最終更新日 2025-06-27

高島正重

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『元親記』の著者、高島正重の生涯と時代 ―旧主への追慕と新時代への適応―

序章:記録者として歴史に名を刻んだ武士、高島正重

戦国乱世において、武士の名は多くの場合、戦場での武功によって歴史に刻まれる。しかし、その例外として、筆の力によって主君の記憶を後世に伝え、自らの名をも不朽のものとした人物が存在する。本報告書が主題とする高島正重(たかしま まさしげ)は、まさにそのような稀有な武士であった。彼は長宗我部元親の近習として仕え、主家の滅亡後は新領主・山内家に仕官し、激動の時代を生き抜いた。そして、旧主の三十三回忌に際して、その一代記である『元親記』を著したのである 1

彼の名は『元親記』の著者として広く知られているが、彼自身の生涯については、生没年すら不詳であり 1 、その詳細は断片的な情報の霧に包まれている。彼の人物像は、彼自身が遺した唯一の著作の向こう側に、おぼろげに浮かび上がるのみである。

本報告書は、高島正重という一人の人物の生涯を徹底的に追跡すると同時に、彼が生きた時代の政治的・文化的背景を深く考察する。特に、彼の最大の功績である『元親記』を多角的に分析し、その史料的価値と限界を明らかにすることで、断片的な情報から彼の人物像を立体的に再構築することを目的とする。本報告書では、彼の生涯を、その出自、長宗我部家臣時代、そして山内家臣時代という時系列に沿って追い、最後に彼の不朽の著作『元親記』の総合的な分析を行う構成をとる。これにより、武人としてだけでなく、文人として、そして歴史の記録者として時代と向き合った一人の武士の実像に迫る。

第一章:高島氏の出自と土佐への定着 ― 公家文化の薫り

高島正重の人物像を理解する上で、彼が属した高島一族の出自と、土佐国におけるその立ち位置を把握することは不可欠である。一族の背景には、後の正重の文人としての資質を育んだ文化的土壌が存在した可能性がうかがえる。

高島氏の起源と土佐入国

諸記録によれば、高島氏の祖先は信濃国諏訪郡高島庄より起こると伝えられている 1 。戦国時代の武士が自らの家系の権威付けのために、著名な地名や氏族にそのルーツを求めることは一般的であり、この伝承の真偽を直ちに確定することは困難である。しかし、これは高島一族が自らの出自をどのように認識していたかを示す上で興味深い。

史実としてより確かなのは、正重の祖とされる高島正明が土佐国に入り、当時、幡多郡中村を拠点としていた土佐一条氏に仕えたことである。一条家は応仁の乱の戦火を逃れて京から土佐に下向した公家であり、その支配地域には京の文化が移植されていた。正明は一条家の家臣として千石という相当な知行を与えられたと伝えられており 1 、このことは高島家が土佐において早くから確固たる地位を築いていたことを示唆している。

一条家臣から長宗我部家臣へ

高島家が最初に仕えた土佐一条家が公家であったという事実は、極めて重要である。武家社会の中にあって、一条家はその文化的権威を保ち続けていた。その家臣であった高島家は、武辺一辺倒の地方武士とは異なり、和歌や書道といった公家的な教養に日常的に触れる機会に恵まれていただろう。後年、高島正重が「文筆の才に恵まれ書も巧みで」 1 あったと評されるが、その文人としての素養は、この一条家臣時代に培われた一族の文化的背景にその源流を見出すことができる。

しかし、戦国後期の土佐では、中央との結びつきが弱まった一条氏の権勢は次第に衰え、代わって長宗我部国親・元親親子が岡豊城を拠点に急速に台頭する。時代の潮流を敏感に察知した高島家も、主家を一条氏から長宗我部氏へと移した 1 。これは、戦国期において在地武士が自家の存続をかけて、より有力な勢力へと鞍替えしていく典型的な生存戦略であった。

本拠地・江村郷

長宗我部氏の家臣となった高島一族は、土佐国長岡郡江村郷に居住し、給地を与えられて一族の基盤を固めた 1 。江村郷は、現在の高知県南国市岡豊町南部周辺に比定され 4 、長宗我部氏の本拠地である岡豊城の膝元ともいえる戦略的に重要な地域であった 6 。主君の居城に近接する地に本拠を構えたことは、正重が元親個人の側近である「近習」として抜擢される上で、地理的にも有利に働いたと考えられる。

第二章:長宗我部元親の近習として ― 激動の時代を主君の側で

高島正重の生涯において最も重要な時期は、疑いなく長宗我部元親の「近習」として仕えた時代である。この役職は、彼の人生を方向づけ、後に『元親記』を執筆する動機と内容の源泉となった。

戦国大名における「近習」の役割

戦国時代における「近習」とは、単なる主君の側仕えではない。主君の身辺に常に控え、身辺警護はもちろんのこと、命令の伝達や外部からの取次、さらには主君が発給する文書の管理や起草といった秘書的業務まで、多岐にわたる職務を担う側近中の側近を指す 7 。そのため、近習には武勇だけでなく、主君の意図を正確に汲み取る聡明さ、機密情報を扱う上での絶対的な忠誠心、そして時には高度な文筆能力も求められた 7 。彼らは主君の意思決定を最も間近で支える、政権の中枢に位置する存在であった。

高島正重の役割の推察

高島正重が具体的に戦場で槍を振るって武功を挙げたという記録は、現存する史料の中には見当たらない。この事実は、彼が武勇を以て名を馳せるタイプの武人ではなかったことを強く示唆している。一方で、彼の「文筆の才」と「書の巧みさ」は繰り返し言及されており 1 、この能力こそが主君・元親に高く評価された最大の理由であったと推察される。元親が発給する書状の起草や清書、あるいは領国経営に関わる膨大な記録の管理といった、文官としての役割を主として担っていた可能性が極めて高い。

この推察は、主君である元親自身の経歴からも裏付けられる。元親はかつて一条氏の臣従下にあった時代に寺社奉行を務めた経験があり、文化や宗教に対して深い理解を示していた。その証拠に、彼は神官や僧侶出身の教養ある人物を家臣として積極的に抜擢している 12 。正重もまた、その文芸的素養を元親に見出され、文治的な側面で主君の信頼を得て、近習という枢要な地位に就いたと考えられる。

近習として目撃した長宗我部氏の栄光と挫折

正重は、主君の最も側に仕える者として、長宗我部氏の最も劇的な時代をその目で直接見届けたはずである。その記憶は、彼の精神に深く刻み込まれ、後の『元親記』執筆の際の強烈な動機となったに違いない。彼が目撃したであろう歴史の転換点には、以下のようなものが挙げられる。

  • 土佐統一の快進撃: 父・国親の遺志を継ぎ、本山氏、安芸氏といった土佐七雄を次々と打ち破り、四万十川の戦いで旧主筋の一条氏を駆逐して悲願の土佐統一を成し遂げるまでの栄光の軌跡 9
  • 中央政権との外交: 中央の覇者・織田信長と、明智光秀を介して同盟を結び、「四国の儀は切り取り次第」という破格の朱印状を得ながらも、後に信長の心変わりによって討伐軍を差し向けられるという外交上の緊張と危機 13
  • 四国制覇の夢: 阿波、讃岐、伊予へと進攻し、四国全土をほぼ手中に収めるという、土佐の一地方豪族からの劇的な飛躍 9
  • 天下人への屈服: 天下人となった豊臣秀吉の圧倒的な軍事力の前に屈し、四国の覇者の夢を断たれ、土佐一国に減封されるという屈辱的な降伏 7
  • 後継者の喪失: 秀吉の命による九州征伐に従軍した際、戸次川の戦いで最愛の嫡男・信親を失った元親の深い悲嘆と、それ以降、明らかに精彩を欠いていく長宗我部家の変質 7

これらの栄光と挫折の記憶は、単なる出来事の羅列ではなく、高島正重の血肉となり、彼の歴史観を形成した。そして、30年以上の時を経て、旧主を追慕する一冊の書物として結実することになるのである。

第三章:主家の改易と山内家への出仕 ― 旧臣の生きる道

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、長宗我部家、そしてそれに仕えた高島正重の運命を大きく変えた。主家の改易という未曾有の事態に直面した彼が、いかにして新時代を生き抜いたのか、その道程は戦国から近世への移行期を生きた旧臣の典型的な姿を映し出している。

長宗我部氏の改易と土佐の混乱

関ヶ原の戦いで西軍に与した長宗我部盛親は、戦後、徳川家康によって改易処分となり、土佐二十四万石の領地は没収された 7 。新たな土佐国主として入封したのは、東軍に与して功績を挙げた遠江掛川城主・山内一豊であった。

この突然の支配者の交代に対し、長宗我部氏の旧臣たち、特に半農半兵の戦闘集団である「一領具足」は激しく反発した。彼らは新領主の入国を拒み、旧主・盛親への土佐半国の安堵などを要求して、長宗我部氏の居城であった浦戸城に立てこもった。これが世に言う「浦戸一揆」である 18 。山内家はこれを武力で鎮圧し、一揆の指導者を含む273名もの旧臣が処刑され、その首は塩漬けにされて大坂の井伊直政のもとへ送られたと伝えられる 18 。この血腥い事件をもって、長宗我部氏による土佐支配は完全に終焉を迎えた。

高島正重の選択 ― 新時代への適応

この混乱期を経て、高島正重は新領主である山内家に仕官する道を選択した 1 。これは、滅びた旧主への忠義と、現実的な生存戦略との間で多くの旧臣が迫られた、苦渋の選択であった。彼のこの決断の背景には、彼の個人的な能力と、長宗我部家臣団内での彼の立場が深く関わっている。

浦戸一揆の主戦力となった一領具足たちは、山内氏による新たな支配体制の下で、自らの武士としての身分が剥奪されることを何よりも恐れて抵抗した 19 。一方で、元親の近習であった正重は、より上層に位置する文官的な家臣であり、彼らとは立場を異にしていた。

新領主である山内家にとって、土佐の円滑な統治を開始するためには、武力による抵抗勢力を排除する一方で、現地の事情に精通し、文書作成などの実務能力を持つ旧臣を登用することは不可欠な政策であった 19 。この点において、正重が持つ「文筆の才」は、新藩体制下においても極めて有用な技能と見なされたはずである。彼の仕官は、武力ではなく官僚的スキルによって新時代に適応した、旧臣の一つの典型例と位置づけることができる。彼は、剣を置き、筆を執ることで新たな活路を見出したのである。

土佐藩士としての高島正重

山内家が統治する土佐藩では、山内家譜代の家臣を「上士」、長宗我部旧臣らを「郷士」とする厳格な身分制度が敷かれ、両者の間には幕末に至るまで深い対立の溝が存在した 22

高島正重が山内家においてどのような役職に就き、どれほどの禄高を得ていたかを直接示す分限帳などの史料は、残念ながら今日まで発見されていない。これは、彼の後半生を研究する上での大きな制約となっている。しかし、一部の資料で彼が「土佐藩士」として分類されていることから 25 、彼が正式な藩士として認められていたことは確実である。彼が郷士として遇されたのか、あるいはその文才を特別に評価され、上士に準ずる何らかの待遇を受けていたのかは、今後の研究によって解明が待たれる興味深い論点である。いずれにせよ、彼は新体制の中で自らの居場所を確保し、静かに旧主を追慕する日々を送っていたのであろう。

第四章:『元親記』の編纂 ― 旧主への追慕と記録

高島正重の名を不朽のものとしたのは、彼の武士としての経歴以上に、その文人としての才能が結実した一冊の書物、『元親記』の存在である。この書は、彼の生涯における最大の功績であり、長宗我部氏研究の礎となっている。

執筆の動機と歴史的背景

『元親記』は、寛永八年(1631年)五月十九日、長宗我部元親の三十三回忌という仏教上極めて重要な節目に際して執筆された 1 。その奥書には、「此三冊は雪蹊恕三大禅定門卅三天の御年忌に当たり、御一生界を記し、御影前に備ふる者也」と記されており、旧主・元親への追悼と供養が執筆の直接的な動機であったことが明記されている 29

しかし、この執筆行為は、単なる個人的な追慕の念に留まるものではない。執筆された寛永八年という時代は、関ヶ原の戦いから30年以上が経過し、山内家による土佐支配が完全に確立した時期であった。そのような安定した新体制の下で、滅び去った旧支配者の顕彰録を著すことは、見方によっては新体制への潜在的な批判とも受け取られかねない、ある種の危険性をはらむ行為であった。それでもなお正重が筆を執った背景には、滅び去った主家と、それに仕えた自らの過去を歴史の中に正しく位置づけ、その価値を後世に伝えようとする強い意志があったと解釈できる。つまり『元親記』は、旧主への「追慕」であると同時に、自らの生きた証を歴史に刻むための「自己正当化」の営みでもあった。それは、忠誠と現実の間で生きた一人の旧臣の、複雑な内面の表出であったと言えよう。

『元親記』の内容と構成

『元親記』は、上・中・下の三巻三冊から構成されている 26 。その内容は、元親の父・国親の時代から説き起こされ、元親の誕生、初陣、土佐統一、四国平定、豊臣秀吉への降伏、そしてその死に至るまでを、ほぼ編年体の形式で記述した一代記である 29

特筆すべきはその文体である。同時代の他の軍記物語に見られるような過度な創作や華美な修辞を極力排し、簡潔にして要領を得た記述を特徴としている 30 。この抑制の効いた筆致が、本書の史料としての信頼性を高める一因となっている。

以下の表は、『元親記』が重視して描いた長宗我部元親の主要な事績をまとめたものである。これにより、著者・高島正重が旧主の生涯をどのように捉え、後世に伝えようとしたか、その視点の一端をうかがい知ることができる。

出来事

『元親記』における記述の概要

関連史料

幼少期と初陣

色白で物静かな性格から「姫若子」と揶揄されるも、長浜の戦いで初陣を飾ると、自ら槍を振るう勇猛さを示し、家臣から「鬼若子」と称賛される。

12

土佐統一

本山氏を滅ぼし、安芸国虎を破り、一条兼定を追放する。四万十川の戦いで決定的な勝利を収め、土佐を完全に統一するまでの過程を詳述する。

7

織田信長との関係

明智光秀とその家臣・斎藤利三(元親の縁戚)を介して信長と通じ、「四国切り取り次第」の朱印状を得るが、後に信長の心変わりで危機に陥る。

13

四国平定

阿波の三好氏を駆逐し、讃岐、伊予へと進攻。四国全土をほぼ手中に収めるまでの戦いを描く。

9

豊臣秀吉への降伏

秀吉の圧倒的な大軍の前に降伏を決断し、土佐一国を安堵されるまでの経緯を記す。

7

嫡男・信親の戦死

九州征伐における戸次川の戦いで最愛の嫡男・信親を失い、元親が深く悲嘆にくれる様子を描写する。

7

晩年と死

秀吉の死後、病を得て伏見屋敷で死去。四男・盛親に後事を託す。

7

第五章:史料としての『元親記』― その価値と限界

高島正重が遺した『元親記』は、長宗我部元親の治世を研究する上で不可欠な史料であるが、その利用にあたっては、史料批判の視点からその価値と限界を冷静に見極める必要がある。

第一級の史料価値

『元親記』の最大の価値は、長宗我部氏に関する数多の軍記物語の中で、最も成立年代が古いという点にある 31 。元親の死から32年後に書かれたこの書物は、後世の創作が加わる余地が比較的小さく、元親の時代の記憶を生々しく伝えている。

さらに、著者が元親の近習であったという事実は、その価値を一層高めている 2 。正重は、主君の政策決定の場に居合わせ、その言動や人物像を直接見聞する立場にあった。そのため、『元親記』には、外部の人間には知り得ない内部情報や、元親の人間性を伝える逸話が含まれている可能性があり、長宗我部氏研究の基本史料として位置づけられている。

史料批判の視点 ― 限界と課題

一方で、『元親記』は「脚色は少ないとされる」 31 という評価と、「一次史料と照合してみると、過誤と判断できるエピソードも少なくない」 31 という、一見矛盾した評価を併せ持つ。この矛盾こそが、『元親記』を歴史史料として読み解く上で最も重要な鍵となる。

『元親記』は、あくまで元親の死後に書かれた二次史料であり、同時代に作成された古文書や日記といった一次史料との比較検討は不可欠である。比較によって見出される「誤謬」や「相違点」は、単なる記憶違いや間違いとして片付けるべきではない。むしろそれは、著者である高島正重が、旧主・元親を理想的な武将として描き出すために、意図的に行った「情報の取捨選択」や「脚色」の結果である可能性が高い。彼は、元親の生涯を一つの物語として再構成する過程で、英雄譚としての側面を強調したのである。したがって、一次史料との比較作業は、『元親記』の記述を鵜呑みにするのではなく、その背後にある著者の歴史観や、旧主を顕彰しようとする意図、すなわち「作られた記憶」の構造を読み解くための重要なプロセスとなる。

他の土佐関連軍記との比較分析

『元親記』は、その後に成立した『長元物語』や『土佐物語』といった一連の土佐関連軍記の源流となった 33 。これらの史料群を比較分析することで、『元親記』の記述が後世にどのように受容され、あるいはさらに脚色されていったか、その変容の過程を追跡することができる。以下の表は、主要な土佐関連軍記の特性を比較したものである。

項目

元親記

長元物語(長元記)

土佐物語

著者

高島正重(元親の近習、後山内家臣)

立石正賀(元親の重臣、後細川家臣)

吉田孝世(長宗我部家臣の子孫、土佐藩士)

成立年

寛永8年 (1631)

万治2年 (1659)頃

宝永5年 (1708)頃

主たる内容

元親の一代記。簡潔な編年体風の記述。

元親の事績を箇条書きで列挙する形式。

土佐一条氏の下向から長宗我部氏の滅亡までを描く、物語性の高い通史。

史料的性格

最古のまとまった記録。比較的脚色が少ないとされるが、英雄譚としての側面も持ち、批判的検討が必要。

『元親記』の抄記とも言われ、文学性は低いが、事実関係の補強材料となる。

逸話が豊富で最も文学的だが、後世の創作や脚色が多く含まれるため、史料としての取り扱いには最も注意を要する。

関連史料

1

8

28

この比較から、『元親記』が後続の軍記の基礎となりつつも、時代が下るにつれて物語性が強まり、史実からの乖離が進んでいったことがわかる。したがって、長宗我部氏の歴史を研究する際には、これらの史料の成立背景と性格を十分に理解した上で、多角的に用いる姿勢が求められる。

終章:高島正重の生涯と後世への遺産

高島正重の生涯は、信濃にルーツを持つとされる一族が土佐の地に定着し、一条家、長宗我部家、そして山内家という三つの主家に仕えながら、戦国から江戸へという激動の時代を巧みに生き抜いた軌跡であった。彼の人生は、武士としての忠誠と、家を存続させるための現実的な選択との間で揺れ動く、多くの旧臣たちの姿を象徴している。

しかし、彼の生涯には未だ多くの謎が残されている。その生没年、山内家で与えられた具体的な役職や禄高、そして彼の子孫が土佐の地でどのような道を歩んだのか、それらを直接的に示す史料は発見されていない 1 。これらの情報の欠落は、歴史の中に埋もれた無数の「記録されなかった人々」の存在を我々に思い起こさせると同時に、歴史研究の限界と今後の課題を示している。

にもかかわらず、高島正重が歴史にその名を留めているのは、彼の最大の功績が戦場での武功ではなく、その卓越した文人としての才能を活かし、旧主・長宗我部元親の記憶を『元親記』という不朽の書物として後世に遺したことにある。この書物がなければ、「土佐の出来人」と称された元親の人物像やその事績に関する我々の理解は、はるかに乏しく、断片的なものに留まっていただろう。『元親記』は、その後の『土佐物語』をはじめとする数多の文芸作品の源泉となり、長宗我部元親という英雄のイメージを形成する上で決定的な役割を果たした。

結論として、高島正重は、主家の滅亡という悲劇を乗り越え、新体制に適応しながらも、旧主への追慕の念を生涯持ち続けた人物であった。その複雑な心情が結実した『元親記』は、単なる歴史記録ではない。それは、一人の武士が自らの生きた証と主君への忠誠を歴史に刻みつけようとした、極めて人間的な営みの産物である。彼は、剣ではなく筆を以て、歴史の継承者としての大役を果たした人物として、高く再評価されるべきであろう。

引用文献

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  2. 元親記とは?|土佐歴史侍 - note https://note.com/tosa_samurai/n/nb03edf92c7b3
  3. 4章 分析編―土佐の地名を探る― https://sa4d6b00f1f29c6d4.jimcontent.com/download/version/1547538176/module/13333742490/name/20180313%E5%9C%9F%E4%BD%90%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%90%8D%E3%82%92%E6%AD%A9%E3%81%8F%EF%BC%88%E7%AC%AC4%E7%AB%A074-109%EF%BC%89.pdf
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  34. 天正の陣 伝 https://tenshonojin.jimdofree.com/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%99%A3/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%99%A3-%E4%BC%9D-%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%8F%B2%E6%96%99/
  35. 立石正賀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E7%9F%B3%E6%AD%A3%E8%B3%80
  36. 河野氏滅亡と周辺の武将たち - 東温市立図書館 https://www.toon-lib.jp/H24kounosi.pdf