最終更新日 2025-06-06

阿部良輝

「阿部良輝」の画像

出羽の戦国武将・阿部良輝の実像とその一族

1. はじめに

本報告書は、日本の戦国時代において出羽国(現在の山形県および秋田県)にその名を知られた武将、阿部良輝(あべ よしてる)に焦点を当てる。阿部良輝は、出羽の豪族として飽海郡に磐井出館(いわいでだて)を築き、居城とした人物であり、また、いでわ神社の別当職を務めたと伝えられている [ユーザー提供情報]。その子・貞嗣(さだつぐ)は、天正16年(1588年)の十五里ヶ原(じゅうごりがはら)の戦いで戦死したとされる [ユーザー提供情報]。

しかしながら、阿部良輝とその一族に関する記録は断片的であり、特に良輝自身の没年や、子・貞嗣が十五里ヶ原の戦いにおいていずれの勢力に属していたかなど、情報が錯綜している点も見受けられる。本報告書では、現存する諸資料を丹念に調査・比較検討することにより、阿部良輝の出自、磐井出館や彼が別当職を務めた鷹尾山伊氏波神社(たかおやまいしはじんじゃ)との関わり、周辺勢力との関係、そして一族の終焉に至るまでの軌跡を可能な限り詳細に明らかにし、その実像に迫ることを目的とする。この作業を通じて、戦国期における出羽地方の国人領主の動向や、地域社会における宗教的権威の役割など、より広い歴史的文脈における阿部氏の位置づけを考察する。

表1:阿部良輝・貞嗣 関連年表

和暦(西暦)

関連事項

主な関連人物

主要典拠資料

康平年間 (1058-1065)

阿部氏の祖先とされる阿部盛任が出羽に入る

安倍頼時、磐井五郎安倍家任、阿部盛任

1

天文2年(1533年)

阿部良輝、磐井出館を築城

阿部良輝

1

永禄9年(1566年)

阿部良輝、没(『飽海郡誌』による説)

阿部良輝

2

天正16年(1588年)8月

十五里ヶ原の戦い。阿部貞嗣(輝貞)、武藤(大宝寺)方として参戦し戦死(『飽海郡誌』による説)

阿部貞嗣(輝貞)、本庄繁長、大宝寺義勝、東禅寺義長

2

天正19年(1591年)

上杉氏の攻撃により阿部氏滅亡。磐井出館落城。当時の館主・阿部頼尚は秋田仙北へ逃亡。

阿部頼尚、上杉景勝、志田修理

1

天正19年(1591年)

阿部良輝、没(Wikipedia等による説、阿部氏滅亡の年と合致)

阿部良輝

4

2. 阿部良輝の出自と家系

出羽国の国人としての阿部氏

阿部氏は、戦国時代において出羽国に勢力を持った国人であった 4。国人とは、特定の地域に土着し、在地に根差した武士層を指す。当時の出羽国は、中央権力の支配が直接的に及びにくい辺境の地であり、鎌倉幕府以来、守護が設置されない特殊な統治体制下にあった 6。このような政治的背景は、在地領主である国人の自立性を高め、彼らが地域社会において強い影響力を行使する素地となった。阿部氏も、そうした出羽の国人の一つとして、飽海郡を中心に在地での勢力を保持していたと考えられる。

奥州安倍氏との関連性

阿部氏の出自に関して注目すべきは、彼らが奥州安倍氏の末裔を称していたという伝承である 4。奥州安倍氏は、平安時代中期に陸奥国(現在の東北地方広域)で強大な勢力を誇った豪族であり、前九年の役(1051年~1062年)で源頼義・義家軍に敗れたことで知られる 7。阿部氏がこの名高い安倍氏の血を引くと称したことは、戦国時代において自らの家系の権威を高め、在地支配の正当性を主張する上で重要な意味を持っていたと推察される。

この伝承を具体的に示す記述が、『飽海郡誌』巻之二に見られる。それによれば、前九年の役(康平年間、1058年終結)の後、安倍頼時の五男であった磐井五郎安倍家任(いわいのごろうあべのいえとう)の一族・阿部盛任(もりとう)親子が出羽国に逃れ、鷹尾山の別当であった宝蔵寺に身を寄せたという。そして、その子孫が代々鷹尾山愛沢(あいさわ)伊氏波神社の別当職を継承し、阿部良輝の代に至ったとされている 1 。磐井五郎安倍家任との直接的な系譜関係の信憑性については慎重な検討を要するものの、この伝承は阿部氏が古くから出羽の地に根を下ろした在地勢力であることを示唆している。

「阿部」と「安倍」の表記について

関連資料においては、阿部氏の姓として「阿部」と「安倍」の二つの表記が混在して用いられている 2。これは、奥州安倍氏との関連を意識して「安倍」の字を用いたり、あるいは単に当時の慣習として同音の異なる漢字が用いられたりした結果と考えられる。本報告書では、ユーザーの指定に基づき、主に「阿部」の表記を用いるが、引用資料の表記は原文のまま尊重する。

3. 磐井出館と鷹尾山伊氏波神社

磐井出館(岩井出館)

阿部良輝の主要な拠点であった磐井出館(史料によっては岩井出館とも表記される)は、天文2年(1533年)に良輝自身によって築かれたとされている 1。その所在地は出羽国飽海郡、具体的には鹿島小槌ヶ山(かしまこづちがやま)の山麓と伝えられる 1。現在の地名では、山形県酒田市北俣岩代25周辺に比定されている 1。館名の「磐井出」は、阿部氏の祖先とされる磐井五郎安倍家任の名に由来する可能性が考えられ、その土地支配の歴史的連続性や正当性を主張する意図があったのかもしれない。

磐井出館の構造については、標高約75メートルの小規模な段丘地の南端を利用して築かれた山城であったことが確認されている。現存する遺構としては、物見や指揮の拠点であったと考えられる櫓台(やぐらだい)跡、城の出入り口である虎口(こぐち)、そして防御施設である土塁(どるい)が北側および西側に認められる。館の中心部であった主郭(しゅかく)は、現在では畑地となっているものの、これらの遺構は戦国期の在地領主が構えた城館の典型的な姿を今に伝えている 1 。このような城館は、軍事的な防御拠点であると同時に、領主の居住空間であり、政務を執り行う場でもあった。

鷹尾山伊氏波神社

阿部氏の権力基盤を理解する上で欠かせないのが、鷹尾山伊氏波神社との深い関わりである。阿部氏は代々、この神社の別当職(べっとうしょく)を務める家柄であった 4。別当職とは、神社の管理・運営を統括する役職であり、神仏習合が進んだ中世においては、寺院の僧侶が神社の祭祀にも関与する形態が多く見られた。阿部良輝もまた、別当として鷹尾山に集う衆徒(しゅうと)をまとめ上げていたと記録されている 4。

『飽海郡誌』には、阿部氏が務めたのは「鷹尾山愛澤伊氏波神社別當」と記されており 2 、この「愛澤」という地名が、神社の具体的な所在地やその性格を示す手がかりとなる可能性がある。戦国時代において、有力な寺社は広大な社領(荘園)を有し、そこに住まう人々や、信仰心から集まった衆徒を組織して独自の武力を形成することがあった。阿部氏が務めた別当職も、単に宗教的な役職に留まらず、社領の支配権や、鷹尾山衆徒と呼ばれる武装勢力を統率する権能を伴っていたと考えられ、これは阿部氏の在地における軍事的・経済的基盤の重要な一部を成していたと言える。

鷹尾山は、当時、出羽三山(でわさんざん)の一つに数えられていたという記述も注目される 4 。出羽三山とは、羽黒山(はぐろさん)、月山(がっさん)、湯殿山(ゆどのさん)の総称であり、古来より山岳信仰の聖地として広く信仰を集めてきた。そして、出羽三山の中核をなす羽黒山の出羽神社(いではじんじゃ)は、平安時代の法典である『延喜式神名帳』に記載された「伊氐波神社(いてはじんじゃ)」に比定されている 8

「伊氏波神社」と「伊氐波神社」という名称の一致は、阿部氏が別当を務めた鷹尾山伊氏波神社と、出羽三山の中心的神社である出羽神社(伊氐波神社)との間に、何らかの密接な関連性があったことを強く示唆している。例えば、本社と分社の関係であったり、同じ祭神を祀っていたりした可能性が考えられる。阿部氏が「出羽三山に数えられた」神社の別当であったという事実は、その神社の格式の高さと、阿部氏が地域社会において有していた宗教的権威の大きさを示している。現在の山形県酒田市北沢には鷹尾山という山が存在し 10 、磐井出館の所在地とされる酒田市北俣とも地理的に近接していることから、阿部氏と鷹尾山伊氏波神社の物理的な結びつきも強かったと推測される。

4. 阿部良輝の事績と周辺勢力との関係

大宝寺義氏への臣従

阿部良輝の具体的な政治的・軍事的活動を知る上で重要なのは、彼が川南(現在の山形県庄内地方南部を指す地域名称)の戦国大名であり、かつ羽黒山の別当でもあった大宝寺義氏(だいほうじ よしうじ)に仕えていたという事実である 4。大宝寺氏は、鎮守府将軍藤原秀郷の流れをくむ武藤氏の一族とされ、鎌倉時代から出羽国庄内地方に地頭として入部し、戦国時代にはこの地域を代表する有力な大名へと成長した一族である 12。

阿部氏が大宝寺氏に臣従していたという関係は、阿部氏が完全に独立した勢力ではなく、より広域を支配する戦国大名の権力構造の中に組み込まれた国人領主であったことを示している。興味深いのは、主君である大宝寺義氏自身も、阿部良輝と同様に宗教的権威を兼ね備えた人物であった点である。義氏は大宝寺氏の当主であると同時に羽黒山の別当職も務めており 4 、その支配は軍事力のみならず、出羽三山信仰という強固な宗教的基盤にも支えられていた。阿部良輝が鷹尾山伊氏波神社の別当であったことを考えると、両者の主従関係には、単なる軍事的な結びつきだけでなく、出羽の山岳信仰を通じた共通の背景が存在した可能性も否定できない。

出羽国における阿部氏の立場と影響力

大宝寺氏の家臣という立場ではあったものの、阿部良輝は鷹尾山衆徒を独自に統率し、磐井出館という城館を拠点としていたことから、飽海郡において一定の自立的な勢力を有していたと考えられる 2。これは、戦国時代の主従関係が必ずしも一元的ではなく、家臣である国人領主もある程度の自律性を保持していたことを示す一例と言えるだろう。阿部氏にとって、鷹尾山伊氏波神社の別当職とそれに伴う衆徒の統率権は、大宝寺氏への奉公における軍事力提供の源泉であると同時に、在地における自らの影響力を維持するための重要な手段でもあった。

戦国時代の出羽国は、最上氏、小野寺氏、大宝寺氏といった有力大名が覇権を争い、その間で多くの国人領主が複雑な合従連衡を繰り返していた 14 。阿部氏もまた、こうした激動の情勢の中で、大宝寺氏との関係を基軸としつつ、自らの勢力維持と拡大を図っていたものと推察される。

5. 阿部良輝の没年に関する考察

阿部良輝の没年については、史料によって記述が異なり、慎重な検討が必要である。

永禄9年(1566年)説

一つの説は、永禄9年(1566年)に没したとするものである。この説の根拠は、江戸時代に編纂された地誌である『飽海郡誌』巻之二の記述である。同書には、阿部良輝について「永祿九年歿ス」と明確に記されている 2。『飽海郡誌』は、地域の詳細な情報を集積した史料であり、特に地方史研究においては重要な情報源の一つと評価される。

天正19年(1591年)説

もう一方の説は、天正19年(1591年)に没したとするものである。この没年は、主に近年の編纂物やインターネット上の情報源で見られる 4。この天正19年という年は、後述するように阿部氏が一族として滅亡した年と一致している 3。

考察

これら二つの説を比較検討すると、いくつかの点が浮かび上がる。まず、史料の性質として、『飽海郡誌』は具体的な編纂史料であり、その記述には一定の信頼性が置ける。一方、天正19年説を提示する情報源の多くは二次的な編纂物であり、その元となった一次史料や詳細な論拠が必ずしも明確ではない場合がある。

もし阿部良輝が永禄9年(1566年)に没していたとすれば、その子・貞嗣(または『飽海郡誌』に見える「輝貞」)が家督を継承し、天正16年(1588年)の十五里ヶ原の戦いに参戦して戦死したという流れに時間的な矛盾は生じない。さらに、阿部氏が滅亡した天正19年(1591年)の時点で磐井出館の館主であったとされる阿部頼尚 1 は、貞嗣の跡を継いだ人物、あるいは貞嗣とは別の系統の阿部氏一族であった可能性が考えられる。

天正19年説については、阿部良輝個人の没年と、阿部氏という「家」が滅亡した年とを混同している可能性が指摘できる。戦国時代から近世にかけての記録においては、個人の死と家の断絶が同一視される場合も散見されるため、このような混同が生じたとしても不思議ではない。

以上の点を総合的に勘案すると、阿部良輝の没年は永禄9年(1566年)であったとする『飽海郡誌』の記述を重視する方が、その後の阿部氏の動向との整合性が取れ、より妥当性が高いと推測される。すなわち、良輝の死後、子の貞嗣(輝貞)が跡を継ぎ、貞嗣の戦死後は頼尚が家督を継承した、という流れで理解するのが自然であろう。

6. 子・阿部貞嗣と十五里ヶ原の戦い

阿部良輝の子として記録に残る阿部貞嗣は、天正16年(1588年)8月に勃発した十五里ヶ原の戦いにおいて、その短い生涯を閉じたとされる。この戦いは、出羽国庄内地方の支配権を巡る重要な合戦であり、貞嗣の動向は阿部氏の運命を左右するものであった。

十五里ヶ原の戦いの概要

十五里ヶ原の戦いは、越後の上杉景勝配下の本庄繁長(ほんじょう しげなが)と、繁長の子で大宝寺氏(武藤氏)の養子となっていた大宝寺義勝(よしかつ)率いる上杉・武藤連合軍と、庄内地方の支配を狙う最上義光(もがみ よしあき)方の東禅寺義長(とうぜんじ よしなが)・勝正(かつまさ)兄弟が率いる最上軍との間で戦われた 5。戦場は出羽国田川郡(現在の山形県鶴岡市)の十五里ヶ原であり、激戦の結果、上杉・武藤連合軍が勝利を収めた 5。

阿部貞嗣の所属勢力に関する諸説

十五里ヶ原の戦いにおける阿部貞嗣の所属勢力については、史料によって記述が異なり、長らく議論の対象となってきた。

  • 最上勢説: ユーザー提供情報や、一部のウェブサイト(例:『十五里ヶ原合戦』 http://joukan.sakura.ne.jp/kosenjo/juugorigahara/juugorigahara.html )では、阿部貞嗣は最上軍の武将として参戦したとされている 16
  • 大宝寺(武藤)勢説: 一方、阿部良輝のWikipedia項目などでは、貞嗣は「最上勢と戦い討死している」と記されており、これは彼が大宝寺(武藤)方、すなわち上杉・武藤連合軍に属していたことを示唆する 4 。この説を強力に裏付けるのが、『飽海郡誌』巻之二の記述である。同書には、阿部良輝の子「輝貞」(「貞嗣」と同一人物と見られる)が「天正十六年武藤家ノ爲メニ干安十五里原二戦沒セリ」と明確に記されている 2 。これは、貞嗣が主家である武藤家(大宝寺氏)のために、最上軍と戦って戦死したことを意味する。

考察と結論

これらの諸説を比較検討すると、阿部貞嗣が大宝寺(武藤)方として参戦したとする説がより妥当性が高いと考えられる。その主な理由は以下の通りである。

  1. 父・良輝の主君: 阿部良輝が大宝寺義氏に仕えていたことは複数の資料で確認されており 4 、特別な事情がない限り、その子である貞嗣も同じく大宝寺氏に仕えていたと考えるのが自然である。
  2. 『飽海郡誌』の記述の具体性: 『飽海郡誌』は、阿部氏に関する詳細な記述を含む地方史料であり、貞嗣が「武藤家ノ爲メニ」戦死したと具体的に言及している点は非常に重要である。
  3. 情報源の性質: 最上勢説を採る情報源の一部は、一次史料に基づかないウェブサイト情報であり、その情報の出所や信頼性については慎重な検証が必要となる。

以上の点から、阿部貞嗣は、父・良輝の主家であった大宝寺(武藤)氏の武将として、十五里ヶ原の戦いに臨み、敵対する最上勢との戦闘において討死を遂げたと結論付けるのが最も合理的である。この所属勢力の解釈の違いは、戦国期の国人領主の立場が流動的であったことや、後世の記録における情報の錯綜、あるいは特定の勢力に都合の良いように記述が改変された可能性など、様々な要因によって生じたものかもしれない。

表2:阿部貞嗣の十五里ヶ原の戦いにおける所属勢力に関する諸説比較

情報源

所属勢力

根拠・考察

ユーザー提供情報

最上勢

『十五里ヶ原合戦』(ウェブサイト) 16

最上勢

参戦武将一覧に記載。情報の一次的根拠は不明。

Wikipedia(阿部良輝の項目) 4

大宝寺(武藤)勢 (最上勢と戦い討死と記述)

父・良輝が大宝寺義氏に仕えていたことからの推測を含む可能性。

『飽海郡誌』巻之二 2

大宝寺(武藤)勢

「武藤家ノ爲メニ干安十五里原二戦沒セリ」と明確に記述。信頼性の高い地方史料。

本報告書の結論

大宝寺(武藤)勢

父・良輝の主君との整合性、『飽海郡誌』の具体的記述を重視。

戦いにおける貞嗣の具体的な動向と戦死の経緯

阿部貞嗣が十五里ヶ原の戦いにおいて、具体的にどのような部隊を率い、どのような状況で戦死したのかについての詳細な記録は、残念ながら現存する史料からは見出すことができない。『飽海郡誌』においても「戦沒セリ」と記されるのみであり 2、Wikipediaなどの情報も「討死している」という記述に留まっている 4。一武将としての参戦であり、合戦全体の指揮を執るような立場ではなかったため、その個別の戦功や最期の様子が詳細に記録されにくかった可能性が考えられる。

7. 阿部氏のその後と滅亡

阿部貞嗣が天正16年(1588年)の十五里ヶ原の戦いで戦死した後、阿部氏の動向については不明瞭な点が多いものの、完全に勢力が途絶えたわけではなかった。しかし、その命脈も長くは続かず、貞嗣の死からわずか3年後の天正19年(1591年)に、阿部氏は歴史の表舞台から姿を消すこととなる。

この年、豊臣秀吉による天下統一事業の一環として奥州仕置が進められる中、出羽国庄内地方の平定を命じられた上杉景勝の軍勢が、阿部氏の拠点である磐井出館を攻撃した。この攻撃を指揮したのは、上杉氏の家臣・志田修理であったとされる 1 。磐井出館は落城し、これをもって阿部氏は滅亡したと伝えられている 1

『飽海郡誌』巻之二には、この時期の庄内地方の情勢について、「天正十八年上杉景勝豊臣關白(秀吉)ノ命ニヨリ庄内ヲ領地トスルヤ、地侍ニシテ上杉家ニ従属シナイ者タチガ民心ノ動揺ニ乗ジテ呼応シ反旗ヲ飜シ、庄内ハ大イニ乱レタ。コノ時、平田方面ノ土寇(在地勢力の反乱軍)ガ朝日山ニ拠ッタト言ワレテイルカラ、鷹尾山モマタコレニ加担シタコトハ自ラ明ラカデアル。故ニ翌十九年十二月(ニ攻撃サレタ)」といった趣旨の記述があり 2 、阿部氏(あるいは鷹尾山衆徒)が上杉氏の支配に抵抗する動きに加わったか、あるいはそのように見なされたことが、直接的な攻撃の理由となった可能性を示唆している。

この阿部氏滅亡の際に磐井出館の館主であったのは、阿部頼尚(あべ よりひさ)という人物であった。頼尚は落城に際して秋田仙北方面へ逃れたとされているが、その後の消息は詳らかではない 1 。頼尚が貞嗣の子であったのか、あるいは別の系統の阿部氏一族であったのかも、現時点では不明である。

阿部氏本宗家が滅亡した後、彼らが別当として統率していた鷹尾山衆徒は、蕨岡館(わらびおかだて)へ移ったという伝承が残されている 4 。これは、主家である阿部氏が滅びた後も、鷹尾山信仰を中心とした宗教的・軍事的共同体としての衆徒がある程度の組織力を保ち、新たな活動拠点を求めたことを示しているのかもしれない。

8. まとめ

本報告書では、戦国時代に出羽国飽海郡に勢力を有した国人領主・阿部良輝とその一族について、現存する諸資料を基にその実像に迫ることを試みた。

調査の結果、以下の点が明らかになった。

  • 阿部氏は、奥州安倍氏の末裔を称し、古くから出羽国に土着した国人であり、磐井出館を拠点としていた。
  • 阿部氏は代々、鷹尾山伊氏波神社の別当職を務め、これを通じて宗教的権威と在地における軍事力(鷹尾山衆徒)を保持していた。この神社は当時出羽三山の一つに数えられ、羽黒山の伊氐波神社との関連性が強く示唆される。
  • 阿部良輝は、川南の戦国大名であり羽黒山別当でもあった大宝寺義氏に仕えていた。その没年については、『飽海郡誌』の記述に基づき永禄9年(1566年)とする説が有力である。
  • 良輝の子・阿部貞嗣(輝貞)は、天正16年(1588年)の十五里ヶ原の戦いにおいて、父の主家であった大宝寺(武藤)方として参戦し、最上勢と戦い戦死したと考えるのが最も妥当性が高い。
  • 阿部氏は、貞嗣の戦死から3年後の天正19年(1591年)、豊臣政権による奥州仕置の過程で上杉景勝軍の攻撃を受け、磐井出館は落城し滅亡した。

阿部良輝とその一族の興亡の軌跡は、戦国時代における地方国人の典型的な姿を映し出している。彼らは、中央の大きな政治的動乱と、地域内での絶え間ない勢力争いという二重の圧力の中で、自らの存続と勢力維持を図ろうとした。特に、阿部氏が神社の別当職という宗教的側面と、武士としての軍事的側面を不可分に結びつけて権力基盤を構築していた点は、戦国期の地方支配のあり方を理解する上で非常に興味深い事例と言える。

また、阿部良輝の没年や子・貞嗣の所属勢力など、基本的な情報においてすら史料間で食い違いが見られることは、地方史研究の困難さと同時に、断片的な情報を丹念に比較検討し、より確からしい歴史像を再構築していく作業の重要性を示している。阿部氏に関するさらなる史料の発見や、磐井出館跡、鷹尾山周辺の考古学的調査が進展すれば、彼らの実像はより一層明らかになるであろう。本報告書が、そうした今後の研究の一助となれば幸いである。

引用文献

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  2. Untitled https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fa/NDL1181955_%E9%A3%BD%E6%B5%B7%E9%83%A1%E8%AA%8C_%E5%B7%BB%E4%B9%8B2_part2.pdf
  3. 岩井出館(山形県酒田市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/s/964
  4. 阿部良輝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E8%89%AF%E8%BC%9D
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  9. 出羽三山神社(山形県鶴岡市羽黒町) | ゴシュインデイズ https://ameblo.jp/idjericho/entry-11086624520.html
  10. 鷹尾山(山形県)の写真 - YAMAP / ヤマップ https://yamap.com/mountains/6756
  11. 鷹尾山(酒田市/山)の地図|地図マピオン https://www.mapion.co.jp/m2/38.93356335,139.97572749,16/poi=L0580017
  12. 大宝寺氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%AF%BA%E6%B0%8F
  13. 大宝寺義氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E6%B0%8F
  14. 円同寺所蔵中山光直書状を読む 最上義光関連の一級史料! https://www.gakushubunka.jp/yugakukan/wp-content/uploads/2021/01/167faf85ee61afa4581b471488fabd3b.pdf
  15. 十五里ヶ原の戦いとは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%8D%81%E4%BA%94%E9%87%8C%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  16. 十五里ヶ原合戦 https://joukan.sakura.ne.jp/kosenjo/juugorigahara/juugorigahara.html