最終更新日 2025-06-15

香川光景

「香川光景」の画像

安芸国人 香川光景 ― 武田から毛利へ、激動の時代を生き抜いた智将の生涯

序章:安芸国人・香川光景 ― 時代の転換点に立った武将

本報告書は、日本の戦国時代、安芸国(現在の広島県西部)にその足跡を刻んだ武将、香川光景(かがわ みつかげ)の生涯を、現存する史料に基づき多角的に検証し、その人物像と歴史的役割を明らかにすることを目的とする。香川光景は、安芸国の旧守護大名であった安芸武田氏の衰亡と、新興勢力である毛利氏の台頭という、中国地方の勢力図が劇的に塗り替わる時代の転換点に身を置いた人物である 1 。彼の選択と行動は、一個人の武将の物語に留まらず、乱世を生きる地方領主(国人)の生存戦略、そして地域社会の変容を映し出す鏡として、極めて重要な研究対象と言える。

光景の生涯は、主家の内紛、同族との相克、そして新たな主君のもとでの数多の戦役という、まさに激動の連続であった。彼は、滅びゆく主家に見切りをつけ、次代の覇者である毛利元就に帰属するという重大な決断を下す。その決断は、彼自身と一族の運命を大きく左右し、結果として江戸時代における岩国藩家老という高い地位へと繋がる礎となった。本報告書では、香川氏の出自から説き起こし、主家・武田氏の滅亡、毛利氏への帰属、厳島の戦いをはじめとする主要な戦役での活躍、そして子孫の動向と歴史的遺産に至るまでを時系列に沿って詳述し、この知られざる智将の実像に迫る。

【表1:香川光景 略年表】

年代(西暦/和暦)

出来事

関連史料・出典

生年不詳

安芸香川氏当主・香川元景の嫡男として誕生。

1

天文2年 (1533)

主君・武田光和の命により、毛利氏に離反した熊谷信直の三入高松城を攻撃するも敗北(横川表の戦い)。

1

天文9年 (1540)頃

武田光和の死後、家中の後継者争いと路線対立が激化。和平派の光景は、主戦派の品川左京亮らに居城・八木城を攻撃されるが、熊谷氏らの支援を得て撃退。

5

天文10年 (1541)

毛利元就による佐東銀山城攻略後、安芸武田氏が滅亡。光景は元就の説得に応じ、残存勢力に投降を呼びかける。その後、己斐直之らと共に毛利氏に帰属。

6

弘治元年 (1555)

厳島の戦いの前哨戦として、仁保島城の城番を務める。陶方の三浦房清率いる水軍の攻撃を、東林坊と共に撃退(仁保島合戦)。本戦にも毛利水軍の一翼として参戦。

8

永禄7年 (1564)

三村家親と共に伯耆国の不動ガ嶽城を攻撃し、攻略。

1

永禄8年 (1565)

第二次月山富田城の戦いに従軍。また、息子たちと共に伯耆国大江城を攻略。

10

永禄12年 (1569)

尼子再興軍と結んだ宇喜多・三浦連合軍に攻められた美作高田城の救援に入り、籠城戦を指揮。一族の香川勝雄が討死するも、城を守り抜く。

1

慶長10年 (1605)

没。

1

第一章:安芸香川氏の淵源と本拠・八木城

第一節:一族のルーツ ― 相模国から安芸国へ

安芸香川氏の出自は、遠く関東に遡る。彼らは桓武平氏の流れを汲み、後三年の役(1083年-1087年)での活躍で知られる伝説的な武勇の士、鎌倉権五郎景正を祖と仰ぐ鎌倉党の一族であった 2 。一族は相模国香川村(現在の神奈川県茅ヶ崎市一帯)を本貫の地とし、香川経高の代に源頼朝に仕えて鎌倉幕府の御家人となった 2

この香川氏が安芸国と深く関わる契機となったのが、承久3年(1221年)に勃発した承久の乱である。この幕府の一大事に際し、経高とその子らは幕府方として参陣し、戦功を挙げた。その恩賞として、経高の子・経景は安芸国佐東郡八木(現在の広島市安佐南区八木)の地頭職を与えられたのである 14 。これが安芸香川氏の濫觴であった。

当初、香川氏は代官を派遣して八木を統治していたが、経景の子である景光の代に至り、一族は相模国から安芸国へと本格的に移住。太田川の西岸に八木城を築き、在地領主としての直接統治を開始した 2 。しかし、その在地化の過程は平坦なものではなかった。広島市中央図書館に所蔵される「旧八木城主香川家文書」には、鎌倉時代の「関東下知状」や「六波羅施行状」といった貴重な史料が含まれている 15 。これらの文書からは、新来の地頭である香川氏に対して、八木の旧来の勢力が反抗を続け、香川氏が幕府という中央の権威を背景にしてこれを抑え込もうとした、当時の生々しい緊張関係を読み取ることができる 15 。このことは、香川氏が鎌倉御家人という高い家格を誇りとしつつも、在地社会に根を下ろすためには、現実的な闘争を乗り越えねばならなかったことを示している。

第二節:太田川の水運を扼する要衝 ― 八木城の構造と機能

安芸香川氏の拠点となった八木城は、太田川の西岸に位置する、比高約55メートルの丘陵上に築かれた平山城である 5 。城山の北から西にかけては現代では宅地化が進んでいるが、山頂の主郭群を中心に複数の郭が確認されている 20 。城跡の西麓には「土居」という地名が残り、この一帯に香川氏の平時の居館があったと推定されるほか、一族の墓所と伝えられる場所も現存している 5

城内には、一族の始祖である鎌倉権五郎景正を祭神とする「権五郎神社」が建立されていた 5 。これは、一族が自らのルーツと武家の誇りをいかに重視していたかを示す象徴的な存在であり、この神社は江戸時代に入ってからも、子孫である香川景継によって修復されるなど、代々大切に祀られてきた 5

八木城の戦略的な価値は、単なる防御拠点に留まらない。その立地は太田川の舟運を直接的に管理・支配できる要衝であり、一種の「水軍城(みずじろ)」としての機能が極めて重要であった 23 。後述するように、香川氏は毛利水軍の中核をなす「川内警固衆」を率いる存在となるが、その基盤はまさにこの八木城と太田川の支配にあった。彼らの権力は、土地からの収穫のみならず、水上交通を掌握することによる経済的・軍事的な力に支えられていたのである。この水運の支配者としての側面こそが、後に毛利元就が香川氏を高く評価する大きな要因となった。

第三節:一族の武勇を物語る伝承 ― 『陰徳太平記』に見る大蛇退治

香川一族の武勇を象徴する物語として、後世に編纂された軍記物『陰徳太平記』に記された大蛇退治の伝説がある 25

物語によれば、享禄5年(1532年)、香川光景が八木城主であった頃、城の背後にそびえる阿武山に象をも飲み込むという大蛇が出現し、近隣の人々を大いに苦しめていた 27 。この事態を憂慮した光景は、大蛇を退治する者を募った。これに名乗りを上げたのが、香川一族の若武者で、当時18歳であった香川勝雄(かつたか)である 1

勝雄が山に入り大蛇と対峙すると、にわかに暴風雨が巻き起こり、山が鳴動するほどの激闘が繰り広げられた。死闘の末、勝雄は大刀を振るって見事大蛇の首を斬り落としたという 25 。この伝説は、史実として確定することは困難であるが、香川一族の武門としての勇猛さを後世に伝えるための象徴的な逸話として、重要な意味を持っている 26

【表2:安芸香川氏 主要人物系図】

香川光景を中心とした一族の血縁関係は、当時の安芸国における国人領主間の婚姻政策や、一族の存続戦略を理解する上で重要である。光景自身は安芸の有力国人である平賀氏から正室を迎え、その嫡男・広景は、後に毛利家中で重きをなす熊谷信直の娘を妻としている 3 。これは、国人領主間の連携を強化するための典型的な政略結婚であった。また、光景の子らが、関ヶ原の戦いの後に毛利本家と筆頭支藩である吉川家にそれぞれ仕えたことは、一族の存続をかけた巧みな戦略であった 16

Mermaidによる家系図

graph TD A[香川吉景] --> B(香川元景); B --> C{香川光景}; D[平賀興貞] --> E(娘); E -- 正室 --> C; C --> F(香川広景); C --> G(香川春継); C --> H(香川就親); C --> I(香川政俊); C --> J(学雄); K[熊谷信直] --> L(娘); L -- 正室 --> F; F --> M(香川就景); subgraph 一族 N[香川勝直] --> O(香川勝雄); end style C fill:#f9f,stroke:#333,stroke-width: 4.0px

第二章:主家・安芸武田氏の落日

第一節:権勢の衰えと内紛の予兆

香川光景が家督を継いだ頃、主家である安芸武田氏は、かつての安芸守護としての権勢を失い、存亡の危機に瀕していた。当主の武田元繁が有田中井手の戦い(1517年)で毛利元就に討たれて以降、後継者の夭折や討死が相次ぎ、家中の統制は著しく乱れていた 1

この衰退を象徴するのが、有力家臣であった熊谷信直の離反である。信直は武田氏を見限り、台頭著しい毛利氏へと鞍替えした 6 。これに激怒した武田氏当主・武田光和は、天文2年(1533年)、香川光景や己斐直之といった家臣に命じて熊谷氏の居城・三入高松城を攻撃させた。しかし、この「横川表の戦い」において、武田軍は寡兵の熊谷勢に敗北を喫してしまう 1 。この敗戦は、武田氏の軍事力がもはや安芸国を統べるに足るものではないことを内外に示す結果となった。

第二節:和平か、抗戦か ― 家中を二分した路線対立と光景の立場

武田光和が跡継ぎなく病死すると、安芸武田家中は後継者問題と、大内・毛利といった周辺勢力への対外方針を巡って、深刻な内紛状態に陥った 6 。この時、家中は二つの派閥に分裂する。

一つは、品川左京亮(品川信定)らを中心とする「主戦派」である。彼らは、亡き主君たちの弔い合戦として、直ちに毛利・熊谷氏と戦うべきだと強硬に主張した 2

これに対し、香川光景は「和平派」の筆頭であった。彼は、疲弊しきった家中の現状を冷静に分析し、このまま戦を続ければ共倒れになると判断した。そして、まずは若狭武田氏から有力な養子を迎え、家中の体制を立て直すことを優先し、その間は大内氏や毛利氏と一時的に和睦を結んで時間を稼ぐべきだという、極めて現実的な路線を提唱したのである 2 。光景のこの主張は、単なる臆病さから来るものではなく、大局を見据えた戦略的な判断であった。しかし、この路線対立は武田家中に決定的な亀裂を生じさせた。

第三節:八木城攻防戦 ― 同族との相克と武田氏滅亡への道程

最終的に、家中の合意形成はなされないまま、若狭武田氏から武田信実が新たな当主として迎えられた。しかし、これは対立の根本的な解決にはならず、むしろ家臣団の軋轢を一層深刻化させる結果となった 6

そしてついに、主戦派の品川左京亮らは実力行使に出る。彼らは和平派の筆頭である香川光景を排除すべく、その居城・八木城に大軍を差し向けたのである 5 。同族同士が相争うという、まさに末期的な状況であった。多勢に無勢の光景は窮地に陥るが、ここで意外な援軍が現れる。かつて横川表で敵として戦った熊谷信直や、平賀氏といった国人たちが光景に味方したのである 6 。これは、光景が武田家中の路線対立の中で、他の国人領主たちと独自の政治的連携を築いていたことを示唆している。この支援もあって、光景は辛くも品川勢を撃退し、八木城を守り抜いた。

しかし、この内乱は安芸武田氏の崩壊を決定づけた。当主の信実は人心の離反を悟り、居城の佐東銀山城から出奔。家臣団もこれを機に四散し、安芸武田氏は事実上、自壊した 6 。その後、出雲の尼子氏の支援を得て信実が一時的に佐東銀山城に復帰するも、毛利元就が吉田郡山城の戦いで尼子軍を破ると、信実は再び出雲へと逃亡した 6

天文10年(1541年)、毛利元就は主を失った佐東銀山城を攻略。この時、城に残っていた旧武田家臣らに対し、元就は香川光景を通じて降伏を呼びかけさせた 1 。光景がこの役割を担ったことは、元就が彼を単なる敗将ではなく、旧武田家臣団に影響力を持つ人物として高く評価していたことを示している。光景の説得もあり、城兵は抵抗することなく開城。ここに、承久の乱以来、約320年にわたって安芸国に君臨した名門・安芸武田氏は、完全に滅亡したのである 7

第三章:毛利家臣としての飛躍 ― 厳島の戦い

第一節:毛利氏への帰属 ― 新たな主君との関係構築

安芸武田氏の滅亡後、香川光景は、熊谷信直や己斐直之といった旧武田家臣の国人領主たちと共に、毛利元就の家臣団に正式に組み込まれた 32 。これは光景にとって、滅びゆく主家から、旭日の勢いにある新たな主君へと乗り換える、一族の存亡を賭けた決断であった。

この時、毛利元就にとって最大の収穫の一つは、香川氏が率いていた「川内警固衆」と呼ばれる水軍戦力を手に入れたことであった 35 。山間部の国人であった毛利氏は、当初有力な水軍を保有していなかった。太田川河口域を拠点とする香川氏らを麾下に収めたことで、毛利氏は広島湾への進出と、瀬戸内海の制海権掌握に向けた重要な足掛かりを得たのである 24

第二節:広島湾の要害・仁保島城 ― 光景と謎の盟友「東林坊」

天文24年(1555年)、毛利元就は、主家であった大内氏の実権を握る陶晴賢との全面対決を決意する。世に言う「厳島の戦い」の始まりである。この決戦に臨むにあたり、元就は広島湾の防衛体制を固める。その一環として、湾の入り口に浮かぶ戦略的要衝・仁保島(現在の広島市南区黄金山)に築かれた仁保島城の城番(城代)として、香川光景を抜擢した 8

この時、光景と共に仁保島城の守備を命じられたのが、「東林坊」という謎多き人物である 38 。史料によれば、東林坊は安芸国牛田(現在の広島市東区)を拠点とする真言宗の僧侶であったが、後に浄土真宗(一向宗)に改宗したとされ、多くの門徒を率いる武将的な側面も持っていた 40 。彼もまた、かつては安芸武田氏に属した水軍の将であったとされ、光景とは旧知の間柄であった可能性が高い 38 。元就が、伝統的な武士である光景と、武装した宗教勢力を率いる東林坊を共同の城代に任じたことは、身分や出自にこだわらず、実力本位で多様な人材を登用した元就の卓越した組織運営術を物語っている。

第三節:厳島合戦の前哨戦 ― 仁保島合戦における光景の武功

厳島の戦いの火蓋が切られる直前の弘治元年(1555年)7月、陶軍の将・三浦房清が、軍船15隻、兵力500余りを率いて仁保島城に攻め寄せた 9 。対する香川光景と東林坊が率いる城兵は、わずか200であった 9

兵力で圧倒的に劣る中、光景らは城の地の利を活かして奮戦。朝から夕刻にまで及んだという激戦の末、ついに陶軍を撃退することに成功した 8 。この「仁保島合戦」における光景の勝利は、単なる一合戦の勝利以上の戦略的意義を持っていた。この手痛い敗北が、陶晴賢を焦らせ、毛利方の防備が固い本土側を避けて、厳島本島へ大軍を直接上陸させるという、元就の術中にはまる決断を促す一因になったと指摘されているからである 9 。光景の勝利は、元就が描いた大戦略の成功に不可欠な布石だったのである。

続く厳島本戦においても、光景は水軍の一翼を担い、陶軍の壊滅に貢献した 1 。軍記物『陰徳太平記』には、この戦いの混乱の中、かつて元就が召し抱えたいと望んでいたという陶方の武将・三浦興武(房清の子)を、光景がそのことを思い出して生け捕りにしたという逸話も残されている 9

第四節:毛利水軍の一翼 ― 川内警固衆としての香川氏

香川氏が率いた「川内警固衆」は、太田川流域を拠点とする国人たちで構成された水上戦闘集団であり、安芸武田氏滅亡後にその組織ごと毛利氏に吸収された 35 。毛利元就は、この新たな水軍戦力を統括する責任者として譜代の重臣である児玉就方を任命したが、香川光景のような旧武田系の将を現場指揮官として重用し、その能力を最大限に活用した 24

厳島の戦いにおける毛利方の勝利は、元就の謀略の巧みさだけでなく、この新しく編成された毛利水軍が、村上水軍の協力も得て瀬戸内海の制海権を完全に掌握したことによってもたらされた。その中で、仁保島合戦での勝利をはじめとする香川光景の活躍は、彼が毛利水軍の中核を担う不可欠な武将として、新たな主君のもとで確固たる地位を築いたことを明確に示している。

第四章:中国の覇権をめぐる戦陣

第一節:尼子氏との攻防 ― 山陰地方での戦歴

厳島の戦いで陶氏を滅ぼし、周防・長門二国を平定した毛利氏の次なる目標は、長年の宿敵である出雲の尼子氏であった。香川光景も、毛利軍の主力部将として、その戦いの最前線である山陰地方へと転戦していく 1 。彼はもはや単なる水軍の将ではなく、陸戦もこなすオールラウンドな指揮官としての役割を期待されていた。

永禄7年(1564年)、光景は備中の三村家親と共に伯耆国(現在の鳥取県中西部)へ出陣し、尼子方の拠点である不動ガ嶽城を攻撃した。尼子軍が救援に駆けつけるもこれを撃退し、城を攻略することに成功する 1 。翌永禄8年(1565年)には、毛利元就が総力を挙げて臨んだ第二次月山富田城の戦いに従軍したほか 10 、息子の広景、春継らと共に伯耆国大江城を攻略するなど、着実に戦功を重ねていった 11

この時期の光景の活動を示す史料として、永禄6年(1563年)5月10日付で、毛利家の部将である矢田秀職という人物と連名で発給した書状が現存している 48 。これは、彼が単なる戦闘指揮官としてだけでなく、占領地における統治や管理といった奉行的な行政任務も担っていたことを示唆しており、毛利家臣団の中で彼の信頼と地位が高まっていたことを物語っている。

第二節:苦境の防衛戦 ― 美作高田城の死闘と一族の犠牲

香川一族にとって、最も過酷な戦いの一つとなったのが、永禄12年(1569年)の美作高田城(現在の岡山県真庭市)における籠城戦である。

この年、尼子氏再興を掲げる山中幸盛らが挙兵。これに呼応した美作国の三浦氏や、備前国の宇喜多直家が連合軍を形成し、毛利方の重要拠点であった高田城に攻め寄せた 1 。城を守る毛利方の兵力は手薄であり、元就は急遽、援軍として香川光景、広景、春継の親子を派遣した。彼らは城将・安達信泰と共に高田城に入り、籠城戦の指揮を執ることになった 1

しかし、戦況は絶望的であった。城内には元々尼子氏に従っていた兵が多く、彼らが次々と敵に内応したため、香川勢は内と外から挟撃される絶体絶命の苦境に陥ったのである 10 。この混戦の中、第一章の伝説にも登場した、一族きっての剛勇の士である香川勝雄が、押し寄せる宇喜多勢の猛攻の前に獅子奮迅の働きを見せるも、力尽きて討死を遂げた 12

勝雄をはじめとする多くの犠牲を払いながらも、光景らの奮戦によって高田城は辛うじて落城を免れた。しかし、その後、毛利軍は戦略的判断から同城を放棄せざるを得ず、結果的に高田城は三浦氏の手に渡った 1 。この戦いは、香川一族に大きな傷跡を残すとともに、毛利氏と宇喜多氏の力関係が変化していく転換点の一つともなった。

第五章:人物像、晩年、そして後世への影響

第一節:香川光景の人物像 ― 史料から読み解く知略と判断力

香川光景の生涯を史料から追うと、一人の武将の姿が浮かび上がってくる。それは、単なる武勇一辺倒の猛将ではなく、知略と冷静な判断力を兼ね備えた「智将」としての側面である。

第一に、彼は 冷静な現実主義者 であった。主家・安芸武田氏の衰亡期において、感情的な主戦論に与することなく、自家の戦力を客観的に分析し、和平による勢力温存という現実的な道を選んだ 6 。この選択は、滅びゆく主家と運命を共にするのではなく、次代を見据えて一族の存続を最優先する、国人領主としてのしたたかな判断力を示している。

第二に、彼は 優れた戦術家 であった。厳島の戦いの前哨戦である仁保島合戦において、倍以上の兵力差を覆して陶軍を撃退した手腕は、彼の戦術指揮官としての能力の高さを如実に物語っている 8 。この勝利が、元就の大戦略に与えた影響は計り知れない。

第三に、彼は 主君から深く信頼される指揮官 であった。毛利元就は、武田氏滅亡時の残党説得 1 、広島湾の要衝・仁保島城の防衛 8 、そして尼子・宇喜多連合軍に対する美作高田城の救援 1 といった、いずれも戦局を左右しかねない極めて重要な任務を、次々と光景に委ねている。これは、外様でありながらも、光景の能力と忠誠心に元就が全幅の信頼を寄せていたことの証左に他ならない。

第二節:毛利家臣団における地位と知行

毛利家臣団の中において、香川光景は旧安芸武田氏の家臣という外様の立場であった。しかし、その卓越した武功と知略によって重用され、同じく武田氏から毛利氏に鞍替えした平賀氏、熊谷氏、己斐氏といった国人領主たちと共に、毛利氏の中国地方制覇に不可欠な戦力として貢献した 51

光景の具体的な知行高(石高)を直接的に示す一次史料の発見には至っていない。しかし、天正19年(1591年)に豊臣秀吉の命で行われた毛利氏の知行割において、他の主要家臣と同様に相応の所領を与えられていたことは想像に難くない 53 。彼が担った軍事的・行政的な役割の重要性を鑑みれば、数千石クラスの知行を有する、有力家臣の一人として遇されていたと推測される。

第三節:晩年と子孫たちの足跡 ― 岩国藩家老としての香川家

光景は、美作高田城での死闘の後、家督を嫡男の広景に譲って隠居したと伝えられ、慶長10年(1605年)にその波乱の生涯を閉じた 1

彼の死後も、香川一族は巧みな戦略で時代の荒波を乗り越えていく。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの結果、毛利氏が防長二国に大減封されるという危機に際し、一族は二つに分かれる道を選んだ。嫡男の広景は毛利宗家に随って萩へ移り、次男の春継は、毛利家の支藩筆頭であり、独立性の高い吉川氏に従って岩国へ移ったのである 16 。これは、どちらかの家が浮沈しても、もう一方で家名を存続させられるという、リスクを分散させるための巧みな「分割投資」であった。

この戦略は功を奏し、特に岩国へ移った家系は、吉川氏の家老職を代々世襲する名家として、江戸時代を通じて繁栄した 14 。その栄華を今に伝えるのが、現在の山口県岩国市に現存する「香川家長屋門」である。元禄年間(17世紀末)に建てられたこの壮大な門は、山口県の有形文化財に指定されており、香川家が岩国藩においていかに高い地位を保ち続けたかを物語る、貴重な物的な証拠となっている 14

第四節:歴史叙述への貢献 ― 軍記物『陰徳太平記』と香川家

香川一族が後世に残した最も大きな遺産は、武功や家格のみに留まらない。それは、西国の戦国史を知る上で欠かすことのできない一級の軍記物、『陰徳太平記』の編纂に深く関わったことである。

この大作は、岩国藩の家老であった香川正矩(まさのり)が執筆した『陰徳記』を、その子である香川景継(かげつぐ、号は宣阿)が、父の遺志を継いで潤色・補筆し、完成させたものである 14 。彼らは、自らが歴史の「記録者」となることで、毛利氏の栄光の歴史を後世に伝えるとともに、その中で活躍した祖先・香川光景や一族の武勇伝を、永く、そして好意的な形で語り継ぐことに成功した。香川勝雄の大蛇退治伝説 25 や、美作高田城での奮戦 11 といった逸話が、今日我々の知るところとなっているのは、まさにこの『陰徳太平記』の存在に負うところが大きい。香川光景という一介の国人領主の物語は、彼自身と、彼を語り継いだ子孫たちの共同作業によって作り上げられた、類稀な歴史的遺産なのである。

終章:乱世を渡る舟 ― 香川光景の歴史的評価

香川光景の生涯を総括するならば、それは、滅びゆく主家(安芸武田氏)という泥舟から、未来のある大船(毛利氏)へと巧みに乗り移ることで、自らと一族の運命を切り開いた、戦国国人領主の典型的な姿であったと言える。

しかし、彼は単なる時流に乗っただけの人物ではない。大局を見通す戦略眼、冷静な現実主義に基づく政治判断力、そして水軍の運用という高度な専門技能を兼ね備えた、稀有な「智将」であった。主家の内紛においては、感情論に流されず和平を唱え、新たな主君・毛利元就のもとでは、厳島合戦の勝敗を左右する前哨戦に勝利し、その信頼を勝ち取った。彼の的確な判断と行動は、常に一族の存続と繁栄という明確な目標に向けられていた。

その知略は、結果として一族を江戸時代における岩国藩家老という安定した高い地位へと導き、さらには『陰徳太平記』の編纂者という文化的な名誉をもたらした。香川光景は、まさに戦国乱世という荒波を渡る「舟」の舵を、的確な判断力で操り続けた、優れた船頭であった。その航跡は、地方の国人領主が、時代の激しい変化にいかにして適応し、生き残りを図ったかを示す、貴重な歴史的ケーススタディとして、後世の研究に多くの示唆を与え続けている。

引用文献

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