難波田憲重は扇谷上杉氏重臣。松山城主として主君朝定を支え、武勇と教養を兼ね備えた武将。「松山城風流合戦」の逸話で知られる。河越夜戦での戦死は通説だが、天文6年戦死説が有力。
戦国時代の関東に、その名を勇名と共に、また風雅な逸話と共に刻んだ一人の武将がいる。扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)家の重臣、難波田憲重(なんばだ のりしげ)。彼の名は、主家の危機に際して見せた揺るぎない忠誠心と、戦場の只中で敵将と和歌を詠み交わしたとされる「松山城風流合戦」の伝承によって、後世に語り継がれてきた 1 。武勇と教養を兼ね備えた理想の武士像として、憲重の姿は多くの人々の記憶に刻まれている。
しかし、その著名なイメージの裏側で、彼の生涯を正確に描き出すことは、歴史学的に極めて困難な作業である。なぜなら、難波田憲重という人物に関する同時代の一次史料は極めて乏しく、我々が知る彼の人物像の多くは、江戸時代に編纂された軍記物や系図に依拠しているためである 3 。これらの後世の記録は、しばしば英雄的な物語を創出する過程で、史実を潤色、あるいは改変する傾向を持つ。事実、『北条記』などの軍記物が語る憲重の最期と、同時代の僧侶の日記である『快元僧都記』が記す彼の死には、9年もの決定的な時間的乖離が存在する 4 。
本報告書は、この伝承と史実の狭間に光を当て、難波田憲重という武将の実像に迫ることを目的とする。そのため、後世に形成された物語を鵜呑みにするのではなく、信頼性の高い史料を基軸に据えつつ、軍記物や系図がなぜ彼をそのように描いたのか、その背景にある歴史的、文化的な要請までをも考察の対象とする。
そもそも、断片的な情報しか残されていない一人の武将が、なぜこれほどまでに鮮烈な物語を伴って記憶されているのか。その問い自体が、憲重を理解する上での重要な鍵となる。扇谷上杉氏の滅亡という悲劇的な歴史の中で、最後まで忠義を貫いた家臣の存在は、滅びゆく一門の「最後の輝き」として、また武士の鑑として、後世の語り部や子孫にとって不可欠な物語的装置であった可能性が高い。つまり、難波田憲重は、史実の人物であると同時に、時代が要請した「物語られるべき英雄」でもあった。本報告書では、この「物語化」のプロセスをも視野に入れ、彼の生涯を多角的に検証していく。
難波田憲重の人物像を理解するためには、まず彼が属した「難波田氏」そのもののルーツを解き明かす必要がある。難波田氏は、戦国時代に突如として現れた新興勢力ではなく、古くから武蔵国に深く根を張った由緒ある武士の一族であった。
難波田氏の源流は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて武蔵国で広範な影響力を持った中小武士団の連合体、「武蔵七党(むさししちとう)」に遡る 6 。その中でも、現在の東京都から埼玉県南部に勢力を有した村山党(むらやまとう)の中核をなしたのが金子氏であり、難波田氏はその金子氏から分かれた庶流とされている 7 。この事実は、彼らが鎌倉幕府の成立にも関わった古豪の系譜に連なる一族であることを示している。
難波田氏の直接の祖と伝わるのが、金子小太郎高範(かねのこたろうたかのり)という人物である 8 。彼は、承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げた「承久の乱」において、幕府方として参戦した。そして、京都の宇治川で行われた朝廷軍との決戦で、奮戦の末に討死を遂げたとされる 11 。
この高範の忠義と犠牲的な戦功が幕府に高く評価され、その子孫に恩賞として武蔵国入間郡難波田郷(現在の埼玉県富士見市南畑地区周辺)が与えられた 11 。これが、一族がその地名を姓として「難波田」を名乗るようになった起源であると、多くの系図や地元の伝承は伝えている 11 。
この起源譚は、単なる一族の来歴説明に留まるものではない。戦国時代という実力が全てを支配する世の中にあっても、自らの所領支配の「正当性」を主張する上で、出自の由緒は極めて重要な意味を持った。難波田氏にとって、そのルーツが「承久の乱」という、武家政権の正統性を確立した画期的な戦役における先祖の功績に由来するという物語は、自らが武蔵国に根を張る由緒正しい「武家」であることを内外に示す強力な根拠となった。すなわち、彼らが治める難波田郷は、単なる占有地ではなく、先祖が幕府への忠誠の対価として得た神聖な「恩賞地」である、という論理である。この物語は、一族のアイデンティティを形成すると同時に、その支配権に歴史的な権威を与え、他勢力からの干渉を退けるための政治的な支柱として機能していたと考えられる。
「難波田憲重」という名は広く知られているが、この呼称自体が、彼の複雑な人物像を解き明かす上での最初の関門となる。史料を丹念に読み解くと、彼を指し示す可能性のある複数の名前が浮かび上がり、それらを考証する作業を通じて、より確かな人物像の輪郭が見えてくる。
難波田憲重をめぐる史料には、主に三つの名前が登場する。
当初、正直と善銀は同一人物ではないかとも考えられたが、年代的な考証からその可能性は低い。善銀の娘婿である岩付城主・太田資正は、大永2年(1522年)の生まれである 3 。また、善銀の甥(姉妹の子)にあたる上田朝直は永正13年(1516年)の生まれである 3 。これらの近親者の生年から逆算すると、善銀の生年は明応年間(1492年~1501年)頃と推定するのが最も合理的である 3 。一方、父と目される正直は、主君・定正が死去する明応3年(1494年)以前に元服していたと考えられるため、善銀が元服する頃には既に壮年期にあったことになる。したがって、正直と善銀は父子と考えるのが妥当である、というのが現在の学術的な見解である 3 。
善銀の家族構成を見ると、彼が扇谷上杉家中で築いた人間関係の広がりが窺える。彼には男子が3人いたとされるが、その詳細は不明である 14 。一方で娘は二人おり、一人は前述の通り、扇谷上杉家の重臣筆頭格であった太田資正に嫁ぎ、後に家督を継ぐ太田氏資を産んでいる 3 。もう一人の娘は、同じく家臣の大森式部大輔に嫁ぎ、その子が後に母方の難波田家の名跡を継ぐことになる難波田憲次である 3 。このように、難波田氏は太田氏や上田氏といった家中の有力武将と密接な姻戚関係を結ぶことで、その地位を盤石なものにしていた。
この父「正直」から子「善銀」への代替わりと、それに伴う名前の変化は、単なる世代交代以上の意味を持つ。父・正直の名は、主君から一字を賜る「偏諱」という、室町時代に典型的であった主従関係の形式を色濃く反映している。これは、主君への人格的な従属と忠誠を示す、儀礼的な結びつきの象徴であった。
それに対し、子・善銀は確かな実名が伝わらず、もっぱら法名で知られている。これは、戦国の動乱が激化する中で、主君から偏諱を受けるという伝統的な慣習が薄れたか、あるいは善銀自身が、形式的な名乗りよりも個人の武威や「弾正善銀」という実力本位の通称でその存在感を示すことを重視した時代の変化を物語っている。この名前の変化は、形式を重んじる室町的な秩序から、実力が全てを左右する戦国的な秩序へと移行する時代の狭間に、彼ら父子が生きていたことを示唆しているのである。
関係 |
人物名 |
備考 |
父(推定) |
難波田正直 |
扇谷上杉定正より偏諱を受けたとされる。 |
本人 |
難波田善銀(憲重) |
生年:明応年間(1492-1501)頃と推定。法名:善銀。通称:弾正。 |
姉妹 |
(氏名不詳) |
上田政盛の妻。上田朝直の母。 |
甥 |
上田朝直 |
善銀の姉妹の子。松山城主。 |
子 |
難波田隼人正 |
河越夜戦で父と共に戦死したとされる(異説あり)。他、男子2名。 |
娘 |
(氏名不詳) |
太田資正の妻。太田氏資の母。 |
娘 |
(氏名不詳) |
大森式部大輔明昇の妻。難波田憲次の母。 |
娘婿 |
太田資正 |
岩付城主。扇谷上杉家の重臣。 |
娘婿 |
大森式部大輔明昇 |
扇谷上杉家臣。 |
外孫 |
難波田憲次 |
大森式部大輔の子。母方の難波田家を相続。 |
難波田善銀(憲重)は、扇谷上杉家の家臣団の中で、異例とも言えるほどの信頼を獲得し、主家の屋台骨を支える中心人物へと登り詰めていった。彼の地位は、単なる一城主にとどまらず、事実上の家宰(筆頭家老)に匹敵するものであった。
伝統的に、扇谷上杉家の家宰職は、江戸城を築いた太田道灌の家系である太田氏が世襲していた 16 。これは、室町時代を通じて確立された家中の序列であった。しかし、善銀の時代になると、彼はその伝統的な序列とは別に、主君から絶大な信頼を寄せられ、実質的な家宰に匹敵するほどの重用を受けるに至る。このため、歴史研究においては彼を「家宰的存在」と評価している 3 。
その重用ぶりを最も明確に示しているのが、彼が武蔵国における戦略的要衝である松山城(現在の埼玉県比企郡吉見町)の城主を任されていたことである 1 。松山城は、武蔵国の中央部に位置し、北関東と南関東を結ぶ交通の結節点を押さえる極めて重要な拠点であった。このような城を任されること自体が、彼の軍事的能力と忠誠心が家中で抜きん出ていたことの何よりの証左であった。信頼性の高い史料である『快元僧都記』によれば、遅くとも天文6年(1537年)には、彼が松山城に在城していたことが確認できる 4 。
善銀の忠臣としての真価が最も発揮されたのは、主家が最大の危機に瀕した時であった。天文6年(1537年)、扇谷上杉氏は新興勢力である後北条氏の猛攻を受け、本拠地であった河越城を北条氏綱に奪われるという致命的な敗北を喫する 19 。これにより、当主の上杉朝定は本拠を失い、逃亡を余儀なくされた。この絶体絶命の状況下で、朝定が頼り、身を寄せたのが、善銀が守る松山城であった 1 。
この事実は、善銀が単なる有力家臣の一人ではなく、主君が最後の望みを託す「最後の砦」として認識されていたことを示している。主家が崩壊の危機に直面した際に、その命運を一身に背負う覚悟と実力を備えた人物、それが難波田善銀だったのである。
しかし、彼のこの台頭は、逆説的に主家である扇谷上杉氏の衰退と深く結びついていた。扇谷上杉氏は、同族である山内上杉氏との長期にわたる内紛(長享の乱)や、相模国から急速に勢力を拡大する後北条氏の圧迫によって、その権威と支配力を著しく低下させていた。このような混乱期においては、家格や伝統といった旧来の秩序よりも、実戦で頼りになる武将の軍事力や、決して裏切らないという忠誠心そのものが、何よりも重視されるようになる。
事実、家宰職を世襲する太田氏の中には、後に北条方に寝返る太田資顕のような人物も現れ、家臣団は必ずしも一枚岩ではなかった。それに対し、難波田氏は一貫して主家への忠勤に励んだ。その結果、善銀は形式的な家宰職には就かずとも、主君・朝定が最も信頼を寄せる「事実上の支柱」となったのである。彼の「家宰的存在」という特異な地位は、まさに扇谷上杉氏の末期的な状況を象徴する現象であった。彼の忠誠は、安定した主従関係の下での安穏な奉公ではなく、沈みゆく船を必死に支えるような、より悲壮で献身的な色合いを帯びていたと言えるだろう。
難波田憲重の名を不朽のものとしたのが、天文6年(1537年)に起こったとされる「松山城風流合戦」の逸話である。このエピソードは、彼の武人としての勇猛さと、教養人としての風雅な一面を同時に伝え、戦国武士の理想像として後世に大きな影響を与えた。
天文6年(1537年)7月、本拠・河越城を北条氏綱に奪われた扇谷上杉朝定は、難波田善銀(憲重)の居城・松山城へと後退した 1 。勢いに乗る北条軍はこれを追撃し、松山城下まで攻め寄せた。城主である善銀は、城門を開いて打って出て、自ら軍勢を率いて北条軍を激しく迎撃した 1 。
この激戦の最中、善銀が一時軍を引いて城へ戻ろうとした際、追撃してきた北条方の武将・山中主膳との間で、世に名高い和歌の問答が交わされたと伝えられている 1 。軍記物によれば、そのやり取りは以下のようであった。
山中主膳の歌:
「あしからじ よかれとてこそ 戦はめ なにか難波田(なばた)の 浦崩れ行く」
【意訳】
(主君のためを思って戦うのは悪いことではない。あなたも主君のため良かれと思って戦っているのだろう。それなのに、なぜ難波田ほどの優れた武士が、まるで難波の浦辺が崩れるように退いていくのか。)
これは、退却する善銀を「不名誉である」と挑発する歌である。これに対し、善銀は馬上で即座に返歌を詠んだという。
難波田善銀の返歌:
「君おきて あだし心を 我もたば 末の松山 波もこえなん」
【意訳】
(もし私が主君を置き去りにして、不忠な心を持つようなことがあれば、あの歌枕として名高い「末の松山」を波が越すという、決してありえないことすら起きてしまうだろう。)
この返歌は、古典和歌の世界で「絶対に波が越えることはない」と詠われた名所「末の松山」を引き合いに出し、自らの主君への忠誠心が、それと同様に絶対的で揺るぎないものであることを宣言したものである。
この劇的な和歌のやり取りが、合戦の最中に文字通り行われたかどうかの確証はない 1 。しかし、この逸話の真偽そのものよりも重要なのは、なぜこのような物語が生まれ、語り継がれたかという点にある。このエピソードは、室町時代から続く関東武士が持っていた、武勇のみならず和歌などの教養(雅)を尊ぶという価値観を色濃く反映している。
さらに、善銀の返歌は単なる風流な応答に留まらない、極めて高度な論理に基づいた「忠誠」の表明であった。山中主膳の歌は、「武士ならばその場で討死にするのが名誉であり、退却は不名誉だ」という、当時の一般的な武士の価値観に基づいた挑発である。これに対し、善銀は「個人の名誉のために死ぬこと」が必ずしも最高の忠義ではない、という新たな忠誠の論理を提示した。
彼の歌が示す「忠義」とは、まだ若い主君・朝定を守り、一族の再起を図るために、今はあえて「生き延びること」を選択する、というものである。これは、目先の個人的な名誉よりも、主家の存続というより大局的な目的を優先する、深く思慮された忠誠観と言える。彼は「末の松山」という古典の権威を借りることで、自らの退却という不利な状況を、むしろ自身の揺るぎない忠誠心の深さを証明する機会へと見事に昇華させたのである。この和歌は、戦国という過酷な時代における忠誠のあり方を問い直す、一つの哲学的な回答でもあった。
難波田善銀(憲重)の生涯における最大の謎であり、歴史学上の論争点となっているのが、彼の最期である。通説では、関東の覇権を決定づけた「河越夜戦」で壮絶な戦死を遂げたとされるが、それを覆す有力な史料が存在し、彼の死は歴史と物語が交錯するミステリーとなっている。
天文14年(1545年)、扇谷上杉朝定は、宗家である山内上杉憲政、そして古河公方・足利晴氏と手を結び、積年の宿敵である後北条氏を打倒すべく大連合軍を結成した。約8万とも言われる大軍で、北条氏が占拠する河越城を包囲した 20 。これに対し、城を守る北条綱成の兵はわずか3,000、後詰として駆けつけた北条氏康の本隊も8,000程度であり、連合軍は圧倒的優位にあった 20 。
しかし、天文15年(1546年)4月20日の夜、氏康は油断していた連合軍に対し、大規模な夜襲を敢行する 4 。この奇襲は完璧に成功し、数に驕った連合軍は総崩れとなった。この戦いで扇谷上杉朝定は討死し、彼の率いた扇谷上杉家は事実上滅亡。関東の覇権は、旧勢力である上杉氏から新興勢力である北条氏の手に完全に移ることになった。この「河越夜戦」は、日本の戦国史における最も劇的な逆転劇の一つとして知られている 5 。
この日本史上に名高い決戦において、難波田善銀は主君・朝定と運命を共にした、というのが広く知られた通説である 13 。『北条記』をはじめとする多くの軍記物は、彼がこの戦いで奮戦の末に討死したと記している 23 。
特に、川越城の北西に位置する東明寺(とうみょうじ)の門前で激戦となり、善銀は古井戸に馬ごと転落して絶命した、という非常に具体的な伝承が残されている 5 。この伝承地は「東明寺口合戦」の跡として、現在も川越市の史跡に指定されており、彼の霊を祀ったとされる塚も存在する 5 。この物語は、主君に殉じた忠臣の壮絶な最期として、人々の心に深く刻み込まれてきた。
しかし、この通説を根底から覆す記録が存在する。それは、同時代に生きた僧侶・快元が記した日記『快元僧都記』である。その天文6年(1537年)7月22日の条には、以下のような驚くべき記述がある。
「一昨日廿日、松山之働…難波田弾正入道善銀同名隼人、佐々木并子息三人打死」
【意訳】
(一昨日の20日、松山城での戦闘があり…難波田弾正入道善銀、その甥(または子)の隼人、佐々木氏とその息子たち3人が討死した。)
この記述は、善銀が河越夜戦の実に9年も前、すなわち「松山城風流合戦」があったとされる天文6年の合戦で、既に亡くなっていたことを示している 4 。同時代の人物による一次史料である『快元僧都記』の信頼性は、後世に編纂された軍記物とは比較にならないほど高い。したがって、歴史学的には「天文6年戦死説」が史実であった可能性が極めて高いと結論付けられている。
ではなぜ、史実とは異なる「河越夜戦での死」という物語が、これほどまでに強力に語り継がれてきたのだろうか。その背景には、扇谷上杉氏の滅亡という歴史的事件を、より劇的で感動的なものとして記憶したいという、後世の人々の集合的な願望があったと考えられる。
もし善銀が史実通り天文6年に死んでいたとすれば、主家が滅びる最後の決戦の場に、最も頼りになるはずの忠臣は不在だったことになる。これは、名門の最期としてはあまりに寂しく、物語としては締まりがない。
一方で、「河越夜戦で主君と共に討死した」という物語は、主従が最後まで運命を共にするという、武士道における理想的な最期を描き出す。これにより、扇谷上杉氏の滅亡は、単なる敗北ではなく、忠義に彩られた悲劇として昇華される。東明寺の古井戸という具体的な「聖地」の存在は、この物語にリアリティを与え、人々の記憶に定着させる上で決定的な役割を果たした。結果として、人々は史実の正確さよりも、心を打つ「美しい物語」を選択し、語り継いできたのである。この現象は、歴史が単なる事実の記録ではなく、人々の記憶と願望によって構築される物語でもあることを示す、格好の事例と言えるだろう。
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説A:河越夜戦戦死説(通説) |
説B:天文6年戦死説(一次史料説) |
典拠史料 |
『北条記』、『関八州古戦録』、『寛政重修諸家譜』、東明寺伝承など |
『快元僧都記』 |
史料の性質 |
江戸時代成立の軍記物、系図、寺社伝承(二次史料) |
同時代の僧侶による日記(一次史料) |
記述内容 |
天文15年(1546年)4月20日、河越夜戦にて主君・上杉朝定と共に戦死。東明寺の古井戸に落ちて絶命したとされる。 |
天文6年(1537年)7月20日、松山城をめぐる北条軍との合戦で討死。 |
信頼性評価 |
物語性が高く、後世の潤色の可能性が大きい。 |
同時代の記録であり、信頼性は極めて高い。 |
学術的結論 |
通説として広く流布しているが、史実である可能性は低い。 |
史実であった可能性が非常に高い。 |
西暦(和暦) |
年齢(推定) |
難波田憲重(善銀)の動向 |
関連する出来事 |
1492-1501年頃(明応年間) |
0歳 |
難波田善銀、誕生(推定)。 |
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1522年(大永2年) |
21-30歳 |
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娘婿となる太田資正が誕生。 |
1530年(享禄3年) |
29-38歳 |
「弾正」として史料に登場。父・正直から家督を継承したとみられる。 |
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1537年(天文6年) |
36-45歳 |
【説B】7月20日、松山城攻防戦にて討死したとされる(『快元僧都記』)。 |
7月、北条氏綱が河越城を攻略。主君・上杉朝定が松山城へ後退。いわゆる「松山城風流合戦」の逸話がこの時期に設定される。 |
1542年(天文11年) |
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娘(太田資正妻)が嫡男・氏資を出産。 |
1545年(天文14年) |
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河越城の戦い(包囲戦)が始まる。 |
1546年(天文15年) |
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【説A】4月20日、河越夜戦にて主君・上杉朝定と共に戦死したとされる(通説)。 |
河越夜戦で連合軍が壊滅。扇谷上杉朝定が戦死し、扇谷上杉家が事実上滅亡。 |
主君と運命を共にしたとされる難波田善銀(憲重)だが、彼の一族は戦国の荒波を乗り越え、その血脈を未来へと繋いでいった。また、彼らが活躍した舞台は、現在も史跡としてその面影を留め、歴史を今に伝えている。
善銀の死後、難波田家の家督は、彼の子ではなく、外孫によって継承された 7 。善銀の娘が大森式部大輔明昇に嫁いで産んだ子、難波田憲次(のりつぐ)が母方の家名を継ぎ、当主となったのである 2 。これは、男子がいたにもかかわらず家を継がなかった(あるいは継げなかった)事情があったことを示唆しており、戦国時代における家名存続の柔軟性と複雑さを物語っている。
難波田家を継いだ憲次は、当初、善銀の甥であり松山城主となっていた上田朝直に仕えた 15 。上田氏は既に後北条氏に臣従していたため、これにより難波田氏も北条氏の家臣団に組み込まれることになった。主家を滅ぼした仇敵の配下となるという、戦国ならではの厳しい現実であった。
その後、天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、憲次が詰めていた松山城は前田利家・上杉景勝らの軍勢に包囲され、降伏する 15 。北条氏滅亡後、憲次の嫡男・憲利は新たな天下人である徳川家康に仕える道を選んだ 15 。文禄元年(1592年)から家康・秀忠父子に仕官した憲利の子孫は、江戸時代を通じて幕府の旗本として家名を存続させることに成功した 27 。滅びゆく扇谷上杉家に殉じた善銀の忠義とは対照的に、その子孫は巧みな処世術で主家滅亡後の乱世を生き抜き、新たな支配体制の中で家名を後世に残したのである。
難波田憲重とその一族の記憶は、彼らが本拠とした土地に今なお深く刻まれている。
難波田氏の遺産は、旗本として続いた「血の存続」と、現代にその名を留める「土地の記憶」という二つの側面から成り立っている。戦国大名・扇谷上杉氏は滅びたが、その家臣であった難波田氏は、巧みな生存戦略によって家名を繋いだ。一方で、彼らの本拠地であった難波田城は、公園として整備され、その名は市の施設やイメージキャラクター(なんばった)にまで活用されている 8 。これは、歴史上の人物や一族が、地域の歴史的アイデンティティを形成するための文化資源として、現代において「再発見」され、新たな価値を与えられていることを示している。善銀の生涯は、学術研究の対象であると同時に、地域社会の物語の一部として今なお生き続けているのである。
本報告書を通じて、難波田憲重(善銀)という武将の生涯を多角的に検証してきた。その結果、彼は単に「風流な忠臣」という一面的なイメージに収まらない、史料の錯綜の中に実像が揺れ動く、極めて複雑で奥行きのある人物であったことが明らかになった。
第一に、彼の人物像そのものが、歴史と物語の交差点に位置している。一般に知られる「憲重」という名や「河越夜戦での最期」といった物語は、後世の編纂物によって形成されたものであり、史実とは異なる可能性が高い。一方で、一次史料からは「弾正善銀」として主家の危機を支え、主君滅亡の9年前にその生涯を終えた、より現実的な武将の姿が浮かび上がる。この史実と伝承の乖離は、彼を研究する上での困難さであると同時に、歴史がどのように記憶され、物語として構築されていくのかを考察する上での醍醐味でもある。
第二に、彼の生涯は、まさに関東における大きな歴史の転換点を体現するものであった。彼が仕えた扇谷上杉氏は、長きにわたり関東に君臨した旧勢力の象徴であった。その主家が、新興勢力である後北条氏の挑戦を受けて衰退し、滅亡へと向かう激動の時代に、善銀は最後の柱石として奮闘した。彼は、滅びゆく側に最後まで忠誠を尽くした武将として、時代の大きなうねりを我々に伝えている。
最後に、彼の遺産は、血脈と土地の記憶という形で現代にまで続いている。外孫が家名を継ぎ、最終的に徳川旗本として存続した一族の歴史は、戦国武家のしたたかな生存戦略を物語る。そして、彼らが本拠とした難波田城跡や、勇戦の舞台となった松山城跡は、今なお多くの人々が訪れる史跡として、その歴史を語りかけている。
結論として、難波田憲重は、扇谷上杉氏の末期を照らした忠臣であり、武と雅を兼ね備えた武人であったことは間違いない。しかし、その実像は、史料の批判的な読解を通じて初めて輪郭を現す。彼の生涯は、一人の武将の物語であると同時に、戦国時代の関東の政治状況、武士の価値観の変容、そして歴史の記憶が形成されるプロセスそのものを映し出す、貴重な鏡なのである。その生涯は、数百年を経た現代においても、我々の学術的探求心と、自らが暮らす土地の歴史への郷土愛を刺激し続けている。