最終更新日 2025-05-12

馬場信房

武田氏を支えた不屈の将、馬場信房

序章:武田氏を支えた不屈の将、馬場信房

本報告書は、戦国時代にその名を馳せた武将、馬場信房(ばば のぶふさ、信春(のぶはる)とも称される)の生涯、武功、人物像、そして彼が武田家において果たした役割と後世に与えた影響について、現存する史料や学術的研究に基づき、多角的に明らかにすることを目的とする。特に、彼の類稀なる武勇、卓越した築城の技術、そして武田信玄・勝頼という二人の主君との間に織りなされた関係性に焦点を当てる。

馬場信房は、甲斐の虎と恐れられた武田信玄、そしてその子である勝頼の二代にわたり武田家に仕えた重臣である。彼は、武田四天王 1 、あるいは武田二十四将 1 の一人として、その勇名と主君への揺るぎない忠誠心で広く知られている。彼の活躍の軌跡は、武田家が興隆を極めた時代から、悲劇的な衰退へと向かう重要な歴史的局面と深く結びついているのである。

第一部:馬場信房の生涯と武田家への貢献

第一章:出自と初期の事績

  • 生い立ちと教来石氏
    馬場信房は、永正11年(1514年)またはその翌年の永正12年(1515年)に、甲斐国北巨摩郡教来石郷の在地武士団である武川衆(むかわしゅう)の中でも代表的な存在であった教来石信保(きょうらいし のぶやす)の子として生を受けたとされる 5。初名は教来石民部景政(きょうらいし みんぶ かげまさ)であり、後に信房と改めた 5。
    武川衆は甲斐の国人衆の一つであり、信房のこの出自は、後の武田家中における彼の目覚ましい活躍の揺るぎない基盤を形成したと言えるだろう。在地武士団としての経験は、実践的な戦闘技術や戦術眼を養う上で重要な役割を果たしたと考えられ、これが後に「戦巧者」として高く評価される信房の武勇の礎となったことは想像に難くない。
  • 武田信虎・信玄への仕官
    信房は、武田信玄の父である信虎の時代から武田氏に仕えていた。天文10年(1541年)、信玄が実父・信虎を甲斐から追放した際には、この無血クーデターの成功に陰ながら助力したとも伝えられている 5。この事実は、信房が早くから信玄の非凡な器量を見抜き、その将来に大きな期待を寄せていた可能性を示唆している。
    信玄の初陣とされる海ノ口城攻めにも参加し、敵将であった平賀源心を討ち取るという武功を挙げたとの記録も残る 7。この戦功が、後の侍大将への抜擢に繋がった一因であると考えられる。
    そして天文15年(1546年)、信玄の命により、武田家の譜代家臣であった馬場伊豆守虎貞の名跡を継承し、馬場民部少輔信房と改名した 5。馬場氏は武田家譜代の重臣の家柄であり 8、この名跡を継ぐということは、信房が武田家臣団の中核を担う存在として公に認められたことを意味する。これは、外様に近い立場であった教来石氏からの大抜擢であり、信玄の徹底した実力主義と、信房に対する並々ならぬ期待の表れであったと言えよう。この一連の経歴は、単なる武勇だけでなく、時勢を的確に読む洞察力と主君への忠誠心が高く評価された結果であり、信玄からの信頼を確固たるものにするための布石であったと考えられる。

第二章:武田信玄の懐刀としての活躍

  • 主要合戦における武功
    馬場信房は、武田信玄の主要な戦いの多くに参加し、その武名を轟かせた。信濃平定戦においては、諏訪攻め、北信濃攻略、佐久攻略などで数々の戦功を重ね、侍大将へと昇進した 5。
    特に永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いは、越後の上杉謙信との間で繰り広げられた最大の激戦として知られる。この戦いにおいて信房は、妻女山に布陣する上杉軍本陣を奇襲する別働隊の指揮官の一人として参戦したと、『甲陽軍鑑』をはじめとする諸史料に記されている 1。これは、信玄が考案したとされる「啄木鳥戦法」の成否を左右する極めて重要な役割であり、信房がいかに信玄から深い信頼を寄せられていたかを物語っている。
    永禄11年(1568年)には、駿河侵攻が開始される。この時、信房は山県昌景と共に先鋒として今川領へと兵を進め、難所である薩埵峠を突破し、今川氏の本拠地である今川館を陥落させるという大功を立てた 5。この戦いの最中、今川館が炎上した際、信玄が館内の財宝を確保するよう命じたのに対し、信房は「武田家が財宝目当てで今川を攻めたと世の物笑いになってはなりません」と諫言し、一度運び出された財宝を焼き捨てたという逸話が『甲陽軍鑑』に記されている 5。信玄はこの信房の行動とその真意を「美濃(信房)の申し条、理に適っている」と高く評価し、彼への信頼を一層深めたと伝えられる 5。この出来事は、信房の清廉さを示すと同時に、武田信玄の天下取りにおける「評判」の重要性を彼が深く理解していたことの現れとも解釈でき、単なる武人ではなく、大局的な政治感覚も持ち合わせていた可能性を示唆している。信玄と信房の間には、単なる主従関係を超えた、互いの器量を認め合う深い信頼関係が存在したことを物語るエピソードである。
    その後も、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは、北条軍を相手に先鋒を務めて武功を挙げ 5、元亀3年(1572年)に開始された西上作戦においては、一隊を率いて遠江国の只来城を攻略した。続く三方ヶ原の戦いでは、徳川家康軍と激突し、敗走する家康軍を浜松城近くまで追撃、武田軍の大勝に大きく貢献した 1。この戦いでの信房の活躍は、徳川方に大きな恐怖を与えたとされている 12。
  • 「不死身の鬼美濃」と称された勇名
    馬場信房は、生涯において70回以上の戦闘に参加しながら、天正3年(1575年)の長篠の戦いで討死するまで、かすり傷一つ負わなかったと伝えられている 2。この驚異的な武運と武勇から、彼は「不死身の鬼美濃」と敵味方双方から恐れ敬われた。この「鬼美濃」という異名は、かつて勇将として知られた原虎胤の死後、信玄がその武勇にあやかるよう、信房に美濃守の名乗りを許したことに由来する 3。
    この「不死身」という伝説は、単なる幸運によって生まれたものではなく、彼の卓越した武技、戦場における冷静沈着な状況判断能力、そして優れた部隊指揮能力の高さを示すものと考えられる。この異名は、敵にとっては恐怖の対象であり、味方にとっては士気を著しく高める効果があったと推測される。それは単なる武勇伝を超え、心理戦における武田軍の大きな強みの一つとなっていた可能性があり、信房個人の能力だけでなく、武田軍全体の戦闘力にも好影響を与えていたと言えるだろう。
  • 築城の名手としての側面と関与した城郭
    馬場信房は、武勇のみならず、築城においても優れた才能を発揮した。『甲陽軍鑑』によれば、信玄の軍師として名高い山本勘助から築城術(城取)を教授されたとされ 4、武田流築城術の大きな特徴である丸馬出(まるうまだし)や三日月堀などを効果的に用いた城郭を設計したと伝えられている 4。
    彼が築城や改修、あるいは城代として関与したとされる城は数多く、信濃国の牧之島城 4 や深志城(現在の松本城)の守備 4、駿河国の江尻城 5、諏訪原城 4、田中城の改修 4、遠江国の小山城 7、そして葛山城の攻略 6 などが挙げられる。これらの城郭は、武田氏の領国経営と軍事戦略上、極めて重要な拠点であり、信房の築城術は単に防御施設を構築する技術に留まらず、武田氏の領国支配体制の確立と深く結びついていたと言える。彼が関与した城は戦略的要衝に位置し、兵站線の確保や敵対勢力への牽制など、多面的な役割を担っており、武田家の総合的な国力向上に不可欠な要素であった。
    提案表1:馬場信房が関わったとされる主要城郭一覧

城名

主な関与(築城・改修・城代など)

関連史料(スニペットID)

牧之島城

築城、守将、城代 22

4

深志城

守備

4

江尻城

築城、城代 27

5

諏訪原城

築城(馬場信春に命じて築かせた 17 )、縄張り

4

田中城

改修 20

4

小山城

築城(縄張り) 15

7

葛山城

奇襲して落城 6

6

第三章:武田勝頼の時代と長篠の悲劇

  • 信玄没後の立場と勝頼への進言
    武田信玄が元亀4年(1573年)に陣中で没すると、馬場信房は山県昌景と共に宿老筆頭として、後継者である武田勝頼を補佐する重責を担うこととなった 5。しかし、一部の史料では、勝頼と信房・山県昌景ら宿老との間には確執があり、彼らは勝頼から疎まれたとする説も存在する 1。
    『改正三河後風土記』には、三方ヶ原の戦いの後、信房が三河武士の壮絶な戦いぶりを目の当たりにし、これを称賛した上で、「もし徳川家康と昵懇の仲になっていたならば、今頃は中国地方までもが武田氏の勢力下に入り、天下も思うがままであっただろう」と信玄に語ったという興味深い逸話が記されている 6。この逸話が史実であるか否かは慎重な検討を要するが、仮に事実とすれば、信房が単なる勇将に留まらず、外交戦略の重要性を深く認識し、先見の明を持っていたことを示すものと言えるかもしれない。武田家の長期的な戦略を構想する上で、彼の意見がより重視されていれば、その後の歴史は異なる様相を呈していた可能性も否定できない。
  • 長篠・設楽ヶ原の戦い(天正3年/1575年)における奮戦と最期
    天正3年(1575年)、武田勝頼は三河国の長篠城を包囲するが、織田信長・徳川家康連合軍の大軍が救援に現れ、設楽ヶ原で決戦の時を迎える。この時、馬場信房は織田・徳川連合軍が構築した馬防柵や鉄砲隊の配備を見て、騎馬隊を主力とする武田軍にとって正面からの突撃は不利であると判断し、決戦を回避して本国である甲斐へ一時帰陣するよう勝頼に進言した。しかし、この進言は勝頼に聞き入れられることはなかった 5。さらに、長篠城の攻略に全力を注ぎ、戦況の潮時を見極めて軍を退き、追撃してくる敵軍を信濃国内に誘い込んで殲滅するという具体的な策も示したが、これもまた斥けられたと伝えられる 5。
    信玄の時代には厚い信頼を得ていた信房の進言が、勝頼の代ではことごとく退けられた背景には、武田家の意思決定プロセスにおける変化、あるいは世代間の価値観の相違があった可能性が考えられる。勝頼の若さや焦り、あるいは側近たちの影響 40 など、複合的な要因が絡み合い、この宿老の貴重な意見が生かされなかったことが、長篠における致命的な判断ミスに繋がったとも言えるだろう。
    戦いが始まると、武田軍は織田軍の巧妙な戦術と圧倒的な鉄砲火力の前に苦戦を強いられ、敗色が濃厚となる。この絶望的な状況下で、信房は自ら殿(しんがり)を務めることを申し出て、勝頼主従が戦場から安全に脱出するための時間を稼ぐべく奮戦した 1。
    主君・勝頼の退却を見届けた後、信房は敵中に反転して突入し、獅子奮迅の戦いを繰り広げた末、壮絶な討死を遂げた。享年は60歳または61歳であったと記録されている 1。その凄まじいまでの戦いぶりは、敵方である織田方の史料(『信長公記』など)においても「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と最大限の称賛をもって記されており 5、彼の武勇がいかに卓越していたかを物語っている。
    長篠の戦いにおける信房の死は、単なる一将の戦死に留まらず、武田家にとって山県昌景、内藤昌豊といった多くの宿将を同時に失うという、取り返しのつかない大損失であった。この敗北と宿将たちの死は、武田家の急速な衰退を招き、その後の滅亡へと繋がる大きな要因の一つとなったのである 12。信房の殿軍における行動は、単なる軍事行動という範疇を超え、主君と武田家の存続を願う彼の自己犠牲の精神の崇高な発露であり、武士としての忠義と誇りを最後まで貫き通した壮絶なものであった。この生き様こそが、後世に彼の名が語り継がれる大きな理由となっている。

第二部:馬場信房の人物像と評価

第四章:人物像と逸話

  • 知勇兼備の将としての資質
    馬場信房は、単に武勇に秀でた猛将というだけでなく、深い知略と優れた判断力を兼ね備えた将であったと評価されている。後世の史料では「一国の太守の器量人」とまで称賛されており 3、これは彼が単に戦場での指揮能力に長けていただけではなく、領国を治めるほどの総合的な能力を有していたことを示唆する。江戸時代に編纂された『甲斐国志』には、「智勇常に諸将に冠たり」とその才能が特筆されている 7。
    多くの合戦において敵の大将首を挙げるなどの武功を立てながらも、信房自身は「合戦での勝利が第一であり、いたずらに大将首を取るなどは小さなことである」と述べ、常に大局的な見地に立って武田軍全体の統率に心を砕いたと伝えられる 10。この姿勢は、彼が目先の功名よりも組織全体の勝利を優先する、真の将器の持ち主であったことを示している。
    また、武田信玄が遺したとされる「人は城、人は石垣、人は堀」という言葉 43 を、信房はまさに体現するような人物であったと考えられる。部下からの信頼も厚く、彼らを適切に導き、その能力を引き出すことに長けていたのであろう 10。彼の多方面にわたる高い能力は、「一国の太守の器量人」という評価に値するものであったが、彼は生涯を通じて武田家の一家臣であり続けた。これは、彼の揺るぎない忠誠心の現れであると同時に、戦国時代という激動の時代における個人の能力と、所属する組織の論理との複雑な関係性を示す一例とも言えるだろう。
  • 信玄との信頼関係を示す逸話(今川氏財宝焼却など)
    馬場信房と主君・武田信玄との間には、極めて深い信頼関係が存在したことを示す逸話がいくつか残されている。その中でも特に有名なのが、前述した永禄11年(1568年)の駿河侵攻における今川館の財宝焼却の一件である 5。信玄が今川家の財宝の確保を命じたのに対し、信房は武田家の評判を慮ってこれを焼き捨てた。この行動に対し、信玄は信房の真意を理解し、「美濃(信房)の申し条、理に適っている」と述べ、その諫言を受け入れたとされている 5。この出来事は、両者の間に単なる主従関係を超えた、互いの器量を認め合う深い絆があったことを物語っている。
    さらに、信玄が信房に対し、勇将・原虎胤の死後、「鬼美濃の武名にあやかれ」と美濃守の名を与え、加えて自身の諱である「晴信」の一字「信」を与えて信春と名乗らせたことも、信玄からの信房に対する大きな期待と厚い信頼の表れと言えよう 5。信玄の実力主義と度量の大きさが、信房の才能を開花させ、揺るぎない忠誠心へと繋がり、そして時には諫言も可能な風通しの良い関係性を築き上げた。この良好な君臣関係こそが、武田家の強さの一翼を担っていたと考えられる。
  • 清廉さと大局観
    今川館の財宝よりも主君や武田家の将来的な評判を重んじた信房の姿勢 5 は、彼の清廉潔白な人柄と、目先の短期的な利益に囚われず、長期的な視点から物事を判断する大局観の持ち主であったことを明確に示している。
    また、信房は武田二十四将の中でも、特に思慮深く冷静沈着な宿老として「武田のおとな四人」(山県昌景、内藤昌秀、春日虎綱(高坂昌信)と共に)の一人に数えられている 4。この評価は、彼の人間的な深み、戦場や政務における冷静な判断力、そして武田家臣団における重鎮としての確固たる地位を反映していると言えるだろう。信房の大局観は、数多くの実戦経験に加え、築城などを通じた領国経営への深い関与から培われたものかもしれない。戦場におけるミクロな戦術眼と、国家運営に関わるマクロな戦略眼を併せ持っていたからこそ、的確な判断や主君への価値ある進言が可能であったと考えられる。

第五章:後世における評価と影響

  • 同時代及び後世の史料に見る評価
    馬場信房に関する記述は、同時代から後世にかけて編纂された複数の史料に見られる。特に、江戸時代初期に成立したとされる軍学書『甲陽軍鑑』には、信房に関する逸話が数多く収録されており 7、彼の武勇や知略、そして人間味あふれる人物像を現代に伝える上で極めて重要な史料となっている。ただし、『甲陽軍鑑』の記述には、後世の創作や英雄譚としての脚色が含まれている可能性も歴史学的に指摘されており 13、その内容を鵜呑みにすることなく、史料批判的な視点からの慎重な検討が不可欠である。例えば、「かすり傷一つ負わなかった」という有名な伝説も、彼の武勇を際立たせるための文学的表現である可能性を考慮に入れるべきであろう。しかし、そのような伝説が広く信じられていたこと自体が、彼のカリスマ性や当時の人々が彼に抱いていた畏敬の念を示しているとも言える。
    一方で、敵方である織田方の史料『信長公記』においても、長篠の戦いにおける信房の殿軍での奮戦ぶりは「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と最大限の称賛をもって記録されており 7、敵からもその卓越した武勇が高く評価されていたことが明確にわかる。
    また、江戸時代後期に編纂された甲斐国の地誌『甲斐国志』では、「智勇常に諸将に冠たり」と評され、その知略と武勇が他の武将たちを凌駕していたと記されている 7。
  • 武田家臣団における影響力と他の武将との比較
    馬場信房は、後世に武田四天王 1 の一人として、山県昌景、高坂昌信、内藤昌豊といった名将たちと並び称される存在である。一部の評価では、特に知略と政治力においては四天王の中で最も高い能力値を有していたともされる 2。
    信玄の死後、山県昌景とは共に勝頼を補佐する筆頭宿老の立場にあったが 5、軍政における具体的な朱印状の発行などは山県に比べて確認されておらず、実際の行政上の権限については不明な点も残されている 7。
    他の四天王と比較して出世が遅かったという指摘も存在するが、これは信房の年齢が他の四天王よりも年長であったためではないかと考えられている 7。四天王という呼称自体が後世のものである可能性も高いが、信房が他の三人と比較してどのような点で優れ、あるいは異なる特徴を持っていたのかを考察することは、武田家臣団の多様性と総合的な実力を理解する上で重要である。例えば、知略や政治面での評価が高い一方で、軍政における直接的な文書発給が少ない点は、彼の役割の特質を示唆しているのかもしれない。
  • 史跡・伝承にみる馬場信房
    馬場信房の足跡は、彼にゆかりのある各地の史跡や伝承を通じて、現代にも生き続けている。山梨県北杜市白州町にある自元寺は、信房が開基となって創建したと伝えられており、境内には彼の墓所と位牌が安置されている 6。この地は、信房の屋敷があった場所ではないかと推測されている 6。
    また、壮絶な最期を遂げた愛知県新城市の長篠古戦場跡には、「馬場信房戦死の地」とされる場所や、彼の墓所と伝えられるものが複数存在し、現在も地域の人々によって手厚く供養されている 38。
    彼が築城や改修に深く関わったとされる牧之島城、諏訪原城、小山城などには、現在もその遺構が残り、往時の彼の卓越した築城術を偲ぶことができる 15。これらの史跡は、信房が歴史上の人物としてだけでなく、地域の人々にとって記憶され、語り継がれるべき存在であることを示しており、歴史教育や地域振興のための貴重な資源としても活用されている。
    馬場信房が所用したと伝わる甲冑や武具の現存については、長篠城址史跡保存館 52 や島田市博物館 31 などで武田氏に関連する武具が展示されているものの、信房個人のものとして確実に特定できるものは、現時点の調査では確認できなかった 49。
    書状に関しては、群馬県立文書館に「馬場信房氏収集文書」と題された史料群が存在するが、これは戦国武将である馬場信房自身のものではなく、同姓の別人物による収集文書である可能性が高い 56。戦国期における馬場信房自身の筆による書状の現存は、残念ながら確認されていない 7。
  • 関連作品での描かれ方
    馬場信房の劇的な生涯と際立った個性は、後世の創作意欲を刺激し、様々な作品で取り上げられてきた。1988年に放送されたNHK大河ドラマ『武田信玄』では、俳優の美木良介氏が信房役を演じ、責任感の強い実直な性格で、主君信玄から厚い信頼を寄せられる武将として描かれた 63。
    その他にも、数多くの歴史小説や、近年ではコンピュータゲームなどにおいても、その「不死身」とまで称された勇猛さ、主君への揺るぎない忠誠心、そして長篠の戦いにおける悲劇的な最期などが、繰り返し、そして印象的に描かれている 2。

終章:馬場信房が戦国史に残した足跡

  • 馬場信房の歴史的意義の総括
    馬場信房は、武田信玄の天下取りの夢を支えた知勇兼備の将として、また、武田家が滅亡へと向かう悲劇的な過程の中で、最後まで忠義を貫き通した武将として、日本の戦国史にその名を不滅のものとして刻んでいる。彼の波乱に満ちた生涯は、戦国武将の生き様、主君と家臣との間の複雑な関係性、そして時代の大きなうねりの中で翻弄される個人の運命を、鮮烈に象徴していると言えるだろう。
    「不死身の鬼美濃」とまで称された比類なき武勇、戦略的拠点を見抜く眼力とそれを具現化する卓越した築城術、そして主君に対して諫言をも辞さない清廉さと大局を見据えた判断力は、後世の人々が理想とする武将像の一つとして、高く評価することができる。
  • 現代に語り継がれる武将像
    馬場信房の示した主君への忠誠心、戦場における勇猛果敢な姿、そして長篠の戦いにおける壮絶かつ悲劇的な最期は、時代を超えて現代に生きる我々の心にも深い感銘を与え続けている。その結果、彼の生き様は小説、ドラマ、ゲームといった多様なメディアを通じて、様々な形で語り継がれているのである。馬場信房の生涯は、困難な状況に直面しても自らの信念を貫き通すことの尊さを、我々に教えてくれる。
    彼の生き様、特に長篠の戦いにおける自己犠牲的な行動は、後世において武士道の理想像として捉えられた側面がある。主君への絶対的な忠義、自らの名誉を重んじる高潔な姿勢、そして死をも恐れぬ不屈の勇気は、武士道精神を構成する重要な要素と見事に合致している。
    武田家の興隆から滅亡に至る歴史の中で馬場信房が果たした役割は、現代の組織運営においても示唆に富む多くの教訓を含んでいる。組織における有能な人材の重要性、リーダーシップのあり方、そして時には耳の痛い諫言をも受け入れる度量の必要性など、普遍的な課題を浮き彫りにしている。特に、武田信玄と武田勝頼という二人の異なる個性を持つ主君に対する彼の関わり方の違いと、それがもたらした結果は、組織の盛衰を左右する要因を考察する上で、貴重な事例と言えるだろう。

引用文献

  1. 馬場信春の肖像画、名言、年表、子孫を徹底紹介 | 戦国ガイド https://sengoku-g.net/men/view/154
  2. 【鬼美濃】 馬場信春 【信長の野望 出陣】 https://www.kakedashi.site/meikan-takeda-babanobuharu/
  3. カードリスト/武田家/武031馬場信春 - 戦国大戦あっとwiki - atwiki(アットウィキ) https://w.atwiki.jp/sengokutaisenark/pages/382.html
  4. office-owada.com https://office-owada.com/wp/wp-content/uploads/2022/05/8e9bf59e298e997f72fb92447dc00ad0.pdf
  5. 武田の名将・馬場信春~その働き、比類なし - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5135
  6. 馬場信房屋敷 - FC2WEB http://utsu02.fc2web.com/shiro196.html
  7. 馬場信春 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E4%BF%A1%E6%98%A5
  8. 馬場信春 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/baba.html
  9. 武田家の猛将の強さの秘訣は"臆病の味付け"|Biz Clip(ビズ ... https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-024.html
  10. 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu3.php.html
  11. 三方ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  12. 武田四天王|あいつらは危険すぎる。徳川家康が恐れた武田家最強の家臣たち - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=RpLKHvZED9U
  13. 超入門! お城セミナー 第25回【武将】武田信玄が戦国随一の築城名人だったって本当? https://shirobito.jp/article/396
  14. 岡城 (長野県上田市) | いざ、城跡へ https://ameblo.jp/dl2451-ce3927/entry-11953887784.html
  15. どこにいた家康 Vol.23 小山城 – 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/11798
  16. 牧之島城跡散策MAKINOSHIMA - ながの山城あるき~歴史トレッキングガイド~ https://nagano-yamajiro.com/trekking/makinoshima/
  17. 天下人・徳川家康がほれ込んだ戦いの城「諏訪原城(牧野城)」の歴史 ... https://oi-river-trip.com/the-best-of-things-to-do/suwaharajou/
  18. 諏訪原城 https://sirohoumon.secret.jp/suwaharajo.html
  19. 2018.0805(日)「博物館講座 諏訪原城 〜発掘調査の成果と史跡整備の現状〜」@島田市博物館 https://parapon3.seesaa.net/article/2018-08-05.html
  20. 駿河遠江の武田ゆかりの城を巡る・・・その4 田中城。: funny 一時 ... http://arcadia.cocolog-nifty.com/nikko81_fsi/2013/10/4-a165.html
  21. 馬場昌房 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E6%98%8C%E6%88%BF
  22. 牧之島城跡 /【川中島の戦い】史跡ガイド - ながの観光net https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/shiseki/entry/000686.php.html
  23. 移築された遺跡由来の遺構および 石造物の現状と課題 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/52/52426/131497_1_%E7%A7%BB%E7%AF%89%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%94%B1%E6%9D%A5%E3%81%AE%E9%81%BA%E6%A7%8B%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%B3%E7%9F%B3%E9%80%A0%E7%89%A9%E3%81%AE%E7%8F%BE%E7%8A%B6%E3%81%A8%E8%AA%B2%E9%A1%8C.pdf
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  57. 000all.pdf - 山口県文書館 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/archivesexhibition/AW16bugeitaiiku/000all.pdf
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  59. 群馬県国民健康保険運営協議会 - 群馬県ホームページ(国保医療課) https://www.pref.gunma.jp/page/3185.html
  60. 検索結果一覧 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム - 宮内庁 https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Search?sort=Title&offset=92350&limit=50&searchtype=Freeword
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  62. 国並国会図書館所蔵小杉文庫について https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3051497_po_59-04.pdf?contentNo=1
  63. 武田信玄 (NHK大河ドラマ)とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84+%28NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E%29
  64. 風林火山 (NHK大河ドラマ)とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%A2%A8%E6%9E%97%E7%81%AB%E5%B1%B1+%28NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E%29
  65. 駿河を経て京に移り、足利将軍家の奉公衆となる。追放より30年の時が流れた元亀4年(1573)、信玄が危篤に陥ったことを知った信虎は、再び武田家にて復権するため甲斐への帰国を試みるも https://nobutora.ayapro.ne.jp/about_sp.php
  66. 作品情報 - 映画『信虎』公式-ミヤオビピクチャーズ https://nobutora.jp/about.html
  67. 創立者にみる、若き日々の読書 - 創価大学 https://www.soka.ac.jp/files/en/20170803_195321.pdf
  68. どうする家康36話 偽りの笑顔/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/110319/
  69. 「どうする家康」第36回「於愛日記」 虚と実の狭間で懸命に生きる女性たちの生きざまが重なるとき https://note.com/tender_bee49/n/nb05911549ac2
  70. 【大河ドラマ連動企画 第21・22話】どうする (長篠の戦いで散った名将たち) - note https://note.com/satius1073/n/n939135f34e68
  71. 【信玄公祭り】甲州軍団出陣を見に行く2025|あずさ@訪問記 - note https://note.com/azusa183/n/ne6622ff6f3da