香宗我部貞親は長宗我部氏滅亡後、流浪の末に徳川幕府下で再起。春日局の斡旋で堀田正盛に仕え、佐倉藩城代家老に。養子を迎え家名を存続させ、家伝証文も守った。
本報告書は、安土桃山時代から江戸時代前期という、日本の歴史上最も劇的な転換期を生きた一人の武将、香宗我部貞親(こうそかべ さだちか、1591-1660)の生涯を包括的に解明するものである。彼の人生は、戦国大名・長宗我部氏の滅亡という悲劇的な幕開けから始まる。主家を失い、故郷土佐を追われた幼い当主は、流浪の果てに徳川幕府の体制下で再起を果たし、ついには有力譜代大名の家老にまで上り詰めるという、類稀な軌跡を辿った 1 。
彼の物語は、単なる一個人の立身出世譚に留まらない。それは、戦国の世が終わり、泰平の江戸時代へと移行する中で、武士という存在が如何に変容し、生き残りを図ったかを象徴する貴重な事例である。彼の生涯を貫く問いは、その再生が単なる幸運の産物であったのか、あるいは、時代の変化を的確に読み解き、複雑な人間関係の網を巧みに手繰り寄せ、そして何よりも「家」を存続させるという強靭な意志に裏打ちされた、必然の帰結であったのか、という点にある。本報告書では、彼の生涯の各局面を詳細に分析し、この問いに対する答えを探求する。
まず、彼の70年にわたる波乱の生涯を俯瞰するため、以下の略年表を提示する。
西暦(和暦) |
貞親の年齢 |
出来事 |
関連人物・主君 |
身分・石高 |
1591年(天正19年) |
0歳 |
土佐にて、香宗我部親泰の次男として誕生。幼名は長寿丸 2 。 |
香宗我部親泰 |
長宗我部一門 |
1592年(文禄元年) |
2歳 |
兄・親氏が朝鮮出兵中に病死 4 。 |
香宗我部親氏 |
|
1593年(文禄2年) |
3歳 |
父・親泰が朝鮮へ渡る途上で病死。家督を相続 1 。 |
香宗我部親泰 |
香宗我部家当主 |
1600年(慶長5年) |
10歳 |
関ヶ原の戦いで主家・長宗我部家が改易。家臣に守られ土佐を脱出 6 。 |
長宗我部盛親 |
浪人 |
時期不詳 |
成人後 |
肥前唐津藩主・寺沢広高に仕官 1 。 |
寺沢広高 |
唐津藩士(500石) |
1614-15年(慶長19-20年) |
24-25歳 |
大坂の陣で従兄弟・盛親が豊臣方についたため、寺沢家を出奔。中原源右衛門と改名 1 。 |
長宗我部盛親 |
浪人 |
1635年(寛永12年) |
45歳 |
春日局の斡旋により、堀田正盛に仕官 1 。 |
春日局、堀田正盛 |
川越藩士(1000石) |
1638年(寛永15年) |
48歳 |
堀田家の信濃松本藩への転封に従う 1 。 |
堀田正盛 |
松本藩士(1300石に加増) |
1642年(寛永19年) |
52歳 |
堀田家のの下総佐倉藩への転封に従う。佐倉城受け取り役を務める 3 。 |
堀田正盛 |
佐倉藩士 |
時期不詳 |
50代 |
佐倉藩の城代家老に就任したとされる 2 。 |
堀田正盛 |
佐倉藩城代家老 |
1652年(慶安5年) |
62歳 |
実子なく、堀田家縁戚の高井源左衛門の子・重親を養子に迎える 1 。 |
香宗我部重親 |
|
1660年(万治3年)7月 |
70歳 |
佐倉にて死去。墓所は宗円寺 1 。 |
|
|
1660年(万治3年)10月 |
死後 |
主君・堀田正信が改易。養子・重親は縁者を頼り仙台藩伊達家に仕官 2 。 |
香宗我部重親 |
仙台藩士(1000石余) |
香宗我部貞親のアイデンティティを理解するためには、彼がその名を継いだ「香宗我部氏」の複雑な歴史的背景をまず紐解かねばならない。その家名は、土佐における栄光と、血塗られた簒奪という二つの側面を内包していた。
香宗我部氏は、その祖を甲斐源氏・武田氏の流れに汲むと称し、鎌倉時代から土佐国香美郡に根を張った由緒ある豪族であった 9 。室町時代には土佐守護・細川氏と結んで勢力を拡大し、戦国期には「土佐七雄」の一角に数えられるほどの有力な存在となっていた 6 。その本拠は香宗城(現・高知県香南市)に置かれ、地域の政治・経済に大きな影響力を行使していた 9 。
しかし、戦国乱世の荒波は、この名門にも容赦なく押し寄せる。西隣の長岡郡から急速に勢力を伸ばしてきた長宗我部国親は、謀略をもって香宗我部氏の乗っ取りを画策する。弘治4年(1558年)頃、国親は三男の親泰(後の貞親の父)を、当時の香宗我部氏当主・香宗我部親秀の養子として送り込んだ 4 。この養子縁組に強く反対した親秀の実弟・秀通は、親泰の手の者によって暗殺されるという悲劇に見舞われる 13 。奇しくも、この秀通こそが、後に親泰の妻となり貞親を産む女性の父親、すなわち貞親の母方の祖父であった 2 。この血腥い内紛の末、香宗我部氏はその独立性を失い、事実上、長宗我部氏の一門として組み込まれることとなったのである。
家督を継いだ親泰は、兄・長宗我部元親の片腕として、その智勇を遺憾なく発揮した。軍事面では土佐東部の制圧を担当し、安芸氏を滅ぼした後は安芸城主として阿波侵攻の拠点・海部城を守るなど、元親の四国統一事業に不可欠な働きを見せた 4 。また、外交面では織田信長や徳川家康との交渉窓口を務めるなど、長宗我部家にとってまさに大黒柱ともいえる存在であった 4 。
長宗我部氏の栄華を支えた親泰であったが、その晩年には悲運が続く。天正20年(1592年、文禄元年)、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)が始まると、親泰の嫡男であり、貞親の兄にあたる香宗我部親氏が、元親の代理として出陣した先で病に倒れ、21歳の若さでこの世を去った 2 。そしてその翌年の文禄2年(1593年)、父・親泰自身もまた、朝鮮半島へ渡る途上の長門国(現在の山口県)で病死してしまう。享年51であった 1 。
父と兄の相次ぐ死により、天正19年(1591年)に生まれたばかりの次男・長寿丸(後の貞親)が、わずか3歳にして香宗我部家の家督を相続することとなった 1 。あまりに幼い当主を支えるため、後見人には、かつて親泰に家を乗っ取られた旧香宗我部氏の正統な後継者である中山田泰吉(暗殺された秀通の子)が就いた 3 。これは、親泰による家督簒奪の経緯を知る旧来の家臣団との融和を図り、家中の動揺を抑えるための、極めて政治的な配慮であったと考えられる。
この一連の出来事は、貞親の出自が持つ複雑な性格を浮き彫りにする。彼の父は香宗我部氏を乗っ取った長宗我部家の人間であり、母は乗っ取られた旧香宗我部氏の血を引く。すなわち、貞親の身体には「簒奪者」と「被簒奪者」双方の血が流れていた。この二重性は、彼のアイデンティティ形成に深い影響を与えたに違いない。彼は単なる長宗我部一門の一員ではなく、土佐の名門「香宗我部」の由緒ある家名を継ぐ者としての自覚を、幼い頃から強く意識せざるを得なかったであろう。後年、彼が流浪の身となりながらも、一族の歴史を記した古文書『香宗我部家伝証文』を命懸けで守り抜いた行動 2 は、この複雑な出自から生まれた、自らのルーツと家名への強い執着の表れと解釈することができる。
貞親が10歳を迎えた慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いは、彼の運命を根底から覆す激震となった。主家・長宗我部家の滅亡は、彼を故郷から追放し、長く苦しい流浪の人生へと突き落とすことになる。
この年、長宗我部家の当主であった長宗我部盛親(貞親の従兄弟)は、関ヶ原の戦いにおいて西軍に与した。しかし、戦況を見誤り、戦闘に参加することなく西軍は敗北。戦後、徳川家康は盛親に対し、土佐二十四万石の領地を全て没収するという厳しい処分を下した 1 。この改易の背景には、盛親が家督相続を巡る混乱の中で、徳川家と誼を通じていた実兄・津野親忠を讒言によって殺害した事件があり、これが家康の心証を著しく害したことも大きな要因であったとされる 24 。
土佐の新領主には、徳川家康の側近である山内一豊が任じられた。しかし、長宗我部家の旧臣たち、特に「一領具足」と呼ばれる半農半兵の下級武士層は、この決定に猛反発した。彼らは「旧主にせめて土佐半国なりとも安堵されよ」と訴え、長宗我部家の本拠・浦戸城に立てこもり、新領主の入国を武力で拒んだのである 24 。これが世に言う「浦戸一揆」である。一揆勢は50日にもわたって抵抗を続けたが、山内側の謀略によって内部から切り崩され、最終的には鎮圧された。指導者たちを含む273名が斬首され、その首は塩漬けにされて大坂の家康のもとへ送られるという、悲惨な結末を迎えた 28 。
この一揆は、土佐の地に深い傷跡を残した。長宗我部旧臣と山内家との間には埋めがたい亀裂が生じ、旧主ゆかりの者たちにとっては、土佐国内に留まること自体が極めて危険な状況となった。
この混乱と粛清の嵐の中、10歳の少年当主・香宗我部貞親は、忠実な家臣たちに守られながら、命からがら土佐を脱出した 7 。彼の後見人であった中山田泰吉は土佐に残る道を選んだが、その弟である秀政らが貞親に付き従ったと伝えられている 3 。彼らはまず紀伊国の高野山にある高室院に身を寄せ、その後、多くの大名家や商人が集まる情報の中継地、和泉国堺に移り住んだ 1 。堺は、主家を失った多くの浪人たちが再起の機会を窺う場所であり、幼い貞親と彼を支える家臣たちにとって、新たな活路を見出すための拠点となったのである。
この土佐脱出は、貞親の人生における価値観の転換を促す重要な出来事であった。浦戸一揆で命を落とした家臣たちは、具体的な「主君・盛親」への忠義のために戦った。それは戦国武士の美学の最後の輝きであったかもしれない。一方で、貞親を守って土佐を離れた家臣たちの行動は、その意味合いが少し異なる。彼らが守護する主君は、まだ恩顧を与えたり、リーダーシップを発揮したりすることのできない10歳の少年である。彼らが命を懸けて守ったのは、貞親という個人以上に、長宗我部氏の血を引く「香宗我部家の血脈と家名」そのものであった。
主家宗家が滅亡した今、忠誠を捧げる対象は、具体的な「殿様」から、より抽象的な「お家」の存続へと移行した。この経験は、貞親自身に「自分は多くの家臣の犠牲の上に生かされている」「この家名を自分の代で絶やすことは断じて許されない」という、極めて強烈な使命感を植え付けたに違いない。それは、後の彼の人生における、いかなる苦境にも屈しない粘り強い存続活動の、揺るぎない原動力となったのである。
堺で成人した香宗我部貞親は、失われた武士としての地位を取り戻すべく、再起の道を模索し始める。しかし、その道のりは平坦ではなく、時代の大きな奔流が再び彼を翻弄することになる。
流浪の日々を経て、貞親は最初の仕官の機会を得る。彼を召し抱えたのは、肥前唐津藩十二万石の藩主・寺沢広高であった 1 。貞親は500石の禄高で、寺沢家の家臣として迎えられた 1 。
この主君となった寺沢広高は、豊臣秀吉によって抜擢され、徳川の世でもその地位を認められた実力派の大名であった。彼は自ら率先して行動し、「口で言うよりも身をもって示す」ことを信条とする行動派の武将であり、また、自身は木綿の服を着るほどの倹約家でありながら、それによって浮いた資金で有能な人材を高禄で召し抱えることを惜しまない、極めて合理的な思考の持ち主でもあった 31 。彼の家臣団には1000石取りが40人もいたとされ、その士風を慕って多くの武士が集まったという 32 。
このような人物に召し抱えられたという事実は、貞親が単に「長宗我部一門」という名家の出身であるだけでなく、一人の武士として、何らかの能力や将来性を評価された可能性を示唆している。500石という禄高は、大藩の中では中堅クラスの待遇であり、全てを失った浪人からの再起としては、大きな成功と言えるものであった。
武士としての再出発を果たした貞親であったが、慶長19年(1614年)に勃発した大坂の陣は、彼を再び政治的な窮地へと追い込んだ。あろうことか、彼の従兄弟であり、旧主家・長宗我部家の最後の当主であった長宗我部盛親が、豊臣方の中心的な武将として大坂城に入城したのである 1 。
徳川方の有力大名である寺沢広高に仕える貞親にとって、これは致命的な事態であった。「逆臣」の近親者が家中にいるとなれば、主君・寺沢家の幕府に対する立場を危うくしかねない。貞親は、主君に迷惑がかかることを避けるため、苦渋の決断を下す。彼は自ら寺沢家を去り、再び浪人の身となることを選んだのである 3 。この際、彼は「香宗我部」の名を捨て、「中原源右衛門(あるいは喜左衛門)」という変名を名乗った 1 。出自を隠し、世間の目から逃れるためであった。
この一連の行動は、貞親が時代の変化に巧みに適応していたことを示している。戦国時代の価値観であれば、一族(盛親)が旗揚げしたと聞けば、それに馳せ参じるか、あるいは現在の主君(寺沢)への忠義を示すために盛親と刃を交えるか、という選択が主だったであろう。しかし貞親の選択は、そのいずれでもなかった。彼は「主君に迷惑をかけない」という、安定期に入りつつある江戸時代の武士社会で最も重視される「奉公」の論理を優先したのである。これは、武力で名を上げる戦国の価値観から、組織人としての忠誠と政治的なバランス感覚が求められる江戸の価値観へと、彼が思考を完全に切り替えていた証左と言える。
興味深いことに、彼が名乗った「中原」という姓は、香宗我部氏の遠祖が中原姓であったという伝承と一致する 9 。出自を隠しながらも、自らのルーツに繋がる名を選ぶあたりに、彼の矜持が窺える。大坂の陣の後、貞親は幕府のお膝元である江戸へ向かい、知足院という寺に身を隠したと伝えられる 1 。それは、最も危険な場所こそが最も安全であるという逆転の発想に基づき、天下の中枢で息を潜めながら、次なる再起の機会を冷静に待つという、計算された行動であったのかもしれない。
江戸で息を潜めていた香宗我部貞親に、人生最大の転機が訪れる。それは、徳川幕府の中枢で絶大な権勢を誇る一人の女性、三代将軍・徳川家光の乳母である春日局との繋がりであった。この遠い縁が、彼の運命を劇的に好転させることになる。
貞親と春日局を結びつけた縁は、一見すると非常に遠く、複雑なものであった 1 。その関係性を解き明かす鍵は、春日局の出自にある。
春日局(本名:斎藤福)は、本能寺の変で知られる明智光秀の重臣・斎藤利三の娘である 34 。この斎藤利三の母親は、夫の死後、室町幕府の奉公衆であった石谷光政(いしがい みつまさ)と再婚した。そして、石谷光政と後妻(利三の母)との間に生まれた娘が、貞親の伯父にあたる長宗我部元親の正室として嫁いでいたのである 34 。
要約すれば、「貞親の伯父(元親)の妻」と「春日局の父(利三)」が異父姉弟という関係になる。したがって、貞親から見れば「伯父の妻の姪」が春日局にあたる、という遠縁の関係であった 1 。この複雑な関係性は、以下の相関図によってより明確に理解できる。
石谷光政 ━━┳━━ (元親正室)
┃ ┃
(前夫との子) 斎藤利三 ━┳━ 春日局 (斎藤福)
┃
┗━ (稲葉正成と結婚) ━┳━ 稲葉正勝
┃
┗━ (徳川家光の乳母となる)
長宗我部国親 ━━┳━━ 長宗我部元親 ━┳━ 長宗我部盛親 (貞親の従兄弟)
┃ ┃ (石谷氏と結婚)
┗━━ 香宗我部親泰 ━┳━ 香宗我部貞親
┃
┗━ (堀田正盛に仕官) ━┳━ (養子) 香宗我部重親
┃
┗━ (母は堀田正盛の妹)
堀田正盛 ━━━━━━┳━ 堀田正信
(家光側近) ┃
┗━ (妹) ━ (高井源左衛門と結婚) ━ 香宗我部重親
この図が示すように、貞親の再起は、数世代前の婚姻によって結ばれた、細くとも確かな一本の糸によってもたらされた。戦国時代が終わり、家格や血縁、人間関係のネットワークといった「社会関係資本」が個人の運命を大きく左右する江戸時代ならではの出来事であった。貞親は、この新しい時代のルールを的確に理解し、自らが持つ唯一無二の「縁」という資産を最大限に活用することに成功したのである。
寛永12年(1635年)、貞親はこの縁を頼り、春日局に接触したものと思われる。彼の窮状を知った春日局は、自らが養育した将軍・家光が最も信頼を寄せる側近の一人、堀田正盛に貞親を推挙した 1 。
主君となる堀田正盛は、家光に見出されて以来、若年寄から老中へと異例の出世を遂げていた、まさに日の出の勢いの人物であった 40 。春日局の強力な口添えにより、貞親はこの有力譜代大名の家臣として召し抱えられることになった。
その待遇は破格であった。最初の禄高は1000石。これは、以前仕えた寺沢家の倍の石高である。さらに後には1300石まで加増されており、一度浪人となった者への再仕官としては異例中の異例と言える厚遇であった 1 。これにより、45歳になっていた香宗我部貞親は、長く続いた流浪の日々に終止符を打ち、安定した武士としての後半生を歩み始めることになったのである。
堀田家への仕官という劇的な再起を果たした貞親は、新天地でその能力を存分に発揮し、家臣団の中で確固たる地位を築いていく。彼の後半生は、単なる安住の日々ではなく、自らが経験した滅亡の悲劇を繰り返さぬため、家の未来を盤石にするための、周到な布石を打ち続ける日々であった。
貞親は、主君・堀田正盛の栄達に伴う転封に忠実に従った。寛永12年(1635年)の仕官当初は川越藩(埼玉県)、寛永15年(1638年)には信濃松本藩(長野県)、そして寛永19年(1642年)には下総佐倉藩(千葉県)へと、主君と運命を共にした 1 。
特に、佐倉11万石への移封の際には、貞親に重大な任務が与えられた。それは「佐倉城受け取り役」という大役であった 3 。これは、旧領主から城と領地を引き継ぐための先遣隊の責任者であり、軍事・行政両面にわたる高い能力と、主君からの絶対的な信頼がなければ務まらない重職である。この事実一つをとっても、貞親が堀田家において、単なる縁故採用の客分ではなく、実務能力を高く評価された中核的な家臣であったことがわかる。
そして、佐倉藩において、貞親は藩の最高職の一つである「城代家老」を務めたと記録されている 2 。城代家老とは、藩主が参勤交代などで江戸に詰めている間、国元の城を預かり、領国経営の全権を委ねられる実質的な最高責任者である 42 。これにより、香宗我部貞親は、かつて土佐一国を追われた浪人から、十万石を超える大藩の国政を預かる重臣へと、完全な再生を遂げたのである。
藩政の中枢で活躍する一方、貞親には大きな懸念があった。彼には実の子がおらず、このままでは自らが命懸けで守り、再興した香宗我部家が再び断絶してしまうのである 1 。家の存続を至上命題とする彼にとって、後継者の確保は喫緊の課題であった。
慶安5年(1652年)、62歳になった貞親は、この問題に対する決定的な一手を打つ。堀田家の同僚家臣であった高井源左衛門の嫡男・重親を養子として迎え、香宗我部家の家督を継がせたのである 1 。
この養子縁組は、極めて戦略的な意味合いを持っていた。養子・重親の母親は、他ならぬ主君・堀田正盛の妹だったのである 2 。つまり、この縁組によって、香宗我部家は主君・堀田家と直接的な血縁関係を持つことになった。これは、藩内における香宗我部家の地位を未来永劫にわたって盤石なものとし、万が一の際にも家が守られるための、深謀遠慮に基づく安全保障であった。貞親は、春日局との「縁」によって救われた自らの経験から、近世武家社会における血縁ネットワークの重要性を誰よりも深く理解していたのである。
貞親の功績として、政治的な成功と並んで特筆すべきは、文化的な遺産の守護者としての一面である。彼は、主家・長宗我部家の滅亡と、それに続く自らの流浪という過酷な状況下にあっても、一族に鎌倉時代から伝わる古文書群『香宗我部家伝証文』を肌身離さず守り抜き、後世に伝えた 2 。
この証文には、源頼朝が発給した下文(命令書)をはじめ、香宗我部氏が代々領地の支配を認められてきたことを証明する貴重な文書が含まれており、一族の由緒と歴史を物語る第一級の史料である 20 。領地も家臣も失い、一介の浪人となった身であっても、彼は家の「歴史」と「正統性」の象徴であるこの文書群を決して手放さなかった。この行動は、彼のアイデンティティが、武士としての誇りと、自らのルーツに対する揺るぎない意識に支えられていたことを雄弁に物語っている。
貞親は、一つの縁が絶たれても他の縁で家を支えられるよう、多重的な安全保障を構築した。城代家老という実務上の地位(第一の保障)、主家との血縁(第二の保障)、そして『家伝証文』が証明する家の歴史的権威(第三の保障)。これらは全て、自らが経験した主家滅亡の悲劇を二度と繰り返さないため、考えうるあらゆる手段を講じて「家」の存続を図った、彼の執念の結晶であった。
幾多の苦難を乗り越え、家の再興と未来への継承という大事業を成し遂げた香宗我部貞親。しかし、彼が築き上げた安泰は、その死の直後に、またしても皮肉な運命の試練に晒されることになる。
万治3年(1660年)7月9日、香宗我部貞親は、再起の地である下総佐倉で70年の生涯を閉じた。その亡骸は市内の宗円寺に葬られた 1 。滅びゆく家の血を引く者として生まれながら、ついには大藩の家老として家名を再興し、主家との血縁を持つ養子に後を託した彼の最期は、満足のいくものであったに違いない。
だが、運命はあまりに皮肉であった。貞親の死からわずか3ヶ月後の同年10月、彼の主君であった佐倉藩主・堀田正信(正盛の長男)が、老中・松平信綱ら幕閣の政策を痛烈に批判し、領地返上を申し出て無断で江戸から佐倉に帰国するという前代未聞の事件を起こしたのである 8 。幕府の権威を著しく損なうこの行動に激怒した幕府は、即座に堀田正信を改易処分とし、佐倉藩11万石は取り潰しとなった 2 。貞親が生涯をかけて築き上げた安住の地は、彼の死の直後に、またしても主家の都合によって脆くも崩れ去ったのである。
主家を失った養子・香宗我部重親は、貞親がかつて経験したのと同じく、再び浪人となる危機に直面した。しかし、ここでも貞親が生前に築き上げた人脈が、三度目の危機から家を救うことになる。
重親は、母方の従兄弟にあたる柴田朝意・五十嵐元成兄弟を頼った。彼らの母親は貞親の従姉妹であり、兄弟は仙台藩伊達家に仕える有力な家臣であった 1 。この縁により、重親は陸奥仙台藩に1000石余という厚遇で召し抱えられ、香宗我部家は仙台藩士として存続することが決まったのである 1 。貞親の巧みな養子縁組と、幾重にも張り巡らされた親族間のネットワークが、彼の死後までも家を守り抜いた瞬間であった。その後、堀田宗家が別の形で再興されると、重親はその縁から古河藩堀田家の客分としても遇されており、香宗我部氏の血脈は、仙台藩と堀田藩の二系統に分かれつつも、確かなものとして続いていった 2 。
香宗我部貞親の生涯は、戦国から江戸へと移行する時代の武士の生き様を鮮やかに映し出している。彼の成功は、戦場での武功や知略といった戦国的な能力だけに依存するものではなかった。むしろ、時代の変化を的確に読む洞察力、政治的なバランス感覚、そして何よりも家名存続への執念と、そのための戦略的な人脈構築能力こそが、彼を滅亡の淵から救い上げたのである。彼は、滅びゆく者たちの悲劇を一身に背負いながらも、決して希望を捨てることなく、新しい時代のルールの中で家を見事に再生させた、稀有な成功者であった。
彼が現代に遺したものは大きい。一つは、彼が命懸けで守り抜いた『香宗我部家伝証文』である。この貴重な古文書群は、後に東京国立博物館に寄贈され 21 、現代に生きる我々が中世・戦国期の社会を知るための第一級の史料として、今なお研究に活用されている。そしてもう一つは、彼が繋いだ血脈そのものである。仙台藩士などとして続いた香宗我部(香曽我部)の家名は、現代に至るまで受け継がれている 9 。
香宗我部貞親という一人の武士の執念が、動乱の時代を乗り越え、貴重な歴史的遺産と家の血脈の両方を、四百年の時を超えて現代に繋いだのである。