最終更新日 2025-07-28

高木貞久

高木貞久は美濃の国人で、斎藤氏、織田信長、信孝に仕えた。信孝敗死後隠居。子孫は徳川家康に仕え、交代寄合の高木三家として繁栄した。

美濃国人 高木貞久の生涯と高木三家の礎

序章:乱世を生き抜いた国人領主、高木貞久

本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、美濃国(現在の岐阜県南部)を拠点に活動した武将、高木貞久(たかぎ さだひさ)の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。通称は彦左衛門、あるいは直介と伝わる 1

高木貞久は、斎藤氏、織田氏という強大な勢力の狭間で、一国人領主として自家の存続を賭けて激動の時代を生きた人物である。彼の生涯は、主君・織田信孝の敗死と共に歴史の表舞台から退くという結末を迎える。しかし、彼の子孫たちはその後、徳川家康に見出され、江戸時代を通じて交代寄合という大名に準ずる高い家格を誇る旗本「美濃衆高木三家」として繁栄を極めた 2 。この事実は、貞久の生涯が単なる敗者の物語ではなく、一族の未来への礎を築いた重要な期間であったことを示唆している。

本報告書の分析は、名古屋大学附属図書館などに所蔵される一次史料群『高木家文書』を根幹に据える 5 。これに『信長公記』や『寛政重修諸家譜』といった信頼性の高い編纂史料を比較検討することで、貞久の多角的な人物像を再構築する 7

なお、高木貞久の経歴は、同時代に三河で活躍し徳川十六神将の一人に数えられる高木清秀のそれと、一部の二次史料において混同が見られる 9 。両者は織田信長に仕えた時期が重なるため誤解が生じやすいが、その出自と経歴は全く異なる。本報告書では、両者を明確に区別し、貞久自身の正確な足跡を追跡するため、まず両者の経歴を比較検討する。

【表1:高木貞久と高木清秀の経歴比較】

項目

高木貞久

高木清秀

出自・拠点

美濃国の国人。樋口氏の出身で高木家の婿養子。拠点は美濃国駒野城、後に今尾城 10

三河国の武士。拠点は三河国 11

主君の変遷

斎藤道三 → 斎藤義龍 → 斎藤龍興 → 織田信長 → 織田信孝 10

水野信元(織田家与力) → 佐久間信盛(織田家与力) → 織田信長(直臣) → 徳川家康 9

主な活動

美濃を拠点とし、斎藤家臣として活動後、織田信長に帰順。本能寺の変後は信孝方として羽柴秀吉と対立 5

徳川十六神将の一人。姉川の戦いや長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなどで武功を挙げる 9

子孫

次男・貞利、五男・貞友、孫・貞俊が徳川家康に仕え、交代寄合旗本「高木三家」の祖となる 3

三男・正次が河内丹南藩(1万石)の初代藩主となり、その子孫は大名として存続した 9

【表2:高木貞久 関連年表】

西暦(和暦)

高木貞久の動向

天下の動向

不明

樋口三郎兵衛の子として誕生。高木貞次の婿養子となり家督相続 10

1556年(弘治2年)

斎藤義龍より西駒野郷などの所領を安堵される 5

長良川の戦い。斎藤道三が子・義龍に討たれる。

1564年(永禄7年)頃

市橋長利の仲介で織田信長に内応・帰順する 5

竹中半兵衛による稲葉山城乗っ取り事件。

1567年(永禄10年)

信長より本領を安堵され、今尾城主となる 3

稲葉山城の戦い。信長が美濃を平定し、岐阜城と改名。

1568年(永禄11年)

長男・貞家が24歳で戦死する 10

信長、足利義昭を奉じて上洛。

1580年(天正8年)

今尾城近辺で加増を受ける 15

石山本願寺が信長に降伏。佐久間信盛が追放される。

1582年(天正10年)

6月 :本能寺の変。 7月 :美濃国主となった織田信孝に仕える 10

6月 :本能寺の変、山崎の戦い。 7月 :清洲会議。

1583年(天正11年)

4月 :賤ヶ岳の戦いで信孝方として羽柴秀吉と敵対。 5月 :主君・信孝が自刃。駒野へ隠居 10 。同年に死去。法名:寂照院無楽大居士 15

4月 :賤ヶ岳の戦い。柴田勝家が敗死。 5月 :織田信孝が自刃。


第一章:高木氏の出自と貞久の登場

1.1. 高木一族の源流と美濃国への土着

高木氏の家伝によれば、その起源は清和源氏の一流である大和源氏の祖、源頼親に遡るとされる。頼親の子孫が代々大和国高木村に住したことから高木を姓とし、後に伊勢国(現在の三重県)を経て、享禄元年(1528年)に美濃国石津郡(現在の岐阜県南西部)に移り住んだと伝えられている 3

美濃における高木氏の初代とされる高木貞政は、美濃の国主・斎藤道三の客分として迎えられ、地域の有力者としての地位を築いた 3 。このような名門出自の主張は、戦国時代の国人領主が自らの権威と正統性を確立するためにしばしば用いた手法であり、その系譜の正確性については慎重な検証が求められる。しかし、高木氏が美濃の地に根を下ろし、斎藤氏と密接な関係を築いた有力な土豪一族であったことは、後の歴史が証明している。

1.2. 婿養子としての家督相続と初期の経歴

高木貞久自身の出自は、高木氏の直系ではなく、樋口三郎兵衛の子として生まれた 10 。彼は、当時美濃国駒野城主であった高木貞次の娘を正室に迎え、婿養子という形で高木家の家督を相続した 10 。これにより、彼は後世に「美濃衆西高木家」と呼ばれる系統の第二代当主となったのである 10

戦国時代において、家督相続は必ずしも長子相続が絶対ではなく、血縁よりも実力や政治的背景が重視されることが少なくなかった。貞久が外部から婿養子として迎えられたという事実は、彼自身、あるいは彼の実家である樋口氏が、高木家にとって同盟関係を結ぶに値する何らかの力、例えば兵力や地域における影響力などを有していた可能性を示唆している。この婚姻と家督相続によって、貞久は美濃の国人社会に確固たる地歩を築くことになった。

1.3. 居城・駒野城の地理的・戦略的重要性

貞久が相続した高木氏の拠点、駒野城は、現在の岐阜県海津市南濃町に位置していた 7 。この地は、木曽三川として知られる木曽川、長良川、揖斐川が合流し、伊勢湾へと注ぐ広大な濃尾平野の西端にあたる。特に揖斐川下流域に位置する駒野は、水運の要衝であった 5

駒野城は、美濃と伊勢を結ぶ街道上にあり、伊勢の桑名から美濃の中心地である大垣や岐阜へ至る交通路を直接的に監視・支配できる戦略的に極めて重要な拠点であった 7 。城そのものは、船岡山と称される標高約30メートルの独立した丘陵に築かれた丘城であり、平野部にありながらも優れた防御機能を有していた 18

高木氏の権力基盤は、単なる土地の支配に留まらなかった。それは、戦国時代の経済と軍事を支える大動脈であった河川交通、すなわち木曽三川の水運利権の掌握と深く結びついていたと考えられる。この地理的優位性こそが、斎藤氏や織田氏といった上位権力にとって、高木氏を単なる一国人としてではなく、戦略的パートナーとして、あるいは警戒すべき勢力として認識させる要因となった。注目すべきは、江戸時代に入り、貞久の子孫である高木三家が幕府から木曽三川の治水事業、いわゆる「川通御用」を世襲の家職として任されたことである 2 。これは、高木氏がこの地域において長年にわたり蓄積してきた治水に関する知見と、在地領主としての影響力を、徳川幕府が公的に認めたことに他ならない。したがって、貞久の時代の駒野城支配は、単なる一城の領有を超え、後世に続く高木家の専門性と在地性の原点であったと評価することができる。


第二章:斎藤氏家臣としての時代

2.1. 斎藤道三・義龍政権下での動向と所領

高木貞久は、義父・高木貞次の跡を継ぎ、美濃の戦国大名・斎藤道三に仕えた 10 。道三は「美濃の蝮」と恐れられた下剋上の体現者であり、その政権下で貞久は国人領主としてキャリアを開始した。

弘治二年(1556年)、道三が実子・斎藤義龍との長良川の戦いで敗死するという激変が起こる。しかし、高木氏は新政権下でもその地位を失わなかった。『高木家文書』に残された古文書によれば、貞久(当時は直介と称した)は同年に新国主となった義龍から、西駒野郷を含む六ヶ所の所領を安堵されている 5 。この事実は、貞久が斎藤家の内紛を巧みに乗り切り、義龍政権下でもその忠誠を認められ、所領を保証された有力な家臣であったことを明確に物語っている。

2.2. 西美濃三人衆(特に安藤守就)との関係性

美濃国、特に西美濃地域において、高木氏の動向を理解する上で欠かせないのが「西美濃三人衆」との関係である。西美濃三人衆とは、安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全という斎藤氏の三人の有力な家臣を指す。彼らは西美濃に広大な所領と影響力を持ち、斎藤家の軍事・政治を支える中核的存在であった。

史料によれば、高木貞久は西美濃三人衆の一人、安藤守就の配下に属していたと記録されている 10 。安藤守就は三人衆の中でも特に大きな勢力を誇り、独立志向の強い人物であった。貞久がその与力であったことは、彼が西美濃の国人ネットワークに深く組み込まれ、安藤氏を介して斎藤政権に連なっていたことを示している。この主従関係は、後の織田信長の美濃侵攻に際して、他の西美濃国人衆と歩調を合わせる上で重要な伏線となった。

2.3. 織田信長の美濃侵攻と、高木氏の選択

斎藤義龍が急死し、その子・龍興が家督を継ぐと、斎藤家の統制力は急速に弱体化する。龍興は一部の側近を寵愛し、安藤守就ら譜代の重臣を遠ざけたため、家中の不満が高まった 21 。この内紛に乗じ、尾張の織田信長は美濃への本格的な侵攻を開始した。

主家である斎藤氏の衰退が明らかになる中、高木貞久は自家の生き残りを賭けた重大な決断を下す。彼は、斎藤氏の滅亡を待つことなく、比較的早い段階で織田信長への帰順を選択したのである。これは、滅亡寸前での投降ではなく、自家の価値を高く売り込み、より有利な条件を引き出すための、計算された主体的かつ戦略的な政治行動であった。

稲葉山城が落城し、斎藤龍興が美濃を追放されたのは永禄10年(1567年)8月のことである 24 。しかし、複数の史料は、高木貞久が織田方へ内応した時期をそれより数年前の永禄7年(1564年)4月、あるいは永禄6年(1563年)と記している 5 。これは、稲葉山城落城の3年から4年も前のことである。この帰順は、同じく信長に早期に属した美濃国人・市橋長利の仲介によって行われた 5

この時期、西美濃三人衆も龍興の統治に反発を強めており、永禄7年(1564年)には安藤守就が娘婿の竹中半兵衛と共謀して稲葉山城を一時的に占拠するというクーデター事件も発生している 22 。貞久の織田方への内通は、こうした西美濃国人衆全体の離反の動きと密接に連動していた可能性が極めて高い。彼は、滅びゆく主家に見切りをつけ、次なる天下の覇者と目される信長にいち早く接近することで、戦国の世を生き抜く道を選んだ。この「早期帰順」という戦略的投資が、後の織田政権下での彼の地位を保証し、一族の存続に繋がる重要な一歩となったのである。


第三章:織田信長への帰順と織田政権下での活動

3.1. 市橋長利を介した帰順の経緯と年代の特定

高木貞久の運命を大きく変えたのは、織田信長への帰順であった。この重要な政治的転換は、美濃国池田郡を拠点とする国人・市橋長利(九郎右衛門)の仲介によって実現した 5 。市橋氏もまた、斎藤氏の衰退を早期に見限り、信長に属した一族であり、美濃の国人衆を織田方へ引き入れる上で重要な役割を果たした 8

帰順の具体的な年代については、史料によって永禄6年(1563年)4月とするもの 8 と、永禄7年(1564年)4月とするもの 5 が存在する。いずれの説が正しいにせよ、信長が美濃を完全に平定し、稲葉山城を攻略した永禄10年(1567年)よりも数年早い時期であったことは確実である。このことは、貞久の決断が、敗色濃厚になってからではなく、情勢を見極めた上での能動的な行動であったことを示している。

3.2. 今尾城への転出と所領安堵の実態

信長への早期帰順は、高木家にとって大きな利益をもたらした。信長は美濃平定後、貞久のこれまでの所領である駒野郷などを安堵した 3 。さらに、貞久を新たに今尾城主(現在の岐阜県海津市平田町)に任命した 10

この人事に伴い、貞久は本拠地であった駒野城を次男の貞利に譲り、自身は一族の主力を率いて今尾城へ移った 3 。今尾城もまた、駒野城と同様に揖斐川に面した水陸交通の要衝であり 29 、西美濃の支配を安定させる上で重要な拠点であった。信長が、新たに味方となった貞久をこのような戦略的拠点に配置したことは、彼の能力と在地性を高く評価し、西美濃統治の一翼を担わせようとした意図の表れである。天正8年(1580年)11月には、貞久が今尾城とその近辺で542貫500文、さらに97貫文余の加増を受けたという記録も『高木家文書』に残っており、織田政権下で着実にその地位を固めていったことがわかる 15

3.3. 『信長公記』に見る記述に関する考察

織田政権下での貞久の動向について、一点不可解な記述が存在する。信頼性の高い史料として知られる『信長公記』に、元亀2年(1571年)、信長の近習であった猪子兵助が「逃亡中の高木貞久の家臣」の糾明を命じられた、という一節があるのだ 31 。この記述は、当時すでに今尾城主として信長に仕えていたはずの貞久の立場と矛盾するように見える。

この記述の解釈には、いくつかの可能性が考えられる。

第一に、貞久自身ではなく、彼の家臣が何らかの罪を犯して逃亡し、主君である貞久がその監督責任を問われたという可能性である。この場合、貞久自身の立場が直接的に危うくなったわけではないかもしれない。

第二に、貞久が一時的に信長の不興を買い、その立場が揺らいだ可能性である。貞久はもともと西美濃三人衆の安藤守就に属していたが、この守就は後に信長によって追放されるなど、必ずしも従順な家臣ではなかった。貞久が守就との旧交を疑われるなど、何らかの嫌疑をかけられたことも想像に難くない。

第三に、この「高木貞久」が、本報告書の対象である彦左衛門貞久とは同姓同名の別人物である可能性も、完全に否定することはできない。

しかし、前述の通り、貞久は天正8年(1580年)に信長から加増を受けている 15 。この事実から、仮に元亀2年頃に何らかの政治的な危機があったとしても、最終的にはそれを乗り越え、信長の信頼を回復して織田政権下でその地位を維持したと考えるのが最も合理的である。この一件は、織田政権という巨大な権力機構の中で、国人領主の立場がいかに危うく、常に緊張を強いられるものであったかを示す、興味深い事例と言えるだろう。


第四章:本能寺の変後の激動と貞久の決断

4.1. 織田信孝への臣従と、その背景

天正10年(1582年)6月2日、京都・本能寺において主君・織田信長が家臣・明智光秀に討たれるという未曾有の事変が勃発した。信長の嫡男・信忠も二条新御所で討死し、巨大な織田政権は指導者を失い、深刻な権力闘争の時代へと突入する。

この激動の中、高木貞久は明確な決断を下す。同年7月の清洲会議の結果、美濃国と岐阜城は信長の三男・織田信孝が相続することになった 33 。これを受け、美濃今尾城主であった貞久は、信孝に臣従した 10 。一部の史料では次男・信雄に仕えたとする記述も見られるが 3 、信孝が美濃の直接の支配者であったこと、そしてその後の秀吉との対立構造を鑑みれば、貞久が信孝の配下に入ったと見るのが自然である。これは、自らの領地を安堵してくれる直接の上位権力者に仕えるという、国人領主として当然の選択であった。

4.2. 羽柴秀吉との対立 ― 人質提出の拒否と賤ヶ岳の戦い

清洲会議以降、織田家中の主導権を巡り、羽柴秀吉と、筆頭家老・柴田勝家および織田信孝の対立は日に日に深刻化していった。秀吉は自らの陣営を固めるため、美濃の諸将に対し、恭順の証として人質を差し出すよう要求した。

この時、高木氏が取った態度は極めて断固たるものであった。『高木家文書』に残る書状によれば、高木彦左衛門尉(貞久)と高木権右衛門(子息の貞利か)は、秀吉からの人質要求に対し、北伊勢を拠点とする滝川一益との連携をちらつかせながら、これを拒み続けた 5 。これは、秀吉への明確な敵対の意思表示であり、信孝・勝家方として最後まで戦う覚悟を示した、非常に危険な賭けであった。

そして天正11年(1583年)4月、両陣営は近江国・賤ヶ岳で激突する。この賤ヶ岳の戦いにおいて、高木貞久は信孝方として、秀吉と干戈を交えることとなった。なお、岐阜県の資料には、この戦いで貞久は中立を保ったが、秀吉の勝利が確定するとすぐに使者を送って恭順の意を示した、という異説も紹介されている 36 。しかし、人質提出を拒否したという一次史料の存在を考慮すれば、彼が信孝方として行動したと考えるのが妥当であろう。

4.3. 主君・信孝の滅亡と駒野への隠居

賤ヶ岳の戦いは秀吉軍の圧勝に終わり、柴田勝家は越前・北ノ庄城で自刃した 37 。最大の庇護者を失った織田信孝は完全に孤立し、兄・信雄に岐阜城を包囲される。降伏を余儀なくされた信孝は、尾張国内海(現在の愛知県南知多町)へ送られ、同年5月に自刃して果てた 37

主君・信孝の死は、彼に与した高木貞久の政治生命に終止符を打つものであった。秀吉の敵対者となった彼は、今尾城主としての地位をはじめ、全ての所領と権益を失った。そして、かつての一族の故地である駒野へと退き、静かに隠居した 10

貞久の信孝への臣従は、結果として完全な「敗北」に終わった。しかし、この敗北後に彼が選んだ「隠居」という道は、単なる失意の引退ではなかった。それは、一族の存続を最優先した、最後の、そして最も重要な戦略的決断であったと評価できる。信孝に与したことで、貞久は秀吉によって一族もろとも滅ぼされてもおかしくない立場にあった。ここで抵抗を続ければ、その結末は火を見るより明らかであった。

貞久は、自らの政治生命を完全に絶ち、全ての武装を解除する「隠居」という道を選ぶことで、秀吉にとって「もはや脅威ではない存在」となることを示した。この徹底した「自己の無力化」は、息子たち(貞利、貞友ら)が、秀吉によって再編される新たな政治秩序の中で生き延びるための、貴重な時間と空間を稼ぎ出すための行為であった。事実、彼の息子たちはその後、織田信雄に仕え、信雄改易後は一時浪人となるも、最終的には徳川家康に召し抱えられるという活路を見出すことに成功する 3 。貞久の隠居は、自らを犠牲にして一族の未来を切り開くための、計算され尽くした政治的行為であった。彼は、自らの「死に場所」を戦場ではなく、一族の未来への布石とすることを選んだのである。


第五章:晩年と死、そして一族の未来

5.1. 駒野における最期と、その死が意味するもの

天下の趨勢が羽柴秀吉へと大きく傾く中、高木貞久は全ての公的な地位を捨て、美濃駒野の地で静かな晩年を送った。そして、主君・織田信孝が自刃したのと同じ天正11年(1583年)に、その波乱に満ちた生涯を閉じた 10 。一部の系図には天正12年(1584年)没とする記述も存在するが 3 、『高木家文書』の記録に基づき、天正11年没とするのが有力である。その法名は「寂照院無楽大居士」と伝えられている 15

彼の墓所の具体的な所在地は現在特定されていないが、後年、子孫が高木三家として陣屋を構えた岐阜県大垣市上石津町周辺の寺院に、供養塔などが建立されている可能性がある 41 。貞久の死は、斎藤氏、織田氏という二つの大勢力に仕え、戦国の世を駆け抜けた一人の国人領主の終焉を意味すると同時に、新たな時代を生きる次世代へ一族の運命を託す、象徴的な出来事であった。

5.2. 貞久の家族構成と子息たちの動向

高木貞久の血脈と、彼が築いた人間関係は、一族の未来を形作る上で決定的な役割を果たした。

  • 正室 : 高木貞次の娘。法名を妙雲院殿月光受晴大姉といい、天正8年(1580年)7月20日に没している 10
  • 長男:高木貞家 (1545-1568):父に先立ち、永禄11年(1568年)に24歳の若さで戦死した。法名は無心院貞家 10
  • 次男:高木貞利 (1551-1603):兄・貞家の早世により、事実上の嫡男として家督を継ぐ。父と共に織田信長に仕え、本能寺の変後は父の決断に従った。父の死後は弟らと共に織田信雄、そして徳川家康に仕え、江戸時代に交代寄合「西高木家」の初代当主となる 9
  • 三男:高木貞秀 :詳細は不明だが、後に加賀の前田家に仕えたと伝えられる 10
  • 五男:高木貞友 (1564-1659):父や兄と共に信長、信孝に仕えた。その後も一族と行動を共にし、徳川家康に仕官。交代寄合「東高木家」の祖となった 10
  • 孫(養子):高木貞俊 :戦死した長男・貞家の遺児。祖父である貞久の養子となった 10 。叔父たちと共に家康に仕え、交代寄合「北高木家」の祖となった 9

5.3. 交代寄合「美濃衆」高木三家成立への道筋

貞久の死後、高木一族の苦難と再起の物語が始まる。貞利、貞友、貞俊らは、まず織田信長の次男・信雄に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは徳川家康・織田信雄連合軍の一員として、羽柴秀吉軍と戦った 9

しかし、天正18年(1590年)、主君・信雄が秀吉の怒りを買って改易されると、高木一族も所領を失い、流浪の身となる。彼らは甲斐国(現在の山梨県)へ赴き、旧武田家臣で当時は秀吉配下の大名であった加藤光泰の許に身を寄せた 3

転機が訪れたのは文禄4年(1595年)、彼らが徳川家康に召し出されたことである。家康は彼らの能力を評価し、上総国(現在の千葉県)などに関東の知行地を与えて家臣団に加えた 3

そして慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。高木一族は迷わず東軍(徳川方)に属し、美濃の地理に精通していることから「案内者」として東軍の先鋒部隊を導くなど、重要な役割を果たして軍功を挙げた 2

この戦功が認められ、戦後の慶長6年(1601年)、高木一族は大幅な加増の上、かつての故郷に近い美濃国石津郡時・多良郷(現在の大垣市上石津町)に新たな知行地を与えられた。この時、貞利の系統が2300石の「西高木家」、貞友の系統が1000石の「東高木家」、そして貞俊の系統が1000石の「北高木家」として、三家が同時に成立したのである 2

これら高木三家は、1万石未満の旗本でありながら、大名と同様に領地に居住して参勤交代を行うことが許された「交代寄合」という特別な家格を与えられた。彼らは「美濃衆」と称され、幕末に至るまで美濃の在地領主として、また木曽三川の治水を担う幕府の重要な役人として、その家名を後世に伝えたのである 3

【表3:高木貞久の子孫と高木三家の成立】

世代

人物名

関係性

成立した家

江戸時代の家格

高木貞久

一族の礎を築く

-

-

高木貞家

長男(早世)

-

-

高木貞利

次男

西高木家 (本家)

交代寄合 美濃衆

高木貞秀

三男(前田家仕官)

-

-

高木貞友

五男

東高木家

交代寄合 美濃衆

高木貞俊

貞家の子(貞久の養子)

北高木家

交代寄合 美濃衆


終章:高木貞久が歴史に遺したもの

高木貞久は、織田信長や豊臣秀吉のような、歴史を動かす天下人ではなかった。彼の武将としての生涯は、主家である斎藤氏の滅亡に始まり、自らが仕えた織田信孝の敗死と、それに伴う自身の政治的失脚という、一見すると「敗北」の連続であったかのように映るかもしれない。しかし、その評価は極めて一面的である。

貞久の真価は、巨大勢力に翻弄される一国人領主として、自らの一族をいかに存続させるかという点に絞られた、極めて現実的で巧みな生存戦略にある。斎藤氏の衰退をいち早く見抜き、有利な条件で織田信長に帰順した先見性。織田政権下で重要拠点である今尾城を任されるまでに信頼を勝ち得た統治能力。そして何よりも、本能寺の変後の混乱期において、勝ち目の薄いと見られた織田信孝に最後まで忠義を尽くし、その敗北が確定した瞬間に、全ての抵抗を放棄して「戦略的隠居」を選択した決断力。これら全ては、目先の勝利ではなく、一族の永続という、より長期的で大きな目標に向けられた、計算された行動であった。

彼が歴史の表舞台から潔く身を引いたからこそ、息子や孫たちは次代の覇者である秀吉や家康の時代を生き抜くことができた。貞久が守り抜いた駒野・今尾という土地が育んだ「在地性」と、彼が次世代へと繋いだ命脈があったからこそ、子孫たちは関ヶ原の戦いで決定的な功績を挙げる機会を得て、徳川の世で「交代寄合 美濃衆」という特権的な地位を確立し得たのである。特に、高木三家が代々担った木曽三川の治水という家職は、貞久の時代から培われたこの地域との深い結びつきと、そこで蓄積された知見なくしては成し得なかったであろう。

結論として、高木貞久の生涯は、戦国時代の国人領主が取り得る生存戦略の、一つの典型とその成功例を我々に示してくれる。彼は、自らが歴史の表舞台で輝くことを選ばず、一族の永続という大事業の礎となる道を選んだ。乱世における「勝利」とは何か、そして「敗北」とは何かを、その生涯を通じて深く問いかける人物として、高木貞久は再評価されるべきである。

引用文献

  1. 高木貞久(タカギサダヒサ) - 戦国のすべて https://sgns.jp/addon/dictionary.php?action_detail=view&type=1&dictionary_no=1855&bflag=1
  2. 『高木家文書目録』解題 | 東海国立大学機構学術デジタルアーカイブ https://da.adm.thers.ac.jp/collection/takagike/3
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