最終更新日 2025-07-27

願証寺明俊

願証寺「明俊」は史料にないが、長島一向一揆を指導した願証寺4世証意と5世顕忍を中心に、その壮絶な戦いを解明。長島の地理的特性と信仰が強固な抵抗を生んだ。

願証寺と長島一向一揆:信仰、抵抗、そして殲滅の四年間

序章:願証寺「明俊」をめぐる謎と、歴史の実像

戦国時代の伊勢志摩に拠点を置き、織田信長に激しく抵抗した末に灰燼に帰した一向宗寺院、願証寺。その指導者として「願証寺明俊」という名が伝えられることがある。しかし、この「明俊」という名は、『信長公記』をはじめとする同時代の主要な史料や、後代に編纂された系図資料などの中には確認することができない 1

この事実は、我々を一つの問いへと導く。すなわち、「願証寺明俊」とは、特定の個人を指す名ではなく、信長という巨大な権力に屈することなく、信仰のために立ち上がった願証寺、そして長島の一向宗門徒たちの抵抗の記憶が、後世において一人の象徴的な人物像として結晶化したものではないか、という問いである。利用者によって提示された「伊勢志摩の僧侶、信長への抵抗、寺の焼失」という要素は、まさしく元亀元年から天正二年にかけて(1570年~1574年)、伊勢長島で繰り広げられた「長島一向一揆」における願証寺の動向そのものと完全に符合する 7

したがって、本報告書は、その実在が確認できない「明俊」という名の探求に留まるものではない。むしろ、その名が指し示す歴史的実像、すなわち、長島一向一揆を指導した**願証寺4世住職・証意(しょうい)**と、その跡を継いだ悲劇の少年住職、**5世・顕忍(けんにん)**という、史料上で確認できる二人の指導者を中心に据える 10 。そして、彼らが率いた門徒たちの4年間にわたる壮絶な戦いの全貌を、人物、地理、宗教、政治、軍事といった多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。

本報告は、単なる戦闘の記録を超え、長島という土地が持つ地理的・社会的特異性、阿弥陀如来への絶対的な帰依という信仰の力、そして天下布武を目指す織田信長の政治力学が複雑に絡み合った、戦国史における極めて特異な複合的歴史事象として、この一揆の本質に迫るものである。

第一部:鉄の結束の揺りかご ― 願証寺と長島の風土

長島一向一揆が、なぜ天下統一を目前にした織田信長を相手に4年もの長きにわたり、三度もの大軍を退けるほどの強固な抵抗勢力となり得たのか。その根源を解き明かすためには、まず、一揆の中核となった願証寺の成り立ちと、その舞台となった長島という土地が持つ、他に類を見ない地理的・社会的特性を理解する必要がある。

第一章:願証寺の創建と発展 ― 東海における本願寺教団の牙城

長島における一向宗の拠点、願証寺の歴史は、本願寺教団が全国に勢力を拡大していく過程と密接に結びついている。その創建は、本願寺第8世法主・蓮如の六男である蓮淳(れんじゅん)によって、少なくとも明応10年(1492年)までには、伊勢国香取庄中郷杉江の地に成されたと記録されている 10 。一説には、それ以前の文永元年(1264年)に法泉寺(現在の桑名市多度町)を開いた信祐によって開かれ、本願寺3世覚如から寺号を与えられたとも伝わるが、蓮淳の入寺によって、この寺は本願寺教団の直系寺院として新たな段階に入った 10

蓮淳は本願寺9世実如・10世証如に近侍し、本願寺教団の中枢で重きをなした人物であったため、長島に常住することはできなかった 10 。そのため、彼の次男である実恵(じつえ)が住持として常住するようになり、その子・証恵(しょうえ)の代には、伊勢・美濃・尾張の東海三ヶ国における本願寺門徒を支配する、教団の最重要拠点へと成長を遂げた 10 。その地位の高さは、永禄3年(1560年)、3世証恵の代に、本願寺一門の数ある寺院の中でも先駆けて、朝廷から「院家(いんげ)」という高い格式を勅許されたことからも窺い知ることができる 10 。これは、願証寺が単なる地方寺院ではなく、本願寺教団の東海方面における司令塔とも言うべき役割を担っていたことを示している。

さらに特筆すべきは、天文年間(1532年~1555年)に、寺基が当初の杉江の地から、長島城にほど近い南郷西外面付近へと移転されたことである 10 。この移転は、単なる寺院の引っ越しではなく、有事の際に地域の政治・軍事拠点である長島城と一体化して戦うことを想定した、極めて戦略的な判断であった。この決断が、後の長きにわたる籠城戦を可能にする重要な伏線となったのである。

第二章:天然の要害「輪中」― 抵抗を生んだ社会構造

願証寺が根を下ろした長島は、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が伊勢湾に注ぐ広大な河口デルタ地帯に位置していた 15 。この地域は、洪水から集落や耕地を守るために、周囲を堤防で囲んだ「輪中(わじゅう)」と呼ばれる独特の集落形態が数多く形成されていたことで知られる 17

この輪中地帯の地理的景観こそが、長島一向一揆の強靭な抵抗力を生み出した第一の要因である。無数の大小の河川が網の目のように流れ、中洲が点在する複雑な地形は、大軍の移動や展開を著しく困難にする 11 。外部の人間にとってはどこが道でどこが川かも判然としないこの土地は、まさに天然の要害そのものであった。織田軍が第一次侵攻で惨敗を喫したのも、この地の利を熟知した一揆勢の巧みなゲリラ戦術の前に、大軍の利を全く活かせなかったためである 22

しかし、長島の強さの秘密は、単なる地理的優位性だけではない。より重要なのは、この「輪中」という環境が育んだ、特異な社会構造と住民の精神性である。輪中の人々は、絶え間ない水害の脅威に共同で立ち向かうため、強固な水防共同体を組織していた 17 。堤防の維持管理や水害時の動員は、共同体の存亡をかけた至上命題であり、この過程で「輪中根性」とも呼ばれる、極めて自己防衛的で排他的な連帯意識が育まれた 17 。自分たちの輪中は自分たちで守るという強い自立心と、外部の権力に対する根深い不信感が、彼らの精神の根幹を成していたのである。

このような治外法権的な空間は、いわゆる「アジール(避難所)」としての機能も果たした。永禄10年(1567年)に織田信長に美濃を追われた斎藤龍興がこの地に逃げ込んだように、長島は既存の権力から追われた者たちを受け入れる、反体制の巣窟となっていた 9

長島一向一揆の比類なき抵抗力の源泉は、この点にこそ求められる。それは、単に宗教的な情熱に駆られた信者の集団ではなかった。むしろ、 「輪中」という地理的要塞 「輪中共同体」という強固な社会的結束 、そしてその上に君臨する**「浄土真宗・願証寺」という絶対的な宗教的信念**。この三つの要素が分かちがたく結びつき、一つの巨大な「社会=宗教的要塞」を形成していたのである。信長が直面したのは、単なる一揆勢力ではなく、信仰によって統治され、天然の要害に守られた、事実上の独立国家とも言うべき存在であった。この認識なくして、4年にも及ぶ死闘の全貌を理解することはできない。

第二部:反信長の狼煙 ― 指導者たちの肖像

長島一向一揆は、単一の指導者の下に結束した運動ではなかった。その指導者層は、世襲の僧侶、本願寺から派遣された官僚、国を追われた亡命武将、そして在地豪族など、実に多様な出自と動機を持つ人物たちによって構成されていた。彼らの肖像を描き出すことは、この一揆が純粋な宗教運動の枠を超え、「反信長連合」としての性格を色濃く帯びていたことを明らかにする。


【表1:長島一向一揆 主要関係者一覧】

立場

勢力

主要人物

役割・動向

結末

典拠

一揆側指導部

願証寺

証意(4世住職)

一揆の盟主。顕如の檄文に呼応し、門徒を率いて蜂起。小木江城を攻略。

元亀2年(1571年)、第一次侵攻直後に急死(暗殺説あり)。

10

願証寺

顕忍(5世住職)

証意の子。11歳で継承。一揆の精神的支柱・象徴として籠城。

天正2年(1574年)、降伏開城時の騙し討ちで討死(14歳)。

10

本願寺派遣

下間頼旦

本願寺から派遣された軍事指揮官。第一次侵攻で織田軍を撃退。

天正2年(1574年)、降伏開城時の騙し討ちで射殺される。

11

亡命武将

斎藤龍興

元美濃国主。信長に追われ長島に亡命し、一揆に参画。

第二次侵攻の前に長島を離脱。後に朝倉氏に与し、刀根坂の戦いで戦死。

11

亡命武将

日根野弘就

斎藤龍興の元家臣。プロの武士団を率い、一揆の軍事力を強化。

長島壊滅後も生き延び、後に信長、秀吉に仕える。

11

一揆側協力勢力

在地豪族

北勢四十八家

北伊勢の在地領主連合。一部が一揆に加担。

第二次侵攻で多くが信長に降伏。

11

在地豪族

服部党(服部友貞ら)

尾張西部の水運を握る豪族。水軍力で一揆を支援。

友貞は一揆蜂起前に謀殺されるが、一族は一揆に参加。

33

傭兵集団

雑賀衆

紀州の鉄砲傭兵集団。宗教的繋がりと傭兵契約により参戦。

第一次侵攻で活躍。

11

織田側主要将

織田軍総大将

織田信長

天下布武を目指す戦国大名。一揆の殲滅を指揮。

-

11

織田一門

織田信興

信長の弟。小木江城主。

元亀元年(1570年)、一揆の攻撃を受け自害。

36

織田一門

織田信広、信次、秀成ら

信長の兄、叔父、弟など。

天正2年(1574年)、一揆勢の最後の反撃により多数が討死。

11

織田家重臣

柴田勝家

織田家筆頭家老。各侵攻で作戦の中核を担う。

第一次侵攻で負傷。

22

織田家重臣

滝川一益

織田家重臣。水軍を率いるなど活躍。

一揆鎮圧後、長島城主となる。

11

織田家重臣

氏家卜全(直元)

美濃三人衆の一人。

第一次侵攻の撤退戦で殿を務め、戦死。

11

織田家重臣

林通政

林秀貞の子。

第二次侵攻の撤退戦で殿を務め、戦死。

11


第一章:一揆を導いた僧、願証寺証意(4世住職)

長島一向一揆の戦端を開き、その初期の抵抗を指導した人物が、願証寺4世住職の証意である 12 。天文6年(1537年)、東海における本願寺教団の重鎮であった3世証恵の嫡男として生まれた彼は、父の死に伴い永禄4年(1564年)に28歳で願証寺の住持となった 12 。その2年後には上洛し、本願寺11世法主・顕如から直々に院家の相続を認められており、その出自と経歴は、まさしく教団のエリートそのものであった 12

元亀元年(1570年)、顕如が打倒信長の檄文を全国の門徒に発すると、証意はこれに即座に呼応し、主戦派の中心として活動を開始する 8 。彼は本願寺から派遣された坊官・下間頼成と連名で、近隣の門徒や在地領主たちに蜂起を促す檄文を飛ばした 12 。これは、彼が単なる宗教指導者ではなく、地域の政治・軍事状況を的確に判断し、行動できる人物であったことを示している。彼の指導の下、蜂起した門徒衆は信長の弟・織田信興が守る小木江城を攻め落とし、信興を自害に追い込んだ 8 。この戦果は、反信長勢力を大いに勇気づけ、長島一向一揆の狼煙を天下に知らしめるものであった。

しかし、その栄光は長くは続かなかった。翌元亀2年(1571年)、信長による第一次侵攻を辛くも撃退したわずか1ヶ月後の6月6日、証意は35歳の若さで謎の急死を遂げる 10 。一部の史料では「織田側により暗殺された」とも記されており 10 、その死は一揆の指導体制に深刻な動揺を与えた。一揆の点火役であり、その精神的支柱であった証意の突然の死は、長島の未来に暗い影を落とすことになる。

第二章:悲劇の少年住職、願証寺顕忍(5世住職)

父・証意の突然の死によって、願証寺の法灯と一揆の運命を一身に背負うことになったのが、嫡男の顕忍であった。時に、わずか11歳 10 。戦国の世において、あまりにも若く、過酷な継承であった。

当然ながら、11歳の少年に実質的な軍事指揮は不可能であり、以降の一揆の作戦指導は、本願寺から派遣された下間頼旦ら、経験豊富な武闘派の僧たちが担うこととなる 29 。しかし、その中で顕忍は、一揆勢の精神的な結束を保つための、かけがえのない象徴として存在し続けた。彼は、本願寺法主の血を引く願証寺の正統な後継者であり、その存在こそが門徒たちの戦う大義名分そのものであった 29 。天正2年(1574年)の最終籠城戦において、多くの門徒が顕忍から得度(僧侶となる儀式)を受け、死を覚悟して戦いに臨んだという逸話は、彼が門徒たちにとってどれほど重要な存在であったかを物語っている 29

その最期は、彼の短い生涯を象徴するかのように、あまりにも壮絶であった。天正2年9月29日、兵糧が尽き果て、降伏開城した一揆勢が船で退去しようとした際、信長は約束を反故にして一斉射撃を命じる。この騙し討ちの混乱の中、顕忍は銃弾に倒れたとも、あるいは自刃して果てたとも伝えられている 10 。享年14。戦国の非情が生んだ、悲劇の少年住職であった。

第三章:本願寺から派遣された指揮官、下間頼旦(しもつま らいたん)

証意の死後、長島一向一揆の軍事面を実質的に取り仕切ったのが、大坂の石山本願寺から派遣された下間頼旦である 30 。下間氏は、代々本願寺の警護や渉外といった俗務を担ってきた一族であり、頼旦はその中でも特に武勇に優れた「武闘派僧侶」であった 42 。彼は、法主・顕如の命令を現地で実行に移すための、いわば専門の軍事・組織指導者であった。

彼の功績は、特に第一次長島侵攻において顕著である。信長の5万の大軍に対し、頼旦は長島の複雑な地形を最大限に活用した巧みな防衛戦術を展開した 30 。砦に雑賀衆などの鉄砲隊を効果的に配置し、狭い中洲を進む織田軍に壊滅的な打撃を与えた。特に、撤退する柴田勝家軍への追撃戦では、勝家本人を負傷させ、美濃三人衆の一人である氏家卜全を討ち取るという大金星を挙げ、信長軍撃退の最大の功労者となった 30

その後も第二次、第三次侵攻において中心的な指揮官として防衛戦を指導したが 11 、彼の武運も天正2年の最終局面で尽きる。顕忍と共に降伏開城の場に臨んだ彼は、信長の非情な騙し討ちに遭い、多くの門徒と共に射殺された 30 。本願寺が誇る歴戦の将も、信長の殲滅戦の前に散ったのである。

第四章:再起と忠義 ― 一揆に参画した武将たち

長島一向一揆の軍事力を支えたのは、門徒や僧侶だけではなかった。信長に追われた亡命武将たちの存在が、その戦闘能力を飛躍的に高めていた。

その筆頭が、かつての美濃国主・斎藤龍興である。永禄10年(1567年)、信長との戦いに敗れ稲葉山城を追われた龍興は、治外法権の地であった長島へと逃げ込んだ 22 。彼にとって、本願寺の反信長蜂起は、失った美濃国を奪還するための千載一遇の好機であった。彼は一揆に積極的に参画し、第一次侵攻では指導者の一人としてその名を連ねている 11 。しかし、戦況が膠着する中、第二次侵攻が始まる前に長島を離れ、越前の朝倉氏を頼っている 11 。彼の離脱は、一揆の政治的目標の多様性を示唆している。

一方、最後まで一揆と共に戦い、その軍事力を実質的に強化したのが、龍興の元家臣であった日根野弘就(ひねの ひろなり)である。主君・龍興と共に各地を流浪した彼は、元亀3年(1572年)頃から一揆に合流したとされる 33 。弘就は、単なる門徒ではない、訓練されたプロの武士団を率いており、彼の参画は一揆の軍事力を質的に大きく向上させた。第二次・第三次侵攻では下間頼旦らと共に指揮官として活躍し、その戦術眼は織田軍を大いに苦しめた 11 。驚くべきことに、彼はあの地獄のような殲滅戦を生き延び、長島を脱出。その後、長年敵対した信長に降り、その死後は羽柴秀吉に仕えるという、戦国武将らしいしたたかな生涯を送った 32

これらの指導者たちの顔ぶれは、長島一向一揆が単なる宗教一揆ではなかったことを雄弁に物語っている。そこには、**世襲の宗教的権威(証意・顕忍)**を核とし、**本願寺中央からの指令(下間頼旦)**が貫徹され、**失地回復という政治的野心(斎藤龍興)**と、**主君への忠義や武士としての生き様(日根野弘就)**が複雑に絡み合っていた。まさに、多様な動機を持つ人々が「打倒信長」という一点で結集した、極めて複合的な軍事・政治勢力、それが長島一向一揆の実態だったのである。

第三部:四年間の死闘 ― 長島一向一揆の全貌

元亀元年(1570年)の蜂起から天正二年(1574年)の壊滅に至るまで、長島一向一揆と織田信長の戦いは、三度にわたる大規模な軍事侵攻を中心に、熾烈を極めた。その戦いの軌跡は、信長の戦術の変遷と、抵抗の激化、そして最終的な殲滅という悲劇へと至る過程を克明に示している。


【表2:長島一向一揆 年表】

西暦

和暦

月日

出来事

典拠

1570年

元亀元年

9月

石山合戦勃発。本願寺顕如、全国の門徒に蜂起を指令。

16

11月21日

【蜂起】 長島一向一揆勢が蜂起し、織田信長の弟・信興が守る小木江城を攻略、信興は自害。

1

1571年

元亀2年

5月12日

【第一次長島侵攻】 信長、5万の兵を率いて長島へ出陣。三方から攻撃を開始。

7

5月16日

織田軍、攻略に手間取り撤退を開始。一揆勢はこれを追撃。

22

5月16日

撤退戦で殿の柴田勝家が負傷。代わった氏家卜全が戦死。織田軍は惨敗。

22

6月6日

願証寺4世・証意が急死。11歳の顕忍が5世を継承。

10

1573年

天正元年

8月

信長、浅井・朝倉氏を滅ぼす。

11

9月24日

【第二次長島侵攻】 信長、数万の兵を率いて北伊勢へ出陣。長島周辺の城を攻略し、孤立化を図る。

11

10月

伊勢大湊の会合衆が一揆に協力していたことが発覚。信長は船主を処罰し、海上封鎖を強化。

11

10月25日

織田軍、長島への直接攻撃を断念し撤退。多芸山で一揆勢の追撃を受け、殿の林通政が戦死。

11

1574年

天正2年

7月14日

【第三次長島侵攻】 信長、8万~12万とされる過去最大級の軍を動員。水陸から長島を完全包囲。

11

7月~8月

織田軍、外周の砦を次々と攻略。一揆勢は中心部の城砦に追い込まれ、兵糧攻めが開始される。

36

9月29日

【壊滅】 兵糧が尽きた長島城の一揆勢が降伏開城。

29

9月29日

信長は降伏を反故にし、退去する門徒を鉄砲で虐殺。願証寺顕忍、下間頼旦ら討死。

29

9月29日

激高した一揆勢の生き残りが捨て身の反撃。信長の兄・信広ら織田一門多数が戦死。

11

9月29日

信長、報復として残る屋長島・中江の砦を焼き討ち。老若男女2万人が焼死したと伝わる。

35


第一章:蜂起と第一次長島侵攻(元亀2年/1571年)― 信長の蹉跌

長島一向一揆の狼煙は、信長が最大の窮地に陥っていたタイミングで上がった。元亀元年(1570年)11月、信長が近江で浅井・朝倉連合軍と対峙し、身動きが取れない状況(志賀の陣)を見計らい、願証寺証意に率いられた一揆勢は蜂起した 36 。彼らの最初の標的は、長島の北方に位置する尾張・小木江城。城を守っていたのは信長の弟・織田信興であったが、数万に膨れ上がった一揆勢の猛攻の前に援軍も無く、奮戦虚しく自害に追い込まれた 8 。弟を殺された信長の怒りは想像に難くない。

翌元亀2年(1571年)5月、浅井・朝倉と和睦し、態勢を立て直した信長は、満を持して報復戦に乗り出す。動員された兵力は5万。軍を三手に分け、信長本隊は津島に、佐久間信盛隊は中筋口から、そして柴田勝家隊は西の太田口から、長島へ向けて怒涛の進撃を開始した 7

しかし、彼らを待ち受けていたのは、天然の要害と化した輪中地帯と、地の利を知り尽くした一揆勢の巧みな戦術であった。織田軍は、川や沼地に阻まれ、点在する砦の堅い守りの前に攻めあぐね、周辺の村々に放火するだけに留まった 7 。攻略を諦めた信長が5月16日に撤退を命じると、一揆勢の真骨頂が発揮される。彼らは織田軍の撤退路、特に山と川に挟まれた隘路に鉄砲隊や弓兵を配備し、待ち伏せ攻撃を敢行した 22 。信長本隊と佐久間隊はかろうじて脱出に成功したが、最後尾で全軍の撤退を支える殿(しんがり)を務めた柴田勝家隊は、集中砲火を浴びて壊滅的な被害を受けた。勝家自身も負傷し、彼に代わって殿を務めた織田家重臣で美濃三人衆の一人、氏家卜全(直元)は、この乱戦の中で壮絶な戦死を遂げた 11

この第一次侵攻は、信長にとって紛れもない惨敗であった。この戦いを通じて、長島一向一揆が単なる農民の反乱ではなく、高度な戦術と高い防衛能力を持つ恐るべき敵であることを、信長は骨身に染みて知ることとなった 11

第二章:包囲網の狭小化と第二次長島侵攻(天正元年/1573年)― 兵糧線上の攻防

第一次侵攻の失敗から2年、信長は長島攻略の戦略を大きく転換させる。天正元年(1573年)8月、長年の宿敵であった浅井・朝倉両氏を滅ぼし、後背の憂いを断った信長は、休む間もなく9月に二度目の長島侵攻を開始した 11

今回の作戦の主眼は、長島本体への直接攻撃ではなく、その周辺に点在し、一揆に味方する在地領主たちの城を一つずつ確実に潰していくことであった。柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀といった宿将たちが率いる織田軍は、西別所城、坂井城などを次々と攻略 11 。これにより、長島は外部からの支援を断たれ、徐々に孤立していく 7

この第二次侵攻で特に焦点となったのが、海上補給路、すなわち「兵糧線」をめぐる攻防であった。信長は第一次侵攻の失敗から、伊勢湾の制海権の重要性を痛感しており、事前に伊勢大湊の会合衆(自治商人組織)に軍用船の供出を命じていた 11 。しかし、大湊の商人たちは、信長の支配が自らの自治を脅かすことを警戒し、長島側に同情的で、船の調達は難航した 11 。後に、大湊の船がひそかに一揆方の武将・日根野弘就の要請に応じ、女子供などの非戦闘員を輸送していたことが発覚する。これに激怒した信長は、協力した船主を見せしめとして処刑 11 。軍事力のみならず、経済的な締め付けによっても長島の補給路を断つという、信長の冷徹な戦略が窺える。

結局、水上からの完全封鎖が不十分と判断した信長は、今回も長島への直接攻撃を断念し、10月25日に撤退を開始する。すると、またしても一揆勢は多芸山でこれを待ち伏せた。折悪しく降り出した雨で織田軍自慢の鉄砲隊は威力を失い、泥濘の中での白兵戦となった 11 。この激しい追撃戦で、殿を務めた信長の重臣・林秀貞の子である林通政が討死するという、またしても痛い犠牲を払うことになった 11

第三章:殲滅戦 ― 第三次長島侵攻(天正2年/1574年)― 地獄絵図

二度の侵攻を退けられた信長の怒りと執念は、天正2年(1574年)7月、史上稀に見る大規模な殲滅作戦となって爆発する。信長は、畿内の明智光秀や越前の羽柴秀吉など、一部の将を除いた織田軍の総力を結集させた 16 。その兵力は8万とも12万ともいわれ、織田家の戦史上でも最大級の動員であった 7 。さらに、九鬼嘉隆率いる鉄甲船を含む大船団を動員し、水陸から長島を完全に包囲する鉄壁の布陣を敷いた 11

作戦は、圧倒的な物量による正攻法であった。7月14日に攻撃が開始されると、織田軍は外周の砦を次々と攻略。抵抗する門徒を撫で斬りにし、一揆勢を長島・屋長島・中江といった中心部の城砦へと追い込んでいった 36 。大鉄砲による砲撃も加えられ、砦の櫓や塀を破壊し、一揆勢に心理的な圧迫を与えた 28 。そして、包囲網が完成すると、信長は完全な兵糧攻めに移行した。食料の補給を完全に断たれた城内では、やがて餓死者が続出し、地獄の様相を呈したと記録されている 36

そして9月29日、運命の日が訪れる。飢餓に耐えかねた長島城の一揆勢は、ついに城内の者たちの助命を条件に降伏を申し入れた。信長はこれを承諾した 36 。しかし、これは非情な罠であった。安心した門徒たちが、住職の顕忍らに率いられて城から船で退去しようとしたその瞬間、信長は一斉射撃を命じたのである 9 。約束を信じた人々は次々と撃ち殺され、川は血に染まった。この騙し討ちで、少年住職・顕忍や指揮官の下間頼旦も命を落とした。

だが、物語はここで終わらない。この裏切りと虐殺に激高した生き残りの門徒約800人が、裸で刀を抜き、死を覚悟して織田軍に最後の突撃を敢行した 28 。進むも地獄、退くも地獄。彼らの捨て身の反撃は凄まじく、油断していた織田軍に襲いかかり、信長の兄・織田信広、弟・秀成、叔父・信次といった織田一門の将を多数討ち取るという、信長にとって最大の屈辱ともいえる大損害を与えた 11

一門の多くを殺され、怒りが頂点に達した信長は、もはや人としての情を完全に捨て去る。彼は、まだ抵抗を続けていた屋長島と中江の二つの砦の周囲を幾重にも柵で囲んで逃げ道を完全に塞ぐと、四方から火を放つよう命じた 11 。阿鼻叫喚の中、砦にいた老若男女およそ2万人が、一人残らず生きたまま焼き殺されたと『信長公記』は伝えている 8 。こうして、4年間にわたる長島の抵抗は、戦国史上最も凄惨な殲滅戦によって、その幕を閉じたのである。

この一連の戦いの経過は、信長の合理性と冷酷さの両側面を浮き彫りにする。第一次侵攻の失敗から学び、第二次では兵站攻撃へと戦術を修正し、第三次では圧倒的物量による包囲と兵糧攻めという最も確実な手段を選択した。これは合理的な判断である。しかし、最終的に彼が選んだ「殲滅」という手段は、単なる復讐心だけでは説明できない。それは、「進者往生極楽、退者無間地獄」の教えに殉じ、世俗的な大名の論理が一切通用しない一向一揆という特異な敵に対し、信長が下した冷徹な政治的・軍事的帰結であった 52 。宗教的権威を盾に自らの支配に決して服さない勢力を、物理的に地上から消滅させること。それによって、自らの権威の絶対性を天下に示すこと。これこそが、近世的な統一権力への移行期における、苛烈な「秩序の創出」行為だったのである 54

第四部:一揆を支えた者、敵対した者 ― 周辺勢力の動向

長島一向一揆の4年間にわたる抵抗は、彼ら自身の結束力のみならず、外部の多様な勢力との連携によって支えられていた。信長包囲網の一翼を担う彼らは、北伊勢や尾張の在地豪族、さらには紀州の傭兵集団といった同盟者を得る一方で、地域の経済を握る商人衆との関係においては、その協力と対立が戦局を大きく左右した。

第一章:一揆の同盟勢力 ― 反信長ネットワーク

長島一向一揆は、孤立した存在ではなかった。彼らは、信長に敵対する様々な勢力と連携し、広域なネットワークを形成していた。

その代表格が、 北勢四十八家 と呼ばれる北伊勢の在地領主連合である 11 。彼らは、急速に伊勢に勢力を伸ばす織田家に対して強い警戒感を抱いており、その一部が一揆に呼応して蜂起した。しかし、彼らの結束は一枚岩ではなかった。信長による第二次侵攻の際には、春日部氏や赤堀氏などが早々に降伏する一方で、最後まで抵抗を続ける者もおり、地域の覇権をめぐる各家の複雑な思惑が交錯していた 11

尾張西部で勢力を誇った 服部党 も、一揆の強力な同盟者であった 33 。服部友貞(政光)らに率いられたこの一族は、木曽三川の水運を掌握する水軍力を有しており、信長とは長年の対立関係にあった 3 。彼らは一向宗の門徒でもあり、信仰と利害の一致から一揆に加担。その水上戦力は、輪中地帯での防衛戦において大きな力となった 37

さらに、遠く紀州からは、当時最強の鉄砲傭兵集団として名を馳せた 雑賀衆 が馳せ参じた 11 。彼らの多くは熱心な一向宗門徒であり、本願寺からの要請という宗教的な動機と、傭兵としての経済的な動機が結びつき、長島へと渡った 57 。彼らがもたらした最新の鉄砲技術と高い戦闘能力は、特に第一次侵攻において織田軍を大いに苦しめた 11

このように、長島一向一揆は、北伊勢の国人、尾張の水軍、紀州の傭兵といった多様な勢力との連携によって、その軍事力を維持・強化していたのである。

第二章:経済的支援と対立 ― 伊勢大湊会合衆

軍事的な同盟関係と並行して、一揆の存続に極めて重要な役割を果たしたのが、経済的な支援体制であった。その鍵を握っていたのが、伊勢湾の海上交通と商業を支配する自治都市・ 伊勢大湊の会合衆 (えごうしゅう)であった 59

堺の会合衆と同様に、大湊の商人たちもまた、信長の強権的な支配が自らの自治権や商業的利益を脅かすことを強く警戒していた 60 。そのため、彼らは当初、長島一向一揆に対して同情的な立場をとり、水面下で船を提供して物資や人員の輸送を助けていたのである 11 。この海上からの補給ルートこそが、陸路からの攻撃に備える一揆勢にとっての生命線であった。

信長がこの点を見逃すはずはなかった。第二次侵攻が思うように進まなかった原因の一つが、大湊の非協力にあると判断した信長は、ついに強硬手段に打って出る 11 。彼は、一揆の将・日根野弘就の要請で女子供を船で輸送した大湊の船主・福島親子を捕らえ、「曲事である」として見せしめに処刑した 11

この苛烈な処置は、「長島に与する者は死罪」という信長の断固たる意志を伊勢湾の船主たちに知らしめ、彼らを恐怖させた 11 。これにより、大湊から長島への支援は事実上断絶。一揆勢の兵站は完全に断ち切られ、経済的な孤立が深まっていった。これは、信長が単なる軍事力だけでなく、流通と経済の掌握という、より高度な戦略を用いて敵を追い詰めていく過程を示す、象徴的な出来事であった。

第五部:灰燼からの再生と歴史的意義

天正2年(1574年)9月、織田信長による殲滅戦によって、長島の一向宗門徒コミュニティは物理的に地上から消滅した。しかし、その悲劇は願証寺という寺院の完全な断絶を意味するものではなかった。灰燼の中から再生の物語が始まると共に、この事件は戦国史に消えることのない深い爪痕を残した。

第一章:壊滅、そして願証寺の再興

あの地獄絵図のような殲滅戦のさなか、一つの奇跡が起きていた。一揆の象徴であった5世住職・顕忍の弟で、当時わずか2歳であった顕恵(けんえ)が、家臣の手によって混乱の中から救出され、大坂の石山本願寺へと無事送り届けられていたのである 10 。本願寺は彼を願証寺の正統な後継者と認め、これにより、長島願証寺の法灯はかろうじて未来へと繋がれることになった。

一揆壊滅から10年後の天正12年(1584年)頃、本能寺の変を経て時代が大きく動く中、織田信雄の許可を得て、願証寺は尾張国清洲の地に再建された 10 。その後、江戸時代に入ると、7世准恵の代に伊勢国桑名に寺基を復興。さらに、かつての拠点であった長島や松阪にも通寺(つうじ)が設けられた 10 。長島の通寺は、又木村(現在の桑名市長島町又木)に建てられ、変遷を経て現在の願證寺となっている 10

一方、一揆の主戦場となった長島城は、鎮圧後に滝川一益に与えられ、江戸時代には長島藩の藩庁が置かれたが、明治維新後に廃城となった 63 。現在、その跡地には長島中部小学校と長島中学校が建ち、往時の面影を留めるものは少ない 66 。また、願証寺が最初に創建された杉江の故地は、明治時代に行われた木曽三川の大規模な河川改修工事(木曽三川分流工事)によって、長良川の川底へと水没してしまった 10

現在、長島の地でこの悲劇を直接的に伝えるのは、又木の願證寺境内に静かに佇む「長島一向一揆殉教之碑」である 7 。この石碑は、信仰のために命を落とした数万の人々の魂を慰め、凄惨な歴史を後世に語り継いでいる。

第二章:長島一向一揆の歴史的考察

長島一向一揆は、単なる地方の反乱ではなく、戦国時代の終焉と近世社会の到来を象徴する、極めて重要な歴史的事件であった。

第一に、この一揆は本願寺と信長の10年以上にわたる 石山合戦と完全に連動した、反信長包囲網の東方における最重要拠点 であった 11 。長島の壊滅は、本願寺教団にとって東海地方の強大な勢力基盤を失うことを意味し、石山合戦全体の戦局に大きな影響を与えた。

第二に、この事件は 信長の天下統一事業における画期 をなす。信長にとって、既存の宗教的権威を掲げて自らの統一政権に服属しない一向一揆は、武力で打倒すべき最大の障害であった 54 。比叡山延暦寺の焼き討ちと並び、長島での徹底的な殲滅戦は、中世的な権威や治外法権(アジール)を武力で否定し、世俗権力による一元的な支配を確立しようとする、信長の強烈な意志の現れであった。それは、中世から近世へと移行する時代の、血塗られた産声でもあった。

最後に、この一揆は 信仰が持つ強大な力と、それが巨大な政治権力と衝突した際の悲劇性 を、最も 극적인形で示している。「進むは往生極楽、退くは無間地獄」という強固な信仰は、門徒たちに死をも恐れぬ驚異的な抵抗力を与えた 52 。しかし、その非妥協的な姿勢こそが、降伏という選択肢を事実上無効化し、結果として信長に「根切り(皆殺し)」という最終手段を選ばせる遠因となった。長島の物語は、信仰の結束力が持つ光と、それが異質な論理とぶつかった際に生み出す影の両面を、我々に突きつけている。

結論:願証寺明俊という問いが照らし出すもの

本報告書の出発点となった「願証寺明俊」という一人の人物をめぐる問い。その探求の旅は、結果として、特定の英雄や指導者の名ではなく、 願証寺4世・証意 5世・顕忍 という二代の住職、そして彼らを取り巻く名もなき門徒、亡命武将、在地豪族たちの、集団的で強固な抵抗の姿を浮かび上がらせた。

「明俊」という名が史料に残らなかった事実は、逆説的にこの一揆の本質を照らし出しているのかもしれない。一揆の指導体制は、証意の死後、下間頼旦や日根野弘就といった外部の専門家が軍事を担うなど、決して単一のカリスマに依存したものではなかった。この指導体制の拡散は、長島一向一揆が一個人の力によって動かされた運動ではなく、 「輪中」という運命共同体と、「一向宗」という絶対的な信仰に深く根差した、民衆全体の総意による抵抗であった ことを強く示唆している。特定の指導者の名が歴史の表層から薄れるほどに、その抵抗はより深く、より根源的な民衆の意志であったと解釈することも可能であろう。

一つの名前の探求は、戦国時代の宗教、政治、社会、地理、そして人間の生と死が織りなす、壮大かつ悲劇的な歴史のタペストリーを解き明かす旅となった。点在する史料の断片を丹念に繋ぎ合わせ、その背後にある構造的な要因と人々の動機を考察すること。これこそが歴史研究の醍醐味であり、本報告書が目指した地平である。

長島の地で起きた450年以上前の出来事は、決して過去の物語ではない。それは、信仰と寛容、共同体と個人、そして権力と抵抗のあり方について、現代に生きる我々に対しても、今なお重い問いを投げかけ続けているのである。

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