最終更新日 2025-07-31

高梨政盛

高梨政盛は北信濃の国人領主。越後長尾氏と同盟し、長森原の戦いで関東管領上杉顕定を討ち取り、高梨氏の全盛期を築いた。その死後、高梨氏は一時衰退するが、彼が築いた長尾氏との関係が、孫の代の武田信玄との戦いで上杉謙信の援軍を得る礎となった。
「高梨政盛」の画像

戦国黎明の北信濃に君臨した武将、高梨政盛の実像

序章:戦国黎明の北信濃と高梨一族の系譜

戦国時代の幕開け、信濃国北部は、のちに越後の龍・上杉謙信と甲斐の虎・武田信玄が雌雄を決する川中島の戦いの舞台となる。この激動の地で、一時期、他の追随を許さぬほどの威勢を誇った国人領主がいた。その名は高梨政盛。彼の生涯は、単なる一地方領主の興亡に留まらず、越後、関東をも巻き込む東国全体の政治力学に深く関与するものであった。本報告書は、高梨政盛という人物の生涯を、彼が継承した一族の歴史的背景から、その絶頂と死、そして後世に遺した影響に至るまで、多角的に検証し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。

高梨氏の出自と伝承の再検討

高梨氏の公式な系譜は、清和源氏の中でも信濃に土着した源頼季を祖とする井上氏の支流とされている 1 。『尊卑分脈』によれば、井上家季の子である盛光が、高梨郷(現在の須坂市)に居住して高梨氏を名乗ったのが始まりとされる 1 。高梨氏が用いた「石畳紋」は、神社の敷石に由来するとも言われ、神の加護を期待する武士の信仰心と結びついていた可能性が指摘されている 3

しかし、この公式系譜には検討の余地がある。源平合戦(治承・寿永の乱)の際、高梨氏は系譜上の本家である井上一族とは行動を共にせず、安曇郡を本拠とする桓武平氏系の仁科氏らと連携していた記録が残る 2 。当時の武士団の慣習からすれば、これは極めて異例であり、高梨氏が本来は井上氏とは異なる出自を持つ一族であった可能性を示唆している。平安時代末期には、木曽義仲の旗揚げに従い、高梨高信や高梨忠直といった武将が、越後から南下した平家方を破るなど、義仲軍の中核として活躍した 1 。この時期から既に、高梨氏は北信濃における有力な武士団として、その存在感を示していたのである。

南北朝・室町時代における勢力形成

南北朝の動乱期において、高梨氏は同じ北信濃の有力国人である村上氏と共に北朝方として活動した。南朝方の市河氏や香坂氏らと抗争を繰り広げ、その勢力範囲を北方の小菅荘(現在の飯山市)方面にまで拡大させた 2

室町時代に入ると、高梨氏は信濃守護である斯波氏や小笠原氏といった幕府が任命した権力者としばしば対立しつつも、巧みに室町幕府中央との直接的な関係を維持しようと努めた。高梨教秀が将軍・足利義教から、そしてその子で政盛の父にあたる高梨政高が将軍・足利義政から、それぞれ名の一字(偏諱)を賜っている事実は、彼らが単なる地方豪族ではなく、中央政権からも一目置かれる存在であったことを物語っている 2

特に高梨政高の時代には、高梨氏の勢力は飛躍的に増大する。寛正4年(1463年)、信濃半国の守護職を得た越後守護・上杉房定の一族が、高梨氏を討伐すべく侵攻してきた際、政高はこれを高橋(現在の中野市西条)で迎え撃ち、見事に撃退した 2 。この勝利によって、上杉方に味方した在地土豪の所領を併合し、高梨氏の支配領域は著しく拡大した。高梨政盛は、父・政高が築き上げたこの強固な勢力基盤を継承し、さらなる飛躍を遂げることになる。

惣領制の強化と国人領主としての自立

高梨氏の発展の歴史は、単なる領土拡大の物語ではない。それは同時に、一族内部の権力闘争を制し、惣領(本家の当主)の下に権力を集中させていく過程でもあった。鎌倉時代以来、武士の一族は惣領を中心にしつつも、庶子家(分家)が所領を分割相続し、一定の自立性を持つ緩やかな連合体として存在していた。高梨氏も例外ではなく、室町時代には「高梨四家」と称される有力な分家が存在した 2 。しかし、この体制は、外部勢力との恒常的な緊張関係の中では、内部崩壊の危険を常にはらんでいた。

この状況を打破し、高梨氏を強力な戦闘集団へと変貌させたのが、政盛の父・政高の時代から始まる内部統制の強化であった。その象徴的な出来事が、文明16年(1484年)に、長らく惣領家から半ば自立していた有力な分家・山田高梨氏を武力で攻め、完全に服属させた一件である 2 。これは、鎌倉時代的な緩やかな一族連合から、惣領の強力な指揮下に一族が統制される、より集権的な「戦国領主」へと高梨氏が変貌を遂げたことを示す画期的な事件であった。この強固な一族支配体制の確立こそが、後に政盛が越後の内乱という国外の大規模な紛争に、一族を率いて軍事介入することを可能にした基盤となったのである。

表1:高梨政盛 関連年表

年代(西暦)

高梨政盛・北信濃の動向

越後・関東・中央の主要動向

1456年

高梨政盛、高梨政高の子として誕生 8

1495年

政盛、善光寺の支配を巡り村上政清と争い、善光寺を焼失させる 2

1504年

立河原の戦い。長尾能景(為景の父)が山内上杉顕定を支援 9

1506年

長尾能景、越中で戦死。子の為景が家督を継ぐ(越後「永正の乱」の遠因) 10

1507年

政盛、長尾為景を支援。

長尾為景、主君・上杉房能を討つ。房能の実兄・関東管領上杉顕定が報復を決意 11

1509年

上杉顕定、越後に侵攻。長尾為景は佐渡へ逃亡 11

1510年

高梨政盛、長尾為景の援軍として越後に出陣。長森原の戦いで関東管領・上杉顕定を討ち取る 2

為景、越後に再上陸し反撃。長森原で顕定を破る 11 。顕定の死後、山内上杉家で内紛が勃発 10

1513年頃

政盛、中野氏を討ち、本拠を中野小館に移す。高梨氏の全盛期を築く 2

1513年

4月27日、高梨政盛、死去 12 。子の澄頼が継ぐが、井上氏など北信濃国衆が反旗を翻し、高梨氏は一時的に孤立する 2

越後で長尾為景と新守護・上杉定実の対立が表面化 2 。相模で伊勢宗瑞(北条早雲)が勢力を拡大 14

第一章:高梨政盛の登場と勢力基盤の確立

父・政高が築いた強固な基盤を継承した高梨政盛は、応仁の乱以降、旧来の権威が失墜し、実力主義が支配する「下剋上」の時代を、その天賦の才覚で見事に生き抜いた。彼のリーダーシップの下、高梨氏はその勢力を頂点へと導くことになる。本章では、政盛がいかにしてその勢力基盤を確立したのか、その内政と戦略を分析する。

第一節:政盛の出自と時代の潮流

高梨政盛は、康正二年(1456年)、高梨政高の子として生を受けた 8 。父と同様に、室町幕府の8代将軍・足利義政から「政」の一字を賜り、「政盛」と名乗ったことは 8 、父の代から続く幕府との繋がりを継承し、自らの権威を高める意図があったことを示している。

彼が家督を継承し、活動した時代は、まさに戦国乱世の序盤にあたる。京都の中央政権は権威を失い、各国に置かれた守護大名もその支配力を弱め、各地で力を蓄えた国人領主たちが自立し、互いに領土を奪い合う時代であった。政盛の生涯にわたる行動は、この時代の本質、すなわち「力こそが正義である」という現実を的確に捉え、それを自らの勢力拡大に最大限利用したものであったと言える。

第二節:本拠地・中野小館の経営と領国支配

政盛の数ある功績の中でも、特筆すべきは本拠地の移転である。彼は、それまでの一族の拠点であった場所から、北信濃の心臓部ともいえる中野郷へと拠点を移した 7 。この地は古くから中野氏が支配する要衝であったが、政盛はこれを武力で討ち、あるいは駆逐することで完全に掌握した 2

中野に新たに築かれた政盛の居館は「中野小館(高梨氏館)」と呼ばれる 17 。この館は、単なる住居ではなく、背後にそびえる山城「鴨ヶ嶽城」を詰城(最終防衛拠点)とする、平時と有事を一体化した堅固な軍事拠点であった 6 。近年の発掘調査によれば、館は深さ5メートル、幅7メートルにも及ぶ堀と、重厚な土塁によって四方を囲まれており、その防御能力の高さが窺える 6 。さらに館の内部には、主殿や政務を執り行う建物群に加え、武家の権威と文化的洗練を示す枯山水様式の庭園までが造られていたことが確認されている 20 。これは、政盛が高梨氏の武威と文化的な高さを内外に誇示しようとした証左であろう。

しかし、彼の領国経営は決して平坦な道ではなかった。特に、信濃随一の霊場である善光寺の支配権を巡っては、北信濃のもう一方の雄である村上氏と激しく対立した。明応四年(1495年)には、両者の争いは大規模な合戦に発展し、その結果として善光寺の伽藍が焼失するという悲劇を招いている 2 。この時、政盛が善光寺の本尊を持ち帰り、自領内に祀ろうとしたという伝承が残されているが 2 、これは当時の国人領主が、宗教的な権威すらも自らの支配を正当化するための道具と見なしていたことを示す興味深い逸話である。

中野への本拠地移転の戦略的意義

高梨政盛が本拠地を中野に移したという決断は、単なる領土の拡大という表面的な事象に留まらない、深謀遠慮に基づく高度な戦略的判断であった。この一手には、当時の北信濃の情勢と、将来の越後との関係を見据えた、政盛の卓越した地政学的センスが凝縮されている。

第一に、内政的、すなわち対村上氏戦略の観点である。中野は善光寺平の北部に位置する広大で肥沃な平野部の中心地であり、経済的にも軍事的にも極めて重要な拠点であった 15 。この地を抑えることは、千曲川を挟んで南に勢力を張る最大のライバル・村上氏 22 に対し、恒常的な圧力をかけることを可能にする。平野部の経済力と交通の要衝を掌握することで、高梨氏は対村上氏の抗争において、決定的な優位に立つことができたのである。

第二に、外交的、すなわち対越後戦略の観点である。中野は、信濃川(長野県内では千曲川)の水運を通じて、越後国へと直結する玄関口にあたる。後述するように、政盛の外交戦略の根幹は越後守護代・長尾氏との同盟にあった。来るべき越後との軍事連携を考えた場合、兵の動員や物資の輸送を迅速に行えるこの地は、まさに理想的な戦略拠点であった。

したがって、中野への本拠地移転は、北信濃の覇権を確立するという国内政策と、越後との同盟を強化するという国外政策を、同時に、そして有機的に実現するための、政盛のグランドデザインの中核をなす一手であったと結論付けられる。それは、彼が単なる武勇に優れた武将ではなく、大局的な戦略眼を持った政治家でもあったことを雄弁に物語っている。

第二章:越後「永正の乱」への介入と武功の頂点

高梨政盛の名を戦国史に不滅のものとしたのは、隣国・越後で勃発した「永正の乱」への軍事介入であった。この戦いにおいて彼は、一介の信濃国人でありながら、関東全域を統べる最高権力者・関東管領を討ち取るという、空前絶後の武功を立てる。本章では、政盛の生涯の頂点であるこの出来事を、当時の複雑な政治情勢の中に位置づけて詳述する。

第一節:長尾氏との姻戚関係と地政学的背景

政盛の外交戦略の根幹をなしたのは、越後国の守護代であった長尾氏との極めて強固な同盟関係であった。彼は自らの娘を、当時の守護代・長尾能景に嫁がせた。そして、この二人の間に生まれたのが、後に「越後の龍」上杉謙信の父となる長尾為景である 2 。これにより、政盛は為景の母方の祖父という、血縁に基づく極めて密接な関係性を構築した。

この婚姻同盟は、両者にとって計り知れない戦略的価値を持っていた。高梨氏にとって、北の国境を接する越後に強力な同盟者を得ることは、背後の憂いを断ち、南の宿敵・村上氏との抗争に全力を傾けることを可能にした。一方、長尾氏にとって、主君である越後守護・上杉氏を凌駕し、事実上の国主へと成り上がる「下剋上」の過程において、隣国に信頼できる強力な軍事パートナーを持つことは、まさに死活問題であった。両者の利害は完全に一致し、この同盟は単なる政略結婚を超えた、運命共同体としての性格を帯びていく。

第二節:長森原の戦い ― 関東管領を討つ

永正四年(1507年)、長尾為景はついに決起し、主君である越後守護・上杉房能を急襲して自害に追い込んだ 11 。これは、父・能景が房能の命令で出兵した越中で、味方の裏切りによって戦死したことへの復讐戦であったとも言われる 11 。しかし、この「下剋上」は、関東に巨大な波紋を広げる。自害した房能の実兄は、当時、室町幕府の関東における出先機関の長官であり、関東八州の武士を統率する最高権力者、関東管領・山内上杉顕定であったからだ。

弟の非業の死に激怒した顕定は、永正六年(1509年)、自ら関東の諸将を率いて報復の大軍を組織し、越後へ侵攻した 11 。管領の大軍の前に為景は為す術もなく敗走し、一時は佐渡島へ逃亡するほどの窮地に立たされる 11

外孫・為景の絶体絶命の危機を知った高梨政盛は、決断を下す。翌永正七年(1510年)、為景が越後本土への再上陸を果たし、反撃の狼煙を上げると、政盛はこれに呼応し、信濃の精鋭を率いて国境を越え、越後へと進軍した 2

同年六月二十日、両軍は越後南部の長森原(現在の新潟県南魚沼市)で雌雄を決することとなる 13 。この決戦の様相は、政盛の存在がいかに決定的であったかを如実に示している。

表2:長森原の戦い 兵力比較

軍勢

指揮官

兵力

備考

関東管領軍

上杉顕定

800

越後からの撤退中の軍勢 25

越後守護代軍

長尾為景

500

顕定軍を追撃する軍勢 25

信濃高梨軍(援軍)

高梨政盛

700

為景軍の援軍として参陣 25

連合軍合計

1200

この兵力比較が示す通り、政盛率いる援軍は、為景の本隊を上回る規模であり、連合軍全体の過半数を占める主力部隊であった。当初、数で勝る顕定軍に対し、為景軍は苦戦を強いられたが、そこに政盛軍が到着し、顕定軍の側面を鋭く突いたことで戦局は一変した 25 。乱戦の中、高梨政盛自身が関東管領・上杉顕定を討ち取るという、戦国史上でも類を見ない大金星を挙げる 12 。総大将を失った関東管領軍は指揮系統を失って総崩れとなり、為景・政盛連合軍の劇的な勝利に終わったのである 11

一国人の軍事行動が引き起こした広域的パワーシフト

高梨政盛が長森原で関東管領を討ち取ったという一事は、単なる一合戦の勝利という次元を遥かに超え、東国全体の政治地図を根底から塗り替えるほどの、巨大なインパクトを持つ歴史的事件であった。一介の信濃国人の軍事行動が、これほど広範囲にわたるパワーバランスの変動を引き起こした例は、日本史上でも極めて稀である。

まず、越後国内において、長尾為景は自らの地位を脅かす最大の障害であった上杉顕定を排除したことで、名実ともに越後の支配者としての地位を確立した 26 。これが、後の長尾家、そして上杉謙信の飛躍の確固たる礎となった。

次に、関東において、総帥である関東管領を失った名門・山内上杉家は、軍事的に著しく弱体化しただけでなく、顕定の二人の養子(上杉顕実と上杉憲房)による深刻な家督争いに突入し、その権威を大きく失墜させた 10

そして、この関東の混乱は、新たな時代の挑戦者の台頭を促した。相模国において、伊勢宗瑞(後の北条早雲)がこの機を逃さず、扇谷上杉家の領国への侵攻を本格化させ、後の戦国大名・後北条氏が関東に覇を唱える第一歩を記したのである 14

結論として、高梨政盛が長森原で振るった一太刀は、歴史のドミノを倒す最初の一押しとなった。それは、越後における「下剋上」を完成させ、関東における「戦国時代」の本格的な扉を開き、そして後北条氏という新たな時代の主役の登場を間接的に促した。政盛は、自らが意図したか否かは別として、東国史の巨大な転換点の中心に立った人物であったと評価できる。

第三章:政盛の死と高梨氏のその後

長森原の戦いで武功の頂点を極め、高梨一族を全盛期へと導いた政盛であったが、その栄光は長くは続かなかった。彼の突然の死は、高梨氏の運命、そして北信濃の情勢に大きな影を落とす。しかし、彼が遺した外交的遺産は、数十年後、一族が存亡の危機に瀕した際に、重要な役割を果たすことになる。

第一節:全盛期の終焉と北信濃における孤立

長森原の戦いからわずか3年後の永正十年(1513年)四月二十七日、高梨政盛は、その生涯を閉じた 12 。高梨氏がまさに栄華を謳歌している最中の、あまりにも早い死であった。

偉大な父の跡を継いだのは、子の高梨澄頼であった 2 。しかし、政盛という巨大な重石が失われたことは、これまで彼の威光によって抑えられていた周辺勢力の反攻を誘発する。越後では、政盛の盟友であった長尾為景が、自らが新たに守護として擁立した上杉定実と対立を深めていた 10 。この越後の内紛が北信濃にも波及し、井上氏、島津氏、栗田氏といった他の国人領主たちは、反為景・定実方として結集し、為景派の筆頭である高梨氏の領国へと牙を剥いたのである 2

さらに、かつて政盛によって本拠地を追われた中野氏の残党も、この機に乗じて蜂起するなど 21 、高梨氏は四面楚歌の状態に陥った。越後の長尾為景という強力な後ろ盾がありながらも、信濃国内では完全に孤立し、一族は深刻な苦境に立たされた 2 。政盛一代で築き上げられた高梨氏の覇権は、彼の死と共に、脆くも崩れ去ろうとしていた。

第二節:政盛が遺した遺産 ― 上杉謙信との繋がりへ

政盛の死後、高梨氏は一時的に衰退の道を歩むが、彼が生前に築いた長尾氏との血縁を伴う強固な同盟関係は、一族にとって最大の遺産として残された。この外交的遺産が、半世紀近くの時を経て、高梨氏の運命を再び大きく左右することになる。

政盛の孫・高梨政頼の代になると、甲斐国から武田信玄の勢力が信濃全域へと及ぶ、新たな時代が到来する。当初、政頼は長年の宿敵であった村上義清と和睦を結び、共同で武田氏の侵攻に対抗した 28

しかし、信玄の巧みな戦略と圧倒的な軍事力の前に、まず村上氏が本拠地を追われ、北信濃の国衆が次々と武田方へと降伏していく。進退窮まった政頼が、最後の望みを託したのが、祖父・政盛が築いた長尾家との特別な縁であった。彼は、長尾為景の子、すなわち自らにとっても従兄弟にあたる長尾景虎(後の上杉謙信)に、一族の存亡を賭けて救援を要請したのである 30

義を重んじる景虎は、この血縁者の訴えに応え、信濃への出兵を決意する。これが、十数年にわたり、幾度となく繰り返される「川中島の戦い」の直接的な発端となった 30 。この戦いを通じて、高梨氏は独立した領主としての地位を失い、上杉家の家臣団に組み込まれていくことになるが 32 、それは同時に、武田氏に滅ぼされることなく、戦国乱世を生き抜く道でもあった。

政盛の外交戦略の長期的帰結

高梨政盛の生涯は、1513年の彼の死をもって完結するものではない。彼の行動が遺した影響は、時代の潮流の中で熟成され、数十年後に新たな歴史の展開を生み出す伏線となっていた。特に、彼が1510年代に行った長尾氏との同盟強化という外交的・軍事的選択は、40年以上も後の1550年代における北信濃の政治情勢を決定づける、直接的な原因となっていたのである。

この長期的な因果関係の連鎖は、以下のように整理できる。まず、政盛が長尾為景と同盟を結び、長森原で共に戦った(原因)。これにより、高梨氏は北信濃での優位を確立したが、政盛の死後は信濃国内で孤立するという短期的な結果を招いた。しかし、この時に築かれた血縁を伴う同盟関係は、高梨家と長尾家の間に「特別な関係」として、世代を超えて継承された(長期的遺産)。

そして、武田信玄という新たな脅威が出現した際(新たな状況)、追い詰められた孫の政頼は、武田への降伏という選択肢ではなく、祖父の代から続くこの「特別な関係」を頼って、越後の長尾景虎に助けを求めた(行動)。この決断が、川中島の戦いを引き起こし、高梨氏は独立性を失う代償として、上杉家の重臣として一族を存続させるという道を得たのである(最終的帰結)。

まさしく、高梨政盛の外交戦略は、半世紀後の子孫の運命を決定付けたと言える。彼の生涯は、一人の領主の決断が、いかに長く、そして深く、後世の歴史に影響を及ぼし続けるかを示す、鮮やかな実例なのである。

結論:高梨政盛の歴史的評価

高梨政盛は、単に北信濃の一地方豪族という評価の枠に収まる人物ではない。彼は、室町時代後期の混乱から戦国時代の幕開けという激動の転換期にあって、卓越した領国経営の手腕、先見性に富んだ外交戦略、そして歴史の決定的な場面で発揮された類稀な軍事的才能によって、高梨一族の数百年におよぶ歴史の中で、最大の版図と影響力を築き上げた傑出した武将であった。

彼の功績の中でも、長森原の戦いにおいて関東管領・上杉顕定を自ら討ち取ったことは、その白眉である。この一戦は、盟友・長尾為景の越後支配を決定づけ、ひいては後の上杉謙信の登場を準備したという直接的な影響に留まらない。関東の政治秩序を根底から揺るがし、結果として後北条氏台頭の契機を作るなど、東国全体の歴史の潮流を大きく変えるほどのインパクトを持っていた。

そして、彼が築いた長尾氏との血縁を伴う同盟関係は、彼の死後、高梨氏が武田信玄の侵攻という未曾有の国難に直面した際に、一族の血脈を未来へと繋ぐための、文字通りの生命線となった。高梨政盛の生涯は、一人の国人領主の行動が、いかに広域の歴史を動かし、また、その遺産が数世代にわたって子孫の運命を左右しうるかを示す、格好の歴史的事例と言える。彼の存在なくして、その後の信越関係史、そして我々が知る川中島の戦いの様相は、大きく異なっていたに違いない。

引用文献

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  31. 戦国で最も知られるライバル武田信玄vs上杉謙信!ふたりはなぜ戦ったのか⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/28277
  32. 高梨政頼 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A2%A8%E6%94%BF%E9%A0%BC