最終更新日 2025-05-14

飯富虎昌

飯富虎昌、「甲山の猛虎」の実像

1. 序論:飯富虎昌 – 「甲山の猛虎」

飯富虎昌(おぶ とらまさ、永正元年(1504年)頃 – 永禄8年(1565年))は、日本の戦国時代において、甲斐武田氏に仕えた重臣であり、その勇猛さから「甲山の猛虎」と畏怖された武将である 1 。武田信玄の主要な家臣(宿老)として、数々の合戦で武功を挙げ、武田軍の代名詞ともなった精強な騎馬部隊「赤備え」を最初に率いた人物として知られている 1 。しかし、その輝かしい戦歴は、信玄の嫡男・武田義信の傅役(もりやく)を務めたことから、父子の確執に巻き込まれ、最終的には謀反の疑いをかけられて自刃するという悲劇的な結末を迎えた 1

本報告書は、飯富虎昌の生涯、軍事的業績、武田家における役割、そして歴史的評価について、現存する史料や研究成果に基づき、多角的に考察することを目的とする。虎昌の出自から、武田信虎・信玄の二代にわたる奉公、特に「赤備え」の創設とその意義、主要な合戦における活躍、そして彼の運命を大きく左右した「義信事件」への関与と最期、さらには後世における評価に至るまで、詳細に検討する。

虎昌の生涯は、戦国時代における武将の栄光と悲惨を象徴している。卓越した軍才と主君への長年の奉仕も、一度政治的陰謀や主家の内紛に巻き込まれると、容易にその地位を失い、時には生命すら奪われるという、当時の武家社会の厳しさを示している。彼の武勇は「甲山の猛虎」と称えられ、家中随一の宿老にまで上り詰めたが 1 、最終的には義信事件によってその全てを失った。この事実は、戦国武将にとって軍事的能力だけでなく、複雑な人間関係や政治状況を巧みに読み解く能力がいかに重要であったかを物語っている。

また、虎昌が創始した「赤備え」は、単なる一武将の個人的な部隊編成に留まらず、その後の日本の戦史に大きな影響を与えた。武田軍の象徴となり、徳川家康ら敵対勢力にとって脅威となっただけでなく 1 、山県昌景、井伊直政、真田信繁(幸村)といった名だたる武将たちによって継承・模倣された 4 。これは、「赤備え」が単なる色彩の統一以上の、精鋭部隊としての実力と心理的効果を兼ね備えた軍事的革新であったことを示唆している。虎昌の名は、この「赤備え」と共に、後世に長く記憶されることとなった。

2. 出自と武田家臣としての初期の経歴

飯富虎昌の出自である飯富氏は、甲斐国に根差した武士の一族であった 1 。その本姓は源氏とされ、清和源氏の流れを汲む甲斐源氏の一族であると伝えられている。『尊卑分脈』によれば、源義家の孫にあたる飯富源太忠宗(源忠宗)を初代とするとされる 7 。虎昌は永正元年(1504年)頃、甲斐国飯富村(現在の山梨県)に生まれたとされる 1 。父については飯富道悦、あるいは永正12年(1515年)に戦死した「源四郎」という人物が挙げられており、この源四郎が虎昌及び山県昌景の父であると考えられている 7 。母については不明である 1

虎昌の武田家への出仕は、信玄の父である武田信虎の代からであった 1 。若き日の虎昌は、他の甲斐国人衆と共に信虎に反旗を翻したこともあった。享禄4年(1531年)、今井信元や栗原兵庫らと信虎に反抗したが、敗れて降伏し、許された後は信虎に臣従した 1 。この時期、天文7年(1538年)には寡兵でありながら数で勝る諏訪頼満・村上義清連合軍を破り、自ら97の首級を挙げる武功を立てたとされる 8

虎昌の運命を大きく変えたのは、天文10年(1541年)の武田信虎追放事件であった。この政変において、虎昌は板垣信方や甘利虎泰といった武田家の宿老たちと共に、信虎の嫡男・晴信(後の信玄)を擁立し、信虎を駿河へ追放することに加担した 1 。この功績により、虎昌は信玄の信頼を得て、武田家中で重きをなし、宿老筆頭にまで出世し、武田軍の中核を担う存在となった 1

虎昌の初期の経歴は、戦国武将としてのプラグマティズムと政治的嗅覚の鋭さを示している。一度は主君信虎に反旗を翻しながらも許され、その後、信虎追放という重大な政変においては、将来性のある晴信(信玄)に与することで自らの地位を確固たるものにした。これは、単なる武勇だけでなく、激動の時代を生き抜くための高度な判断力と行動力を彼が有していたことを示唆している。信虎への反乱後に許され、さらに信玄から重用されたという事実は、虎昌の武将としての能力が、過去の反逆行為を補って余りあるほど高く評価されていたことを物語っている。当時の為政者にとって、有能な人材は貴重であり、その能力が自家の勢力拡大に貢献すると判断されれば、過去の経緯に拘らず登用されることは珍しくなかった。虎昌の事例は、まさにその典型と言えるだろう 4

3. 「赤備え」:伝説的部隊の創設

飯富虎昌の名を不朽のものとした最大の功績の一つが、武田軍の精鋭部隊「赤備え」の創設である 1 。虎昌こそが、この伝説的な部隊の「元祖」とされている。

「赤備え」の名の通り、部隊の武具、甲冑、旗指物に至るまで全て赤色(朱色)で統一されていた 1 。この赤色には複数の意味が込められていたと考えられる。まず、戦場において非常に目立つ赤色は、敵に対して強烈な威圧感を与え、味方の士気を高揚させる心理的効果を狙ったものであった 1 。敵兵がその威容に恐れおののいたという逸話も残されている 1 。また、当時、朱色で染められた武具は高価な辰砂(しんしゃ)を顔料としており、武功を立てた者への褒賞として大名から下賜される特別なものであったため、赤備えはエリート部隊の象徴でもあった 6 。一説には、虎昌の鎧は常に敵の返り血で赤く染まっており、洗うのが面倒になったために部隊全体を赤色で統一したという逸話もあるが 1 、これは彼の勇猛さを伝えるための後世の創作の可能性が高い。

部隊の構成員は、主に騎馬武者から成り 6 、武功を立てて名を上げようとする気概に満ちた武家の次男や三男などが中心であったとも言われている 6 。彼らにとって、赤備えの一員であることは誇りであり、その期待に応えるべく勇猛果敢に戦ったであろう。

赤備え創設の具体的な時期や経緯については諸説あるが、一説には天文17年(1548年)の上田原の戦いにおける武田軍の敗北が契機となったとされる 10 。この戦いで板垣信方、甘利虎泰といった重臣を失った虎昌は、部隊の再編と強化の必要性を痛感し、兵の装備を統一し、赤色を基調とした具足と旗印を採用したという 10 。虎昌は日々の厳しい訓練を通じて、号令一下で一糸乱れず行動できる精強な部隊を作り上げることに心血を注いだ 10 。彼の信条は「敵は目で負かせ、己の兵は心で掴め」というものであったと伝えられている 10

赤備えの創設は、単なる軍装の変更に留まらず、高度な軍事的・心理的戦略であったと言える。視覚的な威圧効果、エリート意識の醸成による士気向上、そして武家の次男以下といった上昇志向の強い人材に活躍の場を与えるという社会的な側面も持っていた可能性がある。高価な赤色の武具で部隊全体を統一するということは、虎昌、ひいては信玄による計算された投資であり、その部隊が特別な遊撃部隊であることを内外に示し、高い戦闘成果を期待するものであった。そして実際に、飯富隊の戦果は著しく向上し、武田の精鋭部隊となったと記録されている 1

虎昌の赤備えは、その後の戦国時代の軍装にも大きな影響を与えた。武田家中では山県昌景がこれを継承し、さらに他家においても井伊直政(徳川家)や真田信繁(豊臣家大坂方)などが赤備えの部隊を編成したことは有名である 3 。これにより、「赤備え=精鋭」というイメージが諸大名の間に定着し、虎昌の革新的な試みは、戦国時代の軍事文化における一つの潮流を形成したと言えるだろう。

表1:赤備えの系譜

指揮官

所属勢力

主な活躍時期

特徴・備考

飯富虎昌

武田家

1550年代-1565年

元祖武田赤備え。騎馬隊中心。精鋭部隊としての赤備えの概念を確立。 1

山県昌景

武田家

1565年-1575年

虎昌の部隊を継承。勇猛さで知られ、赤備えの評価をさらに高めた。 6

井伊直政

徳川家

1580年代-1602年

「井伊の赤鬼」。武田遺臣を編入し採用。規律と戦闘力で知られた。 5

真田信繁(幸村)

豊臣家大坂方

1614年-1615年

大坂の陣で赤備えを率いて奮戦。その勇猛果敢な戦いぶりは伝説となった。 3

この表は、飯富虎昌が創始した赤備えという軍事的発明が、彼個人の部隊に留まらず、時代や所属勢力を超えて受け継がれ、発展していったことを示している。これは虎昌の遺した影響の大きさを物語るものである。

4. 信玄軍の柱石:軍功と戦歴

飯富虎昌は、武田信玄の主要な軍事指揮官として、数多くの合戦に参加し、武田家の勢力拡大に大きく貢献した。

主要な合戦と役割

  • 信濃平定戦(信濃国攻め) : 虎昌は、信玄による長期にわたる信濃攻略において、常に最前線で戦った 1
  • 諏訪攻め(天文11年(1542年)頃) : 初めて大軍を率いる立場となり、諏訪湖畔で敵の伏兵を察知して先手を打つなど、戦術的な才能を発揮し名を上げた。この功績により、信玄から「鬼のごとき勘が働く」と評され、「鬼虎昌」の異名を得たとされる 10
  • 上田原の戦い(天文17年(1548年)) : この戦いで武田軍は村上義清の奇襲により大敗を喫し、板垣信方、甘利虎泰といった重臣が討死した。虎昌は最前線ではなく後方に位置し、敗走する兵をまとめて撤退を指揮したと伝えられる 10 。この敗戦が、後の赤備え創設の契機となったという見方がある 10
  • 内山城の攻防(天文22年(1553年)) : 第一次川中島の戦いに関連して、虎昌は内山城(現在の長野県佐久市)の守将を務めた。村上義清軍8千の攻撃に対し、わずか8百の手勢でこれを撃退し、97の首級を挙げたと記録されている 4 。この戦功は、彼の「猛将」としての評価を不動のものとした。
  • 川中島の戦い : 宿敵・上杉謙信との間で繰り広げられた一連の川中島の戦いにも、虎昌は主力として参加した。
  • 第四次川中島の戦い(永禄4年(1561年)) : 最も激戦となったこの戦いにおいて、虎昌は相当数の兵を率いて参陣し、一説には左翼を担ったとされる 10 。彼の率いる赤備え部隊は上杉軍に突撃し、武田本陣が危機に陥った際には救援に向かうなど奮戦した。戦後、信玄から「虎昌、よく働いた」と労いの言葉をかけられたと伝えられている 10
  • その他の軍事活動 : 虎昌の軍歴は多岐にわたり、信濃の内山城や塩田城といった戦略的要衝の城将を任されるなど、信玄からの信頼は厚かった 1

武名と評価

虎昌は「甲山の猛虎」の異名で知られ 1 、その武勇は敵味方双方から恐れられた。「猛将」 1 、「豪傑」 1 と称賛され、個人の戦闘能力も極めて高く、しばしば自ら先陣を切って敵陣に突入し、数多くの首級を挙げたとされる 1 。武田二十四将の一人にも数えられており 2 、これは信玄麾下の名将の中でも特に功績のあった武将として認められていたことを意味する。ただし、義信事件の影響からか、一部の史料や絵図では二十四将から除外されている場合もある 1

虎昌の軍歴は、単なる個人的武勇に留まらず、戦術的な思考の進化をも示している。上田原の敗戦を教訓として赤備えという新たな部隊編制を考案したことは、彼が失敗から学び、革新を生み出す能力を持っていたことを示している。これは、長期にわたって軍事的な成功を収めるために不可欠な資質である。

信玄が虎昌に内山城のような重要拠点の防衛や、川中島の戦いのような大規模合戦における主要部隊の指揮を一貫して任せていた事実は、虎昌の軍事的能力と(義信事件以前の)忠誠心に対する信玄の絶大な信頼を物語っている。このような重責は、最も信頼でき、かつ有能な指揮官にしか与えられないものである。

虎昌の長年にわたる軍功は、信玄による信濃平定から上杉謙信との死闘に至るまで、武田家の勢力拡大と軍事的名声の確立に不可欠な要素であった。彼のキャリアは、武田家の興隆と軌を一にしており、その成功は武田軍の成長と戦闘精神を体現するものであったと言えるだろう。

表2:飯富虎昌の主要な軍事活動年表

年代(和暦)

合戦・軍事活動

虎昌の役割・行動

結果・意義(虎昌及び武田家にとって)

享禄4年(1531年)

信虎への反乱

反乱に参加、敗北後許される。

初期の自己主張。武田家臣として再統合される。 1

天文7年(1538年)

諏訪・村上連合軍との戦い

寡兵で奮戦し多数の首級を挙げる。

卓越した武勇を早期に示す。 8

天文10年(1541年)

武田信虎追放

信玄のクーデターを支持。

信玄政権下での重臣としての地位を確保。 1

天文11年(1542年)頃

諏訪攻略戦

部隊を指揮、伏兵を察知。「鬼虎昌」の異名を得る。

戦術的才能を発揮し、信玄の賞賛を得る。 10

天文17年(1548年)

上田原の戦い

武田軍敗北の際、後衛部隊を指揮。

武田軍の大きな敗北。赤備え構想の契機となったとされる。 10

天文22年(1553年)

内山城防衛戦(第一次川中島の戦い)

800の兵で村上軍8千を撃退、97の首級を挙げる。

個人的な大勝利。「猛将」としての評価を不動のものとする。 4

永禄4年(1561年)

第四次川中島の戦い

赤備えを率いて上杉軍と交戦、本陣救援にも参加。

激戦となった重要合戦で中心的役割を果たす。信玄から労われる。 10

この年表は、飯富虎昌が武田家の主要な軍事行動において、いかに重要な役割を果たしてきたかを示している。彼の武将としての成長と、武田軍における地位の変遷を具体的に追うことができる。

5. 傅役の重責:虎昌と武田義信

飯富虎昌の後半生において極めて重要な役割となったのが、武田信玄の嫡男・義信の傅役(もりやく、後見人・教育係)への任命であった 1 。これは、将来の武田家当主を育成するという重大な任務であり、信玄が虎昌の人格と能力を高く評価していたことの証左である。虎昌はこの役職に抜擢され、宿老筆頭としての地位も確立した 1

傅役としての虎昌の務めは、義信の教育全般に及び、武芸の指導はもちろん、武将としての心得や統率術に至るまで多岐にわたったと考えられる 1 。史料によれば、虎昌と義信の関係は単なる師弟関係を超え、非常に親密で、あたかも父子のようなものであったと伝えられている 1 。義信は虎昌を父のように慕い、虎昌もまた義信を我が子のように思いやり、その成長に心血を注いだとされる 1 。虎昌の薫陶を受けた義信は、勇猛な若武者として成長した 1

しかし、この密接な関係が、後に虎昌を悲劇へと導くことになる。信玄とその嫡男・義信の間には、次第に深刻な亀裂が生じ始めた。その最大の原因は、外交政策、特に今川氏に対する方針の違いであった 1 。義信は今川義元の娘・嶺松院を正室に迎えており、今川家とは姻戚関係にあったため、親今川的な立場をとっていた 16

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討死し、今川家の勢力が急速に衰退すると、信玄は今川領である駿河国への侵攻を計画し始める。これに対し、義信は妻の実家である今川家を支援すべきであると強く主張し、信玄の方針に真っ向から反対した 16 。この政策対立は、父子の間の既存の緊張関係をさらに悪化させ、修復困難なものとしていった 1 。義信が「父上は常に冷酷であられる。わしはもっと情に厚い武将でありたい」と漏らした際に、虎昌がこれを諫めようと試みたという逸話も残されている 10

虎昌が義信の傅役という立場にあったことは、信玄と義信の対立が深刻化する中で、彼を極めて困難な状況に追い込んだ。主君である信玄への忠誠と、傅役として育成し、深い情愛を注いできた義信への忠誠との間で、虎昌は板挟みとなった。これは、封建的な主従関係における典型的なジレンマであり、どちらか一方を選べばもう一方を裏切ることになりかねない状況であった。実際に、信玄と義信が対立すると、虎昌はその立場上、義信を擁護せざるを得なかったと指摘されている 19

信玄と義信の父子間の対立は、単なる政策論争に留まらず、おそらくは気性や指導者像に関する世代間の価値観の違いも背景にあったと考えられる。信玄は老練な現実主義者であり、冷徹な戦略判断を下すことも厭わなかった。一方、若き義信は、より理想主義的、あるいは伝統的な武士の価値観(例えば婚姻による縁を重んじること)に影響されていた可能性がある。勇猛な武将として知られる虎昌が傅役であったことが、結果として義信のこうした伝統的、あるいは情誼を重んじる姿勢を強めた可能性も否定できない。信玄が虎昌を傅役に選んだのは、嫡男に武勇や伝統的な武士の美徳を身につけさせたいという意図があったのかもしれないが、皮肉にもそれが信玄自身の冷徹な現実政治路線との齟齬を生む一因となったとも考えられる。

6. 義信事件:陰謀、忠誠、そして悲劇的結末

永禄7年(1564年)から永禄8年(1565年)にかけて、武田家を揺るがす重大事件、「義信事件」が発生する。これは、飯富虎昌の運命を決定づける悲劇であった。

謀反計画の露見

父・信玄との対立を深めた嫡男・義信は、信玄の失脚、あるいは暗殺を企てたとされる 1 。この謀反計画の具体的な内容や規模については、『甲陽軍鑑』などの軍記物に記述が見られるものの、その詳細や真相については歴史家の間でも議論がある 13 。義信が父・信虎を追放した信玄の先例に倣い、父の追放を画策したとも言われている 16

虎昌の関与 – 解釈の分かれるところ

義信の傅役であり、最も信頼の厚い側近であった虎昌は、この謀反計画に深く関与したとして、その首謀者、あるいは中心人物と見なされた 1 。しかし、虎昌の真意については様々な説が存在する。

一つの説は、虎昌が義信への忠誠心から謀反に加担したというものである。しかし、より複雑な解釈も提示されている。例えば、虎昌が信玄への忠誠と義信への情愛との間で苦悩し、義信を守るために自ら罪を被った、あるいは計画を穏便に収束させるために敢えて弟の山県昌景に情報を漏らしたという説である 1 。この説によれば、虎昌は武田家の分裂という最悪の事態を避けるため、あるいは手塩にかけた義信を庇うために、自己犠牲的な行動をとったとされる 1 。また、義信の不満を察知しつつも事態の悪化を防げず、結果的にスケープゴートにされたという見方も可能である 19

山県昌景の役割

この謀反計画を信玄に密告したのは、虎昌の実弟(あるいは甥ともされる 4 )である山県昌景であったと広く伝えられている 1 。昌景のこの行動は、結果的に信玄の生命を救い、武田家の内乱を防いだとも評価される一方で、実の兄(または叔父)を窮地に陥れるという、非常に苦しい立場での決断であった。一部の説では、昌景は兄・虎昌の意を受けて、計画を信玄に伝えたとも言われている 12

虎昌の逮捕と自刃

謀反計画が露見すると、義信は甲府の東光寺に幽閉された 1 。そして飯富虎昌は逮捕され、永禄8年(1565年)10月15日(あるいは11月7日など諸説あり 1 )、信玄暗殺を企てた罪により切腹を命じられた。享年62歳であった 1 。これにより、輝かしい武功を誇った猛将の生涯は、悲劇的な形で幕を閉じた。

義信事件は、戦国時代の大名家内部における権力闘争の激しさと、当主の戦略的判断と後継者の意見対立が、いかに深刻な事態を招きうるかを示す事例である。信玄の駿河侵攻という拡張政策と、今川家との姻戚関係を重んじる義信の立場との間の溝は埋めがたく、これが謀反計画という形で噴出した。虎昌は、この抗争の渦中で最も困難な立場に置かれた人物の一人であった。

虎昌と昌景の役割に関する諸説の存在は、事件の真相が単純ではなかったこと、あるいは武田家指導部によって事件後の情報がある程度操作された可能性を示唆している。虎昌が自己犠牲を選んだのか、あるいは昌景が兄の意図を汲んで行動したのかは定かではないが、昌景が後に虎昌の部隊を継承し重用された事実 12 を考えると、昌景の行動は最終的に信玄によって肯定的に評価されたと言える。この事件は、武田家内部の複雑な人間関係と忠誠のあり方を浮き彫りにしている。

いずれにせよ、飯富虎昌ほどの重臣が処刑されたという事実は、武田家臣団全体に対して、信玄の絶対的な権威と、主君への謀叛がいかに重大な結果を招くかという強烈な警告となった。これは、信玄が家中の統制を強化し、自らの方針を貫徹するための断固たる措置であったと解釈できる。

7. 事件の余波:飯富氏と赤備えのその後

義信事件と飯富虎昌の死は、飯富氏そのものと、彼が率いた赤備え部隊の運命に大きな影響を与えた。

飯富本家の断絶

飯富虎昌が謀反の首謀者として処刑されたことにより、彼が率いた飯富氏の本流は事実上断絶したか、少なくとも武田家における主要な地位を失った 1 。史料には「飯富氏は謀反人として断絶した」と明記されているものもある 1

虎昌の子らのその後

虎昌には少なくとも二人の息子がいたことが確認されている 1

  • 古屋昌時(ふるや まさとき) : 一人の息子は、古屋昌時(坊磨呂とも)と名乗り、姓を変えて生き延びたとされる。武田信玄の正室・三条夫人と縁のある公家の三条家を頼った、あるいは京都の寺に預けられたなどの伝承があり、古屋姓の子孫が存続したと言われている 8 。山梨県身延町には、虎昌の遺子・古屋弥右衛門昌時の供養塔と伝わる墓が存在し、地元ではそのように語り継がれている 23
  • 飯富左京亮(おぶ さきょうのすけ) / 藤蔵(とうぞう) / 稲蔵(いなぞう) : もう一人の息子は、複数の名で記録されている。
  • 「稲蔵」としては、天文20年(1551年)に軍功を挙げたことが『高白斎記』に見える 7
  • 「左京亮」としては、永禄2年(1559年)の北条氏の分限帳『小田原衆所領役帳』に他国衆として名が記載され、後北条氏との取次役を務めていたことや、天文22年(1553年)の第一次川中島の戦いにおいて信濃苅屋原城への救援として派遣されたことが確認されている 7
  • 義信事件後の左京亮の消息は明確ではないが、一般的に義信事件以降、他の飯富一族は史料上から姿を消すとされている 7

山県昌景と赤備えの継承

虎昌の死後、弟(または甥)の山県昌景は、信玄の命により飯富(または飯富)姓から山県姓に改めた 1 。山県姓は、かつて武田家に仕えた名門の姓であった。そして最も重要なことは、昌景が虎昌の率いた精強な赤備え部隊とその家臣団を継承したことである 12

山県昌景の指揮下で、赤備えはその勇名をさらに高め、武田軍最強の部隊の一つとして敵に恐れられた 4 。昌景自身も武勇に優れた名将であり、赤備えを率いて数々の戦で武功を挙げた。

信玄によるこの措置は、非常に現実的かつ戦略的なものであったと言える。虎昌の直系を「謀反人」として断絶させることで家中の引き締めを図りつつ、その優れた軍事力である赤備えは、信頼できる近親者である昌景に継承させることで、武田軍の戦力低下を防ぎ、むしろ強化した。これは、危機管理と資源活用の両面を考慮した巧みな判断であった。

虎昌の子らが姓を変えたり、表舞台から姿を消したりして生き延びたという伝承は、主家から咎を受けた武家の末路としてしばしば見られるパターンである。一族の汚名を避けるため、あるいは迫害を逃れるために、名前や身分を隠して命脈を保とうとするのは、戦国時代においては一般的な生存戦略の一つであった。

皮肉なことに、山県昌景の下で赤備えがその名声を高めれば高めるほど、その創始者である飯富虎昌の革新的な業績もまた、間接的に歴史に刻まれ続けることになった。山県隊の赤備えが語られる際には、常にその源流としての飯富虎昌の存在が意識されるからである。

8. 歴史的評価と後世への影響

飯富虎昌は、その劇的な生涯と顕著な軍事的功績により、戦国史において特筆すべき人物として評価されている。

軍事能力と指導力の評価

虎昌は、同時代および後世において、「猛将」として広く認識されている 1 。その個人的な武勇は「甲山の猛虎」 1 や「鬼虎昌」 10 といった異名に象徴されるように、伝説的なものであった。赤備えの創設に見られるように、部隊編成や心理戦における革新者でもあった 1 。部下を鼓舞し、統率する能力、そして攻守両面における戦術眼も高く評価されている 4 。ゲーム『信長の野望』シリーズにおける能力値が、彼の戦闘能力の高さを一般的に示す一例として挙げられることもあるが 1 、これはあくまで大衆的なイメージを反映したものと捉えるべきである。

武田二十四将における位置づけ

虎昌は、武田信玄麾下の最も優れた家臣たちを顕彰した「武田二十四将」の一人に数えられるのが一般的であり、これは彼が信玄にとって極めて重要な武将であったことを示している 2 。しかし、義信事件という不名誉な最期を遂げたためか、一部の史料や絵図では二十四将から除外されている場合も見受けられる 1 。この事実は、彼の功績と悲劇的な結末との間で、評価が揺れ動いた可能性を示唆している。

赤備えの永続的影響

虎昌が創始した赤備えは、日本の戦国時代における部隊編成の一つの規範となり、後世に大きな影響を与えた 3 。武田家では山県昌景に引き継がれ、さらに徳川家の井伊直政や、大坂の陣で活躍した真田信繁(幸村)など、名だたる武将たちが赤備えを採用したことは、その軍事的有効性と象徴的価値の高さを物語っている 3 。やがて「赤備え」という言葉は、「精鋭部隊」の代名詞として広く認識されるようになった 6 。飯富虎昌が創始した赤備えは、単なる軍装の色を超え、武将の勇気や強さを象徴する特別な意味を持つようになり、後世の武士たちに大きな影響を与えたのである 3

歴史書や大衆文化における描写

武田氏の興亡を描いた主要な軍記物である『甲陽軍鑑』には、飯富虎昌の活躍や義信事件における役割が詳細に記述されており、彼に関する多くの逸話の源泉となっている 13 。ただし、『甲陽軍鑑』には後世の潤色が含まれる可能性も指摘されており、史料批判的な検討が必要である。

近代以降も、虎昌は小説、NHK大河ドラマ(例:『武田信玄』(1988年)、『風林火山』(2007年))、ビデオゲーム(例:『信長の野望』シリーズ)、浮世絵など、様々な大衆文化の題材として取り上げられてきた 14 。これは、彼の武勇や悲劇的な生涯が、現代に至るまで人々の関心を引きつけていることを示している。

墓所・史跡

飯富虎昌の墓は、山県昌景の墓と共に、山梨県甲斐市の天沢寺(てんたくじ)にある 28 。この寺は、虎昌の招きによって開山されたと伝えられている 28 。また、山梨県甲府市には飯富兵部少輔虎昌屋敷跡の碑が残されている 19

虎昌の歴史的評価は、その卓越した軍事的才能と革新性、そして悲劇的な最期という二面性によって特徴づけられる。武士としての誉れと、主家内の政争による失脚という、戦国武将の栄光と悲哀を体現した人物と言えるだろう。二十四将からの除外例が示すように、その最期が評価に影を落とした側面は否定できないが、赤備えという軍事的遺産は、彼の名を戦国史に不滅のものとして刻み込んだ。

赤備えという概念が、武田家を超えて多くの有力武将に模倣された事実は、虎昌の着想が、部隊の結束力、士気向上、視覚的威圧効果、そしてエリート部隊としての地位の明示といった、軍事組織における普遍的な要素に訴えかけるものであったことを示している。その影響力は、単なる一過性の流行ではなく、戦国時代の軍事思想における一つの到達点であったと評価できる。

また、謀反人の汚名を着せられながらも、大衆文化の中で繰り返し描かれるのは、彼の「甲山の猛虎」としての勇猛なイメージ、赤備えという華々しい創案、そして傅役としての忠誠と苦悩、悲劇的な結末というドラマチックな生涯が、人々の心を捉えるからであろう。彼は、単純な英雄でも裏切り者でもなく、困難な状況下で苦渋の選択を迫られた人間として、複雑な魅力を持つ人物として認識されているのである。

9. 結論:「甲山の猛虎」の再評価

飯富虎昌の生涯を総括すると、彼は戦国時代という激動の時代を象徴する、極めて複雑かつ魅力的な武将であったと言える。

彼の人物像は、まず第一に「猛将」としての側面が際立っている 1 。その武勇は「甲山の猛虎」と称され、数々の戦場で武田軍の勝利に貢献した。同時に、彼は「赤備え」という新たな部隊編制を創始した革新的な指揮官でもあった 1 。その軍事的洞察力は、単なる勇猛さだけでは説明できない、戦略的な思考力を有していたことを示している。

長年にわたり武田信玄の重臣として忠勤に励み、家中でも高い地位を築いたが 1 、その晩年は、信玄と嫡男・義信との間の深刻な対立に巻き込まれるという悲劇に見舞われた。傅役という立場から義信に深く関わった結果、謀反の嫌疑をかけられ、非業の最期を遂げたことは、彼の輝かしいキャリアに暗い影を落としている 1 。義信事件における彼の真意が、義信への純粋な忠誠心だったのか、あるいは破局を回避しようとした結果の自己犠牲だったのか、それとも政治的策謀の犠牲者だったのかについては、史料の制約もあり、今日なお多様な解釈がなされている。

飯富虎昌の再評価においては、その疑いのない軍事的功績と革新性を、公式には「謀反人」とされた最期とを比較検討する必要がある。当時の武田家の公式見解を超えて、彼が置かれた状況の複雑さ、選択肢の限られた中での苦悩を考慮することで、単純な「英雄」または「裏切り者」というレッテル貼りではない、より人間的な理解が可能となる。特に、義信を守ろうとした、あるいは武田家の分裂を防ごうとしたという説 1 は、彼の行動原理を忠誠と情愛の葛藤という観点から捉え直す視点を提供する。

最終的に、飯富虎昌の物語は、封建制度における個人的忠誠(例えば、傅役として育てた義信個人への情愛)と組織的忠誠(武田家全体とその当主である信玄への忠義)とが衝突した際に生じうる悲劇を浮き彫りにしている。これらの忠誠が両立し得なくなった時、いかに過去の功績が大きくとも、個人の運命は翻弄され、破滅的な結果を招きかねない。虎昌の事例は、この封建的主従関係に内在する構造的脆弱性の痛烈な実例と言えるだろう。

彼の不名誉な死にもかかわらず、飯富虎昌が武田軍に果たした貢献、とりわけ赤備えの創設と初期の指揮は、日本の軍事史において特筆すべき業績であり、その影響は後世にまで及んだ 3 。彼は、その勇猛さ、革新性、そして運命の劇的な転変によって、戦国時代を代表する武将の一人として記憶され続けるであろう。飯富虎昌は、まさに時代の激しさと複雑さを体現した人物なのである。

引用文献

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  2. 飯富虎昌の肖像画、名言、年表、子孫を徹底紹介 - 戦国ガイド https://sengoku-g.net/men/view/224
  3. 甲冑の歴史(安土桃山時代~江戸時代)/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/51940/
  4. 武田信虎・信玄に仕えた武田二十四将の一人、赤備えの飯富虎昌! - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=orQdp_zSSgU&t=0s
  5. 【甲冑レンタル】武田の赤備えを追加! https://murakushu.net/blog/2024/03/12/rental_akasonae/
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  8. 飯富虎昌 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%AF%8C%E8%99%8E%E6%98%8C
  9. 飯富虎昌(おぶ とらまさ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%A3%AF%E5%AF%8C%E8%99%8E%E6%98%8C-1064050
  10. 飯富虎昌(おぶ とらまさ) 拙者の履歴書 Vol.195~赤備えの祖 武功と悲運 - note https://note.com/digitaljokers/n/n8e4cf0ff3307
  11. 赤備えの部隊は最強だった!なぜ強い?率いた武将は誰? https://busho.fun/column/red-armor
  12. 山県(飯富)昌景 どうする家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/89780/
  13. 飯富虎昌とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%A3%AF%E5%AF%8C%E8%99%8E%E6%98%8C
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  20. 武田軍の最高指揮官・山県昌景が辿った生涯|家康が恐れた、最強 ... https://serai.jp/hobby/1122624
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