戦国時代の関東にその名を轟かせた後北条氏。その五代百年にわたる栄華を支えた数多の家臣団の中に、間宮康俊(まみや やすとし)という武将がいた。伊豆水軍を率い、北条家の宿敵であった房総の里見氏や甲斐の武田氏と渡り合い、最後は豊臣秀吉による小田原征伐の最中、山中城の戦いで壮絶な討死を遂げた人物である。彼の最期は、「白髪首を敵に晒すは武士の恥」として、自らの髪を墨で染めてから敵陣に突撃したという逸話とともに、武士の鑑として語り継がれてきた 1 。
しかし、間宮康俊の生涯は、その死に様だけで語られるべきではない。彼は後北条氏の重臣として、軍事のみならず行政においても重要な役割を担っていた。本稿では、間宮康俊の出自から、後北条氏の家臣としての活躍、そして彼の死が後世に与えた影響までを、現存する史料を基に詳細かつ徹底的に掘り下げ、その実像に迫るものである。彼の生涯を追うことは、後北条氏という大名家の戦略と、戦国乱世を生きた一人の武士の生き様、そしてその一族の運命を理解する上で、重要な示唆を与えてくれるだろう。
間宮一族のルーツは、遠く近江国(現在の滋賀県)に遡る。彼らは宇多源氏佐々木氏の流れを汲む一族であり、武家としての佐々木氏ではなく、沙沙貴神社の神主家から分かれた家系であったと伝えられている 1 。この神官の家系から武家へと転身した一族は、南北朝時代に伊豆国田方郡間宮村(現在の静岡県函南町)に移り住み、その地名から「間宮」を名乗るようになった 3 。
関東における間宮氏の歴史は、戦国時代の幕開けと共に始まる。当初、彼らは伊豆を支配していた大森氏に仕えていたが、明応3年(1494年)、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原城を奪取すると、間宮氏も他の伊豆・西相模の国人衆と同様に、いち早く早雲に臣従した 5 。この早期の帰属は、間宮一族が単なる土着の豪族ではなく、時勢を読む戦略的な判断力を備えていたことを示している。新興勢力であった後北条氏にいち早く味方したことで、彼らは譜代の家臣として信頼を勝ち取り、その後の五代にわたる北条家の発展の中で、重要な役割を担う礎を築いたのである。
後北条氏の支配が武蔵国に及ぶと、間宮一族もその勢力を拡大させた。康俊の父である間宮信元は、天文年間(1532年~1554年)に武蔵国久良岐郡(現在の横浜市港南区)に笹下城を築城した 7 。この城は、東京湾を挟んで対峙する安房の里見氏の水軍による侵攻に備えるための、後北条氏の沿岸防衛網の要であった 10 。
間宮康俊自身は、後北条氏の軍制において、玉縄城主(北条氏康の三男・氏規など)に属する「玉縄衆」の一員として位置づけられていた 2 。玉縄衆は、鎌倉の鶴岡八幡宮の造営奉行を務めるなど、軍事のみならず政治的にも重要な役割を担う精鋭部隊であった。康俊も天文5年(1536年)からこの造営奉行の一人として名を連ねており、若くして北条氏綱から重用されていたことが窺える 2 。
『小田原衆所領役帳』によれば、永禄2年(1559年)時点での康俊の知行高は698貫文と記録されており、これは当時の北条家臣団の中で中堅以上の武将であったことを示している 2 。この所領は、本拠地である笹下城周辺のほか、武蔵国入西郡富屋(現在の埼玉県坂戸市)などにも及んでいた 6 。間宮一族は笹下城を中心に、杉田や森、氷取沢といった要所に一族を配し、地域支配を固めるとともに、江戸湾の防衛という北条氏の戦略上、不可欠な役割を担っていたのである 4 。
間宮康俊の生年については、永正15年(1518年)説 2 と天文9年(1540年)説 4 の二つが存在する。山中城での奮戦時の年齢が73歳であったという記述が多く見られることから、1518年生まれとする説が有力視されている。この場合、彼は北条氏の二代目・氏綱の時代から五代目・氏直の時代まで、まさに後北条氏の興隆から滅亡までの全盛期を生き抜いた武将ということになる。
康俊は豊前守を称し、後に出家して宗閑と号した 2 。父は笹下城を築いた間宮信元であり 13 、弟には氷取沢を領した綱信らがいた 4 。康俊には多くの子供がおり、その後の間宮家の運命を大きく左右することになる。
表1:間宮康俊の家族構成
関係 |
氏名 |
備考 |
父 |
間宮信元 |
笹下城主 |
弟 |
間宮綱信 |
氷取沢間宮氏の祖。後に徳川家臣となる 4 |
長男 |
間宮康次 |
2 |
次男 |
間宮康信 |
御坂の戦いで戦死。その子・直元が家督を継ぐ 14 |
三男 |
間宮善十郎 |
2 |
四男 |
間宮信高 |
武田水軍、のち徳川水軍に仕える 15 |
五男 |
間宮元重 |
兄・綱信らと共に徳川旗本となる 4 |
娘 |
お久の方(普照院) |
徳川家康の侍女となり、間宮家の存続に尽力 2 |
娘 |
(氏名不詳) |
足利義氏の家臣・豊前氏盛の室となる 2 |
間宮康俊の重要な役割の一つが、伊豆・相模の水軍、通称「北条水軍」の統括であった 2 。後北条氏の領国は相模湾、江戸湾、駿河湾という三つの海に面しており、海上からの脅威に常に晒されていた。特に房総半島の里見氏とは、江戸湾の制海権を巡って長年にわたり激しい攻防を繰り広げていた 18 。康俊は笹下城を拠点に、江戸湾岸の監視・警備を担い、里見水軍の侵攻に備えた 2 。
永禄11年(1568年)に武田信玄が駿河に侵攻し、今川水軍を吸収して武田水軍を編成すると、北条水軍は駿河湾においても新たな敵と対峙することになる 19 。北条氏は長浜城(静岡県沼津市)を一大拠点とし 20 、安宅船などの大型軍船を配備して武田水軍と激しい海戦を繰り広げた 19 。康俊の四男・信高が、この時期に武田水軍に属したことは注目に値する 16 。父・康俊が北条水軍を率いる一方で、息子が敵対する武田水軍に加わるという状況は、戦国時代の武士の複雑な立場を物語っている。これは単なる個人的な離反ではなく、一族存続のための戦略的な布石であった可能性も考えられる。
康俊の指揮下にあった北条水軍は、伊豆や相模の海賊衆や漁民を組織したものであり、彼らの操船技術と地理的知識は、北条氏の海上防衛に不可欠であった 23 。康俊は、陸上での城郭防衛と海上での艦隊指揮という、二つの異なる分野で優れた能力を発揮した、稀有な武将であったと言える。
間宮康俊の功績は、戦場での武勇だけに留まらない。彼は北条氏の信頼厚い家臣として、内政面でも手腕を発揮した。その代表例が、北条氏綱が着手した鶴岡八幡宮の再建事業である。康俊は天文5年(1536年)から奉行の一人としてこの大事業に携わっており、これは彼が単なる武辺者ではなく、行政手腕にも長けていたことを示している 2 。
また、康俊は笹下城を本拠としながらも、一族を周辺の要地に配置することで、領国経営を安定させた 4 。これは、後北条氏が採用していた支城ネットワークの一環であり、間宮氏はその重要な一翼を担っていた。こうした地道な領国経営が、北条氏の関東支配を盤石なものにしていったのである。
天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉は、22万ともいわれる大軍を率いて小田原征伐を開始した 23 。これに対し、後北条氏は小田原城での籠城策を基本としつつ、各地の支城で敵を迎え撃つ戦略をとった。その中でも、箱根の西の玄関口に位置する山中城は、小田原防衛の最前線であり、極めて重要な拠点であった 25 。
この山中城の守将は松田康長であり、北条氏政の子・氏勝も後詰として入城していた。そして、間宮康俊も援軍として山中城に派遣され、城の西側に新設された岱崎出丸(だいさきでまる)の守備を任された 26 。この時、康俊は73歳という高齢であったが、北条家への忠義を貫くため、決死の覚悟でこの難局に臨んだ。
天正18年3月29日、豊臣秀次を総大将とする約7万の軍勢が山中城に総攻撃を開始した 24 。康俊が守る岱崎出丸には、中村一氏の部隊が殺到した 27 。康俊はわずか200余りの兵で、圧倒的な兵力差のある豊臣軍を相手に、鉄砲隊を巧みに用いて激しく抵抗した 26 。
この戦いの激しさは、豊臣方の有力武将・一柳直末が討死したことからも窺える。直末は三の丸の櫓門を攻めていたが、間宮勢の鉄砲隊によるつるべ撃ちに遭い、命を落とした 27 。しかし、衆寡敵せず、激戦の末に岱崎出丸は陥落。康俊の部隊は壊滅的な打撃を受けた 26 。この絶望的な状況の中、康俊は主君の血筋である北条氏勝と、自身の孫である間宮直元を城から脱出させることに成功している 2 。
すべての責務を果たした康俊は、自らの死に場所を戦場に定めた。この時、彼は白くなった髪を指し、「白髪首を敵に供するのは武士の恥」と言い放ち、墨で髪を黒く染めてから敵陣に最後の突撃を敢行し、壮絶な討死を遂げたと伝えられている 1 。享年73。
この逸話は、単なる武勇伝にとどまらない。それは、敗北を悟りながらも、武士としての誇りを最後まで失わなかった康俊の強靭な精神性、すなわち「死の美学」を象徴するものである 29 。彼のこの潔い最期は、敵である豊臣方の諸将にも感銘を与えたと言われ、結果的に、彼の死は滅びゆく北条家の中で、間宮一族が生き残るための礎となったのである。
間宮康俊の死後、彼の娘であるお久の方は徳川家康の侍女となった 2 。彼女は家康に願い出て、父・康俊が戦死した山中城の三の丸跡に、その菩提を弔うための寺院を建立した 25 。寺の名は、康俊の法名にちなんで「宗閑寺」と名付けられた 24 。
この宗閑寺には、康俊とその一族の墓碑と共に、山中城の戦いで討死した城主・松田康長や、上野箕輪城主・多米長定らの墓も建てられている 32 。さらに特筆すべきは、この戦いで康俊らが討ち取った敵将・一柳直末の墓も同じ境内に並んで祀られていることである 34 。これは、戦国の世が終わり、敵味方の区別なく死者を弔おうとする、娘お久の深い慈悲の心と、新たな時代を築こうとする家康の意向が反映されたものと考えられる。
間宮康俊の壮絶な死と、娘お久の方の尽力により、間宮一族は後北条氏滅亡後もその家名を保つことができた。康俊の孫にあたる間宮直元(康信の子)や、弟・綱信の子である正重らは、徳川家康に召し抱えられ、旗本として新たな時代を生きることになった 3 。特に直元は、旧領を安堵された上で千石の知行を与えられるという異例の厚遇を受けている 4 。これは、家康の側室(侍女)となったお久の方の働きかけが大きかったとされる 5 。
間宮一族からは、その後も歴史に名を残す人物が輩出された。江戸時代後期に樺太を探検し、それが島であることを確認した探検家・間宮林蔵は、康俊の子孫であると伝えられている 4 。また、『解体新書』の翻訳で知られる蘭学医・杉田玄白も、間宮氏の一族から分かれた杉田間宮氏の後裔である 4 。
表2:間宮康俊の著名な子孫・縁者
人物名 |
関係 |
功績 |
間宮直元 |
孫(次男・康信の子) |
初代生野奉行、佐渡奉行を歴任。大坂の陣でも活躍 14 。 |
間宮信高 |
四男 |
武田水軍、徳川水軍の将として活躍。小牧・長久手の戦いで戦死 16 。 |
間宮綱信 |
弟 |
氷取沢間宮氏の祖。子孫は旗本として存続 4 。 |
間宮林蔵 |
子孫 |
樺太を探検し、間宮海峡を発見 4 。 |
杉田玄白 |
一族の後裔 |
蘭学医。『解体新書』を翻訳 4 。 |
間宮康俊は、戦国大名・後北条氏に五代にわたり仕えた忠臣の鑑であった。その生涯は、関東の覇権を巡る激動の時代と重なる。彼は武蔵国の笹下城を拠点に、江戸湾の制海権を巡って里見氏と対峙し、また伊豆水軍を率いて武田氏の駿河侵攻を防ぐなど、後北条氏の軍事・防衛戦略において極めて重要な役割を果たした。
彼の武将としての真価が最も発揮されたのは、豊臣秀吉による小田原征伐における山中城の戦いであろう。圧倒的な兵力差にも屈せず、最後まで奮戦し、主君の子弟を逃がした後に潔く散ったその最期は、武士の理想像として後世に語り継がれている。
しかし、間宮康俊の物語は彼の死で終わらない。彼の忠義と、娘・お久の方の働きかけによって、間宮一族は主家の滅亡という危機を乗り越え、徳川の世で旗本として存続した。さらに、その血脈からは間宮林蔵や杉田玄白といった、日本の歴史に大きな足跡を残す人物が輩出された。間宮康俊の生涯は、戦国武将としての「忠」と「武」を貫き通しただけでなく、その生き様が後世にまで影響を与え、一族の繁栄の礎となった、まさに不朽の遺産と言えるだろう。