最終更新日 2025-07-25

饅頭屋宗二

戦国乱世に生きた町人学者、饅頭屋宗二の実像

序章:戦国乱世に生きた「町人学者」饅頭屋宗二

戦国時代の動乱期から安土桃山時代にかけて、明応7年(1498年)から天正9年(1581年)までを生きた饅頭屋宗二、本名・林宗二は、日本の歴史上、極めて特異な存在である 1 。彼は家業である饅頭屋を営む一介の商人に留まらず、和漢の学問に深く通じ、自ら著作を執筆し、さらには出版事業まで手がけた当代一流の文化人であった 3 。商人でありながら学者、そして出版人という複数の貌(かお)を持つこの人物の多面的な実像を解き明かすことは、戦国という時代の文化の深層を理解する上で不可欠である。本報告書は、現存する史料を丹念に読み解き、この類稀なる「町人学者」の生涯と業績を徹底的に考察するものである。

宗二が生きた時代は、応仁の乱(1467-1477年)を経て旧来の公家や寺社といった権威が揺らぎ、堺や博多、京都などで経済力を蓄えた「町衆」が新たな文化の担い手として台頭した変革期であった 5 。特に、宗二が活動の拠点とした奈良は、戦乱の京都から多くの公家や文化人が流入し、古都の伝統と新しい気風が交差する、新たな文化の中心地の一つとして機能していた 7 。堺の豪商・津田宗及が茶の湯の世界で大きな影響力を持ったように 9 、宗二の学問探求や出版活動もまた、こうした町衆文化興隆という大きな歴史的潮流の中に位置づけられる。彼の非凡な才能が、奈良という文化的土壌を得て開花したことは想像に難くない。

宗二の人物像を探る上で、興福寺の僧・英俊によって記された年代記『多聞院日記』は極めて重要な史料である 11 。この日記には、宗二の死に際して「天下無比之名仁(てんかむひのめいじん)」、すなわち「天下に比類なき名士」という最大級の賛辞が記されている 4 。この一文は、彼が単なる学識ある商人ではなく、その人格を含めて同時代人から深く尊敬されていたことを物語っており、彼の生涯を貫く精神性を探る上での鍵となる。

饅頭屋宗二の生涯は、一個人の成功物語に留まらない。それは、文化の担い手が公家や僧侶といった伝統的なエリート層から、経済力と旺盛な知的好奇心を持つ町人層へと移行していく、時代のダイナミックな転換を象徴する事例である。家業で得た経済的基盤を元に、本来ならばアクセスが困難であった高度な学問を当代一流の師から学び、その知識を『源氏物語』の注釈書という学術的生産や、『節用集』という実用書の出版・普及へと繋げた宗二の足跡は、町人が文化の単なる消費者や後援者(パトロン)から、自らが文化の生産者・普及者へと飛躍を遂げた画期的な事実を示している。彼の存在は、日本の文化史における大きな構造転換を体現しているのである。

表1:饅頭屋宗二(林宗二)略年譜と主要事績

年代(和暦・西暦)

年齢

家業・商人としての動向

学問・文化活動

関連人物・出来事

典拠

明応7年(1498)

0歳

京都にて、林道太の三男として生まれる。

3

(不明)

奈良に移り住み、家業の饅頭屋を継ぐ。

儒学を清原宣賢、吉田兼右に、連歌・和歌を牡丹花肖柏に師事。

清原宣賢、吉田兼右、牡丹花肖柏

2

(不明)

戦国大名・松永久秀の庇護を受け、南都(奈良)での饅頭の独占販売権を得たとされる。

松永久秀

2

永禄2年(1559)頃

62歳

『源氏物語林逸抄』を自筆で著す(天理大学附属天理図書館所蔵本)。

28

(不明)

いろは引き国語辞書『饅頭屋本節用集』を刊行したとされる。

3

天正3年(1575)

78歳

徳川家康に「本饅頭」を献上したとされる(長篠の戦い)。

徳川家康

15

天正9年7月11日(1581)

84歳

奈良にて死去。『多聞院日記』に「天下無比之名仁」と記される。

多聞院英俊

1

第一章:饅頭屋の系譜――林浄因から宗二へ

第一節:始祖・林浄因の渡来と饅頭の伝来

饅頭屋宗二の文化的背景を理解するためには、その祖先である林浄因(りんじょういん)まで遡る必要がある。浄因は、南北朝時代の貞和5年(1349年)、京都・建仁寺の禅僧・竜山徳見(りょうさんとっけん)に随行して来日した宋人であった 2 。伝承によれば、その家系は中国・宋代の孤高の詩人として知られる林逋(りんぽ)、号は和靖(わせい)の末裔とされている 3 。この出自は、単なる伝説に留まらず、林家が自らを単なる菓子職人の家系ではなく、大陸の文雅な伝統に連なる文化的な一族であると自認していたことを示唆している。

来日後、浄因は奈良に居を構え、故国で習得した製法をもとに、日本で初めて小豆餡を入れた饅頭を創製したと伝えられる 13 。肉食が禁じられていた禅宗寺院の食文化に適応させるため、餡に小豆を用いたこの工夫は画期的であり、奈良の漢國(かんごう)神社の社頭で開いた店はたちまち評判を呼んだ 14 。その名声は都にも届き、足利将軍家を経て宮中にも献上される栄誉を得た。時の帝はその味を深く叡感し、褒美として官女を浄因に嫁がせたという逸話も残る 14 。この伝承は、林家が創業当初から時の権力者と結びつき、高い社会的評価を得ていたことを物語っている。

第二節:「林」と「塩瀬」――一族のアイデンティティと戦略

宗二の姓については、史料によって「林(りん/はやし)」 1 と「塩瀬(しおせ)」 2 の二つの名が記されている。これは一見混乱を招くが、一族の発展の歴史を紐解くと、その背景が見えてくる。林家はその後、京都を拠点とする系統と、奈良を拠点とする系統に分かれた。京都に残った一族は「塩瀬」を屋号として名乗り、宮中や将軍家御用達の格式高い饅頭屋として名を馳せた 15 。一方、宗二の系統は奈良に根を下ろし、家業を続けた 15 。宗二自身も、系譜上は「塩瀬」の七代目と見なされることがある 17

この「林」と「塩瀬」という二つの名の使い分けは、単なる偶然や記録の揺れではなく、宗二とその一族が、自らのアイデンティティを場面に応じて使い分ける、高度な自己ブランディング戦略であった可能性が考えられる。すなわち、「塩瀬」は宮中や将軍家御用達としての「商業的ブランド」であり、時の権力者や上流階級との関係において、その格式と信頼性を保証する屋号として機能した 18 。他方、「林」は、宋の詩人・林逋に連なる「文化的・血統的ブランド」であり、清原宣賢や牡丹花肖柏といった当代一流の文化人と交流する際や、学者としての自らの権威を確立する上で、極めて重要な意味を持った 3 。戦国時代が、武将たちが家紋や旗印を用いて自らのアイデンティティを確立した時代であったように 20 、宗二は武力ではなく文化と商業の世界で、二つの家名を巧みに使い分けることにより、商人社会と文化人社会の両方で自身の存在感を確固たるものにした。これは、彼のしたたかな社会戦略の一端を示すものと言えよう。

第二章:商人としての生涯――奈良の経済と時の権力者たち

第一節:南都の饅頭屋・宗二

饅頭屋宗二は、父・林道太の三男として京都に生まれたが、後に奈良へ移り、一族の家業である饅頭屋を継いだ 2 。彼は単に伝統を受け継ぐだけでなく、商品開発にも意欲的であったことが窺える。特に、大納言小豆の餡を薄い皮で包んで蒸し上げた「本饅頭」は、宗二の創案によるものと伝えられている 17 。この事実は、彼が家業の発展に貢献した、創意工夫に富んだ商人であったことを示唆している。

第二節:松永久秀との関係と経済的成功

宗二の商人としてのキャリアにおいて、特筆すべきは戦国大名・松永久秀との関係である。久秀は、畿内に強大な勢力を誇った武将であり、宗二はその後援を受けて「南都(奈良)中の饅頭を独占的に商った」と記録されている 2 。この独占販売権の獲得は、宗二の事業に安定した収益をもたらし、彼の経済的基盤を盤石なものにした大きな要因であったことは間違いない。

この関係は、単なる商人と権力者の結びつきに留まらなかった可能性が高い。松永久秀は、冷酷な梟雄(きょうゆう)として知られる一方、茶の湯を深く愛好し、奈良に文化的サロンを形成するなど、当代随一の文化人でもあった 8 。久秀が宗二に特権を与えたのは、単に彼の饅頭の味を評価したからだけではなく、宗二という卓越した「町人学者」を自らの文化的なネットワークに組み込むことで、自身の文化的権威を一層高める狙いがあったと考えられる。一方、宗二にとって久秀からの庇護は、経済的安定を確保し、学問や研究に没頭する時間を保障する上で不可欠なものであった。両者の間には、文化を媒介とした互恵的な関係が築かれていたと解釈できる。

第三節:徳川家康への献上と新たな権力者との繋がり

時代の趨勢が織田信長、そして豊臣秀吉、徳川家康へと移り変わる中、宗二は新たな権力者とも巧みに関係を築いている。その象徴的な逸話が、天正3年(1575年)の長篠の戦いの際に、徳川家康に「本饅頭」を献上したというものである 15 。伝承によれば、家康はこの饅頭を自らの兜に盛って軍神に戦勝を祈願したことから、この饅頭は後に「兜饅頭」という別名で呼ばれるようになったという 17

この献上は、単なる商行為を超えた、極めて戦略的な意味合いを持つ。天下分け目の合戦という極限状況において、縁起の良い物語を伴う菓子を献上することは、武将の歓心を買うための非常に効果的なアプローチである。これは、宗二が時流を鋭敏に読み解き、次代の覇者と目される家康との間に新たなパイプを築くための、計算された「文化外交」であったと見ることができる。彼の商人としての成功は、その学識や文化的素養と決して切り離すことはできず、むしろ文化こそが、彼の事業を有利に進めるための強力な武器として機能していたのである。

第三章:学問の道――当代一流の文化人たちとの交流

第一節:師との出会い――当代随一の知的ネットワーク

饅頭屋宗二の真骨頂は、家業の傍ら、学問の道に深く分け入った点にある 3 。彼の知的好奇心はとどまるところを知らず、当時の各分野における最高峰の権威に師事し、本格的な学問を修めた。

  • 儒学・漢学: 宗二は、朝廷に仕える儒学者であった清原宣賢(きよはらのぶかた)や、神道家としても名高い吉田兼右(よしだかねすけ)から、儒学や漢学を学んだ 2 。特に宣賢からは深く教えを受け、その高弟の一人と見なされるほどの域に達していた 4
  • 連歌・和歌: 和歌や連歌の道では、当代きっての連歌師であり、古典学者でもあった牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)の門を叩いた 2

これらの師たちが、それぞれ儒学、神道、和歌・連歌の世界で当代随一の学識を誇る人物であったことは、宗二の学問が単なる趣味や教養の域を超え、専門的な水準にあったことを明確に示している。

第二節:「奈良伝授」の相伝――和歌の秘伝を受け継ぐ町人

宗二の学問的達成の中でも特筆すべきは、師である牡丹花肖柏から『古今和歌集』の解釈の奥義である「古今伝授(こきんでんじゅ)」を相伝されたことである 3 。古今伝授は、歌の解釈に留まらず、歌学の秘説や故実を師から弟子へと口伝で受け継ぐものであり、中世以降、特定の公家の家系や高僧の間で秘儀として伝えられてきた 24

宗二が受け継いだこの系統は、特に「奈良伝授」あるいは、その家業にちなんで「饅頭伝授」とも呼ばれた 4 。本来、限られたエリート層のみに許されたこの秘伝を、一介の町人である宗二が相伝したという事実は、彼の学識と師からの信頼がいかに並外れたものであったか、そして旧来の身分秩序が揺らぎ始めていた時代の変化を象徴する、画期的な出来事であった。

第三節:南都の知識人たちとの交流

宗二の知的活動は、師から学ぶだけに留まらなかった。彼は奈良の興福寺の僧であった多聞院英俊をはじめとする南都の知識人たちと親しく交流し、時には彼らに教えを授けるほどの深い学識を持っていた 2 。また、彼は熱心な蔵書家でもあり、自らの手で『長恨歌抄』や『東坡詩抄』といった唐宋の詩文をはじめ、数多くの貴重な書物を筆写し、そのコレクションを築いていた 2

宗二がこれほど広範な知的ネットワークを築き、高度な学問を修めることができた背景には、彼の個人的な才能や経済力に加え、戦国期における奈良の特殊な文化的環境が大きく作用していた。応仁の乱以降、戦火を逃れて京都から多くの文化人が奈良へ避難し、古くから文化の中心であった興福寺などの大寺社と交わることで、奈良は「知の交差点」としての役割を担うようになった 7 。宗二は、この京都からの避難民(公家筋の学者や連歌師)、古くからの寺社勢力(高僧)、そして経済力を持つ新興の町人という、多様な人々が集う「知の坩堝(るつぼ)」の中心に身を置くことで、通常では考えられないような幅広い交流の機会を得て、自らの知見を深めていったのである。彼の学問は、この奈良という特異な文化的土壌が生んだ産物であったと言える。

第四章:著作と出版事業――『源氏物語林逸抄』と『饅頭屋本節用集』

第一節:『源氏物語林逸抄』――町人学者による古典研究の金字塔

饅頭屋宗二の学問的業績を代表する主著が、全54巻(または54冊)に及ぶ『源氏物語』の浩瀚な注釈書『源氏物語林逸抄(げんじものがたりりんいつしょう)』である 2 。書名にある「林逸(りんいつ)」は宗二の号であり、彼の学者としての一面を象徴している 2

この著作の学術的価値は極めて高く、特に天理大学附属天理図書館には、永禄2年(1559年)頃に宗二自身が筆を執ったとされる自筆本が、良好な状態で現存している 21 。一介の町人が、平安文学の最高峰である『源氏物語』について、これほど大規模かつ精緻な注釈書を著したという事実は、驚嘆に値する。近年では、研究者の岡嶌偉久子氏らによって本文の翻刻や詳細な研究が進められ、その全貌が明らかにされつつある 29

第二節:『饅頭屋本節用集』――知の普及者としての側面

宗二のもう一つの大きな功績は、出版事業、特に『節用集(せつようしゅう)』の刊行である。『節用集』は、室町時代から広く使われていた「いろは引き」の通俗的な国語辞書であり、宗二はこれを改訂・増補して出版したと伝えられている 3 。彼が刊行した版は、その屋号から通称「饅頭屋本(まんじゅうやぼん)」として知られ、世に広まった 4

この「饅頭屋本」は、単なる国語辞書に留まらず、尚書・左伝・論語・史記といった漢籍の知識も盛り込まれるなど、非常に内容豊かなものであった 12 。その実用性と網羅性から、江戸時代の人気戯作者であった山東京伝も常に座右に置いて活用したという逸話が残るほど、後世にまで長く利用された 4 。当時まだ一般的ではなかった活字印刷の技術を用いて、このような実用的な知識を広く世に提供した宗二の事業は、彼が単なる学者に留まらず、知識の普及者としての側面を持っていたことを示している。この功績により、彼は奈良の漢國神社内にある林神社において、始祖・林浄因と共に「印刷・出版の神様」として祀られることとなった 7

宗二のこれら二つの業績、『林逸抄』の執筆と『饅頭屋本』の出版は、一見すると方向性が異なるように見える。しかし、これらは「知識の生産」と「知識の普及」という一貫したテーマで結ばれている。中世において、古典の注釈や秘伝といった高度な知識は、特定の家系や流派が独占する「私有財産」であった。宗二はまず、町人の身でありながらこの閉鎖的な知の世界に参入し、自ら注釈書を著す「生産者」となった。次に、彼は活字印刷という当時の新技術を駆使し、『節用集』という実用的な知識を広く一般に「普及」させる事業を手がけた。これは、知識を一部のエリート層から解放し、より多くの人々がアクセス可能な「公有財産」へと転換させようとする試みであった。この「生産」と「普及」を両立させた彼の活動には、身分や家柄に関係なく、誰もが知にアクセスできるべきだという、極めて近代的で公共的な精神の萌芽が見て取れる。彼が「印刷の神様」と称えられるのは、単に本を出版したという事実以上に、この知の公開へと向かう精神性が評価された結果であろう。

第五章:人物像と後世への影響――『多聞院日記』と沢庵和尚の評

第一節:「天下無比之名仁」――同時代人からの最大級の賛辞

饅頭屋宗二の人格と、彼が同時代人に与えた影響を最も雄弁に物語るのが、その死に際して記された『多聞院日記』の一節である。天正9年(1581年)7月11日、宗二が84歳でこの世を去った際、興福寺の僧・英俊は日記に次のように記した。

「マンチウヤ宗二死了。天下無比之名仁、悲歎無限事也、八十四歳、昨日ヨリ霰乱心ニテ死了」 4

「饅頭屋宗二が亡くなった。天下に比類なき名士であり、悲しみは限りない。84歳。昨日から精神が錯乱して亡くなった」というこの記述の中の「天下無比之名仁」という言葉は、単なる社交辞令を超えた、心からの賛辞である。身分の異なる高僧から一介の町人へ、これほど率直で最大級の敬意が表されることは極めて異例であった。この一文は、宗二の学識の深さだけでなく、彼の人格そのものが、身分や職業の壁を超えて深く尊敬されていたことを示す何よりの証拠と言える。

第二節:沢庵和尚が伝える「無欲」の哲学

宗二の人柄を伝えるもう一つの貴重な証言が、江戸時代初期に活躍した臨済宗の高僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう)の随筆『玲瑠随筆(れいらずいひつ)』に残されている。沢庵は、宗二の言葉として以下のように記している。

「宗ニガイワク、貧ニハ成ガタキモノナリ。(中略)貧ニナルコトハ無欲ヨリ出ル程二、貧ハ奇特ナリ。」 4

これは、「宗二が言うには、貧しくなることは難しいものである。(中略)貧しくなるということは無欲から生じることなので、貧しいということは尊いことなのだ」という意味である。商人として大きな成功を収め、富を築いた人物が、富そのものに執着せず、むしろ「無欲」を尊ぶというこの清廉な人生哲学は、宗二の生き方を貫く精神的支柱であったと考えられる。彼が財を学問の探求や出版事業といった文化的な活動に惜しみなく投じることができたのも、この「無欲」の精神に裏打ちされていたからであろう。

第三節:後世への影響

宗二の築いた文化的な遺産は、彼一代で終わることはなかった。彼の子には建仁寺の住持となった梅仙東逋(ばいせんとうほ)がおり、孫の宗伯もまた学業に秀でるなど、その血脈は文化の世界で活躍を続けた 2

そして今日に至るまで、宗二の影響は様々な形で生き続けている。奈良の漢國神社・林神社では、饅頭の祖である林浄因と共に、宗二が「印刷・出版の神様」として篤く祀られ、毎年9月には彼の功績を讃える「節用集祭り」が斎行されている 14 。また、彼の一族が興した饅頭屋の暖簾は、東京の「塩瀬総本家」として670年以上の時を超えて受け継がれ、今なお多くの人々に親しまれている 18

宗二が「天下無比の名仁」と称賛され、後世に神としてまで祀られる存在となった根源は、彼が「商人としての経済的成功」、「学者・文化人としての知的生産」、そして「無欲清廉な人格」という三つの要素を、その生涯を通じて奇跡的なバランスで統合し得た点にある。単なる富裕な商人は、これほどの尊敬を集めることはない。また、単なる清貧の学者が、出版事業を通じて社会にこれほど大きな影響を与えることも難しい。宗二はまず商人として成功して経済的基盤を築き、しかしその富を私利私欲のためではなく、学問の探求や知の普及という公共的な活動に投じた。その生き様が、身分を超えて多くの人々の心を打ち、時代を代表する「名士」としての評価を不動のものにしたのである。

結論:饅頭屋宗二が体現した時代精神

本報告書で詳述してきたように、饅頭屋宗二の生涯は、商人、学者、出版人、そして当代一流の文化人という、実に多面的な貌を持っていた。彼はそれぞれの分野で、単なる愛好家の域を遥かに超える、専門家としての高い業績を残した。

彼の生き様は、旧来の身分制度が大きく揺らぎ、個人の才覚と経済力が新たな価値基準となった戦国・安土桃山という時代の精神そのものを、まさしく体現するものであった。宗二は、饅頭屋という家業の「地」にしっかりと足をつけながら、和漢の学問という「天」を仰ぎ、そしてその成果を出版という形で広く社会に還元した。この地に足のついた理想主義こそが、動乱の時代を知的に、そしてしなやかに生き抜いた町人学者の真骨頂であった。

饅頭屋宗二の生涯は、経済活動と文化活動が必ずしも対立するものではなく、むしろ互いを豊かにし、高め合う関係にあり得ることを示した、後世への貴重なモデルケースである。彼は、富を文化へと昇華させ、文化を社会へと還元した。その類稀なる生涯は、戦国という時代が生んだ、最も豊かで魅力的な果実の一つとして、日本の歴史に燦然と輝き続けている。

引用文献

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