信濃の国人領主・飯島為次は、伊那街道を掌握し経済力を背景に「春近五人衆」を率いた。武田氏に属し、高遠城の戦いで討死。子孫は帰農し、地域の指導者として存続した。
戦国時代の日本列島は、数多の武将たちが覇を競う動乱の時代であった。その歴史は、織田信長や武田信玄といった天下に名を轟かせた英雄たちの物語として語られることが多い。しかし、その華々しい歴史の陰には、自らの所領と一族の存続をかけて激動の時代を生き抜いた、無数の国人領主たちの存在があった。本報告書が主題とする「飯島為政」も、そうした国人領主の一人として、信濃国伊那谷にその名を刻んだ人物である。
利用者様から提示された情報によれば、飯島為政は1497年から1586年前後の人物とされ、国人衆の頭領として一軍を率いる影響力を持ち、軍馬や鉄砲の売買にも関与したと伝わる。この人物像は、戦国時代の地方武士の姿を的確に捉えている。しかし、この「飯島為政」という名を持つ人物の具体的な足跡を、信頼性の高い史料の中から追跡する作業は、困難を極める。
その一方で、長野県立歴史館が所蔵する、飯島氏の子孫から寄贈された一次史料群「伊那郡石曽根村飯島家資料」の目録には、極めて重要な記述が存在する 1 。そこには、戦国時代の飯島氏当主として、天正10年(1582年)に織田信忠軍との高遠城の戦いで討死した人物の名が「
飯島民部少輔為次(いいじま みんぶのしょう ためつぐ) 」と明確に記されているのである 1 。その没年、役職、そして最期の状況は、利用者様が提示された「為政」の人物像と驚くほど重なり合う。
この「為政」と「為次」という二つの名前の間に存在する相違は、本報告書の探求の出発点となる。両者は果たして同一人物なのか、それとも別人なのか。あるいは、一方が通称や異称、後世の誤伝であった可能性はないか。この歴史の霧の中に浮かび上がる謎を解明することこそ、一人の国人領主の生涯を真に理解する鍵となる。本報告書は、史料上の人物である「飯島為次」の生涯を徹底的に追跡し、その実像に迫るとともに、彼が生きた時代の伊那谷の政治・経済・軍事状況を多角的に分析する。そして、その探求の果てに、「飯島為政」という呼称が持つ意味についても、可能な限りの考察を試みるものである。
戦国時代の武士社会において、一族の出自や家格は、その勢力を規定する上で極めて重要な要素であった。飯島氏が伊那谷の有力国人として存在感を示し得た背景には、単なる軍事力だけでなく、その権威の源泉となる由緒正しい血脈があった。
飯島氏の祖は、清和源氏の中でも信濃に土着した満快流源氏に遡る 1 。その直系は、平安時代後期に伊那郡片切郷を本拠とした片切氏である 2 。保元の乱(1156年)で源義朝方に属して戦死した片切為綱の子、為光が飯島郷を与えられ、「飯島太郎」を称したのが飯島氏の始まりとされる 2 。このように、飯島氏は信濃源氏の名門・片切氏から分かれた支流であり、この事実は、周辺の在地領主に対する優位性や、地域社会における求心力の源泉となった。
鎌倉時代に入ると、飯島氏は幕府に仕える御家人として、その歴史に確かな足跡を残す。特に承久の乱(1221年)においては幕府方として戦功を挙げ、その恩賞として一族の一部が出雲国三沢郷(現在の島根県)の地頭職を与えられた 1 。この西遷した一族が、後に同地で勢力を伸ばす三沢氏の祖となったことは、飯島氏が鎌倉幕府体制下で確固たる地位を築いていたことを物語っている 4 。
一方で、信濃国に留まった飯島氏本宗家は、南北朝時代から室町時代にかけても、伊那谷の有力武士団として活動を続けた。この時期、信濃国は守護である小笠原氏の支配下にあったが、飯島氏はその配下として、永享12年(1440年)の結城合戦など、幕府の軍事動員にも応じている 1 。これは、飯島氏が単なる一在地領主ではなく、信濃守護家の軍事体制に組み込まれた公的な武士であったことを示している。
このように、飯島氏は平安時代後期から戦国時代に至るまで、清和源氏という権威ある血筋と、鎌倉御家人としての実績、そして信濃守護家に仕えたという歴史を積み重ねてきた。これらはいわば一族の「歴史的資本」とも言うべきものであり、後の戦国時代の混沌の中で、他の国人衆を束ね、武田氏のような巨大勢力と渡り合うための無形の資産となったのである。
飯島為次が生きた16世紀の信濃国、とりわけ伊那谷は、既存の権威が揺らぎ、在地領主たちが自立を強める「国人割拠」の様相を呈していた。この地域の地政学的な環境を理解することは、飯島氏の動向を読み解く上で不可欠である。
室町時代を通じて信濃国を統治してきた守護・小笠原氏は、一族内の抗争や周辺勢力との戦いの中で次第にその力を減退させていった 4 。特に伊那谷は、府中の小笠原宗家から地理的に離れていたこともあり、守護の支配力が及びにくい権力の空白地帯と化していた。この混乱に乗じて頭角を現したのが、飯島氏をはじめとする国人衆、いわゆる「伊那衆」であった 5 。彼らは、守護の権威に代わって地域の事実上の支配者となり、互いに連携し、あるいは相争いながら、自らの所領の維持・拡大を図った。
飯島氏の本拠地は、その名を冠した飯島郷に築かれた飯島城であった 7 。この城は、天竜川の西岸に広がる河岸段丘の先端に位置し、南を子生沢川、北を相の沢川に挟まれた天然の要害であった 3 。城の縄張りは広大で、主郭から東の城山まで複数の曲輪が連なり、天竜川を見下ろす戦略的な拠点であったことが窺える 8 。
さらに重要なのは、飯島城の城下町が、信濃と三河・遠江を結ぶ重要な交通路であった伊那街道(三州街道)の宿場町「飯島宿」として発展したことである 4 。飯島氏は、この街道を抑えることで、軍事的な優位性のみならず、経済的な利益をも享受することができた。戦国前夜の伊那谷は、まさにこのような国人たちが、それぞれの城と所領を拠点に、独立した勢力圏を形成する、さながら群雄割拠のるつぼだったのである。飯島氏は、その中で生き残りをかけて巧みな舵取りを迫られることとなる。
飯島為次が国人領主として伊那谷に勢力を張る上で、その力の源泉となったのは、軍事同盟と経済基盤という二つの柱であった。これらを分析することで、一地方領主としての彼の具体的な姿が浮かび上がってくる。
第一の柱は、地域の国人衆と結んだ軍事・政治同盟である。飯島氏は、同じく片切氏の支流や周辺の有力国人である片切氏、上穂氏、赤須氏、大嶋氏らと連携し、「春近五人衆」と呼ばれる地域連合体を形成していた 4 。この同盟は、武田氏の記録によれば、合わせて五十騎の軍役を担う能力を持っていたとされ 9 、伊那谷において無視できない強力な軍事ブロックであった。飯島氏は、その中でも中心的な役割を担う盟主格の一人であったと推察される。このような小規模な国人同士の連合は、単独では対抗できない外部の強大な勢力に対処するための、戦国時代に広く見られた生存戦略であった。
第二の、そしてより重要な柱が、その経済基盤である。前述の通り、飯島氏の所領は伊那街道の要衝・飯島宿を内包していた 4 。この街道は、単なる人々の往来の道ではなく、信濃内陸部と太平洋沿岸部を結ぶ経済の大動脈であった。特に「中馬(ちゅうま)」と呼ばれる、馬の背に荷物を載せて運ぶ民間の輸送業が盛んであり、信濃からは米や酒、たばこなどが、外部からは塩や茶、鉄器などが大量に輸送されていた 11 。
飯島氏の力は、土地からの年貢収入だけに依存するものではなかった。街道の支配者として、彼らは宿場町での商業活動から上がる利益や、関銭(通行税)の徴収などを通じて、莫大な富を蓄積していたと考えられる 15 。この経済力こそが、五十騎を動員できる軍事力の源泉であった。兵糧の確保、家臣団の維持、そして武具の購入、そのすべてが安定した財源なしには成り立たない。
利用者様が指摘する「軍馬や鉄砲を売買する者もいた」という伝承は、この文脈で理解することができる。伊那街道で活躍した中馬は、平時においては物資輸送を担うが、有事の際にはそのまま軍馬として転用可能な、潜在的な軍事資源であった 12 。飯島氏は、この中馬輸送のネットワークを掌握することで、軍馬の調達と育成を容易に行えたであろう。また、街道を通じて太平洋側から塩や鉄器といった戦略物資がもたらされたことを考えれば 13 、当時最新鋭の兵器であった鉄砲も、このルートを通じて入手し、あるいは他勢力へ売却することで利益を得ていた蓋然性は極めて高い。飯島為次とは、単なる土豪ではなく、交通路を掌握し、商業活動から利益を得る、経営感覚に優れた国人領主だったのである。
表1:伊那街道(三州街道)における飯島氏の経済的・軍事的役割 |
輸送方向 |
信濃から外部へ |
外部から信濃へ |
中馬輸送 |
16世紀半ば、甲斐国から信濃への侵攻を本格化させた武田信玄の存在は、伊那谷の国人たちにとって、その勢力図を根底から覆す巨大な脅威となった。飯島氏もまた、この歴史の奔流の中で重大な決断を迫られることになる。
天文23年(1554年)、武田軍は伊那郡への大々的な侵攻を開始した 5 。武田軍の圧倒的な軍事力の前に、伊那の国人衆は次々と抵抗を断念していく。その決定打となったのが、伊那南部の拠点であった知久頼元の神之峰城の落城であった 7 。これにより、伊那谷における反武田勢力の抵抗線は事実上崩壊した。
この状況下で、飯島為次は現実的な政治判断を下す。それまで属していた信濃守護・小笠原信定を見限り、宗家筋の片切氏と共に武田氏に降伏し、その軍門に下ったのである 7 。これは、裏切りと見ることもできるが、小領主である国人が、自らの一族と所領を存続させるために取りうる、唯一の選択肢であったとも言える。巨大勢力の前では、旧来の主従関係よりも、現実的な力関係が優先されるのが戦国の常であった。
武田氏への従属後、飯島氏はその支配体制に組み込まれていく。武田信玄は伊那谷を支配する拠点として、北部に高遠城、南部に大島城を置き、現地の国人衆をそれぞれの城の在番衆として再編した 5 。飯島氏は、春近五人衆の一員として、武田軍団の一翼を担うこととなり、高遠城や大島城の守備など、軍役を務める立場となった 4 。
ここで注目すべきは、武田氏が飯島氏ら伊那衆を単なる兵力としてのみ見ていなかった点である。彼らは、伊那谷の地理や人間関係に精通した「現地案内人」であり、何よりも伊那街道の物流ネットワークを熟知した「兵站担当者」でもあった。飯島氏が経済基盤としていた中馬輸送のシステムは、そのまま武田軍の補給路として活用されたと考えられる。特に、騎馬軍団を主力とする武田軍にとって、兵糧や物資を前線へ円滑に輸送する兵站能力は生命線であった。飯島氏らが提供できたのは、五十騎の兵力だけではなく、この兵站能力という、目には見えないが極めて重要な価値であった。これこそが、彼らが武田氏の支配下に入った後も、所領を安堵され、一定の自律性を保ちながら存続し得た大きな理由の一つであろう。
武田氏に属することで一時的な安定を得た飯島氏であったが、その平穏は長くは続かなかった。天正10年(1582年)、天下統一を目前にした織田信長が、その矛先を武田氏に向けたことで、飯島為次の運命は大きく暗転する。
同年2月、織田信長の嫡男・信忠を総大将とする数万の織田軍が、伊那谷へと雪崩れ込んだ 5 。これを手引きしたのは、武田氏の重臣であった木曽義昌の裏切りであった。織田軍の侵攻に対し、武田方の城はなすすべもなく、次々と陥落していく。飯島為次は、子(あるいは弟とされる)の小太郎と共に、まず南の拠点である大島城に籠城して織田軍を迎え撃とうとした 8 。しかし、城内の諸将が戦意を喪失して逃亡したため、大島城は戦うことなく開城されてしまう 5 。
進退窮まった飯島為次親子は、最後の望みを託し、武田氏の伊那支配における最重要拠点である高遠城へと退却した 8 。この時、高遠城を守っていたのは、武田信玄の五男であり、信濃の名門・仁科氏を継いだ仁科五郎盛信であった 5 。城内には、飯島為次をはじめ、最後まで武田家と運命を共にすることを選んだ将兵が集結していた。
3月2日、織田信忠率いる本隊が高遠城を完全に包囲する。降伏勧告を仁科盛信が一蹴すると、織田軍による総攻撃が開始された。圧倒的な兵力差の前に、城兵は奮戦するも、城はわずか一日で落城する 4 。この壮絶な攻防戦の末、城主・仁科盛信をはじめとする城兵のほとんどが討死を遂げた。飯島民部少輔為次と小太郎もまた、この高遠城で武士としての生涯を閉じたのである 1 。
周辺の国人衆が次々と織田方に寝返る中、なぜ飯島為次は最後まで武田方として戦い、玉砕の道を選んだのか。それは単なる武田家への「忠義」だけでは説明がつかないかもしれない。考えられる可能性の一つは、武田家の中枢(信玄の子である仁科盛信)と行動を共にすることで、万が一にも武田家が再興された際の恩賞に望みを繋いだという計算である。あるいは、より現実的には、小領主である自分たちが今さら織田方に降っても、所領を安堵される保証はなく、むしろ裏切り者として冷遇される可能性が高いと判断したのかもしれない。そうであるならば、武田家の譜代家臣として名誉ある死を遂げることこそが、武士としての矜持を保ち、一族の名を後世に残すための、絶望的な状況下における最も合理的な選択だったとも考えられる。彼の最期は、滅びゆく主家と運命を共にした、一人の国人領主の壮絶な生き様を物語っている。
表2:天正10年 高遠城の戦いにおける飯島氏 |
勢力 |
武田方 |
織田方 |
結果 |
当主・飯島為次の壮絶な討死により、戦国武将としての飯島氏の歴史は事実上、幕を閉じた。しかし、「家」としての飯島氏の歴史は、そこでは終わらなかった。一族のその後を追うことは、戦国という時代の終焉が、地方社会にどのような変化をもたらしたかを理解する上で、貴重な示唆を与えてくれる。
高遠城の悲劇の後、為次の死を免れた一族の者たちは離散を余儀なくされた。彼らの一部は、甲州征伐後に旧武田領を巡って勃発した「天正壬午の乱」の混乱の中、徳川家康や、かつての主筋であった小笠原氏を頼って落ち延び、辛うじて命脈を保った 9 。
その後、天下の覇権が豊臣氏から徳川氏へと移る過程で、飯島氏の一族の中には、再び武士として仕官の道を選ぶ者も現れた。彼らは徳川家の家臣となり、関ヶ原の合戦や大坂夏の陣といった天下分け目の戦いにも参陣した記録が残っている 2 。しかし、武士としての復権を目指す道は平坦ではなかった。ある者は彦根藩井伊家に仕官するも長続きせず 4 、最終的に一族の多くは、武士としての生き方を捨て、先祖代々の故地である信濃国伊那郡石曽根村へと帰農する道を選んだ 2 。
ここで特筆すべきは、彼らが単なる一農民になったわけではないという点である。飯島氏は、江戸時代を通じて代々、石曽根村の村政を司る「名主役」を務め、地域の指導者として存続し続けたのである 2 。これは、戦国時代の終焉がもたらした「武士階級の解体と再編」を象徴する事例と言える。飯島氏は、刀を置き、算盤を手に取ることで、新たな時代に適応した。彼らが名主という村の最高責任者の地位に就くことができた背景には、単に読み書き算盤ができたからというだけではない。清和源氏の流れを汲む武士としての由緒ある家格と、中世から続く在地領主として地域に深く根差してきたという社会的な信頼が、大きな役割を果たしたことは想像に難くない。
飯島一族の歴史は、支配の形態が「軍事」から「行政」へと移行した、日本社会の大きな構造転換を、一つの「家」の視点から映し出すミクロな社会史なのである。
我々が今日、200年以上も前の高遠城で散った飯島為次の最期を、これほど具体的に知ることができるのはなぜか。その答えは、彼の子孫が、自らの一族の歴史を意識的に「記録」し、後世に伝えようとした努力の中にこそ見出される。
時代は下り、江戸時代後期。飯島氏の23代当主であった飯島弥兵衛為親(号は為仙)は、地域の知識人として知られ、特に国学者・歌人として優れた才能を発揮した 1 。彼は、山吹領の家老であった片桐為清の娘を妻に迎えるなど、地域の文化人サークルの中でも中心的な存在であった 1 。
この飯島為親が、当時の知的潮流であった国学思想の影響を受け、自らの一族の歴史と由緒をまとめた書物が、『飯島家訓』と『吹上之記』である 1 。国学とは、外来の思想である仏教や儒教が伝来する以前の、日本古来の精神や文化を探求しようとする学問であった。この思想的背景のもと、為親は自家のルーツを遡り、その歴史を体系的に記述しようと試みた。
この営みは、単なる過去の記録の整理ではなかった。それは、武士の身分を失い、名主として生きる飯島家にとって、自らのアイデンティティと誇りを再確認するための、極めて重要な作業であった。特に、戦国乱世の最終局面において、主家である武田家に殉じた先祖・飯島為次の英雄的な最期は、一族の誇りの象徴として、為親の筆によって意味づけられ、「物語」として再構築された。
歴史とは、単なる過去の事実の集積ではない。それは、後世の人々によって常に解釈され、語り継がれることで、新たな意味を与えられていくものである。飯島為次の忠義と悲劇の物語は、子孫である飯島為親という「歴史の継承者」の存在によって、単なる個人的な死から、一族の誇りを象徴する不朽の記憶へと昇華されたのである。我々が手にする『飯島家文書』とは、まさにその歴史継承の営みの結晶なのだ。
本報告書は、「飯島為政」という一人の武将を巡る謎から出発し、史料に基づきその実像である「飯島為次」の生涯を追跡してきた。その調査の結果、飯島為次は、信濃国伊那谷という限定された地域を舞台としながらも、戦国時代の動乱を力強く生き抜いた、典型的な、そして気骨ある国人領主であったことが明らかになった。
彼は、清和源氏片切氏の支流という由緒ある家柄を背景に、地域の国人衆と「春近五人衆」という同盟を結んで軍事力を確保した。同時に、伊那街道という経済の大動脈を掌握し、中馬輸送や商業活動から得られる利益を財源として、その力を確固たるものにした。武田信玄という巨大勢力の侵攻に対しては、旧主を見限って従属するという現実的な判断を下し、その支配体制下で兵站能力という独自の価値を提供することで、一族の存続を図った。そして最期には、滅びゆく武田家と運命を共にし、高遠城で壮絶な討死を遂げた。その生涯は、巨大勢力の狭間で翻弄されながらも、同盟、経済、そして時には名誉を重んじた決断を下した、戦国国人領主の生き様そのものであった。
最後に、本報告書の出発点であった「飯島為政」という呼称の謎について、最終的な考察を加えたい。史料上、天正10年に高遠城で討死した当主が「飯島民部少輔為次」であることは、ほぼ間違いない 1 。では、「為政」という名はどこから来たのか。これにはいくつかの可能性が考えられる。
第一に、後世に伝わる過程での単純な誤伝や誤記の可能性である。
第二に、「為政」が地域でのみ通用した異称や通称であった可能性も否定できない。
第三に、飯島氏の長い歴史の中で、別の時代の同族人物、あるいは近隣の別の武将と混同された可能性も考えられる。
いずれにせよ、現存する信頼性の高い史料が指し示すのは「為次」という名である。しかし、「為政」という呼称の存在そのものが、この人物が一介の地方武士に留まらず、後世までその名が語り継がれるだけの存在であったことを逆説的に示しているとも言えよう。
飯島為次の生涯と、その後の飯島一族の変遷は、我々に戦国時代史の多層的な理解を促す。それは、天下人たちの華々しい物語だけでは捉えきれない、地方社会のダイナミズムと、そこに生きた人々のリアルな姿である。彼ら無数の国人領主たちの存在と、その一つ一つの決断の積み重ねなくして、戦国という時代の多様で複雑な社会構造を真に理解することはできない。飯島為次(為政)の物語は、そのことを我々に力強く教えてくれるのである。