最終更新日 2025-08-02

陶弘詮

陶弘詮は大内氏重臣。武将として筑前を統治し、『吾妻鏡』を復元。大内文化を支えたが、甥の陶晴賢が主君を討つなど、一族の運命は皮肉に満ちていた。
「陶弘詮」の画像

文武の将、陶弘詮――大内文化の礎を支えた知られざる巨人

序章:武門の文人、陶弘詮という存在

戦国時代の日本史を彩る人物は数多いるが、その多くは武勇や権謀術数によって名を馳せた。しかし、西国随一の大名と謳われた周防大内氏の重臣団の中に、武将としての確かな実績と、日本の文化史に不滅の功績を遺した文化人としての一面を併せ持つ、稀有な人物が存在した。その名は陶弘詮(すえ ひろあき)。彼の生涯は、主君への忠誠、辺境の統治、そして失われゆく古典籍の保存という、多岐にわたる献身によって貫かれている。

本報告書は、この陶弘詮という人物について、単なる人物紹介に留まらず、彼の出自、武将としての功績、文化人としての活動の全貌、そして彼の一族が辿った運命を、当時の大内氏が置かれた政治的・軍事的・文化的文脈の中に位置づけ、その行動の歴史的意義を多角的に解き明かすことを目的とする。

弘詮の生涯を追う上で特筆すべきは、彼が複数の姓を名乗った点である。彼は陶一族の出身でありながら、一時は同族の右田(みぎた)氏を継ぎ「右田弘詮」と称した 1 。また、所領の地名に由来して「朝倉弘詮」と呼ばれた時期もある 4 。これらの姓は、彼の生涯における立場や役割の変遷を物語るが、本報告書では、彼が果たした歴史的役割の根幹が陶氏の一員としてのものであったことに鑑み、主に「陶弘詮」の呼称で統一し、必要に応じて「右田弘詮」の名を併記することとしたい。

彼の存在は、兄・弘護(ひろもり)と共に大内氏の武力を支え、兄の横死後はその後見人として陶氏を束ね、主君・大内義興の長期不在時には筑前国という最前線を安定させた政治的手腕においてまず評価される。しかし、彼の真価は、それだけに止まらない。後世の研究者が「国家的事業」と評するほどの壮大なスケールで敢行された『吾妻鏡』の蒐集・書写事業は、彼の名を日本の文化史に刻み込む決定的な功績であった。本稿では、この武と文、二つの側面を統合的に分析し、戦国という激動の時代にあって、文化の礎を静かに、しかし力強く支えた一人の武将の実像に迫る。

第一章:陶氏と右田氏――複雑な出自と家督の行方

陶弘詮の生涯を理解するためには、まず彼が属した陶氏、そして密接な関係にあった右田氏の成り立ちと、彼自身の複雑な家督継承の経緯を解き明かす必要がある。

大内氏の支柱・陶氏の成立

陶氏は、周防国を本拠とした守護大名・大内氏の庶流にあたる 5 。その源流は、大内氏の一族で右田(現・山口県防府市右田)の地を領した右田氏に遡る。右田氏五世・重俊の弟である弘賢が、吉敷郡陶村(現・山口市陶)を領して「陶」を名乗ったのがその始まりとされる 5 。その後、弘賢の子・弘政の代に、本拠を都濃郡富田(現・周南市)の若山城に移し、勢力を拡大した 6

陶氏は、大内氏の家臣団の中で極めて重要な地位を占めていた。三代当主・弘長が長門守護代に任じられて以降、その子孫は代々周防または長門の守護代職を世襲し、大内家臣団の筆頭として主家を支える屋台骨となった 6 。このことは、陶氏が大内氏にとって単なる一有力家臣ではなく、領国経営に不可欠なパートナーであったことを示している。

父・弘房の数奇な運命と「右田弘詮」の誕生

弘詮の父は、陶氏六代当主の陶弘房である。彼の経歴は、当時の武家における家督相続の複雑さを象徴している。弘房は当初、同族で跡継ぎのいなかった右田弘篤の家名を継ぎ、右田氏の当主となっていた 2 。しかし、寛正6年(1465年)、実兄である陶氏当主・弘正が戦死し、陶氏本家の血筋が絶える危機に瀕した 2 。このため弘房は、一族の懇願を受けて陶家に戻り、その家督を相続することとなったのである 3

この時、弘房がかつて継いだ右田氏の家督が空位となる。そこで白羽の矢が立ったのが、弘房の次男であった三郎、すなわち後の弘詮であった 2 。弘詮は父に代わって右田家を継承し、「右田弘詮」としてそのキャリアをスタートさせることになった 3

この一連の動きは、単なる偶然や場当たり的な家督相続ではない。兄の弘護が宗家である陶氏を、そして弟の弘詮が分家ながらも重要な右田氏を、それぞれ継承するという体制は、一族としての政治的発言力と軍事動員力を最大化するための、高度に戦略的な配置であったと考えられる。兄弟で大内氏の最有力庶家である両家を掌握することにより、家臣団内での圧倒的な地位を確立し、主家の政治に深く関与する基盤を築いたのである。後に弘詮が、兄・弘護の死に際して、甥の後見人として一時的に「陶」姓に復して公務を果たそうとした事実は 3 、陶・右田両家の当主名が、状況に応じて柔軟に使い分けられる機能的なツールであったことを示唆している。この巧みな一族経営こそが、弘詮が後に武将としても文化人としても大成するための、揺るぎない政治的・経済的基盤となったのである。

陶弘詮を中心とした陶・右田氏略系図

人物名

続柄・関係

備考

陶弘房

弘詮の父

応仁の乱で戦死。初め右田氏を継ぐが、兄の戦死により陶氏に復帰 2

陶弘護

弘詮の兄

陶氏当主。周防守護代。吉見信頼に殺害される(山口大内事件) 1

陶弘詮(右田弘詮)

本人

父の陶氏復帰に伴い、右田氏を継承。兄の死後、甥たちの後見人となる 2

陶武護

弘詮の甥(弘護の長男)

父の死後、家督を継ぐが、弟・興明と対立し出奔。後に義興に討たれる 8

陶興明

弘詮の甥(弘護の次男)

兄・武護と家督を争い、殺害される 8

陶興房

弘詮の甥(弘護の三男)

兄たちの死後、家督を継承。周防守護代。弘詮の娘を妻とする 8

陶晴賢(隆房)

弘詮の甥の孫(興房の子)

大内義隆に謀反を起こし、大寧寺の変を引き起こす 12

第二章:武将としての道――筑前統治と主家への忠誠

陶弘詮は、後世に伝わる文化人としての側面が強いが、その基盤には、戦国の武将としての確かな実績があった。彼のキャリアは、九州の戦場での武功に始まり、大内氏の最重要拠点である筑前国の統治、そして主家の危機を支える後見人としての役割など、武門の誉れに満ちている。

九州での武功と筑前守護代就任

弘詮が歴史の表舞台に登場するのは、文明10年(1478年)のことである。彼は兄である陶氏当主・弘護と共に九州へ渡り、長年にわたり大内氏と敵対してきた少弐氏との戦いに臨んだ 3 。この戦いで兄弟は軍功を挙げ、主君・大内政弘から高く評価されたことが記録に残っている 3 。この経験は、弘詮が単なる貴公子ではなく、実戦を知る屈強な武将であったことを証明している。

九州での戦乱が一段落すると、翌文明11年(1479年)、兄・弘護は筑前守護代の職を辞し、その地位は弟である弘詮に引き継がれた 4 。筑前国は、大陸との貿易拠点である博多港を擁し、宿敵・少弐氏や大友氏と国境を接する、大内氏にとって政治・経済・軍事のすべてにおいて最重要拠点の一つであった。このような戦略的要衝の統治を任されたことは、弘詮に対する主君の絶大な信頼を物語っている。彼の統治は武断一辺倒ではなく、後に詳述する連歌師・宗祇が彼の守護代館を訪れた際の記録からは、その館が雅な雰囲気に満ちていたことが窺え、洗練された統治を行っていたことが示唆される 3

兄の横死と後見人としての重責

順風満帆に見えた弘詮の武将としてのキャリアは、突如として大きな転機を迎える。文明14年(1482年)5月、兄・弘護が山口の築山館において、石見の国人・吉見信頼によって刺殺されるという衝撃的な事件(山口大内事件)が発生したのである 1 。当主を失った陶氏は、弘護の遺児である武護、興明、興房らがいずれも幼少であったため、一気に動揺に包まれた 14

この未曾有の危機に際し、一族の柱石として事態の収拾にあたったのが、叔父である弘詮であった。彼は主君・政弘の命を受け、幼い甥たちの後見人となり、混乱する陶氏家中を支えるという重責を担うことになった 1 。さらに、この時期も弘詮は筑前守護代として九州の防衛線にあり、政弘から送られた書状の宛名が「陣所」となっていることから、出陣中であったことがわかる 3 。彼は、兄の死という個人的な悲劇と一族の危機、そして筑前という国家の最前線の統治という、三重の困難な状況に同時に対応しなければならなかったのである。

主君・大内義興の在京と留守居役

弘詮の政治家・統治者としての真価が最も発揮されたのは、主君・大内義興の時代であった。永正5年(1508年)、義興は前将軍・足利義稙を奉じて上洛し、幕政を掌握するため、以後10年以上にわたって京都に滞在することになる 3 。この長期の遠征には、弘詮の甥で陶氏当主となっていた興房らが従軍した 11

一方で弘詮は、国元に留まり、主君不在の領国を守る「留守居役」という極めて重要な任務を担った 3 。主君と共に上洛し、中央で武功を立てることも名誉な役目であるが、主君不在の広大な領国を安定させ、敵の侵攻を防ぎ、遠征軍への兵站を維持するという留守居役の責任は、それ以上に重い。この大役を任されたことは、弘詮が義興から寄せられていた絶対的な信頼の証左に他ならない。彼の卓越した危機管理能力と統治手腕なくして、この時期の大内氏の安定、ひいては義興の京都における権勢の維持はあり得なかったであろう。弘詮は、華々しい戦功とは異なる形で、主家に対して最大級の忠誠を尽くしたのである。

第三章:大内文化の担い手――『吾妻鏡』蒐集という偉業

陶弘詮の生涯における最大の功績は、武将としてのものではなく、一人の文化人として成し遂げた、歴史書『吾妻鏡』の蒐集・書写事業にある。この事業は、単なる個人的な趣味の範疇を遥かに超え、日本の歴史学と文化の継承に計り知れない貢献を果たした。

大内文化の爛熟と弘詮の役割

弘詮が生きた15世紀後半から16世紀初頭にかけて、大内氏の本拠地・山口は未曾有の文化的繁栄を謳歌していた。応仁の乱(1467-1477年)で京都が焦土と化すと、戦乱を逃れた多くの公家や僧侶、文化人たちが、安定と富を誇る山口に次々と下向した 15 。大内氏は日明貿易(勘合貿易)を掌握して莫大な富を蓄積しており 15 、その財力を背景にこれらの文化人を積極的に庇護した。画聖・雪舟が山口にアトリエを構え、数々の傑作を生み出したのはその象徴である 16 。こうして山口には、京都の北山文化・東山文化と、大陸伝来の文化が融合した、きらびやかで国際色豊かな「大内文化」が花開いた。「西の京」と称されたその繁栄は、大内政弘、義興といった歴代当主の文化への深い理解に支えられていたが、その文化政策を現場で実践し、豊穣な果実をもたらしたのが、弘詮のような教養ある家臣たちであった。

『吾妻鏡』蒐集事業という壮大な挑戦

弘詮が情熱を注いだのが、鎌倉幕府の公式史書である『吾妻鏡』の復元であった。『吾妻鏡』は、源頼朝の挙兵から宗尊親王の代まで、鎌倉時代の約87年間を記した編年体の歴史書であり、武家政権の記録として比類なき価値を持つ 19 。しかし、室町時代にはその写本は各地に散逸し、全巻を揃えることは極めて困難な状況にあった 19

弘詮はこの歴史的遺産の散逸を深く憂い、その復元に乗り出した。彼は私財を投じ、自身の持つ人脈を最大限に活用して、写本の捜索を開始した。その範囲は京都や畿内はもちろん、東国、北国にまで及び、諸国を巡る僧侶や文化人にも協力を依頼したという 3 。この捜索は数十年にわたる、まさに執念の事業であった。

「吉川本吾妻鏡」の完成と歴史的価値

長年の努力の末、弘詮はついに文亀年間(1501-1504年)に42帖の写本を入手する。しかし、まだ一部が欠落していたため、彼は捜索を続行し、ついに欠けていた5帖を発見するに至った 3 。そして、数人の筆生を雇い、これらの写本を統一された形式で書写・校訂させ、大永2年(1522年)、ついに全48帖(本文47帖、年譜1帖)からなる完全な写本を完成させたのである 3

この弘詮による写本は、後に毛利氏の一族である吉川家に伝来したことから、現在「吉川本」として知られている 19 。吉川本は、徳川家康が収集した「北条本」や、薩摩の島津家に伝わった「島津本」と並び、『吾妻鏡』の三大伝本の一つとして極めて高い資料的価値を持つ 19 。その内容は他の伝本では失われた記事を含むなど独自性が高く、後世の歴史研究、特に鎌倉時代史の研究に計り知れない恩恵をもたらした。

弘詮がこの事業に注いだ情熱の背景には、単なる文化的趣味を超えた、武家としての深い歴史認識があったと考えられる。応仁の乱以降、室町幕府の権威は失墜し、実力主義が世を覆う下剋上の時代が到来していた。このような時代にあって、武家による安定した統治の「規範」を示した『吾妻鏡』を復元し、所有することは、自らの主家である大内氏を、単なる地方の武力勢力ではなく、武家の正統な伝統を継承する支配者として位置づけるための、壮大な文化戦略であった。それは、武家の棟梁たるべき者の歴史的使命感と、自らの支配の正統性を文化の力によって補強しようとする、極めて高度な政治的意志の表れだったのである。

完成した『吾妻鏡』に対し、弘詮は子孫に「暫時たりといえども室内を出すべからず。いわんや他借書写においておや(ほんの少しの間であっても部屋の外に出してはならない。ましてや他人に貸したり書き写させたりすることなど論外である)」という厳格な遺言を残している 2 。これは、苦心の末に復元した「完全なテキスト」が、安易な書写によって質の低い異本を生み出し、内容が劣化することを防ごうとする強い意志の表れである。そして同時に、この至宝を陶(右田)家の家宝として秘蔵することで、一族の文化的権威を永続させようという、彼の深い思慮が見て取れる。

第四章:風雅の人――宗祇、宗碩らとの交流と信仰

陶弘詮の文化人としての側面は、『吾妻鏡』蒐集という大事業だけに留まらない。彼は当代一流の文化人たちと積極的に交流し、自らも文芸に親しむ、洗練された趣味人であった。また、その人柄は篤い信仰心と、両親への深い孝心に彩られていた。

連歌師・宗祇との交友

弘詮の文化人としての姿を生き生きと伝えているのが、室町時代を代表する連歌師・宗祇(そうぎ)との交流である。宗祇は文明12年(1480年)に九州へ下向した際、筑前守護代であった弘詮の館を訪れている。その時の様子を記した紀行文『筑紫道中記』の中で、宗祇は弘詮について「年廿の程にて、其様艶に侍れば(年は二十歳ほどで、その様子が優美で魅力的である)」と記している 3 。この記述から、若き日の弘詮が、教養と気品を兼ね備えた美男子であったことが窺える。

宗祇は弘詮の心尽くしのもてなしを受け、時を忘れて酒盃を重ねたという 3 。また、弘詮が主催した連歌会では、彼が筑前の守護代であることを踏まえ、「此の国の守代なれば、万姓の栄花をあひすべきのこゝろ(この国の守護代であるからには、万民の繁栄を願う心を持つべきである)」という句を詠んでいる 3 。これは、宗祇が弘詮の統治者としての器量を高く評価していたことを示唆する。大内氏にとって貴賓である宗祇を丁重にもてなし、その旅の安全を保障することも弘詮の重要な任務であったが、彼はその役割を見事に果たしたのである。

文化サロンの主として

弘詮の周りには、宗祇だけでなく、当代一流の文化人たちが集っていた。彼は正広、兼載、宗碩といった連歌師たちとも頻繁に歌会を催しており、その館は「西の京」山口における文化サロンの一つとして機能していた 3 。永正6年(1509年)には、遣明正使として山口に滞在していた禅僧・了庵桂悟に依頼して塔銘を撰せしめるなど、その交流は多岐にわたった 3 。これらの事実は、弘詮が単に文化のパトロンであっただけでなく、自らも創作活動に深く親しむ実践者であったことを物語っている。

篤い孝心と信仰心

弘詮の人間性を語る上で欠かせないのが、その篤い孝心と信仰心である。彼は、応仁の乱のさなかに京都で戦死した父・弘房の菩提を弔うため、延徳4年(1492年)に新たな菩提寺として壮麗な寺院を建立した 3 。これが、後に国宝の五重塔で知られることになる瑠璃光寺の前身である(現在の瑠璃光寺は江戸時代に現在地に移転)。

また、母(仁保盛郷の娘)のためには、長門国に妙栄寺を建立した 3 。さらに、永正15年(1518年)には、禅の法話集である『拈頌集(ねんじゅしゅう)』三十巻を博多の聖福寺で書写させ、父の菩提寺である瑠璃光寺に寄進している 3 。この寄進状には「鳳梧真幻昌瑞」という彼の法名が記されており、この頃にはすでに出家していたことがわかる 3 。これらの行いは、戦国の武将が持つ荒々しいイメージとは対極にある、彼の深い信仰心と、両親への尽きせぬ愛情の深さを示している。

第五章:弘詮の遺産と陶氏の行く末

文武両道に秀で、主家への忠誠と文化の継承にその生涯を捧げた陶弘詮は、大永3年(1523年)10月24日、長年統治した筑前の地でその生涯を閉じた 4 。彼の死は、一つの時代の終わりを告げるものであった。そして、彼が遺した「忠」の精神は、皮肉にも彼自身の血族の中で、最も劇的な形で試されることになる。

息子・陶隆康の悲劇――忠臣の鑑

弘詮の遺産を最も純粋な形で受け継いだのが、息子の一人である陶隆康であった。隆康は父の教えの通り、大内義隆の重臣として忠実に仕えた。しかし、彼の運命は、一族の者が起こした謀反によって暗転する。

天文20年(1551年)、弘詮の甥の孫にあたる陶晴賢(当時は隆房)が、主君・大内義隆に対して謀反の兵を挙げた(大寧寺の変) 21 。晴賢の軍勢が山口に迫る中、義隆はなすすべなく長門の大寧寺へと落ち延びていく。この絶体絶命の状況で、隆康は主君を逃すための殿(しんがり)を務め、義隆の鎧を身にまとって身代わりとなり、追っ手の軍勢の中に討って出て、壮絶な討死を遂げたのである 23 。その忠義の死は、主君のために命を捧げることを武士の最高の誉れとする、古き良き時代の価値観を体現するものであった。

甥の孫・陶晴賢の謀反――下剋上の体現者

息子の隆康が忠死を遂げたその同じ事件の首謀者が、弘詮がかつて後見人として養育した甥・興房の孫である陶晴賢であったことは、歴史の皮肉としか言いようがない 11 。晴賢は、文治に傾倒し武断派を軽んじるようになった主君・義隆に不満を募らせ、ついに主君を弑逆するという下剋上を断行した 21 。これにより、西国に君臨した名門・大内氏は事実上滅亡し、晴賢自身もそのわずか4年後、毛利元就との厳島の戦いに敗れて自害することになる 12

ここに、陶弘詮の一族の中に凝縮された、戦国時代という時代の矛盾が鮮烈に浮かび上がる。弘詮の生涯は、主君への「忠誠」と、武家としての「文武両道」の理想を追求するものであった。その実子・隆康は、父の遺志をそのまま体現し、忠臣としてその生涯を閉じた。一方で、弘詮がその礎を築いた陶氏の家督を継いだ晴賢は、主君を討つ裏切りの象徴、下剋上の体現者となった。

この、わずか一世代か二世代のうちに起きた劇的な価値観の断絶は、室町時代的な主従関係の倫理が崩壊し、実力が全てを支配する戦国的な論理へと、時代が大きく転換していくうねりを象徴している。陶弘詮が心血を注いで築き上げた「忠」と「文」の遺産は、皮肉にも自らの一族の手によって否定される形で、その歴史に幕を下ろすことになったのである。この悲劇性こそが、陶氏一族の物語を、より一層深く、我々の記憶に刻み込む要因となっている。

結論:再評価されるべき文武両道の将

陶弘詮の生涯を俯瞰するとき、我々の前に現れるのは、単なる一地方武将の姿ではない。彼は、武将として主家の屋台骨を支え、統治者として大陸との境界線である筑前国を十全に安定させ、そして文化の庇護者として『吾妻鏡』という国家的文化遺産の保存に決定的な貢献を果たした、類い稀な多面性を持つ人物であった。

彼の武将としての功績は、兄・弘護と共に九州の戦線で武功を立てたことに始まり、兄の横死後は混乱する陶氏の後見人として一族をまとめ上げ、主君・大内義興の長期在京中には留守居役として広大な領国を守り抜いた。これらの功績は、大内氏の勢力維持と拡大に不可欠なものであり、彼の卓越した政治的手腕と危機管理能力を如実に示している。

しかし、彼の名を不滅にしたのは、やはり文化への深い貢献である。特に、散逸の危機にあった鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』を、数十年の歳月と私財を投じて蒐集・書写し、後世に伝えた功績は計り知れない。この事業は、彼の深い歴史認識と、武家の伝統を後世に伝えんとする強い使命感の表れであり、戦国時代の武将が成し遂げた文化的偉業として特筆に値する。また、宗祇をはじめとする当代一流の文化人たちとの交流は、彼自身が高い教養を持つ実践者であったことを物語っており、「西の京」山口の文化の爛熟に大きく寄与した。

陶氏と言えば、主君を弑逆した謀反人・陶晴賢の印象があまりに強く、一族全体が下剋上の象徴として語られがちである。しかし、その一族の中に、弘詮のような理知的で忠誠心に厚く、文武の道を高いレベルで両立させた武将が存在したという事実は、我々が持つ戦国時代の画一的なイメージに再考を迫る。

陶弘詮の生涯は、権力闘争や合戦といった側面だけで語られがちな戦国時代において、文化や記録の継承がいかにして、そしていかなる情熱によって行われたかを示す、極めて貴重な事例である。彼は、単なる大内氏の一家臣ではなく、日本の歴史と文化にとっての「知られざる巨人」として、今こそ正当に再評価されるべき人物であると言えよう。


陶弘詮関連年表

西暦(和暦)

陶弘詮の動向

大内氏・中央の動向

1465年(寛正6)

父・弘房が兄・弘正の戦死により陶氏に復帰。弘詮が右田氏を継承 2

1467年(応仁元)

応仁の乱勃発(~1477年)。

1468年(応仁2)

父・弘房、京都・相国寺の戦いで戦死 6

1478年(文明10)

兄・弘護と共に九州に出陣し、少弐氏と戦い軍功を挙げる 8

1479年(文明11)

兄に代わり、筑前守護代に就任 4

1480年(文明12)

筑前守護代館に連歌師・宗祇を迎える 3

1482年(文明14)

兄・弘護が吉見信頼に殺害される。幼い甥たちの後見人となる 1

1492年(延徳4)

父・弘房の菩提を弔うため、瑠璃光寺を建立 3

1501-04年(文亀年間)

この頃、『吾妻鏡』の写本42帖を入手 3

1508年(永正5)

主君・大内義興、足利義稙を奉じて上洛。以後10年間在京。

1508-18年(永正5-15)

甥・興房らが義興に従軍する中、国元に留まり留守居役を務める 3

1518年(永正15)

禅籍『拈頌集』を瑠璃光寺に寄進。この頃までに出家か 3

1522年(大永2)

『吾妻鏡』全48帖の書写・校訂を完成させる(吉川本) 3

1523年(大永3)

10月24日、筑前の地にて死去 4

1551年(天文20)

息子・陶隆康が、陶晴賢の謀反(大寧寺の変)で主君・義隆の身代わりとなり討死 24

大内義隆、陶晴賢の謀反により自害。大内氏、事実上滅亡。

1555年(弘治元)

陶晴賢、厳島の戦いで毛利元就に敗れ自害 12

引用文献

  1. 陶弘護 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E5%BC%98%E8%AD%B7
  2. 右田弘詮 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E7%94%B0%E5%BC%98%E8%A9%AE
  3. 陶弘詮(右田弘詮) 吾妻鏡を書写した功績甚大・文武両道の臣 https://suoyamaguchi-palace.com/sue-castle/sue-hiroaki/
  4. 陶弘詮(すえ ひろあき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%99%B6%E5%BC%98%E8%A9%AE-1083400
  5. 陶氏 - 姓氏家系メモ https://dynasty.miraheze.org/wiki/%E9%99%B6%E6%B0%8F
  6. 【陶氏と若山城】 - ADEAC https://adeac.jp/kudamatsu-city/text-list/d100010/ht020200
  7. 本当に逆臣?! 陶晴賢の虚像。そして今 - 山口県魅力発信サイトきらりんく|おもしろ山口学 https://happiness-yamaguchi.pref.yamaguchi.lg.jp/kiralink/202109/yamaguchigaku/index.html
  8. OU11 陶 弘賢 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/OU11.html
  9. 陶弘護 - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/sue-castle/sue-hiromori/
  10. 陶興房 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E8%88%88%E6%88%BF
  11. 陶興房 - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/sue-castle/sue-okifusa/
  12. 陶晴賢(すえ はるかた)について知りたい。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?fi=6_0+4_%E4%BA%BA%E7%89%A9+5_%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8&type=reference&page=ref_view&id=1000142343&ldtl=1
  13. 大内義隆の家臣 - 歴史の目的をめぐって https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-05-oouti-yositaka-kashin.html
  14. 武家家伝_陶 氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sue_k.html
  15. 大内文化 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%96%87%E5%8C%96
  16. 室町時代に「西の京」山口で華ひらいた「大内文化」とは - 山口県観光連盟 https://yamaguchi-tourism.jp/feature/ouchi-culture
  17. 山口市観光情報サイト 「西の京 やまぐち」 山口の基礎を築いた大内氏 https://yamaguchi-city.jp/history/ouchi.html
  18. 山口歴史探訪 西国一の大名大内氏の足跡を訪ねて 9 大内正弘と雪舟 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11860460
  19. 吾妻鏡(東鑑) https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/uploads/2020/12/001azumakagami.pdf
  20. 吾妻鏡 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%BE%E5%A6%BB%E9%8F%A1
  21. 陶晴賢 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%99%B4%E8%B3%A2
  22. 天分20年(1551)9月1日は陶晴賢(隆房)が謀反の兵を挙げ大寧寺の変にて大内義隆が自害した日。義隆が重用した文治派の家臣と武断派の晴賢らとの対立が招いた結果。晴賢は - note https://note.com/ryobeokada/n/n7dbd15193032
  23. 陶氏 - 戦国日本の津々浦々 https://proto.harisen.jp/sizoku1/sue-shi.html
  24. 陶隆康(すえ たかやす)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%99%B6%E9%9A%86%E5%BA%B7-1083374
  25. 大寧寺の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AF%A7%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
  26. 「大寧寺の変(1551年)」陶隆房による主君・大内義隆へのクーデターの顛末とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/86
  27. 大内氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%B0%8F