戦国時代の動乱から徳川幕藩体制の確立に至る激動の時代、瀬戸内海の海上交通の要衝である直島を拠点とした水軍領主、高原氏が存在した。彼らは、備讃瀬戸の海を縦横に駆け、時代のうねりの中で巧みに航路を切り拓いた一族である。本報告書は、豊臣から徳川へと天下人が移り変わる中で、一族の存続を確かなものにした二代目当主・高原次勝の生涯に焦点を当てる。その実像を明らかにするため、父・次利の功績から一族の改易に至るまでの歴史的文脈の中に彼を位置づけ、包括的な分析を試みるものである。
本報告書の目的は、単に高原次勝個人の事績を追うことに留まらない。彼を育んだ高原氏という「家」の存続戦略、瀬戸内の在地領主としての特質、そして中央政権との関係性の変遷を、信頼性の高い史料を基に多角的に解明することにある。特に、一族の命運を左右した天下分け目の合戦における「関ヶ原での決断」と、その栄華に終止符を打った「御家騒動」の真相を深く掘り下げることで、戦国から近世へと移行する時代を生きた一地方豪族の興亡の実態を、立体的に描き出すことを目指す。
高原次勝の生涯を理解するためには、まず彼の父であり、高原氏を飛躍させた初代当主・次利の時代から説き起こす必要がある。次利が築いた基盤なくして、次勝の活躍はあり得なかったからである。
高原氏のルーツは、歴史の霧に包まれており、複数の説が存在するものの、未だ定説を見るに至っていない。一説には、讃岐国を代表する有力国人であった香西氏の一族であるとされ、また別の説では、伊予国川之江を拠点とした川上氏の出自であるとも言われている 1 。これらの説は、いずれも備讃地域における国人たちの複雑な縁戚・主従関係を背景としており、高原氏が古くからこの海域に根を張る在地勢力であったことを示唆している。
彼らの力の源泉は、直島を本拠地とする強力な海上戦力、すなわち「直島水軍」あるいは「高原水軍」と称される組織にあった 2 。瀬戸内海は古来より海賊衆の活動が活発な海域であり、特に塩飽諸島を拠点とする塩飽水軍は名高い存在であった。高原氏は、こうした周辺の海上勢力と時に協力し、時に競合しながら、備讃瀬戸の制海権の一翼を担っていたと考えられる 4 。彼らの活動は、単なる海賊行為に留まらず、海上輸送の警護や水先案内など、航海の安全を保障する役割も果たしており、その操船技術と地理的知識は、やがて来る天下人の目に留まることになる。
在地の一豪族に過ぎなかった高原氏の歴史が大きく動くのは、天正10年(1582年)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による備中高松城水攻めの時である。この歴史的な籠城戦において、当時の当主であった高原次利は、秀吉軍の要請に応じ、海陸の案内役という重要な役割を果たした 3 。瀬戸内海の複雑な潮流と地理を知り尽くした次利の協力は、秀吉軍の兵站と作戦遂行に大きく貢献したと推測される。
この功績を高く評価した秀吉は、次利に対して直島、男木島、女木島の三箇島における領有を安堵し、その所領は600石とされた 5 。これは、高原氏が天下人・豊臣秀吉の直臣として公的に認知され、その支配の正統性を得た画期的な出来事であった。この知行安堵こそが、高原氏が戦国時代の在地領主から近世の領主へと脱皮し、その後の繁栄を築くための確固たる礎となったのである。
秀吉の信頼を得た次利は、その後も豊臣政権下で活躍を続ける。秀吉が天下統一を進める中で行われた四国征伐や九州征伐、さらには大陸への出兵である文禄・慶長の役においても、次利は直島水軍を率いて参陣し、主に兵員や物資の海上輸送といった後方支援任務で功績を重ねた 8 。これらの軍役を通じて、高原氏は豊臣政権における水軍としての確固たる地位を築き上げていった。
高原次利の人物像を語る上で、キリシタンであった可能性は看過できない重要な要素である。直島の本村地区にある高原氏の墓所には、次利のものとされる五輪塔が残されている。その石塔には「西宗(せいしゅう)」という法名が刻まれており、これがキリシタン大名の印であるとの指摘がある 10 。さらに、墓所の周辺には屋根の側面にクルス(十字)を思わせる意匠が施された卵塔や、イエス・キリスト像が彫られていると伝わるクルス灯篭の存在も報告されており、次利がキリスト教の信者であったことを強く示唆している 10 。
この信仰の背景には、当時の政治状況が深く関わっていた可能性がある。次利は、秀吉の軍師であり、日本を代表するキリシタン大名であった黒田官兵衛(如水)と親交があったと伝えられている。一説には、次利が自身の弟を官兵衛に仕官させたとも言われる 11 。戦国時代において、キリスト教は単なる個人の宗教心の問題に留まるものではなかった。それは、鉄砲や火薬、航海術といった南蛮由来の最新技術や知識、そしてそれらをもたらすポルトガル商人との交易ルートに繋がる、極めて実利的な意味を持つものであった。先進的な文化であり、大名間の政治的・経済的なネットワークを形成する強力な手段でもあったのである。
備讃瀬戸の一在地領主に過ぎなかった次利が、天下人・秀吉の側近である黒田官兵衛と直接的な繋がりを持ったことは、偶然とは考えにくい。この関係は、次利が「キリシタン」という共通項を介して、中央政権とのパイプを能動的に築こうとした戦略の現れであったと推察される。彼の信仰は、瀬戸内の海で生きる領主が、激動する中央の政治情勢を把握し、自らの立身出世と一族の安泰を図るための、重要な情報源かつ政治的足場として機能したのではないだろうか。次利の先見性は、単に軍事的な才能に留まらず、こうした国際的・文化的な潮流を自家の発展に結びつける戦略眼にもあったと言える。
父・次利が築いた豊臣政権下での確固たる地位。それを受け継いだのが、息子の高原次勝であった。次勝は、父の遺産をただ守るだけでなく、天下の覇権が豊臣家から徳川家へと移る歴史の転換点において、一族の未来を賭けた重大な決断を下し、新たな時代における高原氏の存続を決定づけた人物である。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した対立は、徳川家康を総大将とする東軍と、石田三成らを中心とする西軍が激突する関ヶ原の戦いへと発展した。この天下分け目の大戦において、高原氏は極めて重要な岐路に立たされる。父・次利は豊臣秀吉から直接所領を安堵された、いわゆる豊臣恩顧の将であった。しかし、この重大な局面で高原氏が下した決断は、東軍(徳川方)への味方であった。
この決断を主導し、実際に軍を率いたのが、当時すでに家中の実権を握っていた息子の次勝であったと、複数の資料が一致して伝えている 2 。父・次利は元和5年(1619年)に88歳で大往生を遂げており 8 、関ヶ原の時点では存命であったが、高齢であったためか、政治・軍事の采配は次勝に委ねられていたと見られる。
豊臣恩顧の立場を捨てて徳川に与した次勝の決断は、単なる裏切りや日和見主義として片付けられるべきではない。それは、当時の政治情勢を冷静に分析した結果下された、戦略的な判断であった。「天下の形勢をよく読んでいた」と評されるように 12 、次勝は豊臣政権の先行きに見切りをつけ、家康の覇権が確実なものであると見抜いていたのである。この判断の背景には、直島が地理的に近接する西軍の有力大名、毛利氏や宇喜多氏の勢力圏にあったという地政学的な緊張関係も影響したであろう。西軍が勝利した場合、高原氏の独立性が脅かされる危険性を考慮し、あえて家康に与することで、戦後の地位保全を図った可能性が高い。
この次勝の決断は、見事に功を奏した。関ヶ原の戦いは東軍の圧勝に終わり、戦後、徳川家康は高原氏の功績を認めて所領を安堵した 8 。これにより、高原氏は滅亡の危機を乗り越え、戦国時代の領主から江戸幕府の直臣、すなわち旗本へとその立場を転換させることに成功した。次勝の的確な情勢判断が、一族を新たな時代へと導いたのである。
関ヶ原での功績により、高原次勝は徳川幕府から旗本としての地位を認められた。さらに、旗本の中でも特に家格の高い家々で構成される「旗本寄合」の一員に加えられたことは 2 、高原氏が幕府からいかに高く評価されていたかを示す証左である。
次勝の徳川家への忠誠が再び試される機会が、慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて勃発した大坂の陣であった 13 。この戦いで豊臣家が滅亡し、徳川による天下泰平の世が名実ともに確立された後、次勝には新たな任務が与えられたとされる。それは、大坂城を逃れた豊臣方の残党を追捕するため、小豆島へ赴くというものであった(ユーザー提供情報)。
この任務は、高原氏が徳川体制下で担うべき役割を象徴する出来事であったと言える。大坂城落城後、多くの浪人や敗残兵が海路を利用して西国、特に毛利領や島津領への逃亡を図った 15 。瀬戸内海、とりわけ畿内に近く西国への玄関口に位置する小豆島周辺は、彼らにとって主要な逃走経路となり得る戦略的な要衝であった。幕府がこの重要な残党狩りの任務を高原次勝に命じたのは、彼らがこの海域の地理と潮流を知り尽くした、最も信頼できる徳川方の海上勢力であったからに他ならない。
これは単なる戦後処理の一環に留まるものではなかった。この任務は、徳川幕府が備讃瀬戸の制海権を完全に掌握し、高原氏をその実働部隊として公に認めるという、高度な政治的意味合いを持っていた。豊臣政権下で水軍として活躍した高原氏の能力を、今度は徳川幕府が「海の警察・監視役」として活用する。小豆島での任務は、次勝個人への信頼の証であると同時に、高原氏が徳川の世で果たすべき役割を明確に示したものであった。父・次利が築き、子・次勝が守り抜いた直島水軍の力は、新たな支配者の下で、瀬戸内の秩序維持という新たな使命を担うことになったのである。
高原次勝の活躍により、徳川の世で旗本としての地位を確立した高原氏は、その後、三代当主・直久の時代に最盛期を迎える。しかし、その栄華は長くは続かず、一族内部の不和をきっかけとして、突如として終焉の時を迎えることとなる。
代 |
当主名(読み) |
続柄 |
主要事績 |
石高 |
備考 |
初代 |
高原 次利(たかはら つぐとし) |
- |
豊臣秀吉に仕え、備中高松城水攻めで功績。直島三箇島を安堵される。 |
600石 |
キリシタンの可能性あり。元和5年(1619年)没。 |
二代 |
高原 次勝(たかはら つぐかつ) |
次利の子 |
関ヶ原合戦で東軍に属し、所領安堵。徳川旗本となる。大坂の陣後に残党追捕。 |
600石 |
旗本寄合に列せられる。 |
三代 |
高原 直久(たかはら なおひさ) |
次勝の子 |
交代寄合に昇格。 |
2000石 |
高直しにより加増。高原氏の最盛期。 |
四代 |
高原 徳寿(たかはら とくじゅ) |
直久の子 |
- |
2000石 |
- |
五代 |
高原 内記(たかはら ないき) |
徳寿の子 |
養子・仲頼との不和から御家騒動を起こす。 |
2000石 |
諱は仲昌(なかまさ)。 |
六代 |
高原 数馬 仲頼(たかはら かずま なかより) |
内記の養子 |
谷衛政の八男。当主となるも、養父・内記の訴えにより改易。 |
- |
寛文11年(1671年)に改易。高原氏断絶。 |
本表は、各種資料 1 を基に作成。
この表は、高原氏約90年間の歴史の全体像を視覚的に示している。次利・次勝父子による勃興期、三代・直久の最盛期、そして六代・仲頼での突然の終焉という、一族の栄枯盛衰のダイナミズムは、戦国から江戸初期にかけての地方領主が直面した現実を如実に物語っている。
高原氏の家格が頂点に達したのは、三代目当主・直久の代であった。この時期、高原氏は旗本の中でも大名に準ずる高い格式を持つ「交代寄合」に列せられた 1 。交代寄合とは、旗本でありながら領地に居住し、大名と同様に参勤交代の義務を負う特別な家柄であり、その待遇は他の旗本とは一線を画していた。
この昇格に伴い、高原氏の所領に対して再検地が実施され、その結果、表高が従来の600石から2000石へと大幅に引き上げられた(高直し) 1 。この石高修正は、高原氏の経済的基盤を飛躍的に向上させるとともに、幕府内における彼らの地位を名実ともに高めるものであった。この最盛期において、本拠地である直島の支配体制はより強固なものとなり、現在の本村地区に見られる城下町としての街並みの骨格も、この時代に本格的に整備されたと考えられる 2 。
盤石に見えた高原氏の支配は、六代目の時代、寛文11年(1671年)に突如として終わりを告げる 9 。その直接的な原因は、後継者問題を端緒とする、あまりにも人間的な御家騒動であった。
五代目当主であった高原内記(諱は仲昌)には跡を継ぐべき実子がいなかった。そのため、丹波国山家藩の藩主であった谷衛政の八男・数馬(後の高原仲頼)を養子として迎え、家督を譲って隠居した 1 。しかし、隠居した内記と新たな当主となった養子の仲頼との間には深刻な不和が生じた。関係の悪化に耐えかねた内記は、あろうことか、仲頼が「親不孝である」として、幕府の最高権力者の一人であった大老・酒井忠清に直訴するという挙に出たのである 18 。
この訴えは、内記が望んだような、自身の復権や仲頼の更迭という結果には繋がらなかった。むしろ、幕府はこれを「家内不取締」、すなわち一族を適切に統治できない能力なき領主と断じた。その結果は、高原家にとって最も過酷なものであった。寛文11年12月、幕府は高原氏の改易、すなわち所領没収を決定。内記夫妻は備中松山藩主の水谷勝重へ、そして当主であった仲頼は実家の谷家へと、それぞれお預けの身となり、高原氏は歴史の表舞台から姿を消した 1 。
この改易劇は、表向きには「親不孝」を理由とした懲罰であるが、その背景には、当時の幕府が推し進めていた中央集権化という、より大きな政治的意図が存在したと見るべきである。事件が起きた寛文期は、四代将軍・徳川家綱の治世下で、幕府の権威が確立し、諸大名や旗本に対する統制が一段と強化された時代であった。いわゆる「武断政治」から「文治政治」への移行期にあたり、幕府は些細な瑕疵を理由に大名を改易することも厭わなかった。
高原氏が領する直島は、備讃瀬戸の航路を扼する軍事上・経済上の要衝である。幕府の視点から見れば、一族内の不和を幕府中枢にまで持ち込むような統治能力に疑問符のつく旗本に、このような戦略的要地を任せておくことは、大きなリスクであった。この御家騒動は、幕府にとって、高原氏を排除し、直島を幕府直轄地(天領)として倉敷代官所の直接支配下に置くための、またとない口実となったのである 2 。したがって、高原氏の改易は、単なる家族内の揉め事に対する処罰という側面以上に、幕府の地方支配戦略の一環として断行された、高度に政治的な決定であった可能性が極めて高い。戦国の荒波を乗り越えた高原氏が、泰平の世において、自らの内紛によってその歴史に幕を閉じたことは、時代の皮肉と言わざるを得ない。
讃岐国の一在地領主に過ぎなかった高原氏は、初代当主・次利の先見性と卓越した行動力によって、天下人・豊臣秀吉に取り立てられ、その地位を確立した。続く二代目当主・次勝は、父が築いた基盤の上で、関ヶ原という天下の分水嶺において冷静かつ的確な政治判断を下し、一族を徳川の世で旗本として生き延びさせることに成功した。その後の繁栄は、三代目・直久の代に大名に準ずる格式である交代寄合へと昇格するまでに至り、一族の栄華は頂点に達した。
しかし、その栄光の歴史は、一族内部の不和という、戦国の世を生き抜いた先人たちの知恵とはあまりに対極的な理由によって、わずか六代、約90年で唐突に幕を閉じた。盤石に見えた体制が、権力闘争や人間関係の綻びという内的な要因によって崩れ去る脆さは、泰平の世における武家の存続の難しさを物語っている。
高原氏による直島の支配は終わったが、彼らが遺した足跡は、島の歴史と文化の中に深く刻まれている。彼らが築いた本村地区の城下町は、現代アートの島として世界的に知られる今日の直島の町の原型となり、その歴史的な街並みは今なお往時の面影を伝えている 2 。高原氏一族が眠る墓所 5 や、桃山時代の豪壮な気風を今に伝える八幡神社の花崗岩製の鳥居 12 などは、かつて備讃の海に生きた一族の記憶を現代に伝える貴重な文化遺産として、その歴史的価値を失ってはいない。
高原氏の興亡の物語は、激動の時代を生き抜くための戦略的な知恵と、泰平の世における人間関係の複雑さがもたらす悲劇の両面を、我々に示唆してくれる。それは、日本の歴史の大きな転換点において、一地方領主が辿った栄光と没落の軌跡として、後世に多くの教訓を残している。