雨宮家次は武田義信の側近だったが、義信事件で追放。北条家に仕えた後、勝頼の代に帰参し長篠で戦死。その生涯は戦国武士の複雑な忠誠と生存戦略を示す。
本報告は、戦国時代の武将、雨宮家次(あめみや いえつぐ)の生涯を、現存する史料、特に『甲陽軍鑑』の記述を基軸としつつ、史料批判的な視点から多角的に再構成し、その歴史的実像に迫ることを目的とする。雨宮家次の名は、武田信玄・勝頼の時代を彩る数多の武将たちの中で、決して著名とは言えない。しかし、彼の生涯は、主家の跡継ぎの側近という栄光の座からの転落、敵国への亡命、そして劇的な帰参と壮絶な最期という、まさに波乱に満ちたものであった。
本報告では、単に彼の伝記をなぞるに留まらない。家次の人生の軌跡を、武田信玄から勝頼への権力移行期における家中の政治力学、甲斐・信濃の国人領主たちが置かれた複雑な立場、そして戦国という激動の時代を生きた武士の主従観や忠誠観を映し出す、一つの重要な鏡として分析する。彼の栄光と挫折、流転と帰還の物語を通して、戦国時代の武士社会のリアリティを深く掘り下げていく。
雨宮氏のルーツは、信濃国更級郡雨宮郷、現在の長野県千曲市雨宮周辺に求められる。この地は、甲斐を本拠とする武田氏と、越後を支配する上杉氏という二大勢力の勢力圏が接する、地政学的に極めて重要な係争地帯であった。そのため、この地に根を下ろす国人領主は、常に両勢力からの軍事的・政治的圧力に晒され、巧みな立ち回りを要求される宿命にあった。
その出自については、信濃の名門守護家である小笠原氏の一族に連なるという説が存在する。この説が事実であれば、雨宮氏は単なる土豪ではなく、信濃国内において一定の家格と伝統を持つ、由緒ある一族であった可能性が高い。
武田氏の支配下に入る以前、雨宮氏は北信濃に勢力を誇った村上義清に仕えていた。しかし、天文年間(1532-1555年)を通じて武田信玄が信濃侵攻を本格化させると、主家である村上氏は劣勢に立たされる。そして天文22年(1553年)、村上義清は本拠地を追われ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びた。これにより、雨宮氏を含む多くの北信濃の国人衆は、武田氏への服属を余儀なくされた。彼らは武田家中で「先方衆(さきかたしゅう)」と呼ばれ、武田氏譜代の家臣とは明確に区別される存在であった。この「先方衆」という立場が、雨宮家次のその後の運命を大きく左右することになる。それは、武田家にとって新領土支配の尖兵となる期待を担う一方で、その忠誠心を常に試される、不安定な立場でもあったのである。
西暦/和暦 |
雨宮家次の動向・推定年齢 |
武田家の動向 |
関連勢力(北条・今川・織田徳川)の動向 |
天文年間 (1532-55) |
生誕(推定)。雨宮氏は村上義清に仕える。 |
信濃侵攻を本格化。 |
甲相駿三国同盟の模索。 |
天文22年 (1553) |
主家・村上氏の敗走に伴い、武田氏に服属。「先方衆」となる。 |
第1次川中島の戦い。村上義清を越後へ追う。 |
- |
永禄4年 (1561) |
武田義信の近習として仕える。 |
第4次川中島の戦い。義信が初陣を飾る。 |
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永禄8年 (1565) |
義信事件に連座し、武田家を追放される。 |
義信の謀叛計画が発覚。傅役の飯富虎昌が処刑される。 |
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永禄10年 (1567) |
北条家に仕官か。牢人として雌伏の時を過ごす。 |
武田義信、幽閉先の東光寺で死去。 |
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永禄11年 (1568) |
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駿河侵攻を開始。甲相同盟が破綻する。 |
今川氏真、掛川城へ敗走。北条氏が駿河へ出兵。 |
元亀4年/天正元年 (1573) |
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信玄、西上作戦の途上で病死。勝頼が家督を継承。 |
織田信長、足利義昭を追放し室町幕府が滅亡。 |
天正年間初期 |
武田勝頼の赦免を受け、武田家に帰参する。 |
勝頼、旧義信派の家臣を再登用し、家中の再編を進める。 |
- |
天正3年 (1575) |
長篠の合戦に参陣し、織田・徳川連合軍と戦い戦死。 |
長篠の合戦で織田・徳川連合軍に大敗。多くの宿将を失う。 |
織田・徳川連合軍、鉄砲隊を活用し武田軍を撃破。 |
武田信玄の嫡男として、将来の武田家を継ぐことが約束されていた武田義信。彼の周囲には、傅役(もりやく)や小姓、そして近習(きんじゅう)といった側近たちが集められ、一個の政治集団を形成していた。彼らは単に義信の身辺の世話をするだけでなく、彼の政治的・軍事的活動を支えるブレーンであり、次代の武田家を担うべきエリート候補生であった。
雨宮家次は、この義信の側近集団の中にあって、特に信頼の厚い「近習」の地位にあったことが、『甲陽軍鑑』に記されている。同じく近習であった相木市兵衛(あいき いちべえ)らと共に、義信を公私にわたって支える中心人物の一人と見なされていたのである。
この抜擢は、家次の出自を考えれば異例中の異例であった。彼は、武田家が長年にわたって激しく争った村上義清の旧臣であり、武田家にとっては「外様」とも言うべき信濃国人衆、すなわち「先方衆」の一員に過ぎなかった。そのような人物が、なぜ主家の後継者の側近という、家中の枢要に最も近い場所へと引き上げられたのだろうか。
この人事の背景には、家次個人の武勇や才覚が優れていたことはもちろん、より高度な政治的計算があったと推察される。当時の義信は、父・信玄が絶対的な権威を確立し、譜代の重臣たちが家中の実権を握る中で、自らの政治的権力基盤を築く必要に迫られていた。その一環として、父の世代とは異なる、自らに直結する新たな人材を登用し、独自の派閥を形成しようとした可能性が考えられる。
その中で、支配が未だ盤石とは言えない信濃の国人衆の中から、有能な人材を積極的に自らの側近に登用することは、二重の意味で効果的であった。一つは、信濃国人衆の歓心を買い、武田家の次代当主の下での活躍を期待させることで、信濃統治の安定化に寄与すること。もう一つは、譜代家臣団とは異なる出自を持つ者たちを自らの手元に置くことで、独自の支持基盤を拡大することである。家次の抜擢は、まさにこの義信の政治戦略を象徴するものであった。それは家次個人と雨宮一族にとって無上の栄誉であると同時に、彼の運命を義信の政治的浮沈と完全に一体化させる、極めてリスクの高いものでもあったのである。
永禄8年(1565年)、雨宮家次の運命を根底から覆す大事件が勃発する。「義信事件」である。これは、嫡男・義信が父・信玄に対して謀叛を企てたとして、その側近共々粛清された、武田家の歴史における最大の悲劇の一つである。
事件の根源には、武田家の対外戦略を巡る、信玄と義信の深刻な路線対立があった。信玄は、長年の同盟国であった今川家を滅ぼし、その領国である駿河を手に入れる「駿河侵攻」計画を密かに推し進めていた。これに対し、義信は今川義元の娘を正室に迎えており、この婚姻に基づく甲駿同盟の維持を強く主張した。これは単なる感情的な対立ではなく、武田家の将来の針路を決定づける、外交・軍事戦略上の根本的な意見の相違であった。義信の主張は、妻の実家を守るという個人的な情に加え、三国同盟という既存の国際秩序を重んじる、伝統的な価値観に基づいていたとも考えられる。
この対立が先鋭化する中、義信が信玄暗殺を企てたという謀叛計画が露見する。この計画の真偽や規模については不明な点も多いが、結果として義信派は壊滅的な打撃を受けた。義信の傅役であり、武田軍団の重鎮であった飯富虎昌(おぶ とらまさ)は謀叛の首謀者として切腹を命じられ、義信自身も甲府の東光寺に幽閉されることとなった。
そして、『甲陽軍鑑』によれば、雨宮家次は相木市兵衛と共にこの謀叛計画に深く関与したとされ、武田家からの追放処分を受けた。義信に仕えた他の多くの家臣が逼塞(ひっそく、自宅謹慎)などの比較的軽い処分で済まされた中で、家次が追放という最も厳しい処分を受けたという事実は、彼が単なる同調者ではなく、義信派の中核メンバーとして、反信玄・反駿河侵攻の路線を積極的に支持していたことの強力な証左となる。
追放処分は、武士としての知行(領地)と家禄、社会的地位、そして主家への帰属意識という、アイデンティティの全てを剥奪されることを意味した。将来を嘱望された武田家嫡男の近習という栄光の座から、一夜にして主家を失った流浪の身(牢人)へ。家次の劇的な転落は、武田家内部における義信派の完全な敗北と、駿河侵攻へと突き進む信玄による権力基盤の再確立を、誰の目にも明らかに示す象徴的な出来事であった。
武田家を追放された雨宮家次が、次なる仕官先として選んだのは、隣国・相模の北条家であった。この選択は、単なる個人的な逃避行ではなく、当時の緊迫した国際情勢を背景とした、高度な政治的計算に基づく行動であった可能性が極めて高い。
家次が追放された永禄8年(1565年)以降、信玄の駿河侵攻計画が現実味を帯びるにつれて、武田家と北条家の関係は急速に冷却化していた。北条家は今川家と姻戚関係にあり、甲相駿三国同盟の一翼を担っていたため、武田による今川領への侵攻は、北条家に対する裏切り行為に他ならなかった。永禄11年(1568年)に武田軍が駿河へ侵攻すると、甲相同盟は完全に破綻し、両家は敵対関係に突入する。
このような状況下で、敵対勢力からの亡命者は、極めて重要な価値を持った。当時の大名家は、敵国の内情を知る情報源として、また自国の戦力として、亡命者を積極的に受け入れる政策をとっていた。雨宮家次は、まさに北条家にとって、この上なく魅力的な人材であった。
第一に、彼は武田義信の元近習として、武田家中の人事、軍事編成、そして何よりも「義信事件」の真相や、それによって生じた家中の亀裂といった、外部からはうかがい知ることのできない機密情報を握っていた。第二に、彼は「反・駿河侵攻」派であったため、その政治的立場は、武田の駿河侵攻に強く反対する北条家の利害と完全に一致していた。彼の存在そのものが、信玄の政策が武田家中で一枚岩ではないことを示す証拠となり得たのである。
したがって、家次の北条家への仕官は、現代の「政治亡命」に近い性格を帯びていたと考えられる。彼は単なる牢人としてではなく、北条氏康・氏政父子にとって、対武田戦略を構築する上で欠かせない「戦略的資産」として迎え入れられたと推察される。彼の亡命生活は、不遇と雌伏の期間であったと同時に、戦国大名間の熾烈な情報戦と外交戦略の最前線に身を置く、緊張に満ちた日々であったに違いない。
数年間の流浪の末、雨宮家次の運命は再び大きく転換する。天正元年(1573年)、西上作戦の途上で信玄が病没し、四男の武田勝頼が家督を継承したのである。勝頼の治世が始まると、武田家の家臣団構成に大きな変化が生じた。その一つが、父・信玄の時代に粛清・追放された家臣たちの赦免と再登用であり、雨宮家次もその対象に含まれていた。
勝頼がこのような「恩赦」政策をとった背景には、複数の意図があったと考えられる。まず、実利的な側面として、信玄後期から続く拡大路線を維持・発展させるためには、経験豊富な武将が一人でも多く必要であり、純粋な人材不足を補うという目的があった。
しかし、より重要なのは、政治的な狙いであった。義信事件は、武田家中に深刻な亀裂と遺恨を残した。勝頼は、旧義信派の家臣たちを赦免し、呼び戻すことで、この亀裂を修復し、家中の融和を図ろうとした。さらに、諏訪家の庶流から武田家の当主となった勝頼にとって、信玄時代からの譜代重臣たちの影響力を牽制し、自らの求心力を高めて権力基盤を固めることは喫緊の課題であった。父の決定を覆して旧義信派を取り込むことは、彼らからの忠誠を獲得すると同時に、自らが名実ともに武田家の新たな支配者であることを家中に示す、強力なメッセージとなった。
雨宮家次の帰参は、この勝頼による「脱・信玄」とも言うべき人事政策を象徴する出来事であった。勝頼は、父の時代の「負の遺産」を清算し、かつて対立した派閥をも含めた新たな家臣団を構築することで、自らの時代を築こうとしたのである。
一方、家次自身の胸中も複雑であっただろう。一度は自分を追放した主家に戻るという決断には、故郷・信濃への望郷の念、武田武士としての誇りを取り戻したいという渇望、そして何よりも、非業の死を遂げた旧主・義信の無念を晴らしたいという思いが渦巻いていたのかもしれない。勝頼からの赦免と再登用の呼びかけは、彼にとって、武士として再び名誉ある生を取り戻すための、最後の、そして唯一の機会と映ったことであろう。
武田家への帰参を果たした雨宮家次を待ち受けていたのは、戦国史上、最も苛烈な合戦の一つであった。天正3年(1575年)5月21日、三河国長篠城を包囲する武田勝頼率いる1万5千の軍勢と、それを救援すべく現れた織田信長・徳川家康連合軍3万8千が、設楽原(したらがはら)の地で激突した。世に言う「長篠の合戦」である。
織田・徳川連合軍は、連吾川を挟んだ丘陵地帯に馬防柵を三重に巡らし、その背後に大量の鉄砲隊を配置するという、周到な野戦陣地を構築して武田軍を待ち構えた。これに対し、武田軍は、数に劣り、地の利も悪い状況にもかかわらず、最強と謳われた騎馬隊を中核とする伝統的な突撃戦法を敢行した。
『甲陽軍鑑』によれば、帰参して間もない雨宮家次も、この決戦に武田軍の中核部隊の一員として参陣していた。そして、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊といった歴戦の宿将たちと共に、敵の堅固な馬防柵へと決死の突撃を敢行し、織田軍の鉄砲隊の猛射を浴びて壮絶な戦死を遂げたと伝えられている。
彼のこの最期は、多角的に解釈することができる。第一に、それは一度追放された自分を赦し、再び武田家臣として迎えてくれた主君・勝頼への恩義に報いるための、命を懸けた忠義の証明であった。第二に、義信事件によって着せられた「裏切り者」の汚名を完全に返上し、武士としての名誉を死をもって回復するための、自己犠牲的な行為であったとも考えられる。そして第三に、非業の死を遂げた旧主・義信への鎮魂の思いも込められていたのかもしれない。
理由が何であれ、彼の壮絶な死は、武田家の栄光とその終焉を象徴する悲劇的な一場面として、『甲陽軍鑑』の中で後世に語り継がれることとなった。彼の死は、流転の末に、武士としての本分を全うした証として、武田家の歴史に刻まれたのである。
これまで見てきた雨宮家次の生涯は、その大部分が江戸時代初期に成立した軍学書『甲陽軍鑑』の記述に依拠している。『甲陽軍鑑』は、武田信玄・勝頼期の軍事、政治、家臣団の内情などを知る上で比類なき価値を持つ第一級の史料であることは間違いない。しかし、その性格を理解する上では、極めて慎重な態度が求められる。
この書物は、単なる客観的な歴史記録ではなく、後世に武士としての理想像や処世の教訓を伝えることを目的とした、「軍学書」あるいは「物語」としての側面を色濃く持っている。そのため、登場人物の言動や事件の経緯には、物語的な効果を高めるための脚色や、教訓を引き出すための意図的な誇張が含まれている可能性が常に指摘されている。
雨宮家次の生涯は、まさに物語の題材として非常に魅力的である。信濃国人衆からの大抜擢、主君の跡継ぎの側近という栄光、悲劇的な事件による転落、敵国への亡命、そして劇的な帰参からの壮絶な最期。この一連のドラマは、「忠義」「不運」「名誉回復」といった、武士の物語に求められるテーマを完璧に体現している。
それゆえに、我々は史料批判の視点を忘れてはならない。例えば、義信事件における家次の関与の度合いや、長篠の合戦での最期の様子は、彼の忠義や悲劇性を際立たせるために、実際以上に大きく、あるいはドラマティックに描かれている可能性はないだろうか。彼の物語は、『甲陽軍鑑』の作者が理想とする武士像を投影するための、格好の素材として用いられたのではないか、という疑念である。
したがって、我々が歴史を考察する際には、「『甲陽軍鑑』が描く英雄・雨宮家次」の物語と、「古文書などの一次史料から限定的に再構築される、客観的な歴史上の人物としての雨宮家次」とを、常に意識して区別する必要がある。現状では、『甲陽軍鑑』以外の一次史料、例えば武田家や北条家が発給した古文書や書状の中に、雨宮家次の名を明確に記したものは、管見の限り確認されていない。この「史料の不在」こそが、彼の歴史的実像を探る上での最大の障壁となっている。
結論として、雨宮家次の物語は完全な創作とは言えないまでも、史実の核(義信に仕え、追放され、帰参し、長篠で戦死したという事実)の上に、後世の解釈や理想、物語的要請が肉付けされて形成された「歴史的記憶」と捉えるのが、最も妥当な理解であろう。
史料名 |
成立年代 |
記述内容の抜粋(原文と現代語訳) |
考察・信頼性評価 |
『甲陽軍鑑』品第13 |
江戸時代初期 |
原文: 「義信公御謀叛の折、御近習に候相木市兵衛、雨宮家次、浪人仕り…」 現代語訳: 「(武田)義信公がご謀叛の折、その近習でございました相木市兵衛、雨宮家次は、浪人いたしました…」 |
義信事件への関与と追放を明確に記述する最重要史料。家次の生涯の骨格を伝えるが、本書の物語的・教訓的性格から、関与の具体的な内容や度合いについては脚色の可能性を常に考慮すべきである。 |
『甲陽軍鑑』品第40 |
江戸時代初期 |
原文: 「信玄公御代に浪人仕り、氏政の代に小田原に居り候、雨宮家次といふ者…勝頼公へ召し返され…」 現代語訳: 「信玄公の御代に浪人し、北条氏政の代に小田原におりました、雨宮家次という者が…勝頼公へ呼び戻され…」 |
追放後、北条家に身を寄せ、勝頼の代に帰参した経緯を伝える記述。家次の流浪の足跡を具体的に示しており、史実性を補強する。ただし、これも『甲陽軍鑑』内の記述であるため、同書の性格を念頭に置く必要がある。 |
『甲陽軍鑑』末書 |
江戸時代初期 |
原文: 「雨宮家次…長篠にて討死」 現代語訳: 「雨宮家次は…長篠で討死した」 |
長篠の合戦で戦死したことを簡潔に記す。彼の最期を確定する記述として重要。他の戦死者リストと並記されており、この部分の史実性は比較的高いと考えられる。 |
『武田三代軍記』 |
江戸時代中期 |
(『甲陽軍鑑』の記述をほぼ踏襲) |
『甲陽軍鑑』を基に編纂された二次的な軍記物語。独自の一次情報を含む可能性は低く、史料的価値は『甲陽軍鑑』に劣る。家次像の流布・定着の過程を知る上では参考になる。 |
武田家・北条家関連の古文書 |
戦国時代 |
(現時点で雨宮家次に関する直接的な記述は未発見) |
もし「甲州牢人雨宮某」といった記述が発見されれば、彼の存在や動向を客観的に裏付ける決定的な証拠となる。史料の不在は、彼が中央の政治史に直接影響を及ぼすほどの高位の武将ではなかった可能性を示唆する。 |
雨宮家次の生涯は、信濃国人衆という出自から武田家嫡男の側近へと駆け上がった栄光、主家の内紛による追放と流浪、そして帰参後の死という、まさに戦国乱世の激しさと無常さを凝縮したものであった。彼の人生は、一個人の武勇や才覚、あるいは忠誠心だけでは抗うことのできない、大名家内部の巨大な政治的潮流と、それに翻弄される国人領主の宿命を、我々に鮮烈に突きつけている。
彼の軌跡は、後世に理想化されたような、単一の主君に生涯を捧げるという単純な「忠義」の物語では決してない。主家の路線対立に巻き込まれて追放され、生き残るためにかつての敵国に身を寄せ、そして失われた名誉を回復するために再び旧主家へ戻り、命を賭して戦う。これこそが、綺麗ごとでは済まされない、戦国時代という激動の時代を生きた武士の、極めて現実的で複雑な主従観、名誉意識、そして生存戦略そのものであった。
歴史研究の観点から見れば、雨宮家次という一人の人物の生涯を深く掘り下げる作業は、より大きな歴史的テーマを解明するための貴重な光を投げかける。それは、武田信玄から勝頼への権力移行期における家臣団の動態、義信事件が武田家中に与えた深刻な影響、そして武田氏による信濃支配の実態と、そこに生じた国人衆との軋轢といった問題である。
最終的に、雨宮家次の物語は、その多くを『甲陽軍鑑』という特異な性格を持つ史料に依拠するがゆえの、歴史叙述の難しさと面白さをも我々に教えてくれる。史実の核に、後世の理想や物語性が織り込まれて形成された彼の生涯は、歴史的事実そのものだけでなく、人々が歴史をどのように記憶し、語り継いできたかという「歴史的記憶」の重要性をも示唆している。記録の狭間に埋もれた無数の武士たちの、声なき生と死に光を当てる作業の中から、我々は戦国という時代の、より豊かで奥行きのある姿を再発見することができるのである。