戦国武将の高島正澄は播磨赤松氏の庶流。織田信長の播磨侵攻で甥の赤松政範と共に上月城に籠城し、天正5年(1577年)に殉死。その死は旧秩序の終焉と新時代の到来を象徴する。
高島正澄という人物は、戦国時代の播磨国に生きた一人の武将である。彼の名は、織田信長や豊臣秀吉のような天下人の影に隠れ、歴史の表舞台で大きく語られることは少ない。しかし、彼の生涯と死は、巨大な権力が衝突する時代の転換点において、地方の伝統的勢力が如何にして翻弄され、そして己の矜持を貫いたかを物語る、極めて象徴的な事例である。
彼の運命を決定づけたのは、天正5年(1577年)の羽柴秀吉による播磨侵攻、そしてそれに伴う上月城の攻防戦であった。この戦いで彼は、甥である城主・赤松政範を支える家老として籠城し、壮絶な最期を遂げる。その死は、単なる一個人の戦死に留まらず、中世以来の名門・赤松氏の落日と、織田政権による新たな支配秩序の到来を告げる、時代の分水嶺に位置する出来事であった。
本報告書では、断片的に残された史料を丹念に読み解き、高島正澄の出自である名門・赤松氏の内部事情、彼が城主であった高野須城の地理的・戦略的重要性、そして彼の運命を決定づけた「第一次上月城の戦い」の全貌を、マクロな視点とミクロな視点を交差させながら立体的に再構築する。これにより、一人の武将の生涯を通して、戦国時代における「忠義」と「滅亡」の力学を深く考察することを目的とする。
高島正澄の生涯を理解するためには、まず彼が属した赤松氏の歴史的背景を把握する必要がある。赤松氏は村上源氏の流れを汲むとされ、鎌倉時代から播磨国佐用荘赤松村(現在の兵庫県佐用町)に根を張った名門武家である 1 。南北朝時代には、赤松則村(円心)が足利尊氏に従って室町幕府の創設に多大な功績を挙げ、一族は播磨・備前・美作の三国守護に任じられ、幕府の四職家の一つに数えられるほどの権勢を誇った 2 。
しかし、その栄華は永続きしなかった。嘉吉元年(1441年)、6代将軍・足利義教の強権政治に反発した赤松満祐が将軍を暗殺するという「嘉吉の乱」を引き起こす。これにより満祐は幕府の追討軍に敗れて自害し、守護大名としての赤松氏は一度滅亡の淵に立たされた 4 。その後、遺臣たちの尽力により赤松政則の代で奇跡的な再興を遂げるが、かつての勢威を取り戻すには至らなかった。戦国時代に入ると、守護代であった浦上氏や、有力国人である小寺氏、別所氏などが台頭し、宗家の権威は著しく低下した。一族や家臣団の間で内紛が絶えず、「播州錯乱」と称されるほどの混乱状態に陥り、その支配力は大きく揺らいでいた 6 。高島正澄が生きたのは、まさにこの、赤松宗家の求心力が失われ、一族の結束や主君への忠誠が、より強く問われる極めて不安定な時代であった。
高島正澄は、赤松氏第10代当主・赤松義村の三男として生を受けた 9 。彼の父・義村は、赤松氏の祖・円心の長男・範資の系統である庶流「七条家」の出身であった 8 。嘉吉の乱後の再興を果たした赤松政則に嗣子がなく、その婿養子として七条家から迎えられ、宗家を継承したという経緯を持つ 11 。
この出自は、当時の赤松氏が置かれていた複雑な権力構造を象徴している。宗家の血筋が不安定になり、庶流から当主を迎えなければならないという事態は、一族内における権力基盤の脆弱さを示唆するものであった。正澄には、兄として宗家を継いだ赤松晴政(初名は政村)や、上月城主となった赤松政元らがいた 10 。嫡男である晴政が家督を継ぐのが通例であり、三男であった正澄は、宗家当主の息子という高い血統にありながらも、家督相続権からは遠い立場にあった。このことが、彼が後述する独立した領主としての道を歩みつつも、赤松宗家、特に兄・政元の子である甥の赤松政範と運命を共にするという彼の生涯を方向づけた、根本的な要因となったと考えられる。彼の立場は、「宗家当主の近親」という名誉と、「家督相続権のない庶子」という現実の間にあった。この微妙な立ち位置が、彼に独立した領主としての道を歩ませ、同時に宗家への強い紐帯を維持させる力学を生んだと推察される。
史料によれば、正澄は当初「赤松正澄」を名乗っていたが、後に「高島正澄」と改名している 10 。そして、播磨国高野須城(こうのすじょう)の城主であったことが記録されている 13 。この城は、現在の兵庫県赤穂市有年横尾と相生市雨内の市境に位置する標高316メートルの荒山山頂にあった山城である 13 。天正年間(1573年~1592年)に正澄によって築城され、天正5年(1577年)の彼の死と共に廃城になったと見られており、極めて存続期間の短い城であった 14 。
戦国武将が姓を変える行為は、単なる名前の変更に留まらない。それは、宗家から分家して独立した家を創設したことを内外に示す、重要な政治的宣言であった 17 。彼が「高島」という姓を選んだ理由は定かではないが、古代の地誌『播磨国風土記』には、家島諸島に「高島」という島が存在した記録があり、播磨に縁のある名称であったことがわかる 19 。彼が赤松宗家から分家し、「高島家」という新たな庶流を立てたことを意味する。
この「改姓」という家の創設宣言(ソフトウェア)と、「高野須城の築城」という物理的・軍事的な拠点確保(ハードウェア)は、一体の行動として理解すべきである。これにより、彼は単なる「赤松義村の三男」という立場から、「赤松一門・高島家当主」へと自己のアイデンティティを再定義し、不安定な宗家への依存度を下げ、自らの足で立つための戦略的行動であったと解釈できる。彼の人生は、赤松一族という大きな枠組みの中で、自己の勢力基盤を築こうとした一人の武将の、ささやかな、しかし必死の努力の軌跡として捉えることができるのである。
表1:高島正澄 関連略年譜
西暦 |
和暦 |
出来事 |
1496年 |
明応5年 |
高島正澄の父・赤松義村が赤松家当主となる 12 。 |
(生年不詳) |
- |
赤松義村の三男として、高島(赤松)正澄が誕生する 9 。 |
1521年 |
大永元年 |
兄・赤松晴政が家督を継ぐ。この頃より、赤松家中で内紛が激化する(播州錯乱) 6 。 |
(築城年不詳) |
天正年間 |
高島正澄が高野須城を築城し、城主となる 14 。 |
1577年 |
天正5年 |
10月、羽柴秀吉が播磨へ侵攻を開始する 21 。 |
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11月、秀吉軍が上月城の支城・福原城を攻略 22 。 |
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12月3日、上月城が落城。城主・赤松政範は自害。家老として籠城していた高島正澄も殉死する 9 。 |
天正5年(1577年)、天下統一を目前にする織田信長の次なる目標は、中国地方に一大勢力を築く毛利氏の打倒であった。信長は腹心の将・羽柴秀吉を総大将に任命し、播磨国へと大軍を派遣した 21 。播磨は、西進する織田軍と、それを迎え撃つ毛利軍が直接対峙する最前線となり、地政学的に極めて重要な位置を占めていた。
この巨大な軍事力の到来に対し、播磨の国衆たちは対応を迫られた。姫路城主の小寺政職(黒田官兵衛の主君)や三木城主の別所長治など、多くの領主は当初、織田方の圧倒的な力を前にして秀吉に恭順の意を示した 21 。播磨の武士たちは、自家の存続を賭け、織田につくか、古くからの関係がある毛利につくか、究極の選択を迫られたのである。この状況が、上月城の悲劇の直接的な引き金となった。
播磨国西部の要衝・上月城(こうづきじょう)の城主は、高島正澄の甥にあたる赤松政範であった 9 。彼は高島正澄の兄・赤松政元の子であり、武勇に優れ、「西播磨殿」とも称された人物である 23 。秀吉からの帰順要求に対し、政範はすぐには応じなかった。彼は評定の場で、祖父の代から上月城を死守してきた一族の誇りを述べ、毛利方との関係を断ち切れずにいたと伝わる 21 。
一部の記録では、政範は思慮分別がある一方で、毛利と織田との去就に数年を要するほど「優柔不断」な面があったと評されている 27 。しかし、この評価は結果論からのものであり、慎重に解釈する必要がある。彼の「優柔不断」は、単なる個人的な性格の問題として片付けるべきではない。それは、巨大勢力に挟まれた地方領主が陥る、構造的な苦悩の現れであった。織田に従えば、旧来の所領安堵の慣習を無視され、巨大な軍事機構の一部品として組み込まれる危険がある。一方、毛利に付けば、圧倒的な織田の軍事力に滅ぼされる可能性が高い。政範の逡巡は、どちらを選んでも茨の道であるという、絶望的な状況認識の裏返しであった可能性が高い。彼が最終的に下した徹底抗戦という決断は、破滅を覚悟の上で、播磨武士としての「意地」と赤松一族の誇りを守ろうとした、悲壮な選択であったと解釈できる。
この国家存亡の危機に際して、高島正澄の行動は極めて明確であった。彼は「赤松家の家老として」甥である政範を補佐し、味方することを決断する 9 。自らが築いた居城・高野須城を離れ、一族郎党を率いて政範の籠もる上月城へと馳せ参じたのである 13 。
この行動は、彼が自らの家「高島家」の存続よりも、赤松一門としての結束と、主君(甥)への忠義を優先したことを示している。独立した領主でありながら、彼は自らをあくまで「赤松家の家老」と位置づけ、宗家と運命を共にする道を選んだ。これは、戦国武士の主従関係や一族の紐帯を考える上で、非常に重要な事例である。彼の選択は、合理的な損得勘定を超えた、武士としての価値観に根差したものであった。
表2:第一次上月城の戦い 主要関係者一覧
陣営 |
拠点 |
主要人物 |
役職・立場 |
最終的な動向 |
赤松方 |
上月城 |
赤松政範 |
城主・「西播磨殿」 |
自害 23 |
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高島正澄 |
家老・政範の叔父 |
殉死 9 |
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早瀬帯刀正義 |
家臣(柏原城主) |
殉死 21 |
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福原藤馬允則尚 |
同盟者(福原城主) |
秀吉軍に敗れ自害 28 |
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宇喜多掃部介広維 |
家臣 |
殉死 21 |
織田方 |
高倉山(本陣) |
羽柴秀吉 |
総大将 |
上月城を攻略 |
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黒田官兵衛孝高 |
軍監・小寺政職家臣 |
福原城攻略などで活躍 4 |
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竹中半兵衛重治 |
軍監 |
福原城攻略などで活躍 4 |
赤松政範の抵抗の決意に対し、羽柴秀吉は即座に軍事行動を開始した。秀吉の戦術は、まず主城の周囲にある支城を制圧して連携を断ち、主城を孤立させるという、兵法の常道に則った極めて合理的なものであった。
天正5年(1577年)11月、秀吉はまず黒田官兵衛と竹中半兵衛に命じ、上月城の重要な支城であった福原城(佐用城)を攻撃させた 4 。福原城は落城し、城主の福原則尚は自害した 28 。これにより、上月城は西播磨における有力な連携先を失った。続いて秀吉は、上月城の東に位置する高倉山に本陣を構え、1万5千ともいわれる大軍で城を完全に包囲した 4 。
この間、赤松政範と連携していた備前の宇喜多直家が救援のために軍勢を派遣したが、これも秀吉軍によって撃退されてしまう 23 。四方を織田の大軍に囲まれ、外部からの援軍の望みも絶たれた上月城は、完全に孤立無援の状態に陥った。兵站線は断たれ、籠城する赤松軍の士気は日に日に削がれていったことは想像に難くない。
籠城戦の末、天正5年(1577年)12月3日、ついにその日は訪れた 23 。すべての救援の望みを絶たれた城主・赤松政範は、城に火を放ち、自害して果てた 23 。主君の自害を見届けた家臣たちも、それに続いた。
家老として最後まで政範を補佐した高島正澄もまた、この場で主君に殉じた 9 。史料には、彼と共に一族の早瀬帯刀正義、宇喜多掃部介広維、国府寺入道、中村伊勢入道といった将士らが殉死したと記録されている 21 。彼らの「殉死」は、主君への忠誠の最終的な表現形態であった。高島正澄の最期は、彼が自身の生き様を「赤松家の家老」として貫徹したことを示している。彼の死は、個人的な死であると同時に、赤松上月家という一つの家の終焉を象徴する、儀式的な行為でもあった。
上月城の悲劇は、城主たちの自害だけでは終わらなかった。城が落ちると、秀吉軍は城内に突入し、降伏を許さず、抵抗する残兵の首をことごとく刎ねたとされる 21 。さらに、その処置は戦闘員に留まらなかった。『播州佐用軍記』などの記録によれば、秀吉は見せしめとして城中の女子供を捕らえ、播磨・備前・美作の三国国境に引き据え、子供は串刺しに、女は磔にするという、凄惨な処刑を行ったと伝わっている 21 。
この残虐な処置は、単なる戦勝の勢いに任せた偶発的な行為として片付けることはできない。それは、織田政権の支配に抵抗する者への見せしめであり、いまだ去就を決めかねている他の播磨国衆に絶対服従を強いるための、計算され尽くした政治的テロリズムであった。当時の伝統的な戦いの作法を逸脱したこの「撫で斬り」は、旧来の地域秩序を破壊し、織田信長という新たな中央権力による、より強権的で非情な支配体制が到来したことを播磨全土に知らしめる絶大な効果を持っていた。高島正澄と赤松政範らの死は、この新旧秩序の衝突の過程で、その苛烈さを示すための犠牲となったのである。彼らの悲劇は、天下統一という大義の下で行われた、冷徹なリアリズムの産物であったと言える。
高島正澄という人物の生涯を再構築する上で、我々は史料の性質を慎重に見極めなければならない。彼の名や行動に関する記述は、『信長公記』のような比較的信頼性の高い記録や、諸家の系図、城郭史料などに断片的に見出すことができる 21 。しかし、彼が中心的な役割を果たす上月城の戦いを詳細に描くのは、江戸時代に成立した『播州佐用軍記』という軍記物語である 22 。
この『播州佐用軍記』は、物語としての面白さを追求するあまり、後世の創作的要素が色濃く反映されている。登場人物や合戦の経緯についても、他の信頼できる史料との食い違いが多く、史料としての価値は極めて低いと評価されている。特に、著者が高島正澄の子・正友を自称している点も、物語に権威と信憑性を与えるための文学的脚色である可能性が高い 31 。ある研究者からは、「高島正澄じたいが、実在人物かどうか怪しい」とまで評されるほどである 31 。これは、正澄が実在しなかったという意味ではなく、『播州佐用軍記』に描かれた英雄的な正澄像があまりに創作的であるため、その依拠する人物の実在性すら疑わしく見える、という痛烈な史料批判と解釈すべきである。
専門的な歴史研究においては、この軍記物を「歴史物語」としてその文学的価値を認めつつも、そこから史実を安易に再構築することの危険性を明確に認識する必要がある。高島正澄の実像は、断片的ながらも信頼できる記録、すなわち「赤松義村の三男であること」「高野須城主であったこと」「上月城で甥の政範と共に殉死したこと」を核として捉え、物語的な要素は慎重に排除しなければならない。高島正澄の研究は、この史料批判が鍵となり、彼の生涯を追うことは、同時に日本の歴史記述がどのように形成されてきたかを学ぶ過程でもある。
高島正澄がその短い領主人生の拠点とした高野須城は、現在では訪れる人も少ない「忘れられた城」となっている。城跡は赤穂市と相生市の境、標高316メートルの荒山山頂に位置している 13 。いくつかの登山記録によれば、登山口は存在するものの、山頂には城跡を示す案内板や石碑などはなく、通信用と思われる反射板が設置されているのみである 15 。城主一代限りで廃城となった短命な城であり、その後の歴史で注目される機会が少なかったため、本格的な整備は行われていないのが現状である。
また、これまでに行われた発掘調査の報告書の中にも、高野須城を対象としたものは確認できない 32 。しかし、その立地は播磨国の西端、備前国との国境地帯を見渡す戦略的要衝であり、赤松氏の勢力圏の西辺を守る上で重要な意味を持っていたと考えられる。城郭の構造や当時の状況を明らかにするためには、今後の詳細な考古学的調査が待たれる。
高島正澄は、歴史の流れを大きく変えるほどの役割を果たした人物ではない。しかし、彼は戦国乱世の終焉期において、滅びゆく主家と運命を共にし、武士としての忠義をその死をもって貫いた。彼の生き様は、巨大な権力の前には無力でありながらも、自らの信じる価値観に殉じた、無名の、しかし数多く存在したであろう戦国武士の一つの典型として記憶されるべきである。
彼の最期の地となった上月城跡には、現在、複数の供養碑や石碑が建立されている。山頂の本丸跡には、主君であった赤松政範を弔う「赤松蔵人大輔政範君之碑」が残されている 38 。しかし、麓の登山口付近に並ぶのは、政範の死後に上月城主となり、毛利氏との戦いで滅亡した尼子勝久や山中鹿介らを追悼するものが中心である 4 。そこに、高島正澄個人の名を刻んだ碑は確認できない。彼の記憶は、あくまで「政範と共に殉死した家老」として、主君の物語の中に吸収され、播磨の地に静かに眠っているのである。
高島正澄の生涯は、播磨の名門・赤松氏の庶流として生まれ、一族内の力学と時代の要請の中で自らの家(高島家)を興し、独立領主(高野須城主)としての道を歩み始めた武将の軌跡であった。しかし、彼の運命は、織田信長による天下統一事業という、一個人の意志では抗いようのない巨大な歴史のうねりによって決定づけられた。
最終的に彼は、独立領主としての自家の安泰よりも、赤松一門としての矜持と、甥である主君・赤松政範への忠義を尽くす道を選び、天正5年(1577年)に上月城でその40数年(推定)の生涯を閉じた。彼の死は、単なる一武将の戦死ではない。それは織田・毛利という二大勢力の代理戦争の犠牲となり、中世的な地域権力が、より強大な近世的中央集権体制に飲み込まれていく過渡期を象徴する出来事であった。
高島正澄に関する史料は断片的であり、その実像は後世の軍記物語によって創られた虚像に覆い隠されがちである。しかし、批判的な史料読解を通じて、我々は彼の生きた時代の厳しさと、その中で自らの「分」を全うしようとした一人の武士の姿を垣間見ることができる。高島正澄は、歴史の主役ではなかったかもしれない。だが彼は、戦国時代の終焉をその身をもって体現した、播磨の地に散った悲劇の忠臣として、歴史にその名を留めているのである。