戦国時代の讃岐国(現在の香川県)に、その名を刻んだ一人の武将がいる。香西佳清(こうざい よしきよ)、彼は後年、病により視力を失いながらも一軍を率いたことから「盲目の大将」として語り継がれる人物である 1 。彼の生涯は、土佐の長宗我部元親による四国統一の野望に立ち向かい、居城に籠城して戦ったという勇姿で知られている。しかし、その人物像は単なる悲劇の武将という一面だけでは語り尽くせない。激動の時代を生き抜いた地方豪族の当主として、彼は複雑な外交戦略と一族の存亡を賭けた苦闘の中に身を置いていた。
本報告書は、香西佳清に関する断片的な情報や伝説を整理し、香西氏の子孫である香西成資が編纂した『南海通記』や、江戸時代に成立した『全讃史』、『西讃府志』、そして近代に編まれた『香西史』といった歴史書を基に、その記述を批判的に検討しつつ、香西佳清という武将の実像に多角的に迫ることを目的とする 3 。
佳清が生きた16世紀後半の四国は、中央の織田・豊臣政権による天下統一の波と、土佐から破竹の勢いで勢力を拡大する長宗我部氏の圧力が交錯する、まさに権力の坩堝であった。讃岐の国人たちは、旧主である細川氏、その実権を奪った三好氏、そして新たに台頭する織田氏、長宗我部氏といった大勢力の間で、生き残りをかけた選択を常に迫られていた。佳清の生涯は、この時代の讃岐国人衆が辿った運命の象徴と言えるだろう。
以下に、佳清の生涯と関連する出来事を年表として示す。
表1:香西佳清 関連年表
西暦 |
和暦 |
年齢 |
出来事 |
1553年 |
天文22年 |
1歳 |
誕生 1 。 |
1568年 |
永禄11年 |
16歳 |
父・香西元載が備前本太城攻めで戦死。佳清が家督を相続したと推定される 1 。 |
1570年 |
元亀元年 |
18歳 |
野田・福島の戦いに三好方として参陣。この時、疱瘡に罹り失明する 1 。 |
1574年 |
天正2年 |
22歳 |
香川之景と共に、阿波の三好長治の強権支配に反発し、離反を示唆する 1 。 |
1575年 |
天正3年 |
23歳 |
長宗我部氏の侵攻に備え、新拠点として藤尾城の築城を開始する 1 。 |
1576年 |
天正4年 |
24歳 |
香川之景と共に織田信長に従属する 1 。 |
1578年 |
天正6年 |
26歳 |
妻との離縁を機に義父・羽床資載と抗争。また、弟・千虎丸を巡る家督争い(成就院事件)が勃発する 1 。 |
1582年 |
天正10年 |
30歳 |
長宗我部元親の次男・香川親和を大将とする軍が讃岐に侵攻。藤尾城に籠城するも、香川之景の仲介で和睦し、長宗我部氏に臣従する 9 。 |
1585年 |
天正13年 |
33歳 |
豊臣秀吉の四国征伐が開始。長宗我部方として、小西行長軍に対し大砲を用いて奮戦するも敗北。下野する 1 。 |
1588年 |
天正16年 |
36歳 |
死去。享年36 1 。 |
香西佳清の生涯を理解するためには、まず彼が背負っていた「香西氏」という一族の歴史と、その権勢の背景を知る必要がある。香西氏は単なる地方の土豪ではなく、鎌倉時代から続く由緒と、室町時代には中央政界にも影響を及ぼした名門であった。
香西氏の出自は、平安時代に讃岐国司であった藤原北家、あるいは国衙の在庁官人であった綾氏に遡るとされる 14 。武士団としての確固たる地位を築いたのは、鎌倉時代の承久3年(1221年)のことである。承久の乱において幕府方として戦功を挙げた新居資村が、恩賞として香川・阿野両郡を与えられ、勝賀山に詰城としての勝賀城、山麓に平時の居館である佐料城を築いた 10 。そして、本拠地の名を取って「香西」を名乗り、左近将監に任じられたのがその始まりと伝えられている 15 。
室町時代に入ると、讃岐国の守護職は管領・細川京兆家が世襲するところとなり、香西氏はその有力な被官(内衆)として重用された。特に15世紀の当主・香西元資は、同じく讃岐の有力国人であった香川元明、安富盛長、奈良元安と共に「細川四天王」と称揚されるほどの重臣であり、応仁の乱では東軍の総大将・細川勝元を支えて畿内でも武功を挙げた 2 。この事実は、香西氏が単なる讃岐の一豪族に留まらず、中央政権の動向にも深く関与する名門であったことを示している。
応仁の乱後、香西氏は二つの系統に分かれる。元資の長男・元直の系統は、丹波国などに所領を得て在京し、管領家を直接補佐する役割を担い「上香西氏」と呼ばれた。一方、次男・元綱の系統が讃岐の本領を相続して在国し、「下香西氏」と呼ばれた 3 。香西佳清は、この讃岐の地を守った下香西氏の直系の子孫である。
主家であった細川京兆家が、三好長慶らによる下剋上と内紛によって衰退すると、香西氏もまた時代の大きな渦に巻き込まれていく。阿波から勢力を伸ばした三好氏が讃岐を平定すると、香西氏もその強大な力の前に屈し、その傘下に入った 7 。これは、旧主への忠義よりも一族の存続を優先する、戦国武士の現実的な生存戦略であった。
佳清の祖父・香西元成、父・元載の時代には、三好長慶やその弟・実休に従い、各地の合戦に参加している 7 。特に父の元載(駿河守入道宗心)は数々の戦功を挙げた武将であったが、永禄11年(1568年)、毛利氏と結んで備前国児島の本太城を攻めた際、宇喜多氏の守将・能勢頼吉の反撃に遭い、壮絶な戦死を遂げた 1 。この父の死が、当時まだ16歳であった若き佳清の家督相続へと繋がったのである。中央政界で活動した上香西氏が政争の渦中で早期に衰退したことは、結果として本国に残った下香西氏(佳清の家系)を政治的に孤立させ、三好氏や後に台頭する長宗我部氏といった外部勢力に対する抵抗力を削ぐ一因となった可能性も指摘できる。
以下に、佳清に至る香西氏の主要な系譜を簡略化して示す。
表2:香西氏 主要系図(簡略版)
- 香西元資
- 上香西氏(在京)
- 元直
- 元長
- 下香西氏(在国)
- 元綱
- 元定
- 元成
- 元載
- **佳清**
出典: 3 に基づく
香西佳清の生涯は、彼自身の身体的な苦難と、一族を取り巻く内外の危機が複雑に絡み合った、まさに波乱に満ちたものであった。失明という絶望的な状況にありながら、彼は一族の当主として、迫り来る大国の脅威と内紛の火種に立ち向かい続けた。
天文22年(1553年)、佳清はこの世に生を受けた 1 。父・香西元載が永禄11年(1568年)に備前での戦いで討死したため、佳清はわずか16歳にして、讃岐の名門・香西家の家督を継ぐことになったと見られる 1 。
若き当主を待ち受けていたのは、過酷な運命であった。家督相続からわずか2年後の元亀元年(1570年)、佳清は主家である三好三人衆方として、織田信長と戦った摂津国の「野田・福島の戦い」に参陣した 1 。この戦いの最中、当時流行していた疱瘡(天然痘)に罹患し、一命は取り留めたものの、両目の光を永遠に失ってしまう 1 。時に18歳。これ以降、彼は「盲目の大将」として、その後の生涯を歩むこととなる。
佳清は視力を失っても、領主としての務めを放棄することはなかった。彼は三好氏に従いつつも、その支配が揺らぐと見るや、機敏な外交戦略を展開する。
当初は三好一族として各地を転戦していたが、阿波で三好本家を継いだ三好長治が、讃岐大内郡を縁戚の安富氏に割譲させるなど強権的な支配を始めると、これに強く反発した 1 。天正2年(1574年)、佳清は西讃岐の雄・香川之景(かがわ ゆきかげ)と連名で、長治の実弟である十河存保(そごう まさやす)に対し、長治ら阿波勢の非道を訴え、これ以上横暴が続くならば離反も辞さないとする警告の書状を送りつけた 1 。これは、単なる従属者ではなく、讃岐国人としての自立性を守ろうとする佳清の強い意志の表れであった。この動きに対し長治は報復として讃岐に出兵するが、香西・香川方に大西氏や長尾氏といった他の讃岐国人衆も加勢したため、撤退を余儀なくされている 1 。
さらに、三好氏の勢力が畿内で衰退し、織田信長の権勢が四国にも及び始めると、佳清はすぐさま次なる大勢力へと目を向ける。天正4年(1576年)、香川之景と共に信長に使者を派遣し、従属を表明した 1 。この外交転換は、西から迫る長宗我部氏の脅威に対抗するため、中央の最大権力者を新たな後ろ盾にしようとする、極めて合理的かつ迅速な政治判断であった。
しかし、佳清の前途には外患だけでなく、深刻な内憂が待ち構えていた。土佐の長宗我部元親による四国統一の野望が現実的な脅威となると、佳清は防衛体制の抜本的な見直しに着手する。天正3年(1575年)、従来の平時の居城であった佐料城と詰城の勝賀城に代わる新拠点として、海に面した要害の地・藤尾山に「藤尾城」の築城を開始した 1 。これは、長宗我部氏の侵攻を予見し、防衛線を再構築しようとする彼の先見性を示すものであった。
だが、この決断は一族内に波紋を広げた。天正6年(1578年)、佳清が妻(同族である羽床伊豆守資載の娘)を一方的に離縁したことが引き金となり、義父であった羽床資載が離反し、両者は抗争状態に陥った 1 。
さらに同年、より深刻な内紛が勃発する。「盲目の大将」の将来を憂い、その指導力に疑問を抱いた一族の香西清長・清正父子が、佳清の弟・千虎丸を新たな当主として擁立しようとクーデターを画策したのである。清長らは佳清派の重臣である植松資正らを成就院にて殺害する挙に出た(成就院事件) 2 。この内乱は、最終的に佳清派が勝利を収め、清長父子は備前国へ逃亡したものの、香西氏の内部結束に深刻な亀裂を生じさせた。この一連の内紛による弱体化が、好機と見た長宗我部氏の本格的な侵攻を招き寄せる直接的な要因となったのである。
天正10年(1582年)8月、土佐の長宗我部元親は、ついに讃岐平定の総仕上げとして大軍を東へと差し向けた。この軍の総大将は、元親の次男であり、先に長宗我部氏に降伏していた西讃の雄・香川信景(之景より改名)の養子となっていた香川親和であった 13 。
佳清は、完成して間もない藤尾城に籠城し、長宗我部軍を迎え撃った 2 。戦いは、城の南に位置する伊勢の馬場や、西光寺表、天神郭といった城の周辺で激しく繰り広げられたと伝わる 22 。
しかし、衆寡敵せず、藤尾城は落城寸前に追い込まれる。まさにその時、戦況を大きく左右する出来事が起こった。攻め手である香川親和の養父・香川信景が両軍の間に割って入り、戦闘の中止を求めたのである 12 。信景にとって、佳清はかつて三好氏に対して共に戦った盟友であり、また香西氏と香川氏は共に讃岐の名門として、旧主・細川京兆家に仕えた間柄であった。さらに、『南海通記』などによれば、かつて香川氏が三好氏に攻められた際に香西氏の仲介で和睦した恩義があったともされる 22 。この複雑な人間関係が、絶体絶命の状況下での和睦へと繋がった。
この和睦の結果、香西氏は長宗我部氏の軍門に下り、その支配下に入ることで所領を安堵された 22 。これは実質的な降伏であったが、香川信景という旧友の仲介によって、一族の滅亡という最悪の事態は回避されたのである。この一連の出来事は、単純な敵・味方の二元論では割り切れない、戦国時代の国人領主たちの間に存在した複雑な利害と人間関係を如実に物語っている。
長宗我部氏への臣従によって一時的な安寧を得た佳清であったが、時代の奔流は彼とその一族を安住の地にとどめてはくれなかった。天下統一の最終段階に入った豊臣秀吉の巨大な力が、四国に迫っていたのである。
天正13年(1585年)、天下統一事業の総仕上げとして、羽柴(豊臣)秀吉が10万を超える大軍を四国へ派遣した(四国征伐)。長宗我部氏に臣従していた佳清は、その一員として秀吉軍と戦うことを余儀なくされた 2 。
この戦いにおいて、佳清の武将としての気概を示す逸話が残されている。攻め手の一人である小西行長の部隊が香西浦に迫った際、盲目の佳清は、当時最新の兵器であった大砲による砲撃を指示し、これに応戦したという 1 。視力を失いながらも、聴覚と状況判断を頼りに的確な指揮を執り、最新兵器を駆使して奮戦したこの逸話は、「盲目の大将」のイメージをより一層劇的なものにしている。
しかし、圧倒的な物量を誇る秀吉軍の前に、長宗我部元親は降伏。佳清もまた敗れ、藤尾城を明け渡して下野し、ここに戦国大名としての香西氏は終焉を迎えた 1 。その後は「宗可」と号し、新たに讃岐の国主となった仙石秀久、次いで生駒親正から扶持(給与)を与えられ、故郷で静かな余生を送ったとされる 1 。
そして天正16年(1588年)、佳清は波乱の生涯を閉じた。享年36であった 1 。その墓は、高松市香西の常世山(お四国さん)にあり、今も地域の人々によって語り継がれている 29 。
歴史の舞台から去った佳清は、その後、地域の伝説の中で新たな役割を担うことになる。高松市五色台の名刹・根香寺(ねごろじ)には、佳清にまつわる有名な「牛鬼(うしおに)伝説」が残されている。
その縁起によれば、江戸時代初期、寺の近隣の青峰山に牛の体に鬼の顔を持つ恐ろしい怪物「牛鬼」が棲みつき、人や家畜を襲い、村人を苦しめていた。これを見かねた領主の香西佳清は、弓の名手であった家臣・山田蔵人高清(やまだ くらんど たかきよ)に牛鬼退治を命じた 31 。
高清は根香寺の本尊である千手観音に21日間参籠して必勝を祈願した後、牛鬼と対峙し、見事にその口を矢で射抜いて退治した。高清は牛鬼の角を切り取って根香寺に奉納し、佳清はこれを大いに賞したという 33 。この牛鬼の角とされるものは、現在も根香寺に寺宝として大切に保管されている。
この伝説は、歴史上の敗将であった佳清を、民の苦難を救う慈悲深い名君として地域社会の記憶に刻み込む役割を果たした。歴史上の人物が、どのようにして地域の英雄として語り継がれていくかを示す、興味深い事例である。
佳清の死と香西宗家の改易により、一族郎党は離散を余儀なくされた。その一部は、新たな領主である池田氏に仕えた記録が残るが、特に注目すべきは、遠く出雲国(現在の島根県)へ移り、松江藩主松平家の重臣となった一族の存在である 3 。
この繋がりは偶然ではなかった。松江藩の藩祖である松平直政(徳川家康の孫、結城秀康の子)の生母は月照院という女性であった。彼女は、讃岐の武将・三谷出雲守長基と、香西備前守清長の娘との間に生まれた子であり、香西氏の血を引いていた 18 。
この縁を頼ったのが、月照院の近親者であった香西太郎右衛門正安である。彼は直政に随従し、大坂の陣などで戦功を挙げ、松江藩士として確固たる地位を築いた 3 。その後も香西氏は松江藩の家臣として続き、2代藩主・綱隆の代には家老職を務めた香西隆清なども輩出している 39 。
讃岐で権力を失った香西一族が、婚姻関係というネットワークを足がかりに全く別の土地で新たな主君を見出し、再び武士としての家名を再興していく過程は、戦国時代から江戸時代への移行期における武士階級のしたたかな生存戦略を物語っている。佳清自身は新興勢力に敗れたが、彼の一族の一部は、その新興勢力を最終的に滅ぼした徳川家の親藩大名の中核を成す家臣となった。これは、個人の運命と一族の運命が、時代の大きなうねりの中でいかに皮肉な形で交錯するかを示す、特筆すべき事例と言えよう。
香西佳清の生涯は、旧来の名門としての誇りと、押し寄せる新しい時代の波との狭間で、必死に一族の存続を図った戦国末期の地方豪族の姿を鮮明に映し出している。彼は、若くして失明するという個人的な悲劇を背負いながらも、決して運命に屈することはなかった。新城の築城、機敏な外交、そして内紛の鎮圧と、その治世は極めて能動的であり、最後まで領主としての責務を全うしようとする強い意志が感じられる。
史料から浮かび上がる佳清の実像は、時に非情な決断も下す、現実的な政治家・武将である。一方で、高松の地に根付いた伝説は、彼を民衆を守る慈悲深い英雄として描く。この二つの顔を持つことこそが、香西佳清という人物の歴史的な奥深さを示している。
彼の物語は、長宗我部元親や豊臣秀吉といった「天下人」の視点から描かれる壮大な歴史の陰で、数多の地方豪族が経験した栄光、苦悩、そして滅亡の軌跡を我々に伝えてくれる。一人の「盲目の大将」の生涯を通して、我々は戦国という時代の複雑さと、そこに生きた人々の確かな息遣いを、より深く感じ取ることができるのである。