本報告は、日本の戦国時代に尾張国で活動した武将、飯尾定宗(いいのお さだむね)について、現存する史料に基づき、その出自、生涯、桶狭間の戦いにおける役割と最期、そして彼の子孫の動向に至るまでを詳細に調査し、総合的な人物像を提示することを目的とする。
飯尾定宗に関しては、織田信秀の従兄弟であり、織田信長の家臣として仕え、尾張守護斯波氏の一族とされる飯尾家の養子となったこと、そして永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて、鷲津砦を守って今川軍と戦い、壮烈な戦死を遂げたことなどが、一定の知識として共有されている。本報告では、これらの情報を基盤としつつ、各側面の詳細、歴史的背景、そして諸説の検討を通じて、より立体的で深みのある飯尾定宗像を明らかにすることを目指す。
特に、彼の出自に関する記録の錯綜、桶狭間の戦いという歴史的転換点における具体的な役割とその死の意義、さらには彼の死後に一族が辿った道筋など、断片的な情報しか残されていない部分についても、現存する史料を丹念に読み解き、歴史的文脈の中に位置づけることで、その実像に迫りたい。
飯尾定宗の人物像を理解する上で、まず彼の出自と、彼が名を継いだ飯尾家について明らかにする必要がある。彼の血縁関係、特に織田氏との繋がりや、飯尾家への養子入りの背景には、戦国時代特有の複雑な人間関係と戦略的意図が垣間見える。
飯尾定宗の出自、とりわけ織田氏との血縁関係については、諸説が存在し、その正確な系譜は必ずしも明確ではない。
定宗の実父とされる人物については、主に織田敏定(おだ としさだ)または織田敏宗(おだ としむね)の名が挙げられている 1 。『尾張志』中島郡の条には、「織田敏定の二男飯尾左馬助敏宗、その子近江守定宗」という記述が見られ 2 、これが事実であれば、敏定の次男が敏宗であり、その敏宗の子が定宗ということになる。しかし、他の史料では単に「織田敏定の子」 3 、あるいは「織田敏宗の子」 1 とするものもあり、情報が錯綜している。
織田信秀(織田信長の父)との関係については、「従兄弟」であったとされている 1 。この関係性を上記の父親説と照らし合わせて検討すると、年代的な整合性が課題となる。織田敏定、飯尾定宗、そして定宗の子である飯尾尚清の活動年代を考慮すると、「敏定の孫(すなわち敏定の子である某の子)であり、信秀の従兄弟にあたる」とする説が有力視されている 1 。仮に定宗が敏定の直接の子であれば、信秀の叔父となり、その子尚清の年齢との整合性が取りにくくなるためである。
このような系譜の曖昧さは、単に記録が不十分であったというだけでなく、戦国時代における武家社会の流動性や、家系の重要性が政治的立場によって変動し得た当時の状況を反映している可能性がある。主家から分かれた分家や庶流の記録は、宗家のものほど詳細に残されない傾向があり、また、後世に編纂された系図においては、特定の家系を権威づけるため、あるいは逆に目立たなくさせるために、記述が調整されることも少なくなかった。飯尾定宗が飯尾氏へ養子に入ったという事実も、彼の織田家内での立場や、織田宗家との関係性を一層複雑にしている要因の一つと考えられる。織田家自体、弾正忠家、伊勢守家、大和守家など、多くの分家が存在し、その内部関係も複雑であった。このような状況下で、傍流に近い人物の系譜が錯綜するのは、ある意味自然な帰結とも言える。
関連する史料としては、「織田系図」 2 、『尾張志』 2 、『寛政重修諸家譜』 6 などが挙げられるが、それぞれ記述に差異が見られる場合もあるため、慎重な比較検討が求められる。
表1: 飯尾定宗 関係系図(織田氏との関係諸説)
説 |
関係性 |
主な根拠史料 |
『尾張志』記載の説 |
織田敏定 ― 織田敏宗(敏定の二男、飯尾左馬助) ― 飯尾定宗 (敏宗の子、近江守) |
『尾張志』 2 |
有力とされる説(年代的整合性考慮) |
織田敏定 ― 某(定宗の父) ― 飯尾定宗 (敏定の孫)<br> 飯尾定宗 と 織田信秀 は従兄弟の関係 |
1 等の記述に基づく推論 |
その他の説 |
織田敏定 ― 飯尾定宗 (敏定の子) |
3 |
|
織田敏宗 ― 飯尾定宗 (敏宗の子) |
1 |
注意:上表は諸説を整理したものであり、確定的な系譜を示すものではありません。
飯尾定宗は、織田氏の血を引きながら、尾張国の飯尾氏の養子となったとされている。この養子縁組は、彼の生涯において重要な意味を持つ。
定宗が養子に入ったとされる尾張の飯尾氏は、尾張国中島郡奥田(現在の愛知県稲沢市奥田町周辺)を本拠とした土豪であったと考えられている 1 。定宗自身も奥田城主であったと伝えられている 1 。
この尾張飯尾氏が「斯波氏の一族」であるという伝承も存在する 1 。しかし、ある資料では「定宗の実家は織田大和守家であるが、斯波氏の支流、庶流に飯尾姓の者は見当たらない」と指摘されており 4 、斯波氏との直接的な血縁関係は薄いか、あるいは後世に何らかの理由で結び付けられた可能性も考えられる。
定宗が飯尾氏へ養子に入った具体的な経緯や正確な時期については、残念ながら詳細な史料は残されていない。しかし、戦国時代には、家名の存続、領地の継承、あるいは近隣勢力との連携強化といった政略的な目的で養子縁組が行われることは一般的であった。飯尾定宗の養子入りも、単に家名を継ぐという個人的な事情だけでなく、当時の織田家、特に信秀や信長初期の尾張国内における勢力拡大戦略と深く関連していた可能性が考えられる。在地土豪である飯尾氏と縁戚関係を結ぶことは、その支配地域への影響力を円滑に浸透させ、国内の安定化を図る上で有効な手段であった。飯尾氏側にとっても、急速に台頭しつつあった織田氏との結びつきは、自家の存続と社会的地位の向上に繋がるものであったと推測される。このような双方の利害の一致が、養子縁組の背景にあったのかもしれない。
なお、遠江国引馬城(後の浜松城)主であった飯尾連龍(いのお つらたつ)に代表される遠江国の飯尾氏とは区別して考える必要がある。尾張の飯尾氏が織田氏の一族(あるいは平姓を称したか)であるのに対し、遠江の飯尾氏は三善姓を称しており、その出自は異なるとされている 9 。したがって、両飯尾氏の間に直接的な血縁関係は認められない。
飯尾定宗の家族構成についても、断片的ながら記録が残されている。特に、彼の妻の出自は注目に値する。
定宗の正室は、室町幕府の管領を務めた細川京兆家の当主、細川晴元(ほそかわ はるもと)の娘であったと伝えられている 1 。この婚姻は、当時の織田家の立場や、一家臣であった定宗の地位を考えると、非常に興味深い。細川京兆家は、定宗の時代にはかつての勢いを失いつつあったとはいえ、依然として中央における名門としての権威を保持していた。
ある考察によれば、定宗の嫡男・尚清の生年(享禄元年、1528年)と細川晴元の年齢(永正十一年、1514年生まれ)を考慮すると、晴元の娘が尚清の実母であるとは考えにくく、定宗の継室であった可能性が高いとされている 10 。もしこの推測が正しければ、定宗がある程度の地位を確立した後、あるいは主君である織田信長の勢力が伸長し、中央との繋がりを模索する中で、この名家との縁組が実現したのかもしれない。これは、織田家、あるいは定宗個人が、中央政界への足がかりや家格の向上を意図した政略的な婚姻であった可能性を示唆している。
定宗の子としては、以下の人物が知られている。
また、 10 には「定宗の娘の一人が、柴田勝家の正室に入った」という記述が見られるが、柴田勝家の正室としては織田信長の妹であるお市の方が広く知られており、この説の信憑性については慎重な検討が必要である。他の有力な史料による裏付けが乏しいのが現状である。
孫の代としては、飯尾尚清の養女(星合具泰室)の存在が記録されている 1 。
飯尾定宗の生涯は、織田信長の家臣として、戦国の動乱期を駆け抜けた武将の典型とも言える。特に桶狭間の戦いにおける彼の行動は、その名を歴史に刻むこととなった。
表2: 飯尾定宗 略年表
年代(和暦) |
年代(西暦) |
主な出来事 |
根拠史料例 |
生年不詳 |
不明 |
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弘治二年六月 |
1556年 |
織田信長に従い、守山城攻めに嫡男・尚清と共に従軍 |
1 |
永禄三年五月十九日 |
1560年6月12日 |
桶狭間の戦いにおいて、鷲津砦を守将として守るも、今川軍の猛攻により戦死 |
1 |
官位(推定) |
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近江守、従四位下、侍従など(但し、幕臣飯尾氏との混同の可能性も指摘される) |
1 (混同の可能性については本文参照) |
飯尾定宗がいつ頃から織田信長に仕えたのか、その正確な時期を特定する史料は乏しい。しかし、尾張国中島郡奥田城主として 1 、信長の家臣団の一翼を担っていたことは確かである。
彼の具体的な活動が史料に現れるのは、弘治二年(1556年)六月のことである。この時、定宗は織田信長に従い、嫡男の尚清と共に守山城攻めに従軍している 1 。守山城は、織田信長の弟・信勝(信行)の謀反に与した織田信光(信長の叔父)の勢力下の城であり、この戦いは信長による尾張統一過程における重要な軍事行動の一つであった。このような戦役に親子で参加していることから、定宗が既に信長の信頼を得て、一定の兵力を指揮する立場にあったことが窺える。
この時期の織田家臣団における飯尾定宗の正確な位置づけを詳らかにすることは困難であるが、後の桶狭間の戦いにおける役割を考えると、信長の主要な軍事作戦に動員される中核的な武将の一人であったと推測される。
飯尾定宗の名を不朽のものとしたのは、永禄三年(1560年)五月十九日の桶狭間の戦いにおける鷲津砦での壮絶な戦死である。
この戦いに先立ち、織田信長は、今川方に寝返った山口教継が守る鳴海城と、今川方の重要拠点であった大高城を孤立させるため、これらの城の周囲に複数の砦を築いた 16 。鷲津砦もその一つであり、大高城の東約800メートルの地点に位置し 17 、丸根砦と共に大高城への補給路を遮断し、圧力を加える戦略的拠点であった。
信長は、この重要な鷲津砦の守将として、飯尾定宗、その子・尚清、そして定宗の叔父とされる織田秀敏らを配置した 1 。この人選からは、信長が定宗の武勇と忠誠を高く評価し、今川軍の主力が指向する可能性の高い最前線の一つを任せたことが見て取れる。
五月十九日早朝、今川義元本体に先んじて、その先鋒隊が大高城への兵糧入れを成功させると、返す刀で織田方の砦群への攻撃を開始した。鷲津砦には、今川方の重臣・朝比奈泰朝(泰能とも記される 13 )が率いる約2,000の軍勢が押し寄せたとされる 14 。『信長公記』などの記述によれば、今川軍は砦の門扉や柵に火を放つなどして激しく攻め立てた 14 。
飯尾定宗らは寡兵ながらも勇猛に戦ったが、大軍の波状攻撃の前に衆寡敵せず、激戦の末、砦は午前十時頃までに陥落したと記録されている 14 。この戦いで飯尾定宗は討死を遂げ 1 、城兵もことごとく討ち取られるか負傷し、残兵は清洲方面へ敗走したという 14 。嫡男の尚清は辛うじて戦場を離脱したが 12 、織田秀敏もこの戦いで命を落としたとされている 19 。
飯尾定宗らの鷲津砦での戦いは、局地戦としては織田方の敗北であり、定宗自身の死という悲劇的な結果に終わった。しかし、この前哨戦における織田方の激しい抵抗は、今川軍の進軍を遅滞させ、その兵力の一部を確実に消耗させたと考えられる。実際に、織田信長は後に今川軍を評して「宵に食事をして夜通し来て、大高に兵糧を入れ鷲津・丸根にて手を砕き苦労し、疲れた武者である」と述べており 20 、鷲津・丸根砦での戦闘が今川軍に相当の損害と疲労を与えたと認識していたことがわかる。
さらに重要なのは、これらの前哨戦での勝利が、今川義元本体に油断を生じさせた可能性である。『信長公記』の記述を信じるならば、義元は鷲津・丸根砦陥落の報を聞いて上機嫌になり 21 、田楽狭間(桶狭間山)で休息を取り、将兵に酒宴を許したとさえ伝えられる 20 。この油断が、信長による奇襲攻撃を成功させる一因となったことは想像に難くない。したがって、飯尾定宗の死は単なる犬死ではなく、織田信長の本隊による歴史的な勝利への道を開く、戦略的に大きな意味を持つ犠牲であったと評価することができる。彼の忠勇は、結果として主君の窮地を救い、戦局の転換に間接的ながら貢献したと言えるだろう。
なお、『改正三河後風土記』など一部の史料では、鷲津砦の守将を「近江守定宗の弟隠岐守信宗」とする記述も見られるが 22 、『信長公記』の記述の信頼性が高いとされる現代の研究においては、飯尾定宗・尚清父子が中心であったとする説が一般的である。
飯尾定宗が戦死した鷲津砦跡は、現在、名古屋市緑区大高町にあり、大高城跡や丸根砦跡と共に国の史跡に指定され、往時を偲ぶことができる 13 。
飯尾定宗の戦死後、彼の一族がどのような道を辿ったのか。嫡男・尚清を中心に、その後の飯尾家の動向を追う。
父・飯尾定宗と共に鷲津砦で奮戦し、九死に一生を得て敗走した飯尾尚清は 1 、その後も織田信長に仕え、父の遺志を継ぐかのように戦国の世を生き抜いた。
尚清は信長の馬廻衆となり、さらには信長側近の精鋭部隊である母衣衆(赤母衣衆)の一員に抜擢されている 12 。これは、父の忠死に報いると同時に、尚清自身の能力や忠誠心が信長に認められた証左と言えよう。
その後の尚清の活動は、武辺一辺倒ではなく、むしろ吏僚的な側面が強かったとされている。石山合戦や三木合戦においては検視役を務めるなど 12 、実務能力を発揮した。一方で、天正二年(1574年)七月の伊勢長島一向一揆攻めにも参陣しており 12 、武将としての役割も果たしていた。
天正十年(1582年)、本能寺の変という未曾有の大事件が発生し、この時、尚清の嫡男であった飯尾敏成が織田信忠に殉じて討死するという悲劇に見舞われた 12 。
信長の死後は、その次男である織田信雄に仕え、2200貫文の知行を得た 12 。その後、天下統一を進める羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕官し、天正十五年(1587年)には正五位上に叙せられ、天正十八年(1590年)には従四位下・侍従に任じられるなど、一定の地位を保持した 12 。天正十九年(1591年)二月二十二日、尚清は六十三歳でその生涯を閉じた 12 。
飯尾尚清の生涯は、父の戦死という大きな悲劇を乗り越え、織田信長、織田信雄、そして豊臣秀吉という、目まぐるしく変わる主君に仕え抜いた、戦国武将の一つの典型を示している。特に信長の下で馬廻衆、母衣衆という近習としてキャリアを再スタートさせ、吏僚としても活動した点は、信長家臣団の能力主義的な側面や、武功だけでなく実務能力も重視されたことを反映していると考えられる。本能寺の変という激動の時代を経験し、最終的に秀吉政権下で侍従という官位を得て生涯を終えたことは、彼の処世術や実務能力が高く評価されていた証左と言えるだろう。父・定宗の忠勇の血は、形を変えながらも息子・尚清の中に受け継がれ、激動の時代を生き抜く力となったのである。
飯尾定宗には、嫡男・尚清の他に、次男として飯尾重宗(彦三郎、敏宗とも)がいた。重宗は天文九年(1540年)の生まれで、織田信長の嫡男・信忠に出仕していた 10 。しかし、天正十年(1582年)の本能寺の変の際には信忠に随行しておらず、主君の横死を知ると出家したと伝えられている 10 。
『織田系図』には「(飯尾定宗の)弟彦三郎敏宗(飯尾左馬助)─宗康」という系譜が記されており 2 、これは重宗(あるいは敏宗と同一人物か)の系統が後世に繋がったことを示唆している。
飯尾尚清の死後、家督は弟である重宗が継いだとする記述がある 12 。また、尚清の次男・宗敏は、重宗の子である敏隆の養子になったとも伝えられている 12 。
さらに、尾張国中島郡の奥田城主であった飯尾家の家督について、定宗の次男である飯尾重宗(1540年~1616年7月4日)が相続し、その後、加賀国へ移り、奥田城は廃城になったという伝承も存在する 5 。この情報が事実であれば、飯尾氏の一部は加賀藩に仕えた可能性が考えられるが、定宗の系統が具体的に加賀藩でどのように続いたかを示す直接的な史料は現在のところ確認されていない。
別の史料によれば、尚清の嫡流(長男・敏成が本能寺の変で戦死したため)は絶えたものの、弟である重宗の系統が続いたとされる 23 。重宗には嫡子・敏隆がいたが早世したため、敏成(尚清の子)の弟を養子とし、永沼(ながぬま)と名乗らせたという 23 。この永沼氏の系統が、飯尾氏の血を後世に伝えた一支流となった可能性がある。
このように、飯尾定宗の子孫たちは、本能寺の変という大きな時代の転換点を経て、それぞれ異なる道を歩んだようである。嫡男・尚清は豊臣政権下で一定の地位を築き、次男・重宗の系統も形を変えながら存続を試みたことが窺える。
飯尾定宗の生涯を総括すると、彼は織田信秀・信長という二代の主に仕え、特に信長初期の尾張統一戦や、その後の今川氏との決戦において、重要な役割を果たした武将であったと言える。
彼の出自については、織田敏定の孫で信秀の従兄弟にあたるとする説が有力視されるものの、依然として諸説が混在しており、戦国期の武家の系譜の複雑さを物語っている。また、一部で室町幕府将軍の直臣である相伴衆に加わったとされる記述が見られるが 1 、これはおそらく同姓の別人である幕府に仕えた飯尾氏 9 との混同である可能性が高い。史料を解釈する際には、このような混同に注意を払う必要がある。
飯尾定宗の歴史的評価を決定づけるのは、やはり桶狭間の戦いにおける鷲津砦での奮戦と戦死であろう。この戦いは、局地的に見れば織田方の敗北であり、定宗自身も命を落とすという悲劇的な結末を迎えた。しかし、彼らの示した激しい抵抗は、今川軍の進撃を遅らせ、その兵力を削ぎ、そして何よりも今川義元本体の油断を誘った可能性がある。その結果として、織田信長による桶狭間での奇襲成功、ひいては戦国時代の大きな転換点となる今川義元の討ち取りに、間接的ながらも貢献したと評価できる。彼の忠勇な戦いぶりは、決して無駄死にではなく、主君の勝利のために礎となった、戦国武将の生き様の一端を示すものとして記憶されるべきである。
断片的な史料から浮かび上がる飯尾定宗の人物像は、信長から信頼され、国家の存亡を左右する重要な局面で最前線を任されるほどの武勇と忠誠心を備えた武将である。彼の名は、桶狭間の戦いという華々しい勝利の陰に隠れがちではあるが、その勝利を導いた数多くの犠牲と奮闘の一つとして、正当に評価される必要があるだろう。今後、新たな史料の発見や研究の進展によって、飯尾定宗という一人の武将の実像が、より鮮明になることが期待される。