青木久矩は豊臣秀吉の従兄弟・青木一矩の孫。関ヶ原で青木家は改易され浪人となるも、大坂の陣で豊臣方に参戦。若江の戦いで甥・木村重成と共に戦死した。
青木久矩(あおき ひさのり)の生涯を理解するためには、まず彼が属した青木一族が、豊臣政権下でいかにして栄華を極めたかを知る必要がある。彼の運命は、一族の栄光と、その根源である豊臣家との分かち難い血縁によって、生まれながらにして定められていた。
青木家の隆盛を一代で築き上げた人物が、青木紀伊守一矩(あおき きいのかみ かずのり)である。通説によれば、一矩の母・大恩院は豊臣秀吉の母である大政所の姉妹であり、一矩は秀吉の従兄弟にあたる 1 。この血縁こそが、彼が数多の武将の中から一躍、豊臣政権の中枢へと駆け上がる原動力となった。秀吉が自筆の書簡で一矩の母を「われらおば」と記していることから、この親族関係は確かなものと考えられる 1 。
当初、一矩は秀吉の弟・羽柴秀長に仕え、天正13年(1585年)の紀州征伐や四国遠征で武功を重ねた。その功績により、知行1千石から一気に1万石の大名へと取り立てられ、紀伊国入山城主となっている 1 。その後も秀吉の信頼は厚く、越前国の大野城、府中城を経て、慶長4年(1599年)には、秀吉の遺命に基づき、五大老連署の知行宛行状をもって越前北ノ庄20万石の城主へと栄進した 3 。これは、豊臣一門の中でも福島正則と並び、破格の待遇であった。
ただし、一矩の諱(いみな)については、史料によって「一矩」のほか「秀以(ひでもち)」、あるいは一次史料で確認される「重吉(しげよし)」など複数の名が伝わっており、人物比定には研究者の間でも議論がある 1 。この事実は、彼の出自や経歴が、後世の編纂物の中で様々に解釈されてきたことを示唆している。
本報告書の主題である青木久矩は、この栄華を極めた一矩の後継者、青木俊矩(としのり)の長男として生を受けた 4 。俊矩は、父(あるいは養父)である一矩が北ノ庄に移った後、その旧領の一部である越前金剛院城主として2万石を領有する大名であった 5 。これにより、青木家は本家と分家を合わせて22万石を超える大封を誇り、久矩はその嫡男として、将来の城主たる地位を約束されていた。
なお、一矩と俊矩の関係についても、『青木系図』などの史料では、俊矩は一矩の実子ではなく、弟である矩貞(のりさだ)の子で、一矩の養子(猶子)になったという異説も伝えられている 6 。いずれの説が正しいにせよ、俊矩が一矩の後継者と目されていた事実に変わりはなく、久矩はその血統の直系に位置する。
青木家の栄光は、純粋な武功や政治的手腕のみならず、「秀吉の従兄弟」という血縁に深く根差していた。この血の繋がりは、一族に絶大な富と権力をもたらす一方で、豊臣家と運命を共にするという、逃れることのできない宿命を背負わせるものでもあった。久矩の生涯は、この血縁によって得た地位を、時代の激変の中でいかにして受け止め、そして殉じていったかの物語に他ならない。
人物名 |
続柄・関係性 |
備考 |
青木一矩 (かずのり) |
豊臣秀吉の従兄弟。豊臣家一門の大名。 |
越前北ノ庄20万石城主。関ヶ原合戦直後に病死。 |
青木俊矩 (としのり) |
一矩の子(または養子)。 |
越前金剛院城2万石城主。関ヶ原後に改易。慶長13年(1608年)に金沢で病死。 |
青木久矩 (ひさのり) |
俊矩の長男。 本報告書の主題 。 |
大坂の陣で豊臣方として戦い、若江の戦いで戦死。 |
宮内卿局 |
俊矩の娘、久矩の姉妹。 |
木村重茲の室となり、木村重成を産む。 |
木村重成 (きむらしげなり) |
久矩の甥(姉妹の子)。 |
豊臣秀頼の小姓頭。大坂の陣で若江の戦いを指揮し、戦死。 |
青木泰矩 (やすのり) |
久矩の次男。 |
大坂には行かず、加賀藩前田家に仕官。 |
青木昌矩 (まさのり) |
久矩の三男。 |
病弱のため武士を断念し、越前で酒造業を営む。 |
豊臣秀吉の死後、日本の政治情勢は急速に流動化し、徳川家康がその影響力を強めていった。この時代の大きなうねりの中で、豊臣一門として栄華を極めた青木家は、天下分け目の関ヶ原の戦いを経て、その全てを失うことになる。これは、青木久矩が輝かしい未来から一転、過酷な運命を辿る転落の序章であった。
慶長5年(1600年)、家康による会津の上杉景勝討伐を機に、石田三成らが挙兵し、天下は二分された。豊臣家への旧恩に報いるため、青木一矩・俊矩親子は迷うことなく西軍に与することを決断した 6 。彼らの本拠地である越前は、東軍の主力である加賀百万石の前田利長と国境を接する最前線であり、大谷吉継らと共に北陸方面における西軍の防衛線を担う、極めて重要な戦略拠点であった 1 。
7月、前田利長が2万5千と号する大軍を率いて越前へ南下を開始すると、北陸戦線はにわかに緊迫する。前田軍は山口宗永が守る大聖寺城を攻略し、その勢いは青木一矩が居城とする北ノ庄城に迫った。一部の記録では、一矩が前田軍の勢いに圧されて一時的に恭順の意を示したともされるが、最終的には西軍としての立場を堅持した 7 。
しかし、戦況は青木家の意図せぬ方向へ進む。北陸の西軍諸将を束ねていた大谷吉継が、三成の要請を受けて主戦場である美濃関ヶ原へと転進すると、一矩・俊矩親子は北国口の守備に留め置かれた 1 。彼らは前田勢の南下を食い止めるという重要な役割を果たしたものの、結果として、9月15日の関ヶ原本戦に参加することはなかった。そして彼らの元に届いたのは、西軍の壊滅的な敗北という報せであった。
さらに不運は重なる。西軍敗戦の報からわずか1ヶ月後の慶長5年10月、当主である青木一矩が病によって急死してしまう 1 。この突然の死は、戦後処理という最も重要な局面において、青木家から交渉の主体を奪い去る決定的な打撃となった。
関ヶ原の戦後処理において、徳川家康は西軍に与した大名たちに厳しい処分を下した。青木家もその例外ではなかった。北陸の敵将であった前田利長が、一矩の遺児である俊矩の家名存続を家康に嘆願したものの、その願いは聞き入れられなかった 6 。
結果として、青木家は北ノ庄20万石、金剛院2万石の所領をすべて没収され、改易処分となった 8 。豊臣一門として絶大な権勢を誇った大名家は、ここに完全に歴史の表舞台から姿を消した。この瞬間、嫡男として何不自由ない将来を約束されていた青木久矩は、父・俊矩と共に、所領も家臣も持たない一介の浪人へと転落したのである。
青木家の改易は、単に西軍に与したという政治的選択の失敗だけが原因ではない。合戦直後という最悪の時期に当主・一矩が病死したことが、致命的な不運であった。もし一矩が生きていれば、他の西軍大名、例えば島津家や鍋島家のように、巧みな交渉によって減封は免れずとも家名存続は可能だったかもしれない。彼の死は、青木家から外交交渉の担い手を奪い、家康による豊臣恩顧大名の徹底的な排除をより容易にした。これは、歴史の非情さを象徴する一例と言えるだろう。
年月 |
出来事 |
久矩の立場 |
慶長4年(1599年) |
父・俊矩の養父(または実父)一矩が越前北ノ庄20万石の城主となる。 |
22万石の大名家の嫡男。 |
慶長5年(1600年)9月 |
関ヶ原の戦い。青木家は西軍に属するも、本戦には参加せず。 |
西軍の将。 |
慶長5年(1600年)10月 |
一矩が病死。戦後処理で青木家は改易となる。 |
大名家当主の嫡男から浪人へ転落。 |
慶長5年(1600年)以降 |
父・俊矩と共に加賀藩主・前田利長預かりの身となる。 |
加賀藩の食客(事実上の監視下)。 |
慶長13年(1608年)5月 |
父・俊矩が配流先の金沢で病死。 |
天涯孤独の身となる。 |
大名の嫡男という輝かしい地位から一転、すべてを失った青木久矩は、父・俊矩と共に14年にも及ぶ長い浪人生活を送ることになる。武士としての誇りを胸の奥に秘めながら、再起の機会をひたすらに待つ雌伏の歳月は、彼の人格形成に決定的な影響を与えた。
改易処分を受けた青木俊矩・久矩親子は、徳川幕府の命により、かつての敵将であった加賀藩主・前田利長のもとに預けられることとなった 4 。これは、幕府が西軍に与した旧大名の反乱を警戒し、有力大名の監視下に置くための措置であった。同時に、前田家にとっては、関ヶ原で直接対峙した旧敵に対する武士としての情けを示す側面もあったかもしれない。
彼らは「食客」として遇され、生命と最低限の生活は保障された。しかし、その日々が平穏なものであったとは到底考えられない。かつて自らが広大な領地と多くの家臣を率いた大名であった記憶は、他家の庇護の下で暮らす屈辱を一層際立たせたであろう。武士としての矜持を傷つけられながら、先の見えない日々を耐え忍ぶ生活は、久矩の心に深い影を落としたに違いない。
失意の日々が続く中、慶長13年(1608年)5月6日、父・俊矩が配流先の金沢で病死する 6 。この出来事により、青木久矩は名実ともに、滅びた青木家の当主としての重責と、一族の汚名を一人で背負うことになった。父の死は、彼にとって最後の精神的な支柱を失うと共に、過去の栄光と完全に断絶させられる象徴的な出来事であった。
関ヶ原の戦いの結果、日本全国には数十万人にものぼる浪人が生まれたとされる 10 。彼らの多くは、久矩と同様に主家を失い、再仕官の道を得られずに困窮していた。久矩にとっての最大の望みは、青木家の家名を再興し、武士としての名誉を回復することであっただろう。
しかし、徳川の世が盤石になるにつれて、その道はますます閉ざされていった。特に、豊臣一門という彼の出自は、徳川幕府や諸大名への再仕官を模索する上で、むしろ大きな障害となったはずである。彼の心の内には、失われた家名と栄光への渇望、そして先の見えない将来への絶望が渦巻いていた。この長い雌伏の期間は、彼の再起への執念を静かに、しかし確実に燃え上がらせていった。彼が1614年まで行動を起こさなかったのは、ただ機会がなかったからに他ならない。やがて訪れる大坂の陣の報は、彼にとって、14年間待ち続けた「最後の好機」と映ったのである。
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに豊臣家と徳川家の対立は決定的となり、大坂冬の陣が勃発した。この報は、14年間の雌伏の時を過ごしてきた青木久矩にとって、まさに天啓であった。彼は加賀の地を離れ、一族の恩顧ある豊臣家のために、その身命を賭すべく大坂城へと馳せ参じた。
久矩が大坂城に入城した動機は、単一のものではなかったと考えられる。第一に、彼の一族を無名の存在から22万石の大名にまで引き立ててくれた豊臣家への「旧恩」に報いるという、純粋な忠義心があった 12 。第二に、この最後の戦で武功を立て、関ヶ原で失われた青木家の「家名再興」を果たすという、切実な望みがあった。そして第三に、浪人として無為に朽ち果てるのではなく、武士として戦場で死ぬことこそ本分とする「武士の意地」があった 10 。これら三つの動機が複雑に絡み合い、彼を最後の戦場へと駆り立てたのである。
大坂城内において、久矩は甥にあたる木村重成の部隊に配属された 4 。重成は、豊臣秀頼の乳母であった宮内卿局(久矩の姉妹)の子であり、幼少から秀頼の小姓として仕え、その聡明さと武勇から若くして豊臣家中で重きをなしていた武将である 6 。
通常、武家社会の序列から考えれば、旧大名の嫡男であり、年齢も経験も豊富な叔父が、若き甥の指揮下に入るというのは異例のことであった。しかし、これは滅亡に瀕した豊臣方が、身分や家格よりも秀頼との近さや実力を重視して部隊を編成した、なりふり構わぬ陣容の表れであった。同時に、久矩が個人的な面子やプライドを捨て、豊臣家の勝利という「公」のために尽くそうとした、彼の純粋な忠誠心の証左とも解釈できる。この逆転した主従関係は、彼の忠義の形を象徴するものであった。
史料には、青木久矩が冬の陣において「戦功があった」こと、そしてその働きが認められ「感状を受ける武功を立てた」と明確に記されている 4 。感状とは、主君が家臣の戦功を公式に証明し、賞賛する文書であり、これを受けたという事実は、彼の働きが単なる一兵卒としての参加に留まらず、大坂方首脳部から特筆されるべき目覚ましいものであったことを示している。
具体的な戦闘の記録は乏しいものの、冬の陣における主要な局地戦であった鴫野・今福の戦いなどで、木村重成隊の一員として、歴戦の武士としての経験を存分に発揮した可能性が高い。14年間の鬱積を晴らすかのような彼の奮戦は、豊臣方にとって貴重な戦力となったに違いない。この感状は、彼の武士としての能力と、豊臣家への忠誠心の両方を証明する、何よりの証拠なのである。
慶長19年(1614年)の冬の陣は、大坂城の堀が埋められるという、豊臣方にとって屈辱的な形で和議が結ばれた。しかし、この束の間の平和は長くは続かず、翌慶長20年(元和元年、1615年)5月、徳川家康は再び大軍を率いて大坂へと進軍。大坂夏の陣の火蓋が切られた。青木久矩にとって、これが生涯最後の戦いとなる。
裸城同然となった大坂城での籠城は不可能と判断した豊臣方は、城外に打って出て徳川軍を各個撃破する野戦を選択した。木村重成が率いる部隊は、真田信繁(幸村)らと共に、徳川軍の主力を河内方面で迎え撃つという、作戦の成否を左右する極めて重要な役割を担うことになった。
5月6日未明、木村重成は約4,700の兵を率いて出陣し、河内国若江(現在の東大阪市若江)に着陣した 15 。対する徳川方は、徳川四天王の一人である井伊直政の子・直孝の部隊と、猛将として知られる藤堂高虎の部隊。兵力では圧倒的に徳川方が優勢であった。
青木久矩は、この木村重成隊の一員として、叔父として甥を支え、一人の武士として最前線に立った 4 。『難波戦記』などの軍記物によれば、木村隊は寡兵ながらも驚異的な奮戦を見せ、一時は藤堂隊の先鋒を突き崩すほどの猛攻を加えたという。久矩もまた、長年の浪人生活で溜め込んだ鬱憤を晴らすかのように、勇猛果敢に戦ったと伝えられる。
しかし、兵力で圧倒的に優る徳川軍は、次々と後続部隊を投入し、木村隊を包囲、殲滅にかかった。約束されていた長宗我部盛親隊の援軍も現れず、木村隊は孤立無援のまま壊滅状態に陥った。
この乱戦の中、青木久矩は奮戦の末、ついに力尽き、その生涯を閉じた 4 。生年は不詳であるため正確な享年は不明だが、彼は父祖から受け継いだ豊臣家への恩義に、自らの命をもって報いたのである。
部隊を率いた甥・木村重成もまた、この戦いで壮絶な討死を遂げた。敵将・井伊直孝の家臣に首を取られた際、その兜の中からは、名香が焚きしめられていたという逸話はあまりにも有名である 16 。これは、いつ討ち取られても恥ずかしくないようにという、若き武将の覚悟と美学の表れであった。叔父である青木久矩もまた、同じ戦場で、同じ覚悟をもって、同じ運命を共にしたのである。
久矩の死は、単なる敗北による戦死ではない。それは、14年間の屈辱的な浪人生活の末に、彼が自らの意志で選び取った「死に場所」であった。一族の栄枯盛衰そのものである豊臣家のために、最も信頼する血縁者(甥)と共に、最も苛烈な戦場で命を散らす。これは、戦国武将としての彼の美学の完成形であり、彼の無念の生涯に意味を与える、最後の、そして唯一の行為であったと言えるだろう。
青木久矩が若江の露と消え、大坂城が落城したことで、豊臣家は滅亡した。しかし、久矩の死で青木一族の物語が完全に終わったわけではない。生き残った者たちは、徳川が支配する新たな時代を、それぞれ異なる方法で生き抜いていった。彼らの多様な生き様は、戦国の世の終焉と、近世社会の到来という、時代の大きな転換を象徴している。
久矩には、泰矩(やすのり)と昌矩(まさのり)という二人の弟がいた。彼らは兄とは異なる道を歩んだ。
次男・ 青木泰矩 は、兄・久矩のように大坂城へは入らず、加賀藩に留まった。そのまま前田家に仕官し、武士としての家系を存続させた 4 。これは、兄が豊臣家への忠義を貫いて滅びの道を選んだのとは対照的に、現実的な判断で家の存続を図った、一つの生き残り戦略であった。
三男・ 青木昌矩 は、「多病により馬に乗れず」と伝えられるほど病弱であったため、武士としての道を断念した 6 。彼は越前福井藩の初代藩主・結城秀康に召され、屋敷を与えられて庇護を受けた。そして、武士の身分を捨て、酒造業に転身したという 4 。屋号を「平吹屋」と称し、その子孫は越前の町人として、大正時代の中頃まで家業を続けたと伝えられている 17 。これは、身分制度が固定化されていく江戸時代において、武士のプライドよりも実利を取り、新たな階層で家名を繋ごうとした、柔軟な選択であった。
大坂で戦死した久矩自身にも子がいたとされ、その血脈は意外な形で受け継がれたという伝承がある。その子孫は、弟・昌矩が身を寄せた福井藩において、藩医である田代氏の祖になったとされている 4 。この伝承の一次史料による裏付けは今後の研究課題となるが、事実であれば、武人であった父とは全く異なる「医術」という専門技能によって、徳川の世で身を立てたことになる。武力ではなく、知識や技術が個人の立身を支える時代の到来を予感させる。
江戸幕府が威信をかけて編纂した公式の武家系譜集である『寛政重修諸家譜』には、徳川家に仕えた旗本など、様々な青木氏の系図が収録されている 18 。しかし、豊臣一門としてあれほどの栄華を誇った青木一矩、そしてその子孫である俊矩や久矩に繋がる家系の記録は、一切見当たらない 1 。
これは、単なる記録漏れではない。徳川政権にとって、豊臣家の血縁であり、最後まで敵対して滅んだこの一族は、公式の歴史から意図的に「抹消」すべき存在であったことを意味している。彼らの系譜が『寛政重修諸家譜』に「存在しない」こと自体が、彼らが歴史の敗者であったことを示す、何よりも雄弁な史料なのである。
青木久矩の生涯は、豊臣家の栄華と没落という、時代の大きな転換期に翻弄された一武将の悲劇であった。しかし、彼の死後も、一族は武士、町人、医師として、その形を変えながらたくましく命脈を保った。
青木一族のその後は、戦国時代から江戸時代への社会構造の根本的な変化を映し出す縮図と言える。武士として再起する道(泰矩)、商人へ転身する道(昌矩)、専門職として生きる道(久矩の子孫)。これらの多様な選択は、もはや武力だけが立身出世の手段ではない、安定した近世社会の到来を物語っている。
青木久矩の物語は、滅びの美学を貫いた武士の生き様と、時代の変化に適応して生き抜いた人々のしたたかさという、二つの側面を我々に示してくれる。歴史の表舞台から消えていった無数の人々のうちの一人、青木久矩の名を記録に留めることは、勝者の歴史だけでは見えてこない、歴史の多層性と深淵さを理解する上で、大きな意義を持つと言えるだろう。