阿久沢彦二郎は土佐の商人ではなく上野の武士。須崎の商人との情報は、名称の類似や伝承の融合、歴史の空白を埋める象徴として生まれた可能性が高い。
本報告書は、戦国時代の土佐国須崎(すさき)の商人とされる人物「阿久沢彦二郎(あくざわ ひこじろう)」に関する、詳細かつ徹底的な調査依頼に応えるものである。調査の出発点として提示された情報は、「須崎の商人」であり、その拠点である須崎が「須崎港を擁する港町として発展した」というものであった 1 。この情報は、戦国期における須崎の経済的重要性を的確に捉えており、調査の方向性を定める上で貴重な指針となった。
しかしながら、各種史料、文献、伝承にわたる広範な調査を進める過程で、この初期情報と史実との間に、看過できない重大な乖離が存在することが明らかとなった。史料上でその実在が確認される「阿久沢彦二郎」という名の人物は、土佐国の商人ではなく、 上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)を本貫地とする武士 であることが判明したのである 3 。この武士・阿久沢彦二郎は、戦国末期に関東地方で活動し、後北条(ごほうじょう)氏の配下として深沢城(ふかさわじょう)の奪回作戦などで武功を挙げた記録が残されている 3 。一方で、土佐国、特に須崎の商人や関連する古文書、郷土史料の中に、「阿久沢彦二郎」という名は、現時点の調査では見出すことができなかった。
この核心的な矛盾は、本調査に新たな問いを投げかける。すなわち、「上野の武士」と「須崎の商人」という、地理的にも身分的にもかけ離れた二つの情報が、なぜ「阿久沢彦二郎」という一つの名の下に結びついたのか。この謎を解明するため、本報告書は以下の三部構成を取る。
第一部 では、史料に基づき、実在が確認される「武士・阿久沢彦二郎」の生涯と、彼が属した上野国阿久沢一族の動向を徹底的に追跡する。
第二部 では、調査依頼の本来の関心事である戦国時代の「須崎の商人」の世界に焦点を当て、天然の良港として栄えた須崎の発展史、支配者の変遷、そして畿内や四国内の商人たちが織りなしたダイナミックな経済活動の実態を深く掘り下げる。
そして 結論 として、これら二つの異なる物語を比較検証し、「上野の武士」と「須崎の商人」という情報が結びついた背景について、史料の不在を前提とした上で、名称の類似、伝承の融合、歴史の空白を埋める象徴化といった観点から学術的な考察を行う。
これにより、本報告書は単なる人物伝に留まらず、歴史情報が時代を経て伝播し、時に変容していく過程そのものを解き明かすことを目指すものである。
史料上に確かな足跡を残す阿久沢彦二郎は、土佐の商人ではなく、戦国末期の関東地方を駆け抜けた上野国の武士であった。彼の生涯は、巨大勢力の狭間で翻弄されながらも、一族の存続をかけて戦った地方武士の典型的な姿を映し出している。
阿久沢氏は、上野国勢多郡(せたぐん)の苗ヶ島(ないがしま)、黒保根(くろほね)、宿廻(しゅくめぐり)といった、現在の群馬県桐生市やみどり市にあたる地域を本貫地とした武家一族である 3 。史料によっては「愛久沢」「悪澤」「芥澤」といった表記も見られ、家紋は「州浜(すはま)」を用いたと伝えられる 3 。
その出自は古く、一説には源義家が後三年の役(1083-1087年)で奥州へ向かう際、この地を都との中継地点として重視し、阿久沢氏と松島氏に文書連絡等の任を与え、永代の安堵状を授けたという伝承も残っている 3 。この伝承の真偽はともかく、阿久沢氏が古くから同地に根を張る有力な在地領主、すなわち国衆(くにしゅう)であったことを示唆している。
戦国時代に入ると、関東地方は越後の上杉氏、甲斐の武田氏、そして相模の北条氏という三大勢力が覇を競う激戦地と化した。このような状況下で、阿久沢氏のような中小の国衆は、生き残りをかけて巧みな外交と離合集散を繰り返さざるを得なかった。永禄4年(1561年)の『関東幕注文』(上杉家文書)には、桐生衆(きりゅうしゅう)の一員として「阿久沢対馬守(あくざわつしまのかみ)」の名が見え、この時期は上杉謙信の勢力下に属していたことがわかる 3 。
しかし、その後、金山城(かなやまじょう)を拠点とする由良(ゆら)氏との領地争いを経て、阿久沢氏は西から勢力を伸張してきた後北条氏の傘下へと転じた。これにより、同じく後北条氏と敵対していた由良氏との対立関係は、より一層鮮明なものとなった 3 。この主家の乗り換えは、特定のイデオロギーよりも、自領の保全と一族の存続という現実的な利益を優先した、戦国国衆のリアルな生存戦略の現れであった。
阿久沢彦二郎の名が歴史の表舞台に登場するのは、天正年間、後北条氏配下の武将としてであった。彼の活動は、後北条氏の北関東における対上杉・対由良戦略と密接に連動している。
一族の第七代当主であった阿久沢能登守道伴(あくざわのとのかみ どうばん)の代、天正2年(1574年)、上杉謙信の侵攻によって、一族の拠点であった深沢城を追われるという苦難を経験する 3 。城を失うことは、国衆にとってその存在基盤を揺るがす一大事であった。
失地回復の機会は10年後に訪れる。天正12年(1584年)7月、阿久沢氏は後北条氏の指示を受け、宿敵・由良氏から城を奪回するための軍事行動を起こした。この作戦において、兄の道伴と共に中心的な役割を果たしたのが、弟の彦二郎であった 3 。阿久沢氏と、同じく後北条配下の目黒氏らは、由良方の守る五蘭田城(ごらんだじょう、深沢城の別称か)を攻撃し、これを見事奪回することに成功した 4 。
この彦二郎らの武功は、単なる一族の私闘ではなく、後北条氏が北関東の勢力圏を固める上での重要な一翼を担うものであった。城の奪回後、彼らは直ちに城の普請(ふしん、防御工事)を固めたと記録されており、この時の改修が現在の五蘭田城址の遺構に繋がっているとされている 4 。阿久沢彦二郎の活動は、一過性の武功に終わらず、現代にまで残る史跡の形成に直接的な影響を与えたのである。
阿久沢彦二郎と彼の一族の運命は、主家である後北条氏のそれと軌を一にしていた。
天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉が20万を超える大軍を率いて関東に侵攻し、後北条氏の本拠地である小田原城を包囲した(小田原征伐)。この国家存亡の危機に際し、阿久沢氏一族は後北条方として小田原城に籠城し、運命を共にする道を選んだ 4 。数ヶ月にわたる籠城戦の末、後北条氏は秀吉に降伏し、戦国大名としての歴史に幕を閉じた。
主家の滅亡は、その配下であった阿久沢氏が武士としての地位を失うことを意味した。小田原城の陥落後、生き残った一族は故郷に近い上野国神梅(かんべ、現在のみどり市大間々町)の地にて帰農したと伝えられている 3 。武士の身分を捨て、土と共に生きる道を選んだのである。
この後の阿久沢彦二郎個人の消息を具体的に伝える史料は見当たらない。しかし、一族と共に神梅の地で静かに余生を送った可能性が高いと考えられる。現在、群馬県前橋市宮城地区などに住む阿久沢姓の人々は、この戦国武士の一族の末裔であるとされている 3 。彦二郎の物語は、華々しい武功とその後の静かな帰農という、戦国乱世の終焉を象徴するような結末を迎えたのであった。
阿久沢彦二郎が関東で武士として生きた時代、遠く離れた土佐国では、須崎という港町が大きな変貌を遂げ、多様な商人たちが行き交う経済の拠点として繁栄を極めようとしていた。ここからは、調査依頼の本来の対象であった、この須崎の歴史的世界を詳細に解き明かす。
須崎の歴史は、その地理的特性と分かち難く結びついている。現在の須崎市中心部は、四国山地から流れる新荘川(しんじょうがわ)が土佐湾に注ぐ河口部に位置する。古くは「洲崎」と記されたことからもわかるように、川が運んだ土砂が堆積してできた「洲」の上に町が形成された 2 。深く、穏やかな入り江を持つ須崎港は、古来、風雨を避ける避難港や漁業の基地として重宝されてきた 1 。
中世において、この地域の支配者は津野(つの)氏であった。津野氏は、須崎の内陸、高岡郡の山間地帯を拠点とする国人領主であったが、彼らが支配した津野荘(つのしょう)から徴収される年貢米や、後背地の山林資源などを畿内へ積み出すための「外港」として、須崎港は極めて重要な役割を担っていた 5 。当初、津野氏の本拠は山深い姫野々城(ひめののじょう)にあったが、やがて沿岸部の経済的・軍事的重要性を認識し、須崎に須崎城を築いて、この地を支配の拠点の一つとした 6 。この津野氏による港の利用が、須崎発展の礎を築いたのである。
16世紀後半、土佐の歴史は一人の傑出した戦国大名によって大きく動かされる。長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)である。岡豊城(おこうじょう)を拠点とした元親は、「一領具足(いちりょうぐそく)」と呼ばれる半農半兵の戦闘集団を率い、破竹の勢いで勢力を拡大。本山氏、安芸(あき)氏、そして土佐国司であった一条(いちじょう)氏といった「土佐七雄」のライバルたちを次々と打ち破り、天正3年(1575年)頃までには土佐一国の統一を成し遂げた 7 。
元親の土佐統一事業において、須崎を擁する津野氏もその支配下に組み込まれていく。元親は津野氏を武力で屈服させると、自身の三男である親忠(ちかただ)を津野氏の養子として送り込み、その家を事実上乗っ取った 6 。この津野親忠の存在が、須崎の運命を決定的に変えることになる。
親忠は、一族の伝統的な本拠地であった山間部の姫野々から、沿岸の須崎へと拠点を完全に移したのである 6 。この政策転換は、単なる居城の移動以上の意味を持っていた。それは、長宗我部氏の支配体制が、内陸の農業生産だけでなく、海上交通と商業を重視する海洋国家的な性格を帯びていたことの現れであった。
この拠点化に伴い、須崎は急速に都市としての様相を整えていく。須崎城の麓には、親忠やその家老であった山内右衛門大夫らの屋敷が構えられ、整然とした武家屋敷町が形成された 2 。さらに、湾内の入江には全国から集まる商品を扱う問屋が軒を連ねる「市町」が生まれ、その周辺には様々な手工業者たちが集住する区画も設けられた 2 。支配者の戦略的な都市計画によって、須崎は単なる積出港から、政治・軍事・経済の機能が集積した一大拠点都市へと飛躍的な変貌を遂げたのであった。
支配者である長宗我部氏の戦略的投資と、港の機能向上は、磁石のように各地の商人たちを須崎へと惹きつけた。戦国期の須崎の繁栄は、出自も活動規模も異なる多様な商人たちのダイナミックな活動によって支えられていた。その経済圏は、ローカルなものから、四国全域、さらには中央の畿内にまで及ぶ、重層的な構造を持っていた。
須崎の経済活動が、当時の日本の中心地と直結していたことを示す最も重要な証拠が、「堺商人(さかいしょうにん)」の進出である。津野親忠が須崎を拠点としていた時代、この町は堺商人と直接交易を行い、大いに栄えたという記録が残っている 2 。堺は、戦国時代における日本最大の自由都市であり、国際貿易港でもあった。鉄砲や硝石といった軍需品、大陸からの唐物や奢侈品、そして最新の情報がここに集積していた。須崎が堺と直接のパイプを持っていたということは、長宗我部氏が必要とする先進的な物資や技術が、この港を通じて土佐にもたらされていたことを意味する。堺商人がわざわざ土佐の地方港である須崎まで足を運んだ背景には、彼らを惹きつけるだけの魅力的な特産品(後述する紙や木材など)と、安全な取引を保証する長宗我部氏の強力な支配力があったと考えられる。
長宗我部元親は、領国外の商人の能力やネットワークを積極的に活用し、自身の軍事・経済基盤の強化を図った。その最も象徴的な事例が、播磨国(はりまのくに、現在の兵庫県)出身の商人、高島宗徳(たかしま そうとく)の登用である 8 。
四国統一戦争を遂行する上で、数十万石の兵を動員するための兵糧確保は元親にとって最重要課題であった。この難題を解決するため、元親は飾磨(しかま、現在の姫路市)の商人であった高島宗徳に兵糧調達を依頼した。この任務を成功させた宗徳は、これを機に土佐へ移住し、「播磨屋(はりまや)」の屋号を名乗る御用商人となった 8 。播磨屋は、長宗我部氏の改易後、土佐に入国した山内氏の時代にも城下の豪商として重きをなした 8 。この事例は、戦国大名が領内の経済にとどまらず、広域の商業ネットワークをいかに戦略的に利用していたか、そして一人の商人が大名との結びつきによって、いかに大きな成功を収め得たかを如実に物語っている。
畿内との交易と並行して、四国内部でも活発な物流ネットワークが形成されていた。その代表例が、讃岐(さぬき、香川県)と土佐を結んだ「塩と茶の道」である。この交易の主役は、讃岐国仁尾浦(におのうら)の商人たちであった 12 。
仁尾は古くからの製塩地帯であり、ここで生産された塩は、讃岐山脈を越えて阿波(あわ、徳島県)西部や土佐中部の山間部にまで運ばれた 12 。仁尾商人たちは、この塩を行商し、その見返りとして、高品質で知られた土佐の山間部産の茶(碁石茶などの発酵茶を含む)を仕入れた。そして、それを「仁尾茶」というブランドで販売し、大きな利益を上げていたのである 12 。
この仁尾商人と長宗我部氏との関係の深さを示す興味深い史料が存在する。天正2年(1574年)、長宗我部氏が土佐の豊楽寺(ぶらくじ)の御堂を修造した際の寄進者名簿に、元親やその家臣団の名に続いて、「仁尾 塩田又市郎」という商人の名が記されているのである 12 。これは、商人が単なる経済活動に留まらず、大名の宗教的・権威的事業に資金提供することで、領内での活動の安定を図り、支配者との関係を構築していたことを示唆している。塩田氏のような仁尾の有力商人は、土佐の山間部に独自のテリトリーを持ち、現地の商人と連携しながら安定した交易ルートを維持していた姿が浮かび上がる。
商人たちが須崎を目指した最大の理由は、そこに魅力的な商品があったからに他ならない。須崎港からは、津野荘をはじめとする後背地で生産された様々な産品が積み出された。
その筆頭が、 土佐和紙 である。土佐は平安時代の『延喜式』にもその名が見えるほど、古くからの紙の産地であった 13 。特に、楮(こうぞ)や三椏(みつまた)を原料とし、仁淀川などの清流で漉かれた土佐和紙は、薄くても丈夫で質が高いことで知られ、全国的なブランドであった 13 。記録や通信に大量の紙を必要とした戦国時代において、和紙は重要な戦略物資であり、堺商人らにとっても魅力的な商品であったことは間違いない。
また、四国山地の豊かな 木材 も重要な輸出品であった 8 。造船や建築、あるいは燃料として、木材の需要は常に高かった。長宗我部氏は木材に関する詳細な規律を定めており、この資源を厳格に管理・活用していたことが窺える 8 。これらの和紙や木材が、須崎港から船に積まれ、塩や鉄、先進技術などと交換されたのである。
以下の表は、これら須崎の経済圏を形成した主要な商人集団をまとめたものである。この表は、須崎の経済が単一の勢力によってではなく、出自も規模も異なる多様な商人たちの活動の総体であったこと、そして彼らが長宗我部氏という支配権力と多様な関係性を結びながら活動していた重層的な構造を明確に示している。
表1:戦国期土佐・須崎の経済圏を形成した主要商人集団
商人集団 |
出身地 |
主要取扱品目(推定含む) |
支配権力者との関係 |
典拠史料 |
堺商人 |
和泉国堺 |
武具、硝石、奢侈品、大陸渡来品 |
津野親忠(長宗我部氏)の時代に直接交易 |
2 |
播磨屋(高島氏) |
播磨国飾磨 |
兵糧(米など) |
長宗我部元親が直接登用した御用商人 |
8 |
仁尾商人(塩田氏など) |
讃岐国仁尾浦 |
塩、茶、糸 |
長宗我部氏の事業に寄進。独立した交易網を形成 |
12 |
在地商人(海鮮問屋など) |
土佐国須崎 |
海産物(鰹など)、地域産品 |
地域の信仰や共同体を担う中核的存在 |
1 |
経済的な繁栄は、須崎の町に独自の文化と暮らしを育んだ。
後の時代の記録ではあるが、須崎には「鍛冶屋町(かじやまち)」が存在したことが確認されている 15 。港町において、船の修理に必要な釘や金具、漁に用いる道具、さらには武具の製造や修理を行う鍛冶職人の存在は不可欠である。戦国期からその萌芽があった可能性は極めて高く、港の機能を支える多様な職人たちが集住し、活気ある職人町を形成していたと想像される。
また、海と共に生きた須崎の人々の精神世界を垣間見ることができるのが、この地に残る伝承である。特に興味深いのが、宝永4年(1707年)の南海地震の津波にまつわる物語である。この津波で、須崎の八幡宮の大切な神輿(みこし)が海に流されてしまう。神輿は太平洋を漂流し、遠く離れた伊豆半島西岸の岩地(いわち)に漂着した。この噂を聞きつけた須崎の人々は、神輿を故郷に取り戻すために伊豆へ赴く。その際、中心的な役割を果たしたのが、「海鮮魚長左衛門(かいせんぎょ ちょうざえもん)」という須崎の商人(海産物問屋)であったと伝えられている 17 。
この物語は、史実そのものではないかもしれないが、重要な示唆に富んでいる。第一に、商人たちが地域の信仰や共同体の維持において中核的な役割を担っていたこと。第二に、彼らが伊豆半島にまで及ぶ広域な海上交通の知識とネットワークを有していたことである。須崎の商人たちは、単に商品を売買するだけでなく、海を介した人・モノ・情報のネットワークを駆使し、地域のリーダーとして尊敬を集める存在でもあったのである。
本報告書は、当初の調査依頼であった「須崎の商人、阿久沢彦二郎」を起点として、二つの全く異なる歴史の物語を明らかにしてきた。一つは、戦国末期の関東を舞台に、後北条氏の配下として武功を挙げ、主家と共に没落し帰農した**「上野の武士・阿久沢彦二郎」 という確かな実像である。もう一つは、長宗我部氏の戦略的拠点として都市化が進み、堺や讃岐の商人、そして在地の商人たちが集い、ダイナミックな経済活動を繰り広げた 「港町・須崎」**の豊かな歴史的世界である。
では、なぜこの二つの物語が、一つの人格として結びついたのか。その謎を解明するにあたり、まずは史料上の事実関係を再確認する必要がある。
本調査の過程において、『須崎市史』や、地域の郷土史研究会が発行する『須崎史談』といった主要な郷土史料 19 をはじめ、商人名簿、寺社の寄進帳、各種古文書など、戦国期の土佐国、特に須崎に関連する史料群を広範にわたって検証した。
その結果、改めて明確に言えるのは、現時点において、土佐国内で「阿久沢彦二郎」という名の商人、あるいはそれに類する人物が活動したことを示す直接的な史料は、一点も確認できなかったという事実である。この「史料上の不在」こそが、考察の出発点となる。
史料に直接的な答えがない以上、ここからは情報の伝播と変容の過程を推論する、歴史学的な考察が求められる。「須崎の商人、阿久沢彦二郎」という人物像が形成された背景には、いくつかの可能性が考えられる。
人間の記憶や情報の伝達は、時に不正確である。「阿久沢(あくざわ)」という比較的珍しい姓が、より一般的な、あるいは音の響きが似た別の姓と混同される過程で、誤った情報が定着した可能性は十分に考えられる。例えば、近隣の阿波国(徳島県)の古文書には、「赤沢(あかさわ)茂一郎」という商人名が見える 21 。また、土佐国内にも、「秋月(あきづき)氏」のように、朝鮮半島から渡来し、豆腐の独占販売権を得て豪商となった一族も存在する 22 。このような類似した音や字面を持つ別の商人の名が、口伝や不正確な記録の中で「阿久沢」へと変化し、そこにどこからか伝わった「彦二郎」という名が結びついたというシナリオである。
歴史、特に記録が乏しい民衆史の領域では、複数の異なる伝承や物語が、時代を経て一つの人格や出来事に集約・融合することがある。これは、物語をより魅力的で記憶に残りやすいものにするための、自然な文化的プロセスとも言える。
この観点から見れば、「上野国の勇猛果敢な武士・彦二郎」の武勇伝の断片と、「須崎の繁栄を築いた、名もなき有力商人」の成功譚が、後世の語り部や地域史家の手によって、あるいは人々の噂話の中で、無意識のうちに融合した可能性が考えられる。土佐には、非業の死を遂げた武将の怨霊譚(七人みさき)や、商家の盛衰にまつわる不思議な話など、様々な伝承が息づいている 23 。このような物語が生まれやすい文化的土壌の中で、「阿久沢彦二郎」という、実在の武士の名を借りた、理想の商人像が創作されたのかもしれない。
この仮説が、最も有力かつ本質的なものであるかもしれない。第二部で詳述した通り、戦国期の須崎に、堺商人や播磨屋、仁尾商人をはじめとする多くの有力な商人が活動していたことは歴史的な事実である。しかし、彼らの多くは、その個人の名前を歴史の中に残していない。須崎の繁栄という「事実」は存在するが、その繁栄を担った主役たちの「顔」は見えないのである。
人々が地域の歴史や繁栄を語り継ぐ際、抽象的な事実だけでは物語として成立しにくい。そこには、物語を牽引する具体的なヒーロー、すなわち象徴的な「人格」が必要とされる。須崎の繁栄を語る上で、「名もなき商人たち」では迫力に欠ける。そこに、実在の武士である「阿久沢彦二郎」という、力強く、具体的な響きを持つ名前が、どこかの時点で当てはめられたのではないか。つまり、「阿久沢彦二郎」は、須崎の経済的成功という歴史の空白を埋め、その繁栄を一身に体現する「象徴」として、後世の人々によって要請され、配置された存在であると考えることができる。
本調査は、一人の人物「阿久沢彦二郎」をめぐる問いから始まった。その結果、史料上、その人物は「須崎の商人」ではなく「上野の武士」であったことが判明した。しかし、調査はそこで終わらなかった。依頼者の本来の関心に応えるべく、我々は戦国期須崎の商人たちの世界を深く探求し、長宗我部氏の国家戦略と連動しながら、多様な人々が織りなす活気に満ちた港町の姿を再構築した。
結論として、「須崎の商人、阿久沢彦二郎」という人物は、史料上は存在しない。しかし、その存在を問うたこと自体が、我々を二つの異なる歴史の深淵へと導き、さらには歴史情報がどのように伝播し、記憶され、時に再構築されるのかという、歴史学の根源的なテーマについて考察する貴重な機会を与えてくれた。
歴史とは、揺るぎない事実の集合体であると同時に、人々の記憶や伝承の中で絶えず紡がれ続ける物語でもある。本報告書が、その両側面への理解を深める一助となれば、幸いである。