最終更新日 2025-06-27

高木鑑房

肥前の猛将・高木鑑房:その実像と伝説の徹底的検証

序章:肥前の猛将、高木鑑房――その実像と伝説

戦国時代の肥前国(現在の佐賀県・長崎県)において、後に「肥前の熊」と恐れられる龍造寺隆信の前に立ちはだかった数多の国人領主たち。その中でも、ひときわ異彩を放つ存在が、高木鑑房(たかぎ あきふさ)である。自らの首を斬り落とされてなお、佩刀を振るって敵に斬りかかったという、凄絶な最期の伝説は、彼の比類なき武勇と執念を現代にまで伝えている 1 。しかし、この超人的な伝説の背後にある鑑房の実像は、戦国中期の肥前を巡る複雑な政治情勢と、滅びゆく旧勢力の悲哀を色濃く映し出すものであった。

本報告書は、江戸時代に成立した軍記物語『北肥戦誌』などに描かれた鑑房の英雄的、あるいは伝説的な姿と、各種古文書や記録に残された断片的な史実を丹念に突き合わせ、史料批判の観点から分析を加えることで、高木鑑房という一人の武将の生涯を多角的に再構築する。そして、彼の生きた時代の力学の中でその行動原理を解き明かし、肥前史における歴史的意義を明らかにすることを目的とする。

鑑房の生涯は、主家である少弐氏の衰退、そして肥前への介入を強める大内氏と大友氏という二大勢力、さらに国内で台頭する新興の龍造寺氏という、幾重にも重なる権力闘争の渦中にあった。彼の行動は、一見すると主君を次々と変える変節のようにも映るが、その根底には、激動の時代の中で「高木」という一族の存続を賭けた、在地領主としての必死の選択があった。本報告は、鑑房を単なる「龍造寺隆信の敵役」としてではなく、戦国という時代の矛盾と力学を体現した一人の人間として捉え直し、その実像に迫るものである。

表1:高木鑑房 関連年表

年代(西暦)

元号

出来事

関連人物・勢力

典拠

1504年

永正元年

高木鑑房、生誕。父は高木盛家または満兼と伝わる。

高木氏

1

1535年

天文4年

主君・少弐資元が大内義隆の攻撃により自害。鑑房は一時浪人となる。

少弐資元、大内義隆

1

(不明)

天文年間

一時的に大友義鑑に臣従し、偏諱(「鑑」の字)を授かる。

大友義鑑

1

1540年

天文9年

資元の子・少弐冬尚が龍造寺家兼らの支援で少弐氏を再興。鑑房も旧領に復帰し臣従する。

少弐冬尚、龍造寺家兼

1

1548年

天文17年

龍造寺隆信が龍造寺宗家を継承。肥前の勢力図が大きく変動し始める。

龍造寺隆信、龍造寺胤栄

5

1551年

天文20年

龍造寺家旧臣・土橋栄益らが隆信追放を画策。鑑房もこれに加担し、「東肥前十九将」の一角を担う。

土橋栄益、大友義鎮

1

1553年

天文22年

隆信が筑後から肥前へ復帰。鑑房は飯盛城付近で迎撃するも敗北し、居城・高木城へ退く。

龍造寺隆信、八戸宗暘

1

1554年

天文23年

隆信軍に高木城を攻められ降伏。杵島郡の前田家定を頼るも、その裏切りにより謀殺される。

龍造寺隆信、前田家定

1

1582年

天正10年

嫡男・高木盛房、龍造寺家臣として戸原紹真との戦いで戦死。

高木盛房、龍造寺政家

1

1584年

天正12年

次男・太栄入道、沖田畷の戦いで主君・龍造寺隆信と共に戦死。

太栄入道、龍造寺隆信

1

第一章:高木一族の出自と肥前における勢力基盤

高木鑑房の行動を理解するためには、まず彼が背負っていた「高木氏」という一族の歴史的背景と、肥前国におけるその特異な立ち位置を把握する必要がある。

第一節:藤原氏後裔を称する名族の誕生

高木氏は、平安時代後期に肥前国佐賀郡高木村(現在の佐賀市高木瀬町一帯)から興った豪族である 10 。その系譜は、藤原北家、特に摂関政治の最盛期を築いた藤原道隆の後裔であると称している 10 。伝承によれば、道隆の子孫である藤原季貞の子・貞永が、平家残党追討の命を受けてこの地に下向し、館を構えた。そして、その子である宗貞の代から、本拠地の名を取って「高木」を名乗るようになったという 11

しかし、この藤原氏後裔という系譜には、史学的な検討が必要である。在地豪族が自らの支配の正当性を権威付けるため、中央の著名な氏族に系譜を繋げる「仮冒」は、中世において広く見られた現象であった 13 。肥前高木氏の場合も、肥後の菊池氏が同様に藤原隆家を祖と称した例に倣い、大宰府の長官であった藤原氏の権威に結びつけようとした政治的意図が推察される。高木氏の真のルーツは、より古くからこの地に根差していた肥前国造などの古代豪族に求めるのが自然であり、藤原氏後裔という称号は、在地における自らの権威を高めるための装飾であった可能性が高い 13

第二節:河上社大宮司職と在地領主としての高木氏

高木氏の権力基盤は、単なる武力や所領支配に留まらない、複合的な性格を持っていた。その中核をなすのが、肥前国一宮である河上社(かわかみしゃ、現在の與止日女神社)の大宮司職であった 10 。鎌倉時代から南北朝時代にかけて、高木氏は代々この神職を世襲し、その宗教的権威を背景として周辺地域への影響力を拡大していった 13

さらに、彼らは国府の在庁官人や、国内の警察・軍事権を担う押領使といった公的な役職も務め、政治的な立場も有していた 15 。その本拠地は佐賀郡北部の高木城(現在の佐賀市高木瀬町)に置かれ、その周辺には一族の守り神である高木八幡宮や、菩提寺である臨済宗の正法寺が建立されるなど、高木村一帯はまさに高木氏の城下町として栄えていた 9

このように、高木氏は①軍事力、②経済力(所領)、③政治的権威(国衙の役職)、④宗教的権威(一宮大宮司)という四つの柱によって支えられた、肥前屈指の名族であった。この複合的な権力構造こそが、後に純粋な武力と謀略で伸し上がってきた龍造寺隆信との対立を、単なる領土争いではなく、旧来の権威秩序と新しい実力主義とのイデオロギー闘争の様相を帯びさせる要因となったのである。

第三節:一族の分流と龍造寺氏との関係

高木氏の勢力拡大に伴い、その一族からは多くの庶家が分出していった。その中には、於保氏、草野氏、そして後に肥前の覇者となる龍造寺氏も含まれていたと伝わる 10 。龍造寺氏の祖・季家は、高木氏から出て龍造寺家の養子になったとされ、元来は同族、それも高木氏を本家筋とする関係にあった 15

この事実は、高木鑑房と龍造寺隆信の対立に、「本家筋に対する分家の反乱(下剋上)」という、もう一つの側面を付与する。鑑房が隆信の家督相続に執拗に反対した背景には、肥前の国人領主としての独立性を守るという大義名分だけでなく、高木一族の宗家としてのプライドと、分家筋に過ぎない隆信に肥前の実権を握られることへの屈辱感が、複雑に絡み合っていたと考えられる。

また、戦国期には高木氏は一枚岩ではなく、鑑房が城主であった東高木城と、同族の高木胤秀が城主であった西高木城が存在し、東西に分立していたことが記録されている 3 。この一族内の分裂も、龍造寺氏の台頭を許す一因となった可能性がある。

第二章:龍造寺隆信の台頭と肥前の政情

高木鑑房の生涯は、16世紀半ばの肥前国を巡る激しい政治力学の変動と分かちがたく結びついている。彼の行動は、常に主家、周辺大名、そして国内の新興勢力との関係性の中で規定されていた。

第一節:主家・少弐氏の衰退と大友・大内両勢力の角逐

鑑房が本来仕えていた主君・少弐氏は、鎌倉時代以来の九州の名族であったが、長年にわたる周防の大内氏との抗争の末に著しく衰退していた 4 。天文4年(1535年)、当主の少弐資元が大内義隆の猛攻の前に自害すると、少弐氏は一時滅亡の危機に瀕する 1 。この権力の空白を突く形で、豊後の大友氏が肥前への影響力拡大を画策し始めた。

高木鑑房も、主家を失い浪人となった後、一時的に大友義鑑に臣従し、その証として「鑑」の一字を偏諱として授かっている 1 。これは、鑑房が自家の存続のため、時流を読んで大友氏との関係を築こうとした現実的な判断であった。その後、資元の子・冬尚が龍造寺家兼らの支援を得て少弐氏を再興すると、鑑房は再び少弐氏の家臣として復帰するが 1 、彼の背後には常に関係を維持していた大友氏の影がちらついていた。

第二節:龍造寺隆信の家督相続を巡る内紛

こうした中、肥前国内で急速に力をつけてきたのが、少弐氏の有力家臣であった龍造寺氏である。特に分家である水ヶ江龍造寺家の龍造寺家兼は、主家を凌ぐほどの勢威を誇った。その曾孫にあたるのが、龍造寺隆信である 20

天文17年(1548年)、龍造寺本家(村中龍造寺家)の当主・龍造寺胤栄が男子のないまま死去すると、隆信がその未亡人を娶る形で本家を継承した 5 。しかし、この家督相続は、分家筋による本家の乗っ取りとも言えるものであり、その正当性を巡って一族内や家臣団に深刻な対立を生んだ 21

この内紛の中心人物となったのが、胤栄の旧臣であった土橋栄益である。彼は隆信の家督相続に強く反発し、同じく大友義鑑から偏諱を受けていた龍造寺一門の龍造寺鑑兼を新たな当主として擁立し、隆信の追放を画策した 1 。この動きは、単なる龍造寺家内部の権力闘争に留まらず、肥前全体の国人領主を巻き込む大規模な紛争へと発展していく。

第三節:「東肥前十九将」の結託と鑑房の役割

土橋栄益の挙兵に呼応し、肥前東部の国人領主たちが一斉に反隆信の旗を掲げた。高木鑑房をはじめ、八戸宗暘、小田政光、江上武種、綾部鎮幸といった、いわゆる「東肥前十九将」である 7 。彼らの多くは、旧主・少弐氏への忠誠心や、新興勢力・龍造寺氏への反発といった共通の動機を持っていたが、それ以上に重要な結節点となったのが、豊後の大友氏の存在であった。

高木鑑房、龍造寺鑑兼、馬場鑑問、綾部鎮幸など、反乱の中核を担った武将の多くが大友氏から偏諱を受けていた事実は、この反乱が大友氏の強い影響下にあったことを示唆している 7 。当時、大友氏の宿敵である大内義隆の後援を受けていた隆信の勢力拡大は、大友氏にとって看過できない脅威であった。そのため、大友氏は肥前の国人領主たちを扇動し、隆信を排除しようとしたのである。つまり、「東肥前十九将」の反乱は、大友氏と大内氏の代理戦争という側面を色濃く持っていた。

この連合軍の蜂起により、天文20年(1551年)、隆信は居城である佐賀の村中城と水ヶ江城を追われ、筑後の有力国人・蒲池鑑盛を頼って亡命を余儀なくされた 7 。高木鑑房は、この反乱において中心的な役割を果たし、束の間の勝利を手にすることになる。

表2:東肥前十九将(龍造寺隆信家督相続反対派)の代表格

武将名

拠点 / 一族

大友氏・少弐氏との関係

典拠

高木 鑑房

東高木城主 / 高木氏

大友義鑑より偏諱 、旧少弐家臣

1

土橋 栄益

龍造寺家旧臣

反隆信派の首謀者

1

龍造寺 鑑兼

水ヶ江龍造寺家

大友義鑑より偏諱 、反隆信派の旗頭

7

小田 政光

蓮池城主 / 小田氏

祖父・資光が少弐冬尚を保護

4

八戸 宗暘

八戸氏

妻は隆信の妹だが、当初は敵対

7

江上 武種

勢福寺城主 / 江上氏

旧少弐家臣

7

綾部 鎮幸

白虎山城主 / 綾部氏

大友義鎮より偏諱

7

横岳 資誠

横岳氏

旧少弐家臣

7

馬場 鑑問

馬場氏

大友義鑑より偏諱

7

第三章:高木鑑房の生涯――抵抗と敗北

龍造寺隆信を肥前から追放した高木鑑房ら反乱軍であったが、その勝利は長くは続かなかった。不屈の闘志を持つ隆信の反撃により、鑑房の運命は暗転していく。

第一節:隆信追放と束の間の勝利

天文20年(1551年)に隆信が筑後へ亡命した後、佐賀城には龍造寺鑑兼が名目上の城主として迎えられ、実権は土橋栄益、小田政光、そして高木鑑房らが掌握した 28 。この時、鑑房は佐賀の海岸線の防衛を任されるなど、反隆信政権の中核として重きをなした 28 。これは、彼の軍事的能力が高く評価されていた証左であり、鑑房の生涯における政治的・軍事的な影響力が最も高まった頂点であったと言える。

第二節:隆信の肥前復帰と鑑房の敗走

しかし、雌伏の時を過ごしていた隆信は、決して諦めてはいなかった。天文22年(1553年)、隆信は与賀郷や川副郷(現在の佐賀市南部)の郷士たちの支援を取り付け、満を持して肥前への帰還を果たす 8

これに対し、高木鑑房は1,300の兵を率いて迎撃に向かった。隆信軍が飯盛城(現在の佐賀市本庄町)を攻略しようとした際、その背後を突こうとしたのである 1 。しかし、隆信の巧みな用兵の前に鑑房の陣は崩され、若村(じゅうごむら)へと退却を余儀なくされた。さらに、同盟者であった八戸宗暘の加勢を得て反撃を試みるも、再び討ち負かされ、精町(しらげまち)へと追い詰められた末、ついに居城である高木城へと敗走した 1 。この一連の敗戦により、あれほど強固に見えた反隆信連合は急速に瓦解し、鑑房は次第に孤立していくこととなった。

第三節:高木城の攻防と降伏

天文23年(1554年)3月、肥前国内の趨勢をほぼ固めた龍造寺隆信は、最後の抵抗勢力である高木鑑房を討つべく、高木城へ大軍を派遣した 12 。鑑房は城を出て三溝口(みぞのくち)で最後の迎撃戦を挑んだが、衆寡敵せず、またもや敗北を喫した 1

もはや万策尽きた鑑房は、高木城に籠城するも、勝ち目がないことを悟る。彼は一族の存続を第一に考え、嫡男である盛房を人質として差し出すことを条件に、隆信に和睦を申し入れた 1 。隆信はこれを受け入れ、鑑房は城を明け渡した。そして、自らは再起を図るべく、杵島郡佐留志(さるし)の領主であった前田家定を頼って落ち延びていったのである 1 。しかし、この選択が彼の運命を決定づけることとなる。

第四章:壮絶なる最期――『北肥戦誌』に描かれた伝説

高木鑑房の生涯は、その壮絶な最期によって、歴史に深く刻まれることとなった。軍記物語に描かれたその死は、史実を超えて、一人の武将の並外れた武勇を象徴する伝説として語り継がれている。

第一節:前田家定の裏切りと謀殺

鑑房が身を寄せた杵島郡佐留志の領主・前田家定は、すでに龍造寺隆信に寝返っていた。この時点で、隆信の肥前における覇権はほぼ確実なものとなっており、家定にとって、もはや勝ち目のない鑑房を匿うことは、自家の滅亡を招きかねない極めて危険な賭けであった。家定は、鑑房の首を隆信に差し出すことで、新時代の覇者への恭順の意を示し、自家の安泰を図るという、戦国時代の非情な現実主義に則った決断を下したのである。

天文23年(1554年)のある朝、鑑房が館の縁側で従者に足を洗わせ、無防備な状態にあったその時、家定は背後から忍び寄り、一太刀のもとに鑑房の首を打ち落とした 1 。旧恩を仇で返すこの裏切りによって、肥前の猛将は謀殺された。鑑房の死は、大義や恩義よりも自家の存続が最優先されるという、戦国時代の冷徹な力学の犠牲となった悲劇であった。

第二節:首無きまま戦う勇士――逸話の分析と史実

この鑑房暗殺の場面を、江戸時代に成立した軍記物語『北肥戦誌』は、驚くべき筆致で描いている。

「鑑房は首のないまま自らの刀を抜くと、傍にいた従者を斬り殺して、奥の間へ切り行ったが、家定の家臣数十人が槍で刺し貫き組み伏せた」 1

この「首無き武者」の逸話は、医学的に考えればあり得ないことであり、史実そのものではない。しかし、これを単なる荒唐無稽な作り話として片付けるのは早計である。この種の超人的な描写は、歴史的事実とは異なる次元で、重要な意味を持っている。

第一に、これは鑑房の並外れた武勇と、死してなお尽きることのない執念を象徴的に表現するための、軍記物語特有の文学的技法である。第二に、裏切りという卑劣な手段で討たれた悲劇の英雄を神格化し、読者の同情を強く喚起する効果を持つ。そして第三に、彼の死が、当時の人々にとってそれほどまでに衝撃的で、常識では理解しがたい出来事として受け止められたことの証左でもある。

この逸話は、史実そのものではなく、後世の人々によって語り継がれる中で形成された「記憶された歴史」の産物である。そして、高木鑑房という武将が、敵方である龍造寺側の視点で編纂された書物においてすら「常人ならざる勇士」として記憶されるに足る、傑出した人物であったことを何よりも雄弁に物語っている。

第三節:鑑房の人物像――「勇力万人に優れ」た武将

『北肥戦誌』は、鑑房の人物像をさらに誇張して、「勇力万人に優れ、早業は江都の素早さをも超越し、打物(剣・太刀)を使えば樊噲・長良にも恥じず」と、中国の伝説的な豪傑になぞらえて称賛している 1 。そればかりか、「その上に魔法を習得しており、或る時は闇夜に日月を現し、或る時は酷暑に雪を降らせ、大空に立って大海を飛んだ」と、もはや人間離れした能力の持ち主として描いている 1

これらの超自然的な描写は、もちろん事実ではない。しかし、敵であった龍造寺方の記録においてすら、これほどまでにその武勇と存在感を認めざるを得なかったという事実は、逆説的に高木鑑房が、同時代の人々にとって計り知れない畏怖の念を抱かせるほどの猛将であったことを示している。彼の墓所や供養塔の具体的な場所は特定されていないが 30 、その強烈な記憶は、伝説として肥前の地に深く刻み込まれたのである。

第五章:鑑房死後の高木一族とその後の歴史

高木鑑房の死は、彼個人の悲劇に終わらなかった。それは、彼が守ろうとした高木一族の運命をも大きく左右することになる。しかし、一族の物語はそこで終わることはなかった。

第一節:龍造寺家に仕えた息子たちの悲運

鑑房が降伏した際に人質として龍造寺方に差し出されていた二人の息子、嫡男の盛房と次男の太栄入道は、父の死後も隆信によってその命を助けられた。そればかりか、父の旧領の一部を与えられ、龍造寺家の家臣として仕えることを許された 1

この一見寛大な処置の裏には、父を殺した主君に息子たちが忠誠を尽くすという、戦国時代の武家社会における厳しい掟が存在した。彼らにとって、龍造寺家のために働くことは、個人的な感情や復讐心を超えて、「高木家」が逆賊であるという汚名を雪ぎ、家名を存続させるための唯一の道であった。それは、果たさねばならない「務め」だったのである。

しかし、彼らの運命は過酷であった。嫡男・盛房は、天正10年(1582年)10月、龍造寺氏から離反した戸原紹真を攻める戦いにおいて、主君のために奮戦し、戦死した 1 。次男で出家していた太栄入道もまた、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにおいて、龍造寺隆信自身が島津・有馬連合軍に討ち取られたその同じ戦場で、命を落とした 1 。父を殺した主君のために、二人の息子もまた戦場で散るという結末は、戦国武士の宿命と、「家」の存続という重い責務を象徴する悲劇であった。

第二節:鍋島藩体制下の肥前高木氏

鑑房の直系はこうして途絶えたが、高木一族そのものが滅亡したわけではなかった。彼らはその後も肥前国の各地に在地土豪として存続し、繁衍した 34 。龍造寺氏の支配が終わり、鍋島氏による佐賀藩の統治が始まると、高木一族の一部は佐賀藩士として新たな支配体制の中に組み込まれていった 11 。かつて肥前北部に覇を唱えた独立領主は、藩という近世的な統治機構の一員として、新たな時代を生き抜いていくことになったのである。

第三節:近現代における末裔たちの活躍

驚くべきことに、一度は「全く亡ぶ」とまで記された高木一族の血脈は 12 、近現代に至るまで多彩な才能を世に送り出している。これは、武力による支配が終焉した後も、名族としての教育や文化的資本が家系の中で受け継がれ、時代の変化に応じて新たな形で開花したことを示している。

鑑房と同じ東高木家の系統からは、幕末から明治にかけて、佐賀戦争や西南の役に参加した志士・高木豹三郎が出た。さらにその子である高木背水(誠一郎)は、日本近代洋画の先駆者の一人となり、特に明治天皇の御肖像画を描いた画家としてその名を残している 11

また、西高木家の系統からも、明治初期に東京控訴院(現在の高等裁判所)の検事長を務めた法曹界の重鎮・高木秀臣や、戦後に東京大学で教鞭をとり、アメリカ政治史・外交史研究の権威として文化勲章を受章した法学博士・高木八尺といった、学術・法曹界の第一人者が輩出されている 11

高木鑑房の敗北は、武士としての高木家の歴史における一つの終焉であったかもしれない。しかし、それは一族の物語の終わりではなかった。時代の変化に適応し、新たな価値を創造していく一族の強靭な生命力は、鑑房の伝説とはまた別の形で、高木氏の名を現代に伝えているのである。

終章:高木鑑房が歴史に遺したもの

高木鑑房の生涯は、旧来の権威と秩序を象徴する在地豪族が、下剋上の激しい波濤の中で台頭する新興勢力・龍造寺隆信によって打ち砕かれるという、戦国時代の典型的な縮図であった。彼が率いた「東肥前十九将」の抵抗は、結果として隆信の肥前統一を遅らせ、その過程をより熾烈で血腥いものにした。その意味で、彼は肥前の歴史の転換点において、無視できない役割を果たした人物である。

しかし、高木鑑房を単なる歴史の敗者としてのみ記憶するのは、一面的に過ぎるだろう。彼の存在と頑強な抵抗があったからこそ、「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信の権力掌握の物語は、より一層の深みと複雑さを増すのである。鑑房は、隆信という強大な個性の前に立ちはだかることで、その英雄性を際立たせる鏡の役割をも果たした。

そして何よりも、その壮絶な最期と、それを語り継ぐ「首無き武者」の伝説は、歴史が勝者のみによって創られるのではないことを我々に教えてくれる。敗者の記憶、特に鑑房のような強烈な個性を持つ人物の記憶は、時に史実の記録以上に人々の心を捉え、地域の歴史と文化を豊かに形成する重要な要素となる。高木鑑房は、史実の敗者として、そして伝説の英雄として、今なお肥前の地にその名を刻み続けているのである。

引用文献

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  2. 高木鑑房とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E9%91%91%E6%88%BF
  3. 形勢によったもので、九州では応仁の乱(一四六七)後、九州探題の勢威が衰えて戦国の状を呈するので - 佐賀市 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34623_20130321113942.pdf
  4. 少弐冬尚とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B0%91%E5%BC%90%E5%86%AC%E5%B0%9A
  5. 紙本著色龍造寺隆信像 一幅 - さがの歴史・文化お宝帳 https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=5264&cityId=8
  6. 龍造寺隆信は何をした人?「肥前の熊と恐れられ大躍進したが哀れな最後を遂げた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/takanobu-ryuzoji
  7. 肥前の龍造寺氏 - 佐賀市 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34632_20130321035027.pdf
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  9. 高木城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E5%9F%8E
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  11. 高木氏 - さがの歴史・文化お宝帳 https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=1819
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  24. また享禄三年(一五三〇)七月十五日付の「龍造寺文書』に左のようにある。 - 佐賀市 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34631_20130124125403.pdf
  25. 勢福寺城跡・・・少弐氏VS龍造寺氏決戦の地(龍造寺隆信/少弐冬尚/江上武種) https://ameblo.jp/rx7fd3s917/entry-12501171149.html
  26. 綾部鎮幸 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%BE%E9%83%A8%E9%8E%AE%E5%B9%B8
  27. 蒲池鎮並公外一行之霊碑 - さがの歴史・文化お宝帳 https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=5122
  28. 小田覚派(資光)時代 - 佐賀市 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34628_20130514091654.pdf
  29. 潮音寺の跡 - さがの歴史・文化お宝帳 https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=1106
  30. 大友義鎮 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E9%8E%AE
  31. 鹿児島県霧島市|指定文化財の概要【国分】 https://www.city-kirishima.jp/bunka/kyoiku/rekishi/bunkazai/shitebunkazai/bunka-kokubu.html
  32. 河内高木家供養塔 https://gururinkansai.com/kawachitakagikekuyoto.html
  33. 第33回 単信上人(たんしんしょうにん)の祈りが込められた六角名号塔(ろっかくみょうごうとう) - 久喜市 https://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/rekishi_dayori/1006281.html
  34. 高木氏(たかぎうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E6%B0%8F-1182567