阿曾沼広秀(あそぬま ひろひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活動した安芸国(現在の広島県西部)の国人領主である 1 。当初は西国の大大名であった大内氏に属していたが、後に毛利氏の家臣となり、その勢力拡大に貢献した武将として知られる 1 。
阿曾沼広秀の生涯は、強大な戦国大名の興亡の中で、地方の国人領主がいかにして自家の存続を図ったかを示す典型的な事例と言える。主家を大内氏から毛利氏へと変遷させる過程、毛利氏家臣としての軍事行動、さらには室町幕府との関係維持など、その行動は当時の複雑な政治・軍事状況を色濃く反映している。広秀の生き様は、単に一個人の武将としての軌跡に留まらず、戦国時代における国人領主の一般的な生き残り戦略、すなわち強大な勢力への従属と、その中での自立性の維持という二面性を体現している点で注目に値する。彼の動向を追うことは、当時の安芸国周辺の政治・軍事状況、そして毛利氏の覇権確立過程における国人衆の役割を理解する上で、重要な手がかりを提供する。
本報告書は、阿曾沼広秀の出自、家系、生涯、具体的な事績、関連した合戦、毛利氏との関係、居城であった鳥籠山城、そして彼の子孫に至るまでを、現存する史料に基づいて多角的に調査し、その実像を明らかにすることを目的とする。
阿曾沼氏の祖は、藤原姓足利氏の一族で、足利有綱(あしかが ありつな)の四男にあたる阿曾沼四郎広綱(あそぬま しろう ひろつな)であるとされる 3 。広綱は下野国安蘇郡阿曽沼郷(現在の栃木県佐野市浅沼町周辺)を領有し、阿曾沼氏を称したのがその始まりと伝えられている 4 。
阿曾沼氏は、源平合戦の時代にまで遡る関東の武士団にその起源を持ち、鎌倉幕府の御家人として陸奥国(現在の東北地方の一部)と安芸国に所領を得て勢力を拡大した一族であった。広綱は源頼朝に従い、文治5年(1189年)の奥州合戦における戦功により、陸奥国閉伊郡遠野保(とおののほ、現在の岩手県遠野市周辺)の地頭職に補任された 4 。これが遠野阿曾沼氏の始まりである。広綱の子である朝綱(ともつな)は下野国の本領を継承し、その弟である親綱(ちかつな)が遠野保を継承した 4 。遠野阿曾沼氏は、当初は代官による統治であったとみられるが、後に現地に土着し、横田城(よこたじょう)を拠点として勢力を築いた 4 。
一方で、親綱は承久3年(1221年)の承久の乱における戦功によって、安芸国世能荒山荘(せのあらやまのしょう)の地頭職も獲得した 4 。これにより、阿曾沼氏は遠野と安芸という地理的に離れた二つの地域に拠点を有することになった。この遠野と安芸という二つの流れの存在は、中世武士団における所領の分散と、それに伴う庶子家の分立という典型的な事例を示すものと言えるだろう。両系統の阿曾沼氏は、それぞれの地域に根を下ろし、独自の歴史を歩んでいくことになる 4 。
安芸国における阿曾沼氏の歴史は、前述の通り、阿曾沼親綱が承久の乱の戦功により安芸国安芸郡世能荒山荘(現在の広島県広島市安芸区中野周辺)の地頭職を得たことに始まる 1 。親綱は元寇(13世紀後半)の前後に世能荒山荘へ下向し、鳥籠山城(とりかごやまじょう、とこのやまじょうとも)を築城したと伝えられている 8 。
鳥籠山城を本拠地とした安芸阿曾沼氏は、鎌倉時代から戦国時代に至るまで、安芸国東部に確固たる勢力基盤を築いた国人領主であった。南北朝時代には足利幕府方に属し、その後は周防国を本拠とする大大名大内氏の影響下に入り、応仁の乱や、出雲国の尼子氏との戦いにも大内方として参加している 2 。
その本拠地である鳥籠山城は、瀬野川西岸に位置し 8 、周辺には属城の存在も示唆されるなど 12 、瀬野川流域の交通の要衝を押さえる戦略的拠点であった。この地理的・戦略的重要性は、後に毛利氏などの有力大名がこの地域に関心を寄せる要因の一つとなったと考えられる。
阿曾沼広秀の直接的な家族関係については、複数の史料からその概要をうかがい知ることができる。広秀の父は阿曾沼弘秀(あそぬま ひろひで、広秀と同名だが別人)である 1 。母については不詳とされている 1 。
広秀の兄弟としては、兄の隆郷(たかさと)、広秀自身、そして天野元定(あまの もとさだ)の室となった女子がいたことが記録されている 1 。一部の系図資料 7 では隆郷を広秀の子とするものも見られるが、より多くの一次情報に近いと考えられる史料 1 では隆郷を広秀の兄としており、本報告書ではこの説を採る。
広秀の妻は、田総元里(たぶさ もとさと)の娘であった 2 。子には、嫡男とみられる元秀(もとひで)、毛利元政(もうり もとまさ)の継室となった女子、就郷(なりさと)、そして桂元信(かつら もとのぶ)の室となった女子がいた 1 。
これらの情報をまとめたものが以下の表1である。
表1:阿曾沼広秀関連略系図
関係 |
氏名 |
備考 |
父 |
阿曾沼弘秀 (あそぬま ひろひで) |
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母 |
不詳 |
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兄 |
阿曾沼隆郷 (あそぬま たかさと) |
広秀の家督相続前に当主 |
本人 |
阿曾沼広秀 (あそぬま ひろひで) |
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妹 |
天野元定室 (あまの もとさだ しつ) |
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妻 |
田総元里娘 (たぶさ もとさと むすめ) |
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子(嫡男) |
阿曾沼元秀 (あそぬま もとひで) |
後に朝鮮出兵で戦死 |
子(女子) |
毛利元政継室 (もうり もとまさ けいしつ) |
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子(男子) |
阿曾沼就郷 (あそぬま なりさと) |
兄・元秀の系統とは別に長州藩士として存続 |
子(女子) |
桂元信室 (かつら もとのぶ しつ) |
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この系図は、広秀の直接的な家族関係を整理し、後の章で詳述する子孫たちの動向を理解する上での基礎となる。特に、元秀と就郷という二人の男子が、阿曾沼氏のその後の歴史にどのように関わっていくのかを追う上で重要である。
戦国時代の安芸国人であった阿曾沼氏は、当初、西国の大大名である大内氏の麾下にあった。しかし、大永3年(1523年)頃には大内氏から一時離反し、出雲国の尼子氏に味方したものの、大永7年(1527年)には大内氏の重臣であった陶興房(すえ おきふさ)の攻撃を受けて降伏し、再び大内氏の支配下に入ったという経緯がある 2 。
阿曾沼広秀の家督相続は、このような不安定な情勢の中で、大内氏内部の動乱と、それに乗じた毛利氏の急速な勢力拡大という、外部環境の激変と密接に連動して起こった。天文20年(1551年)、大内義隆(おおうち よしたか)が家臣の陶隆房(後の晴賢)に討たれるという大寧寺の変が発生すると、安芸国内の勢力図は大きく揺らいだ。この好機を捉えた毛利元就(もうり もとなり)は、翌天文21年(1552年)に、当時阿曾沼氏の当主であった広秀の兄・阿曾沼隆郷が守る鳥籠山城を攻撃した。この結果、隆郷は隠居し、弟である広秀が家督を継承するとともに、阿曾沼氏は毛利氏に帰属することとなった 1 。
この家督交代劇は、単に阿曾沼氏一族内部の問題に留まらず、より大きな政治的・軍事的文脈の中で理解する必要がある。隆郷が親大内義隆派であったため、陶氏と協調関係にあった毛利氏の介入によって隠居に追い込まれ、広秀が新たな当主として擁立された可能性が考えられる 8 。広秀の代から毛利氏への従属が始まるという点で、これは阿曾沼氏の歴史における大きな転換点であったと言える。
毛利氏に帰属した阿曾沼広秀は、以後、毛利氏の主要な合戦に積極的に従軍し、武功を重ねていく。家督相続直後の天文21年(1552年)には、備後国志川瀧山城(ししがわたきやまじょう)の宮光音(みや みつなり)攻撃に参加している 1 。
天文24年(1555年)に起こった厳島の戦いでは、毛利元就が陶晴賢を破り、中国地方の覇権を大きく手繰り寄せたが、広秀もこの戦いに毛利方として参陣したことは確実視される 1 。具体的な役割については史料が乏しいものの、毛利氏の命運をかけたこの大会戦において、広秀もその一翼を担ったと考えられる。続く防長経略(周防・長門平定戦)においても活躍したとされている 1 。
その後も広秀の軍事活動は続き、永禄12年(1569年)には、九州における大友氏との戦いの一つである立花城の戦いにおいて、宝満城(ほうまんじょう)に入り、大友軍の退路を遮断しようとした高橋鑑種(たかはし あきたね)の援軍として派遣されている 1 。
特に広秀の個人的な武勇を伝える記録として、「頸注文(くびちゅうもん)」と呼ばれる戦功報告書が残されている。永禄13年(1570年)4月17日の出雲国牛尾城(うしおじょう)攻め、そして天正3年(1575年)1月1日の備中国吉城(きつじょう、国吉城とも)攻めにおいて、広秀はいずれも自ら敵兵の首一つを討ち取るという武功を挙げたことが、それぞれ『毛利家文書』に所収される「出雲国牛尾要害合戦頸注文」および「備中国手要害合戦頸注文」に記されている 1 。
これらの広秀の主要な参戦記録をまとめたものが以下の表2である。
表2:阿曾沼広秀 主要参戦記録
年月日 |
合戦名・事態 |
場所 |
広秀の役割・行動・武功 |
典拠史料(例) |
天文21年(1552年) |
志川瀧山城攻撃 |
備後国 |
毛利方として参戦 |
1 |
天文24年(1555年)10月1日 |
厳島の戦い |
安芸国厳島 |
毛利方として参戦 |
2 |
(厳島の戦い後) |
防長経略 |
周防国・長門国 |
毛利方として参戦、活躍 |
1 |
弘治3年(1557年)3月12日 |
軍規に関する連署契状 |
- |
毛利隆元らと連署 |
『毛利家文書』 15 |
永禄12年(1569年) |
立花城の戦い関連 |
筑前国宝満城 |
高橋鑑種の援軍として宝満城で大友軍の退路を遮断 |
1 |
永禄13年(1570年)4月17日 |
牛尾城攻め |
出雲国 |
敵兵の首一つを討ち取る |
『毛利家文書』374号 1 |
天正3年(1575年)1月1日 |
国吉城(手要害)攻め |
備中国 |
敵兵の首一つを討ち取る |
『毛利家文書』375号 1 |
この表は、広秀が毛利氏の主要な軍事行動において、単に兵を率いるだけでなく、時には自ら最前線で戦い武功を挙げるほどの武将であったことを示している。
阿曾沼広秀と毛利氏との関係は、単なる主従関係に留まらず、国人領主としての一定の自立性を保持しようとする広秀の姿勢と、それを許容しつつも統制を強めようとする毛利氏との間の、微妙なバランスの上に成り立っていた。
その一端を示すのが、弘治3年(1557年)3月12日付で、毛利隆元(元就の嫡男)ら毛利氏の主要な一族・家臣と共に、軍勢による乱暴狼藉の禁止などを定めた連署契状に「阿曾沼廣秀」として署名している事実である 15 。この時期は、毛利氏が大内義長(おおうち よしなが、大内義隆の後継者として擁立された)を討伐する直前であり、大規模な軍事行動を控えて軍規の徹底を図る目的があったと考えられる 15 。この連署契状への参加は、広秀が毛利氏の主要な国人家臣の一人として、軍事行動における規律維持に共同で責任を負う立場にあったことを示している。一方で、連署という形式は、参加した国人衆の一定の対等性を形式上は残すものであり、毛利氏による国人統制の一つのあり方を垣間見せる。弘治3年12月2日には、毛利元就・隆元父子、宍戸隆家、そして阿曾沼広秀ら安芸国の国人領主12名が、軍勢狼藉や陣払の禁止等を申し合わせた傘連判状も作成されており 16 、これも毛利氏を中心とした軍事同盟、あるいは主従関係の確認という側面を持っていた可能性がある。
しかし、広秀は毛利氏に対して常に従順であったわけではない。元亀元年(永禄13年、1570年)の出雲遠征においては参陣を遅らせ、元就から催促を受けている。また、毛利氏から課せられた公事(賦役など)に対して不満を表明することもあったと記録されており 1 、毛利氏に属してからも国人領主としての自立性を維持しようとする側面が見られた。
広秀のこれらの行動は、戦国時代の国人領主が、より大きな勢力に従属しつつも、自身の権益や主体性を可能な限り保持しようとした典型的な姿を示している。毛利氏との関係は、完全な服従ではなく、常に緊張感をはらんだ交渉と協調のバランスの上に成り立っていたのであり、毛利氏の支配体制が、国人衆の自立性をある程度許容することで成り立っていた可能性を示唆している。
阿曾沼広秀は、毛利氏の家臣でありながら、中央の権威である室町幕府、特に足利将軍家との直接的な繋がりも維持していた。永禄3年(1560年)2月20日には、第13代将軍・足利義輝(あしかが よしてる)の仲介により、朝廷から中務少輔(なかつかさのしょうゆう)の官途を拝領している 1 。これは、広秀が単なる一地方武将に留まらない、中央の権威をも意識した存在であったことを示している。
さらに、天正16年(1588年)には、翌年に迎える足利義輝の25年忌のための仏事料を幕府関係者に納め、これに対して真木島昭光(まきしま あきみつ)、飯尾昭連(いのお あきつら)、そして織田信秀(おだ のぶひで、織田信長の父と同名だが年代的に別人か、あるいは史料の誤記の可能性も指摘される 1 )から礼状を送られている 1 。
毛利氏の家臣でありながら、足利将軍家との直接的なパイプを維持し、官途を得ていたことは、国人領主としての家格の維持や、毛利氏以外の権威との結びつきを模索する戦略の一環であった可能性がある。永禄3年(1560年)当時、毛利氏は勢力を伸張させていたが、足利将軍の権威はまだ一定程度残存しており、将軍の仲介による官途拝領は広秀自身のステータスを高めるものであった。また、義輝の25年忌に仏事料を納めた行為は、旧体制との繋がりを依然として重視していたことの現れであると同時に、義理堅さを示すものであったかもしれない。これらの行動は、戦国武将が複数の権威構造の中で自らの立場を有利にしようとする、多面的な外交戦略の一端を示していると言えるだろう。
阿曾沼広秀は、慶長2年11月29日(西暦1598年1月6日)に死去した 1 。一部史料 17 では1597年没とあるが、慶長2年は西暦1597年から1598年初頭にあたり、日付まで詳細な記録 1 を優先するのが妥当であろう。その死没地や具体的な死因に関する記録は、現時点までに確認された資料からは見当たらない。
阿曾沼広秀をはじめとする安芸阿曾沼氏の拠点であった鳥籠山城は、安芸国安芸郡世能荒山荘、現在の広島県広島市安芸区中野にその跡を残している 1 。伝承によれば、鎌倉時代に阿曾沼親綱によって築城されたとされるこの城は 8 、約350年もの長きにわたり阿曾沼氏の居城として機能した 8 。
鳥籠山城は、瀬野川西岸に位置する蓮華寺山(れんげじやま)から南に張り出した尾根の一部を利用して築かれた山城である。城の最高所に本郭(主郭)を置き、そこから南東方向に向けて大小13の郭(くるわ)を階段状に配置するという、典型的な連郭式の縄張りであった。また、背後の蓮華寺山方面に対しては、尾根を断ち切る形で堀切(ほりきり)が設けられ、防御を固めていた 8 。
歴史的には、大永7年(1527年)に大内氏の重臣・陶興房や、若き日の毛利元就らに包囲され、阿曾沼氏は重臣の一人を切腹させることで降伏したという記録も残る 8 。これは、阿曾沼氏が当時の安芸国における有力な国人領主の一角を占めていたことを示すと同時に、周辺大勢力との緊張関係の中にあったことを物語っている。
阿曾沼広秀の代には毛利氏に属し、その後も阿曾沼氏の居城として存続したが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が周防・長門の二国に減封されると、阿曾沼氏もこれに従って移封したため、鳥籠山城はその役目を終え、廃城となった 8 。この廃城の経緯は、関ヶ原の戦い後の毛利氏の減封という、阿曾沼氏自身の運命をも左右した大きな歴史的転換点と連動しており、多くの国人領主の城が辿った運命であり、近世大名領国体制への移行を象徴する出来事の一つと言える。
現在、鳥籠山城は城跡のみが残り、広島市安芸区中野にあるひかり幼稚園の裏手の小高い山に、往時を偲ばせる石垣、曲輪、竪堀(たてぼり)などの遺構が確認できる 8 。
この城跡については、学術的な調査も行われており、『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』にその詳細が記載されている 12 。特に同報告書の第1集には、城の略測図が掲載されており、その縄張りの概要を知ることができる 24 。
発掘調査も実施されており、1郭(本郭)の北西に接する堀切からは、土橋(どばし)の機能を持っていたと考えられる遺構や、それに付属する木橋の存在を示す柱穴群が発見されている。また、出土遺物としては、陶磁器、土師質土器(はじしつどき)、鉄釘などが確認されており、これらは当時の城内での生活や活動の様子を具体的に示す手がかりとなる 18 。
文献史料としては、江戸時代に編纂された地誌である『芸藩通志(げいはんつうし)』にも、鳥籠山城やその属城(掛山城、枕城、陣丸など)に関する記述が見られる 12 。
これらの文献史料と考古学的調査結果は、鳥籠山城の歴史的実態を相互に補完し合うものである。特に発掘調査によって得られた物理的な証拠は、城の具体的な構造や、そこで営まれたであろう当時の人々の生活様式を明らかにする上で、極めて重要な価値を持つと言えるだろう。
阿曾沼広秀の死後、阿曾沼家の家督は嫡男とみられる阿曾沼元秀が継承した。元秀も父同様、毛利氏の家臣として活動した 1 。しかし、広秀の晩年から元秀の代にかけて、阿曾沼家は当主の相次ぐ死という大きな試練に見舞われることとなる。
元秀は、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)において、毛利輝元の養嗣子であった毛利秀元に従って朝鮮半島へ渡った。そして、慶長2年(1597年)12月22日、蔚山城(うるさんじょう)の戦いにおいて明・朝鮮連合軍の急襲を受け、同じく毛利氏家臣であった冷泉元満(れいぜい もとみつ)や都野家頼(つの いえより)らと共に戦死した 28 。これは、父である広秀が同年11月29日に没した直後の出来事であり 29 、阿曾沼家にとっては立て続けに当主を失うという深刻な事態であった。元秀の朝鮮における戦死は、豊臣政権下で行われた大規模な外征が、遠く日本の地方武士たちにもたらした多大な負担と悲劇を象徴する出来事の一つと言える。
元秀の戦死に伴い、その子であり広秀の孫にあたる阿曾沼元郷(あそぬま もとさと)が家督を継承した 29 。しかし、この元郷もまた若くして、慶長6年(1601年)8月3日に死去してしまう 27 。相次ぐ当主の夭折は、阿曾沼家の家督相続問題を一層深刻化させ、家の安定を大きく揺るがす事態を招いた。
阿曾沼元郷の死により、阿曾沼家は再び家督相続の危機に瀕した。元郷には実子の男子がおらず、正室が元郷の死後に懐妊していたものの、生まれたのは女子であった 29 。
この事態に対し、毛利輝元は阿曾沼家の存続に積極的に関与した。輝元の指示により、毛利元就の七男である天野元政(あまの もとまさ)の子・兵七(へいしち)、後の阿曾沼元理(あそぬま もとまさ/もとよし)が元郷の娘婿となり、慶長7年(1602年)に阿曾沼氏の家督を相続した 27 。この元理の相続により、阿曾沼氏は毛利一門との血縁的結びつきを強化し、家名を存続させることに成功した。これは、戦国時代から江戸時代初期にかけて、大名家が有力な家臣団を再編・統制する過程でしばしば見られた手法である。
阿曾沼元理の禄高は2500石であったと記録されており 27 、これは長州藩内においても比較的高禄であり、阿曾沼氏が依然として重要な家臣と位置づけられていたことを示している。元理に与えられた給領地は、周防国熊毛郡大野村、都濃郡小畑、長門国大津郡日置村、同鼻瓦などで、合計2500石余に及んだ 30 。この系統が、江戸時代を通じて長州藩士として続いた阿曾沼氏の本流となったと考えられる。
阿曾沼元理は、寛永14年(1637年)3月3日に家督を長子の就致(なりむね、なりよし)に譲り、承応2年(1653年)11月14日に死去した 30 。
阿曾沼広秀には、嫡男の元秀の他に、阿曾沼就郷(あそぬま なりさと)という男子がいたことが確認されている 1 。就郷は元秀の弟にあたる。
就郷は、毛利輝元、そしてその子である毛利秀就(もうり ひでなり)に仕え、知行600石を得ていた 28 。兄・元秀の系統が元理によって継承された後も、就郷の系統は別家として長州藩に仕えていたのである。600石という知行は、元理の系統よりは少ないものの、藩士としては決して低くない石高であった。
就郷の活動として特筆すべきは、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣における役割である。この時、就郷は木原就重(きはら なりしげ)と共に、毛利輝元・秀就父子から、上洛する毛利軍の諸隊に対し軍監のような立場で諸法度を申し付け、違反者を処罰する権限を与えられている。また、配下の鉄砲衆の一部は、伝令などのために普請役を免除されるべきことも指示されており 28 、就郷が単なる知行取りの武士ではなく、軍事的な統率や監察の任務もこなす能力を持つ人物として評価されていたことを示している。
就郷は、寛永9年(1632年)9月3日に家督と知行600石を嫡男の片岡就貞(かたおか なりさだ、阿曾沼姓から片岡姓に改姓したか、あるいは片岡家の養子となった可能性が考えられる)に譲り、寛永17年(1640年)8月25日に死去した 28 。この就郷の系統も、少なくとも一代は長州藩士として存続したことが確認できる。
江戸時代の長州藩において、阿曾沼氏は複数の系統に分かれて存続していたと考えられる。その家格や知行については、『萩藩閥閲録(はぎはんばつえつろく)』などの史料から断片的な情報を得ることができる。
小郡名田島475石の阿曾沼氏について
『長州藩の家臣団』といった資料には、「阿曾沼氏 - 安芸国人、給領地は小郡名田島475石」という記述が見られる 31 。この475石の阿曾沼氏が、前述の元理の系統(本家、2500石)や就郷の系統(分家、600石)とどのような関係にあるのか、あるいはそれらとは別の系統なのかは、これらの断片的な情報だけでは特定が難しい。
播磨定男氏の論文「毛利氏家臣阿曽沼氏の遺跡」によれば、阿曾沼元郷が関ヶ原の戦い後に毛利氏に従って防長入りした際、当初与えられた知行地の一つに「長門国阿武郡地福・徳佐之内で475石」というものがあったと記されており 30 、この石高が「小郡名田島475石」と関連する可能性も考えられるが、両者の直接的な結びつきは現時点では不明である。長州藩の家臣団編成は複雑であり、阿曾沼氏も複数の家系が異なる禄高で存続していた可能性が高く、この「小郡名田島475石」の阿曾沼氏の系統特定は、さらなる史料調査、特に『萩藩閥閲録』や『近世防長諸家系図綜覧』といった根本史料の詳細な検討を必要とする課題である。
阿曾沼二郎三郎家(就春・就致問題を含む)
阿曾沼元理の家督を継いだ長子の就致は早世し、その死因は藩命による自害(切腹)であったとされている 30 。また、阿曾沼就春(あそぬま なりはる)という人物が、藩の当役(重要な役職)などを務めたものの、後に藩命により切腹させられたという記録も存在する 30 。
この就致と就春の関係については、史料によって表記が異なるなど混乱が見られ、同一人物説と別人説が存在する。播磨定男氏の論文 30 では、就春が切腹したという事実が重いため、系図上などで就致と就春があたかも別人であるかのように表記された可能性を指摘している。いずれにせよ、この「就春・就致問題」は、阿曾沼元理の系統が藩政との関わりの中で重大な危機に直面したことを示している。
この系統は一時的に家運が傾き、没落したが、就致(あるいは就春)の後の当主とみられる秀光(ひでみつ)の子である秀之(ひでゆき、通称は千吉、後に二郎三郎、主税)の代になって再興され、正徳元年(1711年)には長州藩の上級家臣である寄組(よりぐみ)の家格に復帰した 30 。この阿曾沼秀之こそが、『萩藩閥閲録』巻35「阿曾沼二郎三郎」として記録されている中心人物であると考えられる 2 。『萩藩閥閲録』がこの「阿曾沼二郎三郎」を標題として一巻を立てていることは、この再興された家系が長州藩において阿曾沼氏の代表的な家として認識されていたことを示唆している。この一連の出来事は、藩政との関わりの中で有力家臣が経験した栄枯盛衰の厳しさを示す事例であり、阿曾沼氏の歴史における重要なエピソードである。
阿曾沼広秀は、戦国時代の安芸国において、大内氏、尼子氏、そして毛利氏という強大な勢力が複雑に絡み合う中で、巧みに立ち回り自家の存続と勢力維持に努めた、典型的な国人領主であったと言える 2 。彼の生涯は、まさに戦国乱世を生き抜いた地方領主の姿を映し出している。
本拠地である鳥籠山城を中心とした世能荒山荘の支配は、安芸国東部における阿曾沼氏の勢力基盤であり、その戦略的重要性は高かった。広秀の時代、安芸国は複数の大勢力の角逐の場であり、大内氏から毛利氏への帰属変更 2 は、激変する情勢の中で家名を保つための現実的な判断であった。毛利氏の麾下に入った後も、主要な合戦に参加し武功を挙げることで 1 、新たな主家への貢献を示すと同時に、自らの存在価値を高めようとした。彼の動向は、中国地方の勢力図の変化を映し出す縮図とも言え、戦国国人がいかにして自立性を保ちつつ、より大きな権力と共存していったかを示す好例である。
阿曾沼広秀は、毛利氏の中国地方支配体制の確立過程において、重要な役割を果たした国人領主の一人であった。毛利氏の主要な合戦に従軍し、時には自ら敵将の首を挙げるなどの武功を立てたことは 2 、彼が毛利氏の軍事力の一翼を担う有力な武将であったことを示している。
弘治3年(1557年)に毛利隆元らと軍規に関する連署契状に名を連ねたこと 15 は、広秀が毛利氏の国人統制策の中で、他の有力国人と同様に遇され、毛利氏を中心とする軍事同盟、あるいは主従関係において一定の地位を認められていたことを物語っている。
一方で、毛利氏から課せられた公事負担に対する不満の表明や、元亀元年(1570年)の出雲遠征における参陣の遅延といった行動 2 は、毛利氏の支配体制が必ずしも一枚岩ではなく、国人領主の自立性を完全に排除するものではなかったことを示唆している。毛利元就は、多くの国人領主を巧みに味方に引き入れ、あるいは支配下に置くことで勢力を拡大したが 35 、広秀のような元々独立した領主であった国人たちの意識は容易には消えなかった。
これらの事実から、阿曾沼広秀は、毛利氏の家臣団の中で、譜代の家臣とは異なる国人領主としての一定の独自性を有しつつも、毛利氏の覇権確立に貢献したと評価できる。彼の存在は、毛利氏の支配体制が、国人衆の取り込みと統制という、巧みなバランスの上に成り立っていたことを示す一例と言えるだろう。毛利氏にとって、広秀のような有力国人をいかに効果的に支配体制に組み込むかは重要な課題であり、その関係性は主従でありながらも、ある種の緊張感を伴うものであったと考えられる。
現存する史料から阿曾沼広秀の人物像を推察すると、まず武勇に優れた武将であったことが挙げられる。「頸注文」に自ら敵の首を討ち取った記録が残ること 1 は、その証左である。同時に、室町幕府の足利将軍家と直接的な繋がりを持ち、官途を拝領するなど 1 、中央の権威とも通じる外交感覚も持ち合わせていた人物であったと考えられる。
しかしながら、史料の制約から、広秀の個人的な性格や、領国経営における具体的な統治政策、文化的な側面など、彼の内面や領主としての詳細な活動については、残念ながら情報が乏しいのが現状である。
阿曾沼氏に関する研究としては、外園豊基氏の論文「安芸国衆阿曽沼氏について」 36 や、播磨定男氏の論文「毛利氏家臣阿曽沼氏の遺跡」 30 などが重要な成果として挙げられる。これらの研究は、主に『毛利家文書』や『萩藩閥閲録』といった編纂史料や、現存する遺跡の調査に基づいて行われている。
今後の課題としては、未発見の一次史料の発掘や、既存史料の多角的な分析を通じて、阿曾沼広秀および阿曾沼氏に関する理解をさらに深めることが期待される。特に、広秀の領国経営の実態や、毛利氏以外の周辺勢力とのより詳細な関係性の解明、さらには鳥籠山城跡の考古学的調査の進展による新たな知見の獲得などが望まれる。
本報告書では、戦国時代から安土桃山時代にかけて活動した安芸国の国人領主・阿曾沼広秀について、その出自、家系、生涯と事績、拠点であった鳥籠山城、そして彼以降の阿曾沼氏の動向を、現存する史料に基づいて詳細に調査し、明らかにしてきた。
阿曾沼広秀は、藤姓足利氏の流れを汲む名門の出自を持ち、鎌倉時代以来の安芸国世能荒山荘の地頭職を継承した阿曾沼氏の当主として、激動の時代を生きた。大内氏から毛利氏へと所属を変え、毛利氏の主要な合戦に従軍して武功を挙げるとともに、室町幕府とも関係を維持するなど、国人領主としての巧みな処世術を見せた。その生涯は、戦国時代の国人領主が、いかにして自家の存続と勢力維持を図ったかを示す貴重な事例である。
広秀の死後、阿曾沼家は嫡男・元秀の朝鮮での戦死、孫・元郷の早世という危機に見舞われたが、毛利一門から元理を養子に迎えることで家名を存続させ、長州藩の有力家臣として江戸時代を通じて続いた。また、広秀の子・就郷の系統も別家として長州藩に仕えた。
阿曾沼広秀は、毛利氏の中国地方支配体制の確立に貢献した重要な武将であり、その存在は毛利氏の国人統制策を考察する上でも示唆に富む。彼の歴史的重要性は、単に一地方領主としての活動に留まらず、戦国時代から近世へと移行する時代の大きなうねりの中で、国人層が果たした役割を体現している点にあると言えるだろう。
今後の研究課題としては、阿曾沼広秀の具体的な領国経営の実態、毛利氏以外の勢力との詳細な外交関係、そして彼の人物像をより深く掘り下げるための一次史料のさらなる発掘と分析が挙げられる。また、鳥籠山城跡をはじめとする関連遺跡の考古学的調査の進展も、阿曾沼氏研究に新たな光を当てるものとして期待される。