馬場家職は宇喜多直家・秀家に仕えた武将。直家から偏諱を賜り懐刀として活躍。八浜合戦で「七本槍」に数えられ、九州征伐にも従軍。主家滅亡後も家は存続。
戦国時代、備前国に彗星の如く現れ、一代で大大名の地位を築き上げた梟雄・宇喜多直家。その激動の生涯を支え、宇喜多家の礎を築いた数多の家臣団の中に、馬場という名の武将がいた。一般には「馬場職家(ばば しょくいえ/もといえ)」の名で知られるこの人物は、宇喜多家の主要な合戦にその名を連ね、槍働きで数々の武功を立てた猛将として伝わっている 1 。しかし、ゲームや通俗的な歴史書で語られる彼の姿は、断片的な情報の集合体に過ぎず、その生涯の全貌と、戦国武将としての真の価値は十分に解明されているとは言い難い。
本稿の目的は、この馬場という武将の生涯を、現存する史料を丹念に紐解きながら、徹底的に再構築することにある。その過程で、まず解決すべき重要な問題が、彼の「実名」である。後世の軍記物や編纂物、例えば江戸中期の『志士清談』などでは「職家」という表記が用いられ、これが広く流布している 2 。しかし、より信頼性の高い一次史料、すなわち彼の子孫が江戸時代に岡山藩主池田家に提出した公式な家系・由緒書である『奉公書』には、彼の名は「家職(いえもと)」と明確に記されている 2 。
この「家職」という名は、単なる表記の違い以上の意味を持つ。この名は、主君である宇喜多直家から、その名の一字(「家」)を授けられた「偏諱(へんき)」によるものである 2 。偏諱は、主君が家臣に対して与える最大級の栄誉の一つであり、両者の間に極めて強い信頼関係と主従の絆があったことを物語る動かぬ証拠である。それは、彼が単なる一兵卒ではなく、直家の腹心として、家中の中核を担う存在であったことを示唆している。したがって、本稿では、歴史的実像に迫るため、彼の名を「馬場家職(ばば いえもと)」として統一し、その知られざる生涯の軌跡を追っていく。軍記物語が伝える武勇伝、そして公式記録が示す確かな足跡を織り交ぜることで、一人の戦国武将の多角的で深みのある人物像を浮かび上がらせることを目指す。
西暦(和暦) |
年齢 |
主な出来事と歴史的背景 |
1532年(天文元年) |
0歳 |
誕生。幼名は岩法師 2 。 |
1544年(天文13年) |
13歳 |
備前国砥石城主・浮田国定(大和守)に仕官する 2 。 |
1545年(天文14年) |
14歳 |
宇喜多直家との抗争で武功を挙げ、元服を許される 3 。 |
1556年頃(弘治2年頃) |
25歳 |
主君・浮田国定が宇喜多直家により滅ぼされる。その武勇を認められ、直家に300石で召し抱えられる 2 。 |
1563年(永禄6年) |
32歳 |
美作国へ侵攻した三村家親軍との三星城合戦に参陣 2 。 |
1564年(永禄7年) |
33歳 |
備中衆との龍口城攻防戦に参加 2 。 |
1566年(永禄9年) |
35歳 |
竹田付近の戦闘で槍働きにより敵一人を討ち取り、退却する味方を鼓舞する活躍を見せる 4 。 |
1567年(永禄10年) |
36歳 |
明禅寺合戦に参陣し、武功を挙げる 2 。 |
永禄6-7年頃 |
32-33歳 |
直家に反旗を翻した宇喜多五郎左衛門からの暗殺教唆を直家に通報。この功により朱塗りの槍を拝領し、直家から偏諱を受け「家職」と改名。通称も重介と改める 2 。 |
1570年(元亀元年) |
39歳 |
直家の謀略による金光宗高切腹後、戸川秀安と共に石山城(後の岡山城)の接収を行う 2 。 |
1580年(天正8年) |
49歳 |
美作国高城合戦で鉄砲により重傷を負う 2 。 |
1582年(天正10年) |
51歳 |
宇喜多直家死去。毛利氏との八浜合戦で殿(しんがり)を務め、崩壊する味方を支える。後に「八浜七本槍」の一人と称される 2 。 |
1587年(天正15年) |
56歳 |
豊臣秀吉の九州征伐に宇喜多秀家麾下として従軍。この戦役で負傷する 2 。 |
1587年以降 |
56歳以降 |
負傷と老齢を理由に隠居。城下近郊で耕作をして余生を過ごす 2 。 |
1608年(慶長13年) |
77歳 |
病死 2 。 |
馬場家職の武将としてのキャリアは、天文元年(1532年)に生を受けたことから始まる 3 。幼名を岩法師といい 2 、備前国邑久郡北地村の出身であったとされる 2 。彼が歴史の表舞台に登場するのは、天文13年(1544年)、数え13歳の時である。この年、岩法師は備前国邑久郡の砥石山城主であった浮田大和守国定(うきた やまとのかみ くにさだ)に仕官した 2 。
ここで特筆すべきは、家職が最初に仕えた主君・浮田国定は、後に彼が生涯を捧げることになる宇喜多直家とは敵対関係にあったということである。当時、備前では守護代・浦上氏の家臣団内部で権力闘争が激化しており、浮田国定と宇喜多直家は、同じ浦上宗景の麾下にありながらも、互いに勢力を争うライバルであった。家職のキャリアは、直家と敵対する陣営から始まったのである。
若き家職は、仕官の翌年、天文14年(1545年)には早くも宇喜多直家との合戦で奮戦し、その働きを主君・国定に賞賛されて元服を許されたという逸話が残る 3 。この逸話は、彼が少年時代から非凡な武才の片鱗を見せていたことを物語っている。しかし、時代の潮流は、謀略と実力を兼ね備えた宇喜多直家に味方した。弘治2年(1556年)頃、主君・浮田国定は直家との抗争に敗れ、滅亡の道を辿る 2 。この戦いの中で、家職は直家配下の猛将・花房正幸が放った矢によって中指を射抜かれるという手傷を負い、撤退を余儀なくされた 2 。
主家を失い、自らも敵将によって傷を負わされた家職の未来は、本来であれば閉ざされていたはずであった。しかし、戦国乱世は、時に劇的な転機をもたらす。彼の運命を変えたのは、敵将であった宇喜多直家その人であった。直家は、敵方にあって最後まで果敢に戦った家職の武勇と器量を高く評価した。梟雄として知られる直家は、出自や過去の経緯にこだわらず、有能な人材を登用する現実主義者であった 7 。彼は、かつての敵である家職を自らの家臣として召し抱えることを決断し、300石の知行を与えて麾下に加えたのである 2 。
この一連の出来事は、戦国時代の「下剋上」の精神を象徴している。より厳格な封建秩序の下では、滅ぼされた敵の家臣が、その敵将に登用されることは稀であっただろう。しかし、自らも流浪の境遇から身を起こした直家は 8 、力が全てを決定する時代の本質を深く理解していた。家職を登用することは、単に有能な武将を一人得るだけでなく、旧浮田家臣団の抵抗意欲を削ぎ、自らの勢力基盤を強化する上でも極めて合理的な選択であった。一方の家職にとっても、滅びた主君と運命を共にするか、新たな実力者の下で未来を切り拓くかの選択を迫られた結果であった。彼の武将としての本格的な生涯は、この主従双方の現実的な判断によって幕を開けたのである。
宇喜多直家の家臣となった馬場家職は、その期待に応えるように、備前・美作統一を目指す直家の数々の戦役で中心的な役割を果たしていく。彼の武名は、宇喜多軍の数多の戦場での槍働きによって不動のものとなっていった。
永禄6年(1563年)、直家が美作国へ勢力を拡大すべく、三村家親の軍勢と対峙した三星城での合戦に、家職は早くもその姿を見せている 1 。翌永禄7年(1564年)には、再び備前へ侵攻してきた備中衆を迎え撃った龍口城の攻防戦にも加わった 2 。そして、永禄10年(1567年)、宇喜多家の運命を決定づけた戦いの一つである明禅寺合戦においても、家職は三村元親の軍勢を相手に奮戦し、直家の地滑り的な勝利に貢献した 2 。
彼の具体的な武勇を伝える貴重な史料として、『備前軍記』に引用されている宇喜多直家自身の書状の写しが現存する 4 。永禄9年(1566年)5月10日、現在の岡山市中区竹田付近で行われた戦闘について記されたこの書状には、当時「馬場重介」の通称で呼ばれていた家職が、槍を用いて敵兵一人を討ち取ったこと、さらに、味方が退却を始め動揺する中で、敢然と引き返して戦線を支えたことが生々しく記録されている 4 。主君・直家自らがその活躍を書き記している点から、家職が単なる一兵卒ではなく、戦況を左右するほどの働きを見せる中核的な武将として認識されていたことが窺える。
こうした戦場での活躍以上に、家職と直家の信頼関係を決定づけたのが、彼の忠誠心が試されたある事件であった。『馬場家記』によれば、永禄年間、直家に反旗を翻した一族の宇喜多五郎左衛門(筑前守)が、家職(当時は二郎四郎)に対し、直家を暗殺して居城の沼城に火を放つよう唆す密書を送ってきた 2 。かつて直家の敵陣にいた家職にとって、この誘いは彼の去就を揺るがしかねないものであった。
しかし、家職は微塵も迷うことなく、この謀反の計画を直ちに主君・直家に通報した 2 。この行動は、彼の忠誠がもはや取引や状況によるものではなく、直家個人に対する絶対的なものへと昇華していたことを証明するものであった。直家はこの裏切りなき忠義に深く感じ入り、家職を絶大に信頼するようになる。その証として、家職には褒賞として朱塗りの豪壮な槍が与えられた。そして何よりも、直家自身の名から「家」の一字を与え、彼の名を「家職」と改めさせたのである。同時に、通称も二郎四郎から「重介」へと改められた 2 。この偏諱という最高の栄誉により、家職は名実ともに宇喜多家の譜代家臣と同等の、直家の懐刀と呼ぶべき存在となった。かつて敵として召し抱えられた武将が、絶対的な忠誠心を示すことで、主君と一心同体の関係を築き上げた瞬間であった。
その後も彼の活躍は続き、元亀元年(1570年)、直家が謀略によって金光宗高を切腹に追い込んだ後、その居城であった石山城(後の岡山城の原型)を接収する際には、重臣の戸川秀安と共にその任にあたっている 2 。これは、彼が軍事面だけでなく、占領統治といった政務においても信頼されていたことを示している。しかし、彼の武勲は常に死と隣り合わせであった。天正8年(1580年)の美作国高城合戦では、敵の放った鉄砲玉を受け、重傷を負うという危機にも見舞われている 2 。数々の傷跡は、彼が常に最前線で戦い続けたことの証であった。
天正9年(1581年)から翌10年にかけて、梟雄・宇喜多直家が病没すると、宇喜多家は大きな岐路に立たされた 9 。家督を継いだのは、まだ年若い宇喜多秀家であり、家中は叔父の忠家や重臣たちによる集団指導体制で運営されることになった 10 。この宇喜多家の代替わりの隙を突き、西国の雄・毛利氏が備前への圧力を強める。天正10年(1582年)、毛利輝元は一門の勇将・穂井田元清を大将として児島半島へ侵攻させ、宇喜多領の喉元に刃を突きつけた 5 。この危機に際して行われた八浜合戦は、馬場家職の武歴において最も輝かしい一頁として記録されることになる。
毛利軍の侵攻に対し、宇喜多方は一族の宇喜多与太郎基家を総大将として迎撃に向かった 5 。しかし、周到に布陣して待ち構えていた毛利勢は戦術的に優位に立ち、さらに村上水軍を側面に回り込ませるなど、宇喜多軍を巧みに追い詰めていった 11 。合戦はたちまち宇喜多方の不利となり、ついには総大将の与太郎基家が鉄砲玉に当たり討死するという最悪の事態が発生する 11 。大将を失った宇喜多軍は統制を失い、全面的な総崩れとなって敗走を始めた。
この絶体絶命の状況で、獅子奮迅の働きを見せたのが、殿(しんがり)として後方に控えていた馬場家職であった。味方が次々と逃げ惑う中、家職は敢然と戦場に踏みとどまった。『備前軍記』は、この時の彼の姿を劇的に描いている。彼は馬からも降り、退却を支援するため、追撃してくる毛利方の三騎の武者をたった一人で、その長槍を巧みに繰って次々と突き払い、味方が態勢を立て直すための貴重な時間を稼いだのである 12 。
彼のこの決死の奮戦は、敗走する兵たちの士気を奮い立たせた。家職の勇姿に呼応するように、戸川秀安や能勢頼吉といった他の猛将たちも次々と反撃に転じた 11 。彼らの捨て身の働きにより、毛利軍の猛追はかろうじて食い止められ、宇喜多軍の完全な壊滅は免れた。この八浜合戦での危機を救った家職を含む七人の武将の武勇は、後々まで語り継がれ、彼らは敬意を込めて「八浜七本槍(はちはましちほんやり)」と称されるようになった 2 。
この「七本槍」という称号は、単なる戦場での名誉に留まらなかった。客観的に見れば、総大将が討死したこの戦いは宇喜多方の大敗北であった。しかし、七人の英雄の物語を創り出し、語り継ぐことによって、宇喜多家の指導部は、この敗戦の記憶を「我らが猛将たちの比類なき武勇伝」へと昇華させることに成功した。これは、若き当主・秀家の下で結束を図る家中の士気を高め、内外に対して宇喜多家の底力と武威を示すための、極めて有効な政治的プロパガンダでもあった。馬場家職にとって、この「八浜七本槍」という称号は、彼の武人としての評価を決定づける終生の誉れとなったのである。
八浜七本槍 一覧 |
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馬場家職(職家) |
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能勢頼吉 |
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岸本惣次郎 |
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国富貞次 |
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小森三郎右衛門 |
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宍甘太郎兵衛 |
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粟井三郎兵衛 |
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出典: 15 |
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八浜合戦の後、本能寺の変を経て日本の政治情勢は激変する。羽柴秀吉が天下統一への道を突き進む中、宇喜多氏は秀吉の強力な支援者として、その地位を確固たるものにしていった。当主の宇喜多秀家は秀吉の養女・豪姫を娶り、豊臣一門に準ずる破格の待遇を受け、備前・美作・備中半国などを領する57万石余の大大名へと成長した 10 。馬場家職のキャリアもまた、宇喜多家の飛躍と共に、新たな段階へと移行する。
天正15年(1587年)、天下統一の総仕上げとして、豊臣秀吉は九州の雄・島津氏を討伐するための大軍を発動した。世に言う九州征伐である。この国家規模の大戦役に、宇喜多秀家も主力部隊の一つとして動員された。この時、馬場家職は既に55歳という、当時としては老境に差し掛かった年齢であり、過去の戦役で負った傷も癒えてはいなかった。しかし、彼は主君・秀家に従い、最後の奉公として遠く九州の地へと赴いたのである 1 。
宇喜多勢が配属されたのは、秀吉の弟・豊臣秀長が総大将を務める日向方面軍であった 17 。この方面軍は、島津軍との決戦を担う主力であり、宇喜多勢はその中で重要な役割を期待されていた。宇喜多軍がその武威を示したのが、天正15年4月に行われた根白坂(ねじろざか)の戦いである。この戦いで、宮部継潤隊が島津軍の猛攻に晒され危機に陥った際、軍監の尾藤知宣が救援に慎重な姿勢を見せる中、宇喜多秀家隊は藤堂高虎隊と共に救援を強行した 17 。さらに黒田官兵衛らの部隊が側面から攻撃を加えたことで、島津軍は壊滅的な打撃を受け、豊臣方の勝利が決定づけた。家職も、この激戦の中で一人の武将として戦ったと考えられる。
この九州での戦役は、家職の武人としてのキャリアの終着点となった。彼はこの従軍中に再び負傷してしまう 1 。この新たな傷と、長年の戦働きで蓄積した疲労、そして老齢には抗うことができず、これが彼の最後の戦場となった。
彼の最後の従軍は、戦国武将の生き様の変化を象徴している。かつて彼が戦った備前・美作での戦いは、宇喜多家の存亡と領土拡大という、地域的な目的のためのものであった。しかし、九州征伐は、豊臣政権という統一国家への奉公として行われたものであり、戦いの意味合いが大きく異なっていた。家職の生涯は、一地方領主の家臣としてキャリアを始め、最後は天下人の巨大な軍団の一員として、日本の統一戦争に参加するという、まさに戦国時代から近世へと移行する時代の流れそのものを体現していたのである。遠い異郷の地で受けた最後の傷は、彼の長きにわたる忠勤の証として、その体に深く刻まれた。
九州征伐から帰還した馬場家職は、その戦役で負った傷と老齢を理由に、現役を退くことを決意した 2 。数十年にわたる戦陣での生活に、ついに終止符が打たれたのである。彼は岡山城下に戻ると、隠居後の生活として、城内で政治的な役職に就いたり、名誉職を得て安逸な日々を送ったりする道を選ばなかった。
史料によれば、彼は城下の近郊に引き込み、自ら土地を耕して余生を過ごしたと伝えられている 2 。槍働きで身を立て、主家の発展に生涯を捧げた猛将が、その人生の最後に選んだのは、土と共に生きる静かな生活であった。この選択は、戦いに明け暮れた日々の後、平穏な終着を求めた一人の人間の姿を浮き彫りにする。
彼の死は、慶長13年(1608年)、病により訪れた。享年77歳 2 。戦国武将としては長寿を全うしたと言える。彼の死に際して、子や孫たちに遺したとされる言葉が伝わっている。「侍たるもの決して臆病であってはならぬ。生きるも死ぬるも運次第。臆病になる必要はない。自分の生き様をみればわかるはず」 18 。この言葉が史実であるか否かは定かではないが、彼の生涯を貫いた武士としての矜持と、死生観を実に見事に要約している。
ここで注目すべきは、彼が亡くなった1608年という年である。彼が生涯をかけて仕えた宇喜多家は、その8年前の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の主力として敗北し、改易されていた 10 。主君・秀家は八丈島へと流罪になり 19 、大名としての宇喜多家は事実上滅亡した。家職は、自らが支え、築き上げた主家の没落を、その目で見てからこの世を去ったのである。
しかし、主家の滅亡は、必ずしも家臣団の終わりを意味しなかった。家職の武名とその忠義の評判は、彼の「家」にとって最大の遺産となった。彼には馬場実職(ばば さねもと)という息子がいたが 2 、宇喜多家の旧領を受け継いだ新領主・池田家の藩政資料には、馬場姓を持つ藩士の名が散見される 20 。これは、家職の息子や子孫たちが、その父祖の武勲と信頼性を評価され、新たな支配者である池田家に召し抱えられ、武士としての家名を存続させることに成功したことを示唆している。新領主にとって、地域の事情に精通し、武勇で知られた旧臣の家系を登用することは、領国経営を安定させる上で有効な手段であった。馬場家職の生涯は、彼一代の武勇伝に終わらず、その功績が「馬場家」という武士の家(いえ)を存続させる礎となったのである。彼の遺した最大の功績は、戦場での武功そのものだけでなく、激動の時代の転換期を乗り越えて子孫に武士としての道を残した、その「家」の強さにあったのかもしれない。
馬場家職の生涯を振り返ると、そこに浮かび上がるのは、戦国乱世の理想的な家臣像である。一人の若武者が、自らの槍働き一つで主君の目に留まり、幾多の戦場で武功を重ね、絶対的な忠誠心によって主君の懐刀となり、ついには家中屈指の英雄と称えられる。そして、老いては静かに戦場を去り、その武名によって子孫に道を拓く。彼の人生は、宇喜多直家という稀代の梟雄が駆け上がった下剋上の物語と、その子・秀家の下で豊臣政権の中枢を担った栄光の時代、そして関ヶ原での没落という、宇喜多家の盛衰と完璧に軌を一にしている。
彼の人物像を再構築する上で、我々は性質の異なる複数の史料を比較検討する必要があった。まず、彼の息子や子孫が後世に提出した『奉公書』などの公式記録は、彼の正確な実名が「家職」であったこと、主君からの偏諱という栄誉、そして子・実職の存在といった、疑いのない「史実」の骨格を提供してくれる 2 。これらは、彼の生涯を研究する上での揺るぎない土台である。
一方で、『備前軍記』に代表される軍記物語は、その骨格に血肉を与える役割を果たす 18 。竹田付近の戦闘での鬼神の如き活躍や、八浜合戦での劇的な殿軍の様子、そして死に際の遺言といった逸話は、物語としての脚色が含まれている可能性を否定できない。しかし、これらの記述は、彼が同時代および後世の人々から、いかに「武勇に優れた忠臣」として記憶され、語り継がれていたかを示す貴重な証言でもある。
そして、これら二つの中間に位置するのが、『馬場家記』のような自家に伝わる記録であろう 2 。直家暗殺の誘いを退けたという逸話は、彼のキャリアにおける決定的な転換点であり、馬場家自身がその忠誠心の証として、誇りを持って伝えてきた物語である可能性が高い。
これらの史料を総合的に読み解くことで、馬場家職は、決して歴史を動かす大戦略家や政治家ではなかったものの、自らが仕えるべき主君を見定め、一度忠誠を誓った後は、いかなる状況でも裏切ることなく、命を懸けてその責務を全うした、時代の理想的な武士であったと結論付けられる。彼の槍働きと揺るぎない忠義が、宇喜多家の躍進を支える重要な柱の一つであったことは間違いない。戦国という壮大な歴史ドラマが、馬場家職のような無数の献身的な武士たちの生涯によって織りなされていたことを、彼の物語は力強く我々に教えてくれるのである。