輪城の最後の支えであった鷹留城との連携を断つことから始まった 34 。鷹留城は箕輪城と相互に後詰を担う「別城一郭」の関係にあったが、武田軍の猛攻の前にあっけなく落城。城主であった長野業通(業盛の叔父)は、かろうじて城を脱出し落ち延びたとされる 31

これにより完全に孤立無援となった箕輪城に対し、武田軍は総攻撃を開始した。城の北方に位置する若田原などで激しい前哨戦が繰り広げられたが、衆寡敵せず、長野軍は城内への撤退を余儀なくされる 34 。信玄は本陣を構え、城の各曲輪に対して波状攻撃を仕掛けた。長野方の将兵は、圧倒的な兵力差にも臆することなく、各持ち場で壮絶な防戦を繰り広げ、多くの者が討死していった 30

家臣たちの奮戦譜

箕輪城の落城戦において、長野家の家臣たちは主君・業盛への忠義を胸に、獅子奮迅の働きを見せた。その戦いぶりは、後世の軍記物語によって語り継がれている。

  • 藤井豊後守友忠: 長野家の家老職を務めた重臣 30 。彼は、城の搦手門を攻める武田勝頼の部隊に対し、わずかな手勢を率いて決死の突撃を敢行した。その猛攻は凄まじく、一時は勝頼の本陣に肉薄し、若き武田の御曹司を討ち取る寸前まで迫ったという 6 。しかし、多勢に無勢、背後から武田家臣・原昌胤(原虎胤の子)に討たれ、壮絶な最期を遂げた 6 。彼の奮戦は、長野武士団の意地と誇りを象徴するものであった。
  • 上泉信綱(伊勢守): 後に剣聖と謳われ、新陰流の開祖となる上泉信綱もまた、長野業正・業盛父子に仕えた重臣の一人であった 38 。彼は「長野十六槍」の一人に数えられ、「上野国一本槍」の感状を受けるほどの槍の名手でもあった 38 。落城の際にも、疋田景兼ら高弟と共に城外へ打って出て奮戦したと伝えられている 6 。彼の存在は、長野家臣団が単なる地方の武士集団ではなく、天下に名の知れた武芸者を擁するほどの、質の高い武力集団であったことを示している。
  • その他の家臣たち: 軍記物には、この他にも多くの家臣たちの名が記されている。軍師格であった室田鷹留城主・石井讃岐守信房、里見河内守宗義、高橋隼人正勝則、鷺坂常陸守長信など、長野家の中核を担った武将たちが、主君と運命を共にし、ことごとく討死した 30 。この徹底した抗戦と多くの家臣の死は、長野氏の支配が単なる主従関係ではなく、強い絆で結ばれた共同体であったことを示唆している。

業盛自身の武勇伝

追い詰められた若き城主・業盛もまた、ただ死を待つだけの人物ではなかった。『箕輪軍記』などの記録によれば、業盛は自ら薙刀を振るい、城門から打って出て武田軍に突撃し、28人もの敵兵を斬り伏せたという 6 。この逸話が史実であるか、あるいは悲劇の若き英雄を飾るための後世の脚色であるかを断定することは難しい。しかし、これが事実であれ創作であれ、長野業盛という武将が、父に劣らぬ武勇の持ち主として記憶され、語り継がれてきたことの証左である。一矢報いた後、城内に戻った業盛は、もはやこれまでと覚悟を決めるのであった。


表2:箕輪城攻防戦 主要参戦武将

役職・立場

主要武将

長野軍

総大将

長野業盛(氏業)

家老・重臣

藤井豊後守友忠、上泉伊勢守信綱(時則)、下田大膳太夫正勝、石井讃岐守信房、里見河内守宗義、長野業固

武田軍

総大将

武田信玄

主要部隊長

武田勝頼、馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、真田幸隆、飯富虎昌、小山田信茂、浅利信種、原昌胤 34


この参戦武将の比較は、戦いの非対称性を如実に示している。長野方が地元の国人衆を中心とした地域連合軍の残存兵力であるのに対し、武田方は信玄麾下の百戦錬磨のスター武将たちで構成された、質・量ともに圧倒的な遠征軍であった。戦いの帰趨は、始まる前からすでに決していたと言っても過言ではなかった。それでもなお、業盛と家臣たちは、武士としての誇りをかけて最後の抵抗を試みたのである。

第五章:落城、そして最期―「名のみぞ残る箕輪の山里」

永禄9年(1566年)9月29日、数日にわたる壮絶な攻防の末、箕輪城の諸曲輪は次々と武田軍の手に落ちた 29 。もはやこれまでと観念した城主・長野業盛は、最後の時を迎える。彼の最期は、戦国時代の「滅びの美学」を象徴する出来事として、今なお多くの人々の心を打つ。

自刃の場所と状況

全ての望みが絶たれたことを悟った業盛は、本丸の北側にあったとされる御前曲輪の持仏堂へと向かった 6 。そこで彼は、偉大なる父・業正の位牌を三度拝み、静かに自らの運命を受け入れた。そして、一族郎党と共に自刃して果てたのである 6 。『長年寺所蔵「長野氏系図」』によれば、享年23であった 6 。彼の遺骸は、その死を哀れんだ僧・法如らによって密かに運び出され、高崎市井出町にある大円寺の墓地に葬られたと伝えられている 5

この最期の場面について、『甲陽軍鑑』は武田方の視点から、「長野信濃守(業政)の女房子供を悉く成敗した」と記している 6 。この記述は、武田軍による殲滅戦の過酷さを示すものとして解釈できるが、史実としての裏付けは困難であり、武田方の戦功を誇張する軍記物特有の表現である可能性も考慮する必要がある。いずれにせよ、この一戦によって、上野国に一大勢力を築いた箕輪長野氏は、大名として完全に滅亡したのである。

辞世の句の分析

長野業盛は、その最期に一句の歌を遺したとされている。

「春風に 梅も桜も散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里」

29

この辞世の句は、業盛の悲劇を文学的に昇華させ、後世に語り継がせる上で決定的な役割を果たした。この歌は、単なる個人の死を嘆くものではない。それは、一つの「家」と、彼らが守り続けた「地域世界」そのものの終焉を告げる、壮大な挽歌なのである。

句中の「梅も桜も」という言葉は、複数の存在を指し示している。それはまず、春に先駆けて咲く梅、すなわち父・業正を象徴し、それに続く桜は、有能な家臣たち、そして業盛自身を指していると解釈できる。彼らが「散り果てて」しまったのは、「春風」の仕業である。この「春風」とは、抗うことのできない時代の大きな流れ、すなわち武田信玄による侵攻という強大な力を象徴している。

そして、最も重要なのが結びの句、「名のみぞ残る 箕輪の山里」である。城も、領地も、人も、物理的な実体はすべて失われ、この箕輪の地に残るのはもはや、かつてここに長野氏ありと謳われた「名」すなわち記憶と評判だけである、という諦観と無念が込められている。これは、完全な敗北と滅亡を深く認識した上での言葉である。具体的な地名である「箕輪の山里」で締めくくることにより、この悲劇が特定の郷土そのものの悲劇であることを強調し、聴く者の胸に深く刻み込まれる。

なお、この句には「陽風(はるかぜ)に 氷肌(むめ)も桜も散り果てて 名のみ残れる みわの郷かな」という異伝も存在する 6 。表現に若干の違いはあるものの、詠まれた心象風景と無常観は共通している。長野業盛の辞世の句は、戦国時代における「家」の断絶という出来事が、当主にとってどれほど決定的で包括的な意味を持っていたかを示す、優れた文学的証言として、今なおその価値を失っていない。

第六章:遺された者たち―長野氏の血脈と記憶

永禄9年(1566年)の箕輪城落城と長野業盛の自刃により、戦国大名としての箕輪長野氏は滅亡した。しかし、「家」の物語はそこで完全に終わったわけではなかった。生き残った者たちは、それぞれの形で長野氏の血脈と記憶を未来へと繋いでいった。

血脈の存続

業盛の死は一族の終わりを意味しなかった。落城の混乱の中、業盛には亀寿丸という幼い一子がおり、家臣の手によって城から脱出させることに成功したと伝えられている 6 。亀寿丸は和田山の極楽院に匿われ、後に出家して極楽院鎮良と名乗った 6 。彼は後に西上野の年中行事職に補任されるなど、地域の有力者として遇されたとされ、その子孫が長野家の血脈を今日に伝えている 31 。大名としての地位は失われたものの、長野氏の家系そのものは、家臣たちの忠義によって辛うじて存続したのであった。

家臣団のその後

主家を失った家臣たちの運命は多岐にわたった。多くは主君と共に討死したが、生き残った者たちは、新たな主君を求める者、武士を捨てる者など、それぞれの道を歩むことになった。

その後の動向が最も注目されるのは、箕輪城が新たな支配者の拠点となったことに関連する者たちである。武田氏滅亡後、天正18年(1590年)に箕輪城主となった徳川家康の重臣・井伊直政は、西上野の安定した統治のため、長野氏の旧臣を積極的に登用した 42 。その筆頭格が、長野業実(なりざね)である。家伝によれば、彼は長野業正の子である業親の子とされ、業盛の従兄弟にあたる人物とされる 13 。業実は井伊直政に仕え、小田原征伐や関ヶ原の戦いで功を挙げ、最終的には彦根藩の次席家老として4000石を知行するに至った 13 。彼の存在は、長野氏が培ってきた西上野における人脈や統治のノウハウが、新たな支配者である井伊氏にとっても極めて価値の高いものであったことを示している。業実は、井伊家中の「上州衆」のトップとして、多くの旧長野家臣をまとめる役割を担ったと考えられる 42

一方で、全く異なる道を歩んだのが、剣聖・上泉信綱である。彼は長野家滅亡後、武田信玄からその武勇を高く評価され、破格の待遇での仕官を要請された 46 。しかし、信綱はこれを固辞 38 。彼の悲願は、武将としての名誉ではなく、自らが大成した剣術「新陰流」を天下に普及させることであった 46 。信玄はその志に感じ入り、「他家には決して仕官しない」という条件付きで、信綱が諸国を流浪することを許したという。さらに、自らの名「晴信」から一字を与え、これまでの「秀綱」から「信綱」へと改名させたという逸話はあまりにも有名である 38 。主家の滅亡を機に、一介の武芸者として生きることを選んだ信綱の生き様は、戦国武士の多様な価値観を今に伝えている。


表3:長野氏の主な家臣とその後の動向

家臣名(役職)

箕輪城落城時の動向

その後の経歴

藤井豊後守友忠 (家老)

討死

-

石井讃岐守信房 (軍師格)

討死

-

上泉伊勢守信綱 (重臣)

降伏後、武田家の仕官を辞退

新陰流を普及させるため諸国を流浪 46

長野業実 (一族)

(落城時は不明)

徳川家康の近習を経て、井伊直政に仕官。彦根藩次席家老となる 43

鷹留長野氏 (一族)

城を脱出、あるいは出家

業茂、業亮らは出家し、後に井伊氏に従い彦根で寺を開く 13

その他多数の家臣

討死

-


この表が示すように、「滅亡」という言葉は、大名家としての政治的生命の終わりを意味するが、その構成員であった人々の物語の終わりを意味するわけではない。彼らは主家の盛衰に翻弄されながらも、自らの技量や人脈、あるいは忠義の記憶を頼りに、新たな時代を生き抜いていった。長野氏の滅亡は、同時に多くの家臣たちにとって、新たな人生の始まりでもあったのである。

第七章:史跡としての箕輪城と長野業盛

長野業盛とその一族の物語は、文書史料や軍記物語の中だけでなく、彼らが生きた土地、すなわち現在の群馬県高崎市にも、史跡としてその痕跡を色濃く残している。特に、最後の舞台となった箕輪城跡と、業盛の墓所は、彼の悲劇を今に伝える重要な場所となっている。

箕輪城跡の現在

箕輪城跡は、約500年前に長野氏によって築かれ、その堅固さから武田信玄の猛攻を幾度も防いだ難攻不落の城として知られている 49 。その歴史的価値から、昭和62年(1987年)に国の史跡に指定され、平成18年(2006年)には日本100名城にも選定された 49 。広大な敷地には、現在も土塁や堀切などの遺構が良好な状態で保存されており、散策コースを巡ることで戦国時代の山城の壮大さを体感することができる 49

発掘調査が明かす城の変遷

近年の高崎市教育委員会による継続的な発掘調査と整備事業は、箕輪城の歴史に新たな光を当てている。調査の結果、現在我々が目にする壮大な石垣や、復元された郭馬出西虎口門といった遺構は、主に最後の城主である井伊直政の時代(16世紀末)に築かれたものであることが判明した 20 。井伊氏は、徳川家康の関東入府に伴い箕輪城を与えられると、城を近世的な城郭へと大改修したのである。

一方で、発掘調査は、それ以前の長野氏・武田氏時代の城の姿も明らかにしつつある。長野氏時代の箕輪城は、現在よりも小規模であり、本丸周辺の堀の配置も異なっていたことが確認されている 54 。これは、城が決して静的な存在ではなく、城主の交代や時代の要請に応じて何度も造り替えられていった「生きた要塞」であったことを物語っている。

この事実は、史跡を訪れる際の視点に深みを与える。一般の訪問者は、壮大な石垣を見て「これが業盛が守った城か」と感慨にふけるかもしれない。しかし、その石垣は、業盛の死後に新たな支配者によって築かれたものである。この歴史の重層性こそが、箕輪城の魅力である。長野氏の滅亡後も、この城が西上野の拠点として重要であり続けたからこそ、井伊氏による大改修が行われた。我々は城跡を歩くことで、長野氏の時代の痕跡(土塁や古い堀の跡)と、その後の時代の記憶の結晶(井伊氏時代の石垣)が重なり合った、豊かな歴史の地層を読み解くことができるのである。

業盛の墓所

長野業盛の記憶を留めるもう一つの重要な場所が、高崎市井出町にある「伝・箕輪城主長野業盛の墓」である 5 。この墓所は高崎市指定史跡として整備され、辞世の句を刻んだ石碑も建てられている 33

『箕輪軍記』によれば、この地はかつて大円寺という寺院の境内であり、落城後に業盛の死を哀れんだ僧・法如が、その遺体を密かにここに埋葬したと伝えられている 5 。大円寺は後に現在地へ移転したが、業盛の墓と伝えられる石塔群は旧地に残され、地域の人々によって大切に守り継がれてきた 33

墓所の名称に「伝」と付くように、ここが業盛の真の墓所であるという確証はない。しかし、重要なのは、彼の悲劇的な最期が地域の人々の心に強い印象を残し、「墓」という具体的な形で記憶され、語り継がれてきたという事実である。この伝承の墓は、歴史の事実そのものとは別に、人々が歴史をどのように記憶し、後世に伝えてきたかを示す貴重な文化遺産と言える。

このほかにも、長野氏一族の菩提寺である長年寺(高崎市下室田町)には業正を含む一族7人の墓があり 58 、同じく菩提寺の長純寺(高崎市箕郷町)には業正の供養塔が建てられている 28 。これらの史跡は、地域社会における長野氏の記憶のありかを多角的に示しており、業盛の物語に歴史的な奥行きを与えている。

結論:悲劇の武将、長野業盛の歴史的評価

長野業盛の生涯は、天文13年(1544年)の生から永禄9年(1566年)の自刃まで、わずか23年という短いものであった。彼は、戦国上州に覇を唱えた偉大な父・長野業正の跡を継ぎ、甲斐の武田信玄という、当時最強と謳われた大国の圧倒的な侵攻の前に、一族郎党と運命を共にした悲劇の城主である。

彼の歴史的評価を考えるとき、父・業正のような卓越した戦略家や政治家としての功績を求めることは難しい。17歳で家督を継いだ彼には、父が築き上げた脆弱な同盟網を維持し、百戦錬磨の信玄が仕掛ける武力と調略の波状攻撃に対抗するための経験も時間もあまりに不足していた。彼の治世は、父の遺産が一つまた一つと崩れ去っていくのを、必死に食い止めようとする防衛戦の連続であった。

しかし、彼の価値は、勝敗や功績といった尺度のみで測られるべきではない。業盛は、衆寡敵せず、味方の離反が相次ぐ絶望的な状況下にあっても、最後まで武士としての誇りを失わず、故郷・箕輪城と一族を守るために徹底抗戦を貫いた。自ら薙刀を振るって敵陣に切り込み、最期は潔く自刃して果てたその姿は、後世の軍記物語によって脚色が付加された可能性を考慮してもなお、戦国武将の気概を示す一つの理想像として、人々の心を強く捉えた。彼の抵抗は、結果として武田信玄の西上野平定を遅らせ、ひいては信玄の上洛への道をわずかながらも妨げた一因となった可能性も指摘できる 27

長野業盛の物語は、彼が滅びた後、より大きな輝きを放ち始めた。その悲壮な最期と、「春風に 梅も桜も散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里」という無常観に満ちた辞世の句は、特に地元上州において、忠義と滅びの美学を象徴する英雄譚として、深く根付いていった 49 。生き残った家臣が新たな支配者・井伊氏の下で重用され、その血脈が現代まで続いているという事実は、長野氏がこの地に築いた基盤の確かさを物語っている。

最終的に、長野業盛は歴史の勝者ではなかった。しかし、彼の存在は、歴史が勝者の記録だけで構成されるのではないことを我々に教えてくれる。敗者の物語、とりわけ自らの運命に抗い、誇り高く散っていった者の物語が、時として勝者のそれ以上によく人々の記憶に刻まれ、長く語り継がれることがある。長野業盛の名は、彼の辞世の句の通り、物理的な支配が失われた後も、「名のみ」となって箕輪の地に残り、戦国乱世の非情さと、それに翻弄された人々の記憶を今に伝え続ける、不朽の存在となっているのである。

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