最終更新日 2025-07-20

青木俊矩

豊臣一門・青木俊矩の実像 — 関ヶ原に散ったある馬廻の生涯とその一族の流転

序章:歴史の狭間に消えた豊臣一門、青木俊矩

日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての歴史を語る際、数多の武将が星のごとく現れては消えていった。その中で、豊臣秀吉の家臣であり、越前金剛院城主として二万石を領した青木俊矩(あおき としのり)という人物の名を記憶する者は、決して多くはない。一般的な歴史事典における彼の記述は、ごく簡潔なものに留まる。「豊臣家臣。一矩の子。馬廻を務めた。主君・秀吉の死後は秀頼に仕え、越前金剛院城2万石を領す。関ヶ原合戦で西軍に属したため、戦後没落した」。この数行の経歴は、彼の人生の骨子を捉えてはいるものの、その人物像や生きた時代の息吹を伝えるにはあまりにも断片的である。

青木俊矩の生涯は、一見すると歴史の脇役に過ぎないように映るかもしれない。しかし、その足跡を丹念にたどることで、我々は豊臣政権という巨大な権力機構の構造的特質、天下分け目の戦いと称される関ヶ原合戦の複雑な内実、そして戦国という旧時代が終焉し近世という新時代へと移行していく社会のダイナミズムを、一人の武将の人生というレンズを通して垣間見ることができる。彼の運命は、個人の選択以上に、彼が属した「青木家」という一族の出自、そしてその一族と豊臣家との間に結ばれた「血縁」という強固な絆によって、大きく規定されていた。

本報告書は、この青木俊矩という人物に焦点を当て、利用者から提供された基礎的な情報の範疇を遥かに超え、彼の生涯を徹底的に調査・分析するものである。彼の人生の前提となった父・青木一矩(かずのり)の栄達から、俊矩自身の豊臣家臣としての経歴、運命を分けた関ヶ原の戦いにおける謎多き動向、そして没落後の一族の流転に至るまで、あらゆる側面から光を当てる。それは、単に一人の無名な武将の伝記を掘り起こす作業ではない。彼の人生を丹念に再構成することを通じて、時代の深層に横たわる権力と人間、忠誠と裏切り、そして栄光と悲劇の物語を解き明かす試みである。歴史の狭間に消えたかに見える一人の武将の生涯から、我々は何を学び取ることができるのか。その問いへの答えを探求することが、本報告書の目的である。

第一章:青木家の出自と豊臣政権における地位 — 栄光の礎と血縁の絆

青木俊矩の生涯と運命を理解するためには、まず、彼の人生の舞台を設定した父・青木一矩の存在と、豊臣政権内における青木家の特異な地位を解明することが不可欠である。一矩の栄達は、彼個人の才覚もさることながら、それ以上に「血縁」という、当時の社会において最も強固な紐帯によって支えられていた。この血の絆こそが、青木家に栄光をもたらすと同時に、豊臣家と運命を共にするという、逃れられない宿命を背負わせることになる。

1.1 豊臣秀吉との血縁 — 一門としての青木一矩(紀伊守)

青木一矩の立身出世の根源をたどると、豊臣秀吉の従兄弟という血縁関係が決定的な役割を果たしていたことが明らかになる 1 。通説によれば、一矩の母である大恩院は、秀吉の生母・大政所(天瑞院)の妹(一説には姉)であり、一矩は秀吉の母方の従兄弟にあたる 3 。この関係は、秀吉自身が家臣に宛てた書簡の中に「われらおばのきのかみはゝ(われらの叔母である紀伊守の母)」という一節が確認できることから、極めて信憑性の高い事実として受け入れられている 3

この血縁こそが、一矩を単なる家臣ではなく、豊臣家の「一門衆」という特別な地位へと押し上げた原動力であった。一代で天下人へと駆け上がった秀吉は、織田信長のように代々仕える譜代の家臣団を持たなかった。そのため、政権の基盤を急ぎ固めるにあたり、信頼のおける近親者を抜擢し、政権の中枢に据えるという手法を多用した。青木一矩の栄達は、まさにこの豊臣政権の構造的特徴を象徴する事例であった。

近年の研究では、この血縁関係についてさらに踏み込んだ説も提示されている。歴史研究者の黒田基樹氏は、豊臣政権の譜代大名の中で、朝廷から官位を授かり公家の一員となる「公家成」を果たし、かつ主君の姓である「羽柴」名字の使用を許されるという破格の待遇を受けたのが、福島正則と青木一矩(重吉)の二人のみであったという事実に着目した 3 。この突出した厚遇を根拠に、黒田氏は、彼らが通説で言われる母方の従兄弟ではなく、秀吉の「父方」の従兄弟であった可能性を指摘している 3 。この説が事実であれば、彼らが豊臣一門の中でも特に重要な位置を占めていたことになり、その忠誠心が豊臣家個人に強く向けられていたであろうことは想像に難くない。この「血の呪縛」とも言うべき強固な結びつきが、後に徳川家康が台頭した際に、他の多くの大名のように容易に乗り換えることができない構造的な制約となり、関ヶ原における西軍加担という運命的な選択へと繋がっていくのである。

1.2 諱(いみな)を巡る諸説と人物像

青木一矩は、一般に「紀伊守(きいのかみ)」という官途名で知られているが 3 、その実名である諱については複数の名が伝えられており、研究者の間でも見解が分かれている。後世の系図や軍記物などでは「一矩(かずのり)」あるいは秀吉から偏諱(へんき)を受けたとされる「秀以(ひでもち)」といった名で記されることが多い 3

しかし、同時代の一次史料に目を向けると、様相は異なってくる。歴史学者の高柳光寿は、一矩本人の署名が悪筆で判読が困難であるとして、諱の特定を避け、通称である「青木紀伊守」を用いるのが妥当だとした 3 。これに対し、前述の黒田基樹氏は、慶長2年(1597年)7月21日付で一矩が侍従に任じられた際の朝廷の公式文書(口宣案)に、その諱が明確に「重吉(しげよし)」と記されていることを発見し、一次史料で確認できる唯一の実名は「重吉」であると強く主張している 3

この諱を巡る学術論争は、単なる名前の問題に留まらない。これは、歴史研究において、後世に編纂された二次史料と、対象となる人物が生きた時代の一次史料のどちらを重視するべきかという、歴史学の根幹に関わる方法論の問題を我々に提示している。本報告書では、一次史料の確実性を重んじ、彼の諱は「重吉」であった可能性が極めて高いとしつつも、広く知られている「一矩」の名も併記することとしたい。

また、一矩の人物像を語る上で、彼が文化人としての一面を併せ持っていた点も見逃せない。彼は千利休に師事した茶人としても知られ、名物茶器の所持者でもあった 3 。これは、彼が単なる武辺者ではなく、豊臣政権の中枢を担うにふさわしい高度な教養と文化的な素養を身につけた人物であったことを示唆している。当時の武将にとって、茶の湯は単なる趣味ではなく、政治的な交渉や情報交換の場としても機能しており、一矩がその世界に深く関わっていたことは、彼の政権内での地位の高さを物語るものであった。

1.3 越前入封と一族の隆盛

豊臣秀吉の従兄弟という絶対的な強みを持つ青木一矩は、着実にその地位を向上させていく。当初は秀吉の弟である羽柴秀長に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正13年(1585年)の紀州征伐などで軍功を重ねた 3 。その功績により、同年の四国遠征後には、それまでの知行1千石から一気に1万石へと加増され、紀伊国入山城主として大名の仲間入りを果たした 3

彼のキャリアにおける大きな転機は、越前国への入封であった。文禄元年(1592年)頃、木村重茲の転封に伴い、その後釜として越前府中(現在の福井県越前市武生)10万石の城主となる 1 。そして、青木家の栄光が頂点に達するのが、秀吉の死後、慶長4年(1599年)のことである。この年、五大老の一人であった小早川秀秋が越前北ノ庄から筑前へと転封されると、その後任として一矩に白羽の矢が立った。彼は府中の地から、かつて柴田勝家が治めた越前の中心地である北ノ庄城へと移り、知行は20万石(21万石とも)にまで加増された 6

この一連の加増・転封の経歴は、豊臣政権における大名統制の典型的な姿を示すと同時に、一矩が政権内でいかに厚い信頼を得ていたかを物語っている。特に、秀吉が亡くなり、徳川家康の権勢が日増しに強まっていた慶長4年という微妙な時期に、北陸道の要衝である北ノ庄を任されたという事実は、五大老による合議制という新体制下においても、彼が豊臣家にとって絶対的に信頼できる「一門」大名と見なされていたことの証左に他ならない。しかし、この豊臣家からの過分なまでの厚遇こそが、皮肉にも、後の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康に敵対する動機を強化し、一族を破滅へと導く伏線となるのであった。

第二章:青木俊矩の生涯 — 豊臣秀頼の馬廻として

父・一矩が築き上げた栄光の陰で、その子・青木俊矩はどのような人生を歩んだのであろうか。本章では、物語の主役である俊矩自身の経歴に焦点を当て、偉大な父と天下人の従甥(いとこの子)という出自を持つ彼が、豊臣家の直臣としてどのような役割を担い、いかなる立場にあったのかを明らかにする。特に、彼が務めた「馬廻衆(うままわりしゅう)」という役職の重要性を掘り下げることで、彼が豊臣家の中枢で育まれたエリート武将であったことを描き出していく。

2.1 出自の謎 — 一矩の実子か、甥か

青木俊矩の出自については、二つの説が存在し、その正確な親子関係は完全には解明されていない。一般的には、青木一矩の実子として知られている 9 。しかし、江戸時代に編纂された『青木系図』には、俊矩は一矩の実子ではなく、一矩の弟にあたる青木半右衛門矩貞(のりさだ)の子であり、伯父である一矩の養子になったという異説が記されている 13

後世に編纂された系図は、しばしば家系を飾るための潤色が含まれるため、その記述を鵜呑みにすることはできない。しかし、この異説は俊矩の立場を考察する上で、興味深い視点を提供する。もし彼が養子であったならば、一族内における彼の地位は、実子に比べてやや不安定であった可能性が考えられる。その場合、彼は自らの実力と、父(養父)である一矩や主君である秀吉・秀頼への忠誠を人一倍強く示すことによって、自身の立場を確立する必要があったかもしれない。この出自の謎は、彼の行動原理を理解する上で、一つの心理的な背景要因として考慮する価値があるだろう。

2.2 豊臣家臣としての経歴と文禄の役

出自の謎はあれど、俊矩が豊臣秀吉の「従甥」として、豊臣家に仕えたことは紛れもない事実である 13 。彼の経歴の中で特筆すべきは、秀吉直属の親衛隊であり、エリート集団でもあった「馬廻衆」を務めていたことである 13

馬廻衆は、単に主君の身辺を警護するだけの役職ではない。彼らは主君の側近くにあって、政務や軍事の実際を直接学び、将来の政権を担う幹部候補生として育成される、エリート中のエリートであった。いわば、豊臣政権の人材育成システムの中核をなす存在であり、この一員に選ばれること自体が、主君からの個人的な信頼の証であった。俊矩がこの重要な役職に就いていたという事実は、彼が豊臣政権の中枢に非常に近い位置にいたことを示す決定的な証拠と言える。

その具体的な活動としては、天正20年(1592年)に始まった文禄の役において、馬廻衆の一員として肥前名護屋城に在番した記録が残っている 13 。名護屋城は、朝鮮半島への出兵における一大拠点であり、全国から大名が集結した政治・軍事の中心地であった。俊矩はここで、佐藤隠岐守の組に属し、天下の動静を肌で感じていたはずである。

さらに、慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなった際には、その遺物として名刀「長光」を拝領している 13 。数多いる家臣の中から遺品分与の対象に選ばれたという事実は、彼がその他大勢の武将とは一線を画す、秀吉にとって特別な存在として認識されていたことを裏付けている。彼はまさに、豊臣家の恩を一身に受け、豊臣家への忠誠を骨の髄まで叩き込まれた世代の武将だったのである。この経験こそが、後の関ヶ原の戦いにおける彼の選択を理解する上で、最も重要な鍵となる。

2.3 越前金剛院城主二万石

父・一矩の栄達に伴い、俊矩もまた一人の領主としての道を歩み始める。慶長4年(1599年)、父が一矩が越前北ノ庄城20万石へと加増転封されたことに伴い、俊矩は父の旧領の一部であった越前府中において2万石の知行を与えられ、金剛院城(こんごういんじょう)の城主となった 10

この金剛院城は、一矩が府中城主であった時代に、自らの居城である府中城の支城として築いたものとされている 15 。その所在地は、現在の福井県越前市深草にあり、曹洞宗の寺院である金剛院の境内が城跡にあたる。現在でも、境内の一角には往時を偲ばせる土塁の一部が残存している 5 。この城は、府中の町を守り、本城である北ノ庄を防衛する上で、戦略的に重要な役割を担う拠点であったと考えられる。

俊矩が2万石という独立した所領を持つ大名となったことは、彼が単に父の威光に頼るだけの部屋住みの身分ではなく、豊臣政権に認知された一人の領主であったことを示している。この時、彼は父と共に越前支配の一翼を担い、青木家の最盛期を現出したのである。

なお、一部のウェブサイトなどでは、金剛院城を「永禄年間に朝倉氏の家臣であった青木俊矩が城主を務めた」とする記述が見られる 15 。しかし、これは明らかな誤伝である可能性が高い。朝倉氏が滅亡したのは天正元年(1573年)であり、青木一矩・俊矩親子が越前に入封したのはそれよりずっと後の文禄年間(1590年代)である。時代的に全く整合性が取れないことから、後世に何らかの混同が生じたものと考えられる。青木俊矩が城主として歴史の舞台に登場するのは、あくまで豊臣政権下でのことであった。

第三章:関ヶ原の戦いと青木家の選択 — 運命の分水嶺

慶長5年(1600年)、天下の情勢は徳川家康率いる東軍と、石田三成らを中心とする西軍との対立を軸に、一触即発の危機を迎えていた。この天下分け目の戦いにおいて、青木一矩・俊矩親子が下した決断は、彼らの生涯における最大のクライマックスであり、同時に一族の悲劇の始まりでもあった。本章では、彼らが西軍に加担した背景、史料に残された謎の行動、そして戦わずして敗者となった運命の顛末を多角的に分析する。

3.1 西軍加担の経緯と北国口の動静

関ヶ原の戦いが勃発すると、青木一矩・俊矩親子は西軍に与することを決断した 13 。この選択は、彼らの立場を考えれば、ある意味で必然であった。第一章で詳述した通り、青木家は秀吉との血縁によって立身した豊臣一門であり、その恩義は骨身に染みていた。豊臣家の安泰を守るという大義名分を掲げた西軍に与することは、彼らにとって論理的な帰結であった。『福井県史』によれば、一矩は西軍の総大将である毛利輝元や、石田三成と連携する三奉行(増田長盛、長束正家、前田玄以)ら首脳部からの正式な勧誘に応じ、味方になったと記録されている 11

彼らの所領である越前国は、東軍の主力である加賀の前田利長と、西軍の最前線を担う敦賀の大谷吉継という、両軍の有力大名に挟まれた戦略的要衝であった。このような地勢にあって、中立を保つことは事実上不可能であり、どちらかの陣営に与するかの選択を迫られていた。

西軍に属した青木親子は、北国口(北陸方面)の守備を担当したとされる。しかし、彼らが関ヶ原の本戦に参加したり、大規模な戦闘を経験したりしたという記録はほとんどない 13 。北陸戦線では、大谷吉継が巧みな牽制と調略によって加賀前田軍の南下を阻止しており、青木親子はその後詰、あるいは大谷軍との連携を意図して北ノ庄城に留まっていた可能性が高い。しかし、彼らの予測を遥かに超え、関ヶ原の本戦がわずか一日で西軍の壊滅という形で決着してしまったため、北陸で具体的な軍事行動を起こす前に、勝敗が決してしまったのである。これが、彼らが「戦わずして敗れた」真相であったと考えられる。なお、一部の資料には俊矩が前田軍と大谷軍が衝突した「浅井畷の戦い」に参加したとする記述もあるが 16 、これは大谷軍の動向との混同である可能性が高く、青木親子が直接この戦闘に関与したことを示す確たる一次史料は確認されていない。

3.2 「越前宰相殿」を巡る謎 — 天満焼討事件の真相

関ヶ原の戦いにおける青木俊矩の動向を追う上で、極めて不可解で謎に満ちた一つの事件が記録されている。それは、当時の公家の日記である『慶長日件録』に見られる記述で、「青木俊矩が天満(大坂)の町において、『越前宰相殿御為(えちぜんさいしょうどのおんため)』と称して焼き討ちを働いた」というものである 11

この記述は、いくつかの点で大きな謎をはらんでいる。第一に、西軍に属し、北陸にいるはずの俊矩が、なぜ西軍の本拠地である大坂で焼き討ちのような行動を取ったのか。第二に、そして最大の謎は、「越前宰相殿」とは一体誰を指すのかという点である。

「宰相」とは参議(さんぎ)という官職の唐名(中国風の呼び名)であり、当時この官位にあり、かつ越前国に関わる人物は極めて限定される。その最有力候補として挙げられるのが、徳川家康の次男であり、関ヶ原の戦後に越前北ノ庄67万石の新たな領主となる結城秀康である。彼はまさしく「越前宰相」と呼ばれていた 20 。しかし、彼は言うまでもなく東軍の主要な将である。西軍に属する青木俊矩が、敵方である東軍の将、結城秀康の「ために」焼き討ちを行うというのは、常識的に考えてあり得ない。

この矛盾に満ちた事件の真相については、いくつかの仮説が立てられる。

第一は「偽装工作説」である。これは、俊矩の行動が、実際には石田三成ら西軍首脳の指示によるもので、あたかも東軍側の人間が働いたかのように見せかけ、大坂城下の混乱を誘発し、人心を動揺させることを狙った情報戦・心理戦の一環であったとする説である。

第二は「誤報・誤伝説」である。『慶長日件録』の記述そのものが、不正確な伝聞や噂話に基づいた誤りであった可能性も否定できない。戦時の混乱の中では、しばしば情報が錯綜し、事実とは異なる記録が残されることもある。

第三は、より複雑な「二股膏薬説」である。これは、俊矩が西軍の敗北を予期し、万が一の場合に備えて、戦後の越前の支配者となるであろう結城秀康に恩を売るために、独断でこのような行動に及んだとする説である。しかし、敵の本拠地で焼き討ちを働くという行為はあまりに露骨であり、発覚した際のリスクを考えると、極めて危険な賭けと言わざるを得ない。

これらの仮説の中で、単一の正解を断定することは困難である。しかし、当時の状況を総合的に勘案すると、西軍の作戦の一環としての「偽装工作説」が、比較的合理的な説明として考えられるかもしれない。いずれにせよ、この「天満焼討事件」は、青木俊矩の生涯における最大のミステリーとして、今なお歴史研究者の間で議論の対象となっている。

3.3 戦後の改易と加賀前田家への預託

慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の本戦はわずか半日で東軍の圧勝に終わった。この結果、西軍に与した青木一矩・俊矩親子は、戦後処理において厳しい処分を受けることとなる。彼らは改易、すなわち領地である越前北ノ庄20万石余を全て没収され、大名の地位を失った 11

失意の中、父・一矩は戦後まもない同年10月10日に病死してしまう 11 。これにより、一族の存続と家名の再興という重責は、全て俊矩の双肩にかかることになった。この窮状を見かねたのが、東軍として戦い、北陸の覇者となった加賀藩主・前田利長であった。利長は、隣国の領主であった青木家の行く末を案じ、徳川家康に対して、彼らの家禄、すなわち大名としての地位の存続を嘆願した。しかし、その願いは聞き入れられることはなかった 8

前田利長という大大名による助命嘆願が失敗に終わったという事実は、徳川家康が青木家に対して極めて厳しい姿勢で臨んだことを物語っている。その理由は、単に彼らが西軍に与したというだけではない。家康が最も警戒したのは、彼らが豊臣秀吉の「一門」であったという事実である。豊臣家と血の繋がった大名が存続することは、将来的に豊臣秀頼を担いで徳川政権に反旗を翻す可能性を秘めており、家康にとっては看過できない潜在的な脅威であった。青木家の改易は、単なる戦後処理の一環ではなく、豊臣恩顧の大名、特に血縁者を徹底的に排除することで、徳川の世の礎を盤石にしようとする、家康の周到な政治的判断の結果だったのである。

こうして家名存続の道を断たれた俊矩は、身柄を前田家に預けられることとなり、加賀の金沢で監視下に近い客分としての日々を送ることになった 13 。栄華を極めた大名から、他家の厄介者へ。青木家の運命は、関ヶ原の戦いを境に、天国から地獄へと突き落とされたのであった。

第四章:没落後の青木一族と俊矩の最期 — 流転の末に

大名としての地位を剥奪され、歴史の表舞台から姿を消した青木俊矩とその一族は、その後どのような運命を辿ったのだろうか。本章では、失意のうちに過ごした俊矩の晩年と、彼の死後にそれぞれ異なる道を歩んだ子供たちの姿を追う。ある者は父祖と同じく豊臣家に殉じ、ある者は新たな支配者に仕えて武士として生き残り、またある者は武士の身分を捨てて町人として再生する。この三者三様の生き様は、戦国という時代が完全に終わりを告げ、近世という新たな社会が到来する、大きな時代の転換点を鮮やかに映し出している。

4.1 加賀金沢における客将としての日々

父・一矩の死後、青木俊矩は前田利長の庇護のもと、加賀国金沢で食客としての日々を送った 23 。その具体的な生活の様子を詳細に伝える史料は乏しいが、「預けられの身」という彼の立場が、極めて不安定で屈辱的なものであったことは想像に難くない。かつては2万石を領する城主であり、豊臣家の一門として栄華を誇った彼が、今や領地からの収入もなく、前田家から支給されるわずかな扶持米に頼って暮らす身となった。政治的な自由はなく、常に監視の目に晒されていた可能性も高い。生殺与奪の権を他者に握られたその境遇は、精神的にも経済的にも厳しいものであっただろう。彼の晩年は、関ヶ原で敗れた多くの大名たちが経験したであろう、失意と無念に満ちた人生を象徴している。

4.2 慶長十三年の死と墓所

先の見えない客将としての日々は、長くは続かなかった。慶長13年(1608年)5月6日、青木俊矩は配流の地である金沢にて病のため、その波乱の生涯を閉じた 13 。戒名は「江庵宗永居士(こうあんそうえいこじ)」と伝わる 13

興味深いのは、彼の墓所の所在地である。彼が亡くなったのは加賀の金沢であるが、その墓は、かつて彼が城主を務めた越前国府中の金剛院に現存している 13 。この事実は、彼の死後、遺族や彼を慕う旧家臣たちがその遺骨を故郷の地へと運び、ゆかりの深い寺院に手厚く葬ったことを示唆している。改易され没落した後も、青木家と越前の人々との間には、断ち切られることのない繋がりが残っていたのである。金沢の空の下で寂しく息を引き取った俊矩の魂が、かつての領民たちによって故郷の地に迎えられたというこのエピソードは、彼の人生の終着点として、象徴的な意味を持っている。

4.3 子孫たちの行方 — 武士、町人、それぞれの道

俊矩の死後、遺された子供たちは、それぞれが全く異なる道を歩むことになった。彼らの対照的な人生は、まさしく時代の転換点を映す「生きた標本」と言えるだろう。

長男・青木久矩(ひさのり)— 滅びゆく豊臣家への殉死

長男の久矩は、父の死後も浪人として雌伏の時を過ごしていた。そして慶長19年(1614年)、徳川と豊臣の最終決戦である大坂の陣が勃発すると、彼は迷うことなく豊臣方として大坂城に入城する 23。彼は、自らの姉(俊矩の娘・宮内卿局)が産んだ子、すなわち甥にあたる木村重成の部隊に所属した 13。重成は、大坂の陣における豊臣方の若き勇将としてその名を馳せた人物である。久矩は重成のもとで戦功を挙げ、感状を受けるほどの活躍を見せたが、翌年の大坂夏の陣における激戦地・若江の戦いで、奮戦の末に討ち死にした 8。彼の生き様は、旧主への恩義と忠誠を貫き、滅びゆく豊臣家と運命を共にするという、「戦国武士の美学」の終焉を体現するものであった。

次男・青木泰矩(やすのり)— 新体制への適応

次男の泰矩は、兄とは対照的な道を選んだ。彼は父・俊矩の身柄を預かっていた加賀藩に仕官し、前田家の家臣として武士の身分を保った 13。これは、徳川の支配が確立した新たな世において、旧来の価値観に固執するのではなく、新しい支配体制に適応することで家名を存続させるという、現実的な選択であった。彼の生き方は、多くの旧豊臣系大名の家臣たちが辿ったであろう、近世武士としての生き残りの道を示している。

三男・青木昌矩(まさのり)— 武士を捨てた再生の道

三男の昌矩の人生は、兄たちとはさらに異なる、最も興味深い軌跡を辿る。彼は生まれつき病弱で、武士としての務めを果たすことが困難であったため、早くから隠棲していた 13。そんな彼に手を差し伸べたのが、皮肉にも青木家を越前から追い出した結城秀康であった。秀康は昌矩を召し出して屋敷を与え、その生活を保障したという。その後、昌矩は武士の身分を捨て、かつての一族の拠点であった越前武生(府中)の地で、酒造業を始めた 7。その屋号を「平吹屋(ひらぶきや)」と称し、町人として新たな人生を歩み始めたのである。その事業は成功し、子孫は代々この地で酒造業を営み、大正年間に至るまで続いたと伝えられる 23。昌矩の転身は、武士という身分が絶対的な価値を持たなくなった新しい時代において、経済活動を通じて社会に根を下ろすという、近世における町人の勃興と新たな生き方を象徴している。

以下の表は、青木俊矩の三人の息子たちが辿った、対照的な運命をまとめたものである。

氏名

立場/職業

主な経歴

象徴する道

青木久矩

浪人 → 豊臣方武将

大坂の陣で豊臣家に殉じ、若江の戦いで戦死する。

滅びの道 (旧主への忠義と戦国武士の終焉)

青木泰矩

加賀藩士

父を庇護した前田家に仕官し、武家として家名を存続させる。

順応の道 (新体制への適応と近世武士への転換)

青木昌矩

武士 → 町人(酒造家「平吹屋」)

結城秀康の庇護を受け、越前武生で酒造業を興し成功する。

再生の道 (身分を超えた新たな生き方と町人文化の勃興)

この表が示すように、俊矩の子たちの人生は、まさに時代の縮図であった。豊臣家最後の戦いで輝かしい光芒を放った木村重成にその血が受け継がれていたという事実も含め、青木一族の流転の物語は、戦国から近世へという日本史の大きな転換点を、一つの家族の運命を通して我々に雄弁に語りかけてくれるのである。

終章:青木俊矩が歴史に遺した微かなる足跡

青木俊矩の生涯を巡る旅は、ここに終わりを迎える。彼は、父・青木一矩や、その従兄弟である天下人・豊臣秀吉のような、歴史の主役ではなかった。彼の人生は、豊臣家との血縁という、抗いがたい「恩恵」と「呪縛」の中で規定され、その激流に翻弄されたものであった。豊臣家直属のエリートである馬廻衆として将来を嘱望されながらも、時代の大きなうねりの中で、主体的に歴史を創造する存在とはなり得なかった。その意味で、彼は戦国と近世の狭間に生きた「過渡期の武将」と位置づけることができるだろう。

関ヶ原の戦いにおける彼の動向、特に戦わずして敗者となった経緯や、「天満焼討事件」という謎に満ちた逸話は、天下分け目の戦いの裏で、多くの中小大名が直面したであろう混乱、苦悩、そして絶望を象徴している。彼の選択は、豊臣家への忠誠心に根差すものであったが、結果として一族を没落へと導いた。その改易の過程は、徳川家康による新時代構築のための、冷徹な政治的計算を浮き彫りにする。

しかし、青木俊矩の物語が我々に最も雄弁に語りかけるのは、彼の死後に子孫たちが辿った多様な運命である。長男・久矩が豊臣家への殉死という「滅びの道」を選び、次男・泰矩が新体制への「順応の道」を歩み、そして三男・昌矩が町人としての「再生の道」を切り拓いた。武家としての青木家は関ヶ原で事実上終焉したが、その血脈は、武士として、あるいは町人として、形を変えながら新しい時代に適応し、確かに生き続けたのである。

結局のところ、青木俊矩が歴史に遺したのは、輝かしい武功や偉大な事績ではなかったかもしれない。だが、彼の人生と一族の流転の物語は、豊臣政権という特異な権力の本質とその崩壊の力学、そして戦国時代の終焉がもたらした社会の劇的な変容を、我々に教えてくれる。それは、歴史の教科書には記されることのない、微かながらも確かな足跡であり、時代の転換期を生きた一人の人間の、そして一つの家族の、忘れ得ぬ証言なのである。

引用文献

  1. 越前國 金剛院城 - FC2 http://oshiromeguri.web.fc2.com/echizen-kuni/kongohin/kongohin.html
  2. 豊臣大名一覧 https://shiryobeya.com/main/toyotomidaimyolist.html
  3. 青木一矩とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E4%B8%80%E7%9F%A9
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  22. 「結城秀康」父親は家康と秀吉!? 天下を継げなかった悲運の武将 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/537
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