最終更新日 2025-07-19

阿曾沼広長

奥州の没落領主・阿曾沼広長の生涯 ― その栄光、悲劇、そして血脈の行方

序章:遠野の没落領主、阿曾沼広長

本報告書は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての奥州に生きた一人の武将、阿曾沼広長(あそぬま ひろなが)の生涯を、その一族の興亡史という壮大な文脈の中に位置づけ、多角的に分析・詳述することを目的とする。利用者によって提示された「関ヶ原合戦の留守中に家臣に居城を奪われ、伊達家臣となった」という概要は、広長の悲劇的な後半生を的確に捉えている。しかし、この結末に至るまでには、400年以上にわたる一族の歴史、父・広郷の代に築かれた栄光、そして豊臣政権から徳川幕府へと移行する時代の激しい地殻変動が複雑に絡み合っている。

広長が生きた慶長年間(1596-1615年)の奥州は、天下統一の奔流が地方の勢力図を根底から覆す、極めて流動的な時代であった。北では南部氏が九戸政実の乱を鎮圧し、悲願であった領内統一を推し進めつつ南下政策を窺い、南では「遅れてきた英雄」伊達政宗が、巧みな外交と謀略を駆使して失地回復と勢力拡大の野心を燃やしていた 1 。遠野を本拠とする阿曾沼氏は、この二大勢力の狭間にあって、自立と存亡をかけた困難な舵取りを迫られていたのである。広長の悲劇は、単なる一個人の不運としてではなく、この時代の奥州におけるパワーバランスの再編過程で必然的に生じた、地方豪族の淘汰という冷徹な歴史の帰結であった。

本稿の分析は、主に阿曾沼氏の後裔である宇夫方平大夫広隆が享保年間(1716-1736年)に著したとされる『阿曾沼興廃記』を基軸とする 4 。この史料は、阿曾沼氏の視点からその興亡を描いた貴重な記録であるが、江戸時代中期に南部藩の統治下で書かれたという背景から、南部氏への一定の配慮がなされている可能性も考慮する必要がある。そのため、『伊達世臣家譜』や『藤平系図』といった伊達家側の記録、南部藩の公式記録、さらには近年の『遠野市史』などの研究成果を相互に参照し、重層的な視点から阿曾沼広長という人物の実像に迫る 6 。本報告書は、広長個人の生涯を徹底的に追うとともに、彼を翻弄した時代の力学を解き明かすことで、一人の武将の物語を通して戦国末期奥州の歴史的変遷を浮き彫りにするものである。

第一部:遠野阿曾沼氏の系譜と発展

第一章:下野国から奥州遠野へ ― 阿曾沼氏の起源

阿曾沼広長の悲劇を理解するためには、まず彼の一族が歩んだ400年以上にわたる歴史の軌跡を辿る必要がある。そのルーツは関東にあり、源平の動乱と奥州合戦を経て、遠く離れた奥州遠野の地に根を下ろすこととなる。

藤姓足利氏からの分流と、下野国での創始

阿曾沼氏は、その源流を辿ると、10世紀に関東で平将門の乱を鎮圧した鎮守府将軍・藤原秀郷に行き着く、由緒ある武家である 8 。秀郷の子孫は武家の名門として広く繁栄し、その一派は下野国(現在の栃木県)足利荘を本拠として藤姓足利氏を称した。この藤姓足利氏の当主・足利有綱の四男として生まれたのが、阿曾沼氏の初代当主となる阿曾沼四郎広綱である 4 。広綱は、下野国安蘇郡阿曾沼郷(現在の栃木県佐野市浅沼町)を領地とし、その地名を苗字として「阿曾沼」を名乗った 4 。この下野国の本領には、広綱が築いたとされる阿曽沼城の跡が今も残り、一族発祥の地としての歴史を伝えている 10

源平合戦と奥州合戦における初代・広綱の功績

12世紀末、源平合戦(治承・寿永の乱)が勃発すると、阿曾沼氏は歴史の大きな岐路に立たされる。本家である藤姓足利氏の当主・足利俊綱は平家方についたが、広綱は父・有綱や兄の佐野基綱らと共に、源頼朝に味方するという決断を下した 4 。彼は同族の山上氏や大胡氏らと共に頼朝軍に従い、野木宮合戦では小山朝政に加勢して本家・俊綱らを破るなど、武功を重ねていった 4 。この功績により、広綱は鎌倉幕府の有力な御家人として、その地位を確立する。

そして文治5年(1189年)、頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすために起こした奥州合戦に、広綱は再び従軍する 4 。この戦役における功績が、阿曾沼氏の運命を決定づけることになる。合戦後、その功を賞された広綱は、頼朝から陸奥国閉伊郡遠野保(へいぐん とおののほ)、すなわち「遠野十二郷」とも呼ばれる広大な地の地頭職に補任されたのである 13 。これが、下野国の武士であった阿曾沼氏と、奥州遠野との400年にわたる関係の始まりであった。

遠野への土着と統治体制の確立

遠野の地頭職を得た当初、阿曾沼氏は本領である下野国に留まり、一族の宇夫方氏などを代官として派遣して遠隔統治を行っていたと見られている 4 。広綱の跡は、長男の朝綱が下野の本領を継ぎ、次男の親綱が奥州遠野保を継承した 4 。この親綱の系統が、後の遠野阿曾沼氏となっていく。

一族が本格的に遠野の地へ下向し、土着したのは、14世紀の南北朝時代の動乱期であったと推測されている 8 。親綱は遠野の護摩堂山に横田城を築いて統治の拠点とし、その子孫たちはこの地で勢力を扶植していった 4 。建武元年(1334年)には、親綱の4世孫である朝綱が、南朝方の陸奥国司・北畠顕家から「遠野保」の所有を安堵されており、この時期には既に遠野の領主として確固たる地位を築いていたことが窺える 4

ここで注目すべきは、阿曾沼氏が維持していた複数の所領の存在である。彼らは下野国(関東)、遠野(奥州)に加え、承久の乱(1221年)の功績で安芸国(現在の広島県)にも世能荘という所領を得ていた 4 。この三つの拠点は、単なる領地拡大の結果ではなく、一族の存続をかけた戦略的な意味合いを持っていたと考えられる。一つの拠点で政治的な危機や戦乱に巻き込まれても、他の拠点で家名を存続させることが可能となるからである。事実、安芸阿曾沼氏は後に毛利氏に仕えて長州藩士として江戸時代を生き抜き、下野の系統も佐野氏家臣として名を連ねている 4 。広長が後に伊達氏を頼ることになるのも、こうした一族が持つ広範な地理的・人的ネットワークが背景にあったと解釈できる。この所領の分散は、変動の激しい中世を生き抜くための、巧みなリスク管理戦略だったのである。

第二章:中世遠野の領国経営

奥州の山間に位置する遠野の地で、阿曾沼氏は巧みな領国経営を展開し、その経済的基盤を固めていった。その柱となったのが、金山、馬産、そして商業の振興であった。

遠野は古くから金の産地として知られており、阿曾沼氏も領内の金山開発に積極的に取り組んだと考えられている 9 。これらの金山から産出される金は、一族の重要な財源となり、その勢力を支える経済的バックボーンとなった。

また、遠野は良質な馬の産地としても名高かった。阿曾沼氏はその地理的特性を活かして馬産を奨励し、軍事力の中核である騎馬武者の育成に努めた 9 。ここで育まれた馬は、後の時代に「南部駒」として全国にその名を馳せることになり、遠野の馬産文化は、柳田国男の『遠野物語』に記された「おしら様」伝説など、地域の信仰や民俗にも深く溶け込んでいった 22

さらに、阿曾沼氏は遠野が持つ地理的優位性に着目した。遠野盆地は、北上川流域の内陸部と、太平洋側の三陸沿岸を結ぶ交通の結節点に位置していた 24 。このため、各地から人や物資が集まる中継商業の拠点としての潜在能力を秘めていたのである。阿曾沼氏は城下町に定期市を設け、商業活動を活発化させた。遠野市内に現存する「六日町」という地名は、当時、毎月六のつく日に市が開かれていたことに由来するとされ、その繁栄ぶりを今に伝えている 9 。このようにして、阿曾沼氏は遠野を単なる軍事拠点としてだけでなく、地域の経済・流通の中心地としても発展させていったのである。

第三章:父・広郷の時代 ― 遠野阿曾沼氏の最盛期と翳り

16世紀末、遠野阿曾沼氏は第13代当主・阿曾沼広郷(ひろさと)の時代に、その歴史の頂点を迎える。しかし、その栄光の裏では、時代の大きなうねりが、一族の運命に暗い影を落とし始めていた。広長は、この父が築いた最盛期と、その後に生じた決定的な翳りの両方を引き継ぐことになる。

傑出した当主・阿曾沼広郷の登場

阿曾沼広郷は、武勇と内政手腕の双方に優れた、一族歴代の中でも傑出した人物と評されている 8 。彼は内政を充実させる一方で、近隣の葛西氏領である岩谷堂城へ兵を進めるなど、積極的な勢力拡大策も展開した 8 。この軍事行動は成功には至らなかったものの、当時の阿曾沼氏の勢いの強さを示す逸話である。

鍋倉城の築城と城下町の整備

広郷の時代における最大の事業は、本拠地の移転であった。それまでの居城であった横田城は、猿ヶ石川の氾濫による水害に度々悩まされていた 26 。そこで広郷は、天正年間(1573-1592年)の初め頃、天然の要害である鍋倉山に新たな城を築き、拠点を移したのである 9 。この新城は当初、旧城の名を継いで「横田城」と呼ばれたが、これが後の鍋倉城であり、阿曾沼氏の権勢が頂点に達したことを示す象徴的な建造物であった。さらに広郷は、城の移転に合わせて城下町を整備し、遠野の政治・経済の中心地としての基盤を完成させた 9

中央政権との関わりと時代の潮流

広郷は、奥州の僻遠の地にありながら、中央政権の動向に極めて敏感な、視野の広い領主であった。その証拠に、天正7年(1579年)、彼は使者を京に派遣し、当時天下人への道を突き進んでいた織田信長に、名産である白鷹を献上している 9 。この事実は、信長の伝記である『信長公記』にも記されており、広郷が天下の形勢を見極め、中央の最高権力者との関係構築を図っていたことを示している。

運命の分岐点:小田原不参と南部氏への従属

しかし、このように時代の潮流を読むことに長けていたはずの広郷が、その生涯で最大の政治的判断ミスを犯す。天正18年(1590年)、信長の後を継いで天下統一を目前にした豊臣秀吉が、関東の北条氏を討伐するために小田原征伐の軍を起こした際、広郷はこれに参陣しなかったのである 8

この「小田原不参」は、阿曾沼氏の運命を決定的に変えた。秀吉は、自身が発令した「惣無事令」(大名間の私闘を禁じる命令)に従い、小田原に参陣するか否かを基準に、全国の大名の存廃を冷徹に判断した。奥州の多くの大名が、この基準によって改易(領地没収)の憂き目に遭った。阿曾沼氏は、辛うじて改易は免れたものの、独立した大名としての地位を完全に失い、北の雄・南部信直の配下、すなわち与力として組み込まれることを余儀なくされた 4

この一点の失策が、後の阿曾沼広長の悲劇の直接的な根源となる。広郷は信長に遣使するほどの情報収集能力を持ちながら、なぜ秀吉の絶対的な命令に従わなかったのか。その理由として「当時の奥州の複雑な情勢が参陣を許さなかった」とする見方もあるが 8 、結果が全てであった。この時点で、阿曾沼氏はもはや独立したプレイヤーではなく、南部氏の勢力圏の一部と見なされるようになった。南部氏にとって、自身の支配下に入った阿曾沼氏をいずれ完全に排除し、戦略的要衝である遠野を直接支配下に置くことは、既定路線となったのである。慶長5年(1600年)に広長を襲う「遠野騒動」は、偶発的な事件ではなく、この天正18年の時点で構造的に準備されていたと言っても過言ではない。広長は、父が残した輝かしい遺産と共に、この致命的な「負の遺産」をも背負わされた、悲運の継承者だったのである。

第二部:激動の時代と阿曾沼広長

父・広郷の時代に築かれた栄光と、その裏で忍び寄っていた翳り。その両方を継承した阿曾沼広長は、まさに時代の激流の真っ只中にその身を投じることとなる。関ヶ原の戦いという天下分け目の大戦が、彼の、そして遠野阿曾沼氏400年の歴史の終焉を告げる引き金となった。

第四章:阿曾沼広長の悲劇 ― 関ヶ原合戦と遠野追放

関ヶ原合戦と最上出陣

慶長5年(1600年)9月、関ヶ原で徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激突した。これに先立ち、東軍に与した南部家の当主・南部利直は、家康の命令を受け、西軍方の上杉景勝を討つべく、その領地である出羽国(山形県)へ兵を進めていた 12 。南部氏の配下となっていた阿曾沼広長も、主君である利直に従い、この最上への遠征軍に加わっていた 4 。しかし、この主君への忠誠を尽くすための出陣が、皮肉にも彼の全てを奪う結果を招くことになる。

遠野騒動:主君不在の城で起きた謀反

広長が本拠地・遠野を留守にしている、まさにその隙を狙って、大規模な謀反が勃発した。これは後に「遠野騒動」と呼ばれる、阿曾沼氏の歴史に終止符を打ったクーデターであった。首謀者は、広長の一族であり鱒沢館(ますざわだて)の主であった鱒沢左馬助広勝(ますざわ さまのすけ ひろかつ)、そして鍋倉城の留守居役を任されていた上野広吉、平清水平右衛門の三名であった 4

彼らはまず、この謀反に与することを拒んだ忠臣、上附馬(かみつきもうし)の火渡館主・火渡玄浄を攻撃した。玄浄は火渡館に籠城して奮戦したが、衆寡敵せず、壮絶な討死を遂げた 4 。そして謀反軍は、主のいない鍋倉城をやすやすと占拠した。

最上での戦役を終えて帰国の途についた広長を待っていたのは、自らの居城に入ることすらできないという絶望的な現実であった。さらに悲劇は重なり、この混乱の最中、城から脱出を図った広長の妻子も、謀反軍の手によって命を奪われたと伝えられている 4 。一夜にして、広長は故郷も家族も、その全てを失ったのである。

この遠野騒動は、単なる家臣の裏切りという単純な構図では説明できない。その背後には、南部利直による周到に計算された領土併合の策謀があった。このクーデターは、南部氏が遠野領を完全に直接支配下に置くために仕組んだ、計画的な政変だったのである。その最大の根拠は、首謀者である鱒沢広勝が、南部利直の妹を妻としていたという事実である 27 。これは極めて強固な政治的姻戚関係であり、広勝の行動が利直の意向を強く反映したものであったことを物語っている。事件後、南部氏は一度、功労者である鱒沢氏に遠野の所領を安堵するが、それも束の間、やがて「謀叛を企てた」という名目でこれを粛清し、最終的に遠野を完全に自らのものとする 4 。これは、目的達成のために協力者を利用し、用済みとなれば冷徹に切り捨てるという、戦国大名の常套手段そのものであった。広長の悲劇は、南部氏の領土拡大戦略という大きなシナリオの中で、計画的に引き起こされたのである。

表1:阿曾沼広長を巡る遠野騒動 関係人物一覧

勢力

氏名

立場・役職

事件における役割

その後の末路

阿曾沼家(当主方)

阿曾沼 広長

遠野領主

南部軍として最上へ出陣中に領地を奪われる。伊達氏を頼り奪還を図るも失敗。

伊達家臣となり、失意のうちに死去。

火渡 玄浄

阿曾沼一族、火渡館主

謀反に与せず、鱒沢軍と戦い討死。

討死。

広長の妻子

-

鍋倉城から脱出中に殺害される。

死亡。

謀反方

鱒沢 広勝

阿曾沼一族、鱒沢館主

謀反の首謀者。南部利直の妹婿。鍋倉城を占拠。

広長の奪還軍との平田の戦いで討死。

上野 広吉

阿曾沼家臣、鍋倉城留守居役

謀反に加担。

慶長7年(1621年)に病死。

平清水 平右衛門

阿曾沼家臣、鍋倉城留守居役

謀反に加担。

娘婿・北信景の大阪の陣での豊臣方加担に連座し、元和元年(1615年)に切腹。

南部氏

南部 利直

南部家当主

謀反を背後で画策。関ヶ原後、遠野を完全に領有。

盛岡藩初代藩主となる。

伊達氏

伊達 政宗

仙台藩主

領地を失った広長を庇護し、遠野奪還を支援。

広長支援は、対南部戦略の一環であった。

第五章:伊達政宗の支援と故郷奪還の夢

故郷を追われた阿曾沼広長は、再起をかけて南へと向かう。彼の最後の希望は、奥州のもう一方の雄、伊達政宗であった。しかし、その支援は、広長の個人的な復讐心を、より大きな政治的構想の中に組み込むためのものであった。

伊達領への亡命と再起

全てを失った広長が身を寄せたのは、妻の実家があったとされる気仙郡世田米(せたまい)城(現在の岩手県住田町)であった 4 。この地は伊達領であり、広長はここで仙台藩主・伊達政宗の庇護下に入ることになる 32

伊達政宗の思惑と岩崎一揆

政宗が広長を支援したのは、単なる隣国の没落領主への同情からではなかった。その背景には、南部氏との覇権争いを有利に進めるための、極めて冷徹な政治的計算が存在した。当時、政宗は、かつて秀吉の奥州仕置で所領を失った和賀氏の旧臣・和賀忠親を密かに支援し、南部領の和賀・稗貫郡で大規模な反乱(岩崎一揆)を扇動していたのである 1 。この一揆は、関ヶ原の戦いで徳川方についた南部利直の背後を脅かすための陽動であり、政宗の領土拡大の野心を示すものであった。

この文脈において、広長による遠野奪還計画は、政宗にとって絶好のカードであった。岩崎一揆が南部領の西側を揺さぶる一方で、広長が東側の遠野で蜂起すれば、南部氏を南北から挟撃する形勢を作り出すことができる。広長の故郷を取り戻したいという切実な願いは、伊達・南部の領土紛争という、より大きな構図の中に巧みに利用されたのである 1

三度にわたる遠野侵攻とその結末

政宗の後ろ盾と、気仙郡の兵力を得た広長は、故郷・遠野を奪還すべく、三度にわたって侵攻作戦を決行した 4 。この一連の戦いの中で、広長は謀反の首魁であった鱒沢広勝を平田(現在の釜石市平田)での戦いで討ち取り、一矢を報いることに成功する 27

しかし、南部氏の守りは固く、鍋倉城を奪い返すまでには至らなかった。岩崎一揆も最終的には南部軍によって鎮圧され、政宗の思惑は頓挫する。そして、関ヶ原の戦いが東軍の勝利で終わり、徳川家康による新たな天下の秩序が確立される中で、遠野は名実ともに南部領として確定した 8 。広長の故郷奪還の夢は、ここに潰えたのである。

伊達家臣としての後半生と最期

故郷への道を完全に断たれた広長は、その後も伊達領に留まり、伊達家の客将、あるいは一人の家臣として、その後の人生を送った 4 。その最期の地については、気仙郡世田米で悲憤のうちに生涯を閉じたとする説 8 と、仙台城下で客死したとする説 32 があるが、いずれにせよ、二度と故郷の土を踏むことなく、失意のうちにこの世を去ったことは間違いない。400年続いた遠野領主・阿曾沼氏の歴史は、広長の死と共に、その幕を閉じたのである。

終章:遠野阿曾沼氏の終焉と後世への影響

阿曾沼広長の死は、遠野における一時代の終わりを意味した。しかし、それは阿曾沼という血脈の完全な消滅を意味するものではなかった。一族の歴史は、公的な記録から姿を消す一方で、別の形でひっそりと受け継がれていく。

嫡流の断絶と、血脈の存続

広長の死によって、鎌倉時代から400年以上にわたり遠野を統治してきた領主としての阿曾沼氏の「嫡流」は、名実ともに断絶した 4 。これは、大名家・領主としての家が歴史の表舞台から消え去ったことを意味する。

しかし、歴史の記録は多層的である。『伊達世臣家譜』や『藤平系図』といった史料には、広長には広行(ひろゆき)という二男がいたことが記されている 6 。彼とその子孫は、武士の身分を捨て「綾織久之進(あやおり きゅうのしん)」と名を変え、生き延びたとされる。「綾織」は遠野市内に現存する地名であり、伊達領で庇護された後、故郷に近い場所で身を潜めるようにして暮らしていたことを示唆している。彼らはその後、斯波氏の一族である雫石氏の客分となった後、最終的には帰農し、農民としてその血脈を後世に伝えたという 6 。このように、「公的な歴史」においては大名家として終焉を迎えた阿曾沼氏であったが、「私的な歴史」においては、その血筋は途絶えることなく続いていたのである。この事実は、歴史の記録からこぼれ落ちた人々の存在と、一つの家の「終わり」が持つ多義性を示している。

謀反者たちの末路

一方、広長を裏切り、南部氏に協力した者たちの末路もまた、安泰ではなかった。南部利直は、遠野を完全に掌握すると、かつての協力者たちを次々と粛清していった。クーデターの首謀者であった鱒沢氏は、広勝の子・忠右衛門の代に謀反の疑いをかけられて切腹を命じられ、一族は滅亡した 4 。同じく謀反に加担した平清水氏も、大坂の陣で豊臣方に付いた娘婿に連座する形で刑死させられた 27 。これは、目的のためには手段を選ばず、用済みとなれば容赦なく切り捨てるという、戦国時代の非情な論理を如実に物語っている。

阿曾沼氏統治の終焉と、遠野南部氏による新たな支配

阿曾沼氏の時代が完全に終わった後、寛永4年(1627年)、南部利直は一門の八戸直義(はちのへ なおよし)を八戸から遠野へ移封させた 26 。これより、遠野南部氏による新たな統治が始まり、幕末の明治維新まで続くことになる。遠野南部氏は、盛岡藩の家臣(陪臣)という立場でありながら、領内の裁判権を独自に持つなど、非常に特権的な地位を認められていた。その統治体制は「陪臣にして陪臣にあらず」「藩中藩あり」と評され、阿曾沼氏の時代とは異なる、新たな支配構造を遠野の地にもたらした 38

歴史的評価:悲劇の武将・阿曾沼広長の総括

阿曾沼広長の生涯は、個人の能力や意志だけでは到底抗うことのできない、時代の巨大な奔流に翻弄された、奥州の一地方領主の悲劇の典型例であった。彼の物語は、豊臣政権から徳川幕府へと移行する天下の動乱期に、地方の勢力図がいかに激しく、そして冷徹に塗り替えられていったかを、後世に生々しく伝えている。

最終的に、この失われた一族の記憶は、江戸時代中期に子孫の手によって編纂された『阿曾沼興廃記』によって、かろうじて現代にまで伝えられた 5 。この記録の存在そのものが、歴史の敗者となった一族の無念と、その名を留めようとした後裔の切なる想いの表れである。阿曾沼広長という一人の武将の悲劇を通して、我々は戦国乱世の終焉がもたらした光と影の、その深淵を垣間見ることができるのである。

引用文献

  1. 伊達政宗が支援した「岩崎一揆」は失策か? 和賀忠親が見せた名家としての意地 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10835
  2. 岩手県の戦国武将3選!南部晴政・南部信直・九戸政実 https://jp.neft.asia/archives/9942
  3. 「遅れてきた戦国武将」伊達政宗。波乱万丈の人生を3分で解説! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/185670/
  4. 阿曽沼氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%BD%E6%B2%BC%E6%B0%8F
  5. 阿曾沼興廃記(あそぬまこうはいき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E6%9B%BE%E6%B2%BC%E8%88%88%E5%BB%83%E8%A8%98-3024213
  6. 近世こもんじょ館 QあんどA館 https://komonjokan.net/cgi-bin/komon/QandA/QandA_view.cgi?mode=details&code_no=194
  7. 遠野市史関連書籍のご案内 https://www.city.tono.iwate.jp/index.cfm/48,42999,302,html
  8. 武家家伝_遠野阿曽沼氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_asonu.html
  9. 遠野の郷の、中世(阿曾沼氏の時代) https://ton-hs.note.jp/n/n9f80c313f891
  10. 阿曽沼 (浅沼) 一族 足利の昔 (5) - 光得寺 https://koutokuji.ashikaga.org/%E9%98%BF%E6%9B%BD%E6%B2%BC-%E6%B5%85%E6%B2%BC-%E4%B8%80%E6%97%8F%E3%80%80%E8%B6%B3%E5%88%A9%E3%81%AE%E6%98%94-5/
  11. 阿曽沼城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.asonuma.htm
  12. 阿曽沼氏とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E9%98%BF%E6%9B%BD%E6%B2%BC%E6%B0%8F
  13. 阿曾沼広綱(あそぬまひろつな)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E6%9B%BE%E6%B2%BC%E5%BA%83%E7%B6%B1-1262457
  14. 阿曽沼公歴代碑 | 観光スポット - いわての旅 https://iwatetabi.jp/spots/5849/
  15. 阿曾沼氏(あそぬまうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E6%9B%BE%E6%B2%BC%E6%B0%8F-1262456
  16. 認定番号84:阿曽沼公歴代の碑 - 遠野市 https://www.city.tono.iwate.jp/index.cfm/48,73722,303,656,html
  17. 城跡めぐりコース | 遠野時間|遠野市観光情報サイト https://tonojikan.jp/course/cycling_castle_ruins_tour/
  18. 陸奥 横田城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/mutsu/tono-yokota-jyo/
  19. 武家家伝_阿曽沼氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/asonuma.html
  20. 柴山館(諏訪館、柴山城、猿沢城) 夫東町横沢字倉林 る。主要地方道、江刺千厩東和線の東側に https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/34/34369/63039_5_%E5%B2%A9%E6%89%8B%E7%9C%8C%E4%B8%AD%E4%B8%96%E5%9F%8E%E9%A4%A8%E8%B7%A1%E5%88%86%E5%B8%83%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf
  21. 遠野馬の歴史 https://www.umanosato.jp/abouts/rekishi
  22. 「歴史地名」もう一つの読み方:ジャパンナレッジ 第32回 附馬牛 https://japanknowledge.com/articles/blogjournal/howtoread/entry.html?entryid=41
  23. 日本在来馬 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%A8%E6%9D%A5%E9%A6%AC
  24. 岩手県の古い町並み http://home.h09.itscom.net/oh-net/iwateken.html
  25. 遠野街道 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E9%87%8E%E8%A1%97%E9%81%93
  26. 鍋倉城 (陸奥国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%80%89%E5%9F%8E_(%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%9B%BD)
  27. 鍋倉城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.tohnonabekura.htm
  28. 鍋倉城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/320
  29. 国指定史跡鍋倉城跡について - 遠野市 https://www.city.tono.iwate.jp/index.cfm/48,71180,303,html
  30. 遠野物語remix 日本妖怪與怪談起點.柳田國男原著X京極夏彥新編.兩代大師聯手之民俗學經典(誠品獨家書衣幻之遠野版) https://www.eslite.com/product/10012013192682543385004
  31. 『信長の野望嵐世記』武将総覧 - 火間虫入道 http://hima.que.ne.jp/nobu/bushou/ransedata.cgi?keys17=%97%A4%92%86
  32. 程洞稲荷神社とその周辺 〜鮭の背に乗った英雄の複雑な誕生秘話〜|佐々木 大輔 - note https://note.com/sasakill/n/n2602d422d2e1
  33. 火渡館 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E6%B8%A1%E9%A4%A8
  34. 陸奥 鱒沢城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/mutsu/masusawa-jyo/
  35. 鱒沢館 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B1%92%E6%B2%A2%E9%A4%A8
  36. 岩崎一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%8F%86
  37. 伊達政宗 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97
  38. 「弘化の三閉伊一揆」と遠野|遠野高等学校 https://ton-hs.note.jp/n/nd086cee3a711
  39. 通 (南部藩) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A_(%E5%8D%97%E9%83%A8%E8%97%A9)