高山重友(右近)に関する調査報告書
序章:高山右近という人物
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本報告の目的と構成
本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、キリシタン大名として知られる高山重友(右近)の生涯、信仰、武功、文化人としての一面、そしてその歴史的評価について、提供された資料に基づき詳細に記述することを目的とする。特に、彼の信仰と武士としての立場との間で生じた葛藤、主要な権力者との関係、そしてマニラへの追放と列福に至る経緯を明らかにすることを目指す。
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高山右近の歴史的重要性概説
高山右近は、日本におけるキリスト教の受容とそれに伴う文化的・政治的影響を考察する上で欠くことのできない人物である。彼の生涯は、信仰の自由が保障されない時代における個人の信念のあり方、そして近世初期日本の宗教政策の転換を象徴している
1
。大名としての地位を捨ててまでも信仰を貫いたその生き様は、後世に大きな影響を与え、近年カトリック教会によって「福者」に列せられたことからも、その歴史的重要性は明らかである。
第一部:信仰への道程と武将としての台頭
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摂津高山氏と父・高山友照(飛騨守ダリヨ)
高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)を本拠とした国人領主であり、その出自は秩父氏一派の高山党庶流、甲賀五十三家の一つに連なるとされる 4。右近の父である高山友照(飛騨守)は、当初、畿内に強大な勢力を誇った三好長慶に仕え、その重臣である松永久秀の与力として、大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城としていた 4。
友照の人生における大きな転機は、キリスト教との出会いであった。奈良において、琵琶法師でもあったイエズス会修道士ロレンソ了斎の説教を聞いた友照は深く感銘を受け、永禄6年(1563年)に洗礼を受けた。その洗礼名は「ダリヨ」であった 4。この決断は、友照個人のみならず、高山家全体の運命を方向づけるものであった。
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右近の幼少期と受洗(洗礼名ジュスト)
高山右近(本名は友祥、長房、重友と伝わるが、現存する文書で確認できるのは重友のみ 4)は、天文21年(1552年)に友照の嫡男として誕生した 4。幼名は彦五郎と伝えられている 9。父・友照が受洗した翌年の永禄7年(1564年)、右近は12歳という若さで、父の勧めに従い、奈良の沢城において洗礼を受けた。その際に授けられた洗礼名は「ジュスト」(Justo)であり、これはラテン語で「正義の人」を意味する 3。
父・友照の信仰への帰依が、まだ感受性の強い少年期の右近に決定的な影響を与えたことは想像に難くない。戦国という、主君の意向や周囲の状況に流されやすい時代にあって、父の個人的な信仰体験に基づく決断が、子の生涯にわたる揺るぎない信仰の礎となった点は、高山家の特筆すべき点と言えるだろう。これは単に政治的な判断や時流に乗った改宗とは異なり、より深い内面的な動機に基づいていた可能性を示唆しており、後の右近の苛烈な運命の中での信仰の貫徹を理解する上で重要な背景となる。
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松永久秀、和田惟政、荒木村重への臣従
主君であった三好長慶が永禄7年(1564年)に死去すると、三好氏は内紛などにより急速に衰退し、高山氏の所領であった摂津も、池田氏や伊丹氏といった近隣の豪族によって脅かされる不安定な状況に置かれた 4。
このような中、永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、畿内の政治状況は一変する。信長の軍事力を背景に第15代将軍となった義昭は、摂津の土豪であった入江氏を滅ぼし、その直臣である和田惟政を高槻城(現在の大阪府高槻市)に配置した。惟政は伊丹親興、池田勝正と共に摂津守護(摂津三守護)に任じられ、高山父子はこの和田惟政に仕えることとなった 4。
しかし、惟政が元亀4年(1573年)に戦死すると、その後を継いだ子の惟長と高山父子は対立。高山父子は当時摂津で勢力を拡大していた荒木村重の支援を得て惟長を高槻城から追放し、高槻城を自らの支配下に置くことに成功した 6。
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高槻城主就任と領国経営(キリスト教布教と城下町整備、神社仏閣への対応)
天正元年(1573年)、父・友照から城主の座を譲られ、右近は21歳の若さで高槻城主となった 3。高槻城主となった右近は、城下町の整備を進める一方で、自身の信仰であるキリスト教の布教に極めて積極的に取り組んだ。領内には20を超える教会を建設し、宣教師を保護した結果、高槻は畿内におけるキリスト教布教の一大拠点へと変貌を遂げた 3。当時の高槻の人口約2万5千人のうち、実に7割強にあたる1万8千人がキリスト教信者であったとも伝えられている 3。
その一方で、右近の統治は、既存の宗教勢力との間に深刻な摩擦を引き起こした。父・友照の政策を継承した右近は、領内の神社仏閣を破壊し、神官や僧侶を迫害したとの記録が残されている 4。これにより、高槻周辺の古くからの寺社建築や仏像の多くが失われたとされる 4。イエズス会士ルイス・フロイスの『日本史』などのキリスト教側の記録によれば、右近は領民や家臣に対して改宗を強制することはなかったものの、その絶大な影響力によって領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった結果、廃寺が増加し、それらの寺院の建材が教会の建設に利用されたと記されている 4。
高槻統治における右近のキリスト教の積極的な推進と、それに伴う神社仏閣の破壊は、彼の信仰の純粋さを示すと同時に、当時の宗教が持っていた排他性、そして戦国武将としての領国支配の現実が複雑に絡み合った結果であったと言える。右近の行動は、単なる宗教的情熱の発露に留まらず、旧来の仏教勢力を排除し、キリスト教を中心とした新たな秩序を領内に確立しようとする、戦国大名としての統治戦略の一環であった可能性も否定できない。信仰の純粋さが、結果として既存の文化や宗教に対する破壊的な行動へと繋がったという側面は、彼の人物像を多面的に理解する上で重要な点である。
このような徹底したキリスト教化政策は、後の豊臣秀吉や徳川家康といった中央権力者によるキリスト教弾圧の際に、格好の口実を与えた可能性も考えられる。領民の一部からは熱烈な支持を得たであろう一方で、伝統的な宗教勢力との間に深刻な対立を生み出し、中央集権化を進める支配者にとって、その存在が危険視される要因の一つとなったのではないだろうか。事実、秀吉が発したバテレン追放令の理由の一つには、「寺社を破壊させるなど前代未聞である」という趣旨の文言が含まれている 22。右近の行為は、当時の支配者層にとって、既存の社会秩序を揺るがしかねないものと映ったのかもしれない。
第二部:天下人と信仰のはざまで
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荒木村重の謀反と右近の苦渋の選択
天正6年(1578年)、高槻城主としての右近の直接の上司にあたる荒木村重が、主君である織田信長に対して謀反を起こすという事件が発生した 4。この謀反は、右近にとって最初の大きな試練となった。右近は村重の翻意を促すため、自らの妹と息子を有岡城(伊丹城)へ人質として送るなど誠意を示したが、村重の決意は固く、説得は失敗に終わった 4。
信長に降伏するか、村重に与し続けるかという究極の選択を迫られた右近は、深く苦悩した。この時、彼が精神的な支柱として尊敬していたイエズス会士のオルガンティノ神父に助言を求めたところ、「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」との言葉を得たという 4。
一方、織田信長は高槻城の戦略的な重要性を認識しており、また、右近が単なる金銭や地位では動じない人物であることを見抜いていた。そのため信長は、「もし右近が降伏しなければ、畿内にいる全ての宣教師とキリスト教徒を殺害し、教会を破壊する」という非情な脅迫を行った 4。この脅迫は、右近の信仰心そのものを人質に取るようなものであった。
右近は、自らの領民、そして畿内の多くのキリスト教徒の命を守るため、苦渋の末に信長へ高槻城を明け渡すことを決断した 7。この決断に際して、父・友照(ダリヨ)は徹底抗戦を主張し、右近とは袂を分かって村重の居城である有岡城に入った 7。この一連の出来事は、右近が単なる一武将としてだけでなく、信仰共同体の指導者としての重い責任を自覚していたことを示している。彼の決断は、個人的な損得や武士としての面目を超えたものであり、後のバテレン追放令への対応にも通底する、彼の価値観の現れと言えるだろう。
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信長による評価と高槻城安堵
信長は、右近のこの苦渋の決断を高く評価した。謀反に与しなかったばかりか、戦略的要衝である高槻城を無血で開城した右近に対し、信長は高槻城主としての地位を安堵するだけでなく、摂津国芥川一郡を加増するという破格の処遇で応えた 6。
その後、右近は信長政権下で重用され、天正9年(1581年)に京都で行われた大規模な軍事パレードである御馬揃えにおいては、摂津衆の筆頭として参加する栄誉を得た 14。また、信長の使者として、中国攻めの最前線にいた羽柴秀吉のもとへ赴くなど、軍事・外交の両面で信長の信頼を得て活動した 14。信長は、右近の信仰の篤さを脅迫の手段として利用しつつも、その「誠実さ」6 や冷静な判断力を評価し、自らの家臣団に組み込んだのである。これは、信長の人物評価における合理性の一端を示すものと言えよう。
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山崎の戦いにおける戦功と明石6万石への加増移封
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、日本の政治情勢は再び流動化する。この時、右近は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の軍に馳せ参じ、山崎の戦いにおいて秀吉軍の先鋒として奮戦、明智光秀軍の撃破に大きく貢献した 3。
この戦功により、右近は秀吉から高く評価され、能勢郡などに新たな領地を与えられた。その後も、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国征伐といった秀吉の主要な合戦に従軍し、武将としての名声を高めていく。そして天正13年(1585年)、右近は播磨国明石郡に6万石という大幅な加増移封を受け、船上城を新たな居城とすることになった 4。これは、右近の武将としてのキャリアにおける頂点の一つであった。
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船上城(明石城)の修築と統治
播磨国明石に移った右近は、明石海峡を望む要衝に位置する船上城の修築に着手した。単に軍事拠点としてだけでなく、経済的な機能も重視し、城の西側には城下町を整備し、南側には堀を通じて海へと繋がる港を建設したと記録されている
13
。高槻時代と同様に、明石においても教会を建設し、キリスト教の布教に努めた
9
。
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バテレン追放令と信仰の選択(棄教拒否と領地返上)
順風満帆に見えた右近の武将としての道は、天正15年(1587年)、豊臣秀吉による突然のバテレン追放令の発布によって暗転する 2。九州平定を終えた秀吉は、国内のキリスト教勢力の拡大を警戒し、宣教師の国外追放とキリスト教の信仰を制限する法令を発したのである。
この時、秀吉は特に有力なキリシタン大名であった右近に対し、棄教を強く迫った。しかし、右近の信仰は揺るがなかった。彼は秀吉に対し、「たとえ全世界を与えられようとも(信仰を捨てることは)致しませんし、自分の霊魂の救済と引き換えることはしません。私の身柄、封禄、領地については、殿(秀吉)が気に召すように取り計らってください」と述べ、信仰を守るために大名としての地位、6万石の領地、そして全ての財産を放棄する道を選んだ 2。この決断は、当時の武家社会において極めて異例なものであり、彼の信仰の深さを物語っている。
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秀吉が右近を警戒した背景
豊臣秀吉がバテレン追放令を発し、特に高山右近を問題視した背景には、右近の持つ強い影響力と、それに対する秀吉の警戒心があった。宣教師ルイス・フロイスは、秀吉が「キリシタンからこの大黒柱(右近)を奪えば、他の者たちは弱体化するに違いない」と考えたと記している 20。右近の「誠実さ」6 と、それに基づく求心力、そして彼を通じて広がるキリスト教徒のネットワークは、天下統一を進め、中央集権体制を確立しようとしていた秀吉にとって、潜在的な脅威と映った可能性が高い 6。
また、キリスト教徒の強い団結力や、彼らがポルトガルやスペインといった海外勢力と繋がりを持っているのではないかという疑念も、秀吉の警戒心を煽った要因と考えられる 22。武士としての「忠誠」よりも神への「信仰」を優先する右近の姿勢は、秀吉の価値観からは理解し難いものであり、自らの権威に対する挑戦とも受け取られかねなかった。そのため、秀吉は右近の影響力を削ぎ、キリスト教勢力の拡大を阻止する必要性を感じたのであろう。
右近の棄教拒否は、他のキリシタン大名や信徒たちに信仰を貫く模範を示した一方で、秀吉のキリスト教に対する不信感を決定的なものとし、その後の弾圧をより厳しいものへと向かわせた可能性も否定できない。最も影響力のある右近が従わないことは、秀吉にとってキリスト教勢力全体の不服従と映り、より強硬な弾圧策へと舵を切らせる一因となったとも考えられる。
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第三章:前田利家・利長への庇護と加賀での生活
バテレン追放令により大名の地位を失った右近は、まず同じキリシタン大名であった小西行長の庇護を受け、小豆島(現在の香川県)や肥後国(現在の熊本県)などに一時隠棲した 4。その後、天正16年(1588年)、旧知の間柄であった前田利家の招きに応じ、加賀国金沢(現在の石川県金沢市)へと赴いた 2。利家は右近に対し、1万5千石 4(史料によっては3万石 35、あるいは米4万俵、2万クルザード相当 36 とも)という破格の扶持を与えて客将として遇した。以後、右近は約26年間にわたり、この金沢の地で過ごすことになる。
前田家中において、右近は単に庇護されるだけの存在ではなかった。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原北条氏攻めの際には、前田軍の参謀的な役割を担い従軍し、その武将としての才覚を発揮した 3。また、文化的な側面でも前田家に貢献し、金沢城の修築や、利家の後継者である前田利長が築城した高岡城(現在の富山県高岡市)の縄張り(設計)にも関与したと伝えられている 3。
ルイス・フロイスの『日本史』には、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点であった名護屋(現在の佐賀県唐津市)に右近が滞在していた際、前田利家から十分な報酬を得られず経済的に困窮していたとの記述が見られる 36。しかし、この記述の解釈、特に「encostado」というポルトガル語の訳を巡っては、「対立する間柄」ではなく「身を寄せている」と解すべきであり、フロイスの記述は右近が利家のもとで困窮していたことを示しているというよりは、利家からの扶持が悪かったことを指しているとの指摘もある 36。いずれにせよ、大名の地位を失った後の右近の経済状況は、必ずしも安泰ではなかった時期があったことを示唆している。
第三部:文化人としての右近
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千利休との師弟関係と利休七哲
高山右近は、武将としてだけでなく、当代一流の文化人、特に茶人としても高く評価されていた。彼は茶の湯の大家である千利休に師事し、その優れた弟子の一人として「利休七哲」に名を連ねている
3
。利休七哲には、右近の他に蒲生氏郷、細川忠興(三斎)、古田織部といった、戦国時代を代表する武将茶人が含まれており、右近が彼らと肩を並べるほどの茶湯の技能と精神性を有していたことが窺える
16
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茶会への参加と茶道における逸話
右近の茶人としての号は「南坊(みなみのぼう)」であり、これは一説には「南蛮(西洋)の坊主(宣教師)」を意味するとも言われている 12。彼の茶人としての活動は、天正5年(1577年)に記された堺の豪商で茶人の津田宗及の茶会記『津田宗及茶湯日記』に初めてその名が見える 42。また、天正12年(1584年)には豊臣秀吉が主催した大規模な茶会にも名を連ねている 42。
特筆すべきは、バテレン追放令によって大名の地位を追われ、小豆島に隠棲していたとされる天正15年(1587年)12月27日の『利休居士百会記』にも、「高山南坊」としてその名が記されていることである 42。これは、当時の千利休が持つ政治的・文化的な影響力の大きさと、右近との深い関係性を示唆している。
右近にとって茶の湯は、単なる遊芸や社交の手段に留まるものではなかった。イエズス会士ジョアン・ロドリーゲスが著した『日本教会史』によれば、右近は「数寄(茶の湯)は、徳操、叡智を養うのに大いなる助けになる」と常々語り、「デウス(神)に祈るために静かな茶室に逃れた」と記されている 42。この記述は、右近が茶の湯の精神性とキリスト教の静謐な祈りの空間との間に深いつながりを見出し、茶室を信仰的な修練と黙想の場として捉えていたことを示している。日本の伝統文化である茶の湯の精神的深まりが、異文化であるキリスト教の信仰実践と、右近個人の内面において融合していた可能性が考えられる。これは、彼が異文化であるキリスト教を日本で実践する上での、独自の一つの適応形態であったとも言えるだろう。
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高槻城、船上城の改修
高山右近は、武将としての軍事的な才覚のみならず、築城家としても優れた能力を発揮した。高槻城主時代には、キリスト教を中心とした城下町の整備と共に、高槻城自体の改修も行ったと考えられている
3
。その後、播磨国明石に移封された際には、船上城を大規模に修築し、城下町や港湾施設を整備するなど、領国経営における拠点としての城郭機能の強化に努めた
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金沢城、高岡城の設計への関与と評価
前田家に客将として迎えられた後も、右近の築城家としての才能は遺憾なく発揮された。加賀藩の居城である金沢城の修築や、前田利長が新たに築いた高岡城の縄張り(設計)に深く関与したと伝えられている 3。
特に、高岡城の設計は高く評価されており、その独創的かつ遠大な構成は「江戸城・大阪城に比肩する」とまで評される名城であったと言われている 15。高岡城の縄張りは、従来の平城に見られる輪郭式や渦巻式といった定型的な様式とは異なり、四角い区画を二列に長く配置し、それらを土橋で連結するという極めて独特なものであった 38。この様式は他に類例が少ないことから、「高山右近様式」と称されることもあるほど、彼の独創性が際立っていた 38。
これらの事実は、右近が単に戦術家として優れていただけでなく、城郭設計や都市計画といった土木技術においても高度な専門知識と独創的な発想を持っていたことを示している。彼がキリスト教を通じて西洋の知識や技術に触れていた可能性も考慮すれば、その築城術に何らかの先進的な影響があったことも推測されるが、現存する資料からは直接的な証拠を見出すことは難しい。しかしながら、その設計の独創性と高い評価は、右近の多才ぶりを示す重要な側面である。
第四部:マニラへの道、そして列福
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追放の経緯と政治的背景(大坂の陣との関連を含む)
前田家の庇護のもと、比較的穏やかな日々を送っていた高山右近であったが、日本の政治情勢は再び大きく動揺し、彼の運命もまた新たな局面を迎える。関ヶ原の戦いを経て天下の実権を握った徳川家康は、慶長18年(1613年)あるいは19年(1614年)に、全国的なキリスト教禁教令を発布し、宣教師および主だったキリスト教信者を国外へ追放することを命じた 2。
家康がこの時期に禁教令を強化し、右近を含むキリシタンを追放した背景には、複数の要因が絡み合っていたと考えられる。一つには、右近が依然として持つ影響力に対する警戒があったとされる 6。また、より直接的な政治的理由として、間近に迫っていた大坂の陣(豊臣家との最終決戦)を前に、キリシタン勢力が豊臣方に与することを未然に防ぐための戦略的措置であったという説が有力である 44。さらに、当時日本との貿易を望んでいたプロテスタント国であるオランダやイギリスが、カトリック国であるポルトガルやスペインによる日本侵略の意図を幕府に讒言したことも、禁教令強化の一因となったとも言われている 47。
いずれにせよ、高山右近はこの国外追放の対象となり、約26年間を過ごした加賀国金沢の地を離れ、多くのキリシタンと共に長崎へと向かうことを余儀なくされた 3。家康による右近追放は、単なる宗教政策の枠を超え、大坂の陣を目前に控えた国内の安定化と、豊臣方に与しうる潜在的勢力の排除という、幕藩体制確立に向けた高度な政治的判断が絡んでいたと言えよう。右近のカリスマ性と信徒からの信望は、家康にとって無視できない存在となっていたのである。
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同行した家族・家臣
高山右近は、妻ジュスタをはじめとする一族、そして同じくキリシタンであった武将・内藤如安(ジョアン)ら数名の家臣と共に、長崎からマニラの地へと追放された
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現地での歓迎と病没
慶長19年(1614年)11月、右近一行を乗せた船はフィリピンのマニラに到着した。マニラでは、スペイン領フィリピン総督フアン・デ・シルバをはじめ、現地の聖職者や市民から熱烈な歓迎を受けたと伝えられている 3。その信仰の篤さと日本における高名なキリシタン大名としての名声は、遠くマニラの地にも届いていたのである。
しかし、故国を追われた長旅の疲労、そして熱帯地方であるマニラの慣れない気候や風土、食事などが右近の健康を著しく蝕んだ。マニラ到着後、間もなくして熱病に倒れ、わずか40日後の慶長20年(1615年)2月3日(史料によっては4日とも 4)に、63年の波乱に満ちた生涯を閉じた 3。
マニラでの盛大な歓迎は、右近の信仰者としての国際的な名声を示すものであったが、その一方で、過酷な追放が結果的に彼の命を縮めたことは、歴史の皮肉と言わざるを得ない。故国を追われ、異郷の地で短い期間ながらも信仰者として温かく迎えられ、そしてその生涯を終えたという劇的な最期は、彼の殉教者としてのイメージを一層強固なものとする一因となった。
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列福に至る経緯とその意義
度重なる迫害に屈することなく、生涯を通じてキリスト教の信仰を貫き通した高山右近の生き様は、カトリック教会において高く評価されることとなる。没後400年という節目を迎えた平成27年(2015年)を経て、平成29年(2017年)2月7日、ローマ教皇フランシスコは高山右近をカトリック教会における崇敬の対象である「福者」に列することを承認した 2。福者とは、聖人に次ぐ崇敬の称号であり、これは彼の殉教者としての生き方がカトリック教会によって公式に認められたことを意味する。
列福式は同月、大阪城ホールにて、教皇代理として派遣されたアンジェロ・アマート枢機卿(当時列聖省長官)によって荘厳に執り行われた 51。
高山右近の列福は、近世日本のキリシタン史における彼の存在の比類なき重要性と、その信仰の純粋さが、数世紀の時を超えて国際的に再評価されたことを示す画期的な出来事であった。これは単に歴史上の人物を記憶に留めるだけでなく、彼の生き様が信仰の模範として現代のカトリック教会において公に崇敬されることを意味しており、その生涯が持つ宗教的意義が時を超えて普遍的なものとして認められたことを示している。
第五部:高山右近の人物像と歴史的評価
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第一章:同時代人および宣教師による評価(フロイス『日本史』の記述を中心に)
高山右近の人物像を理解する上で、同時代人、特に日本で布教活動を行ったイエズス会宣教師たちの記録は極めて重要である。中でもルイス・フロイスが著した『日本史』には、右近に関する詳細な記述が数多く残されている 18。
フロイスは右近を高く評価しており、「ジュスト右近殿は非常に活発で明晰な知性と、稀に見る天賦の才を有する若者であった」と記し、また「都や地方の全キリシタンの柱となった」とその影響力の大きさを称えている 20。
高槻城主時代の右近の統治については、フロイスは領内に20を超える教会が建てられ、キリスト教が非常に盛んであったと記録している 18。一方で、寺社破壊に関しては、右近が多数の僧院を破壊して教会を建設したとの記述も見られる 21。これは、右近の信仰の徹底ぶりを示すと同時に、当時の宗教的対立の激しさを物語っている。
豊臣秀吉との関係においては、秀吉が右近に棄教を迫った際の右近の毅然とした態度や、秀吉が右近の強い影響力を警戒していた様子が、フロイスによって詳細に伝えられている 20。
前田家庇護のもと、名護屋に滞在していた際の右近の経済状況について、フロイスは困窮していたと記しているが、この記述の解釈については、翻訳を巡る議論も存在する 36。
総じて、宣教師たちは高山右近の信仰の篤さ、知性、そしてキリスト教共同体における指導力を高く評価しており、彼を日本におけるキリスト教布教の重要な擁護者と見なしていたことがわかる 4。
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第二章:後世における評価の変遷
高山右近の歴史的評価は、時代やその評価を行う者の立場によって大きく揺れ動いてきた。
江戸時代は、幕府による厳しいキリスト教禁教政策が敷かれたため、右近に関する肯定的な評価が公にされることは困難であった。むしろ、彼が統治した高槻などで神社仏閣を破壊したという側面が、仏教寺院側の記録などを通じて強調され、時には暴君として語られることもあった 4。
明治時代に入り、信教の自由がある程度認められるようになると、高山右近は信仰に殉じた悲劇の武将として再評価される動きが始まる。多くの伝記や研究書が出版され、その生涯や信仰が学術的な研究対象となっていった 2。
そして21世紀に入り、カトリック教会による列福運動が実を結び、2017年に福者の列に加えられたことは、彼の評価を信仰的な側面から国際的なものへと高める大きな出来事であった 54。
このように、高山右近の評価は、宣教師による同時代の称賛、江戸時代の禁教下における否定的な側面や忘却、近代以降の信仰の殉教者としての再評価、そして近年の福者としての崇敬へと、大きな変遷を遂げてきた。この評価の変遷そのものが、日本の宗教史や思想史の複雑な様相を反映していると言えるだろう。
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第三章:信仰に殉じた武将としての多面的考察
高山右近は、しばしば「清廉にして智の人」2、あるいはその行動原理から「誠実」6 と評される。その生涯は、自身の信仰に忠実であろうとした結果、当時の権力者と対立し、最終的には故国を追われるという悲劇的なものであった。
しかし、彼の人物像は単に「信仰の殉教者」という一面だけでは捉えきれない。彼は有能な武将であり、山崎の戦いでの活躍や、各地での築城に見られるように、軍事・統治の両面で優れた能力を発揮した 3。また、千利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられるなど、洗練された文化人としての素養も兼ね備えていた 3。
彼の行動原理の根底には常にキリスト教信仰があったことは疑いないが、その信仰の徹底ぶりは、時に寺社破壊といった過酷な結果を招いた可能性も否定できない。また、大名としての地位を捨てたことは、家臣や領民の生活にも大きな影響を与えたであろう。
高山右近の生涯は、絶対的な価値(神への信仰)と、当時の武家社会における相対的な価値(主君への忠誠、家名の維持、現世的な成功)との間で、迷うことなく前者を選び、それを貫き通した稀有な例として捉えることができる。彼の選択は、単なる狂信によるものではなく、深い思慮と覚悟に基づいたものであったと考えられる。その複雑な人格と、時代に翻弄されながらも自らの信念を曲げなかった生き様は、一面的な英雄像や狂信者像では捉えきれない、人間的な深みを感じさせる。
終章:高山右近が現代に問いかけるもの
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報告の総括と右近の生涯が持つ歴史的意義の再確認
高山重友(右近)の生涯は、戦国乱世から江戸時代初期という日本史における激動の転換期を背景に、信仰、権力、そして文化が複雑に交錯した様を映し出している。キリシタン大名としての彼の選択と生き様は、日本におけるキリスト教の初期の受容と展開、武士道精神と外来宗教であるキリスト教信仰との間に生じた相克、そして何よりも、社会的な圧力や困難の中で個人の信念を貫くことの困難さとその尊さを、現代に生きる我々に強く問いかけている。
彼が経験した栄華と没落、そして最終的なマニラへの追放と客死は、一個人のドラマに留まらず、近世日本の国家形成過程における宗教政策の厳しさ、そして異文化接触がもたらした緊張関係を象徴している。
2017年の列福は、高山右近の生涯が持つ宗教的・倫理的な価値が、時代と国境を超えて普遍的なものとして認められたことを示している。彼の生き方は、歴史研究の対象としてのみならず、現代社会における信仰のあり方、個人の良心と社会との関係性、そして文化の多様性の受容といった普遍的なテーマについて、我々に深い思索を促すものであり続けるだろう。
(付録)
表1:高山右近 略年表
和暦
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西暦
|
年齢
|
主要な出来事
|
関連史料ID
|
天文21年
|
1552年
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0歳
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摂津国高山庄にて誕生(父:高山友照)
|
4
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永禄6年
|
1563年
|
12歳
|
父・友照(飛騨守ダリヨ)受洗
|
4
|
永禄7年
|
1564年
|
13歳
|
奈良の沢城にて受洗、洗礼名ジュストを得る
|
3
|
永禄11年
|
1568年
|
17歳
|
高山父子、和田惟政に仕える
|
4
|
天正元年
|
1573年
|
22歳
|
高槻城主となる。領内でキリスト教布教を推進
|
3
|
天正6年
|
1578年
|
27歳
|
荒木村重が織田信長に謀反。右近は苦悩の末、信長に降伏
|
4
|
天正10年
|
1582年
|
31歳
|
本能寺の変。山崎の戦いで羽柴秀吉軍の先鋒として活躍
|
3
|
天正13年
|
1585年
|
34歳
|
播磨国明石郡6万石に移封、船上城主となる
|
4
|
天正15年
|
1587年
|
36歳
|
豊臣秀吉、バテレン追放令を発布。右近は棄教を拒否し、領地・財産を返上
|
2
|
天正16年
|
1588年
|
37歳
|
前田利家の招きにより加賀国金沢へ移り、庇護を受ける
|
2
|
天正18年
|
1590年
|
39歳
|
小田原北条氏攻めに前田軍の参謀役として従軍
|
3
|
慶長14年
|
1609年
|
58歳
|
高岡城の縄張り(設計)に関与したとされる
|
8
|
慶長19年
|
1614年
|
63歳
|
徳川家康によるキリスト教禁教令により国外追放を命じられ、マニラへ出発
|
2
|
慶長20年
|
1615年
|
64歳
|
2月3日(または4日)、マニラにて病没
|
3
|
平成29年
|
2017年
|
-
|
2月7日、ローマ教皇庁により福者に列せられる
|
2
|
表2:高山右近 関係主要人物一覧
氏名
|
右近との関係
|
主要関連事項
|
関連史料ID
|
高山友照(飛騨守ダリヨ)
|
父
|
右近に先立ち受洗。右近の信仰に大きな影響を与える。荒木村重謀反の際は右近と意見を異にする。
|
4
|
ロレンソ了斎
|
修道士
|
友照・右近父子に洗礼を授けたとされるイエズス会修道士。
|
4
|
和田惟政
|
主君
|
当初、高山父子が仕えた摂津の武将。高槻城主。
|
4
|
荒木村重
|
主君
|
和田惟政の後、高山父子が仕える。後に織田信長に謀反。
|
4
|
オルガンティノ神父
|
宣教師
|
右近が尊敬し、荒木村重謀反の際に助言を求めたイエズス会士。
|
4
|
織田信長
|
主君
|
荒木村重謀反後、右近を許し家臣とする。右近の能力を評価。
|
4
|
豊臣秀吉
|
主君
|
山崎の戦い以降、右近を重用し加増。後にバテレン追放令を発し、右近に棄教を迫る。
|
2
|
小西行長
|
キリシタン大名
|
バテレン追放令後、右近を一時庇護。
|
4
|
前田利家
|
大名
|
バテレン追放令後、右近を客将として金沢に招き、庇護。
|
2
|
前田利長
|
大名
|
利家の子。父同様、右近を庇護。高岡城築城を命じる。
|
8
|
千利休
|
茶人
|
右近の茶の湯の師。右近は利休七哲の一人。
|
3
|
徳川家康
|
天下人
|
キリスト教禁教令を発布し、右近を国外追放。
|
2
|
ルイス・フロイス
|
宣教師
|
イエズス会士。『日本史』を著し、右近に関する多くの記述を残す。
|
4
|
内藤如安(ジョアン)
|
キリシタン武将
|
右近と共にマニラへ追放された家臣。
|
45
|
高山ジュスタ
|
妻
|
右近と共にマニラへ追放された。
|
23
|
高山長房(ジョアン)
|
子(嫡男)
|
荒木村重謀反の際に人質となる。その後の消息には諸説あり。
|
4
|
参考文献一覧
本報告書作成にあたり参照した主要な研究書や史料集は多岐にわたる。代表的なものとして、J.ラウレス著『高山右近の研究と史料』、海老沢有道著『高山右近』(人物叢書)、中西裕樹著『高山右近―キリシタン大名への新視点』などが挙げられる
65
。また、ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』(中公文庫)は、同時代の宣教師の視点からの貴重な情報源である
18
。これらの研究や史料は、高山右近の生涯、信仰、そして彼が生きた時代を理解する上で不可欠である。その他、各史料IDに示されるウェブサイトや論文も参照した。
引用文献
-
Amazon.com: 高山右近の生涯―日本初期キリスト教史 (聖母文庫): 9784882163718
https://www.amazon.com/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%8F%B2-%E8%81%96%E6%AF%8D%E6%96%87%E5%BA%AB/dp/4882163713
-
『新装版 高山右近』(加賀 乙彦) - 講談社
https://www.kodansha.co.jp/r/book/product?item=0000212362
-
高山右近を訪ねて | 高槻市観光協会公式サイト たかつきマルマルナビ
https://www.takatsuki-kankou.org/takayama-ukon/
-
高山右近- 维基百科,自由的百科全书
https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91
-
高山右近- 維基百科,自由的百科全書
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91
-
秀吉、家康が恐れた高山右近の「誠実」さ - 歴史人
https://www.rekishijin.com/37430
-
高槻城
https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/kinki/takatsuki.j/takatsuki.j.html
-
高山右近:加賀藩に仕えたキリシタン大名の足跡をたどる|特集 - 金沢旅物語
https://www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp/article/detail_544.html
-
郷土の偉人 戦国大名 高山右近 | 豊能町公式ホームページ
https://www.town.toyono.osaka.jp/page/page003025.html
-
www.takatsuki-kankou.org
https://www.takatsuki-kankou.org/takayama-ukon/#:~:text=%E5%8F%B3%E8%BF%91%E3%81%8C%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%A8,%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%82%8B%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%82%92%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E3%80%82
-
高山右近 - 宇陀市公式ホームページ(観光課)
https://www.city.uda.lg.jp/udakikimanyou/otokotachionnatachi/takayamaukon.html
-
加賀藩に招かれたキリシタン大名・高山右近とその足跡をめぐる金沢マニアック旅
http://kanazawa-okiniiri.com/machiaruki/view-94/
-
46 高山右近
https://www.toyokan.net/bora3/bunka/46.htm
-
高山右近 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91
-
高山右近(高山右近と城一覧)/ホームメイト - 刀剣ワールド 城
https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/17/
-
徳川幕府の禁教令により国外追放されたキリシタン大名の数奇な人生|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【高山右近編】 | サライ.jp
https://serai.jp/hobby/1024143
-
大阪府高槻市 キリシタン大名高山右近ゆかりの地 - 歴史街道
https://www.rekishikaido.gr.jp/timetrip/journey/sengoku/rekishi-takatsuki2/
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「カトリック情報ハンドブック2010」巻頭特集
https://www.cbcj.catholic.jp/2011/09/01/13327/
-
2016年1月22日には、バチカン(ローマ法王庁)から「福者」に認定された、キリシタン大名・高山右近。彼は、どんな人生の歩みをしてきたのでしょうか。 - デイリーブレッド公式サイト
https://japanese-odb.org/article/page/4/api/grid/post_type/article/posts_per_page/9/sort[false]/DESC/
-
大阪の今を紹介! OSAKA 文化力 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会
https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/005.html
-
waseda.repo.nii.ac.jp
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-
バテレン追放令 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4
-
高山右近の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド
https://www.touken-world.jp/tips/46491/
-
高山右近生誕地 - とよのの歴史|豊能町観光協会
https://www.toyokan.net/history/takayama.html
-
秀吉、家康が恐れた高山右近の「誠実」さ - 歴史人
https://www.rekishijin.com/37430/2
-
高山右近とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書
https://www.weblio.jp/content/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91
-
高山右近はどんな人?その生涯やゆかりある観光スポットを散策しよう - カエルの家 高槻 新築
https://sunlife-h.co.jp/useful/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E4%BA%BA%EF%BC%9F%E3%81%9D%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF%E3%82%84%E3%82%86%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%82%E3%82%8B%E8%A6%B3%E5%85%89/
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キリスト教宣教としての茶の湯 - 大阪女学院大学
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明石城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪
https://www.osaka-touken-world.jp/western-japan-castle/akashijo/
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キリシタン大名・高山右近/ホームメイト - 刀剣ワールド
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完訳フロイス日本史④ 秀吉の天下統一と高山右近の追放 豊臣秀吉篇Ⅰ - 中央公論新社
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伴天連追放令に関する一考察
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キリシタン史 秀吉の伴天連追放令
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海と権力 : 宣教師報告に見る畿内=九州移動ルートの分析を手がかりに - 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ
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高山右近(タカヤマウコン)とは? 意味や使い方 - コトバンク
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加賀藩に招かれたキリシタン大名・高山右近とその足跡をめぐる金沢マニアック旅
https://kanazawa-okiniiri.com/machiaruki/view/94
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高岡城と高山右近 - 古城万華鏡Ⅰ
https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou/kojyou1.html
-
金沢城シンポジウム「近世城郭 金沢城の成立-本丸御殿の時代-」
https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/61/61577/122072_1_%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%81%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%9F%8E%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%AC%AC19%E5%8F%B7.pdf
-
読めばわかる! 神通川・富山城・松川・富岩運河の歴史
https://matsukawa-cruise.jp/reading/jinzugawa-toyamajyo-matsukawa-fuganunga/
-
高岡市歴史まちづくり計画
https://www.city.takaoka.toyama.jp/material/files/group/42/rekimachi_all.pdf
-
茶道と右近
https://ebible.jp/ukon/ukon006.html
-
堺から日本へ!世界へ!16世紀 茶の湯 キリスト教 千利休 日比屋了慶 高山右近
https://jsmaeda.stars.ne.jp/chayutochristian.html
-
血で血を洗う戦乱の世に「信仰」で抗った男!戦国武将・高山右近の波乱の生涯とその最期 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2
https://mag.japaaan.com/archives/235257/2
-
京・大坂におけるキリシタン禁教政策について
https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/22001/files/KU-1100-19850228-03.pdf
-
京都のキリシタン - 立命館大学
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/673/673PDF/aso.pdf
-
www.meihaku.jp
https://www.meihaku.jp/sword-basic/christiandaimyo-artwork/#:~:text=%E8%81%96%E8%81%B7%E8%80%85%E3%81%AF%E7%89%A7%E5%B8%AB%E3%81%A8,%E3%81%AB%E3%81%A6%E6%AD%BB%E5%8E%BB%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
-
キリシタン大名の歴史/ホームメイト
https://www.meihaku.jp/sword-basic/christiandaimyo-artwork/
-
高山右近の碑③ - つとつとのブログ
https://tsutotsuto.seesaa.net/article/201709article_3.html
-
もうひとりの高山右近 -マニラまで同行した内藤如安 - キリシタンと呼ばれた人々ー徒然に
http://st-mary-ac.sblo.jp/article/173667715.html
-
アマート枢機卿逝去、高山右近列福式司式のため来日 - バチカン・ニュース - Vatican News
https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2025-01/la-scomparsa-del-card-amato-prefetto-emerito-cause-dei-santi.html
-
キリシタン時代における殉教の理解と記憶
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/244222/1/asia17_11.pdf
-
[375] 古田織部と高山右近 | ひつじの手帖
https://ameblo.jp/baliho/entry-11940012973.html
-
教皇フランシスコ、ユスト高山右近の列福を承認 - カトリック中央協議会
https://www.cbcj.catholic.jp/2016/01/22/10452/
-
右近の霊性 高山右近の心
http://augusutinusu-t-ukon.cocolog-nifty.com/httpjusutotuko/2017/05/post-8118.html
-
M・ハイドンの高山右近劇《キリスト教徒のゆるぎなさ 《キリスト教徒のゆるぎなさ 《キリス
http://mozart.music.coocan.jp/258.pdf
-
『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における織田信長・豊臣秀吉・豊 臣秀頼・徳川家康・
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=7767
-
イエズス会宣教師の渡来から鎖国まで - Biglobe
http://www7b.biglobe.ne.jp/~aki141/nanbannjin.pdf
-
津軽氏とキリシタン 津軽為信の キリスト教への接近(1) - 八戸学院学術情報リポジトリ
https://hachinohe-hachitan.repo.nii.ac.jp/record/215/files/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E6%B0%8F%E3%81%A8%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E2%94%80%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E7%82%BA%E4%BF%A1%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%8E%A5%E8%BF%91%EF%BC%881%EF%BC%89.pdf
-
hachinohe-hachitan.repo.nii.ac.jp
https://hachinohe-hachitan.repo.nii.ac.jp/record/227/files/05-%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E6%B0%8F%E3%81%A8%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E2%94%80%E2%94%80%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E7%82%BA%E4%BF%A1%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%8E%A5%E8%BF%91%EF%BC%882%EF%BC%89.pdf
-
安土・神学校(セミナリオ)の遺址 - MIYANAGA, Takashi / 宮永, 孝
https://hosei.ecats-library.jp/da/repository/00021023/51-2miyanaga.pdf
-
探訪 京都に残るキリシタン関連史跡 -1 元和キリシタン殉教の地、南蛮寺跡ほか | 遊心六中記
https://plaza.rakuten.co.jp/asobikokoro2/diary/201808020000/
-
太平洋の覇権(14) -----バテレンの追放令|弁護士コラム・論文・エッセイ
https://www.mclaw.jp/column/tsutsumi/column026.html
-
二つの『高山右近』 - 日本ペンクラブ電子文藝館
https://bungeikan.japanpen.or.jp/2920/
-
高山右近 - Amazon.co.jp
https://www.amazon.co.jp/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91/s?k=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91
-
高山右近 | 人物詳細 | ふるさとコレクション | SHOSHO - 石川県立図書館
https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/furucolle/list/prsn07053
-
高山右近 キリシタン大名への新視点 | 中西裕樹 |本 | 通販 | Amazon
https://www.amazon.co.jp/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91%E2%94%80-%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%A4%A7%E5%90%8D%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%96%B0%E8%A6%96%E7%82%B9-%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E8%A3%95%E6%A8%B9/dp/4863669267
-
高山右近 キリシタン大名への新視点 中西裕樹 編 - 宮帯出版社
http://www.miyaobi.com/publishing/products/detail.php?product_id=823
-
右近研究者
https://ebible.jp/ukon/ukonkenkyu.html
-
『新装版 高山右近』|感想・レビュー・試し読み - 読書メーター
https://bookmeter.com/books/11028963
-
日 本 キ リ ス ト 教 関 係 文 献 集 成 - 南山大学
https://nirc.nanzan-u.ac.jp/journal/5/article/359/pdf/download
-
完訳フロイス日本史 (3(織田信長篇 3)) (中公文庫 S 15-3)
https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%8C%E8%A8%B3%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%80%883%E3%80%89%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%9F%8E%E3%81%A8%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89%E2%80%95%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E7%AF%87-3-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9-%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9/dp/4122035821
-
ルイス・フロイス著 松田毅一 川崎桃太 訳 『完訳フロイス日本史 豊臣秀吉篇』 中公文庫 第四巻から第五巻まで - note
https://note.com/kumamotokuma/n/n83329f015062
-
「日本二十六聖人殉教者祭」 講話・ミサ説教 - カトリック本所教会
https://www.catholic-honjyo-church.org/2016st26.html
-
壬辰・丁酉(文禄・慶長)乱における 朝鮮被擄人の日本定住 - researchmap
https://researchmap.jp/nagamori/published_papers/26180271/attachment_file.pdf
-
本能寺の変の再検証 - 京都産業大学 学術リポジトリ
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日本の殉教者の歴史的記憶と宗教的アイデンティティ
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キリシタン考古学から考えるキリスト教の伝来、弾圧と人々の信仰
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-
17 世紀のグローカルなキリスト教会史 - 京都大学学術情報リポジトリ
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-
鎖国前後における日本人の西洋人観 ・黒人観の心理一歴史的背景 - 埼玉大学学術情報リポジトリ(SUCRA)
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- 大航海時代と信長・秀吉・家康 - - 横浜歴史研究会
https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2023/06/%E5%A4%A7%E8%88%AA%E6%B5%B7%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%A8%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E7%B5%B1%E4%B8%8020230603.pdf
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一茨木キリシタン遺跡の成立に関わる 「フロイス日本史」 清水寺ロケの実像一
https://takayama-ukon.sakura.ne.jp/pdf/booklet/itou.pdf
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加賀藩前田家の客将 キリシタン大名 高山右近 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=WRnWutRyokc
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右近の先祖、家族、子孫
https://ebible.jp/ukon/ukonkakei.html