阿部善定は戦国備前の豪商。没落した宇喜多直家父子を庇護し、直家を商才ある武将に育てた。これは将来の権力者への戦略的投資であり、直家の成功を支えた陰の立役者。
阿部善定という人物の生涯を解明するためには、まず彼が生きた時代と場所、すなわち戦国時代の備前国、そしてその経済的中心地であった福岡の特異性を理解することが不可欠である。彼の行動は、単なる一個人の物語としてではなく、当時の政治的、経済的、そして軍事的な文脈の中に位置づけることで、その真の重要性が浮かび上がってくる。阿部善定が、没落した武家である宇喜多興家・直家父子を庇護し得た背景には、この商都・備前福岡が持つ比類なき力が存在した。
阿部善定が歴史の舞台に登場する16世紀前半の備前国は、守護大名の権威が失墜し、新たな実力者が台頭する「下剋上」の時代であった。名目上の支配者であった播磨・備前・美作守護の赤松氏は、嘉吉の乱以降その勢力を大きく後退させ、代わって守護代であった浦上氏が事実上の国主として君臨していた 1 。
しかし、その浦上氏の支配も盤石ではなかった。一族内部での対立や、主君を凌駕しようとする有力家臣の存在が、常に政情を不安定にしていた。この浦上家の家臣団の中で、特に大きな力を持っていたのが、後に阿部善定が深く関わることになる宇喜多能家と、その宿敵となる島村盛実であった 3 。彼らは浦上家の内紛に乗じて勢力を伸長し、備前国内で互いに覇を競う存在となっていた。このような一触即発の政治状況が、後の砥石城の悲劇、そして阿部善定の歴史的決断の直接的な背景となるのである。
阿部善定が「豪商」として活動の拠点とした備前福岡は、単なる地方都市ではなかった。鎌倉時代に時宗の開祖・一遍上人が訪れた際の様子が国宝『一遍上人絵伝』に「福岡の市」として描かれていることからもわかるように、古くから商業の中心地として知られていた 5 。
その繁栄を支えたのは、第一に地理的優位性である。備前福岡は、畿内と西国を結ぶ大動脈である山陽道と、中国山地から瀬戸内海へと物資を運ぶ吉井川の水運が交差する、まさに交通と流通の要衝であった 5 。この立地条件により、福岡の市は定期市から常設市へと発展し、室町時代には山陽道で最大級の商都として栄華を極めた 6 。当時の人口は5,000人から10,000人に達したと推計されており、その賑わいは西国随一と称された 6 。町には整然とした区画がなされ、戦乱に備えた防御的な構造も見られるなど、高度な都市機能を備えていたことが窺える 11 。
備前福岡の経済的繁栄を、単なる物資の中継地としての機能だけで説明することはできない。この地には、戦国時代の最も重要な軍需品であり、また美術工芸品としても高く評価された「刀剣」の一大生産拠点という、もう一つの顔があった。備前長船派と並び称される名門「福岡一文字派」は、この地で興り、後鳥羽上皇の御番鍛冶を務めた則宗をはじめとする数々の名工を輩出した 5 。
ここで生産された刀剣は、その品質の高さから国宝や重要文化財に指定されるものが多く 13 、国内の武将たちがこぞって求めただけでなく、室町幕府が明(中国)と行った日明貿易における主要な輸出品として、国家レベルの経済活動にも深く組み込まれていた 17 。
この事実は、阿部善定という人物を理解する上で極めて重要な示唆を与える。備前福岡の商人、特に「豪商」と称されるほどの人物が、この刀剣の生産・流通ネットワークと無関係であったとは考えにくい。彼らは単なる日用品を扱う商人ではなく、武家の興亡を左右する戦略物資を扱う、極めて政治的な存在であった可能性が高い。阿部善定の「豪商」という地位は、この特殊な経済構造の産物であり、彼の行動を解き明かす鍵は、彼を単なる商人としてではなく、軍需産業にも通じた「政商」に近い存在として捉える視点にある。
戦国備前の権力闘争が激化する中、一つの事件が宇喜多家の運命を暗転させ、阿部善定を歴史の表舞台へと引き出すことになる。砥石城の悲劇と、それに続く流浪の父子の逃避行は、阿部善定という一介の商人が、自らの危険を顧みず歴史に介入する序幕であった。
天文3年(1534年)、備前国の勢力地図を塗り替える事件が起こる。浦上家の重臣であった島村盛実(もりざね、観阿弥とも)が、同じく重臣であった宇喜多能家(よしいえ)の居城・砥石城(現在の岡山県瀬戸内市)を突如襲撃したのである 18 。この奇襲により、能家は城を枕に討ち死にし、宇喜多一族は四散の憂き目に遭った 20 。
この事件の背景には、主家である浦上家内部の主導権争いがあった。軍記物によれば、能家と盛実は浦上家を支える「二柱」と称されるほどの実力者であったが、その関係は険悪であったと伝えられる 1 。盛実による能家謀殺は、単なる私怨に留まらず、浦上家中のライバルを排除し、自らの権力基盤を固めようとする政治的行為であったと解釈できる。この非情な下剋上の嵐が、能家の子と孫を流浪の旅へと追いやった。
父・能家の横死により、家督を継いでいた宇喜多興家(おきいえ)は、当時まだ6歳前後であった嫡男の八郎(後の宇喜多直家)を連れて、燃え盛る砥石城から脱出した 21 。彼らがまず向かったのは、瀬戸内海の要港であった備後国鞆の津(現在の広島県福山市)であった。ここで追手のほとぼりが冷めるのを待ち、再起の機会をうかがった後、彼らは故郷である備前国の福岡を目指した 20 。
後世の軍記物語において、興家はしばしば「暗愚」な人物として描かれる。父から家督を譲られ、一家の主であったにもかかわらず、島村盛実に対してほとんど抵抗することなく城を明け渡し、逃亡したことがその理由である 24 。しかし、この評価には別の見方も存在する。圧倒的な兵力差の中で無謀な戦いを挑んで一族を根絶やしにするよりも、あえて愚者を装ってでも逃亡し、家名と嫡男・直家の命脈を保つことこそが、興家にとっての最善の策であったとする擁護論である 24 。いずれにせよ、興家と幼い直家が、後ろ盾をすべて失った絶望的な状況にあったことは間違いない。
備前福岡にたどり着いた興家父子に救いの手を差し伸べたのが、この地の豪商・阿部善定であった 18 。善定は興家と幼い直家を自らの屋敷に匿い、彼らの生活を全面的に支援した 21 。
この阿部善定の行動は、単なる人道的な同情心だけで説明できるものではない。当時の備前国において、島村盛実は浦上家の後ろ盾を得て権勢を振るっていた。その盛実が滅ぼした宇喜多家の嫡流を匿うことは、盛実とその主家を敵に回すに等しい、極めて危険な行為であった。一商人が、なぜそのような政治的リスクを冒したのか。
ここに、阿部善定の「豪商」としての戦略的思考が垣間見える。没落したとはいえ、宇喜多氏は備前で由緒ある家柄であり、直家はその正統な後継者である。もし将来、直家が家を再興することに成功すれば、その最大の恩人である阿部一族は、宇喜多家の「御用商人」として絶大な権益を手にすることができる 26 。これは、博多の神屋宗湛や島井宗室が中央の天下人と結びついたように 28 、将来の権力者への先行投資であったと見ることができる。阿部善定の庇護は、慈悲の行為であると同時に、自らの一族の未来を賭けた「ハイリスク・ハイリターン」の政治的投資だったのである。彼は、ルネサンス期のフィレンツェで芸術家を支援したメディチ家のように 30 、戦国乱世における「パトロン」として、未来の権力者を見出し、育てようとしたのかもしれない。
表1:阿部善定と宇喜多氏関連人物年表(推定)
西暦 (和暦) |
出来事 |
宇喜多興家 (年齢) |
宇喜多直家 (年齢) |
宇喜多春家 (年齢) |
宇喜多忠家 (年齢) |
備考 |
1529 (享禄2) |
宇喜多直家、誕生 32 。 |
不明 |
0 |
- |
- |
|
1534 (天文3) |
島村盛実、砥石城を攻撃。宇喜多能家自害。興家・直家父子は備前福岡へ逃れ、阿部善定に庇護される 18 。 |
不明 |
5 |
- |
- |
興家父子の流浪が始まる。 |
1535 (天文4) |
(推定) 興家、阿部善定の娘を娶る。 |
不明 |
6 |
- |
- |
阿部家と宇喜多家の血縁関係が成立。 |
1536 (天文5) |
宇喜多興家、病死(一説) 21 。墓所は妙興寺。 |
不明 |
7 |
誕生? |
- |
この没年説の場合、春家・忠家の誕生時期に疑問が生じる。 |
1537 (天文6) |
(推定) 春家、誕生 20 。 |
- |
8 |
0 |
- |
興家が天文9年没の場合、この時期の誕生は自然。 |
1539 (天文8) |
(推定) 忠家、誕生 20 。 |
- |
10 |
2 |
0 |
興家が天文9年没の場合、この時期の誕生は自然。 |
1540 (天文9) |
宇喜多興家、病死(一説) 20 。 |
不明 |
11 |
3 |
1 |
この没年説の場合、春家・忠家二人の子をもうける時間は十分にある。 |
1543 (天文12)頃 |
宇喜多直家、浦上宗景に出仕し、初陣を飾る 19 。 |
- |
14 |
6 |
4 |
阿部家での雌伏の時代が終わり、武将としての道を歩み始める。 |
阿部善定の庇護下で過ごした約6年から9年という歳月は、単なる潜伏期間ではなかった。この雌伏の時は、宇喜多興家の短い生涯の終着点となると同時に、後の「戦国史上最悪の梟雄」とまで呼ばれることになる宇喜多直家の人格と思考の根幹を形成する、決定的に重要な期間であった。
武家の嫡男として生まれながら、物心つく頃には没落し、商人の屋敷で育つという特異な環境は、直家の価値観に大きな影響を与えた。ある逸話によれば、直家は幼い頃、「侍など、つまらぬ」と語り、むしろ商人の生き方に強い憧れを抱いていたという 18 。この言葉は、武士の権威が絶対であった時代において、彼の異端な精神性を象徴している。
阿部善定は、この風変わりな少年の中に非凡な才覚を見出したのか、直家が「商いを学びたい」と申し出るとこれを快く認め、店の番頭につけて実務を学ばせた 34 。直家はここで、単に算盤を弾くだけでなく、「ものの動き(物流)、値付け(価格戦略)、客への対応(交渉術)、奉公人の遣い方(組織管理)」といった、商売のあらゆる側面を徹底的に叩き込まれたとされる 34 。
この経験こそが、後の宇喜多直家の行動原理を理解する鍵となる。彼の代名詞である「権謀術数」や、目的のためには手段を選ばず、時には舅や娘婿といった身内すら冷徹に切り捨てる合理主義は、武士としての伝統的な教育や倫理観から生まれたものではない 18 。それは、阿部家で体得した、利益を最大化し損失を最小化するという商人の論理を、生存競争の場である戦国乱世に適用した結果と解釈できる。彼の謀略は、非情であると同時に、常に計算され尽くしたものであった。阿部善定は、図らずも戦国時代における最も恐るべき「経営者」的武将を育成したのである。
阿部善定と宇喜多家の関係は、単なる庇護者と被庇護者の関係に留まらなかった。両家は血縁によって、より強固に結びつけられることになる。通説では、興家は阿部善定の娘を妻として迎え、その間に二人の男子、後の春家と忠家をもうけたとされている 20 。これにより、阿部善定は直家の義理の祖父となり、春家・忠家にとっては実の祖父となった。この血の結合は、善定の宇喜多家への「投資」を、より確実なものにするための戦略であったとも考えられる。
一方で、江戸時代中期の逸話集である『常山紀談』などには、興家が娶ったのは善定の娘ではなく、「召し使う下女」であったとする異説も存在する 24 。この説の真偽を確かめることは困難であるが、これが単なる記録の揺れではない可能性も考慮すべきである。後世の物語作者が、裸一貫から成り上がった直家の物語をより劇的に演出するため、その出自を意図的に低いものとして描いたという脚色の可能性である 32 。いずれにせよ、直家の弟たちが阿部家の血を引いていたことは、宇喜多家における阿部一族の影響力を示す上で重要な事実である。
庇護者を得て一時の安息を得た興家であったが、宇喜多家再興の夢を果たすことなく、この世を去る。多くの史料は、彼が阿部家の屋敷で不遇のうちに病死したと記している 20 。その墓とされる供養塔は、備前福岡の妙興寺に今も現存しており、彼の悲運な生涯を物語っている 38 。
しかし、その死にはいくつかの謎が残されている。第一に没年の問題である。天文5年(1536年)に亡くなったとする説 21 と、天文9年(1540年)とする説 20 があり、どちらを取るかによって阿部家での滞在期間が大きく変わってくる。
さらに、死因についても異説が存在する。それは、病死ではなく、家臣たちから暗愚であると評されたことを苦にした自害であり、その不名誉な事実を隠すために、正室や阿部善定らが病死と偽ったという説である 24 。この説によれば、聡明な直家は父の死の真相を見抜いていたともいう。これが事実であれば、直家の父に対する複雑な感情や、彼の人間不信に満ちた性格の根源を説明する一助となるかもしれない。興家の死は、多くの謎を秘めたまま、直家を宇喜多家の唯一の希望として残すことになった。
阿部善定と宇喜多家の関係は、興家の死後もその血脈を通じて続いていく。善定の孫にあたる宇喜多春家と忠家は、兄・直家の下で宇喜多家の発展に貢献した。しかし、彼らの存在をめぐっては、二人が実は同一人物であったのではないかという説が存在し、史料の断片性と戦国期の記録の曖昧さを象徴している。
宇喜多興家と阿部善定の娘(あるいは下女)との間に生まれたとされるのが、春家と忠家の二人である 20 。彼らは、異母兄である直家が浦上家臣として頭角を現し、やがて主家を凌駕して戦国大名へと駆け上がっていく過程で、一族の重要な一員として活動した。兄の勢力拡大に伴い、彼らは砥石城や金山城、沼城といった要衝の城代を任されるなど、軍事的に重要な役割を担ったと考えられている 33 。阿部善定にとって、自らの孫たちが武将として活躍する姿は、かつての危険な「投資」が実を結んだ証であり、大きな誇りであったに違いない。
しかし、この春家と忠家については、古くから「同一人物説」が提唱されている。これは単なる憶測ではなく、いくつかの具体的な根拠に基づいている。
第一の根拠は、時間的な矛盾である。前述の通り、父・興家の没年を天文5年(1536年)とする説を採用した場合、彼が阿部家に庇護されてから亡くなるまでの期間はわずか2年ほどしかない。この短期間に二人の子供をもうけることは、不可能ではないものの、いささか不自然であるという指摘である 33 。
第二の、そしてより強力な根拠は、史料上の記録の重複である。『備前軍記』などの軍記物語において、春家が守備したとされる砥石城、金山城、沼城といった拠点が、ことごとく忠家の活動記録としても登場する 33 。一族の武将が協力して城を守ることはあり得るが、複数の重要拠点でこれほど完全に記録が重なるのは異例であり、元は一人の人物であったものが、後世の伝承の中で二人に分かれてしまった可能性を強く示唆している。
この「同一人物説」は、単なる歴史の謎解き以上の意味を持つ。それは、戦国時代の記録、特に大名家の嫡流から外れた傍流の人物に関する記録が、いかに不確かで断片的なものであるかを示す好例である。当時の高い乳幼児死亡率を考えれば、例えば春家という人物が早世し、その後に生まれた弟が同じ通称(幼名)や役割を引き継いだために記録が混同した可能性や、元服の前後で改名したことが混乱を招いた可能性も考えられる。
決定的な証拠がない以上、断定はできない。しかし、記録の重複という点から「同一人物説」は非常に説得力が高いと言える。この不確かさこそが、阿部善定とその血脈をめぐる歴史の実像なのである。我々は、残された断片的な史料の狭間から、最も確からしい姿を慎重に再構築していくしかない。
表2:宇喜多興家の子に関する諸説比較
史料・説 |
興家の妻の出自 |
子の人数・名前 |
春家・忠家の関係 |
備考・根拠 |
通説 (多くの軍記物) |
阿部善定の娘 20 |
2人:春家、忠家 20 |
別人(兄弟) |
最も広く知られている説。直家の異母弟として両名が存在したとする。 |
『常山紀談』 |
阿部善定(阿辺定善)の下女 24 |
3人:直家、忠家、春家 24 |
別人(兄弟) |
江戸中期の逸話集。直家をも阿部家の女性の子とし、出自をより低く描く傾向がある。史実性は低いとされる。 |
春家・忠家同一人物説 |
阿部善定の娘 |
1人(または記録上は1人として扱われるべき) |
同一人物 |
根拠①:興家の滞在期間が短い(天文5年没の場合)ため、2人の子をなすのは不自然 33 。根拠②:春家と忠家の守備した城などの記録が完全に重複している 33 。 |
阿部善定個人の物語から視野を広げ、彼を戦国時代という大きな社会構造の中に位置づけることで、その行動の歴史的意義はより鮮明になる。彼は単なる地方の商人ではなく、当時の武家社会と密接に結びつき、時にその動向を左右する力を持った「商人」という階層を代表する存在であった。
阿部善定の行動を理解するために、同時代にさらに大きなスケールで活躍した商人たちと比較することは有益である。例えば、博多の豪商であった島井宗室や神屋宗湛は、「博多三傑」と称され、その富と影響力で知られる 28 。彼らは茶人として高い文化性を身につけ、それを媒介として織田信長や豊臣秀吉といった中央の最高権力者と直接結びついた 28 。そして、その庇護の下で日朝貿易や日明貿易に関与し、莫大な富を築き上げたのである 42 。
これに対し、阿部善定の「投資」対象は、中央の天下人ではなく、没落した地方の小領主であった。この点に、彼の独自性と地方商人ならではの生存戦略が見て取れる。中央権力との繋がりを持たない地方の商人が勢力を拡大するためには、自らの地域で将来有望な武家を見出し、その再興を支援することで、新たな支配体制下での優位な地位を確保する必要があった。阿部善定の行動は、より小規模ながらも、博多の豪商たちと同様に、政治権力と結びつくことで自らの繁栄を図るという、戦国商人の典型的な行動様式に則ったものであった。
戦国時代、武家と商人は互いに不可欠な存在であった。戦国大名は領国を維持し、戦に勝利するために、兵糧、武器、弾薬といった膨大な物資を必要とした 26 。これらの調達は、広範な流通網を持つ商人なくしては不可能であった。そのため、大名たちは特定の商人を「御用商人」として指定し、物資調達を独占的に請け負わせる見返りに、領内での営業特権や税の免除といった様々な便宜を図った 27 。商人は大名にとって生命線である兵站を支えるだけでなく、各地を往来する中で得た情報を伝える、貴重な情報源でもあった 44 。
この関係は時に、商人が武士へと転身する道も開いた。堺の商人・小西隆佐の子であった小西行長は、商用で出入りしていた宇喜多直家にその才覚を見出され、家臣として取り立てられ、最終的には豊臣政権下で大名にまで上り詰めた 45 。これは、武士と商人の身分がまだ流動的であり、能力次第で階層を超えた立身出世が可能であったことを示している。
阿部善定と宇喜多家の関係は、まさにこの時代の武家と商人の典型的な共生関係を凝縮している。善定は経済的支援、人材育成(直家への商才教育)、そして血縁の提供を行い、それに対して宇喜多氏は、再興後に阿部一族の政治的・経済的地位を保証するという、暗黙の契約関係にあったと推測される。
阿部善定の庇護と教育を受け、戦国大名として大成した宇喜多直家は、やがて備前・美作を統一し、その本拠地を備前福岡から、より戦略的な位置にある岡山へと移した 32 。そして天正元年(1573年)頃、新たな城下町を建設・発展させるため、備前福岡の商人たちを半ば強制的に岡山へ移住させる政策をとった 25 。
この政策は、備前福岡の経済的中心地としての地位を相対的に低下させ、町の性格を大きく変えるものであった 11 。阿部善定の一族も、この歴史の流れの中で岡山城下へ移り、引き続き宇喜多家の御用商人として活動を続けた可能性が極めて高い。しかし、その後の阿部一族の具体的な動向を示す史料は見当たらない。彼らは、庇護した宇喜多氏が関ヶ原の戦いで西軍の主力として敗れ、改易されるという運命と共に、歴史の表舞台から姿を消したと考えられる。その生涯は、特定の武家と運命を共にすることの栄光と、そしてその没落に殉じるという悲劇の両面を象徴している。
本報告書は、戦国時代の備前福岡に生きた一人の商人、阿部善定の生涯を、現存する史料と歴史的文脈から多角的に考察したものである。その人物像と歴史的意義について、以下に結論を述べる。
阿部善定に関する直接的な一次史料は、今日まで発見されていない。我々が彼の姿を知る手がかりは、そのほとんどが江戸時代中期以降に成立した『備前軍記』や『常山紀談』といった軍記物語や逸話集である 48 。これらの二次史料は、物語としての面白さを追求する中で、多くの脚色や創作を含んでいる可能性を常に念頭に置かねばならない。
しかし、これらの物語の背後にある歴史的背景、すなわち「西国随一の市場」と称された備前福岡の経済力、刀剣という戦略物資の生産拠点としての重要性、そして戦国時代における商人の役割を分析することで、史料の狭間からより立体的で説得力のある人物像を再構築することが可能となる。その姿は、単に情に厚く、困窮した武家を助けた善良な人物というだけではない。それは、自らの故郷の経済力を背景に、鋭い政治的嗅覚と商才を駆使して、未来の権力者に投資し、一族の繁栄を賭けた「戦略的パトロン」としての貌である。
阿部善定の歴史的意義は、彼が宇喜多直家という特異な戦国大名の誕生に、決定的な役割を果たした点にある。もし、阿部善定による庇護がなければ、流浪の父子は歴史の闇に消えていたかもしれない。もし、彼が提供したであろう商人的な教育がなければ、直家が後に発揮する、既存の武士の枠組みを超えた合理的な謀略の才能が開花することはなかったかもしれない。
彼の決断は、宇喜多家の再興を可能にし、その後の宇喜多氏による備前・美作の統一、そして今日の岡山市の礎となる岡山城と城下町の建設へと繋がる、歴史の重要な分岐点であったと評価できる。阿部善定の名が歴史の教科書に載ることはない。しかし彼は、一人の戦国大名の運命を支え、その後の地域の歴史を大きく動かした、まぎれもない「陰の立役者」であった。彼の生涯は、武将や大名だけが歴史を動かすのではなく、時に名もなき市井の商人たちの決断と行動が、歴史の潮流を大きく変えうる力を持つことを、我々に力強く教えてくれるのである。